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亀井勝一郎「佐渡が島」


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 佐渡が島は新潟を去る三十二浬の海上にある。四年前の初夏の頃であった。新潟に旅行して、
偶々寄居の浜を散歩したとき、日本海の紺碧の波の涯に横たわるこの島を私ははじめて見た。
「あれが佐渡だ。」そう言って連れの友人が指さす。彼方に、菅笠を二つ伏せたようなすがたの
島が低く横たわっている。私はそのとき、異邦人に接するような、一種の惧れを伴った好奇心を
抱いていた・絶海の孤島、瀞痘の島、死ぬほど淋しいところ、そういう観念を以て眺めていたよ
うである。現実の佐渡よりも、芭蕉の「銀河序」を通してみた幻の佐渡の影響を私はつよく受け
ていたらしい。
                               おも
北陸道に行脚して越後国出雲崎といふ処に泊る。かの佐渡が島は海の面十八里滄波を隔てて、
                     くまぐま
東西三十五里に横折り臥したり。峰の嶮難、谷の隈々まで、さすがに手に取るばかり鮮かに見
渡さる・むべ、比島は黄銘多く出でて、遍く世の宝となれば、限り無きめでたき島にて侍る
         をんる                     ほい
を、大罪朝敵の類ひ遠流せらるるに由りて、唯だ恐ろしき名の聞えあるも本意無き事に思ひ
              いた
て、窓押し開きて暫時の旅愁を労はらんとする程、日既に海に沈みて月ほの暗く、銀河半天に
掛かりて星きらきらと冴えたるに、沖の方より波の音しばしば運びて、魂削るが如く、腸ちぎれ
 そそ
て漫ろに悲び来れば草の枕も定まらず、墨の袂何故とは無くて絞るばかりになん侍る。
 荒海や佐渡に横たふ天の川
 凄絶な寂寥感をもったこの文章が、佐渡の遠望を決定してしまったと云ってよい。荒涼たる夜
の日本海の描写が、佐渡そのものの生命にまで枠をはめてしまったとも云える。芸術の力は恐ろ
しい。描かれた風景に、現実の風景が従うのである。芭蕉は行きずりの旅人だ。或る季節の或る
                        かいしや
時間に限定されているが、「荒海や」の一句は人口に膾炙し、我々の裡なる「まだ見ぬ佐渡」は、
芭蕉を模倣するに至ったのである。しかし当然のことながら、また別の「佐渡」があることも考
えねばならぬ。たとえば日本海の沿岸に、この島を朝夕眺めながら暮す人の身になったら、おの
ずから別様の感慨も湧くだろう。その代表として、良寛の次のような歌を挙げたい。
 たらちね
 垂乳根の母がみ国と朝夕に佐渡がしまべをうち見つるかな
 いにしへにかはらぬものはありそみの向ひに見ゆる佐渡が島なり
 天も水もひとつに見ゆる海の上に浮び出でたる佐渡が島山
 佐渡がしま山はかすみのまゆひきて夕日まばゆき春のうなばら
 私はこの歌が好きだ。良寛は出雲崎に生れ、ここに育った。彼の母は佐渡相川山本庄兵衛の娘
である。芭蕉の「銀河序」とはおよそ異った趣が歌い出されているのは当然である。のびやか
に、懐しく、あたかも天平びとが春日山でも慕っているような調子がある。くりかえし読んでい
ると、童心の裡に、年老けていよいよかなしい良寛の長嘆息も聞えてくるようだ。悲哀が海と同
じように渺茫とひろがって、それとは気づかせぬところがいい。そして佐渡が島が実にはっきり
見えてくる。良寛は幼少の頃から、七十五歳で歿するまで、あかずこの島を眺めていたであろ
う。彼ほど様々な思いをもって眺めた人はあるまい。それは垂乳根の母のすがたでもあったろう
から。
*
 六月十一日午後三時。おけさ丸は信濃川河口の埠頭を離れた。いよいよ佐渡行である。私は日
本海は苦手なのだ。学生の頃、東北地方に住んで、山形秋田の日本海沿岸を歩いたことがある
