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飛田穂洲「熱球三十年」1

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amizako

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父のこと、母のこと

 私はすでに明治、大正、昭和の三時代にわたる野球に親しく接してきた。これからもまた幾年かの野球をスタンドからながめることであろう。ここで私の野球生活を合算するなら実に三十余年間となる。
 選手時代から記者、コーチ時代から再び記者へと移り変ってはいるけれども、つねに辛抱強く野球につきまとって飽くことを知らなかった。
 しかも私が野球に走ったころは、むろん今日のごときものではなかった。野球に直接関係あるもののほか、全部といっていいくらい、すべてのものが野球の反対者であり、排斥者であった。学校も家庭もこぞって忌みきらった。当時の選手というものは、教育者からまるで不良少年のごとき扱いをうけていた。こうした迫害の中に成長した私どもの野球に、いくた困難のまつわっていたのは想嫁するにかたくはないであろう。
 ことに野球ぎらいな父を持った私などの野球に対する境遇というものは、まことにみじめなものであった。それがため、ついには苦学生生活の中に早稲田の選手を続けねばならぬようなはめにもおちいったほどであるが、小学から中学までも決してほがらかな野球を楽しんだのではない。ひたすら家庭にかくれて練習した私など、試合記事が新聞に掲載されるようになってからは、スコアブックに変名を用いねばならなかった。
 明治三十九年竜ケ崎中学グラウンドに開かれた茨城県下大会に、木下順という変名のもとに投手をしたさいのごとき、姪の急病から発覚して試合中に帰宅を命ぜられたことなどもあった。
 父は昔気質ではあったが、存外開けた思想を持ち、懐中時計などもいちはやく横浜から取り寄せて、二十二形のそれを兵児帯にぶらさげたり、英国型の珍妙なフロックコートに先鞭をつけたあたり、田舎紳士としては相当なハイカラぶりであった。むしろこの点、後年の私などよりも進取的であったといえる。
 正直にいうなら、私は、四十余歳の今日、まだフロックはもちろん、モーニングというようなかっこうのいい姿に身をやつしたことがない。和服専用主義者ではなく、それによって日本精神主義を強調しようというのでもないが、私というものは、長い間、学校の制服以外には洋服というものを愛用しなかった。初めて背広の洋服に身を固めてみたのが、大正五年の天狗クラブ満州遠征からで、それも借着であった。本式に背広をわがものとしたのは、大正十年に早稲田選手を率いて渡米したときといっていいから、その歴史たるや、きわめて新しい。
 アメリカへ行くには、どうしても洋服を着なければなちない。もっとも、日比野寛先生のように徹底すれば、パリやベルリンの大道を、紋付羽織に袴をはいて、ふろしき包をかかえながら堂堂濶歩したというが、安部先生のように外国で学生生活をした人では、そうはいかない。
  第一回渡米のうら話
 この遠征のとき、選手にも背広を許すという先生の主張に対し、学生が背広を着るなどぜいたくに過ぎるばかりでなく学生の本分をと開き直った私に、まさかキモノで洋行するわけにはいくまい、君、背広というが、向こうへ行けば平常着だからね、と一笑に付されてしまった。
 先生がこの遠征から学生服を背広に改めたには、一場の哀話(?)がある。明治三十八年の早稲田第一回の渡米には、選手一同が、そのころ制定されたばかりの大学制服に丸帽という姿で西海岸を転戦した。ところが、いたるところで「君たちは兵隊さんか?」という質問を受け、はなはだしいのになると楽隊と間違え、「日本の楽隊にもティームがあるのか?」というような奇問に悩まされた。これが先生の脳裏に深く焼きつけられ、背広改正への道をたどったものと見てさしつかえない。
 選手が新調の背広に勢ぞろいするとき、コーチたる穂洲が詰襟というわけにはいかず、さればというて、半年もの旅行に借着の相談を持ちかけたところで、これに乗るべき篤志家のあろうはずもない。かくして私の背広由来記が出来上がるわけであるが、これからすると、明治二十四、五年ごろから、フロックコートという珍妙なキモノに身をやつして、得意であった父のモダンぶりは、破天荒といっていい。にもかかわらず、ベースボールだけはどうしても許さなかった。柔剣術ともなれば、すすんで奨励するくせに、野球には生涯好意を寄せなかった。それをかくれて行なうのであるから、その苦心というものはとうてい問題にはならない。
 こうした中にあって、私の野球をわずかながら庇護してくれたものは母であった。
 兄は私の野球を手引きした一人ではあるが、父を説得するにはまだ微力であったから、私の練習に利便をはかってくれるわけにはいかない。その間にあって、母はつねに父の手前をとりつくろって、からくも私の野球動脈をつなぎとめてくれた。
 当時の母がもちろん野球を理解しようわけもなく、母は一生のうち、ただ一度私の水戸中学時代における野球試合を見たきりであって、なんらの興味を持っていなかった。けれどもその母は不思議に私の野球をかばってくれた。小学から中学へと私の野球が曲がりなりにも続けられたのは、母がかげながらに与えてくれた援助にほかならなかったことを感謝する。
 その母を、私は去る三月二十三日(昭和七年)に失った。八十一歳という高齢の母を見送りえたことに対して、それは決して不足を訴うべきではない。しかし子として母を失ったくらい寂しいことはなく、この感じはおそらく年齢には関係しないことであるかもしれない。
 この稿は、ふり返りみる一野球児の貧しい足跡であるが、私はこれを郷里天神山の奥津城に眠る母への記念として捧げたい。
  早慶野球試合
 私が早稲田大学を目ざして上京した明治四十年春は、早慶試合が中止された直後であった。当時の野球界は、ようやく一高の手を離れて、慶応早稲田の対立時代を現出し、学生間に限られてはいたが、その熱度の昇騰には大いに見るべきものがあった。現在の早慶試合が、リーグ戦中最高の人気を占めているのは、両ティームが早慶という両私立大学を背景としたり、技倆勝敗などがあい匹敵して、試合そのものに興味をおきうるからばかりではない。実にその人気の大部分を占めるものは歴史の力にある。
 旧早慶試合が、三十七、八年にわたってからはなぱなしき戦跡を残していなかったならば、後年の早慶試合というのに、独占的人気が集中されるわけがない。今日の観衆には漸次、試合価値を認めうるだけの見識が備わりつつあるが、一度早慶試合至れば、まったく盲目的となり、平凡に過ぎる試合であっても、早慶戦なるがゆえに極度に礼賛興奮してしまう。これがため、他のいくたの好試合が葬り去られるかしれない。今日のように、技倆平均した大学試合にあって、技倆本位に見るならば、早慶戦に劣らぬ試合は、かなりに多いにかかわらず、早慶戦の前にはなんらの権威を示しえない。この人気は、実にリーグ優勝以上といわねばならず、両大学の選手も、校友も、早慶試合にさえ勝ちうれば、ペナントのごときは問題でない。
 昨春の慶応はリーグ戦に優勝したけれど、早慶試合に敗れて紅涙を絞り、覇者の権よろこぶに足らずと号泣し、昨秋の早稲田は立教に光輝ある優勝権を奪われながら、われらは早慶試合に勝てりと慰めている。ファンの多くもまた、早慶試合の勝敗をもって中心興味と心得、優勝のいかんのごとき、深く問おうとしない。まことに、早慶戦時代なるかなである。
 さて、この人気がいつまで続けられるであろうか。剣牛両大学のボートレース、エール対ハーバードの蹴球試合が、幾十年という世界的永続記録を残しつつ、いぜんとして英米青年子女の血をわかせるを見て、わが早慶試合の人気生命にも、永続性を認むべく、野球熱の冷却せぬかぎり、幾久しく春秋を飾るに相違ない。
 かくして両大学の選手たる光栄を述べるには、まず第一に、早慶戦へのはなぱなしき出陣であらねばならぬ。いかに大選手であっても、早慶試合に出場していなければ、その球歴は栄えない。小野や谷口の最優秀投手たりしことには異論がなくても、彼らは一時代を早め、早慶試合に漏れたため、宮武や伊達ほどの人気を吸収することができなかった。この意味において、明治四十年から大正十三年、すなわち早慶戦中止より復活までの中間に生れた早慶選手というものは、まことに恵まれていない。
 三十九年の早慶試合が中止されることなく継続されていたならば、大井斉も菅瀬一馬も、時代の英雄として、いっそう球史をかざっていたであろうし、小野三千麿、谷口五郎などの一騎討ちには万衆血を入れ揚げ、試合はらんまんと咲き乱れたに相違ない。田中勝雄の遠打、久慈次郎の捕手ぶりを忘れかねるファンの数々にも、彼らが早慶戦の勇士とうたわれることなくしてやんだ寂しさをいかんともすることができない。
 そのうえ、早慶戦の中止は日本野球を十年間おくれさせたことも争われない。早慶試合さえ事なく行なわれていたら、今日の野球時代はすでに、大正年間に現出したであろう。ここに同一野球部に育て上げられた選手にも、時代によって幸不幸は免れない。
 大正十三年秋に、十戦十勝という完勝記録をつくった早稲田の主将有田富士夫のごとく、十四年の復活試合を目前にして、野球生活に別れを告げ、千載一遇の好機を逸したものもあり、竹内愛一のごとく、一年をおくれたため、復活第一戦の投手として一安打、無得点という早慶戦記録を保持する幸運児もある。

