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飛田穂洲「熱球三十年」2

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だれでも歓迎! 編集
懐しの球友
野球との心中
 野球と心中、それが前世からの約束ごとでもあろう。生きてきた七十余年、ふりかえりみるなら、野球のほかになにものも残らない。女房子供のあるのがふしぎにも思える。少年時代人なみに描いていた希望も野心も、一度野球に対面したが最後、すべて雲散霧消、きれいさっばり、空想にも英雄豪傑と別れを告げてしまった。大臣大将の夢とボールの現実とを、いさぎよく引きかえにした、穂洲庵忠順愛球居士の末路が、さていかに落ち着くかは、熱球三十年にして終るか、四十年、五十年に生きのびるか、その心中たるや悲愴をきわめるか、はなやかではなくとも、得心のいくものとなるか、むろん穂洲庵自身にもわからないし、世間のだれにもそれを占うことができまい。ただ、この鍵を握っているものは、つれそうてきたボールのみであろう。
 磯節に明ける大洗小学校の巣立ちから、老松に暮れる水戸佐竹城趾のグラウンド、目白の若葉を一望にした戸塚球場と、血にうえたる虎のごとく、ボールを追いかけて、青春のうたを忘れた狂球児の生涯に、恋の色どりもなければ、マネキン英雄たるべき危険もなく、一路平たんにしてやぼの典型、語るにつやのないのが気はずかしい。
 けれどもボールと心中すべき運命を、いまさらのろっていないこともはっきり断わっておける。大臣大将になれたら、それもうれしかろうし、大実業家、大教育家になるのも悪い気持ではないに相違ない。
 しかし、しがない生活と、よそ目に見られる中にも、楽しみのあることをあだに見てはならない。冷笑される私の生活の中にも人知れぬ楽しみがあり、私の周囲というものは、ファッショ化におそ毛をふるったり、ピストルに戦りつし、ストライキや、思想取締りに頭痛をやむ心配がない。天心のボールが打棒の指令一下に動き、投手の指先ひとつに変転するグラウンドの動きを凝視しておればいいのだ。
 しかもそれが青空の下、秋は晴れたり心気はさわやかなり、そこに邪念の起ころうはずもなかろう。
球友をもつよろこび
懐しの球友
 負け惜しみだとあざける人もあり、いい年をして野球でもあるまいと、ののしられることも承知せねばならない。けれどもまんざら味方のないわけではない。神宮五万、甲子園八万の同志は、苦楽をともにしているともいえる。これでなにが不足であろう。つやのない生活であっても、天日を楽しめるその日その日、うらやむものはなかろうが、みずから平静な自分自身を見出しうる。大政治家たちの誇りはなくとも、彼らには知られぬ世界がある。
 逝ける大剣士内藤高治は、大杯を傾けて陶然とすれば、他人の脳天をたたいて礼をいわれる剣士の余徳を自賛したというが、まったく世の中に人をたたき伏せ、投げとばして恨みもかわず、かえって、先生ありがとうございと、心から礼をいわれるのは、剣柔道教師のほかにめったにあるまい。はなやかな商売のおう歌される現代に、自己満足の生活を楽しむ人は多くない。さすがその道の大家名人とうなずかれよう。
 われらはその名人じょうずになれる材ではなく、ほんとうのへたの横ずきから、深みに陥ったひとりではあるが、自己満足の太平楽だけは広言できる。それが幸か不幸かは問うところではない。結局人生というものは、その人その人による解釈は大哲学者をわずらわすまでもない。不可解だというなら、自殺でもするよりほかに選ぶべき道もあるまい。
 野球心中者がよけいなことまで熱を吹けばそれこそ笑われる。辞世の歌を必要としない野球の虫にも、心からのよろこびはそれ相当に見舞ってくれる。なにも人世哲学のこっけいを不調法に語る責任を感じなくともいいことだ。
 それからわれわれの楽しみは、もうひとつ多くの球友を持つことであろう。明治四十一、二年ころの早稲田選手時代から今日まで、コーチしたり、世話をした大小選手の数は数限りもない。それらのおりにふれての来訪や書信には、いうにいわれぬ熱情がこもっていて懐しさの限りをつくしている。北海道、九州はもちろん、満州、朝鮮から台湾にまでいたるところに散在しているこれらの球友には、そのひとりひとりに語るべきものを持っており、かりに全国|行脚《あんぎや》するとしたら、樹下石上に宿らずにすみ、一夜を思い出に明かしうるであろう。

粕壁野球部のコーチ
懐しの球友
 秋深み、リーグ戦もたけなわなるころ、十数年ぶりに会う球友が、球友の母校粕壁中学の野球部再興の吉報をもたらしてたずねてくれたのであった。この三人の粕壁中学先輩は、私が早稲田大学選手として初めてコーチに派遣されたとき、私からまずいベースボールをコーチされた人々であった。当時美少年であった三人の球友は、いずれもとく頭を嘆ずる年ごろとなっている。村長にあらずんば村の有司という格式で、生家を守っている連中と、絶えて久しい対面をよろこんだ。一人が持参した自家製のアン入りおひまちもちをほおばりながら、懐旧談に花が咲く。
「あなたにコーチを受けてから、ふた昔以上になりますネ」
「そうだ、あれがおれのコーチの皮切りだから、選手になって二年目であったろう。今考えてみると、なにを教えたものやら、はずかしいしだいさ」
「するとおれが第一門弟というわけですから、あとの早稲田選手などより、上席なんだ」
「それはそうだよ。焼香するときは第一番に呼び出してもらうんだな」
「焼香のほうはあまり得手でありませんから、還暦祝か古稀の祝に、発起人にでもしてもらいましょう」
「そんなに生きておられればいいが」
「運動家が長生きをしなければ、恥辱ですよ」
「いや、スポーッは不老長生の術ではないさ。スポーッにはほかに効能があるのだから、長命の一助などということは問題でけない」
「でも、長く生きてもらったほうがいいですネ」
「むろん生きていたいネ。しかし、今のところ、それほどの執着もないようだ」
「ときに、まだコーチはできますか?」
「三日や四日ならできる」
「昔の元気がありますかえ」
「さあ、あえて保証はつけられないが、三日や四日なら、大学生にも中学生にも負けんだけの意気込みはあるつもりだ」
「年寄りのひや水というのではないでしょうか」
「ハハァ……それもあるだろうさ、しかし剣術つかいなどは、六十になっても七十になっても面をかぶり、竹刀をとればしゃんとするじゃないか、野球だって、そうでなけりゃいかんわけだネ」
「あなたにはいくつまで、ノックが打てると思いますか」
「足腰のたつうちは打てると思っている」
「じゃひとつお願いがあるのですが。粕中の野球部がよ弥やく十七年ぶりで復活したというわけですから、昔のよしみで一日でも出馬してくれませんか」
「うまいところで、トリックをかけたネ」
「いや実は、粕中野球部が復活したという知らせに、三人とも昔懐しさにかけつけたわけですが、なにしろ、十七年も廃滅していた野球部ですから、おれらにも手のつけようがない、だれかコーチを頼んで、手ほどきをしてもらわねばなるまいということになり、昔の縁故からあなたに適当な人を依頼していただきたいと思って推参したわけなんです。ところがあんまりあなたが強そうにいわれるものですから、いっそ手軽にあなたを煩わそうと変心したわけですよ」
「アン入り餅と、草加せんべいに釣られたわけか。アハハ……よかろう、思い出深い粕中グラウンドだ」
 日を決めて三人は帰る。その後いくばくもなく私は東武線に乗った。
惜しまれる関口達三
 昔の汽車は、日光急行電車と変身し、押上の田舎くさい停車場から、ガタコトとスタートした石炭汽車は、浅草松屋の近代デパートの階上から軽快に走り出す電車と変っている。五年も十年も浅草を訪問したこともない穂洲などは、円タクのやっかいにでもならなければ、ここに浅草駅ありなど、見当のつけようもない。草加、越ヶ谷、電車は埼玉の沃野をヒタ走って粕壁に着く。そこには榎本、飯山、小島の先輩たちが待っていた。
 粕壁の昔は、埼玉随一の野球地で、熊谷も川越も浦和も不動岡もその敵ではなかった。しかも彼らの野球部は、学校の支持によって生長したものではない。冷淡であったそのころの学校当局は、野球などというものに鼻もひっかけなかった。寄宿生が一団となって球友会なるものを組織し、各々費用を持ちよって孤城を守ったのであった。私はコーチに行くたび、寄宿舎に寝泊りしたが、一度も教師に拝謁を仰せつけられるなどの光栄に浴したことがなかった。彼らは学校から虐待されてはいなかったとしても、野球部の財政をきりもりするためには、非常に苦労があった。それにもかかわらず、竜ケ崎や水戸地方まで遠征を試みたり、関東大会に出場したりして、相当な成績をおさめていた。これらの苦心を追想すると、現在の学生野球選手というものの幸福さが、しみじみもったいないように思われる。
 今の学生野球部のすべては、学校から父兄にいたるまで、ありあまる好意をよせ、選手は英雄扱いにされ、一勝でもすれば、それこそ随喜して迎えられる。粕中野球部などの昔を思うならば、まことに雲泥の相違であろう。
 私がコーチに行くというので、先輩間に檄が飛ばされたか、その日は昔コーチを受けた連中が続々集まってきた。関宿の小学校長をしている奥原を最年長者として、医学士である藤波兄弟や、加村、荒井など、みんながりっぱな中年の紳士になっていた。私も彼らもユニフォームになって、せがれのようなかわいい後輩と、試合を楽しんだ。
 ただもっとも惜しまれたことは、これらの中に、関口達三がいなかったことである。関口は粕中野球部の恩人ともいうべきもので、彼は約十年間というもの粕中野球部のため犠牲を払った篤志家であった。早稲田の部員となったこともあるが、野球の技倆はとるにたらなかったけれども、彼が母校野球部に献身的努力を払ったことは、ひととおりではなかった。財布を空にしてボールを買い、厳父に哀願して遠征費をつくった。土曜から日曜にかけて彼の姿は必ず粕中グラウンドに現われた。粕中がとにかく関東方面に名を知られ、埼玉一とうたわれたのは、彼の力にまつところ多かった。早稲田を出て山中銀行に勤めていたが、惜しいかな早世した。彼が生きていたらどんなに今度の復活をよろこんだことか、と思えば寂しい。
野球指導のたのしさ
懐しの球友
 野球のコーチというものは、寺小屋の師匠のようなものだ。教えることに秩序はないが、グラウンドというものは学校の教室のように冷たいものではない。こごともいうけれども、寺小屋の師匠のごとく、もっとも師弟が近接して立っている。はるかの教壇に仰ぎみる博士先生の講義を聞くたぐいとは違う。呼吸も相通ずれば、手も触れ合う。そこに自然の情愛がわくし、物質的利害関係がないために、怒罵叱責されても、練習がすめば互いに忘れてしまい、不快さが残らない。だから、学校教師と生徒の関係のごとく、免状が縁の切れ目とはならない。いつまでも親友たる関係が続けられる。これがコーチをしたことのあるものの余徳というてよい。
 恵まれることのない私にも、こうした多くの友達のあることは、まことに生きがいのあることで、私というものは、どこへ行っても一人ぽっちにならない。諸国の景物も鑑賞するに足ろうけれども、さらに、情義の友人が待っているぐらい、浮き浮きすることはあるまい。
 今から私はふたたび、それらの人々をたずねようとする。だれが出てくるか読者の記憶に残っている選手もあろうし、無名不遇に終って、穂洲の胸にのみ、とうとく生きているものもあろう。


続・懐しの球友
井土のゴロさぼき

 北九州には、井土|敏慧《びんけい》と渡辺信敏、それから宮崎吉裕、安田俊信、有田富士夫がいる。井土と渡辺とは、有田、宮崎、安田等の先輩で井土はベンケイさん、渡辺はノンチャンというあだ名で大正九年までの選手であった。ノンチャンなどは呑兵衛でもあったように誤解されるおそれがあるから、本人のために弁解を要すると思うが、ベンケイもノンチャンもその本名の語呂からきたので、井土が武蔵坊弁慶に似ていたわけではない。信敏は温厚、敏慧は人格者として皆から尊敬されていた。九州から出て早稲田の選手となり、勇名をはせた最初の人はこの井土敏慧であった。
 信敏のピッチングはその人柄によく似た穏やかなもので、鋭さを欠いていたけれども、うま味があり、からださえ強健であったら、相当に進歩したであろう。
. 井土は三塁手としては、早稲田野球部史上名手の中に加わるべき優秀な技倆を持っていた。ことにゴロを捕える妙味は一家をなしており、不規則パウンドに対しては、天下一品と称しても過褒ではなかったであろう。耳が遠かったので、走者としての不便があり、ベンケイさんがランナーじゃ大閤様のような声を出すコーチャーがなくちゃ、などとひやかされたりしたが、温良高雅なこの人格者も、一度グラウンドに現われるや勇猛果敢、その大胆不敵にはなんびとも舌を巻いた。砂をかむ鉄球を真正面に抱き込んで捕える姿勢にくずれがなく、イレギュラー・バウンドをあざやかにコナして晴れ晴れとしていた。
「ベンケイさん、イレギュラー・バウンドはどうして捕ればいいんだ。秘訣があるのかね?」
「そうさ、今日いいお天気だから、練習も愉快だよ」
「そう、ベンケイさんベンケイさんて、大きな声をするなよ。スタンドの見物が笑っているじゃないか」
 敏慧が精神を統一して練習にかかったら最後、故障のある耳はますます遠くなる。やっと質問の意味がわかると、
「そうか、早くそういえばいいのに。秘訣なんかあるものか、ゴロが飛んできたら額にぶつける覚悟で捕えるのだ。ボールと額押しをすればいい。君、額のほうがボールより堅いからネ」
 きくものあぜんとして、ベンケイさんにはかなわない、ボールの額押ししてたまるものか。しかもこの一言は井土の秘伝として早稲田野球部に残された。ゴロは顔に打ちつける覚悟で捕れ。それが今の早稲田の内野手に実行されているかどうか、知らないけれども、私はゴロ捕りのコーチをするにあたっては、いつも井土の口伝を借用して後輩に教えた。ここで技術に関する説明はよけいなことであるが、額に打ちつける覚悟なら、自然腰もすわるし、目もボールに近くなり、ゴロ捕りの法則にかなうわけ、井土はさすがに、不規則バウンド捕りの名人だけあって、貴重な言葉を後世に残したものといえよう。

スパイク忘れた勝利
続・懐しの球友
 彼は今、九州鉄道にあって、なお一ティームを率いており、ほとんど技倆の低下をみないという。大正九年の春に早稲田を卒ってすでに十余年、若手選手に伍して遜色を認めないというのであるから、技倆の長つづき驚くべきものがあろう。そのまじめに一貫した野球愛は、彼の温厚と心の清さから、いよいよ価値あるものとなり、やがて北九州野球界の長老として、尊敬されるときがくるに相違ない。
 宮崎吉裕も井土とともに福岡にいる。宮崎は病身のため修行をまっとうせず、天才的捕球を広く世に示すことができなかったが、多くの名手を出した早稲田捕手伝中に、特記されねばならぬ一人である。
 大先輩山脇正治君の弾力に富む捕球を、そのまま受け継いだような捕手ぶりと、見かけによらぬ大胆さとは、竹内、大橋両投手を操縦し、久慈次郎の大味はなくとも、寸分すきのない女房役であった。クラゲの吉ちゃんは、グラウンドに出ても、合宿にあっても、つかみどころなく、悠悠閑々として尺八を吹き鳴らし、鶴の巣作りにみずからめ快さを味わうというふうであった。宮崎の尺八はその師匠からきわめて将来を嘱望されて、野球をやめて専心するなら一の名手たることを請け合うといわれたというから、あるいは野球以上の天分をもっていたのかもしれない。
 ある年、法政と中野球場で戦ったときであった。しばらく出場しなかった宮崎を捕手に起用しようと思って、彼のキャッチングを見たところ、テニスに用いるような白ズックのくつをはいている。
「宮崎、スパイクはどうした?」
「ハア」
「どうしたんだ?」
「忘れてきました」
「スパイクを忘れてきた?」
 私もさすがにあっけにとられた。
「ここへなにをしに来たのだ君は?」
 と突っ込むと、柔和な顔に微笑をたたえながら、
「かんべんしてください。つい持ったつもりのが玄関へ置き忘れたものとみえまして」
 あきれてものがいえなかった。コーチは苦笑して二の句がつげず、永野重次郎が捕手をして試合はかなりの大勝であった。
「宮崎、君がスパイクを忘れたものだから、おかげで大勝利だ」
「ヘへ……なにそうでもないでしょうが、こんなに勝つんならふスパイクなどはかなくともネ」
「コラ、そんな失礼なことをいうもんじゃない」
 それより上きザんで一同引きあげたが、あとで聞くところによると、中野の新井薬師裏までは遠くて困る。キャッチャーというやつ、まったくの悪い役目だ。よけいな道具があってそのうえ、人なみにバットもスパイクも持たねばならない。どうせ今日も重公やんがやるのだから、せめてスパイクだけでも失敬して身軽でいこう。ひとりごとを聞いていた河合君次、
「吉さんそんなことをして、コーチに出場を命ぜられたらどうする?」
「いや大丈夫重公やんだよ、ひとのことをそう心配しなさんな、アタマがはげるぞ」
「でも万一のことがあって、コーチにどなりつけられると困るぜ」
「なあにそのときは、だれかのを借りるさ。十五、六人も選手が行くのだから融通は十分つくよ。ベースボールは一度に九人しか出られないんだから」
「練習のときどうする?」
「練習は白ぐつでたくさんだ。昔はたびでやったというじゃないか」
「勝手にしたまえ。怒られたって知らないよ」
「怒られないよ。ああいうがんこ親爺というものは、怒ったらすぐあやまってしまえばたあいないものだ。君らは怒られると、すぐ顔をふくらしたり弁解をするから、いつまでも怒られるんだ。風に柳というやつさ。ガーンときたら、ごめんなさい今度から気をつけますとやれば、向こうが負けっちまう。そのうち試合が始まれば、プリプリ怒っていたら作戦がたたないから、自然われらの勝利になる、オホン」
 理屈屋もあっさりかたづけられて、あいた口がふさがらなかった。それだけに宮崎はマスクをかぶったら、たのもしい選手であった。