が、佗しく、暗い印象しか与えられていない。小さな発動機船に乗って、飛島へ渡り、男鹿半島
を巡ったこともあるが、海はいつも荒れて、鋭い牙のような波で意地わるく翻弄された記憶が
残っている。太平洋の波の、ゆったりとした巨大なうねり、津軽海峡の清冽で迅速な潮流、或は
瀬戸内海の鏡のごときなめらかさ、私は自分の知るかぎりの海に比べて、日本海のもの悲しい陰
鬱さを脳裡に刻みつけていた。何よりも寒々とした鋭さがかなわない。
 ところがこの日の日本海は、あきれるほど平穏であった。梅雨空はどんよりと曇って、微風が
わずかに感ぜられる程度だ。おけさ丸は十四ノットの速力で走っているから風を起すが、動揺は
殆んどない。湖水の上にいるようだ。梅雨期が一年中で最も穏かであるらしい。しかし私は日本
海ではひどくやられるという恐怖観念があるので、船に酔うよりも、先手をうって酒に酔って寝
ることにした。
 船室で二時間近くも眠ったであろうか。「いよいよ湾へ入ります。」とボーイに起された。甲板
に出てみる。はじめて眼のあたりにみる佐渡だ。大きい。実に大きい。意外の感にうたれたが、こ
れは誰でもこの島へ来る人の初印象のようである。金北山を中心の大佐渡と、経塚山を中心の小
                  くになか
佐渡と、その間に海面すれすれの平坦な国中平野があるので、二つの島にみえる。小佐渡の方
は、山の崖や樹木や人家が手にとるようにみえるが、大佐渡の山々ははるかに青く霞につつまれ
て、堂々と長々と横たわっている。これが大きい感じを与えるのだ。太宰治の「佐渡」の描写が
この点で抜群である。佐渡が島を過ぎて、もう一つ別の大陸があらわれたのではないかと錯覚を
起すところが見事に描かれている。太宰は大佐渡を満洲かと思って狼狽したそうである。つま
り、そんな感じを与えるほど大きい。
 日本地図をひらいてみると、新潟県の西方海上にぽつんと浮んでいる豆粒ほどの島だ。世界地
図をひらいてみると、わずかな一点、中には無いのさえある。小さいという観念で一杯になってい
るのだから、実際に接すると、今度は実際以上に大きく感じるのだろう。念のため記しておく
と、佐渡は周囲二百十七キロメートル(五+三里二+二町)の島である。金北山は海抜千百七十
三メートル、経塚山は六百三十六メートル。東北に両津湾、西南に真野湾、この二つの山脈と二
つの湾の中央に、およそ五千町歩の水田をもつ国中平野が展けている。
 佐渡全体の水田は約八千町歩と称せられ、二十万石の米がとれ、七、八万石を島外へ移出する。
佐渡と云えば相川の金山を思い浮べるが、この島の生命は国中平野である。魚類も豊富だ。自給
自足の可能な島で、小なりとも古来}国として遇せられてきた。そして気候にも土地にも変化が
            しゃくなげ
ある。北方の高原地帯には石楠花が咲き、南方の丘陵には椿が咲く。枇杷が実る。大陸からの渡
り鳥はここに翼を休め、土着の小鳥の種類は殆んど日本全国の種類を含むという。
 おけさ丸が両津の埠頭に着いたのは午後五時半であった。出迎えらしい人、用のなさそうな人
が群れている。港町にはいつも用のなさそうな人がいて、誰を待つともなく、都からの船の入港
を見にくるものである。島国人のもつ人懐っこさでもあろう。北海道の港町に育った私にはその
気持がわかる。ところが岸壁に近づくと、突然埠頭の拡声器が「おけさ節」を放送しはじめた。
旅人をうっとりさせるつもりであろうが、これはサーヴィスの過剰というべきで、どうにもきま
りがわるい。全く照れてしまう。入船情緒の自由を与えなくてはいけない。拡声器というものは
人間感情を蹂躙する一種の暴力である。
*
     おぎ
 私は陸地を小木の港へ急ぐことにした。上代から徳川末期まで、和船の時代は、この港が佐渡
                 いんせい
の関門であった。汽船が発達し、新潟が殷盛になるにつれて、現在の両津が栄えたのである。私
