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亀井勝一郎「千代田城」


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 遠く離れた古典の地や風物に対しては憧れをもつが、自分の近くにある古蹟などには至って無
関心なものだ。皇居の前はよく通る。太田道灌以来、およそ六百年を経た古城であることは承知
している。自動車や電車の窓からすばやく見える二重橋、お堀端など、見あきた風景だ。そう思
いこんでいる。ところが実際は何も知らない。目をこらして見たことはない。私は桜田門の、屈
折ある一隅に立って、石崖の松や青く淀んだお堀の水を眺めてみた。自分がどんなに意味もなく
多忙で疲れているか。近代都市の誘惑はすさまじい。耳を聾する大音響のために、目の方はかす
んでくるらしい。何か心がうつろだ。私は茫然と老松のすがたを求めた。
 むさし野といひし世よりや栄ゆらむ千代田の宮のにはの老松
明治天皇のこういう御製が、自分の心にかすかながら一点の火をともすようだ。それは歴史の
火だ。戦災で廃墟と化した東京にとって、ここは江戸の最後の名残りであろう。また大市街のた
だ中に残された自然の一大断片である。「むさし野といひし世より」のすがたを見たい。私は真
夏の一日、西丸の皇居をはじめ本丸一帯を拝観することになった。三谷侍従長の御好意によるも
のである。
*
 坂下門を入ると、市街の騒音は全く絶えてしまう。ここには機械の音というものはない。蝉の
声だけが、城内一杯にひびきわたっている。宮内庁の裏側から、やや登り道になったところを行
くと、そこからはもう大森林に蔽われた丘陵地帯に入った感じであった。戦災で焼けた宮殿跡を
左手にして、右側にいきなり紅葉山の深い谷がのぞまれる。数丈の巨木の密生した山峡の眺めに
似て、底には深く青みどうの水が淀んでいる。道灌堀というが、おそらく数百年間手を加えずに
きたこのお堀は、化けかかった古沼のようだ。流れはない。どれほどの朽葉がここに埋れている
か。一面に藻で蔽われ、薄ぐらい底には純白の蓮の花が浮んでいた。
 つこうど
 仕人に案内されて行く玉砂利の道は、塵ひとつない清潔さである。私はここへ来る前、二一二の
古図によって大体の模様は心にとめておいたのだが、一町も歩まぬうちに、もう方角がわからな
くなった。道灌堀を過ぎると平坦な道へ出る。賢所の裏門が前方にみえたが、この辺りから西に
向って、幅数問の道が一直線にのびている。周囲一問、高さ五六丈と思われる銀杏の並木があ
る。「これが昔の甲州街道です。」と仕人が説明してくれた。皇居の中へ来て、甲州街道の名を聞
くのはめずらしい。一直線の道は半蔵門につづき、それから四谷門を通り、新宿をぬけて、今の
甲州街道に接続するわけである。この西丸は家康が入城した頃は、里人の遊覧地であり、旅人の
往還の道でもあったという。甲州街道は今の皇居を貫いて、東海道や奥州街道、日光街道などに
つづいていたらしい。
 私は銀杏の巨木を見あげた。同じほどの高さの老松、杉、欅、樫などが密生しているが、その
間にみられる銀杏というものは何となく華やかである。あの葉は眼に柔い。旅人にとっては憩い
となる木だ。私は郊外の武蔵野に住んでいながら、樹木などには平生無関心なのだが、ここへ来
て、一本一本の木が身にこたえるほど鮮かにみえてきたのだから不思議だ。人工はひとつも加え
てない。自然のままだ。それでいて我々が郊外で感じるあの自然とはちがう。正確で清潔な道路
が額縁の役割を果しているようである。そこにきちんとおさまった絵である。貴人の眼によって
のみ愛撫された素直さもあるらしい。茫漠として、のっそり立っているようで、それでいて実に
お行儀がよい。東京のただ中に、おそらく千何百年のままで隔離された古典なのだ。今の千代田
       やぐら
城には、二三の櫓(城中の高楼)を除けば何も残っていない。宮殿は廃墟である。ただ正真正銘
の古典的武蔵野だけが残っている。その中に陛下のささやかなお住居がぽつんとある。
*
 秩父の山岳地帯は、東南にのびるにしたがって次第に丘陵となり、浅い谷間や小山を伴いなが
ら、やがて平原につらなり、東京湾に達する。北を流れるのは入間川、東を流れるのは隅田川、