大胆不敵の宮崎吉裕
 捕手としての宮崎吉裕は、捕球の外形技術よりも、投手を操縦する頭脳的方面にすぐれたものを持っていた。一見くみしやすい風ぼうではあったが、一度マスクをかぶれば、大胆不敵、冷静氷のごとく、いかなる大敵に向かっても、ピンチに襲われても、つねにその平静を失うことがなかった。竹内愛一とのバッテリーは、この点において実に好一対であったが、大橋松雄には血の気が多く、ややもすれば興奮しすぎて、そのりっぱな持力を出しえないようなことがあったけれども、そこを宮崎は巧みに助けて、十分に手腕を発揮せしむるだけの余裕をもっていた。
 大正十四年春のリーグ戦に、早稲田はその第一戦を明治に奪われた。明治は今の大毎記者湯浅幀夫を擁し、捕手には天知俊一があり、梅田、谷沢、横沢、林、熊谷、二出川、中川など洋行帰りの翌年で、全盛をうたわれていた。試合は二点の差で七回にはいり、宮崎が三塁にあって山崎武彦が三塁越えのテキサスを放った。宮崎がホームにはいれば差は一点となり、同点とするには八回の好打順が待っていたのであるから、彼は当然ホームにはいるべきであったにかかわらず三塁にとどまって平然としていた。試合は八回に瀬木嘉一郎の三塁打がでて、一点の差に縮めたけれども、ついに明治の快勝するところとなった。試合後宮崎になぜ生還しなかったかを問うと、彼はニッコリ笑いながら、
「なあに、めんどうくさいから、あそこで勝ってしまおうと思ったんです」
「まだ七回じゃないか、七回にそんな無法をするやつがあるものか」
「だって、ぼくにもヒットが打てるほど、湯浅は弱っているのですから、みんなポンポン打つだろうと思ったんですよ」
「そんなベースボールがあるものか。今日は君のボンヘッドで負けたようなものだ」
「どうも失敬しました。第二回戦にはきっと勝ちますからかんべんしてください。みんな失敬した、今度しっかりやろうぜ」
 一同苦笑している中を、サッサと合宿に引きあげてゆく。試合がすめば光風霽月、なんのわだかまりもない。
あるとき、宮崎は合宿の一室にみんなを集めて、
「おい、君らは明治のピッチャーが今度どういう種類の球を投げるかということを知っているか?」
 集められた連中、きつねにつままれたような顔をしてポカンとしていた。しばらくして有田富士夫が、
「知らん。吉さん知っているのか?」
「それを知らんで、ボンヤリとボックスに立つみんなの気が知れんテ」
「コーチだって知っているものか」
「コーチは知らんさ。コーチというものはみずからバットをさげてボックスに立つものではない。コーチは知らなくともいいが、君らが知らんというのはさたの限りだ」
 宮崎があまり得意になっているので、他の連中少しくしゃくにさわり、
「吉さん、君はそういうすばらしいことを知ってながらいっこうヒットを打たんじゃないか」
「ぼくか、ぼくは打たんでもいい。キャッチャーとかピッチャーとかいうものが、やたらにヒットを飛ばせば、君らの立つ瀬がないじゃないか、遠慮しているんじゃ」
「そんなばかなことがあるものか。バッテリーがヒットを打たなくてもよいものなら、バッティング・オーダーから除いてしまえばいい」
「まあそういうな。ところで君らがなにかおごるなら、その大事を打ちあけてもいいが、どうだ」
「ほんとうならおごってもいいさ」
 しからばというので、もったいぶりながら、宮崎が打ちあけたサインというのは、投手の投球種類を遊撃手から外野に取りつぐという簡単なものであったが、打者としてこれを知ることは、かなりの便宜がある。カーブかストレートかが、投手の投球前にわかったら、打者は待ち構えて打つことができる。早稲田の打者が、これによって非常な利益を得たかどうか、私の記憶にはないが、クラゲの宮崎は、なんにも考えていないように見えて、なかなか鋭い観察を相手方にくだしていたゆしかしこのサイン問題は宮崎自身が看破したのではなく、法政の某という選手にようて看破されたものであり、その某が宮崎の中学時代の同輩であった関係から、自然彼の耳にはいったものであるらしい。

天知の捕手妨害
 十四年の春、明治に第一回戦に敗れた早稲田は、その第二回戦に大橋をたてて復しゅう戦を行なったところ、大橋がさんざんに打たれて、三回までに六点ほどリードされた。しかも湯浅の猛球に味方は手のくだしようがなく、試合はほとんど絶望的にみられたが、第五回に乱撃して五点を回復し、試合はものすごい接戦となり、両軍選手はことのほかエキサイトしていた。
 明治の熊谷が一塁にあり、打者の天知が空振して、捕手の宮崎が落したから、熊谷は二塁にスタートした。落された球は、片ひざをついた天知の前にコロコロところがった。宮崎はとっさにその球を拾おうとして腕を伸ばしたところ、球はそれよりも先に天知のために拾われた。さすがの宮崎もこれには驚いたが、「放せ」と一かつするや、天知の手からボールをもぎとった。しかもこの騒動中に、熊谷は早く二塁へ安着していた。
 当然もんちゃくが起こらねばならぬ事件であった。宮崎はすぐに審判に物いいをつけた。「捕手の落した球を、打者がランナーをおいて手に触れるという法はない。明らかに妨害であるから、走者のアウトを要求する」
 審判は立教の主将原君であったが、この未曽有のできごとに対して、すぐに判決をくだすこと示できない。
「天知君が、ボールを拾ったことはいけないけれども、熊谷君はおそらく天知君が球を拾わなかったにしろ、二塁を盗んでいたろうから、アウトを宣告するわけにはいかぬ」
 と宮崎の要求を退けようとした。宮崎はベンチに帰ってきて、審判はこういっているが、自分はこれを承服するわけにはいかぬ。バッターがキャッチャーの球を拾うということがあるものか。
 審判との交渉はついに私がしなければならなかった。むろん私の主張するところも宮崎と同一である。原審判は天知君が、決して故意につかんだものでないから、大目に見てやらねばならぬという、穏当な見解で熊谷の二盗を認めようとする口ふんであった。
 私は故意とか故意でないとかいう問題でなく、ランナーのあるさい、打者が球に手を触れることは、違法であり、ことに盗塁が行なわれんとする直前に、ボールを握って放さないなどは、明らかに妨害と認めなければならない。熊谷君にアウトを宣告してほしいと譲らなかった。
 天知君は審判と私との押し問答を青い顔してきいていたが、口をもぐもぐしたきり、一語もさしはさまなかった。ところが次打者のだれかが、そんなアウトがあるものか、天知動くな、というようなことをいって、大いに景気をつけたので、私の主張はいよいよ強硬になり、あくまで熊谷君のアウトを要求した。
 そこヘキャプテンの谷沢が駆けてきて、ていねいに帽子をとり一礼すると、
「天知は決して、そうしたことを故意にやる男ではありません、無心にボールをつかんだのに相違ないのですから、がまんしてくれませんか。どうでしょう、熊谷のアウトを助けて一塁に引きもどし、試合を進行するというわけにはいかぬでしょうか」

あっぱれ谷沢主将
 原審判も私も、谷沢主将の顔を見上げて、しばし無言のまま、相対した。りっぱな主将の一言、これには異論を唱えることができなかった。私は主張を曲げ、この折衷説に同意してベンチに帰った。私は今日なおそのときの態度を忘れることができない。あっぱれの主将ぶりというべく、試合後私は敵ながら範とするに足ることを賞揚して、選手一同に教えると亡うがあった。谷沢君の一言がよくこの物いいを解決し、試合は無事に終了した。早稲田にも明治にもこのランナーが、生きるか死ぬかは大問題であったから、もしも谷沢君の一言がなかったなら非常に紛糾したに相違ない。
 この試合は十回まで延長されて勝敗決せず、明治のハワイ遠征のため、三回、四回の熱戦をみることができず、宮崎もまたこの試合後病を得て郷里に起臥し、彼は早慶復活戦にも、シカゴ大学戦にも出場することができずに大学野球の生涯を終っている。打者としての宮崎には語るべきものが少ないけれども、カーブを打たせたら名人であった。直球にはみごと三振をしてニコニコベンチへ帰ってくる彼も、一度力ーブ・ピッチャーに対するとよく安打を放った。小野と竹内が鳴尾原頭で秘術を尽し、両軍同点のまま勝負決せず延長戦となったとき、小野君のカーブを左中間に打ち飛ばして決勝の一点をあげ、「小野のカーブならわけはないさ」と吹き飛ばしたりした。福岡添田の資産家の一人息子で、豊国中学が出した名選手のひとりである。

安田の快打
 宮崎が病を得て帰郷したのちの早稲田は、秋のシーズンを迎えて好捕手を得るに苦しんだ。久慈、永野、宮崎と連続して、捕手にはこと欠かなかった早稲田も、二十年ぶりに復活する早慶戦や、シカゴ、明治の大敵を前にして、宮崎を失ったことは大打撃であった。しかも新進の伊丹はシカゴ戦中の練習にボールを踏んで足首を捻挫し、かえすがえすも、不運につきまとわれたとき、竹内、藤本を助けて、早稲田を支えたものは、安田俊信であった。安田は、有田、長尾、井土に一年遅れて早稲田に投じた、小倉中学出身の選手であった。捕手としても一塁手としても相当の技倆をもっていたが、そのころは前に永野があり、同僚には宮崎があり、一塁には有田、水原(兄)と一騎当千の勇士がそろっていて、安田の割り込むべきすきがなかった。かくして彼は打撃にも守備にも相当以上を持ち合わせていながら、つねに不遇を嘆ぜねばならなかった。しかるに時はようやく彼に恵まれて、大正十四年の秋は、安田一人によって早稲田の本塁は守られた。シカゴから早慶戦、大敵明治との試合のすべてを捕手として奮戦し、その活躍には大いに見るべきものがあった。ことに彼の打力はシカゴのガビンスを打ち込み、慶応の浜崎、永井等左投手のことごとくを打ち砕いた。
 呑兵衛安、これが安田のあだ名であった。けだし必ずしも酒好きという意味ではなかったであろう。高田馬場を根城とした早稲田選手安田某というところから、この名をいただいたものらしい。肥大がん強な俊信は戸畑の産で、その体格に似げなくやさしいところがあり、他人を押しのけて進もうという強さがなかった。この性質が彼をして、しばらく下積みたらしめたゆえんでもあるが、それだけ不平というものもない。
 捕手としての技倆は、宮崎に劣っても打撃力ははるかにすぐれていた。もしも宮崎が捕手として健在であったなら、安田の出場はおぼつかなかったであろうが、安田を得なかったなら、早稲田の攻撃力にはよほどの割引きをしなければならない。当時の早稲田は山崎、瀬木、井口、水原というように左打者が重鎮であり、それだけ左投手に対する不利の点もあった。
 私は今でもそのころのことを思いだして、安田の好打にひとしおのなつかし味をおぼえるのであるが、実にシカゴの決勝戦は、根本行都、安田俊信、藤本定義の三打者を主力として勝ったようなものであった。この一戦に敗れたら、私のコーチ生活は少なくとも、なお五年を延長したであろう。この苦悩を救ってくれたものは、根本、安田、藤本の好安打であった。
 大正十四年十一月九日、戸塚原頭に開かれた早稲田大学対シカゴ大学決勝戦は、竹内の調子が悪く、たちまち四点をリードされ、早稲田の敗色きわめて濃厚、快投手ガビンスの前にもはや回復は望みなきものと思われた。ゲーム・スタートの失敗に、ベンチの私は観念の目を閉じていたが、十六年前の悲惨なりし敗戦と、これが復しゅうのため打ち込んだ六年間を脳裡に浮べれば、焼きつけられるような苦悩をおぼえる。だれか奪還の機をつくるものはなきか、大敵に対して四点の差は、絶望を思わせるに十分なるスコアではあるが、まだ回は若し、二点二点二点と取り返せば、勝負にならぬとは限らない。神頼みしてチャンスを待つうち、竹内に代って藤本はシ軍の打撃を完封し、武運はようやく早稲田にめぐってきた。このとき開運の走者となったものは、実に安田俊信であった。ガビンスは思わぬ相手にチャンスをつかまれ、藤本の安打から根本の二塁打と追い込まれ、十対四の大勝が早稲田の頭上に輝いた。十六年の天津風|夢寐《むび》にも忘れることのできなかったシカゴ雪辱の一戦は、早稲田野球部に対する報恩の一として穂洲の胸裡に暖かくいだかれた。これは早稲田コーチ六年間中といわず、私にとっては生涯を通じてもっとも記念すべき勝利であった。そのよろこびを与えてくれた安田等の健闘には、今もなお絶大なる感謝を捧げている。
 俊信は早稲田の商科を終って郷里に帰ったが、病を得て早世した。
有田富士夫のこと
 大正七、八年ごろ、九州一円を風びした小倉中学は、妹尾兄弟という篤志家の後援をうけて久留米明善や、豊国中学を悩まし、八年夏には九州代表として鳴尾の全国大会に出場した。この小倉をして全国的に武名をあげしめたものは、有田富士夫であった。
 有田は北九州の一角からたって早稲田の主将となり、大正十三年秋には十戦十勝という名誉ある戦績を残した幸運児であるが、小倉時代早くもその非凡なる球力を認められていた。
 八年の大会に長岡中学を破り、準優勝試合に鳥取の西村と対戦し、十五回の延長試合を行ない、これを四対二にほふっていよいよ投手としての折紙を付けられ、九年春早稲田に投じた。しかし投手としての彼は、脚気のためついにその志をとげることができず、一塁手に転身したが、打順はつねに三番にあって全盛の早稲田に重きをなしていた。球力からする彼は投手として大成すべき素質をもっていた。固疾さえなかったなら、必ず谷口とともに大投手として終りをまっとうしたであろう。大正九年という年は早稲田の投手難時代で、渡辺、伊藤、松本などが、からくも命脈をつないでいたにすぎない。ときには中島駒次郎が投手たることもあるという状態にあったから、有田の投球には非常に期待をもたれ、五月シカゴが来朝するや、彼は最新進の身をもって第一線にたたされた。
 シカゴとの第一回戦は、早稲田の攻撃が奏功して、もうひと息というところまで攻め込んだが、ついに引分け試合に終った。これが富士夫の投手として不運なる第一歩であった。
 大正十年秋ワシントン大学を迎えて、東京、大阪に激戦し、九州八幡に決戦を行なったとき、有田は故郷に錦を飾る意味で、投手板に立った。試合は両軍伯仲の技倆をスコアに乗せて勝敗決せず、有田は郷土の応援を背《せびら》にうけつつ久しぶりに好投した。しかも戦いの終りにおいて、新球を渡され、これを暴投して涙の出るような試合に敗れた。彼はこの敗戦から投手を断念、一塁手として更生の道をたどった。むしろ賢明の策であったかもしれない。才物で文章をよくし、新聞記者にでもなっていたら、十分成功していたろう。
 大正十年渡米した早稲田は、安部先生の発意で、米国野球遠征なる単行本を博文館から世に出した。おそらく選手一同の遠征記としては最初のものであったろう。シャトルから帰朝の船中わたしが編集したもので、書中安部先生の試合交渉と経費、米国大学生活の記述は、穂洲が先生の口述を筆記したものであるが、米国遠征を志すティームにとりては貴重な文献であった。この著述は大正十二年の大震災に紙型を失い、今は絶本となっている。
 遠征に費した百二十日を十日ずつ分けて、各選手に割りあて、それを選手が日記体にしたためている。この遠征に参加した選手は、、いずれも人物としてすぐれており、筆をとらせても相当に書き上げ、遠征みやげとしては申し分のないものができ上がっている。抽せんによって順番が定められ、有田は第五番目のくじを引いて、金門公園を書いた谷口五郎の次の執筆者となり、五月二日より同九日に至るサンフランシスコの出発から、シカゴへ着いて対シ大との第一回戦を開く前夜までを担当した。
 この十日間はまったく貧乏くじで、広ばくたる平野を大陸横断の汽車が、数十マイルの速力で走る。ただそれだけの材料しかない。文筆で飯を食っているものでも、これを作文にするには容易のことではなく、だれもが有田に同情した。なにを有田は書くであろう。寝台に寝て起きてわずかに楽しむものは、トランプと雑談くらい。汽車のきらいな私のごときはトランプは知らず、手もちぶさたで、明けても暮れても、荒地のような中を走っている汽車のながめの無味乾燥に、のろわしい気持にまでなっていた。
 それを有田はスラスラと書き上げた。その一文をここに紹介する紙数がないけれども、でき上がったものは、優等賞を与えねばならぬ名文であった。安部先生もその文才に感心したほどであった。文字も美しく、原稿紙はくろうとのそれのようにあつかわれて、雲を描き、砂漠を写し、人を自然美をと麗筆が走っている。