女人禁制
驚くべき少数部員
 私などは技倆の点からいうならば、何一っ誇りうるものを持っていなかった。むしろ早稲田選手たる末席を汚しえたことすら不思議とするに足るべく、これをもってひたすら満足せねばならぬ身の上であるけれども、一寸の虫にもなんとやら、早慶試合に間に合わなかったうらみを人並みに持ち合わせている。
 当時の早慶志望者というものは、いずれも早慶試合出場を目標としたものであったから、これが中止は、あたかも死刑の判決を下されたようなものであり、新入部員はいうまでもなく、先輩選手連の落胆失望はもちろん、校友全体にわたってまったくの掌中の玉をもぎとられたようなものであった。いっさいの校交は断絶され、野球戦のために、庭球から柔道、ボートというようにすべてのものが中止されてしまったのであるから、好敵手を失うなどという生ぬるいものではなかった。早慶対抗ということになれば、'国家の一大事でもあるかのように、馳せ集まった両大学の学徒は、熱のやりばを奪われて意気消沈、校内は火の消えたようなものであった。
 しかしこの中止はたんに一時的なものであって、日ならずして復活するであろうという一縷の望みをつないでいたことも事実であり、少なくとも早稲田方だけではそう信じていた。私が早稲田の土を踏んだときには、橋戸、泉谷、鈴木の先輩を送って、押川君を中心としたティームであった。河野、森本、獅子内、山脇という早慶試合の花形選手が厳然と控えており、これらの選手は遠く米国西海岸に転戦して、当時の野球には新知識であった。
 けれども、野球部員と称すべきものは、十人足らずであって、その練習には袴をはいたものや、サルマタ一つのヤジ馬が球拾いを手伝っているという有様で、今日部員八十名を越すと称され、グラウンドの狭隘を感じ、部員整理に困惑している大早稲田野球部の隆盛なのに比べると、うそのような話である。もっとも、こうした時代であったから、私のようなものでも選手になりえたといえばそれまでであるが、なんにしても驚くべき少数の部員であった。
 そこへ、神戸の松田捨吉と札幌の伊勢田剛と私の三人が選ばれて選手になった。同時代に慶応に入部したものには、青山学院出身の亀山万平君があり、同君はのちに慶応の外野手中第一人者と呼ばれ、第一回シカゴ来征当時の活躍などめざましいものであった。均斉のとれた体格と脚力とは、外野手としての天分を豊かに持っていた。同君は、野球ばかりでなく、ランニングの選手としても中距離をよく走り、そのころ有名であった駒場農科の選手競走に一等を占めるなど、まだ幼稚な競走界ではあったが、みごとなもので、今ならオリンピックにも派遣さるべき資格が十分であったろう。そのうえ好男子であったこともみのがせない。野球やランニングは顔でやるのではないが、男前のいいことが技倆の妨害とはならない。
 技倆もあり、人間もよく、男ぶりがよければ、いわゆる三拍子そろったもので、一個の安打にもファイン・プレーにも、いっそうの箔がつくことは請合いといっていい。亀山君などは、たしかにこの選に洩れない多幸をうらやまれた選手であったけれども、のちに亀さん物語などという連載ものなどを見ると、亀山君の悩みが好男子なるがゆえに生み出され、うそかまことか知らないが、同僚選手とのさやあてから、ついに惜しまれる選手生活をまっとうすることができずに、塾を離れて横浜にたてこもるにいたったなどは同情にあまりある。亀山君をよく知る彼の友人たちは、その男らしさを称揚し、横浜における亀さんが、気前がよすぎたため、一時かなり成功した商売を棒に振った不幸を嘆息している。しかも亀さんは、往年の気力を失わずに、審判もすれば、試合にも参加して、横浜球界の立物になっているのはうれしい。
 近ごろの野球狂時代になると、美男子にあらず、好男子というべからざるものにまで白羽の矢が向けられるという。これがため、惜しむべき好選手が、ティームから追われる悲惨事がひんぴんとして起こりつつある。一投一打に一躍名を成した選手が、みずからの不心得から寂しく選手席に別れていく姿を想像するならば、日本の野球界のためにも、はたまた本人のためにも、一掬の涙なくしてはやむまい。
 騒がれることをいいことにしていると、その末路を泣かねばならぬ。野球選手なるがゆえに集まった人気と知らずに、それがいつまでもついて回るもののように誤り考えれば、一度選手を退くや、醒めてはかない夢と化し、幻滅の悲哀をしみじみと感ずることであろう。若き選手はここに深い注意を払わねばならぬと同時に、これを指導するものにも厳戒がなくてはならない。さらにまた、トゲを蔵するファンの接近に爆弾の用意を必要としよう。いっそ女人禁制の札をスタンドに押し立てることができたら、各ティーム当局の頭痛の種を絶つことができるかもしれない。

森本繁雄と高田増三
 そこへいくと、われわれの選手時代というものは、いささかも不安がなかった。ご面相に相談しろなどと失礼なことを遠慮してもらおう。われらの先輩にも森本繁雄君のごとき貴公子然たる秀麗なる選手もあった。森本君がさる校友会に招かれたとき、座上の美人連いっせいに嘆美の声を惜しまなかったというが、彼は座に美妓あるを知るや、紅裙と席を同じうすることは部則の許さぬところと豪語して、引き留むる校友たちをしり目にかけつつ席をけって退散した。
 戦友松田も、いまこそとく頭に光を増し、わずかに昔の面影を存するにとどまるけれども、早稲田時代の彼は一個りりしい美丈夫であった。しかも身を持するに固く、代表的選手生活を終っている。
 彼と同郷の佐々木勝麿は、遊撃手として軽快無比と称され、あかぬけのした男前、頭髪を縮らせた当時のハイカラぶりに、ハワイ遠征中、混血児と誤られ、ホノルル美人連から異常の尊敬を表せられたといううわささえ伝えられたが、道心堅固に野球道を守り、家兄の歿するや親戚一同の乞いをいれ、嫂と逆縁を組んで僧侶となった。
 名古屋万松寺住職伊藤寛が、早稲田の政治科を出て、僧門にはいったのと、佐々木君が慶応の理財科を出て同じく大寺院の住職となったのとは、早慶選手和尚の双璧というべく、これがどちらも禅僧であったら、早慶問答試合というものが成り立つであろう。しかしこれらの会戦は、おそらく野球問答となるであろうから、容易に勧進元を引き受けるわけにはいかぬ。
 かくして昔の選手生活というものがきわめて清楚であったことを広言しうるけれども、むろん今日のそれと大いに環境の異なっていたことも争われぬ事実であった9私などの選手時代の見物人というものは、全部が学生であり、親しき後援者というもののすべては、同級生であった。しいて私どものひいきを求めようとすれば、戸塚グラウンド近所から鶴巻町辺の小学児童、鼻垂れ小僧のたぐいで、選手が通れば、伊勢田、松田とわめきながらゾロゾロとついてくる。
「やい、昨日三度振りをしたろう」
「あんな高い球を振るやつがあるものか。球をもっとよく見るんだよ」
 などと、高級批評さえするけれども、これらが試合となれば、集団をつくって応援これ努むるのであるから、すべて憎からぬものであった。
 婦人の見物人が一人二人ようやく姿を現わしたのは、四十年の秋慶応が招へいしたハワイ・セントルイスの試合ごろからであったろうか。それも妙齢の婦人など見かけたことがなかった昔の
野球は、男が見るものと相場が決められ、婦人方には断然縁の遠いものであった。
 ところが、このごろでは、野球場にあっては男女同権が正しく認められねばならない。アメリカの西海岸のリーグでは、婦人入場者無料の制があり、女は大手を振って木戸を通過してしまうところもある。これは婦人の入場者は必ず男子を同伴するからという点に一種の特権を与えられたものであるというが、日本の現況がいちだんの跳躍を示すならば、反対の理由から男子無料の恩典に浴するかもしれぬ。
 けれども、婦人観衆を礼賛するものばかりはない。大正十二、三年ごろに早稲田野球部のマネージャーであった高田増三という男は、頑猛無類、無料潜入者には怨敵のごときものであった。まだ相当寛大であったそのころであったにかかわらず、彼が入口にがんばったが最後、教授先輩といえども入場券を持たぬものは追い返される。戸塚雀は彼を山賊とあだ名して、その厳酷なるに戦りつした。
 ある日のリーグ戦、それは早明試合ででもあったろうか。二人のあでやかなる美人が入口に静静と進むと、ていねいに二枚の入場券を示して入場しようとした。入口の小高いところに位置を占めて入場者を監視していた高田増三、ジロリとこれを見おろすや、人夫の手からいきなり切符を奪いとったが、美人二人の背後から「待てっ」とばかり声をかけた。
「この入場券はだれからもらった?」
「知り合いの方からいただきました」
「これは招待券ではないか。君らの手にはいるべきはずがない」
「でも、いただいたのですもの、さしつかえないでしょう」
「いや、この招待券を君らにくれるなどとはけしからんことだ。わが輩は責任をもって没収する。入場を許すわけにはいかん」
「だってせっかく来たんじゃないの。その入場券でいけないというのなら、別に入場券を買うわ」
「君らに売る入場券はないから帰れ」
「そんな乱暴なことがあるものですか。見せるための野球じゃなくって? わたしたちだって入場する権利があってよ」
「ばか、見せるための試合なんてあるものか。ツベコベいわずに帰れというのに」
「ずいぶんあんたは頑固ね。せっせとこんな場末まで来て見ずに帰れるものですか」
 高田はそれきり相手にしない。二人の美人は立ち去りかねて入口に立っている。試合開始のカン声があがると、二人はもうがまんができないように、
「ねエ、後生だから見せてちょうだい」
 さすがに百戦老巧、哀れっぼく持ちかけたが、山賊の巨魁は関所を堅くとざして、世にもまれなる美人の口説きに応ずるけはいも見せなかった。

野球変遷の思い出
 昔のベースボールから、今日のそれに及ぶなら、まことに隔世の感を覚える。技術、頭脳は申すまでもなく、用具、グラウンド、野球熱のいかなる点から見ても比較にならない。だから明治時代や大正初期にあって、観衆五万を収容しうる神宮球場の出現を予期したであろうか。
 明治四十一年秋、シャトルのワシントン大学ティームを招へいするため、戸塚グラウンドに木柵をめぐらし、一塁側に約四、五百人を入れうるベンチを据えつけ、三塁側の土手に段々をつくって見物に便ならしめた。これを一見したときの野球関係者は、いずれも賛美の声を惜しまず、早稲田選手の多幸なるをうらやんだものであり、われわれ自身また、このグラウンドを持つことを、大いに得意としたものであった。しかも今日の完備したグラウンドに比べるなら、小屋掛け,を歌舞伎座の舞台のごとく考えたたぐいにほかならない。
 このみすぼらしいグラウンドで、粗悪きわまる器具を用い、研究材料もコーチもなく、むしろ世間の迫害に耐えつつ選手生活をしたのであるから、現在のそれとはすでに境遇そのものも違っていた。用具のごとき、ミットからグラブに移って、結構ベースボールの体をなしてからでも、その材料は劣悪であり、型は小さく、記念に保存してあるそれを引き出して見るたび、よくこれでボールがつかめたものと感心されるくらいである。
 明治時代は多く本郷美満津屋のボールを日本製品中の白眉として、一高はじめ各野球部が愛用したものであった。それが牛皮のセンター・ラパーで規則どおりにできているものなどは、容易に見あたらぬというしろものが多かった。
 大学で使用するものは特に注意され、上等の職人、それも日本に二人か三人しかいないという名人に類する連中で、全部手づくりの腕を競ったものであるにかかわらず、でき上がったものは如上の製品で、材料が悪いうえに研究も不足しているから、一個一個目方も大きさも違っているという始末であった。それをまた、なまかわきでつくったところの、パランスの悪いパットで打つのだから、ミートがよく正確な当りをしても、伸びのきくはずがない。カーンという冴えはなく、ボクリと濁った音で落下してしまう。