のように、佐渡の史蹟古寺を巡ろうとするものにとっては、小木から始めた方がよさそうに思わ
れたのである。真野湾に沿うて北上し、真野村の丘陵から国中平野にかけて、佐渡の史蹟は集中
している。上代から近世にかけての流人も、すべて小佐渡の西南海岸から上陸したようである。
ただし私は佐渡には不案内だ。携えてきたのは青野季吉氏の「佐渡」一冊。氏の生国風土記がさ
しあたり唯一の参考である。私はこれをたよりに好きな処を歩いてみようと思った。それにして
も、おおよその見当はつけておかねばならぬ。両津に一泊し、翌日遊覧バスで大体のコースを一
巡しながら、小木へ急いだのである。
 りんう
 霖雨はこやみなく降りつづいている。両津を発した遊覧バスは、加茂湖をめぐって南下し、小
佐渡の丘陵地帯と国中平野の間を縫って、真野湾の側へ走る。この島に周囲五里十五町の湖のあ
ることなど、ここへ来るまで知らなかった。今は海水が浸水して、牡蠣の養殖場となっている。
湖畔を過ぎ、新穂村から日蓮遺跡と伝えられる根本寺辺りまで来ると、もう島どいう感じは全然
ない。そして景色が何となく優しくなる。これは竹林のもたらす風情であろう。右手に国中平野
を見渡し、左方に経塚山につらなる連峰を眺めながら、バスガールの説明を聞いてのんびりとゆ
られて行った。
「皆さま、あれに見えますのは……」という風に、よく透きとおった明るい可隣な声をたより
に、何となく窓外を眺めて行く。案内の言葉は一種の歌である。声さえよければいいのだ。しか
し説明がとぎれたとき、「おけさ」を歌い出したのには驚いた。「佐渡へ佐渡へと草木もなびく
よ」と案内嬢が歌うと、中年の人の好さそうな運転手は、「アリャアリャアリャサ」という風に
合の手を入れて、ハンドルをぐるりと廻すのである。
 新町という処で遊覧バスを降り、普通のバスに乗り換えて一路小木へ急いだ。小木に着いたの
は夕暮近くであった。「たからや」という宿に泊る。四階の室をとってもらって、そこからこの
さびれた港町を眺めた。城山という小さな岬、経島箭島などにつつまれるように、ささやかな入
江がある。雨が漸く晴れて、かすかに内地がみえてきた。海を隔てて向う側に、白雪を頂いた山
は妙高山であるという。海上はおだやかだ。入江の岸をみても、うち寄せる波すらない。さなが
ら湖水である。眠れるような町が、この入江の周囲に佗しくつらなっている。
 往時の繁栄は一片の昔がたりにすぎない。嘗ては越前の敦賀、能登の七尾、越中の伏木、越後
の直江津、寺泊あたりから交易の和船が集ってきた。出船入船一日千艘とも伝えられている。北
陸航路の避難所であり、船舶の長期碇泊地ともなっていた。商人や船頭を通して、上方の町人文
化はここに流入したのである。紅燈の巷の繁昌はすばらしかったという。尾崎紅葉の遊んだ明治
三十二年頃までは、その名残りが幾分伝えられていたそうだが、その後の大火で全く昔の面影を
失ってしまった。つづいて両津に中心を奪われ、今は落魄の町と化したのである。
 入江には小さな汽船が一隻、あとは漁舟がわずかに散在するだけだ。四階からみおろすと、ど
の家もひっそりしている。町を歩いてみても、喧騒の声は更にない。商家には店番がいない。こ
の町の表情は、静かに己の運命をあきらめているといった風だ。しかし陰惨ではない。明媚な風
光のためもあろうし、また上方風の若干の名残りのためでもあろうか、けだるく横たわったま
ま、一日中昼寝しているような感じである。或は昔さんざん道楽して今は衰えた老妓のかすかな
色気のようなものを漂わせていると云ってもよい。しかし実際はのん気なのでなく、みな声をひ
そめて竹細工のなりわいに懸命なのだ。その零落のすがたにはかなしい気品がある。
 私は翌朝早く起きて、また町や入江の様子を眺めてみた。驚いたことには昨日の夕暮とすこし
                           あきない