恐ろしい小鳥のたたり
 この単行本の原稿料は、軽井沢夏季練習場に建てられた合宿所の増築費の一部にあてられたから、有田の名文もあの合宿とともに残っているわけである。文章をよくした彼には、一面神経質なところもあり、それが試合に影響したことも、ままあったように思われる。
 大正十年の米国遠征に、中西部の雄ミシガン大学と戦い、代表的の好試合を早稲田野球部史に印したことは、谷口五郎の名投を紹介したおりにしるしておいた。その六月二十八日の第一回戦に投手の重任を帯びたのは有田富士夫で、彼はこの惜敗をことごとく遺憾とし、無念の一夜を明かした。翌二十九日は一天雲なく、昨夜の雷雨に洗われた芝生はいかにもすがすがしかった。昨日の一戦に気を得た選手一同は、今日の勝利を確信したかのごとく、元気いっぱいで、土や汗にまみれたユニフォームを身につけていた。
 高松、有田その他二、三人は、もう身支度を終り、更衣所の芝生の上に降り立って、みんなの勢ぞろいを待っている。
「今日勝たなくてはアカンぞ。米国中西部おしまいのゲームや」
「谷口の調子は極上だし、第二投手を打ち込めば、いいおみやげができる、天気はよし、申し分がない」
 こうして意気ごんで話している四、五間(約八メートル)先の芝生の上に、あたかも内しょ話でもきいているかのよう、くちばしをあげたり、おろしたり、かわいい足どりで遊んでいたメドラーク。われらの東道役を勤めてくれたベニンホフ博士は、これを野のうぐいすと訳して教えたが、日本のしろばらに似た鳥。有田はひとりでボールをもてあそんでいた。
「おい有田、その鳥にうまくあたるかい」
 高松静男が気まぐれに声をかけた。
「あたったら、今日の試合は必ず勝つ。やってみろよ」
 とだれかがよけいなことをいう。有田はフフムと軽く笑ったが返事をしない。
「やってみうというに。今日の試合を占うのだ」
 こういわれて有田は、持っていたボールをデーンと投げつけた。メドラークはびっくりしたというふうをして、かれんな声を出して飛び上がったが、また近くに降りてえをあさっている。
「コントロールが悪いな、そんなことだから打たれるんだよ」
 これはあくどいやゆであった。富士夫は気色ばんだ。昨日ミシガンに敗れて痛恨の思いがいまだに去らない彼に、この一言は冗談にもせよ、すこぶるかんにさわった。
「なんだ、かわいそうだと思ったから、わざとあてなかったんだ。あてようと思ったらあたる」
「じゃあ、やってみろ」
 言下に有田の握れるボールは、風を切って飛ばされた。野のうぐいすは哀れにも絶命した。
「やあ、ナイス・コントロール」「うまいそ」と、みんなが感嘆する中を、有田は静かに小鳥をとりあげながら、
「しまった、試合前に小鳥を殺すなんど縁起でもない。よせばよかった」と後悔した。
「なあにかまうものか。軍陣の血祭り、味方の勝利疑いなしだよ」
 慰めるものもあったが、有田はすっかりしおれてしまった。
 試合は第九回のホームランで早稲田の惜敗。有田富士夫いよいよ悲観し、小鳥のたたりが恐ろしいと嘆息した。


思い出の夏季練習
安部球場の誕生
 早稲田大学野球部の守護神《まもりがみ》であった安部先生は、その野球部長時代にほとんど独力で、二つのグラウンドを造られた。一つは戸塚の球場(今の安部球場)、他の一つは軽井沢の夏季練習場である。そしてこの二つのグラウンドに付随した選手合宿所も、また先生の力によって完備された。
 戸塚のグラウンドが大学校舎裏に初めて生れたのは、明治三十五年で、当時はむろん付近の物持ち百姓の所有した畑地、その昔、名物みょうがが、ここから産出されて神田あたりの市場に送られたものであった。グラウンドの東北にあたる低地は、今こそ新開地らしくゴモゴモして、王子電車の早稲田駅などが乗り込んでいるが、いわゆる早稲田たんぼといわれた水田、かわずの声に夕闇が迫る物さびしいところだった。
 東京専門学校から早稲田大学と、看板を塗り替えたばかりの大隈学校の財政では、四千坪(一三、二四〇平方メートル)という地面を右から左に買い入れるわけにはいかず、むろん借地したのであるが、このグテウンドができたばかりに、早稲田の野球部は、設立四年をいでずして、時の一高を倒し、慶応を破り、学習院を一蹴し、四大雄鎮の王座を占むるに至った。後年グラウンドは地主の福田その他の厚意から、坪(三.三一平方メートル)二十円という破格の安値で大学の所有に変更された。時価百円を下るまいから、早稲田の財産としては大きなものである。安部先生は、野球部に金があったら、この地面を早稲田野球部の所有にして、他から一指も染められぬようにしておきたいともいわれた。陸上競技やラグビーが抬頭してきてから、ともすればこれらが割り込もうとしては、野球部との間にめんどうな交渉も起こったこともあり、この運動場は早稲田大学のものであって、野球部が占有すべきものでないなどと、もっともらしい議論を吹きかけるものもあった。
 しかし二十年近く専有していた野球部は、そのくらいの抗議ではへこたれるわけもなく、野球部のために造られたグラウンドを、野球部が専有するになんの不思議がある? グラウンド誕生の歴史も知らぬものが、けんか腰のこわ談判なら、たとえ空いているときでも貸すことならぬ、なんどと力んだものであった。活動の猛優となった浅岡信夫などがラグビー部にいたころも、たびたび貸与方の談判委員になって、野球部に押しかけてきては、選手や安部先生と折衝していたことを記憶する。

 早慶試合が復活し、神宮球場が出現して、ばく大な入場料が野球部に転げ込んできた数年前の景気なら、安部先生の希望は必ず実現しえたであろうから、先生が代議士などにならずに、早稲田の教授として野球部長にいすわっておられたなら、あのグラウンドは、大学のものでなく、野球部自身の所有地となっていたろう。早稲田大学医学部というものが具体的になって、校舎建築敷地問題が起こってくると、一番に脅威を感ずるものはあのグラウンドである。しかし歴史のあるグラウンドをまき上げようとすれば、ひと騒動は免れまいから、大学当局もうっかり手がつけられないし、戸塚グラウンドが野球部の手から離れるときがくれば、早稲田野球部の実力というものは、必ず低下するに相違ない。さらにあのグラウンドから野球部の練習というものを取りあげられてしまうことになれば、早稲田の学生や付近の戸塚町民はなにものにも換えがたい一大娯楽場を失うことになるから、物情騒然たるものとなろう。
 戸塚のグラウンドは、広さにおいて必ずしも満足すべき程度ではないが、その土質は実に天下一品で、なんらの加工もしていないのであるが、このくらい土質が野球に適したグラウンドはない。私も多くのグラウンドを見たけれども、戸塚球場の右に出るものはいまだかつて見たことがない。植木屋などにいわせると、あの土質は一升(一・八〇三リットル)いくらで売り買いされるほど上等なものであるという。
 これほどのグラウンドで野球を楽しむことのできたのも、一つに恩師のたまものであるが、先生はさらに夏季練習場を軽井沢に設けられた。このグラウンドは大正七年の夏、離山《はなれやま》山麓に現われて、早稲田の選手に気持よい夏季練習を与えたところである。離山の下には大隈侯の別荘があり、大正十二年には、この別荘に当時摂政宮であらせられた今上陛下が御避暑遊ばされて、早稲田選手は一日台覧練習の光栄に浴したこともあった。
 この練習場の起こりは、遠く明治四十一年にある。戸塚球場で夏の練習中であった早稲田選手は、軽井沢に避暑中の外人から試合を申し込まれ、先生に引率されて一泊旅行を試みた。このときの印象と軽井沢高原の夏とが、いたく先生の気に入られ、その後、たびたび招へいされてゆくうちに、先生の軽井沢愛好熱はいやが上にも増長し、野球部が将来物質的になんとかなるようなときがきたら、早稲田は他に率先して、夏季用グラウンドを軽井沢に持たねばならぬと力説された。しかも貧乏野球部はいつまでも経済的に恵まれることなく、早くも十年の星霜を見送ったけれども、早稲田は軽井沢に一坪の土地も持たず、野球部のふところぐあいもつねにさびしかった。

練習場建築費の寄付
 ところで大阪の原田某から御大典記念として、早稲田大学に寄付された軽井沢の地面は、先生多年の宿望を遂ぐるに十分なるものであった。先生はさっそく先輩たちと協議した結果、費用いっさいを野球部関係者の寄付にまつこととして計画をたてられ、成算成るや、ただちに着手、みずから工事を監督するという熱心さで、わずか二ヵ月のうちには、グラウンドも合宿も完成するという迅速さであった。
 合宿建築費は、主に当時の野球部員や、先輩からの寄付に成ったものであるが、この中には明治四十三年ハワイ遠征のおり、マウイ在留邦人から送られた記念品代三百ドルも含まれていた由。在留邦人が、全マウイ軍を二回打ち破った感激から、選手一同に記念品を贈呈せんといい出したとき、先生はおもむろに立ち上がって、その厚意を謝し、夏季練習場建設の意図を語り、もし諸君の芳志を受けることを許されるなら、これを建築費の親金として受納したいと述べられた。在留邦人有志にはもちろん異議がなく、われらの寸志が早稲田野球部の将来にいくぶんでも役立つことができれば、この上のよろこびはないとて、快く集められた記念品代を、先生に寄贈された。
 マウイのニーボルポイントという名山のすそで、この美しい授受は行なわれ、主客は同胞、異郷の空で握り飯をほおばりながら日の暮れるのを忘れて談笑した。私はそれをなつかしく思い出しつつ、先生が半生以上野球部のために心血をそそがれ、早稲田野球部の将来のみを念とされたとうとさに感涙を催さずにはいられない。
 大正十年後部員が激増するにつれ、軽井沢の合宿も狭隘を告げ、建て増しの必要に迫られたとき、また有用に使われたものは米国野球遠征の原稿料で、それは有田富士夫の文才を称したおりに述べたとおりである。