西は奥多摩、南には多摩川が流れているが、この間方二一二十里の地域を武蔵野とよぶ。武蔵野に
は一望千里ともいうべき全くの平原はない。秩父山脈の連続である小さな丘陵が至るところに散
在している。その東南端、即ち東京湾に接するところが江戸の地である。今の市内にも、平均二
三十メートルの丘が多い。飛鳥山、上野、湯島、小石川、牛込、赤坂、麻布、青山、高輪白金な
どいずれも高台である。千代田城はそういう台地の一つに構築された城だ。本丸と西丸を中心に
周囲一里半ほどの丘陵である。上古時代には、今の本丸下が波打際であったそうで、近年貝塚が
発見された。
 家康が江戸に入ったのは、天正十八年である。彼は北条の拠った小田原城か鎌倉を所望したら
しいが、秀吉の案で江戸に落着いたと伝えられる。その頃でさえ今の浅草、日本橋、京橋、芝、
麹町の大部分は入江であり、千代田村とよばれたこの地は、戸数わずか百戸の僻村であった。太
田道灌が長禄元年(室町幕府、足利義政の時)に完成したと云われる江戸城もすでに荒廃してい
た。辺りはむろん広漠たる武蔵野である。道灌の歌に、「我宿は松原つ.・き海近く富士の高根を
軒端にぞ見る」「露おかぬかたもありけり夕立の空より広き武蔵野の原」の二首がある。これは
江戸城の風景を人に問われて答えた歌だ。同じ風景は徳川初期までつづいていたとみてよかろ
・つ。
 上代から奈良平安朝にかけて、武蔵野の中心となった国府は、現在の府中である。その北一里
余のところに武蔵国分寺が建立された。諸国の国府と国分寺の線をつないで行けば、大体その頃
の交通路はわかる。武蔵国に隣接した国、たとえば駿河の国府と国分寺は静岡の在であり、それ
から伊豆の三島を通り、相模の高座郡海老村を経て武蔵国府に至った。江戸はまだ問題になって
いない。奈良朝初期、高麗と百済の帰化人を武蔵に移植させたことが続日本紀(元正天皇、霊亀
二年)にみえる。実はそれ以前からここは帰化人の植民地であった。埼玉の高麗郡が本拠の跡で
         こまえ                          さやま
あり、一部は多摩郡狛江(今の深大寺附近)に住みついた。他方村山貯水池のある武蔵狭山一帯
は、同じ頃から物部一族の入りこんだところで、帰化人と物部が、上代武蔵野の政治と文化を掌
握していたわけである。現在深大寺に関東随一の白鳳仏の残るのも、これと無関係ではあるま
い。
 浅草は徳川期以来、江戸の一部とみなされるようになったが、実は江戸よりはるかに古く、独
立的に存在した帰化人の部落であった。国分寺は周知のとおり奈良朝廷の国家事業であるが、
それより以前、帰化人による仏教流布があり、私設の寺も当然建てられた。浅草寺はその一つで
ある。本尊の観音は推古朝二十六年に発見され、安置されたという言い伝えがある。帰化人によ
る一種の宗教都市であり、工芸美術の中心として栄えたわけだ。頼朝も鎌倉の社寺建立には浅草
の大工を招いたと云われる。わずかに離れた江戸は、地方豪族の一拠点にすぎなかったらしい。
 その地名を名乗った江戸太郎重長の名が歴史にはじめてあらわれるのは、治承四年八月(吾妻
鏡)である。彼は秩父平氏の出であるが、頼朝挙兵後その輩下となった。江戸が東海道と奥州街
道の要路として、注目されはじめたのは鎌倉期以後であろう。
 皇居を巡り、様々の巨木をみるたびに、思い出すのは古い武蔵野の全貌であった。十万三千坪
もある吹上御苑は、五代綱吉より十一代家斉にわたってつくられた大庭園である。しかし戦後は
一切手入れをしないことにしたそうだ。これは陛下の思召である。武蔵野の樹木や雑草や小鳥を
保存し、古さながらの武蔵野を再現しようとの御夢であるらしい。秋など一面すすきの原になる
                                         すま
そうだ。おそらく陛下の御心にも、古い武蔵野は息づいている。現在は草繁き吹上の一隅がお住
居である。「江戸むらさき」の名で有名な武蔵野固有の「紫草」もあるということだ。大樹林を
とおして遙かにしのびつつその前を通る。
*
 風寒き霜夜の月に世を祈るひろまへ清く梅香るなり
 これは昭和二十年、即ち敗戦の年の新年御製である。当時景気のよさそうな軍歌調の多かった
中で、突然この御歌に接した私は、静寂の裡にこもる沈痛なしらべに何か愕然たるものを感じ
た。寂寥極まりなき歌である。寒風の吹く霜夜の月に、ひとり目ざめて、ただ祈るより他ない悲