も変らぬ。漁舟をあやつる人なく、入江のほとり、町のなかに商する人もない。小木の朝は夕
暮と同じなのであろうか。永遠の夕暮の町かもしれぬ。雨は晴れたが、どんよりと曇っている。
白波さえみえぬ日本海、押しだまったように水の動かぬ入江、黒々とつづく瓦屋根。四階からふ
と他家の庭を見おろすと、石燈籠を置き、飛石を敷いて、そこに深く青い苔の生えているのがみ
えた。上方のわずかな夢の名残りかもしれない。
*
                  れんげぷ
 小木から山道へ半里ほど登ったところに蓮華峰寺がある。この辺りは峰が重複し深山の趣があ
るが、その谷あいをとおして右手に、灘灘の青々とした水田が時折傭驟出来る・これが山道の風
景に柔い変化を与えている。
                                こ び えい
 蓮華峰寺は大同年間、空海の発願による開基と伝う。京の比叡に模して小比叡と呼ぶ。八つの
小高い峰を蓮華の花びらになぞらえて、そのまん中の谷底に建てられたのがこの寺だ。なかなか
凝った着想である。実際に誰がこの地を選び、誰が建築を指図したのかわからぬが、おそらく小
木辺りに長く親しんだ人にちがいない。この着想には、宗教的なものと同時に、粋人の華やかな
悦楽性が感ぜられる。真言密教の故でもあろうか。昔小木の遊女は、馴染の客をこの寺の辺りま
で送って別れたという。その場所にはいま石地蔵が立っている。
 山道を登って、さて寺はどこかとたずねると、はるかの谷あいを指す。峰の問を降って行かな
ければならぬ。数丈の杉、赤松、その間に竹林があり、わずかながら水田もある。八つの峰の底
であるから、次第に暗くなり、空気も冷え冷えとしてくる。大樹林の湖底に降りて行くといった
感じだ。形のいい鐘楼がまず眼につく。更に一段低いところに、仁王門と金堂がある。金堂の前
をよぎり、細道づたいにやや登ると、そこに奥の院がある。どこからともなく細流の音が聞え
る。土はしめっている。苔むした石塔があちこちに散在している。全身に朽葉を被った石地蔵が
のっそり立っている。
 奥の院と金堂は、佐渡最古の建造物で、室町時代の建立である。今は国宝になっている。豪壮
な面影は残っているが、往時の壮麗さはうかがうべくもない。金堂の庇や欄の色彩も悉くあせ、
柱は腐蝕し、全体として白っぽい。奥の院は方一問ほどの瀟洒な小堂だが、覆屋根にも拘らずこ
れも白く腐蝕している。冷く薄気味わるいかびの,白さだ。深山の谷底の湿気はよほど激しいにち
がいない。落葉を払うことも、草木に手入れすることも不可能だ。蓮華峰寺は全体として化けか
かっているようだ。これはこのまま静かに朽ちて行くより致し方あるまい。今更細工を加えるよ
りも、老樹の露に次第に朽ちさせた方が自然であろう。金堂や奥の院のかすかに残る五彩に、昔
の夢を偲べばいいわけである。与謝野鉄幹が訪れたのは、大正十三年八月だが、その折の歌に次
の一首がある。
              てんにん
 蓮華峰寺古りし五采のあひだより天人が吹く王朝の夢
 佐渡には古来幾多の文人が来て、多くの詩歌を残して行ったが、私は堂々たる格調をもったこの一首が最高の名作だと思う。順徳院の佐渡の御歌百首をもふくめて、古今を通してこの歌が第一等である。蓮華峰寺はこの一首のために、鮮かによみがえったような気がする。芸術をよみがえらすのは芸術だけだ。たとい蓮華峰寺は滅びても、一基の礎石の上にこの歌は生き、礎石もまた自らの生命をこの歌に託するであろう。
 僧坊は金堂より更に一段低い、云わば谷の最も底にある。御住職の案内でその二階に上り、障子を開け放って周囲の景色を見せて頂いたとき、私の驚嘆は更に倍加した。空がみえない。周囲悉く大樹林の緑である。葉の間、幹の間から洩れる光りは柔く、その光りも緑色のようだ。空間の全部が緑一色なのだ。鶯がしきりに鳴いている。峰の問なので、それが長々とこだましてくる。この辺りは春、夏、秋と鶯が鳴くそうだ。その他様々の小鳥が来る。「日本鳥類図説」でも持参したならば幾日も楽しめるであろう。住職青柳秀雄氏の饗応にあずかり、半日僧坊に坐して