近藤つる女史と愛犬ダック
 軽井沢の夏季練習場は、大正九年後の早稲田野球部にはもっとも有効に使用された。ともすれば春のシーズンに成績のあがらなかった早稲田が、秋のシーズンに優良なる成績を収めえたのは、まったくこの運動場のおかげであったと思う。空気のいい高原で、思いきり練習した選手は、秋のシーズンを迎えて必ず快投し、快打した。
 部員の各自は決められた期日に軽井沢へとのり込んでくる。ふとんをチッキにして、野球道具を手にした選手たちは、完成第一年の部員たちによってつくられたおきてを守り、出身地の名物食料品をみやげとして、西から東から飛行機型の合宿に参集する。十八年勤続した近藤つるという老媼《ろうおう》が、ダックと三毛とを連れて先のりをして万端の用意を整えている。
 ダックというのは、おばあさんの愛犬で、早く夫に別れ、愛児に死別した孤独の老媼は犬と猫とに全身の愛を傾けていた。ダックはセッターの雑種であったが、十貫目(三七.五キロ)もあろうという巨大なもので、選手中の犬好き有田なども、ことのほか愛撫していた。おばあさんの愛を満身に受けたダックは、たちの悪い犬ではなかったが、ある年、西洋婦人のスカートにかみついて、一事件をじゃっきした。洋犬ダックとしては、先祖の国のお方とは知らず奇怪な人物とにらんで襲撃したに違いないが、奇声を発しつつ逃げ走ったこの西洋婦人は、その足で安部先生へと駆け込み訴えをした。
 動物愛護家の先生ながら、人類に危害を加えるとあっては容赦はない。村夫子のようなかっこうをして、さっそく合宿へとやってきて、おばあさんを縁側に呼ばれ、おごそかに引導を渡される。
「おばあさん、あなたの犬が野沢池の付近で西洋人の女の方にかみついたそうです」
 肥ったおばあさんは、ひざをまるくしてかしこまっていたが、ダックの一大事とばかり抗弁した。
「そんなことは、先生、決してござりやせん。あの犬にかぎって人さまにかみつくようなことはあるべきはずのものではない……」
「いや、たしかに合宿の犬だとその婦人がいわれる。人にかみつくような犬を飼っておくことはありませんから、どこかへやっておしまいなさい」
 おばあさんはいつまでも東北なまりが抜けず、こうした危急にさいすると弁護の能力がはなはだ薄かった。
軽井沢の思い出
 ダックに限ってそんなことはということを、幾度もくり返していたが、先生はあくまで犬を放逐すべきことを主張され、もしおばあさんが、その犬と別れることができなければ、犬を連れて東京へ帰るほかはない、ここにはたくさんの西洋人がいるから、もっと大事を起こすようなことがあっては、おばあさんばかりでなく、合宿全体の迷惑になるからと説得されて、おばあさんもしぶしぶ納得した。
 いよいよ、ダックはグラウンドがかりの田中伊之介に伴われて、東京へ帰ることになる。犬とおばあさんと別離の愁嘆場、選手一同もずらりと縁側に整列しておばあさんの告別の辞をきいている。
「ダック、かわいそうに。なんでおまえは西洋さんなどにかみついた。わたしはおまえと別れたくはない。でも先生がああおっしゃられては、おまえをここにおくことはできない」
 おばあさんはここに至って声涙共に下るのありさま。初めは面白半分、おばあさんとダック別れの一幕ものでも見るつもりでいた多情の青年たち、すっかりおばあさんに同惰してしまい、
「あんなにかわいいんだから気の毒だな」
「おばあさんまた東京で会えるじゃないか、そんなに嘆くなよ」
 などと励ます篤志家もあった。しかしおばあさんはそうなればなおさら悲しくなったとみえ、
「おまえもからだを大事にするのだよ。もう人さまなどにかみついたりなんど乱暴をするのではない。おとなしくしてわたしの帰るのを待っておいで」
 ダックのかしらをなでながら、ボロボロ涙を落す。ダックもさすがにおばあさんの愛を感じていたのであろう。首を下げ尾をたれて傾聴していた。
 合宿の裏には、野沢池という清水のわく池があって、小さな白鳥型のボートなどが浮いていた。ある夏のこと、根本行都が一人こっそり合宿を抜け出して水泳を試みようとした。と、もうすでに先客があって水けむりを立てている。だれがこんなに早く泳いでいるのかと思ってのぞき込めば、やはり新米選手の大橋松雄であった。練習中水泳は禁制されているにもかかわらず、二人のヤンチャ者は、仲間ができたのをいいことにして、冷たい水の中を泳ぎ回っていた。
クロールと水府流
 水府流の、のし泳ぎに自信のある根本が、抜き手を切って得意になっていると、大橋は妙なかっこうをして、水をバチャバチャかき回すような泳ぎ方をする。根本はすっかり軽べつしてしまい、ひと泳ぎしてから、
「大橋、君は水泳のほうはだめだネ」
 とやらかした。すると大橋がむきになって、
「君なんかよりぼくのほうがうまいさ」
「ばかをいえ。君のは水をむしょうにかきまわしているだけじゃないか。水泳ぎには流儀がなくてはいかんさ」
「笑わしちゃ困るよ。ぼくのはクロールという泳ぎ方なんだぜ。これからの競泳はみんなこの泳ぎ方になるんだよ」
「クロール? そんな泳ぎ方があるものか。競泳でもなんでも一番早いのは水府流なんだ」
「論より証拠、君とあそこの岸まで泳ぎくらべをしてみよう」
「よしこい」
 一、二、三……血気の若者はざんぶとばかり飛び込んだ。そこへ大かつ一声「こらッ」
 二、三間(約四メートル)泳ぎだしたばかりのところへ駆けつけてきた一人、
「根本、大橋、上がれ」
 二人がびっくりして丘を見上げれば、先輩堀田正が仁王立ち。競泳者たちは水の中でテレてしまった。
「さあ、上がれ」
 二人は渋面をつくりながら、岸に上がってゆかたを引っかけ、堀田先輩のあとについて合宿に帰ってきた。
「こっちへこい」
 一室に呼び入れられると、峻烈なこごと。
「君たちのように勝手なまねをするものは、合宿におくことができないから、今かぎり東京へ帰れ」
 ダックと同じ宣告をうけて、両人平あやまりにあやまり、ようやく許されると、そこへ安部先生からの使いが来て、晩には選手一同を招待するから、午後六時を期して先生の借別荘へ、ということであった。
 一同大よろこび。練習がすむと、それぞれ支度をして二十数人の同勢が押しかけた。この年は本選手一行は、函館大洋クラブに招かれて同地に練習を行ない、軽井沢は第二軍ともいうべき堀田を総大将として、大先輩押川清君が監督であった。
「先生とこのご馳走はなんだろうな」
「すてきなご馳走にちがいないそ」
「先生は洋食がお好きだそうだから、きっと西洋料理だろう」
「なにしろ、汁と漬物だけで十数日籠城というのだから、すっかり油が抜けたね」
「そのうえ、今朝またウンと油を絞られたからな」
 小声で根本が一言うっぷんを晴らしたところを、堀田にききとがめられて「こらッ」と一かつ、首を縮める。
先生のしるこ作戦
 先生は例の温顔をたたえながら一同を招じて座が決まった。民雄、道雄の両息を初め、あまたの令嬢たちが駒尾夫人の指揮のもとに選手を歓待する。ウンと腹をすかしている一同は早く洋食のご馳走がと待ちあぐんでいると、持ち出されたものは塗りわんと飯茶わん、それが一同の前にズラリとならび、腹の中で一同、先生のとこの洋食は変な器に盛るのだなと思う。しかし行儀よく待っている。そこへ現われいでたのは、世にも大型な鉄鍋であった。ははあ、なるほど、あの中にはスー.フがいっぱいはいっているのだ。スープなら、皿よりもわんのほうが飲みいいに相違ない。
 そこへ先生がもの静かにプレー・ボレルを宣告する。
「諸君は連日高原に練習をつづけて、ずいぶん糖分が不足していると思われましたので、しるこをたくさんつくっておきました。どうぞ遠慮なしに召し上がってください」
 先生の御厚意もったいないが、なあんだ、洋食ではなかったのか。しるこならときどき堀田キャプテンの目を盗んで、前の風月堂でこっそりやっている。決して糖分不足を生じていないのだがなあ。
 かく嘆息しながらも、敵を眼前において、うしろをみせる勇士たちではない。しるこだけときまれば、命かぎり奮闘せねばならぬと、気を持ち直して突貫した結果、たちまちにして大鍋の甘敵《あまてき》はたいらげられてしまい、中には帯をゆるめて、戦いに疲れ、うっとりするものさえあった。
 チャブ台のわんがかたづけられ、茶の道具が運ばれる。すいかでも出動されたらまた一戦くらいは、と心がまえしていた選手の前にいどみかかったものは、名にしおういなりずし、のりまきずしの大軍、これにはさすがの一同も陣鼓を打つ勇気がない。いかにすすめられてもニッか三ツつまみ上げるがせきの山で、敵は勝ちほこりつつ、泰然として大皿の上に一座をへいげいしていた。
 一同謝辞を述べて帰るさ、
「先生の作戦はまったくうまいもんだネ。実に老巧無二の軍師だよ。しるこにトップを切らせたところはどうだい」
「なあ、せめて、あのすしが第一打者だったら、こっちにも相当自信があったに」
「今夜はさんざんの敗北だった」
「あッ、しまった、忘れものをした」
「なにを忘れた?」
「あの残ったすしをちょうだいしてくるのだった」
「さもしいことをいいなさんなよ」
「だって、そこまで気がつけばまんざら総敗軍にはならないからネ」
練習場の整備
 軽井沢の夏季練習にはこうした楽しい日もあった。しかしここの練習は、特に選手の修養を主にして、炊事はおばあさんにゆだねたけれども、その他の雑用は各選手が、あらかじめ当番をきめて、かわるがわる従事した。水くみ当番というのがあった。これは老人がポンプで水をくみ上げることのはなはだ難事なところから、毎日二人ずつの当番が炊事用、ならびにふろの水をくみ込むのである。朝の四時半ごろには威勢よく起き出してポンプを動かす。炊事用の水はわずかであるけれども、大勢がはいるふろのくみ込みはなかなか大量で汗が出る。そうじ当番というのもあった。このそうじ当番の中には室内室外の担当があり、縁側のぞうきんがけなど相当骨も折れるが、もっとも難業とされたものは、便所そうじであった。
 軽井沢グラウンドの手入れは、年百円で同地小学校で請け負っていた。しかし火山近くの地質は粗悪で、石炭ガラを敷きつめたようにボールが変転する。平素戸塚球場で練習していた選手たちには、かなりの困難があった。いきおい選手はみずからグラウンドの手入れをしなくてはならぬ。先生から大きなローラーを購入してもらって、それを数人で引き回す。ほうきではくもの、土塊を運ぶもの、約一週間ばかりは午前中土工のような仕事をしてヘトヘトになる。それがため午後の練習には、かなり疲労するけれども、これまた練習の一部である、ということを強調して選手を督励した。この結果、大正十三、四年ごろには苦労せずに球を扱えるだけの内野となった。

三笠山とお政さん
岩井番頭と三笠山
 大正八年私が初めて奈良の冬季練習に参加してから三年後、猿沢池畔の釜屋は代変りとなった。それまでの釜屋は老人夫婦が経営していたのだが、養子が宿屋稼業を賛成せぬとかで、手放すことになり、月の家という一流旅館の手にうつって、名も月の家別館と改称された。名前は梅川忠兵衛時代の釜屋という古ぼけたのから、月の家別館などとハイカラにはなったが、ガラス戸などが一、二枚すすけた障子といれ代っただけで、いぜんたる古風さに、いごこちにはいっこう変化がない。ことにここの番頭岩井乙次郎夫妻と、女中頭お政さんとは、早稲田の冬季練習部員とは深いなじみであって、経営者の更迭などにはなんの不便も感じなかった。
 岩井番頭は、ときに五十余歳、頭に一毛を蓄えず、その形態冬の三笠山に似ているところから、だれが名づけたか、岩井三笠山、三笠山のおじさんでとおるようになっていた。のちにはみずからも観念してこの三笠山がと自称しては、早稲田が強いのは、毎年釜屋の飯を食うからだと大気炎をあげることもあった。
 若いころはいい顔の侠客であったらしく、からだ中に、相当刃物が突きささった古傷を存していた。容貌魁偉、芝居に出てくる河内山宗俊というお数寄屋坊主にも似ていたが、三笠山のほうが、同じ山にしてはしっくりするので、三笠山のあだ名に落ちついたわけ。やがて先生すら、三笠山さん、と呼ぶほど豪勢なものであった。
 奮闘悪戦ののち、悟道して釜屋の番頭となり、夫妻して勤続すること三十年、三笠山はかつて市から勤続二十年の表彰にあずかったこともある。野球のことは知らなかったが、選手を遇することはいたれりつくせりであった。

早稲田にミソをつけるとは
三笠山とお政さん
 ある年奈良の冬季練習を終った選手一行は、宝塚に進出して大毎と一戦を交え、不幸にして一敗した。珍しく三笠山が試合見物にきて、松楽館で昼食を共にしようとしたが、三笠山は何を遠慮したか、ついにはしをとらなかった。試合に負けて一同が宿に引きあげてくると、河内山ばりの大きな目玉に涙をいっぱいためながら、私にくってかかった。
「なんで負けなはった」
 あまりのすさまじさに、若かりしその昔をしのんでたじろぎながら、
「相手が強かったんだろう」
 と答えれば、彼は特徴の大頭を強くふりながら、
「勝負に出るものにみそなぞを食わせるから、勝てるものも負けてしまう」
「みそって、なんだい。だれがみそを食わしたネ」
「みそをつけたじゃないか。お昼のふろふき大根、あんなものを選手に食わせるから負けるんだ」
 ははあ、三笠山老人、昼飯を遠慮したのは、ここのことだな。
「そんなわけもなかろう」
「いや、あれに相違ない。昔から、ミソをつけるといって、勝負を争うまえにみそは使わんもんや。これだから、ウッカリほかの宿にゃとめられん。奈良での心づかいもなんにもなりゃへん」
 とばかりプンプン怒っていた。それほど三笠山夫妻の真情はありがたいものであった。
お政さんの撃退術
 さらにまた女中頭のお政さんにいたっては、特筆せねばならなかった。お政さんは十六の年から三十まで十四年間というもの、先代釜屋からの忠義者で、他の女中衆は年ごとに別人となっても、お政さんだけは、くる年もくる年も変ることなしに、あるいはなじみの選手を、または新進気鋭の勇士を迎えて全幅の好意を示してくれた。選手がいかにヤンチャしても、いやな顔ひとつするではなく、洋服のほころびから、和服の破れと、そのいそがしい勤めの間を割いて心のありたけを尽した。
 雨の日など、練習のない選手連無りょうに苦しんだあまり、それこそドラ声のありたけを絞って、校歌やら、唄を忘れたカナリヤさんの合唱など、その合間にはドタンバタンといずもうの猛烈さ、家鳴り震動に気兼ねして、先生の代理に注意しようとすれば、
「若い人たちだっせ、かまんとおきなはれ、他にお客さんもないんやから」
 お政さんはかく寛大に、店番の三笠山はどこに風が吹くという大気をみせる。
 釜屋は民政党の定宿で、ときには県会議員や有志などの会合もあり、宴会も開かれて、歌舞音曲に夜のふけることもあった。寝についた選手にはかなり耳ざわりに相違ない。お政さんはこれにも限りない同情を寄せては、
「時間になったら私、ことわりますさかい、辛ぼうしてくんなはれ」
 いちいち選手を慰めておいて、さて時間がくると強制執行的に歌姫連に退場を命じ、酔漢に時間来《じかんらい》を号令して解散を宣する。その手ぎわ、県会議長などよりは鮮やかにすぎよう。
「もう時間だっせ、帰んなはれ」
 たまには、これに反対を唱えて、大いにその不法を責める勇敢なる酔兵なきにしもあらずであるが、
」「早稲田の選手はんが困るがな。よく眠らんと明日の練習ができやへんやないか」
 「こんなきたない家に、早稲田の選手がとまっているはずがない」
「よしなはれ。そんなら安部先生をおよびしてきまっせ」
「安部先生、早稲田の先生か?」
「そうや」
「ほんまにきていやはるのか?」
「次の間にいやはりまんが」
「さようか、わてもこれで早稲田にいったことがあんのや。こわい先生やぞ、安部先生というのは」
「なら早く帰んなはれ。安部先生ばかりじゃおまへん。選手方三十人もいやはります。中には野球ばかりではなく、柔道三段四段という大けな人がいまんが、つまみ出されまっせ」
 お政さん、なかなか老かいでかけひきじょうず、とうとう追い出してしまう。
「お政さん、撃退術がうまいネ」
 と礼賛されれば、
「ああせにゃ、帰らしまへん」
 これで選手もまくらを高うして眠ることができるわけである。
奈良トリオへの記念品
 大正十三年十二月三十日の夜、安部先生は、早稲田野球部が七度奈良に冬季練習を行なった記念として、第一回の練習からあっせんの労をとった奈良新聞の副社長赤堀秀雄-赤堀は旧姓を舟木といって早稲田の英文科出身、穂洲とは、死友の間柄で、彼の奇行については、すでに野球生活の思い出に紹介し尽しているから、再びしないが、畝傍《うねぴ》中学の腕白児から、早稲田の野球、ランニングの選手をなし、奈良運動界の先覚というべく、テキヤの大親分にもなれれば、県会議員にも、代議士にもなれようという不思議な男一匹である1岩井三笠山夫妻ならびに乾政枝さんーお政さんの本名1の各位に心ばかりの記念品を贈呈することになった。
 赤堀には東京から置時計を購入し、記名贈呈することになっていたし、岩井夫妻には品物よりもというので金一封に先生の書を添えることにしたから、なんの準備もいらず、感謝状は選手中の能筆というところから、緑川郁三がわたしの案文を達筆に染めて、数日前からその日のいたるのを待っていた。残るはお政さんに何を贈るべきかにあった。
 こうしたことには単純同士であるところの先生と穂洲、毎日そのことについて凝議したけれども名案も浮ばない。いよいよ残り三日という朝。
「飛田君、お政さんの記念品をどうします?」
「さあ先生、いいお考えはありませんか?」
「どうも困りましたネ。曲がないけれど現金にしましょうか」
「今まで先生と考えつくして残念ですネ」             .
「でもしかたがないでしょう。もうあさってですから」
「それでは先生、こうしたらどんなもんでしょう、お政さんに反物を買ってあげたら。あの人も…… 近くお嫁にいくでしょうから」
 「それはいい考えですが、きものというものは柄のみたてが容易ではないし、本人の好き不好きもあり、他人がみたてたのでは気にいらんでしょう」
 「そんなにむずかしいものでしょうか。お政さんの年を呉服屋の番頭に話して、ちょうどいいのをみたててもらったら、気にいるようなのがありそうなものですネ」  
 「そうはいきませんよ。年、好み、あるいはそれぞれ商売柄等を総合しなくてはだめなんです」
 二十年も三十年も、もめんのかすりを一張羅としている先生も、そうしたことに関しては、あながちわれらに説教を加えるほどの資格ありとは思われないけれども、整然たるセオリーには屈服せざるをえなかった。話はついにもとの現金説に一致しようとしたとき、私は再び「先生」と呼びかけて、
 「ぼくに任してくれませんか。お政さんの気にいる反物を私が買ってきますから」
 「そんなことができますか。あなたに気にいったって、お政さんに気にいらなければだめなんで'すよ」
 「それをぼくがやるんです。きっとお政さんに気にいるものをみたてるのです」
 「ノックを打つようなわけにはいきませんよ。大丈夫ですか。エラーをすると醜態ですからネ」
 「細工は流々というやつです」
 「さあ、君では信用ができません」
 その日の練習がすんだとき、赤堀に電話をかけて、夕食をすましたら宿へきてくれ、餅飯殿町《もちいどのちよう》まで反物を買いにゆく、つき合ってほしいと頼んでおき、お政さんにはお勝手の仕事がすんだら一時間ばかりおれに用を頼まれてくれないかといって承諾を得た。すると先生の隣りに馬力をかけていた久慈次郎、次郎はすでに函館に就職していたが、何かの用事で上京のついでに、奈良まできていた。
「飛田さん、お政さんと内しょ話をしてけしからんじゃないか」
「内しょ話じゃない。みんなの前で頼んだんじゃないか」
「どこへいくんです?」
「散歩するさ」
「いよいよけしからん。ネー先生、けしからんでしょう?」
 先生は温顔に微笑を浮べたままなんともいわない。
「なにがけしからんことがあるものか。赤堀もゆくんだから」
「でもいい年をしたものが、婦人を同行するなんて」
「ぼくもゆく」
「君はじゃまになるから同行を断わる」
「それみなさい。やましくなければ、ぼくがついていったって、さしつかえないはずだに、先生どうです?」
「さあ、飛田君がなにかお政さんにおごろうというのだろう。久慈君もこのさい随員に加えても
らうんですネ」
「しめた、先生からお許しがでたのだから、ぼくはどうしてもついていく。あまりご馳走のない夕食はこのくらいにしておこう」
「このくらいって久慈君、いくはい目です?」
「久慈さんは、七はい目がすんだところなんです」
「ウンニャ、そんなにやるもんか」
「ほんまだっせ。もう久慈さんが卒業なさってから二、三年になりましょう。で、もとのようにお丈夫かしらと思って、私は一ぱいさし上げるたびにボンの上へ御飯つぶをおいて勘定していましたの。ちっともお変りにならないので安心しました」
証拠十分に久慈次郎強弁の余地もない。
餅飯殿での珍客
 お政さん雑用はなかなかにひまどれて、やがて九時近くなったころ、ようやく片づいたものとみえ、珍しくよそゆきの支度をして出てきた。待たせておいた赤堀と、それに強行する久慈次郎、マネージャーの鈴木茂宗、これは御用金がかりとして加わる。餅飯殿の老舗《しにせ》までの道すがら、
「ネーお政さん、実はあんたに、ひとつ反物をみたててもらいたいんですがネ」
「さあ、私にわかりましょうか?」
「わかりますよ」
「お宅の奥様のでしたらあきませんよ」
「いや女房のではないのです」
「奥さんのでなくてだれのです?」
 久慈がききとがめて小もどりする。
「君は黙っていたまえ。だから連れてこないと…・:」
「でも、奥さんのでなくてだれのだか、そこが問題でしょう。わが輩同行の必要がますます生じたわけだ」
「まあいいから、ラストまで黙ってついて来いよ」
 この半畳をいれがちな長身居士に作戦計画を打ち明けておけばよかったと思ったけれども、すでに遅い。
 餅飯殿町の松野は、主人公の歿後、吉田雑貨店と改名されたが、そのころは奈良一流の呉服屋であった。店先はやや旧式ではあったが、番頭小僧にぎやかに、山とつまれた商品の中を活発に働いていた。奈良の顔役赤堀秀雄の先達というところから、わざわざ主人が店頭に現われて応対してくれる。人数こそ多いが、わずかに一反を買う貧弱なるお客様に対しては大ぎょうにすぎる。
「早稲田の野球部のかたがたですが、反物をひとつみせてくれませんか」
 赤堀が口を切ると、主人公はあいそよく、番頭の名を呼びながら、男ものか女ものかと軽くたずねる。さあこれからがいささかめんどうだ。私が「女もの」と答えると、
「ご婦人用」と主人は威勢よくいって「錦紗にいたしましょうか、それとも小浜、お年にもよりますな」
 こうなってくると、いっこう私にはわからぬ。錦紗とか小浜とかいうのはユニフォームの地にはない。
「お政さん、どっちがいいでしょう?」
 しかたがないので相談をもちかけると、主人は早合点して、
「あなたのお召しものですか?」
 ときたので、私は少なからずろうばいした。
「いやこの方のではないのですが、男ばかりでさっぱり見当がつかないものですから、柄のみたてに頼んできたのです。とにかくその錦紗というのと小浜というのを両方見せてください」
 番頭は心得て、各十数反ずつ私どもの前に陳列した。
「お政さん、どうぞあなたの気にいったのを選んでください」
 赤堀、久慈、鈴木いずれも無粋連、錦紗、小浜の前では審判ができない。
 お政さんは並べられた反物に目を落して、わてかって困りまっさ、と口の中でいったが、
「年ごろは、いくつくらいの方や?」
 と、私にたずねる。
「さあ、ちょうどあなたぐらいでしょう」
「ご商売は?」
 この質問にはちょっとゆきづまった。あなたのように女中奉公、とはそくざに答えかねる。私はもじもじしながらわずかに、
「宿屋の……」
 と口ごもると、お政さんは、察しよく、うなずいて、いちいち反物をとり上げ、子細に検し始めた。しかしなかなか決定しかねるらしい。
「からだ、かっこうはどんなでいらっしゃる?」
 いよいよ微に入り、細をうがつ。そのへんになんらの用意をしていなかった私は、またグッとつまった。
「ひとによって好みが違いまっし」
 いちいちごもっともに相違ないけれども、これを明快に答弁するのはホームランを打つよりむずかしい。テレ隠しに、私も初めて錦紗や小浜という、手ざわりのいい反物を取り上げてみたりした。
「いったいだれに買ってやるんです?」
 退屈した久慈がまた横合いから口をだす。
「君は、干渉するなよ。だれのだっていいじゃないか」
「でも気になるから」
「気にしなくたっていいよ」
 みんなクスクス笑う。
「お政さん、あんたの好きなのを選んでくれませんか。それで結構なんですよ」
「じゃあ、その方に気にいるかどうかわかりませんが、これにしましょうか」
 お政さんは小浜の一反を手にして最後の判定を下した。私はほっとする。すると久慈次郎がまた、
「お政さんにもなにか買って上げなくちゃ」
 とよけいなことをいう。
「お政さんには改めてお礼をするよ」
「またってことがあるもんですか。寒い晩にここまで引っぱり出してみたて料を出さんということはない」
「君のようなウルサイ人間のいるところでは、かえってお政さんが迷惑するから」
「うまいことをいっていらあ。お政さんごまかされてはだめですよ」
 マネージャーの鈴木が代価を払って店を出た。一時間余を費して。
「なんだ小浜縮緬一反か。先生にうまくかつがれちゃった。ご馳走をするんでなけりゃ、ついてくるんじゃなかった」
 久慈がひとりでぐちをこぼす。
「夕飯を七はいもちょうだいしたら、がまんできそうなものだ」
「うちわにしたから、腹の虫が行儀が悪い」
「もういけないよ、時間が遅いから、食いもの屋なんかにはいったら選手から故障が出らあ」
 そこへ、赤堀が、仲裁に立って、
「久慈君、君と二人だけならいいだろう。ここに江戸前のそばを食わせるところがあるから、久しぶりにお手並みを拝見しようか」
「サンキュウ、やはりさばけた先輩でなけりゃ話せない。金仏さまとは未練なしにお別れだ、サヨナラ」
 先生は、電灯のおぐらい六畳の間に泰然として私の帰りを待っておられた。
「うまくいきましたか?」
「いやなかなかの苦戦でしたが、やっと成功しました」
 私は先生の前に、抱いていた反物の包みをそのまま差し出した。
「それはお手柄でした。これで全部記念品がそろいましたから、あさっての晩、贈呈式をあげましょう」