哀の極みを垣間見たように思った。帝王の孤独である。わずかに白く暗夜に咲く一輪の梅花に、
希望とは言いかねる希望を託しておられるごとくであった。賢所の辺りで歌われたものであろう
か。
 樹間の道を歩み、いつの間にか賢所の前に出たとき、私はその梅の木のことを仕人にたずねて
みた。賢所は戦災を免れたが、広前の一角は焼失し、梅の木も焼けたのではなかろうかとのこと
であった。賢所は、伊勢神宮のように古さびて、巨木にかこまれた奥深い暗い場所にあるかと想
像していたが、思ったより新しく、開放的な明るい感じをうけた。神殿というよりは御殿と云っ
た方がふさわしい。玉砂利を敷いたかなり広い前庭に立って拝む。
 賢所へ来る前に、生物学研究所の前を通ったのだが、あまりに質素な建物で、仕人から注意さ
れるまで気にとめなかったほどである。研究所に隣接して、陛下の畑や田がある。陛下がどうし
て生物学に深い興味をもたれたのか、それも粘菌類とかヒドロイド類とか我々には思いもよらぬ
下等動物にあんなに御熱心なのか、その理由を私は伺いたかった。後に三谷侍従長からそれとな
く承ったが、貝殻には早くから興味をもたれていたそうである。はじめ貝類、それから粘菌類、
ヒドロイドと研究をすすめられた。今でも貝殻の標本をたくさん備えて、おひまさえあれば貝殻
を眺め、貝殻を研究されているという。スポーツは様々おやりになったが、どんなスポーツを試
みても決して頭のレクリエーションにはならぬ、ただ貝殻と微生物に向われるときだけ、心から
愉しげに、休まれるように拝察されるとのことであった。
 御心配が多すぎるのだ。内外の事件に対して、我々の想像も及ばぬほど敏感であらせられると
いう。御自身の過ぎし日を顧みて、「薄氷を踏む思ひ」と述懐された陛下にしてみれば、何か異
様な慰めがなくてはかなわぬであろう。歌は内攻する。お酒はお飲みにならぬ。わずかに貝殻の
うちに、自然の音をしのばれるのであろうか。粘菌類もヒドロイド類も、標本にすると花びらの
ような美しさがあるそうで、そういう自然の秘義に深く陶酔されるのであろうか。古い武蔵野の
一隅に、黙って貝殻を眺めておられるようなお姿は、歴代天皇には全くなかったことだ。歌学や
歌集を残された天皇は多いが、「相模湾産後鰓類図譜」という御本は、科学的知識の全くない私
がみていても、実に異様なものである。
 大正末期、摂政となられてから今日まで三十年間、陛下は日本の代表的な政治家や軍人のすべ
てにお会いになった筈だ。清廉と老獪、真実と虚偽、あらゆる人間臭を、率直な御心は見ぬかれ
ていた筈だ。愁い深く堪えられたようであるが、恐るべき変転裡に眺めた様々の人間相を、こと
によると陛下は標本として胸底深く蔵しておられるかもしれない。
「日本産重臣類図譜」をかかれたら面白い。
*
 賢所の前を通って暫く行くと、道はわずかながら下りになっているようである。かすかに電車
の音が聞え、警視庁の塔の避雷針らしいものがみえてきた。周囲は依然として鬱蒼たる森林であ
る。三宅坂から桜田門に至るお堀のこちら側あたりを私は歩いているらしい。暫く行くと、皇居
の正門(大手門)がみえてきた。やがて二重橋である。
 突如として眼前に展けた風景に、私は思わず息をひそめた。日比谷から丸の内にかけて、幾層
のビルディング群が蜃気楼のように茫と浮び上ってみえる。それはいま私のいる大内山の風景と
は、あまりに隔絶した夢のようなもので、徳川末期から現代まで百年を一飛びした感じであっ
た。何という激しい変貌であろう。これがまさしく文明開化だ。文明開化という言葉が鮮かによ
みがえってきた。平生見なれている何んでもないビルディングが、こんなにもの珍らしくみえる
とは予想しなかった。
 私は二重橋の欄に寄った。外部からみると、正門に通ずる大手橋と重なりあってさほど高く思
われないが、今ここに立つと、皇居前に群がる人々が眼下に小さくみえる。よほど高い橋であ
る。広場の松林を通して彼方に、自動車の激しく往来するのが、何か遠い異国の出来事のように
思われた。音響は全然聞えてこないので、サイレント映画をみているようだ。ふりかえると、眼
前には伏見櫓が高くそびえている。おそらく百尺はあろうと思われる石崖、その直ぐ下は青く淀
んだお堀の水である。古城の白壁と松影が映っている。今に残るわずかな江戸城の面影。よく化