プレース氏の寄与
 明治四十一年、米国から来た宣教師にプレースという人があった。この人はかつてシカゴ大学ティームの中堅を守り、非常な強打者で、ホームランをいく度か打って、大学ティーム中、そうそうたる名があったという。事実体格もあり、精悍で、打法もよかった。
 このプレース氏にわれわれは約半歳ばかりときどきコーチを受け、この人の仲介でシカゴ大学ティームが第一回の来朝をすることになり、その後、早稲田は五年ごとに交換招へいの約を結ぶにいたったのであるから、プレース氏が日本球界に寄与したところも少なしとしない。
 プレース氏は、大して頭脳的ベースボールをわれわれにコーチしなかったけれども、打法などについては、かなり親切に教えてくれた。
 ある日、練習がひととおり終ってから、だれかが、あの左翼をノックで越せるかと同氏に尋ねたところ、プレース氏も多少興味を覚えたらしく、ノック・バットを打ち振りながらホーム・プレートのそばに立ち、美満津屋の真新しいボールを手にするや、力をこめて打ちとばした。強力の同氏に打たれた球は、高く舞い上がってはるかに飛び去った。けれども柵越すにはいたらず、なお七、八間(約十三メートル)を残したところにバウンドしてしまった。
 そのころの戸塚グラウンドは、まだカラタチで外周をかこってあったのみで、カラタチの高さは四、五尺(約一.五メートル)を出なかった。しかもプレース氏は、幾度か試みたけれども、このカラタチの樹を直接に越しえずに終った。むろんプレースほどの強打者が越しえないのであるから、われわれ仲間で越しうるもののあろうわけがない。
 後年私が、早稲田の世話人(注・監督のこと)となったときには、まもなく現在のコンクリートの塀がつくられて、グラウンドの面目は木柵から一新され、塀の高さは七尺(二・一ニメートル)となった。それを私はノックならほとんど自由に越しえたと思う。かくいうことによって穂洲のノックが選手時代より数倍上達したものであるかのごとく、早合点してはいけない。
 実にこれはボール製品の相違で、センターにコルクを使い、精選せる材料によってつくられたボールは、昔のボールよりも二割以上三割にも及ぶほどの飛翔力があるから、腕は鈍くともボールがひとりでに飛んでいくという寸法になる。旧式のボールを打たせたら、いかな田中勝雄でも、宮武三郎でも、七十間(一二七・四メートル)の遠打記録などとうていつくれなかったに相違ない。

現役選手へのいましめ
 一から万事、今日のそれとは何一つ問題にはならない。現選手のごとく、コーチに手をとって教えられるようなこともなく、自己流の研究に没頭するほかなかった。だから技術、頭脳という点も、用具のそれのごとく、大々的割引をして考えねばならぬ。ただその不自由の中にあっては、思ったよりもあるいはじょうずな野球をしていたかもしれない。かく技倆を比較すれば問題にならぬ昔の選手にも、今日から見て、多くとるべきもののあったことは争われない。
 明治から大正初期に現われた選手をもって、現在選手よりも優秀であるかのごとく考えるものがあれば、勘違いをしているものというほかはないが、精神的見地から旧時代選手というものには、いうにいわれぬ風格があった。彼らは真に野球道ということを真向にふりがざして野球に精進した。学問を放棄して野球の虫とはなっても、決して野球選手たる清浄さを失わなかった。どんな誘惑にも打ち勝つだけの強さがあった。質素剛健で身をあやまらぬ、心を汚さぬという信念を固く持っていた。これが彼らには一種の宗教であった。今日野球をもてあそぶかのごとき選手のあることを思うと、野球精神の堕落は実にあさましい。
 これらは各野球部の部費というものが潤沢になったためもあろうから、野球熱のおう盛、観衆ゐ激増というようなことは、必ずしも喜ぶべき現象ではないかもしれぬコ昔の粗野な服装が華麗なユニフォームに進化してきた現在では、皮のオーバーを着る時代、はなはだしいのになると、猿回しのような色とりどりのを着用して得意満面、見るものもこれを怪しまない。彼らはそれをいいことにしてか、毎シーズン新調のぜいをつくしている。見世物ではないと怒号しても、心の濁りゆくのをどうすることもできない。皮のオーバーが、技倆を善導するはずもなく、汗を流しながらこれを着込んで行儀よくしているのもこっけいである。肩を冷やさぬことが大切なら、何も皮のオーバーには限らぬ。もっと質素なもので、いかにも学生らしい防寒用のオーバーが調達できるのではないかと思う。
 各ティームの監督などが、いたずらに選手のきげんを損ぜぬため、オシャレ選手の申し出を甘容することは、日本の野球道をあやまるものといわねばならない。中学を出たばかりの小僧が皮のオーバーに納まってどうするものか。だからすぐ生意気になって、技術はゆき止まってしまう。
 今の選手は昔の選手よりも技術上すぐれていることをいったが、精神的に劣っているため、万事完備されてる割合には、感心すべきものが少ない。ある場合は神宮球場で行なわれるにはもったいないと思われるような試合のあることをも否まない。もっと熱のある試合を、と思うことがたびたびである。
 そこへいくと、昔の選手には小手先の器用さはなくとも、真剣そのものであった。命がけの試合や練習をやった。日本の野球が今日のように熱狂されているのは、みんな昔の選手がよい種をまいていたからで、虐待されながら、土台をしっかりと築き上げたその努力を、感謝せねばならぬと思う。
 しかも、古きは忘れられ、新しきもののみがおう歌される。それに不平をいうべき筋合いではなくとも、ときどき過去の名選手を語ることは、心の慰めにもなろう。


押入れの中の本塁打王
野球選手たるの誇り
 旧時代のベースボールから新時代の野球へと進出したのは、今から約三十三、四年前であった。そのころの早稲田野球部の合宿は、下戸塚の四五四番地の古ぼけた下宿屋のあとを借り受けたもので、むろん今日のごとく一室一人などというぜいたくなものではなく、ほとんど雑居の姿であった。間どりも悪く、陰気な家であったが、家賃はかなり高く、因業な家主は百円以下にはまけなかった。
 選手はすべて自弁で、炊事いっさいを近藤つる女という老婆にゆだねて、いわば自炊生活をしていた。美味を飽喫しようとすれば、学費に不足を生ずるから、だれも彼もまずいものでがまんする。それが修業の大事な心得だと考えていたから、どんなに金持の大家に生れたものでも不平をいわない。高松静男や田中勝雄などは、名古屋、大阪で財産家の中に数えられていい家庭に人となり、その他の選手でも、巨万の富といわれぬまでも、大学に送られるからには、相当な財力がなくてはかなわぬわけである。しかも彼らは、古畳、ぼろ障子の中に泰然として野球選手たる誇りを楽しんでいた。
 この合宿がどんなに傾いていたかは、田中勝雄の安眠法によっても知られよう。
 一代の大打者、日本のホームラン王と呼ばれた彼は、身を持するに堅く、試合前のごときは、その食事や睡眠にもひとかたならぬ注意をした。彼に与えられた部屋は、北向きの道路に面した四畳半であったが、荷馬車が通るたび、地震にひとしい震動で安眠することができない。彼は私によくこれをコボした。そのつど私は、
「男がそのくらいの震動なんかで眠れぬなんてことがあるものか。お坊ちゃん育ちだからだよ。鉄道線路に沿う家なんかだったら、年中眠られぬということになるではないか」
 などと冗談をいったものであるが、彼としては、なんとも堪えられないことであった。
 そこで一策を案じた本塁打王は、押入れに布団をしいてこの中に安眠をむさぼる方法を講じた。ちょうど汽車の寝台にでも寝るようなかっこうで、シーズンがくると、毎晩押入れの中にもぐり込んでしまう。彼は、
「よく眠れます。早くこうした知恵を出せばよかった」
 と語っていたが、それほど苦労した合宿に対して、だれひとりこぼすものがなかったのであるから、その堅固な気持がよくうかがわれるであろう。