谷間に匂う桜かな
 十二月三十日の夜がきた。練習をすまして帰った選手一同、中学生の練習生も混って総勢五十人あまり、八畳四間を打ち抜いた広間に陣どる。正座には赤堀を初め、三笠山夫婦、お政さんの四人が並ぶ。安部先生は例の温顔に笑を浮べながら、静かな調子で、
「早稲田の野球部が奈良へ冬季練習にくるたび、万事お世話になる方々に、いささかその厚意を謝する意味で野球部から、ほんの心ばかりの記念品を贈呈したいのであります。私どもは過去六度にわたって奈良春日野グラウンドで練習をいたしましたが、グラウンドのほうは先輩であるところの赤堀君のゆき届いた指図により、いかにも心地のよい練習ができますし、また宿のほうは岩井さんご夫婦、ならびにお政さんの格外なるご親切から、ちょうど自分たちの家庭にあるようなのんびりした気持がいたします。これはひとえに赤堀君、岩井さん、お政さんの暖かい心として愛謝に堪えないのであります。お目にかけるものはまことにお恥ずかしい品々でありますけれども、どうぞ私どもの寸志をおうけください」
 私が贈呈役になって、赤堀の前に置時計を、岩井三笠山夫婦の前に金一封を、しかして、お政さんの前にうやうやしく差し出した反物入りの細長い箱。お政さんはつつましやかに首を垂れていたが、このとき無遠慮な久慈次郎が、「あッ」と驚きの声をあげたので、お政さんも思わず顔を上げ、その水引のかかった木箱に目を落して、これも意外の面もちをする。
 私がジロリと久慈の顔をみて、どうだという表情をすると、さすがの次郎公も、頭に手をあてて一本参ったというサインをした。一座はなごやかに南円堂の鐘の音が響くと、一同を代表して赤堀のあいさつがあって、まず式は閉じられた。
 記念品にはいずれも先生の執筆が添えられてあったが、お政さんのには、
   人知れず谷間に匂う桜かな
 という一句が、先生の人格そのままの柔らかい筆で、墨痕鮮やかに絹地に染められてあった。


平凡な大投手、竹内愛一
竹内愛一の登場
 奈良の冬季練習を回想するたび、特に私の胸にょみがえってくる一人物は竹内愛一である。愛一は、いま京都の本願寺に近く、山崎屋という仏具商の若主人として活躍している。角帯に白たびという姿を一見すると、当時第一流の投手として早稲田のプレートを安泰ならしめた面影をうかがうことができないけれども、本人にいわしむれば、まだまだ腕は鈍っておらぬ、いざとなれば四回や五回は生きた球を投げてみせまっせ、と豪語しては都市対抗などに現われることもある。奈良の雪隠でえん罪をこうむった翌年、花咲くころ、まだそのときは早稲田グラウンドの更衣所が、垣根の外、柔剣道場のそばにあった。私が更衣所にはいってゆくと、裸体の大男がうしろ向きになってさるまたをはいている。あまり美しい肌色ではない。だれの後姿であるかわからない。私はなにげなく背中をこづいてみた。するとこの男は恐るべきとん狂の声をだして飛び上がった。
 顔と顔と向き合うと、それが竹内童子であった。
「ああ、驚いた。なにしますのや」
「竹内か。だれだか、さっぱり見当がつかんから、ちょっと失敬してみたのだ。いつきた」
「二、三日前来て、もう試験が済みました」
「うまくいったかネ?」
「うまくいきましたとも。わてが落第するようだったらだれもはいれしまへんやろ」
「大きく、出たネ。そこで、もう練習を始めるというのだネ」
「早稲田にはいれば、早稲田の選手でんが」
「まだはいったかどうかわからんじゃないか」
「大丈夫金の脇差しというところや。心配しなさんな」
 どうも先輩に逢うているような気がする。なにしろ二十日も便通がないという男なんだから、人並みに応対していてはおっつかない。
 二人で肩をならべながらグラウンドに出ると、童子は泰然とそこのベンチへ腰を下ろして、おもむろに両腕を組んだ。このペンチは練習中安部先生以外には腰を下ろすことのできない、選手禁制のベンチであり、監督といえども練習試合を除いては、腰をかけられない。練習が始まったら、ベンチへ腰をかけてはならぬ、これが早稲田野球部の昔からなる約束である。
 むろん竹内はそんなことを知っていない。いつまでたっても腰を上げずに、先輩連の練習を凝視している。当時は、久保田頼をキャプテンとして、田中勝雄、永野重次郎、松本終吉、堀田正、梅川吉三郎などを古参に、加藤高茂、有田富士夫、谷口五郎、宮崎吉裕、安田俊信、山崎武彦といった面々が若さに輝いていた。
「みろよ、京商の竹内を。やっこさんまるで大先輩といったかっこうじゃないか」

投手竹内の特徴
 そのうち、安部先生が来場される。竹内はピョコリとおじぎをしたまま、いぜんとして動かない。先生がグラウンドへおみえになるのは、いわば日課ともいうべく、大学の用事をすまされると、しゅくしゅくとベンチにおいでになって日暮まで見物される。しかもそのベンチに腰を下ろされるところが、判でおしたようにきまっている。ところが、この日は珍客竹内愛一がすでに先生の自然的レザーブ・シートをうばっていたので、やむなくそのそばに座を占められる。
「竹内君、いつ来られました? 試験のほうは大丈夫ですか?」
 先生が口調静かにたずねる。
「試験は大方優等だろうと思います。なにしろむずかしいほうはやめにして、必ず入学できるというところをやりました。商科の専門部ですから、商業学校を出たものには、むしろ手ごたえがありません」
「それでは、もう入学したも同様ですネ。ピッチャーのほうはどうです」
「そのほうも先生、大丈夫ですよ。今のところ谷口さんがいますから、張り合いがないですけれど、谷口さんが卒業されたら、ぼくがきっとうまくやります」
 これには先生もだいぶあてられたらしく、竹内君は変っていますネ、と感歎しておられた。竹内としてはもちろん普通のことをいったので、決して大言壮語したつもりはない。彼は生来自慢をしないかわり、特にけんそんもしなかった。自分の考えていることをきわめて率直にいう。後年大投手になってからも「今日はどうだ」ときくと「あきまへんぜ」と答えたときにはやはり調子が悪かった。「今日は」ときいて「すてきです」とニッ戸リと笑ったときは、まったくすばらしい投球をみせた。ここに常人と、いささか趣を異にした点を見いだされる。多くの投手は、みずから好調子と思った場合存外働けず、肩が重苦しくてはなはだ不調を訴えたときに、かえって名投をするといったふうに、本人のいうところをもってただちに信じがたい。そこにコーチとか捕手とかの判断のむずかしさがあるけれども、竹内に限っては、実によくおのれを知っていた。

竹内と小野、谷口と湯浅
 谷口が卒業したら必ず竹内時代をつくってみせる。こうした確信が、早稲田入部以前、彼の胸奥には強く潜在していたに相違ない。
 それかあらぬか、谷口五郎が第一投手として飛ぶ鳥を落すような勢いだったころの、竹内というものは、京商時代の評判はおろか、すべての点に期待をもつことができなかった。グラウンドに出て先輩の練習を、ポカンとして見物している日が多く、たまに打撃練習に投げさせてみれば、ポカポカ打たれる。練習にも身を入れていない。まるでグラウンドへ遊びに来ているようにも思える。後継者をつくるつもりの谷口が、ピッチングのコーチをすれば、わかったのやらわからぬのやら、いっこう要領を得ない。気短な五郎が業《ごう》をにやす。が、当人はまったく馬耳東風、悠長まさに雲上人の観。
 日本の野球界に私の推薦する大投手は、小野三千麿(故人、元毎日新聞)、谷口五郎、湯浅碵夫(故人、元毎日オリオンズ監督)、竹内愛一の四人である。しかして、小野と竹内、谷口と湯浅は同型の投手であったと思う。いずれも天才的であったに相違はないが、谷口、湯浅は天賦の球力を有した点において、小野、竹内とは多少その趣を異にし、いわば小野と竹内とは努力的の天才ともいうべく、谷口、湯浅の華麗なりしに比べれば、二人の投球は地味質実の感を免れなかった。性格においても小野と竹内は酷似し、やじ馬の罵声や、相手方の冷笑等をいっこう意に介せず、超然としていたのに反し、谷口と湯浅はつねにけんか腰であり、ときには見物人と立回りを演じたなど、一本気の愛すべき点は多々あったが、敵にすきを与える不利も認めなければならなかった。
 そこへいくと小野、竹内というものは、まったく名人かたぎ、どんな場合にも平然として投球をつづけていた。
 谷口、湯浅はまっこうに攻めかかり、鋭い太刀風に敵をカラ竹わりにする快味をみせたから、つねにはなばなしい感じをとどめたに反し、小野と竹内のそれは、成績を調べてみてはじめて、その投球の異数な点を知るというように、深みのあるものであった。
 竹内が後年平凡なる大投手の評をうけたのは、まさにここにあり、小野でも、竹内でも、みた目には少しも威力を感じなかった。だから二流三流の打者にも打たれるし、名もなき実業団の選手などに対しても、ホームラン、三塁打などを飛ばされることもあった。しかも谷口と湯浅の球は、二流三流という打者では手の下しようがなく、その速球にげんわくされてしまう。

