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大曲駒村『東京灰燼記』「書物の行衛」

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amizako

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十五 図書の行衛

 東京の書肆と云ふ書肆は、悉く焼失して終った。山の手方面に一部の災禍を免れたものもないではないが、先づ九分強は皆灰燼に帰した。博文館、丸善、三省堂、冨山房、金港堂、春陽堂、有朋堂、大鐙閣、大倉書店、岩波書店、植竹書院、吉川弘文館、前川文栄閣、越山堂、教文館、アルス社、啓成社、わんや、玄文社等、兔に角一流どころの老舗或は新興の書肆は全く全焼して、其跡を訪ふと余焔の中に貴重なる書籍の俤を止めてゐる。

 古書籍商も、浅草の浅倉書店、九段下から真っ直ぐに下りて来た村口書店をはじめ、神田の一誠堂、村越書店、下谷の源泉堂、本郷の南陽堂等、悉く全滅した。あの神保町の電車通りで、軒を並べた古書籍店が、凡そ幾戸あったか数へ難いほどであったが、珍籍奇書と共に悉く烏有に帰した。

 図書館もその通りである。上野図書館、日比谷図書館、早稲田大学図書館等は皆無事で、遂に劫火を免れたが、明治大学の図書館は焼失してボアソナード博士が、我民法を起草した直筆の書籍二千冊、法制経済のステルンベルヒ文庫一万冊等をはじめ、得難き珍籍は皆烏有に帰した。商科大学では、保険に関する村瀬文庫を失った。中央大学の図書館は、金庫と同様に鉄扉を閉鎖すると、如何なる猛火をも防ぎ得る仕掛になってゐたので、七日の午前に開扉して見ると、三万冊の貴重なる図書は全部無事であったと云ふから、これは不幸中の幸であった。

 帝国大学は実にこの点惨憺たるものであった。他の多くの教室、付属建物と共に遂に図書館に猛火が闖入して、其中に収蔵された七十六万余の宝巻が、僅かに一万巻を剰すのみで全部烏有に帰した。その内主なるものを挙げて見ると、

 一、マルクスミューラ文庫      一万冊

 一、エンゲル文庫 六万冊

 一、郡村史類(内務省所有) 六千四百冊

 一、社寺奉行記録、評定所記録 九千百冊

 一、幕末史料 二千五百冊

 一、デルンブルヒ文庫及紅葉文庫 九千九百九十五冊

    紅葉文庫──欽定今古図書集成 

 一、西蔵文一切経等

である。もう東京には、前に挙げた上野図書館と他の二三の図書館以外には、珍籍奇書とも称すべき品は皆無となったのである。東京の学者達はその研究図書を失って終ひ、読書子は取敢へず良書を得るに困難する事となるであらう。まして漁書家は、悉く巨口を逸した釣客の恨を抱く事となるであらう。個人としても、その手中の明珠を奪はれたものが、何程あるか数へ上げることは出来まい。安田松之舎氏が、半生の蒐集に係る許多の珍籍等、決して無事ではあるまいと思ふ。ある新聞の伝ふる所を聞くと、今後暫く学問の権威は京都に移り、出版界は大阪に去るだらうと云ふ。これは帝大の文科の今井教授の説であるさうな。試みにその所説を紹介して見る。

帝大の建物が出来るまでは、学生は東北なり京都なりで、当分のうち自由な研究をして貰ふより仕方ないが、図書館が生命である法科、文科は、権威のある研究は茲数年間殆んと出来ないので、学術の権威は京都に移って終うものと思はれる。また一般出版界も、当分のうち大阪へ移されるものと思はる。しかし執筆者階級は、如何に東京が荒廃しても、居を大阪へ移すことはしまい。──彼らの住居は郊外で、多くは火災を逃れて居る──それで結局は、出版の中心が東京へ帰るであらう。

 序でながら都下大学の主なるものゝ、罹災の程度を記して見る。

 帝国大学  文学部、心理学教室、理学部、地質学教室、動物学教室を残したのみで、他は全部焼失した。法学部、経済部、本部学生控室、図書館等、及び付属建物は一物も残さない。医学部は化学薬物、生理学教室が焼け、付属病院のみ辛うじて助かった。五千の学生中、在京者約四五百名、焼け残った建物の警戒に努めて居る。現代文化の中心を成す前記の図書館、研究書類、論文、並に四十余年の歳月を費して世界の各国から蒐集した実物模型、標本、器械類は、悉く灰燼に帰したから、よし建物は再築されても、学術の研究が従前通りに復活さるゝか何うかは疑問としなければならぬ。皿にまた数十年の歳月を要する事であらう。東洋第一の文化の殿堂は、かくて惨骸を焼け残った赤門の中に横たへた。

 中央大学  僅に校舎の一部を残して、全部焼失崩壊した。図書館は前記の始末で、図書の殆んと全部が奇禍を免れたのは何よりの幸福と云はなければならない。

 明治大学  鉄筋コンクリートの中学部の一部、同予科の一部を除くの外は、全部焼失して終った。図書館は前記の通りで、残念千万の次第である。

 商科大学  講堂本館、及び教室、事務室の一部を焼き残したが、それはほんの小部分で、先づ全部焼失したと云ふて差支ない。殊に教育の参考品として各室に備へ付けて在った陶器、漆器、織物等得難い品々を悉く焼失したのは遺憾な事である。図書類は前記の通りで、他の殆んと全部は祝融の害を免れた。

 早稲田大学  大震の際に、応用化学教室の薬品から発火して、同室を全部焼失し、猶同校正門内の煉瓦造の大講堂──明治二十三年の建築──が半壊したが、その外は皆無難で、図書館も至って安全であった。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981826/64

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