久慈次郎の自信と奇行
 私が六年間コーチしたうちで、もっともティームとしての強味があったのは、大正十三、四年であったと思うが、いちばん人物のそろっていたのは、九年から十一年にいたる、キャプテンからいえば、高松、久保田時代であった。
 このティームには、久慈次郎がいた。谷口五郎、永野重次郎(現藤田)、大下常吉、石井順一という面々が中堅となって、早稲田野球部、中興全盛の礎をおろしたのであった。
 強さからいったならば、十三年の有田時代、十四年の山崎、竹内時代に比べれば、やや遜色があったかもしれないが、それでもリーグ戦で敗れたのは数えるほどしかなく、決勝に負けるようなことはなかった。
 みんなが選手としてのりっぱな人格を備えていたから、監督者であった自分は、ひたすら野球技術の研究に精魂を打ち込めばよかった。グラウンドで叱陀督励すれば足るのであるから、コーチとしてこんな気楽さはない。してはいけないといえば、必ずこれを守るばかりでなく、頭脳もあり、自制心も豊かなのであるから、グラウンド以外における行動に対して注意すべき何物もなかった。無理なこごとをいわれても、いっこう平気で、むしろコーチたる穂洲が相手にされなかったくらいであった。
 米国へ遠征して、デトロイト大学とタイガースのグラウンドで試合をしたとき、松本も有田も谷口も打ち込まれて、なんとも方法がつかない。そこで永野に投手を命じたところ、マスクをかなぐり捨てて私のところへとんできた久慈次郎が、ぜひぼくを投手にしてくれと自薦してきかない。私は「いや!」とかぶりを振って受けつけなかったところ、次郎は非常に不きげんな顔をしてホームのほうへ歩み去った。試合は大スコアになって味方の敗北となり、一同疲れきってホテルに帰った。すると、ひとふろ浴びた久慈次郎が、髪をオールパックにくしけずり、水際だった男前になって私の前に現われ、
「今日、ぼくに投手をさせさえすれば負けなかった」
 と昂然としていい放った。
「ばかをいえ。おまえがやったらもっと大負けをしたろう」
 と応酬したところ、
「そんなことがあるもんですか。ぼくの腕前をあなたは知らないんだ」
「キャッチばかりしているものの投手の技倆を知るものか。それよりも投手を断わられたとき、あんな不平面をするやつがあるものか。戦争最中じゃないか。当を得ても得なくても、指揮官の
命令をきかなければ、軍規というものは保てないんだ」
「だって……」
「なにがだってだ。いい年をして。外国じゃないか」
「あんまりぼくを信じなかったからしゃくにさわって」
「よけいなことをいい出してしゃくにさわるやつもないものだ。古い選手がコーチのいうことをきかないと、若いものにしめしがつかない」
 二人の話はこれで打ち切られたが、その夜、デトロイトをたった私の寝台車に次郎がやってきて、
「ぼくもここへ寝よう」
「そんな大きく長いのに寝られてたまるものか」
 というのもきかず、穂洲の肥大したからだを軽々と押しやって、
「あんまり大きないびきをすると、鼻をつまんでやるから」
東北なまりの抜けきらぬ愛嬌ある言葉を浴びせかけると、そのまま五尺九寸(一・七九メートル)の長大漢は、スヤスヤと華胥《かしよ》の国へ。その無邪気さには、先刻のこごとなどどこかヘヶシ飛んでいる。
ひょうたん胃袋
 久慈次郎といえば、昭和六年プロフェッショナルが来朝したさい、全日本選抜軍の捕手として代表的キャッチングを示した男であるから、かけ出しのファンにもなじみ深いわけである。
 小野三千麿とともに選手寿命の長い点において双璧というべく、大正年代から昭和にかけて捕手として彼の右に出るものはないかもしれない。十余年後の今日にあっても、六大学捕手中彼をりょうがするほどのものを見ないというのが、一般のうわさであるようだ。
 選手時代晩年における円熟した彼の技倆というものは、捕球から塁投球、頭脳にいたるまで、まったく申し分のないものであり、これに洗練された小野を配したら日本一のバッテリーができたであろう。秀才というほどではなくとも、学問の頭脳もあり、人あたりがよく、気概にも富んでおり、背が高過ぎるかもしれないが、男ぶりなら上乗である。谷口五郎が、一世の好投手として、その華麗なピッチングを騒がれたのも、久慈を捕手として練磨されたからであり、後進を導くにも温情があり、頭脳をもって引き回すだけの器量があった。
 相当風流心もあり、選手会や遠征歓迎会などで所望されれば、「身どもは薩州鹿児島」という鬼退治のこっけいを勇敢に踊る。向こう鉢巻にステッキをさして、長身ぶりもおかしく一種独特の味があった。
 しかし、久慈次郎の隠し芸は、なんといっても、その健たんぶりにあろう。昔の選手にはこの道の大家があり、それがため運動家というものがいずれも大食漢のように思われているが、菅瀬一馬がとろろ丼を十八杯平らげてトロ八というあだ名を贈られたなど、これらは好物に対する最高記録を示したもので、運動家というものは、そのシーズン中や、本練習にかかると、存外小食なのが普通とされている。けれども、久慈次郎の場合は異例であるということができよう。
 本人にいわすれば、モーションがのろいのであって、必ずしも自分は大食ではないと弁解するけれども、公平に審判して、本人の主張に誤算があるように思える。なにしろ普通選手の二倍半の時間を要し、この間、はしがタイムを宣告される場合も、チェンジというのもないのであるから、いかにスロー・モーションとはいえ、その腹中にはいる数量たるや推して知るべく、二倍とみれば間違いがない。
 猛烈な練習をされたときなど、選手の多くはおびただしく食を減じ、あるものは過労から神経衰弱にかかるのであるが、久慈に限ってはいっさいこうした心配は無用で、練習にも強く食欲もきわめておう盛というのだから、驚異的胃力を感ぜずにはおられない。
 それはなんら誇張するところなく、食うものさえあれば、朝起きるから寝るまで口を動かしていて、いっこうさしつかえないというのであるから、特製の胃袋というべく、大学病院の参考品ともなるべき逸品である。同僚富永徳義はこれに驚嘆して、
「次郎さんの胃袋は、ひょうたんのようにできてるのや」
 といったが、徳義の説明をきけば、すなわち、普通人にあっての胃袋は丸いのであるが、次郎さんのはひょうたんのようにできているから、いくら食っても融通がつくのだという。以来久慈のことをひょうたん胃袋と尊称したものであった。
異境での大食武勇伝
 このひょうたん胃袋は、各所に偉大なる能力を発揮し、早稲田野球部の名誉を異国にまで残している。シカゴ郊外でノースウェスタン大学に大勝したとき、晩餐をとるべく一同は町のキャフェテリヤに乗り込んだ。店にはいるとき、次郎は統率者の安部先生に向かって、
「先生、今日は勝ちましたね。腹いっぱい食べていいでしょうか?」
 先生はこれを聞くや、苦笑いしながら、
「さあ遠慮せずに、ヘビーをかけてみたまえ」
「でも勘定方の先生がビクビクしているのでは、食べたような気がしません」
 久慈はニコニコしながら大きな盆をとって進軍、美味山のごとき中から慎重に選択、一周してカウンターの前に立った。美しい米国娘のカウンターは目を丸くして、この珍客を見おろしたが、差し出した勘定札を一見すると、驚くなかれ、ニドル七十セントというのである。多きも一ドルを越えない、少なきは四、五十セントというところを、彼ただ一人この豪奢ぶり、戦友あっけにとられ、
「次郎さん大丈夫かい?」
 と心配すれば、
「さてどうだか、食ってみなければね」
 と答える。
 食ってみた結果はどうだ、ひょうたん胃袋はみごとなホームラン。
 飯屋のおやじ、勘定脅をうやうやしく先生の前に捧げながら、
「手前がここに開業して以来、一人前ニドル七十セントという記録がつくられたのは、今日が初めてで、深く弊店の名誉とするところであります。願わくばこの大勇士に握手の礼をお許しくだされば幸甚この上もありません」
 米国人というものは、変ったことの好きな人種と相場がきまっている。樽詰になってナイヤガラ瀑布を降下するなどは朝飯前、これは食膳のレコードホルダーに握手の光栄を得たいという。
 まじめな先生は久慈次郎をさし招いて、
「久慈君、君がこの店の記録やぶりをした勇士だというので、主人が握手したいというのです。握手をなさい」
 次郎はさすがに頭をかきながら、主人と相対した。飯屋のあるじは、しげしげと次郎の顔を打ちながめ、いとも感激に満ちたる声をふるわしつつ、いくどかサンキューを連発しながら堅い握手をした。


次郎さんと富さん
そう心配しなさんな……
 久慈次郎の技倆は、大正九年の春から秋にかけて非常な進境を示した。彼がもっとも円熟したのは大正十年の秋、米国遠征から帰ったシーズンであったが、このシーズンには、日本のランナーで彼の前に盗塁に成功したものはまれであったろう。打撃はライトフィールド・ヒッターで、とくに傑出してはいなかったけれども、田中、久保田に次ぐものあり、ボックスの度胸にあっては、実に当時の第一人者であったかもしれない。試合の進行がおもしろくなく、ベンチの私が気をもんでいると、彼はバットを手にしながら、ボックスに進むまえきっと私のところにやってきて、
「そう心配しなさんな。ぼくがいま一本打って勝負をつけてしまうから」
 みんなが緊張のあまり、コチコチに堅くなっているときでも、彼だけは余裕しゃくしゃくとしてこうしたことをいう、そしていかにも愉快げにボックスにはいってゆく。一本打ってベンチに帰ってくると、
「どうです。ぼくのいったとおりでしょう」
 と無邪気に自慢をして、
「だからそう心配するには及ぼんですよ、ヘへ……」
 ピンチに強い打者ほど、試合場でたのもしいものはないが、久慈のごときは試合がもつれればもつれるほど、いっそうその実力を発揮する選手であった。
 ハワイの暑さに当てられて、全軍の士気すこぶるふるわず、その前半を連戦連敗したときでも、彼一人だけは、みごとな手腕を現わし、在留邦人は申すに及ぼず、外人連までが嘆称の声を惜しまなかった。邦人の篤志家から、アイスクリームやパイナップルなどが、久慈を名ざして送られたのも少なくなかったろう。むろんこれは技術優秀なためのみによって寄贈されたばかりではなく、久慈の健たん家たる実例は、すでに前項においてその片鱗を示したから、重ねて述べることは、ややつや消しになるけれども、なお一席を許してもらおう。