粧された端然たるすがただ。威厳があってしかも瀟洒である。
 たかどの
 高殿の窓てふ窓をあけさせてよもの桜のさかりをぞみる
 明治天皇の「見花」と題した晩年の御製だが、高殿というのはこの櫓でもあろうかと想像し
た。春の桜花の頃、ここに登って全部の窓を開け放ったならば、城内外の桜は一望のもとに眺め
られるであろう。明治天皇の数多い御製の中でも、この御歌はいかにも王者の英風をしのばせる
大らかな歌である。明治の旺んな有様もしのばれる。
 二重橋を渡って、宮殿の跡に立つ。今度は一面の焼野原である。白く焦げた東車寄の石段、土
台石や煉瓦の破片、中庭らしいところに残る大きな銅盤、一つの石燈籠、御座所の跡と思われる
白壁の残骸、あとは何もない。雑草が生え、わずかの畑がつくられてあるだけだ。焼失したのは
昭和二十年五月の空襲であった。直撃弾は一発もなかったが、参謀本部からの飛火があり、風速
二十ニメートルの烈風にあふられて、瞬時にして灰燼に帰したという。
 この宮殿が完成したのは、明治二十一年で、附属の建物も併せると、総建坪一万二千七百坪と
いう宏壮なものであった。日本風の総檜木造り、屋根には銅瓦を用いた。内部の装飾は桃山風と
独逸風を併せ、そこからくる不思議な絢爛豪華ぶりは、外国の著名な宮殿に比しても劣らず、非
常にユニークであったと伝う。正殿、豊明殿、鳳凰の間、千種の間、東西溜の間、御座所、御学
                     すまい
間所等、すべては焼失した。明治大正今上三代の御住居と思われる辺りも、今はただ夏草の繁る
のみである。
*
 徳川歴代将軍の居たのは、云うまでもなく本丸である。皇居となっている西丸は、将軍隠退後
 べつしよ
の別墅あるいは私宅のごときものであったらしい。太田道灌草創の城址は本丸の内にちがいない
が、どこがその場所か判然としない。皇居を辞して、二の丸から本丸の方へ廻ってみた。高さ二
十メートルほどの宏大な丘陵に築かれた城郭である。現在本丸二の丸三の丸を通して残るのは、
                            すみやぐら
皇居前広場からもはっきり見える富士見櫓、お堀端にのぞむ二一二の隅櫓、木造の若干の城内屋敷
だけだ。富士見櫓の眺望は、現在の千代田城ではおそらく随一であろう。
 あかねさす夕日のかげは入りはてて空にのこれる富士のとほ山
 私はこの明治天皇の御製を、どうしても富士見櫓での御作と思わないわけにゅかない。この櫓
の生命は、この御歌に見事に表現されているようだし、この御歌を知って櫓を眺めると、櫓の男
ぶりが一層水際だってくると云った感じがある。事実、夕映えに色どられた富士見櫓の白壁の美
しさは、多くの東京人の見のがしている風景だ。垢ぬけした男性美とは、おそらく城の櫓につい
て云えるところだろう。
 あしびきの山のはいつる月かげに大海原の波を見るかな
 これはどこでの御作かわからないが、富士見櫓からならば、往時東京湾ははるかに望見出来た
筈だ。房総の山あたりから出た月影が広々とした湾の波を照らす雄天な風景が想像される。明治
天皇御集をみて、私の最も感心したのは、さきの「見花」とここにひいた二首であった。御集は
日記とも云えるほど、何らの技巧を用いられず、その日その日の喜びや憂いを率直に歌われてい
る。倫理的なものが非常に多く、従来教訓として濫用されたうらみがあるが、叙景の歌の方がす
ばらしい。
 本丸の跡に立ってみた。雅楽の練習でもあろうか、近くの楽部から笙の音が聞えてくる。苔む
した石崖と、相変らず天を蔽うような巨木の群と、その他には往時の遺蹟は何もない。家康がこ
こに築城を開始したのは関ヶ原合戦の四年後、慶長九年であった。同十年には家康隠退して、秀
忠が二代将軍となったが、本丸はそれから十一年かかって、家康薨去の前年、元和元年にほぼか
たちを整えたという。五層の雄大な天守閣が出来たのはこの時である。元和六年から更に増築
し、外濠を堅め、西丸も整備して、江戸城の結構がほぼ完成したのは三代将軍家光の寛永十四年
とある。前後実に三十三年を要したわけだ。それから現在まで、この城の変遷を表示すれば次の
とおりである。
 寛永十六年  (三代家光)本丸火災、翌年四月修築す。
 明暦三年  (四代家綱)江戸大火のため本丸二の丸三の丸全焼す。
 万治二年 (同)本丸造営、天守閣は再建せず.