小鰐先輩の挑戦
 あるとき、押川春浪先生の墓参のかえりがけ、東京日々の運動課長であった弓館小鰐君(故人)が、
「明治の連中は、どうして竹内の球があんなに打てないのだろう。竹内の球ならぼくでも打ってみせるがなあ」
 と私に挑戦してきた。弓館君はそのころ丸の内の実業団リーグ戦に、一回の試合中引きつづいて二本のホームランを飛ばしたというので、天狗の鼻息がすこぶる荒かった。近ごろの小鰐子は、一人娘の操を嫁がせ、やがておじいさんになるという心配からか、やや意気消沈の体とあるが、当時の同君は、まだまだ撥らつとしていた。
「丸の内リーグの投手と少しばかり違うよ」
 と私がからかったところ、同君むきになって、
「貴様はこのごろのぼくの腕前を知らんからだ。竹内の球ならきっとおれがヒットを打ってみせる。湯浅の球は閉口だが、竹内ならワケがあるものか」
「だめですよ、目がくさってるから、一度だってパットにあたるもんか」
「こやつ失敬なことをいう。竹内の球をヒットすることができなかったら、グラウンドの衆目環視の中で地べたに手をついて貴様を三拝する」
「先輩に三拝されたところで始まらないから、やめることにしよう」
「それみろ、ぼくに負けるもんだから、ごまかして逃げようとする」
「そんなことがあるものですか」
「じゃ打たせろ」
 いい出したらきかない小鰐坊、私はやむなく日を約して別れた。約束の日、小鰐君は小ぶろしきに、シャツとズボンを包み、地下たびを用意して戸塚にやってきた。大昔の選手であるところの弓館小鰐は、スパイクのくつをはいたことがない。必ずたびはだしとなる。スパイクのくつなどという文明的のものを用いると、コロゲてしまうらしい。
「三度振りに来ましたネ」
「ぼかをいえ、きっと打ってみせるから」
 弓館君はベンチの上で、武装を整え、グラウンドへ現われた。
「しばらくやってないから、少し練習させてくれ」
「真剣勝負に練習なんてありませんよ」
「そういうな。どのティームだって試合前に練習するじゃないか。因業なことをいわずに二、三本打たせろ」
「ではしかたがないからあのネットのところで、二、三本打ってください。そのうち竹内にもウォームアップをさせます。弓館君ならウォームアップの必要もないわけだけれど」
「そう貴様は軽べつするなよ。やってみなければわからんではないか」
「いけませんよ、ハニカンでいたりしていては、パットをかすりませんから」
やがて小鰐君は四、五本のフリー・バッティングをして私のところへ帰ってきた。
 一方では竹内が、練習をしている。
「もう大丈夫ですか?」
「もういい」
「じゃ勝負を始めましょう」
早明戦に快投したばかりの竹内には油がのっていた。
ついに三拝をよぎなくさる
「おい竹内、先輩の弓館君が、君の球を打ってみたいというんだ。弓館君のいうところでは、明治の連中がどうして君の球を打てないだろう、不思議でたまらぬ、おれならポンポン打ってみせるというのだ。いわば今日は先輩と真剣勝負をするのだから腕っきり投げてみろ、いいか」
 竹内は例の鼻をピコつかせながらまじめにうなずいた。先輩に敬意をはらって、正選手が、全部布陣した。審判のプレー・ボールに弓館君は、リュウリュウと得意のバットを打ち振りながら、ボックスにはいった。
 竹内の第一球がプレートを切って捕手のミットに納まる。審判はストライクと判じた。弓館君は微動だもせず、次のボールを待った。第二球もストライクであった。第三球、彼は打たんとして中止した。審判官は気の毒そうに無言のまま右の手をあげた。
「弓館君、三振じゃないか」
「まあそういうな。今のは小手調べだよ」
 第二回の勝負に、弓館君は三度パットを空振りした。
 第三回ツウ.ストライクののち、私は竹内に目くばせした。心得たか竹内は弓館君の振りぐせに向かってコントロールした。初めてパットに快音を伝えたが、飛球は二塁手山崎武彦のグラブに軽く納められた。見ていた見物はいっせいに拍手をおくる。弓館君はきわめて厳粛に帽子を脱して、竹内愛一に一礼した。愛一はいかにも気の毒そうに、これもまた礼を返して勝負は終った。
 小鰐君はバットを提げながらベンチに帰ってきた。生まじめなその顔には微笑を浮かべ、満足そうであった。
「どうです?」
「いや参った。実にふしぎに速い球だ。約束どおり貴様に三拝する。ただし地べたに手を突くことだけはまけろ」
「三拝してもらってもつまんないから、全部まけますよ」
「いや三拝だけは、まけてもらわん」
 直立不動の小鰐、穂洲にあたまを下げること三度、グラウンドは久しぶりにこの大先輩を招じ和気に満ちた。
 小鰐君は今にこのことを忘れず、竹内の偉大なる球力に感服して、彼のように、外見平凡の速力にみえて、バットの直前に速くなるのは古今独歩のものであり、実際にあたって初めて明治の強打者が悩めることに不思議のなかったことを知ったといっている。
 これはわずかに愛嬌のある小鰐君の逸話を伝えたにすぎないけれども、竹内の球はスタンドから見てはなんの変哲もなかった。凡庸の投手以上に買うことはだれにもできなかった。しかも一度ボックスに立ってこれを打とうとすれば、手もとに繰り込んでから速力をます威力は、多くの強打者をして凡打をよぎなくさせている。
愛すべき愛一の無邪気さ
 谷口がいた一年の問、、彼は前にもいったようにグラウンドで遊んでいた。谷口が後継者のためにと、やかましくコーチすれば、ハイハイとはいうが、そこになんらの熱もなく、練習に命を打ち込むようなけぶりも少しもみえない。
 芝浦の運動協会や、大洋クラブの試合などに投げさせてみれば、ポカポカ打たれてしまう。
 大正十一年の春に入部して、その年の十一月下旬、大隈記念事業応援のため中国から九州に転戦したとき、谷口の補助として竹内も従軍した。広島で一日二回の試合をしたさい、全呉に投球したが、第二回目に相手投手からはからずも死球をくらって、彼は球があたると両手を拡げ悲鳴をあげつつバッタリ倒れた。みんな驚いてかけより、抱き起こしてベンチへ運ぶ。グッタリとした彼はウムウム……とうめきながら痛みをこらえていたが、さては大声に泣きだした。五尺七寸(一・七三メートル)という偉丈夫が、それこそ明け放して泣くのだから、戦友たち同情しつつも、広島の見物にきまりがわるい。
「竹内泣くなよ。泣いたって痛みがとれるもんか。がまんしろ」
 と永野重次郎が慰めるけれども、容易に泣きやまない。
「大きなナリをして泣くやつがあるものか。あたったのは、背中じゃないか。あんまをとらせたとおなじなはずだ」
 と激励するものもあった。すると、今まで泣き声を公開していた竹内愛一、くるり向きなおって、
「あんたひとのことやと思って、そないなこといいなはるが、あたってみなはれ」
 と逆襲する。みんないっせいに笑いだす。
「竹内、痛いかい」
「痛うおます。球にあたって痛うないものがおますか」
「そうムキになるなよ。お見舞を申し上げたんじゃないか。君でも痛いかね」
「不死身じゃおまへん」
 まるで大きな子供といった感じで、実にその言行のいちいちが愛嬌そのものであった。この旅行、九州まで下ると、急に京都へ帰りたいという。なにか用事でもあるかと問えば、
「ホームシックでんネ」
 と答えて平然としている。万事かくのごとき無邪気さであるから、だれにも愛される。まさに彼は、その名の示すごとく、なんびとよりも第一に好意をもって迎えられた。
、しかし、技倆にはなんの進歩もみせず、むしろその前途をあやぶまれながら、早くもニシーズンをすぎた。大正十二年春には、早稲田の大黒柱であるところの谷口五郎が、卒業して入営した。残るは竹内愛一ただひとりである。
 この年の春は、キャプテンにして名遊撃手であった久保田幀、ホームラン王田中勝雄が、あまたの軍功を残しつつ、早稲田を去っていった。谷口、久保田、田中、これは当時のティームの中堅人物であり、この三選手によって十一年秋のリーグ戦は全勝したというのも過言ではなかった。
 ことに谷口を送り出したことは、実に容易ならざる打撃であった。投手さえあればなんとか方法はつくのだがと思えば、竹内の幼稚さがいかにも不安に堪えぬ。永野、松本、有田、大下、の古参に山崎、根本、河合、氷室等の新選手、これらの将来には多分に期待すべきものはあったけれども、刻下の難をどうすることもできない。
リーグ戦で初陣を飾る
 春の先頭試合に、芝浦の運動協会に一勝したが、第二回戦には八対二の大敗をこうむり、竹内は十五の安打を浴びるというまことに頼りないものであった。ところがリーグ戦となって明治と戦うや、彼はふしぎに好投し、渡辺大陸を向こうにまわして、ほとんど互角の投球をなしている。
 早明第一回戦は、四月二十九日に戸塚球場で行なわれる予定であったが、大隈重信公未亡人綾子の方が危篤というのに遠慮し、法政中野球場を借用して戦った。細雨をついての激戦、久しく谷口に苦しんだ明治は、早稲田の新ティームを一挙にしてほふろうとする。渡辺を投手に、梅田、谷沢、湯浅、林、横沢、二出川などまさに一騎当千、陣容いよいよ整備していた。
 第一回早稲田は渡辺の四死球と敵失、有田の安打等に二点を先取したが、五回に一点を返した明治は、第七回湯浅のホームランに同点とし、試合は刻々白熱していった。このときの湯浅は、先輩渡辺が投手であったため、まだ中堅手としてその打撃を尊重されていた。七回の裏大下が中堅に安打したのを、自慢の肩で一塁に遠投し、これが後逸となって二塁を与え、有田の安打に大下が生還して再びリードしたが、第九回に湯浅再び安打し、失策、野選等がつづいてまたもや同点となった。しかもなお一死であったのを、稲葉スクイズ・バントを失敗して二出川を倒し、早稲田に攻撃をゆずるや、山崎死球、松本バント、大下の一打右翼のライン上に落ち二塁打となって、からくも勝利の一点を得た。この安打は明治方からファウルの抗議がでたけれども、野坂三郎君が審判で、頑として応ぜず、泣寝入りとなった。
 この投球が竹内の出世投球ともいうべく、渡辺が安打七、四死球七を与えているのに、竹内は安打六、四球二の成績で、思ったより上出来であった。けれども対立教第二回戦には、九対七に敗れるなど、まだまだ信用ができなかった。果せるかな、駒沢に行なわれた第二回明治戦は、第一回二点を先取しながら、竹内は第七回から疲労を感じ、カーブを打たれて五対二の敗戦となった。

会心の勝利1・立教に逆転勝
 ことに立教の決勝戦には、望月虎男(故人)が永田、太田、二神に連安打を浴びたのち、竹内が救援し、試合は第九回の最後において、立教の五、早稲田の二と開き、もはやまったく絶望を訴えられた。
 この一戦は立教新加入当時のまだ認められていない時代であったから、人々の記憶にもあまり残ってはいないけれども、実に興味深いものであった。早稲田の一教授などは、第九回の表に、立教が原、太田の単打、荒井の三塁打に二点を入れるや、憤慨にたえず、味方のふがいなさを嘆息しつつ帰宅した。
 ところが翌朝新聞を見ると、早稲田の勝利となっている。あの試合に早稲田が勝つはずがない、たしかに新聞の誤報と信じ、さっそく合宿所に出かけていって実否を確かめたなど、変った話もあった。ラジオのなかったじぶん、うそではない。
 それほど立教竹中の投球は早稲田を苦しめ、竹内は立教の打者に攻めぬかれた。五対二の断末魔を早稲田は、先頭打者の山崎から攻めた。
 立教は勝ち誇って守る。そこへ山崎は中堅へ三塁打を放った。次は松本終吉の番であったが、私は思いきって戸田に代打させた。キャプテンに代打を用いるなど、まだそのころは面目を重んじたから容易ではなかったのであるが、背に腹は代えられぬ。ここで乗るかそるかの攻撃をせねばならない。松本はみずから竹中に弱きを知って快く譲った。山崎には安打が出ても帰ってはならぬことを命じ、左ききの戸田廉吉がボックスに進んでいく。息が詰まるような感じである。戸田は和歌山中学時代の強打者で、後年練習中に脚部を負傷し、ついに大成せずに終ったが、その打撃にはいうべからざるうま味があった。
 彼の一打はまたもや左中間を貫いて三塁打となった。当時ピンチヒッターの採用でこのくらいの成功は珍しかった。山崎はやむなく生還し、戸田は三塁に立ち、大下は四球を利した。立教方は戸田を閑却しておいて大下の二盗を刺さんと計画し、竹中、太田ともに懸命になったが、太田の二塁投球高く、大下を生かし、戸田の生還となり、井口一塁線上を抜いて二塁打、有田二塁の失、氷室の飛球犠打とつづき、悪戦苦闘四点を収め、わずかに勝利を得た。
 立教のためにはまことに惜しむべき試合で、泣くにも泣かれなかったであろう。これから早稲田の攻撃は末強くなり、集中安打の誉れが高くなった。
好敵手湯浅幀夫との対戦
 さて、法政、立教には勝ったけれども、残る明治の決勝戦はすこぶる心もとなく、早稲田は毎日血をしぼる練習をしていた。ところが、明治の投手渡辺大陸君に事件が起こり、突然彼はシーズン半ばにして退部せざるを得なくなった。早稲田が好敵手を失うばかりでなく、大学野球界の一大損失でもあったから、明治の内海月杖氏などといろいろ相談をしたけれども、いかんともすることができなかった。
 せっかく整頓した明治のティームもまさに一角からくずれんとしたとき、ここに突如として現われたのが湯浅碵夫であった。彼は渡辺君を失うや、米子時代の投手に復活して味方の危急を救うの決心をした。矢のごとき球力、これをコントロールさえすることができたら、なんらのたくみがなくとも一流に伍して遜色があるまい。
 湯浅投手の初陣は驚くべき球威を示し、慶応を完封した。げにもはなぱなしい出現、これによって明治は法政、立教に各二勝し、慶応をストレートに蹴破して、一躍天下に覇を称せんとする。問題はわずかに早明決勝戦のみである。
 久しく願望せる明治の覇業はまさに目しょうの間にある。
 こうした意味から、六月十四日戸塚に開かれた早明決勝戦は異常の人気を呼んだ。今でこそ五万六万という観球家が、外苑球場を埋めることは、珍しくないが、そのころ早稲田の運動場にりっすいの余地なしという盛況は、天下の壮観に相違なかった。
 竹内と湯浅、この両者はおのおの生れた野球部のため、心血をそそぎ、好個のかたき役となって、大正十四年の秋までしのぎを削ったのであるが、その初対面がこの日に行なわれた。精かんさを眉宇《ぴう》に現わした湯浅と一見|茫乎《ぼうこ》たる竹内との対照もきわめて妙であり、渦をなせる観衆は互いにおもいをよせるティームへの声援に、汗を握っていた。

小手をかざして飛行機見物
 やがて新田、桐原両君の審判に試合が開かれる。先攻した明治は、一死後二出川延明(のちパ.リーグ審判)が四球に出た。二出川は軽捷|快隼《かいしゆん》のごとく、打者としては恐るるに足らなかったが、塁に出してはことごとくやっかい、それが竹内の球を選んで一塁によったから明治の幸先は上乗のものであった。
 ときに一台の飛行機空低く南よりきたり、球場を一周する。飛行機が野球場を訪れたのはこれが初めてではなく、大正十年秋にはワシントン大学を迎えた早稲田が、小栗民間飛行家に依頼して、飛行機上から始球式を行なった。ただしこの始球のボールは、風のためいずかたにゆくえをくらましたか、ついにグラウンドへ姿を現わさぬという珍始球式に終ったけれども、さして飛行機の飛来を奇とするに足らぬ時代となっていた。
 快敏りすのごとき二出川を塁にとどめ、谷沢、大門、林、湯浅という明治方の驍将を前にして、爆音をきいた竹内愛一、ここちよげに初夏の空を仰ぎ、小手をかざして飛行機の快翔にながめ入る。二出川に虚をつかれては一大事・、ベンチから大声疾呼、これを注意するが、本人いっこう意に介せず、あくまで飛行機をながめたすえ、ニッコリ笑ってプレートに帰った。さすがの二出川もこの大胆さに気を奪われたかたち、コーチャーをかえりみてともに苦笑した。
「試合中に飛行機見物をしてはいかんじゃないか」
 ベンチに帰ってきた竹内を私はこうたしなめると、
「二出川に四球を出して、ああしまったと思ったとき、急に飛行機が来ましたやろ。よく飛ぶなあとウッカリ見とれましたんや」
「あんなことをしていると、二出川に空巣を狙われるぞ」
「二出川が走り出したら二塁で殺してしまいまんが。どないに二出川が早くても、わての球にはかなわんでしょ」
大敵に一塁を与えてなお心にしゃくしゃくたる余裕を存する。
 湯浅だって初陣なら、心に動揺を禁じ得まい。
 腕で及ばなかったら、胆玉で投げる。愛一の胸奥にはこうした図太さがあった。