パン八という男
 大正十年三月二十七日に横浜を解纜《かいらん》した郵船のコレア丸は、連日のシケに翻ろうされて、二日三日と過ぎてはほとんど食堂へ出る勇士がなくなった。船に弱いものは、終日船室のベッドの上に病人のようになって航海の悲哀をかこっていた。この代表的のものは、田中勝雄、松本終吉、永野重次郎などで、べーブ田中のごときは二度と再び太平洋の船には乗らぬとまで悲壮な決心をしたとさえ伝えられているから、そのシーシックの程度、推して知るべきものがあった。
 この難航中、食堂へ皆勤したものは、一行十六人のうち、高松静男、中村正雄、久慈次郎の三人で、第二流としては、大下常吉や石井順一があったが、同じ皆勤といっても、その勇敢さにははなはだしき相違があり、次郎のごとくあくまで本能を発揮したものはない。
 船に弱い連中が、ベッドに呻吟しているところへ来て、洋食というやつは、なんぼ食っても腹にたまらん、すぐおなかがすいてしまうと嘆息する。メニューを上から下まで平らげても、なおかつ、こうした不足をいう。
「次郎さん、それはパンの食べ方が少ないからだよ。パンをウンと食べればいいんだ」
「そうかなあ。じゃあ今度からパンを少しよけいに食べてみょう。うまくないけれども」
 こうして食堂に出れば、たんねんにパンをかじる。給仕がいくど代えても、代えても、パンをロへ運ぶ手をやめない。ついにその数八個に及んだ。この間普通にメニューの皿が順次に提供されたのであるから、ボrイさん目を丸くしたこというまでもない。じらい久慈はひょうたん胃袋という尊称の上にパン八というあだ名をもちょうだいした。
異郷での大失敗
ハワイの暑熱に苦しんだ久慈次郎は、熱に浮かされたもののようになって、アイスクリームをむさぼった。いよいよハワイに別れて米本国に渡ろうという前日、一同は安部先生に引率されて移民局へ出かけた。しばらく乗換場所で電車を待ってから、電車の中でだれかが「あッ、次郎さんがいない」と叫んだ。見ると久慈次郎ただ一人がたしかに紛失している。もう電車は半マイルも走っていた。先生はちょっと顔を曇らしたが、静かに立ち上がられると、
「私はこれから引き返して、久慈君を連れてきますから、諸君はこの電車の終点で待っていてください」
 次の停留所から先生は引き返していかれた。
「どうして乗りおくれたのだろう。変だね。あの停留所までは来ていたんだがなあ」
「かわいそうに、ウンと先生に叱られるぞ」
 一同が終点で待っていると、先生と次郎は次の電車で仲よくやってきた。だれかが「どうしておくれたんだ?」ときけば、
「なあに、あんまり電車がこないから、あそこの売店をのぞいてみたら、アイスクリームを売っていたろう。たまらなくなって、一つ婆さんに注文してやっているところへ、電車が来たさ。でもあんなに早く引き返そうとは思わなかったから、スピードをかけて進行しているうち、電車が出発した。あッしまったと思ったが、行く先きはわからず、しかたないから度胸を落ちつけ、二度目のを注文して心をしずめているところへ、先生がおいでになった。口を洗って店を出ると、先生に向かって、ていねいにお辞儀をした」
「叱られたろう」
「ウンにゃ、叱られない。ぼく、てっきり叱られると思ったから、お辞儀をすると同時に、先生どうもすみません。勘弁してくださいとあやまっちゃった。すると先生はニコニコしながら『どうしておくれたのです?』というから、ぼく正直にアイスクリームのうまかったことを話して、またペコンとお辞儀をしたさあ、ハハ……」
富永徳義の腹芸
次郎さんと富さん
 久慈次郎の円転さはなかったが、一種の腹芸をもってつねにティームの融和を図ったものに富永徳義があった。徳義は大阪に生れて、市岡中学全盛期の選手であった。短小地味で一見平凡であったが、人物は十分できていた。胆力で技術を生かし、その体格の不足を補っていた。二塁を守ってエラーもしたが、大事な試合には限って好守を見せ、好打を放った。味方が敵の投手に苦しめられているとき、チャンスをつくり、攻め口を開くに独特の強さを持っていた。
 富永新進のとき、明治の試合に追い込まれてあやうく敗れんとしたさい、大快打を放って一挙頽勢を挽回して、ついに味方を勝利に導いたなど、あのわい軅のどこにこうした力があるだろうかと思わせられるくらいであった。無口でいつも八重歯をチラチラさせながら笑っている徳義は、グラウンドに出ても、いっこう栄えなかったけれども、そのパッティングなどには、いうにいわれぬうまみがあり、いいところでミートしては快打したものである。
 大正九年の春、早稲田が初めてシカゴ大学に勝ったのは、松本終吉の快投に負うところが多かったが、勝利のスコアを完成したのは、徳義の巧妙に過ぎる一バントが、シ軍の捕手ヴォルマーの前方を騒がしたによるもので、敵が強ければ、それだけ強くなりうる選手であった。
 父は、大阪商船内海航路の事務長で、母は当時土佐堀で旅館を経営し、富永はその一人息子として不自由のない学生時代を送っていた。
 あるとき大阪から毛糸のグラウンド・オーバーが彼のもとに到着した。みごとな手編みの鎧のように重いものであった。
「富さん、すてきなもんだね。こんなに重いのを着たら、富さん歩けないじゃないか」
「ばかいうない」
「だれから来たんだ、富さん?」
「ウム、親父からだよ。親父の手編みさ」
  航海の徒然の手慰みお目にかけ候素人の製作品不体裁かとも思はれ候も晩秋の練習に多少でも役立ち候はば幸甚に候
 という愛情のこもった父の手紙を読み終った徳義は、平素容易に喜怒哀楽を現わさぬ性質であったが、さすがに感激の面もちであった。当時まだ野球の普及今日のようではなく各家庭では野球選手たることをよろこばぬふうがかなり濃厚であり、選手の中にはわずかに黙認された程度のものも少なくなかった。そうした中に、富さんが愛の結晶たるオーバーをゆうゆうと着用するのであるから、一同がうらやましがったこというまでもない。
 しかも、この父を持つ徳義の心がけも、愛のオーバーをまとうにもっともふさわしいものであった。十年春の渡米が決まったとき、各選手は晴着背広の新調に忙しかった。銀座の洋服屋に新式のをあつらえるもの、大学前の店にひんぴんと通って大いにこごとをいうもの、平素破れ洋服ポロぐつに得々としていたものが、にわかにハイカラに転身しようというのだから、なかなかの騒ぎであった。こうしたふんい気の中に、わが富永徳義一人は、泰然としてなんらの準備もしていない。
洋服が渡米するのじゃない
「富さん、洋服をどうする?」
 と聞かれれば、
「さあ、大阪にあるやろう」
 と答える。同僚の多くは、すでに大阪で背広を注文してきたので、あわてないのだと早合点していた。ある日私が合宿へ行くと、みんなは買物に出かけて富永一人がぼんやりしていた。
「富、洋服はできたかい?」
「ハア」
 富永が気のない返事をするので、私は重ねて彼に、
「もうできているのか?」
 と反問すると、彼は、
「できてません。できてませんが、背広の一着や二着ならありますよ」
 とむぞうさに答えるので、私はむしろびっくりして、
「バカに手回しがいいね。大阪でつくったのか?」
「そうでしょう。親父のですから、どこでつくったか知れませんが」
「なんだ。親父のを着ていくつもりか?」
「そうしましょう。親父の古洋服が二、三着あるようでしたから、あれを着て行くつもりです。背広ならなんでもいいでしょう」
 この一言を聞くと、ひやかし半分に追及していた私も、まったく襟を正さざるを得なかった。みんなが米国遠征に有頂天になっているとき、彼一人平然として、近所隣りへでも行くような気持でいる。親父の古洋服で間に合わせようと考えているから、朝晩洋服屋を訪問するがごとき必要が毫もない。洋服が米国遠征をするのではないそ、この魂が米国へ行くのだ、この腕が碧眼の前で物をいうのだ、口には出さぬが、彼はこう考えていたに相違ない。
 けれども、大阪の両親は気が気ではなかった。遠征の日が迫ってくるにもかかわらず、徳義からは洋服代金の請求すらない。気をもんだすえ、母親が急きょ上京して意中をたたくと、
「アメリカへ洋服を見せに行くのではない、野球をしに行くのだから、おとうさんの古洋服で結構や」
 といってきかない。皆さんが洋服を新調して行くのに、おまえだけがと、いろいろ説得に努めたけれど、徳義の主張を曲げることができなかった。母親はやむなく帰阪したが、両親談合のうえ、二着の背広を新調し、付属品全部を取りそろえて、出発前三日というに、母親は再び合宿にかけつけた。新しいスーッケースにいっぱいつめられたカラーからくつ下、ワイシャツの類は、いずれも母親の心づくしで何一つ手落ちもなかった。

裏返しのえりカラー
 かくして若い紳士が出来上がって、アメリカへ送られた。富永はハワイにおいても、味方不振の中にあっては久慈とともに奮戦し、古参選手としての貫禄を十分保っていた。しかしそれよりも痛快であったことは、相変わらず辺幅を飾らぬ彼の日常であって、米国を旅行しているようなけはいはちっとも見せなかった。
 横浜乗船の日につけたネクタイを、アメリカ中とりかえず、クシャクシャになったのを平気で結んでいるかと思えば、底の抜けたくつ下をいっかなはきかえない。ネクタイやくつ下がないかといえば、そうではなく、母親の用意してくれたかばんの中には、上等のくつ下も、ネクタイもウンとつまっている。
「富さん、たまにはネクタイをとりかえろよ。くつ下には穴があいているじゃないか」
「ぼくもこの四、五日、そう思うのやが、めんどうくさいから」
 徳義がとりかえないのは、ネクタイやくつ下ばかりではなかった。カラーもなかなかにかえない。鼠色したカラーがしばらく襟にかかっている。旅行が進んで、パハロウ市に着いたときには、焼きつくような暑さで、人々は毎日のようにカラーをとりかえねばならなかった。
「富さん。カラーがよごれすぎているじゃないか。先生に叱られるよ」
「この暑さでは、とりかえたって、汗ですぐよごれるさ」
「でも、西洋人の前であんまりよごれたのはしないほうがいいよ」
「そんなときは、君、とりかえるから心配無用」
 とすましている。
 いよいよ一行がホーム・ライフを経験すべく、西洋人の家庭に分宿することになり、富永と私とが連れになった。バハロウ第一のホテル・ストートラーでみんなが別れ別れになろうとしたとき、
「やあ富さん、カラーを新しくしたね」
 だれかがとんきょうな声をあげたので、一同思わず富永の襟元を凝視すると、なるほど珍しく真白なカラーをしている。すると近くにいた一人が、
「おや変だなあ、このカラーは妙にしわがよっているじゃないか」
「そうや、新式や」
「やあ、なんだ裏返しじゃないか」
 たちまちその正体をあぼかれてしまうと、本人フムフムと笑いながら、
「あんまりみんながうるさくいうから、とりかえようと思ったが、やっぱりめんどうだから裏返してみたんや。夜だからわからんやろう」
 に一同あいた口がふさがらず、「富さんにはかなわぬ」と嘆息している中を、ゆうゆうと出かけてゆく態度。米国も何もあったものではない。

二百五十ドルのおみやげ

 それほど不敵な富永でも、大いにきも玉をでんぐり返したことがあった。
 フィラデルフィヤ、ノルマンデ・ホテルの一室から出てきた富永が、浮かぬ顔をしている。
「富さん、どうしたんかい?」
「ウム、大エラーをした。胴巻をベッドの枕の下へ置き忘れて食堂へ行き、気がついて引き返してみると、もうありゃへん」
「なんぼはいっていた?」
「わずかやが、全財産や。二百五十ドルばかり」
「二百五十ドル! 豪勢な金持じゃないか。みんなもう空ッケッになっているのに、さすがに富さんだね」
「胴巻の中ヘポツンと入れておいたのか?」
「いや、胴巻の中にウコンの財布に入れておいた」
「ウコンの財布に? まるで山崎街道の与市兵衛のようじゃないか」
「泥棒はそのウコンの財布が気に入ったのだろう」
「なあに、その色の変った胴巻がほしかったのだよ」
 若いものの集りである。同情はしているものの、減らず口をたたいている。
 日本人学生の三神修君がいろいろ捜索してくれたが、手がかりがない。
「どうもアメリカの警察は頼みにならないからね。訴えてみたところでむだだし、困ったことをしたね」
「しかたがない。富さん、あきらめろよ」
 みんなガアガア騒いでいたとき、その胴巻は正直なルーム・サーパントの手に納められてあったのが、帳場からの知らせによって無事富さんの手に帰ってきた。
 富さん三拝して受けたが、なにがしをそのサーバントに呈上し、ニューヨークに乗り込むやいなや、大胴巻をかなぐり捨て、ウコンの財布から取り出した大枚二百五十ドル、きれいサッパリ国へのみやげと化させてしまった。
「ああこれでわしも清々した。なまじっか金など持つものじゃないわ」
 母親の情で乗船のとき渡された財布、ハワイで両替するとき、その在中の金額を知った富さんは、じらい三ヵ月間、深く胴巻に秘めておいたのであるが、この事件にすっかりおそ毛をふるい、両親知友へのみやげを買い入れて身軽になったわけである。