                              もや
去り難い思いであった。春の若葉の頃になると、この辺り一帯が緑の靄につつまれるそうだ。或はこの谷底にさしてくる満月の光りの妖しさを語ってくれた。電燈がわずか二個ひかれたばか
り。四季の不自由な生活が想像されるが、観光客も滅多に足をむけぬこの古寺の景観は、日本に
おいても他に類をみないであろう。
 蓮華峰寺を辞して、私は更に一里ほど、バスの通じる街道まで山道を歩いてみた。農家が二三
散在し、通る人も稀である。ぶらりぶらり歩いていると、鶯がしきりに鳴く。道の両側の木から
木へつたわりながら、あちでもこちでも鳴いている。東京の鶯よりも声が豊かで、張りがある。
向うから牛車を引いた老農夫がやって来た。すれちがうとき、ふと耳を傾けると謡曲をうなって
いる。佐渡はお能の盛んなところで、農夫漁夫も謡をやると聞いていたが、果してその通りであ
る。大抵の神社には能舞台だけはある。大町桂月がこの地に遊んだ折の句に、
  鶯や十戸の村の能舞台
 これもいい。佐渡風物の一面を典型的にあらわした句だ。さきの鉄幹の一首を歌の方の代表と
するなら、これは俳句の方の代表としていいのではあるまいか。
蓮華峰寺から酉二川という処に出る山道の眺めはすばらしい。真野湾に向って急坂を下って行
くのだが、湾の東南から西北にかけて一望のもとに眺められる。夕陽の沈むのは向う側の相川の
山のあたりである。大佐渡西端の七浦から、二見、沢根、河原田の町が海岸に沿うて並んでい
る。ゆるやかな円を描いた湾だ。風光明媚というべきだが、古の流人は幾たびかここに辿りつ
き、悲傷の涙にくれたのである。この浦々には流人の恨みが残っている筈だ。しかし歳月の作用
はふしぎである。いかなる悲劇の跡をも名所と化してしまう。月光という奴もおもしろい。悲し
みの傷痕を照らして人を楽しませる。
*
 真野村新町に着いたときは、長い一日もすでに暮れようとする頃であった。山本修之助氏に迎
えられて、その夜は同家に泊めて頂くことになった。山本家は真野村きっての旧家である。徳川
時代に相川と小木の間を往来する佐渡奉行の足をとどめた本陣跡である。一度火災に遭ったとい
うが、私の泊めて頂いた部屋は、徳川期のどこかの僧坊の遺構らしく、軒の庇のつくりも面白
く、襖絵のあるのも上方の書院造を思わせて興深かった。亡くなられた父君山本半蔵翁は佐渡の
隠れた考古学者である。佐渡国分寺の発掘者である。現在の御主人修之助氏もまたその志を継い
で佐渡の古典歴史民謡等の研究を発表しておられる。父子二代の様々なお仕事の跡をみせて頂い
たその夜は楽しかった。
 佐渡の主要な史蹟は殆んど真野村に集中しているわけで、新町を基点としてこの辺りを巡ろう
と私は大体の見当をつけていたのである。翌日、霖雨の晴間をみて、まず国分寺跡を訪れること
にした。新町から二三町東北に歩むと、次第に丘陵地帯に入る。この辺りを吉岡の里という。数
丈の松の並木、杉の大樹、竹林、農家の散在する風光はおっとりとしたものだ。数町で国分の里
に入り、国分寺に至る。現在の国分寺は徳川期(寛文二年)の再興だが、天平年間の遺蹟がその
南隣にある。赤松の林の中に、叢に埋れたまま、規則正しく礎石の表面が露出している。発見さ
れ発掘されたのは昭和三年と云われるから、実に長い間知られないでいたわけだ。
 金堂の礎石は二十一個。東西十間、南北七間二分の御堂があったことが想定される。廻廊礎石
は東側二士二間八分、西側士二間、中央二十四間、この凹字形の間に三十]個並ぶ。講堂は本来
ならば金堂の背後にある筈だが、礎石は発見されない。金堂の東隣に東西七間五分、南北八間と