愛一童子の自信
 飛行機にゆうゆうながめ入った竹内童子は、明治に一点を与えたのみ、終回まで一糸乱れぬ投球をつづけた。味方は、井口、山崎の三塁打、湯浅の四球等で、五点を占め、球界の視聴を集めたこの一戦も、早稲田の快勝となり、明治の雄図は挫折した。竹内は確かに好投手たるべき第一歩を踏み出したに相違ない。けれども、その見栄えせざるピッチングは、一般から多くの期待をかけられるものとはならず、果して快投手谷口の後継たりうるやは、すこぶる疑問とされていた。むしろ敗戦はなめたが、湯浅の偉材たる評判のほうが高く、早稲田はやがて湯浅投手のため難戦苦闘せねばならぬであろうと予測された。私自身もむろん渡辺以上に湯浅の警戒を怠らなかった。湯浅の速球とカーブを攻むるには、異常の努力を必要とすべきは覚悟の前であるが、さてこれに対して勝利を望むには、攻撃のみでは万全でない。湯浅の球威に向かっていかに健棒をふるうとしても、得るところ三点以上にはでまい。さすれば、守備に相きっこうする力を養わずしては勝ちがたい。守備は投手から、まず竹内をべんたつしておかねばと、思った。
「竹内、明治の湯浅はすてきじゃないか」
「そうどすな。球がはようおます」
「秋までには恐るべきものとなるだろう」
「なるやろうと思いまんな」
「おまえ大いに奮発して腕を磨かんと、早稲田は勝てんぞ」
 こう私がいうと、童子はフフンといわぬばかり、口もとに笑いを浮べながら、
「湯浅がじょうずになれば、わしかてじょうずになりますやろ」
「そうだろうか」
「そうだろうかなんて、ひやかしなさんな。湯浅が練習すれば、わしも練習しますやろ。五分と五分でんが。湯浅ばかりじょうずになって、わしがじょうずにならんという理屈はおまへんやろ」
「そういうわけにいくかい」
「いきまんが。そないに心配しなさんな。しらががふえまっせ」
「まあ、とにかくしっかりやってくれ、ナ頼む」
「やりまんが。わしの秋を見てください」
こうして童子は京都へ帰った。

フォーク・ボール

 軽井沢の夏季練習は、八月十日から開始された。選手はおのおのその郷地から参集した中に、竹内愛一は、まっくろに日やけした顔をヌーッと私の前に現わした。
「どうだな竹内、元気は」
「張り切っていまんな、約束どすから、今日はわしの球を見てください。富士夫(有田)さん、武(山崎)さん、井口かて打たせませんよ」
「ばかに鼻息が荒いけど、いざとなって、ポカポカじゃないか」
「春の竹内と、ちっとばかり違いまっせ」
 安部先生の開拓されたグラウンドは、高原の秋草に囲繞されて静かに選手を待っていた。久しぶりに相まみえる選手連は}いそいそと練習衣に着かえた。
 竹内は永野重次郎を相手に、ピッチングの練習を開始した。しばらくすると、私に竹内がニコニコ顔で手招きをする。近寄っていくと、ちょっとわしの球を見てくれという。
「練習始めから、そんなに投げていいのか」
「大丈夫ですよ。わしの腕は鉄のようなものですから」
 冗談をいいながら、彼はいっぱいの速球を投げた。三、四球コントロールしてから、
「どうどす、春よりかましでしょう」
「まあ、バッターに向かって投げてみなければ、ほんとうのところはわからんさ」
 私がどっちつかずの返事をしていると、
「それはそうどす。では今度わしが練習してきたフォーク・ボールを投げてみまひょう。きっと重公《じつこ》やんが落しますよ」
 竹内の指先を離れた球は、ゆるく妙な回転をして、永野のミットからコボレ落ちる。
「どうどす、うまく出るでしょう」
「コントロールすることができるかい」
「さあ、そこなんですがネ。今のところ相当にコントロールできるように思うのですが、実はまだ完成されてはいないのです」
コンディションは上乗
 このフォーク・ボールというのは、食指と中指との間を拡げ、ちょうど二本の指の間にはさむようにしてボールを握るのであるから、指の短いものには.投球も困難であるし、ほとんど制球がむずかしい。ヤンキーの投手で鉄砲玉といわれたブッシュの発明になるといわれ、ブッシュは猛烈な速球の間にこれを混ぜて打者の目をくらました。このブッシュは大正十一年の晩秋、ハーパート・ハンターに率いられて来朝したことがあり、一時は米国有数の投手であった。
 そのフォーク・ボールを竹内がまねたのであった。私も非常におもしろいと思ったが、のちに竹内は肩や腕のためによくないというので、tれをわずかしか試合に使わなかったから、世に知られるまでにいたらなかった。
 練習後、永野に竹内の調子いかんをたずねたところ、
「すてきですよ。春とは見ちがえるようなコントロールをしているし、球の力もグンとついています。よほど練習したのですネ」
 と感心する。妙なもので、こうした一人の上達が選手間に知れわたると、一同も負けるものかという気になり、竹内を打ちまくってやろうという意気組みが、全体を活気づけ、練習効果はいよいよ十分となる。松本や根本が、負傷や病気のため不参したけれども、このときくらい目にみえて選手に力がついたことはなかった。

台覧の軽井沢練習
 かく練習は上々吉であるのに、この夏は摂政宮であらせられた、今上陛下から台覧練習の光栄に浴した。台覧試合は、先帝陛下以来かずかずあったけれども、台覧練習は空前のことであった。
 八月二十四日の午後、殿下は離山山麓なる大隈侯別荘を、かしこくも御徒歩にて御出門、御足も軽やかに、グラウンド外周道路をお運びに相成り、運動場ネット裏より静かに御臨場あらせられた。なんの設備もないグラウンド、御席と申しても一張りのバッティングケージのほかには何ものもない。
 殿下には平素選手が用いていた粗末なベンチに御腰をおろさせ給い、御顔もさわやかに選手一同に御会釈をたまわった。賀陽宮殿下、北白川若宮殿下、朝香宮両王子殿下もともに御臨場あらせられた。
 一代の光栄をになった御前練習に、選手一同は極度に緊張して場に立った。この練習は、ベース.ランニング・リレーと自由打撃、守備練習と試合をごらんに入れたのであるが、殿下には終始御興深げに選手の活動に御目とめられ、ときには御拍手さえたまわった。
 五回試合を終ると、殿下には左翼の草原を分けさせられ、おかえり遊ばされたが、この練習試合中、ときの首相加藤友三郎大将逝去の悲報が到達した由を、のちになってうけたまわった。
 安部部長以下一同の感激はいうまでもなく、穂洲にとりては、忘れられぬ御前ノックの光栄を、今にマザマザと記憶する。
 このとき、殿下御警備の任にあったのは、坂口鎮雄警視であった。坂口君は、早稲田の師範部で歴史を専攻した人で、風変りの方面に進出したが、剣道の腕前は確かなもの、学生時代は早稲田の大将であった。亀井総監に見いだされ、警視庁の不良少年係りとしては、雷名のあった人である。

坂口、村井の両君
 坂口君は、私よりも先輩ではあったが、私は選手時代からよく同君を知っていた。それが久しぶりに軽井沢で出会ったところから、一日合宿所に訪ねてくれ、平素、殿下が御愛用遊ばされるというぶどう酒を、一本私におくられた。たぶん同君へ御下賜あったものと拝察される。私は坂口君が帰られてから、殿下のお召上がりになるぶどう酒であることを披露して、いあわせた選手におがませた。
 選手連は、うやうやしくぶどう酒のビンをとり上げて、ためつすがめつしている。中には多少通もあって、何年くらいになるものかなどいうものもあり、さては前途を祝福するために、一滴を拝飲するの光栄に浴したいなどいうものもあった。永野重次郎を始め有田富士夫、梅川吉三郎、竹内愛一などの豪の者から、村井清八にいたるまで垂涎万丈。
 村井は、台覧練習のおりには、町谷長市とともに、黒田待従の顧問として御説明役にあたり、殿下の後方にあって、御下問に奉答した。盛岡中学の出身で、永野の後輩捕手、将来をしょく望されて早稲田に来たが、のちに家庭の事情から、野球を断念した。実に人格優秀の選手であった。
 早稲田を出てから第一相互生命に入社し、同社にあって精励している。あるとき同会社内の野球試合に、同僚の一人が足を捻挫したさいのごとき、その日の介抱はもちろん、全治までの一カ月間、早朝家を出て、その友人の家にいたり、これを背負うて医師に通い、ざらに送り届けてのち、出社するという熱情、一日も変らなかったといわれている。その温情掬すべく、尋常の人物ではできがたい。
 その村井は、台覧試合の御説明役を無上の光栄として、欣喜雀躍していたが、私の手にせるぶどう酒に礼拝したのち、重たげにくちびるを開いて、
「飛田さん、どうでしょう、私ににおいだけでも、かがしていただけませんでしょうか。国の親たちがどんなによろこぶかしれません」
 誠実が面にあふれている。村井の平常を知る私は、その真剣な態度に打たれて、しばし言葉も出なかった。やがて、
「とにかく安部先生に伺ってから適当に処置しよう」
 といって、坂口君寄贈のぶどう酒を大事にかかえながら自分の部屋に退いた。それからの選手は、私の顔さえみれば、恩賜のぶどう酒のことをいいだす。あのぶどう酒をいただいたら、どれだけ力が出るか知れんなどとナゾをかける。ついに私もその切願に根まけして、栓を抜いてしまった。
ぶどう酒の蒸発事件
合宿には杯というものがないから、茶飲茶わんに少量ずっつぐのであるが、中には重公やんのは、はかりがよすぎたなどと物いいをつけるものもあった。ひとわたりゆきわたって、なおぶどう酒は三分の一以上残っていた。ピンはわたしの押入れに安置され、一同は大満悦で退いてゆく。
 ところが、数日後、なんの気なしにピンをのぞいてみると、中味はきれいにカラになっている。はてな、だれもここへはいり込んで不行跡をするはずはないがと、親しくビンをとりあげて調べてみたが、たしかに中味は一滴をあましていない。さてはと思ったから、さっそく永野、有田、梅川を招致して訊問をした。
「ぼくの留守に空巣を狙ったものはないか」
「そんなずうずうしいのはないでしょう。ここへはだれもはいってきませんよ」
「だって恩賜のぶどう酒がカラになっているじゃないか」
「カラになっています? ふしぎだなあ」
「蒸発してしまったのではないでしょうか」
「ぶどう酒が蒸発するということがあるものか」
 みんながクスクス笑う。
「でも、ごく上等のものになると、そういう特殊作用が起こるかもしれませんネ」
「だからあのとき、もう少しずつぼくらに分けてくれればよかったんです。つまり監督不行届というやつですよ」
 あべこべに私がきめつけられて、ぶどう酒問題は解消した。おそらく永野と有田の才覚に相違ないと思われたが、なにしろ液体のことであるから追及すべき証拠を残していない。

関東大震災にあう
 練習は八月三十日までつづけられ、われわれは愉快に軽井沢高原を引きあげて、翌三十一日の初更に帰京した。一段と自信をつけた選手は、これから戸塚の本舞台で最後の仕上げをするのだ。ところが好事魔多し、明くれば九月一日、第一日の練習を控えた朝の空模様は、細雨をふらし、なんとなくむし暑い。私は二十日間空家にした弁天町二番地の住居(戦災以前の穂洲の住所で、現在は茨城県東茨城郡大場村)、猫の額ほどの庭を掃き清めていると、そこへ来客があって、玄関の四畳半で応対していた。まさに午前十一時五十八分、大波にあった浮草のように、私の小さな長屋は持ち上がった。来客の二人は血相を変えて戸外に飛び出す。ちょっとの間やせがまんをしていた私は、次の瞬間メリメリという一大音響と共に玄関入口にほうり出された。世の終りを告げるかのごとく、天はくらく、地は裂ける。おそるべき天変地異の襲撃であった。
 二回三回にわたる大震動が過ぎ去っても、まだいつぶり返すかもしれない。戸塚の合宿にある選手はいかにと案じているところへ、有田富士夫が駆けつけて、一同の無事なるを知らせてくれた。ほっと胸をなでおろしたが、さてそのあとが問題であった。七月以後閉鎖していた合宿は、前夜二ヵ月ぶりに帰ったばかり、一粒の蓄えもない。私が合宿に訪ねていったときには、ほど近い空地にテントを張って選手一同はぼんやりしていた。
「米屋のやつ、米を持って来やがらん。なんにも食うものがありません」
「米屋に厳重談判しろ。永年のとくいじゃないか。こんなときばかりはないそ。そんな不実をするなら、世が太平になったとき、もう米をとってやらんといえ」
 代表者が若松町にある米屋に押しかけて、二斗(二八キロ)ばかりの玄米をかついできたけれども、十数人の口をふさぐに、こればかりではどうにもならない。選手はそれぞれ手わけして食料品買い入れにほん走した。もっとも多く手にはいったものは馬鈴薯であった。それをむして常食とする。健たんぞろいのいかな選手連でも、日に三度ずつジャガいものかかいかのではやせ衰えてしまう。しかもこれとて、長bづきはしない。日ならず欠乏を告げる。それでも彼らは忍耐した。けれども、もはやどうにも方法がつきた。中には帰郷のことを申し出るものもあって、キヤプテン松本が、私に交渉にきた。しかしまだ朝鮮人襲撃等の流言蜚語《りゆうげんひご》がさかんに行なわれていたとき、合宿を空家にすることは、その責任上許されなかった。
「もしも、そんな弱音を吹くものがあったら、野球部解散をするからといえ」
 松本がこの旨を合宿へ伝えると、永野重次郎がカンカンになってやってきた。野球部を解散するなどけしからん、ぼくはぼく一人になるまでも、合宿を守るから、そうした過激なことは控えてもらいたいという。
 とかくするうち、市内も静まってきたし、神田で罹災したマネージャーの太田一郎一家が、合宿に引越してきたので、留守居もでき、選手一同は開校されるまで帰郷することになった。
 この選手帰郷がのちの試合に大影響を及ぼし、ついに早稲田は意外の不成績を招くことになったのであるが、事実帝都の大混乱をよそに野球の練習どころではないし、グラウンドには各方面からの罹災者が充満して、使用どころのさわぎではなかった。一方強敵の明治は、グラウンドが郊外駒沢にあった関係上、数日後には練習もさしつかえなかったし、そのうえ母校が神田で罹災したため、これが復活資金を得る一途として、関西に試合旅行を試みた。
 この西下は、その目的の成否を別ものとしても、夏季練習に得たところの技倆保存には、もっとも時宜を得た策であった。

リーグ戦再開さる
 早稲田は存外早く開校の運びがつき、十月十一日には授業を開始することになった。そこで私は各選手の郷里へ打電して上京を促した。ところが容易に集まってこない。震災後の東京に不安をいだいている各家庭では、大事なせがれを上京させることを、ことのほかちゅうちょしたらしい。全部の顔がそろったのは実に十月三十日であった。
 これより先、運動界の復活は学校当局や、識者の間にも話題となり、このさい青少年の志気を煥発させることは、いっそう急務であり、すさんだ人心を安定させるためにも、試合開始を急がねばならぬと主張された。
 そこで五大学リーグ(当時は、早慶明法立)の幹部は、幹事校の明治が焼失したため、早稲田の大隈会館に会合して協議した結果、十一月一日から一しゃ千里に三回勝負を行なうこととなり、日割を決定した。
 ところが、抽せんの結果、リーグ戦中眼目の試合たる早明戦は十一月四日、六日の両日ということになった。

井口、湯浅の対戦
 大震災直後の試合、早明第一回戦、震災の大難にあって気の荒くなっているところへ、リーグ随一の組合せ、早明両軍のファンはもみにもんで駒沢村へ押しかけた。練習は不十分にすぎるけれども、むろん勝つつもりの早稲田は、例によって玉川電車にゆられながらも、元気旺盛であった。
 大正十二年十一月四日、秋晴れの駒沢はすがすがしい気持であった。投手は湯浅と竹内、第一回二死満塁としながら得点を逸した裏、明治は梅田、大門の安打によって一点を先取したが、早稲田は第五回敵失に出た大下を有田が左翼越しの三塁打にかえして同点となった。しかもなお機会を続けながら井口の三振にリードしえず、そのまま第九回まで一対一のまま進んでいった。
 井口新次郎と湯浅幀夫の両者は実にしのぎを削って闘った。湯浅は同年春、井口のため痛打をこうむって敗れたけれど、この日は井口を非常な危機《ピンチ》に迎えながら、二度まで三振にほふってみごとに復讐した。事実この日、井口に一本の安打が出ていたら、早稲田は明治を征服していたであろう。
 湯浅と井口の対戦は大正十四年秋まで継続され、結局井口は、湯浅の苦手として存在し、多くは井口に打たれているが、この日だけは井口を完封した。