大投手五郎の出現
涼しい目の美少年
 大正中ごろの戸塚グラウンドはまだ昔のままのみすぼらしい姿であった。コーチとしてワン.シーズンを過したばかりの穂洲は、数人の選手を送り出したあとを、秋のシーズンめがけて新編成のティームに熱をそそいでいた。いま私が、グラウンドのそばに建っている乞食小屋のような更衣室にはいろうとしたとき、うしろから声をかけたものがある。
「あなたが飛田さんですか?」
 見ればかすりのひとえに小倉のはかま、ほお歯のげたをはいた、色白の涼しい目をした中肉中背の美少年、
「ぼくは大連から来たものです。早稲田へ入学してボールをやりたいと思うのですが」
「大連から、じゃ大連商業の出身かネ」
「いいえ、学校は釜山の商業なんですが、今まで大連におりました」
「なんというのだ、君は?」
「谷口五郎と申します」
「谷口……では釜山商業のピッチャーをしていたのだネ」
「そうです」
「さあ編入試験が全部すんでおればだめだが、今だれかやって学校のほうを聞いてみようから、しばらく待ちたまえ」
 そこで私はけいこ着に着がえて、グラウンドへ出た。グラウンドでは各選手が出そろってウォームアップしている。松本、有田の投手、久慈、永野の補手、高松、富永、石井、久保田の内野、田中、大下、堀田、加藤らの外野陣がハチきれるような元気であった。
 谷口五郎と名のる青年は、初めて見る大学選手の練習に目を輝かしている。そこへ学生マネージャーが来たので、私は大学の事務所へやって編入試験にまにあうかいなかを問い合わせたところ、まだ政治経済科が締め切っていないという返事であった。
「政治経済科なら入学できるというから、さっそく手続きをしたまえ。手続きがすんだら練習に来るがいい」
 青年は欣然としてグラウンドを去った。
 翌日から谷口はユニフォーム姿でグラウンドに現われた。左ききの相当なスピードを見せてはいたが、どこに取りえのあるというほどでもなかった。ただ投球フォームの美しさと弾力性に富んだからだのコナシに大いに見るべきものがあったし、松本、有田の右投手に一人の左きき投手を得たことはティームのよろこびの一つに相違なかった。
 かくするうち、秋の大学リーグ戦が開かれ早稲田は法政に二勝したけれども、対明治一回戦には、有田、松本両投手を使いながら三対一で敗れた。第二回戦は松本が善投し、味方の攻撃すこぶる当り、十五対三に開いて早稲田の勝となりいよいよ決勝戦となった。

剛球投手の渡辺大陸
大投手五郎の出現
 明治の投手は渡辺大陸で、捕手は岡田源三郎、一塁は慶応から転校した鍛冶、中堅には粕谷がいた。その年が暮れれば早稲田はシカゴ大学の招へいを受けて渡米する約束であり、この一戦はその遠征運命を左右すべき一大事であった。
 安部部長は決勝戦前私に向かって、勝敗にあまり拘でいすることはいけないけれども、明治の決勝戦に負けるようなことがあれば、一年間渡米遠征を見合わせたほうがいいと思う。あまり弱いティームをひっさげて米国を旅行することはお互いに苦痛であるから、という意味の決意を示された。
 負ければ渡米がフイになる。先生の言葉を私は選手に伝えはしなかったが、心の中ではぜひ勝たねばならぬ、選手はもう明年の渡米を楽しみにしているのだから、これが中止ということになればどんなに失望するかもしれない。どうにかこの一戦だけはものにしたいと苦悶したが、私にもまったく自信はなかった、というのは明治の投手渡辺大陸がこわかった。
 渡辺君はある事情から明治の投手として終りをまっとうしなかったため、小野、谷口、竹内、湯浅の列から離れたけれども、その全盛時におけるスピードならあるいは右四投手をりょうがしていたかもしれない。ただ惜しいかな、ややコントロールに欠ける点があったのと、走者を出してから大きなモーションを気にして横投げに移る投球法が敵をして乗ぜしめるすきを与えた。しかし、制球よろしき日の同君は、巨人無人の境をゆくという威風にボックスを圧していた。プレートの態度もよく愛すべき敵でもあった。
 けれども一度荒れだしたら収拾することができないまでに乱れる。だからわれわれはそれを待ってつけ入るほかに方法がなかった。まともに取り組むことができないから、敵のくずれに乗ずる戦略から、ひたすら待球法をとるほかに道がない。一度、明治が芝浦で大毎と戦ったとき、大毎は安打なしに三点を得たことがある。渡辺君のノウ・コントロールが四球から四球と続いてみごとに押し出したのである。大毎はボールに球を当てずに楽々と得点した。
 渡辺君は惜しげなく四球を出したばかりでなく、死球をくらわすことにも第一人者であった。慶応の打者も、早稲田の打者も、渡辺君からどれほどのデッドボールをちょうだいしたかしれない。大正十一年の春久保田幀が頭部に受けたそれのごときはもっとも代表的のものであって、久保田ほどの負けじ魂を持った男をして、もう大陸の球は打てぬと嘆息せしめ、ついに早稲田から二勝を奪い去ってしまったなどのこともあった。
 すべての打者が渡辺君に対して、逃げ腰の構えをして立つから、風を切ってプレートを切る速球、カーブには全然手が出ない。大毎軍などはきわめてボックスの遠方に立ってひたすら生命の無事ならんことを願うというありさま。三点も得ておけば味方には名投手小野が控えているのだから、勝利は疑いなしと安心して、お義理一片に打席にはいるというふうにもみられた。
 ところがそのうち渡辺君のコントロールは調子に乗ってスポリスポリ、ストライクとなる。大毎の打者はベンチからベンチへ引っ返してくるうちに、明治の攻撃に運がむいて、一挙四点を奪うという騒ぎ、大毎軍これはとばかり、ろうばいしたが、渡辺君の剛球はズバリズパリと打者を料理して、快然たる勝利を味方のものとした。
 こうした試合は渡辺大陸の球歴にはたくさんあるであろう。玉にきず、渡辺の出来不出来、この秋の二回戦のごとき、十五対三の大敗を早稲田に喫したのも無制球の悪日であったからで、さもなければ早稲田は一回戦同様難戦に陥っていたに相違ない。だから明治軍は渡辺の上出来の日を頼みとし、相手方は不出来の日を願望する。さて十月十八日第三回戦の日、渡辺のコントロールはどうした卦に出るだろうか。早稲田がこの試合に負ければ渡米の夢は泡と消えるのだ。コーチの胸の中に万全の策がない。私は駒沢グラウγドのベンチの上に腕を組んで、松本を出そうか、有田を出そうかに迷っていたとき、キャプテン高松静男がかけ寄って来た。
「谷口がすてきな球をしています。思いきって谷口にしてはどうですか?」
 野球の研究には、愛知一中以来苦労した高松、これが見当をつけたのなら大きな誤りはなかろう。しかし久慈にもと思ったので、ひそかに次郎の意見をたたくと、
「さあ若いからな、アガらなければいいが」
「球の力はどうだ?」
 「それはいいです。アガリさえしなければ大丈夫です」

初陣で明治を完封
 若い投手を大事の試合に初陣させてうまくいかなければ、だいなしにしてしまう。勝ちたい一心に谷口の将来を暗くさせるのは不親切きわまる話だ。どうしたものかなあ、もう試合開始の時間がきているのにかんじんの投手が宙に浮いている。そこへ谷口が練習をすませてニコニコしながらベンチへ帰って来た。悪かったらすぐ代えればいい。やっつけろ、意表に出るのも悪くはなかろう。
 若輩谷口がプレートに進むと、はたして明治方はあっといって驚いた。谷口はさすがにアガっていた。練習の第一球を地面にたたきつけて球が後方のネットにはね返ると明治方の見物人がワーッといって歓声をあげる。
 新進投手の女房役としてホームにがんばった久慈次郎はぬけ出したボールを見向きもせず、
「チョッピーちゃん、その元気でやれ」
 と励ました。チョッピーは五郎のあだ名である。その由来は何しろ大戦争の前だから預かっておく。一代の名捕手として英名を残すほどの次郎、巧みに新進の上気を押えて、なお一、二球投げさせたが「それでいい、もうたくさん」といってマスクを握り、谷口に向かって笑いかけた。紅潮した五郎もニコリとした。五郎の笑顔はかわいかった。
大投手五郎の出現
 鍛冶の緩打が二度二塁横に転じて、足のプレーヤーであった彼が一塁へ生きたきり完全な投球記録がこの新投手によってとどめられた。試合は八回日没のためコールドゲームとなり、八対○の快勝を早稲田にもたらした。新投手を思うさまノックアウトして快勝を得る算当が、谷口の决投にまったく息の根を止められたばかりでなく、渡辺の出来が思うようでなかった明治は潰滅の悲運をみた。
 谷口の名声は一時にあがった。久しく投手に苦しんでいた早稲田に春が来たように戸塚のファンは喜んだ。その秋の試合における谷口は、関西学院との定期戦に無安打無得点の記録を残し、米国商売人との第一回戦に出場するなど、好評わくがごときものがあった。
 ことにその好投を裏書したものは、大正十年渡米前芝浦で行なわれた、復活三田稲門戦、第二回における小野三千麿との一騎討ちで、あたかも早慶戦のごとき人気のもとに行なわれた試合にみごとに勝利を得、その天分の豊かさを十分認められた。
 けれどもそのころの谷口は、得意の速球とそれが補助に使う曲球とによって、外形的ピッチングをなしたにとどまり、苦労というものがないから深さというものがなかった。
 だから米国遠征中の前半における彼の成績は、期待したほどのことはなく、ことにハワイの戦績等は一として見るべきものがなかった。しかるに渡布の船中松本病み、また有田が健康を害するに及んで、彼は渡米軍の投手中孤立となってから、その責任上毎試合投球しなければならなくなり、連日の試合に酷使されるというはめに陥った。これが期せずして彼を大成せしめる因をなし、転戦三十回、彼の技倆は日に日に大きな進歩をみせるにいたった。
 渡米第一回のシカゴに四対二の惜敗をこうむったのが大正十年の五月十日で、十一日から十六日までの間に四回の試合を中西部各大学と試み、インディアナ大学に快勝して同十七日にはシカゴに帰着した。十八日はシカゴ大学との第二回戦で、これはぜひとも勝たねばならぬ試合であった。私は今日こそ谷口を陣頭に立てて思うさま戦わねばならぬ、必ずしも強いとは思われない相手、強敵インディアナに勝ったほどの技倆を現わすことができれば、当然早稲田のものとならねばならぬ、と意気ごんでいた。
 試合は十八日の午後スタッグフィールドに開戦、谷口、久慈のバッテリー、二塁富永が負傷のため出場ができなかったので、松本をすえて陣形をなした。ところが頼みとせる谷口の疲労は極度に達していたものか、最初からシカゴに大きく打たれて、刻々に不安は加わっていったが、ついに第四回には三単打と一本塁打に三点を奪われ、第六回にも二個の安打に一点を与え、味方は久保田、田中らの安打に二点を入れたけれども、四対二とリードされた。