想定される礎石二十七個あって、これが講堂あるいは別の御堂の跡かもしれない。南大門の礎石
三個、塔の礎石二個ある。これらの礎石は苔むしたまま、赤松の林の土深くなかば埋れているわ
けだ。塔の中心礎は、柱を建てる穴が水を湛えたまま大きく露出している。梅雨の露にぬれなが
ら、私はこれら礎石の辺りを歩いてみた。廃墟である。しかし廃墟には廃墟としての生命があ
る。廃墟の夢というものもある。
 これら礎石の上に朱塗の円柱がそそり立ち、甍を輝かせた天平の壮麗な寺が建っていた、千二
百年という歳月がよみがえってくるのだ。私は蓮華峰寺の場合にも感心したが、国分寺をこの位
置に構想した人もおそらく優れた詩人ではなかったかと想像した。国分寺は単に便宜な地とか、
行政の中心地であればよいというわけではない。聖武天皇の天平十三年の詔に明示されしごとく
      か     た    かうそ えら まこと
「造塔の寺は兼ねて国の華為り。必ず好処を択びて実に長久すべし」というのが大事な条件であ
る。そして佐渡の場合にはこの位置がまさに絶好なのである。
*
 私は国分寺から阿仏坊妙宣寺を歩み、更に竹田川に沿うて国中平野を一望のもとに眺めたと
き、この一里近い一帯が、飛鳥路に実に似ているのに驚いた。飛鳥の平野を通り、大原の里の丘
陵地帯を歩いたときの感じにそっくりで、国分寺所在地はさしあたり大原の里になぞらえること
が出来る。竹田川の細流に沿うた丘陵から国中平野を見渡して、私はすぐ香久山、耳梨、畝傍の
三山をそこに思い浮べたほどである。飛鳥の風光を愛した人が、佐渡に渡って、ここに望郷の思
いを託したのかもしれない。
国分寺建立の年代は明らかではない。天平士二年の詔が出てからおよそ十五年後の、孝謙天皇
の天平勝宝八年頃に成立したのではないかと考証されている。国分寺の塔は七重の塔であるべき
ことが詔に明示されているが、現在の塔礎の大きさから想像すれば、法隆寺五重塔をしのぐ七重
塔が建っていたわけである。千二百年前はむろん今のような赤松の林もなく、この丘陵にそそり
立つ七重塔は、おそらく国中平野のどこからでも望見出来たのではなかろうか。それは佐渡にお
ける宗教的ロマンチシズムの象徴でもあったろう。正安三年(鎌倉末期)塔は雷火のため焼失し、
金堂その他は享禄二年(室町期)に火を発して灰燼に帰したという。
 現在の国分寺の瑠璃堂に安置された薬師如来を拝観する。高さ四尺三寸ほどの坐像である。金
箔がかなり剥落しているが、なお所々に光輝を止める。このみ仏が尊厳の裡にも優美なすがたで
あったことは、金箔の残った右眼の辺りに殊に深く感ぜられる。鷹揚に優しい眼差だ。おそらく
藤原初期の造顕ではなかろうか。弘仁という説には服し難い。
 国分寺から阿仏坊妙宣寺に至る道もいい。佐渡には寺が三百余もあるが、新旧をとわず風情の
いい寺を時々みかける。この途中にあった大運寺という禅寺の山門のすがたに感心した。苔むし
た石段の下から眺めた茅葺の山門は、佐渡で私の見た諸寺の門の中で最も端正であった。背景の
杉の大樹と実によく調和している。時代はそう古くはあるまいが、小さいながら清楚で、ひきし
まっていて、東山時代の高淡さえしのばれる。そういう山門をつくろうと思って作ったのでな
く、ただ何げなく出来上ったという趣がいいのである。
 妙宣寺では竹林に感心した。佐渡に竹林の多いことは前述したが、ここの竹林はまたかくべつ
である。手入れの行き届いているせいもあろう。ほぼ同じ太さの竹が、眼にしみ入るような青さ
で群生している。光線の入り具合がちょうどいいのかもしれない。竹林の間に立つと、青く澄ん
だ湖水の底にいるような感じで、泳ぎたくなる。
 竹田川が国中平野に流れ入るところから、再び新町の方へひき返す道は、平坦な自動車道路で
ある。この平野は海面より一メートル位しか高くないので、両津真野両湾からの海風が吹き通し
てくる。それで島にいることに気づくのだ。地頭本間高滋の拠った雑太檀風城址は、わずかに土