 延享四年 (九代家重)二の丸焼失す。
 天保九年  (十二代家慶)西丸焼失、翌年四月再築す。
 弘化元年  (同)本丸焼失、翌年四月再築す。
 嘉永五年 (同)西丸焼失、同年十二月再築す。
 安政二年 (十三代家定)本丸焼失、翌年十一月再築す。
 文久三年 (十四代家茂)西丸焼失、同年本丸二の丸焼失、いずれも再築す。
 慶応三年 (十五代慶喜)二の丸焼失す。
 明治元年 江戸城明渡。西丸を皇居とす。
 明治六年 西丸焼失す。赤坂離宮を仮皇居とす。
 明治十七年 西丸に宮殿造賞二十一年十月竣工す。
 昭和二十年 戦災にて宮殿炎上す。
 大体以上のような推移で、三百年間に度々焼失している。後代になるにつれて幕府財政窮迫の
ため、もとのような再建は不可能になったという。戦争による破壊は徳川期には一度もない。江
戸大火あるいは内部出火が原因であるが、それにしてもよく焼けたものだ。おそらく家康から家
光までの間の江戸城が、内部最も完備していたであろう。造営は伏見桃山城の技能者達によった
と伝えられる。現在京郡に残る二条城は、家康上洛の折の居城であり、桃山の遺構を伝えるもの
だが、多くの襖絵は別として、間どりなどはおおよそ似ていたと思う。秀吉にしても家康にして
も、覇者の威嚇性を建築と装飾にあらわした人だ。二条城を見た折もそう思ったが、あの絢爛た
る金箔と、それを照らす夜の燭台の光りは絶大の舞台効果をもたらしたであろう。三百四十六年
後の今日江戸城の一切は消滅している。ここもただ夏草の繁るばかりである。
*
            しゆうう
 坂下門を辞する頃、激しい驟雨が来た。皇居前に集っていた人々が、あちこちに走り去るのが
みえる。周囲は次第に薄暗くなってきた。やがて人影ひとつない松林と広場に、瀧鰹たる大雨が
降りそそぎ、コンクリートの道はしぶきをあげる。松林全体から遠いお堀の辺りまで、一面に
烟ってみえた。暫く待っていたが晴れそうに思われない。私は傘をななめにし、雫にぬれなが
ら、お堀端の柳に沿うて歩いてみた。雨というものはふしぎに懐古の情をそそる。古城をめぐる
様々の歴史的人物が浮んでくる。
 堀の周囲は往時すべて大名屋敷であった。現在日比谷角の総司令部は池田邸の跡である。それ
から和田倉門に向って、山内邸、蜂須賀邸、町奉行所という順序に並び、神田橋寄りには酒井邸
と細川邸があった筈だ。参謀不部跡は明石邸と三宅邸、そこから桜田門前にかけて、井伊邸、浅
野邸がつづき、警視庁から裁判所の側には、鍋島、毛利、上杉諸侯の邸宅があった。半蔵門と田
安門一帯は旗本屋敷である。古図でうろ覚えにしていたところを思い出し、それらの屋敷が甍を
きそい黒門を構えて、墨絵のように雨の中に並んでいた昔をしのんだ。眼を転じて、富士見櫓の
白壁と城内の老松に雨のふりそそぐのを眺めると、芝居の書割そっくりだ。周囲には雨の音しか
聞えないが、それが却って森閑とした感じを与える。一人でうろついているうちに、自分が何と
なく丸橋忠弥のように思われてきたのは滑稽であった。
 現在の千代田城は、すでに述べたとおり武蔵野と云っていい。陛下は宮殿の再建など思いもか
けておられぬようである。草木を益ー繁茂させ、野鳥の声を聞き、古さながらの武蔵野に愁い深
くお住みのつもりらしい。しかしこの自然は、そのままで尊い宮殿ではなかろうか。二重橋の前
を通り、再び桜田門の辺りに来たとき、驟雨は過ぎた。雨にぬれた桜田門の白壁の美しさ。白と
いう色があったことを改めて気づくほどに鮮かにみえた。
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