初めてシカゴ大学に勝つ
 この間谷口はベンチに帰るたび、私に苦痛を訴えるのであったが、有田も使えぬこの場合どうすることもできない。だましたり、すかしたり、本当に少年投手を使うようにしてやっと七回まで無理を押してきた。しかるに第七回にいたって谷口はベンチから動かない。
「もう、とても投げられません。かんぺんしてください」
「だってあと二回きりじゃないか。だれも代るものがないのだから、がまんして投げてくれ」
「とてもだめなんです」
 ベンチには有田と、永野と中村とがいて、安部先生は中央に黙念としておられる。私の血はすでに逆上していた。
「やれ、肩が抜けても本望じゃないか。君は本当の早稲田野球部精神というものをまだ知っていない。死ぬまでやるのが早稲田の選手なんだ。アメリカへ何しに来たのだ。今日すぐ日本へ帰っちまえ」
「チョッピーちゃん、もうほんの少しだ、やってくれ、な」
 永野重次郎がベンチにうつぶせになっている谷口の肩をかるく押えながら、なだめている。味方はすでにシートについている。谷口はコーチの怒声と、僚友の暖かい言葉に動かされたらしく、顔を上げて立ち上がった。その目には涙が光っていた。
「やるか」
「やります。キット」
 こういいすてて一歩二歩プレートの方に五郎が歩きだしたせつな、
「飛田君!」
 厳然たる声が私の後方に起こった。安部先生である。
「投げられぬというものをむりやり投げさせようという法がありますか」
「でも」
「でも、ではありません。他の人を投手になさい」
「ハッ」
 鶴の一声、こうなってはもうとり返しがつかない。議論の余地もない。先生の一言は絶対だ。
 私はかわいそうだけれど、病肩松本に投げさせるほかにないと思ったが、どうせこうなれば、いちばん肩の強いものを選ぼうと思ったので、遊撃久保田幀をベンチに呼びもどし、ピッチャーをやれと命じた。久保田は威勢よく「やりましょう、シカゴなんかに打たせるもんですか」とたんかをきって中央に乗り出した。ここでシートの大部分を変えねばならぬ。三塁の石井を遊撃、左翼の加藤を三塁、一塁の高松を左翼、捕手の久慈を一塁、永野を捕手というように一変せざるを得なかった。そこであまりいまいましいし、惨敗せる昔の夢を追うように先生の前にまかり出て、
「先生、ぼくが二塁にはいって戦いたいと思うのですが、許してくださいませんか」
 先生は、私が精神に異状でも呈したのではないかと思ったらしく、しばらくは私の顔をみつめておられた。
「あなたはコーチではありませんか」
「先年シカゴのコーチ、ページが日本で出場した例もあります」
「いけません、あなたはベンチにいなさい」
 厳然として命令が下された。私はスゴスゴ、ベンチに腰をおろして、敗戦の迫った試合を凝視した。スコアは四対二、久保田は初めてのプレートに踏んぼってみたが八回に一点を献じて三点をリードされた。もはやまったく望みなき九回を迎えて、シ軍攻め入らず、早稲田はべープ田中が三振していよいよ断末魔が近よったとき、久慈が遊撃に安打し、続いて小冠者石井が同じところへ安打した。しかし大下は二塁ヘゴロを送って石井を封殺し、走者一、三塁という絶望的の攻撃、打者は永野の順となった。
「重公やん、死んでも打つんだぞ」
 富永徳義がベンチからつっ立って永野を激励する。聖人のごとき永野は黙々としてこの言葉を受けて打席にはいったが、第一球をみごとに憤打して左翼手のピアスの頭上をはるかに越す三塁打を飛ばし、加藤高茂の軽打が三塁線上に止まって安打となり、まんまと同点となった。早稲田渡米軍シカゴを訪う前後三回、まだ一回の勝利を得たこともないのであるから、この猛襲光景を見た在留邦人のよろこびは何にたとうるものもなかった。五対五、試合は十回にのびた。
 けれども急造投手はここで四球と三塁打をあびスクイズ・プレーをくって、二点を強奪された。もう第十回、泣いても笑っても最後の攻撃である。二点の負担はあまりに重い。
 松本遊匍に退き、高松三塁に安打し、二塁を盗んだとき、田中三塁線上に安打して高松を還し、久慈再び遊撃に安打し、走者一、二塁を占め、石井現われるや、シ軍たまりかねたか古参投手クライスラー(シ軍とともに来朝した)に代えた。石井二塁に軽打して走る。二塁手これを誤り、田中三塁を遠く離れて牽制するや、二塁手あわてて三塁に悪投した。この虚に乗じてざーブは本塁に殺到する。三塁手また本塁に殺到する。三塁手また本塁に悪投、久慈も追いかけて生還。大激戦は早稲田の奇勝となって、スタッグフィールドに歓声わくがごとく、米人までがスタンドから続々降りてきてよろこびの握手をしてくれた。

たたきこまれた早稲田精神
 この日以来、谷口のゲームに対する態度が一変した。それまでの彼は入部日なお浅く、何かにつけて甘えるふうがあった。人物のそろっていた当時のティームは、若くしていち早く名声をあげた秘蔵投手に硬教育を施そうとはせず、のんびりと育てていた。いわば、谷口はお坊っちゃん扱いを受けていたから、真の部風をうかがうことができずにいたのも、むりがなかった。しかもこの日だけは実地に注入された。ホテルに帰って機を逸せず、久慈次郎らの峻厳なる忠告をうけたらしく、彼の胸奥には早稲田野球部のために骨が砕くるまで、という大決心が植えつけられた。
 その後の彼の進境は実にめざましいものがあった。ハーバード、エール、ペンシルヴァニア諸大学との投球成績のごとき、思うままに米大学選手を翻ろうした。ことにもっともけんらんたる投球を示したものは、六月二十八、九両日に行なわれたミシガン大学との試合であった。ミシガンはそのころ二年続けざまにビッグ・テンに優勝したティームで、中西部唯一の強猛として知られていた。
 この試合を谷口に勝たせていたら終生彼の自慢になったのであるが、第九回敵の主将パンボンという巨漢にファウルのストライクを取ったあと、第二球を高く近く釣ったところ、これを無茶振りされて、流星のごときライナーが左翼線近くに飛び、馬車馬と異名をとった加藤高茂が、けんめいに追いかけ球に及んだのであるが足のもつれで後逸し、球はミシガンの広茫たる外野を無心に転々、加藤はいつまでもベンチに帰ってこなかった。それほど遠くに転がったのであるから、その結果は推して知るべく、谷口は悲壮な顔をしてベンチに向かって歩いていた。
 帰朝後の谷口は、りっばに先輩小野に対抗しうる腕前になっていた。小野、谷口の対戦はクラブ戦ではあったが、日本球史にすこぶる輝かしいページを残すもので、この二人の大投手を引き離すわけにはいかぬ。谷口五郎が大学選手生活の誇らしい球歴の中に置きみやげとしたものに、逆モーションというものがあり、一世を騒がしたものだった。

谷口の逆モーション
 大正十一年秋は、谷口五郎が早稲田選手として最後のシーズンであった。技風いよいよ円熟して大投手小野と対立し、三田稲門戦の人気はいやがうえに沸騰していた。
 大正十一年の秋のシーズン初めに谷口は、逆に行なうワインドアップをみずから習得して、練習試合に味方の打者を面くらわした。妙な腕のまわしようをするじゃないかといえば、ぼくが今度発明したのですよと笑っていた。私は単なるワインドアップとして気にとめずにいたが、それを対法政第一回戦に初使用して、自信を得、越えて十一月一日芝浦協会球場に行なわれた第一回三田稲門戦に使って、はしなくも物議をかもした。
 逆モーションといわれた谷口のワインドアップは、普通左に腕を回転するのを、その反対つまり右に回転して投球するというだけで、考えてみればなんの変哲もないものであるが、初めて見たものには怪奇なるワインドアップに見え、打者はことのほかげん惑されたらしい。ここにおいて、三田はボークを主張し、審判芦田君をてこずらせた。しかし芦田君はボークとは思われぬといってこれを退け、とにかく試合は終了したが、あくまで、ボークと信じきった三田方は、新聞紙を通じて盛んにボーク説を吹聴し、あるもののごときは谷口の人格に関するまで痛攻撃を加えた。これが若年、谷口のしゃくにさわった。
 稲門方ならびに谷口の主張は、走者のない場合にボークの規定はないではないか、しからばワインドアップは右からしようが、左からしようが、自由でなくてはならぬというのであった。しかも三田方はしからずとなし、両々相反目し、第二回戦には試合前、芦田審判を通じて、この逆ワインドアップを廃止すべきことを申し込んだ。一、二の稲門方は谷口に向かって、三田方の要求をいれてはどうかと忠告したけれども、谷口はがんとして応じなかった。谷口のいい分はこうであった。
「規則上でも明らかにボークでないと主張しうるし、審判もボークと認めないという。ボークでないものをなぜ禁止するか」
 もっともこれは理屈のみでなく、谷口が敢然三田方の要求を退けたのは、感情上であって、人格に及ぶまで攻撃されていなかったなら、彼は快くこれをいれていたに相違なかった。
 稲門方は、他の投手によっての勝利はおぼつかないので、三田の要求をはねつけ、審判に一任するということになって、開戦した。これがまた三田方の感情をそこねたこというまでもない。