壇を残すのみ、平野の一角、国分寺丘陵につづいてわずかにその跡と知られるだけである。この
辺りにはがっちりしてしかも瀟洒な建築の農家が残っている。「山椒太夫」の津志王が母をたず
ねてさまよったのもこの辺りであろうか。
*
 現在の佐渡から、これが流人の島であったという感じは全然うけない。秋から真冬にかけての
淋しい時季はどうかわからぬが、少くとも春夏は豊かでのびやかだ。しかし交通の便乏しく、開
墾も行きわたらぬ往時、京都から想像した佐渡は絶海の孤島であり、生還の望みなき慰瀞の地で
あったろう。恨みの遺跡をたずねよう。
          あめつち こひの さき   かへ              ほずみの
 古くは万葉集に、「天地を嘆き乞禱み幸くあらば又反り見ん志賀の韓崎」の一首を止めた穂積
おい
老が、養老六年から天平十二年まで十九年間流されている。天武天皇の孫・長屋王の息蜜徹王は
仲麻呂に反乱を企てて、天平宝字元年に流されている。その他著名な流人が多いが、いずれも遺
跡はない。今日遺跡の残っている人物と云えば、周知のごとく順徳院、日蓮、世阿弥元清ぐらい
のものである。
 真野山陵は順徳院火葬の地と伝えられる。真野湾をはるかに見渡せる景勝の地だ。順徳院は承
久の変に敗れ、北条義時のため佐渡へ遷されたわけで、同時に御父後鳥羽院は隠岐に、兄君土御
門院は土佐に配流された。順徳院は承久三年七月、御年二十四歳のとき佐渡に到着し、仁治三年
        こう
九月四十六歳にて薨ぜられるまで二十二年間の長きにわたって遠流の苦をうけられたのである。
こうきよ
薨去は一種の憤死であり、絶食して自らいのちを絶たれたと伝えられている。
 こういう貴人の遠流の生活とはいかなるものであったか。詳細は伝わらぬが、上皇にふさわし
い最低限度の待遇はうけられたようである。十二名の供奉の人々の名が伝わっている。その中に
は三名の女官もある。現在黒木御所跡と云われる泉の里を御料地として、この辺りか或は真野の
                 ももしき
村に仮住居されていたのであろう。「百敷や古き軒端のしのぶにも、なほあまりある昔なりけり」
という御歌は有名である。後鳥羽院とともに国学史上見のがしえぬ歌人であるが、佐渡での御歌
百首は悲しく乱れている。その中には相聞十五首あり、配所での恋もしのばれる。現在の一の
宮、二の宮、三の宮と称する三つの荒れ果てた墓所は、佐渡での子息、慶子、忠子、千歳宮の葬
られた跡で、母君は不詳と記す。真野山陵もさることながら、遠流の帝王のかなしい恋の名残り
と思えば、この三つの墓所もあわれ深い。
 日蓮がここに流されたのは文永八年十一月。寒風の吹きすさむ頃である。現在の塚原根本寺三
昧堂が遺跡と称されているが、むろん後代の虚構で、当時を伝えた「種種御振舞鈔」には次のご
とくしるす。「塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台町のように死人を捨つる所に、一間四面なる
堂の、仏もなし、上は板間あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。か、る所に
.敷皮打ちしき、蓑うちきて夜をあかし日をくらす。」と。著名な人物の中では、日蓮が最も悲惨
な待遇をうけたようである。しかし在島三年の間に、最も多くの仕事を残したのは日蓮だ。彼の
出発はここから始ったと云ってもいい。「立正安国論」につづく主著「開目鈔」二巻、「観心本尊
鈔」は塚原での著述である。
 「仏法は時に依るべし。日蓮が流罪は今生の小苦なれば、なげかしからず。後生には大楽をうく
べければ、大いに悦ばし。」(開目鈔)彼の気構えはこの簡単な言葉に要約されるであろうが、配
所における彼の憤怒の端的にあらわれているのは「佐渡御書」である。「立正安国論」や「開目