九回早稲田のピンチ
 試合はいよいよ第九回のドタン場となった。早稲田は一死後、松本、山崎の四死球で有望であったけれども、大下、有田の好打空しく、明治に攻勢を譲るや、二出川左中間に安打し、松本がややちゅうちょしている間に、二塁に突進した。この冒険成功はまったく明治の勝運を開いたもので、早稲田は少なからず動揺した。第二打者の梅田は、竹内がもっとも警戒せる好打者であった。当時の明治には、谷沢、大門、湯浅、熊谷などの強打者がいたが、これらは多くの場合竹内のコントロールに雌伏《しふく》させられた。ただ一人、梅田の短振だけは、竹内の苦手であった。梅田三次郎は二十貫(七五キロ)になんなんとする肥大にかかわらず、走力もあり、守備に特出したものはなかったが、捕手、一塁手として明治軍中に重きをなすひとり、弱点が少なく、これを仕留むるにはおそらくスローボールのほかなかったであろう。
 その梅田がボックスに現われた。無死二塁走者、一点が勝敗を決定する場合ゆえ、遊撃の根本は梅田のパントを予想し、二出川を三塁に刺殺すべく、二塁に引きつけた。ところが負けいくさというものはこうしたものか、この非常時守備作戦が、竹内にも有田にも通じなかった。梅田のバントはちょうど竹内の右手をくぐって遊撃の空虚に転じた。竹内は後方に根本がいるものと信じて、無理にこの球をプレーしようとしなかった。がんらい、竹内は投手守備にあっては小野や谷口に一歩譲っている。それはバックに好選手を擁し、これらの守備力を全然信用して、無理な球にチョッカイを出さなかったからである。ところがこの場合は、根本が特別の守備法にあったため、梅田の打球に、完全なる安打を与えてしまった。
 軽捷二出川は、早くも三塁に迫った。もはや絶体絶命であるから、ペンチにあった私は、ただちにサインを送って、谷沢を四球に送らせ、満塁策をとった。
林のトンボサシ
 竹内は心得て、谷沢にウエストして、第四番打者大門への投球へとうつっていった。こうしたとき、竹内は決してエキサイトしない。そこに竹内に対する味方全軍の信頼もあった。しかし、大門はゆだんならぬ打者である。彼は傑出した打者ということはできなくとも、特殊の打球を有し、近く攻められた球をライトに安打するなど、やや変形的打法の老巧者、竹内を一気に抜く決死のボックスに立った。無死満塁同点、息苦しい場内の空気。竹内は平然たる態度だ。大門を直球、カーブに攻め、一塁のファウル・フライに討ちとって、ようやくワン・アウト。次には豪気の湯浅が第二陣を引き受けて現われる。湯浅は投手でなく、攻撃専門に研究勉強していたら、明治の最強打者ともなり、実力ある好走塁者ともなっていたろう。左右いずれでも打つ、器用な選手であった。
 竹内はたんねんに彼の急所をつき、湯浅攻め負けてこれも一塁の邪飛、有田のミットに納められた。すでに二死となった。浅く守っていた内野も外野も定位置に引き下がり、二死満塁という、守るにはもっともつこうのよい機会となる。味方は愁眉《しゆうび》を開いた。林が顔色を変えて飛び出してくる。この日、林は第六番目にすわっていた。高球を飛びつくようにして打つこの打者は、思わぬところで快打する。むしろ悪球打ちの名人ともいうべく、早稲田の選手は林のトンボサシと称して、そのタテに振り回すパットをおそれていた。
あわてた有田一塁手
 竹内は慎重に、たちまちツウ・ストライクを奪った。あと一球、林はけんめいに振った。けれども竹内の球力に押された打球は、一塁をへだたる約一問半(二・七ニメートル)のところへ弱いゴロとなった。有田富士夫はミットをさしのべて待っている。林はぼう然として、本塁二、三歩のライン上に恨めしげに佇立《ちよりつ》していた。なんびとの目にも万死を疑わなかったであろう。敗戦の魔、こうしたことを思わせるような出来事が、次の瞬間に起こった。有田のミットをきらったゴロは、地面にクルクルと回って、さらに押えようとする手をのがれた。
 これを遠くながめた林は、悪夢からさめた小うさぎのごとく、はね上がって一塁の疾走にうつった。有田はまだ、逃げられた球を掌中にすることができずに、その指先は、あたかも霊魂《ひとだま》に翻弄されているかのよう。いらだって捕えようとしたときには、林の足音が耳もとに響く。ますますあわてたあげく、からくもつかんだが、そのときは、みずから帰塁して林を退けるには、すでに遅い。窮余彼は一塁にトッスした。しかし、竹内も、山崎もそこにはいなかった。トッスされた無情の球は、明治の歓声をのせて、皮肉にも、早稲田のベンチのほうへ転々としていた。
 竹内が一塁にはいるべきは定法である。しかも山崎が代役に一塁をカバーしようとしても、そこに十分のタイムがあった。二人はあたかも他人のことのように、有田の弄球《ろうきゆう》を冷やかにながめていた。二人のうち一人が、わずかに「ユックリつかめ」と一言コーチをしていただけでも、こ。のプレーは味方の危急を救っていたであろう。無言の竹内と山崎、それは石地蔵のように、有田の焦燥を傍観していた。
悪質な駒沢グラウンド
試合終って竹内に、
「どうしてファーストを守らなかった?」
 と問えば、
「富士夫さんのところへ弱いゴロ、ヤレヤレと思ったら、動けなくなりました」
「なぜあのさい、ひとこと、有田をコーチしなかった?」
 と山崎武彦にきけば、
「あッ、しめたと思ったら、ぽーッとなって、舌がつってしまいました。なんとも申しわけありません」
 早稲田の運命を決した林の一打、真にこれらを怪打というのであろう。トントンとなんの変哲もなく転がったゴロ。それに有田ほどの選手が愚弄されるはずもなかった。
 すべては、高潮せる緊張から解放された気組みのくずれが、せっかくここまで攻防した名試合を、あっけなく勝負づけてしまっている。もう一つ、有田が失敗した原因に、だれも気のつかなかったことは、グラウンドの地質である。
 この駒沢グラウンドは、明治初代の部長兼監督といった格の佐竹官二君が、指揮監督して造り上げたもので、両翼には芝生のスタンドを設け、広さも十分あり、パックネットなども広大なものであった。佐竹君は明治発祥のグラウンドたりし柏木運動場から、最後には、今の和泉グラウンドの建設にあたり、ついにその地鎮祭当日、グラウンドで脳浴血のため物故された、明治野球部にとっては忘れえぬ大恩人であった。
 ただ惜しいかな、駒沢は地質が悪かった。小石まじりで、いかに手入れしても、これをのけ去ることができなかったことは、このグラウンドの欠点であったろう。そのため、雨でも降ったあとには、内野のくぼみなどに試合当日いつも近所から赤土を運んで盛り土をした。どうして赤土を使ったのかは知らないが、たぶんその赤土には石がまざっていなかったからであろう。この試合のときも、雨後のグラウンドを整理するため、例によって赤土を盛っていた。
 林の打ったゴロはちょうど、その赤土の上で、有田のミットと戯れた。有田がつかみそこねたボールは、第九回まで相手をした赤土の刷毛をくい、すでに保護色をおびていた。それが赤土の上で踊ったのであるから、走者に気をとられた有田は、いく度もいく度も空をつかんだのであった。このようなことを考えながら、試合に敗れた私は、渋谷のほうへ力ない足どりで歩いていた。竹内のためには、ほんとうに惜しまれてならない試合であった。
竹内愛一の偉大さ
 竹内は一見|茫乎《ぼうこ》として、つかみどころのないような男であったが、根はどうしてしっかりものであった。ほとんど凡庸を出なかった腕をもって、とにかく一時代をつくった投手であるから、その心がけにはむろん後世に範をたれるものがなくてはならない。
 彼のもっとも偉大なりしことは、病気をせぬことであった。早稲田選手四年間のうち、彼は一度も医師の薬を飲んでいない。まったく生れながらにして無病であった。十日も二十日も便通がなく、そのくせ相当の大食家でありながら、なんらの異変もない。名人じょうずになる条件に、強健無比ということは見のがすことができない。病身であっては、いかなる天才といえども、大家名人になりえないことは、なんの技術にも変りはない。
 竹内は、実に天賦の強健体に恵まれ、のん気そうにみえて、心の底にはひと一倍の研究心をもっていた。大正十二年春のシーズンが終ると、彼は、痛切におのれの責任の重大であることを感じ、帰洛するや、先輩尾家君を訪うて、一ぴの力をかさんことを乞うた。尾家君というのは、京都一商の捕手をした人で、のちに満州クラブなどでも捕手をしたことがあるが、竹内のもっとも信頼する先輩であった。
「どうやらこうやら、春のシーズンをごまかしましたが、五郎(谷口)さんの後継としては、自分ながら心細いと思います。明治には湯浅が現われたし、慶応には浜崎、永井がいます。ここでひと奮発しなければ、早稲田を背負って安心ができません」

先輩尾家氏の好女房ぶり
 愛一は信頼する先輩にその苦衷を語った。温厚な尾家君は黙ってきいていたが、
「それはそうやろう。自分の腕が足りんと思うたら練習するほかないやないか」
「そうです、私もそう思うて帰ってきました。どうでしょう、これから毎日勉強しますが、ひとつけいこ台になってくれませんでしょうか」
「よかろう、わけのない話。君がやろうと思えば、ぼく、いくらでもとってやる」
 先輩尾家君は、ただちに彼の頼みをきき入れて、その日から快くとってくれた。尾家君のべースボールを私は一度も見たことがないし、近づきにもなっていないから、同君の野球について、なんにも知っていないが、非常に明せきな頭脳的捕手で、よく投手の欠点を窺知《きち》し、投手の養成にはりっぱな腕を持っていたといわれる。
 その尾家君が、後輩のために満身の愛をもって指導した。あるときは精根の尽きるまで投げさせ、疲れることを知らない、さすがの竹内も泣きながら、投球をした日もあったという。
 教えるものと教えられるものと、しっくり気が合ったのであるから、この練習効果は満点であらねばならない。日に日に彼のコントロールは正確になってきた。軽井沢の練習開始までには、すっかり仕上げがかかって、尾家君もことさら満足の意を表した。彼が意気揚々として軽井沢に乗り込んできたのは、この精進をへて、十分の自信を得てからであった。
竹内愛一の練習法
 私が、この尾家君援助の練習佳話をきいたのは、後年のことであって、その夏の軽井沢練習では、竹内の口からこうした話はきかなかった。私は当時竹内が母校京一商の校庭で、後進ティームとともに練習を励んできたものくらいに思っていた。まえにもいったが、もしも大震災というものがなく、軽井沢からの練習をつづけて秋のシーズンを迎え、竹内をして思いきり投げさせることができたら、竹内は大正十三年の秋を待たずして、一躍リーグ投手の第一人者になっていたであろう。
 しかし尾家君の援助の効は十三年秋の全勝、十四年秋の対明対慶両試合にいかんなく発揮された。竹内にもっとも感心させられたことは、その異常な努力にあった。これが彼をして大名をなさしめた主なるものであって、この平凡なる大投手は、一日として練習を休んだことがない。ノッソリ球場にはいってくると、フリー・バッティングなど見向きもせず、中堅後方のピッチング・プレートに立って捕球を依頼する。当時の捕手は、重厘永野重次郎から宮崎吉裕、柳田末男、さらに宮崎が病気になってからは安田俊信がつとめたのであるが、竹内はこのうちだれにでもとらてもらう。永野重次郎などは、投手がやめようとしても、まだまだ、そんなコントロールで試合にどうするんだと承知しなかったものだが、竹内の練習にだけは満足して、「重公やんありがとう」といえば、「そうか」といってきげんよくバックネットのほうに引きあげてきた。
 その代り竹内は、堪能するまで投げる。これが早稲田投手団の美風をなした。天才的コントロールをもった大橋松雄でも、藤本定義でも、先輩たる竹内が、汗を流し精根を打ち込んで練習しているのを見れば「なに負けるものか」という気になって勉強する。当時の早稲田には、児玉政雄、源川栄二、原口清松、水上義信、多勢正一郎など古参新進が、牢固《ろうこ》たる投手団をつくっていた。竹内、大橋、藤本が第一戦に立つので、残りの投手は、これが卒業や引退するまで、ついに試合場に名乗りをあげることができなかったし、児玉政雄のごときは、相当以上の技倆をもちながら、ついに壇上に花を咲かすことができずに卒業して、遠く大連に去った。まことに気の毒ではあったが、リーグ試合の少なかった当時、やむを得なかったのである。

投手大成の心得
 早稲田の打撃が特に優秀であったのは、まったくこれら多くの投手を集めえたからであって、彼らはわれ先にと争って、打撃練習に投球した。湯浅のカーブを打つため、投手団は、二組に別れて投げる。児玉のカーブはことに有効であった。打力はめきめき上達する。試合になんの懸念もない。
 旧明治捕手天知俊一君にある会合で会ったとき、当時の思い出話が出て、天知君は、「湯浅の球をあれだけ打った早稲田は、ずいぶん多くの投手をつぶしたことでしょうね」といわれたが、一人の投手もつぶさずにすんではいるけれども、これら多くの練習投手がなかったなら、早稲田の打撃集中はとうていおぼつかなかったであろう。だからこの成就には、表面ばかりをみて、第一戦の勇士のみの功を謳歌してはならない。バックの大きな力、縁の下の力持ちの、現われざる功労を忘れてはならぬものである。
 竹内は、これら若手をリードして、練習をしなければひとかどの投手になれぬことを無言のうちに教えた。竹内ほどになった投手が、グラウンドに出ては、まるで新人投手のように練習する。それを若い投手たちは、ひとごととして傍観するわけにはいかぬ。彼らもまた根かぎり練習する。実際投手というものは、コーチのべんたつのみで上達するものではない。内野手とか外野手とかなら、コーチはノックパット一本である程度まで仕上げることができる。打たれたらとらねばならぬ、走らねばならぬ。いやでもじょうずになる。けれども投手の練習はそういかない。
「おい、もっと練習しなけりゃだめじゃないか。そんなコントロールで今度の試合を切り抜けられると思うか」
「今日は、肩が痛いんです」
 この一言は、コーチの進言をたちどころに撃退するにあまりにも効果がある。渋い顔をしたコーチはやむなく、肩が痛ければしかたがないといわざるを得ない。

安部先生と愛一の面会
 だから私はいつも投手は人にありという。いかに天賦の力を持っていても、人間ができていなければ、決して大成しない。そうした投手は、過去にも現在にも数限りなくある。竹内のごときはたびたびいうように、与えられたものは少なかった。球速もそうだし、カーブもよくなかった。それを異常な努力によって生かした。彼のごときは、努力の典型的投手であったということができよう。試合のことをたびたび物語ることは、退屈を招くおそれがあるから、竹内の奮投史は再び述べないけれども、大正十四年、復活早慶戦に残せる十一対零、一安打ゲームや、同年秋の早明決戦に明治を四対零にほふったその快投など、平素の努力がよく現われ、ここに一代の大投手として球史上に竹内愛一の名を輝かしいものにしている。
 大正十五年春早稲田を出て京都に帰った。仏具商山崎屋のあととり息子、角帯白たびの若旦那、面相魁偉、コンガラ竜子と異名をとった愛一が、店先に坐っていたら、あるいは仏像の売りものかと思われたかもしれない。
 世は御大典(昭和三年)、京都の街にはよろこびがあふれていた。酔歩マンサン四条にかかってきた一人の若者、電車停留場に気がついたか、立ちどまって見回すと、そこに先客があって、古ぼけたフロックユートに、チョコナンと乗ったシルクハット、不動の姿勢をして電車を待っている。あたりに人もいないので気まぐれの酔漢は、
「今晩は、おいでやす」
 とあいそをふりまいた。すると、その老紳士はくるりと回れ右をしたが、とっさ、
「おお、竹内君じゃないか、久しぶりですネ」
 となつかしげに右の手を差し出した。トロンとした目をすえてよく見れば、こはそもいかに、竹内は一歩飛び下がった。ここで沢正の声色を使うわけにはいかぬ。(しまった。人もあろうに安部先生だった)
「竹内君、君は学生時代、もっとも印象の深い人です。元気ですネ」
 愛一は、すっかり酒の酔いがさめて、ただただ、恩師の前に叩頭した。
 代議士になられた安部先生が御大典に参列するため入洛《じゆらく》していたのである。
 夏の全国中等大会に西下した穂洲を、鳴尾の宿に訪ねてくれた愛一が心から恐縮して語ったところ、間違いのない話である。今でも一、二カ月練習さして投げさせたら、きっと味のあるところを見せるであろう。一度得たコントロールというものは、そう容易に消滅するものではない。

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