谷口をからかった高浜茂
 先攻の三田は、高浜茂が第一打老であった。この高浜君は神戸出身のプレーヤーで、令兄徳一君は旧早慶戦時代の驍将《ぎようしよう》であり、優秀な技倆を有し、あかぬけした試合のかけ引きは、明治大正にかけての花形といっていい。
 高浜君は慶応にあって、あるいは捕手であったり遊撃手だったりしたこともあったが、その天分をいかんなく発揮したのは外野手であった。快足という感じではなかったけれども、そのスタートの早さはまれに見るもので、広範な守備範囲を有し、しばしば驚嘆に値するような美技を演じた。一度慶応綱町のグラウンドで、マニラ陸軍ティームとの一戦に現わしたファイン・プレーのごとき、まったくの神技に類するもので、私の今日までの観戦中にかくも美しいプレーを見たことがない。今もその鮮かさは、はっきりとアタマに残っている。まず天才肌のプレーヤーというてしかるべき人であった。
 それが慶応を出て大毎軍に加わってから、いよいよ打力を増し、三田稲門戦には谷口のおそるべき敵であった。まことに海千山千の老かい、試合度胸万点というのだから、若い谷口にはまったくの苦手であり、たびたび毒薬を飲まされている。
 高浜君は、パットをかるく振りながらボックスに進んできた。谷口はすでに興奮の頂上にあった。いきなり逆ワインボアップをしてピュウと投げこんだ球は高いボールとなった。すると高浜君はむろん悪気ではなく、若い投手をからかってやれという、ちゃめっけからであったろうが、谷口に向かって長い舌をペロリと出してにやりとやった。これを見た谷口はカンカンになってやつぎばやに第二球を投じたところ、不幸これが高浜君の腕を射ってデッドボールとなった。
 かんじんの投手が平静を欠いては、もはやとり返しがつかない。試合は刻々稲門の不利となったところ、二度めにボックスに現われた高浜君は、またもや死球をくらった。さあ高浜君も承知しない。憤然としてバットを谷口に投げつけたから、ここで野球は闘争に早変りしたけれども、双方がなだめて試合はからくも進行した。しかし不愉快なめちゃめちゃ試合に終ったのはいうまでもない。
 さあこのけんか試合の評判はたいしたものであった。その日安部部長は何かのさしつかえがあって、試合を見られなかったが、さっそくこの事件を報告するものがあり、注釈されたけんか場は、かなり谷口に不利なものであったらしい。
野球闘争の心理
 当時私は〜早稲田の世話人ではあったが、試合場が芝浦であったため、稲門のベンチはいっさい先輩に任せていたから、はたして谷口が故意の死球を高浜君に与えようとしたかどうか、不明であった。しかも問題になるとすれば、この点にあってほかにない。さっそくその夜、私は谷口を呼び寄せた。興奮のまださめきれぬ彼は、悲壮な顔をして私の前に現われた。
「あんなに興奮してプレートに立っちゃいけないじゃないか」
「だってあんまりヒトをばかにするんですもの」
「まあ逆ワインドアップのほうは、むろんこっちの主張のほうが正しいと思うが、高浜に二度もデッドボールをくらわしたことはどうしたことだ。おまえの平生のコントロールから考えてふにおちない点があるが」
 谷口は、だまっている。
「どうしたんだ男らしくいえ。けんかだから一方ばかり悪いとは断じられないが、先方は社会人だから三田方から寛大な取扱いを受けるであろうが、おまえは学生選手だから、そこに相当むずかしい問題が起こると思う……」
「いや、それは承知しています。野球場でけんか腰になったことが、野球部の体面を汚すというのでしたら、いかなる罰も受けますし、いさぎよく選手もやめます」
「うム、しかしそれは安部先生の御意見にあることだから、自決するようなことがあってはひきょうだけれども、とにかく安部先生からご相談をうけたときの参考のため、投球せつなの心境を聞いておきたい」
「ヒトをばかにした失敬なやつという感じはずいぶん強くきました」
「しかし高浜をめがけてタマをぶっつけたわけではあるまい」
「さあどうかわかりません」
「どうだかわからんということがあるか。自分のことじゃないか」
「でも」
「でもということがあるか、精神病者というわけではあるまいし。では何だな、その瞬間デッド・ボールにでもなっちまえというすてばち投球をしたというのか」
「まあ、そんなものかもしれません」
「よし、わかった。明日先生からなんとかいうてくるだろうから、それまで謹慎しておれ」
出場停止のお目玉
 翌日先生は谷口を召喚することなしに、いきなり押川先輩を招いて谷口除名のことを相談した。押川先輩は事情を詳述して、ひたすら寛大の処置を乞うたけれども、先生はききいれようとしない。
 そこで押川君はいったん先生のもとを辞し、合宿に引きあげて私の意見をただされた。
 私としては除名は不服であった。谷口の態度は悪かった。むろん懲罰は免れない。けれども除名するほどのことはあるまい。後来を戒め、謹慎を命ずる程度で、許してもらいたいと思った。
もし谷口が除名されることに決定するようであったら、コーチとしての責任上、私自身も引退すべきだと思った。そこでもう一度、先生に哀願してほしいと、押川先輩に命乞いを懇請した。選手一同も、クラブ戦に起こったことであるから、とくに寛大な処置を願うという、意見をもらし、押川君は再度先生をたずねて、コーチならびに選手の意のあるところを伝え、哀願した。
 先生はしばらく黙念としておられたそうであるが、「重要なるがゆえに、曲事があっても寛大の処置をとるということであっては、早稲田野球部本来の精神を滅却するものであるから、それは断じて許されない。しかし選手一同も、先輩諸氏も、谷口君が故意に高浜君に死球を与えようとしたのではあるまいと推測するというならば、除名はしまい。しかし公開の試合場にあって非難を受けねばならぬような態度を示した点だけでも、捨ておくことはできないから、十月中試合出場禁止を命ずる」
 これには押川君も一言もなく退下した。選手中には、これにも不服を唱えたものもあったが、押川君や私に説服されて、いよいよ谷口は、逆モーションが因をなして、十月中出場禁止の処分を受けることになった。その日の午後、谷口は部長のもとに呼ばれて宣告を受けたのであるが、このとき先生は、
「相手が非礼をしたからとて、これに報いるに非礼をもってし、暴をもっていどまれたから、暴をもってこたえるというがごときは、当部精神に背反する。相手はどうあっても、みずから制して乱れないところに、野球選手の真面目がある。当部精神確立のためには、どんな犠牲を払うも意としない。今後十分気をつけられるように。今月中試合出場を禁止します」
 この事件が起こったのが十月九日であるから、谷口の試合出場禁止は約三週間にわたるもので彼はひたすら謹慎を守った。

逆モーションはボークでない
 しかも問題の根源をなした逆モーションは、容易に解決されそうもなく、長く問題として日本野球に残されんとした。ときあたかもハーバート・ハンターの率いる米国大リーグ選抜ティームに加わって審判モリアリティが来朝した。
 一行を横浜港に出迎えた安部先生は、慶応野球部関係者、ならびに先輩等立会いの上で、さっそくこの問題に関する規則の解釈を求めたところ、モリアリティは言下に、
「ボークではない、走者のないときにはどんなワインドアップを用いてもさしつかえない」
 と断じた。このあまりに明快な決裁は、谷口に対する名誉の勝利というべく、彼は久しぶりに莞爾《かんじ》として対商売人試合に快投し、早稲田は四対二という大善戦をするにいたった。モリアリティは試合場においても、谷口にそのワインドアップをさせ、ザッツ・オーライと承認してから、米国にもこうしたワインドア、ップをしたものがあったが、投球に不利益であるため、今は、はやらないとつけ加えた。
 一時大評判となり騒動までひき起こした谷口の逆モーションは、彼一代のワインドアップとして消えたが、これもまた谷口の名をいっそう輝かしいものにした一つであったにちがいない。


義人重次郎
 谷口の華麗にひきかえ、これはまた地味一点ばりの女房役として、模範的選手だったものに永野重次郎が思い出される。永野は久慈のあとを襲った同じ盛岡出身のプレーヤーであった。
 正直一途というか、ストレート・ボールのごときその性質には、古武士的風格を備え、しかも人情味に富み、仲間から重公《じつこ》やんといって愛敬され、彼の主張することなら、仲間はなんびとといえどもすぐに賛意を表した。
 ある晩秋の夕暮、永野が電車終点のほうから戸塚グラウンドへ抜けて合宿へ急いでいると、一人のみすぼらしい職工ふうの男が近よってきた。
「もしもし旦那。ちょっと」
 永野は立ち止まってあとを振り向いてみたが、だれもいない。今の戸塚グラウンドの近所は急に発展してにぎやかになっているが、スタンドができる以前のあの辺は、さびしいものであった。
自分に声をかけたことを知った彼は、
「なんだ、なにか用か?」
「へえ、実はおれはある会社の職工をしていたのですが、病気のためクビになって食うことに困っているのです。いつまでもこうしていると餓死しますから、生れ故郷へ帰ろうと思うのですが、旅費がありません。すみませんが、助けると思って少しばかりめぐんでください」
「そうか、それは気の毒だな。国はどこだネ」
「福島です」
「福島、そうか、ぼくは書生っぽで、親のすねかじりだ。君に金をめぐむほどの余裕はないが困るといえばひとごとじゃない」
 すこぶる同情した重公やん、金二円何十銭在中の財布をそのまま快く呈上して別れた。ところが、中二日をへた夕暮、再び同所を通ると、同じ事情を訴えて重公やんの袖にすがった。重公やんしばしあっけにとられていたが、
「同じトリックを幾度もやっては、アウトにならないよ、別なトリックを考えなくちゃあね」
「ヘッ、ペッ、この間の旦那ッ」
「君に財布ぐるみやっちゃって、何もありゃしない。だが君もよくよく困るだろう」
 たもとの中に手を入れると五十銭玉一つ、きまり悪げにしりごみする彼の手のひらにのせて、
「根性をなおして、まじめに働くがいい」
 永野にはこうした寛大さもあった。

寝床の下のウイスキー
 大隈記念事業後援のため、各所の校友会から招かれて転戦したとき、一行は名古屋に入り、同地の全名古屋軍と一戦し、ここに一泊した。
 何かの用事があって、選手の部屋を訪ねると、もう床がはいっていた。有田富士夫が一人ぽつねんとしていて、だれもいない。私が敷きつめた床を踏みながら、有田の方へ近よって行くと、私の足ヘコロリと堅いものが触れた。なにげなく床を跳ねのけて見れば、これいかに、そこにはウイスキーの小瓶がしおらしく鎮座している。とり上げた私が、いきなり有田に向かって、ここはだれの床だとたずねると、
「さあ……」
 困った顔をしてすぐ返事をしない。
「お前のか?」
「いやぼくのはこの端のです」
「ではだれのだ」
 私が追求すると、いよいよ困惑の情を現わした有田は、
「だれだってまだきまっていないでしょう」
「そうか、ここにはだれとだれが寝ることになっている?」
「まだはっきり決まっていないのではないのでしょうか」
「そんなことがあるものか、宿についたとき、ちゃんと割り当てられているはずだ」
「ぼくはよく知りません」
 要領のよか?た有田は同僚に迷惑のかかることをおそれて、白状しない。
「よし、じゃこれをぼくが預かっていったと本人にそういえ」
 私が自分の部屋にひき返して間もなく、あたふたと重公やんがはいって来た。
「どうもすみません。かんべんしてください」
「あれはおまえのか」
「そうです、私のに相違ありません」
「なぜ、安部先生から厳禁されているものを、ひそかにしのぼせておいたか」
「まことに申しわけありませんが、実はこういうわけです」
 といって誠実重公が語り出したところを聞けば、彼は旅行ぎらいで、旅に出ると神経衰弱のようになって眠られない。いく日も旅行がつづくとやせ細ってしまう。今度もそうした難渋をつづけてここへ来たところ、友人が訪ねてきて大いに同情し「寝るまえに一杯ずつぶどう酒を飲むがよい。自分が進上しようというので出かけて行ったが、あいにくぶどう酒がなかったので、ウイスキーのほうがもっとよくきくだろうと、親切に買ってきてくれました。これは困ったと思いましたが、せっかくの志をつき返すわけにもいかず、心ならずも、寝床の下へ入れておいたというわけで、決して悪心を起こしたわけではないのですから、内密に願います」
「いや、いかん、事情はどうあろうとも、古参選手が禁を破るという法はないから、これは安部先生へ永野のみやげだといって東京へ持って行こう」
「そんなこといわずにかんべんしてください。まだ一滴も口にしていないのですから」
「まあ、平生の行ないがよいから、一晩考えて明日の朝返事をしよう」
 あくる日の早朝、永野は心配そうな顔をして、私の部屋へや「今日、浜名湖へ行くから、湖の中へ沈めてしまえ」
 といって永野に渡してやると、彼は欣然として出て行った。今でも恨みのウイスキーが浜名の湖底に沈んでいるかどうか、これは有田と永野の白状を待つほかはないわけである。永野は藤田と改姓している。

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