鈔」よりも、むしろこの書に日蓮の面目が躍如としているようだ。激しい語気と自信を以て、己
が信念を内地の信徒に書き送った一種の秘密文書である。「佐渡の国は紙候はぬ上、面々に申せ
ば煩あり、一人ももるれば恨ありぬべし。此文を心ざしあらん人々は寄合うて御覧じ料簡候て心
なぐさませ給へ。」と後記しているが、日蓮の文章の中で最も雄渾颯爽たるものだ。彼は実に元
気のいい流人であったようだ。
 泉の里の黒木御所の近くに、正法寺という寺があって、その一隅に、世阿弥腰掛石というのが
残っている。苔に蔽われた見るからに老齢を思わせる石だ。背をまるめた老人がそのまま土に埋
れたような恰好の石で、ミイラのような無気味さがある。これが現存するたった一つの遺跡であ
る。世阿弥が佐渡に流されたのは永享六年五月、時に彼は七十二歳であった。将軍足利義教の勘
                                   きよごう
気にふれたと伝えられるが、真因はわからない。義教の暴虐と、老芸術家の潔癖倨傲が、微妙な
もつれを生じたのかもしれぬ。世阿弥は永享十三年、義教が赤松満祐に殺されて後に赦免になっ
たが、前後七年在島したわけである。「金島集」は配所での筆に成るもの、遠流の日の思いはこ
こに結集していると云ってよい。
「げにや、罪なくて、配所の月を見る事は、古人の望みなるものを、身にも心のあるやらん、く。」
                ほととぎす
という「配所」の末尾。「声もなつかし時鳥、唯啼けやく老の身、我も故郷を泣くものを、く。」
という「時鳥」の一節。いずれも遠流の悲しみを託したものであろう。「罪なくて配所の月を見
む」とは王朝貴人の描いた風流の極みであり、また後に兼好が無償の遁世をここに思ったが、
「身にも心のあるやらん」とその境に入るごとく、入らざるごとく嘆じた世阿弥の気持は興深
い。この一語に流人としての彼の心境が端的にあらわれているように思われる。世阿弥はひとり
自作の曲を謡い、舞う時もあったであろう。おそらく「執念もの」が、このときほど精彩を放っ
たことはあるまい。寺院の一室か仮屋の一部屋に、七十歳の老芸術家が、招魂の叫びと怨恨の呻
きをこめて謡ったときの音声ほど無気味なものはなかったであろう。
 上代から近世にかけて、多少とも名のある人の流罪の場所は、佐渡の中でも比較的豊かで平穏
な国中平野の、それも西南にかぎられていたようである。鬼界ヶ島に流された俊寛のようなのは
なかったらしい。しかし慶長年間に入って、相川の金山が活気を呈するようになってからは流人
の様相は一変した。徳川時代になると、殺人犯や博徒の群が流罪に処せられ、それらの人々は金
鉱の労役に酷使された。島内といえども自由はゆるされず、外出も不可能、昼夜金鉱で虐使され
るうちに結核に侵されたり、衰弱して倒れて行ったものがどれほどあったかわからない。そうい
う人達の歴史が伝わっていないのは残念である。
 ただ一つ、江戸のいつの頃か、大定という大工が流されてきて、金山で苦役していたとき作っ
たという「秋の夜」という端唄が伝わっている。彼はこれを手紙に書きつけて、江戸の歌沢の家
元へ送ったが、家元はそのあわれ深い心に感動して曲を附したという。今でも唄われている次の
ような端唄である。

 秋の夜は、長いものとは、まんまるな月見ぬ人の心かも。更けて待てども来ぬ人の、おとつる
ものは鐘ばかり、わしや照らされてゐるわいな。

 哀切を極め、しかもどこかに凄絶なところもある。惨めな自分の姿を、横から軽くユーモラス
に眺めているような洒落っ気もある。大定という大工は、江戸の相当の粋人であったかもしれな
い。懸想した女にふられてその女を殺したか、或は自分に恋人が出来たため悋気を起した女房を
殺したか、要するに風流な罪で流されてきた人のように思われる。
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