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飛田穂洲「熱球三十年」3

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amizako

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順ちゃんのタンカ
一番愉快な思い出
 こうした当時の人々を思い出すたび、ことに私の胸になつかしくよみがえってくるものは、大正十年のアメリカ遠征である。私はいったい旅行がきらいだ。汽車というものを好かない。汽船には存外好感を持てるけれども、汽車は窮屈で、なんともからだを持てあます。だから、単独で遠い旅行をすることはほとんどないし、その意味から、遠征などに好印象を残しているのが少ない。
 しかしこのアメリカ遠征だけは、私の一生の中でもっとも愉快な思い出である。ああした旅行をもう一度してみたいような気がする。このときのティームは、まえにもいったように大正十三、四年ごろのティームに比較すれば、ふぞろいであった。谷口はこの遠征に苦労したため、小野三千麿と併称されるまでになったのであって、この遠征の中途までは、さほどでなかったし、全体としての守備、打力とも決して充実したものとはいわれなかった。ことに監督者たる穂洲も経験が浅く、試合ごとにヘマをやるというのだから、強味という点では特に買うべきものはなく、久慈次郎の捕手、遊撃久保田幀の守備、田中勝雄の打撃が取りえであった。
 けれども、このときのティームぐらい信頼するに足る選手がそろっていたことはない。高松、久慈、富永、石井が古参で、久保田、田中、大下、松本、永野が中堅、有田、加藤、谷口が新進、それに前年卒業した中村正雄が、米国留学のため同行し、安部先生と私の一行+生人に、ベニンホフ博士がロスアンゼルスの汽車の中から加わって、にぎやかな旅行であった。古参の高松、富永、久慈の三選手については、すでに述べたから、今度は石井順一の小伝をものすることにしよう。

順ちゃんと洋服屋
 順ちゃん、いまは本郷池の端の石井カジマヤの主人公。多くの店員を使い、かわいい男の子のパパさんになっても、われわれは石井君とか石井とか呼ぶことなしに、順ちゃ、ん、こう呼びならしている。早稲田実業の遊撃手として、大阪朝日の第一回全国大会に出場した選手、早稲田歴代の選手中大男の大井、久慈、夫馬などと好対照をなす小男の選手を、伊勢田、加藤(吉兵衛)、石井と並べた中で、伊勢田、加藤は短躯ながら、どこかりっぱな骨組を持っていたが、順ちゃんはいちばんよわよわしかった。
 シカゴに行ったとき、みんながレディメードの洋服をあさり、高松や久慈が得意になって着て歩き、安部先生までがそこでフロックコートを買われた。おそらく四条で竹内と対面したさい先生が着ておられたのは、そのときのレディメードかもしれない。会話好きの、どこへでも乗り出す順ちゃん、みんなに先鞭をつけられて黙しているわけにはいかない。さっそく出かけて行くと、愛想のいい毛唐の店員は、威勢よく二階に案内した。順ちゃんがあとからついていってみると、そこは子ども洋服の部であった。順ちゃんの心すこぶる平らかでない。ひとをばかにしていやがる。
「ここは子ども洋服部じゃないか」       、
 いまは再三渡米した順ちゃんの英語も、きわめてりゅうちょうになっていることと思うが、当時の順ちゃんは、度胸で会話をする程度であった。憤然としてこうなじると、店員はいかにもすました顔で、
「そうだ」と答える。
「おれは子供じゃないそ」
「君は子供じゃない?」
「そうさ、子供じゃない。紳士を侮辱するものではないか」
「それは失礼しました。どうか気を悪くしないでください。しかし日本紳士よ、手前どもの店には、お気の毒ながら、あなたの着る洋服は大人の部にはない」
 順ちゃんは気の毒にも、体よく断わられてしまった。

順ちゃん大いに怒る
「順ちゃん、子供の部だっていいじゃないか、からだに合いさえすれば」
「いや、この店は無礼だから買わないよ。アメリカにだって背丈の低い人間はいるじゃないか」
 順ちゃんは、プンプンしながら帰ってきた。
「順ちゃん、ちょうどいい洋服があったかい?」
「ないよ。いったいレディメードなどを着るのは、下等社会なんだ。ぼくはアメリカにまで来て日本の恥をさらしたくないからね」
 負け惜しみをいって、昂然としている。順ちゃんはブロークン・イングリッシュをあやつりながら、たちまちアメリカ人と仲よしになり、外人のだれからもかわいがられ、シカゴ大学の選手などは、ことさら順ちゃんと親しんだが、こと日本人の体面問題になると、テコでも動かなかった。おれは日本人だという誇りをいつでも失わない。そこに議論好きな順ちゃんの硬骨さが現われてくる。
 バハロウに着いたときは、米国旅行の終りに近いころで、みんなは米人のホームライフを味わいなどして、順ちゃんの英語も相当熟達して、一人で買物もできるし、飲食店へも自由に出入りするようになっていた。キャフェテリャにはいっていった順ちゃんは、中央のあいたテーブルに陣取って、まさにフォークをとり上げようとした。すると、
「おい小さい日本人、おまえが食べる食堂は地階にあるじゃないか。ここはおまえなんかの食べるところではないよ」
 隣りから、ごうまんに浴びせかけた。順ちゃんがひょいと見れば、人相のよくない一人の毛唐が、小さい順ちゃんを眼下に見おろしながら、こうした失礼な言葉。平素猫のように温和な順ちゃんだが、この一言に血相変えて立ち上がった。

米国紳士の登場
「生意気をいうな。よけいなおせわじゃないか。おれの金でおれが食うのに、どこで食おうと貴様の指図を受けるわけがないじゃないか。全体米国は、自由を標榜し、万人平等を標語としている国じゃないか。貴様のようなやつがいるわけはない。なんだな、貴様は、アメリカ人のような面をしているが、察するに、ほんとうのアメリカ人ではないな。仮面を脱げ、仮面を」
 順ちゃんはわれ鐘のような声を張り上げてどな与つけた。小さな日本人とあなどって、地下室'の食堂に追いやろうとした毛唐は、この思いがけない逆襲に、どぎまぎして口をもがつかせた。
「ざまを見ろ。貴様は少しばかり色が白く生れたからって、自分ばかりが文明人だと思うとあてが違うそ。日本人はな、色の白いくらいで驚くんじゃないそ」
 かの毛唐は、順ちゃんの勇気と理の当然に一言もなく、ブツブツいいながら立ち去った。やがて静かにテーブルに腰をおろし、柔順に待っていた異国の食物に、はしならぬフォークを突き刺したとたん、
「日本の紳士よ」
 と静かな声で呼びかけるものがある。順ちゃんはまた新しい敵が出現したかとばかり、きっとなってそばを見ると、そこには夫婦連れの米人が、物腰柔らかに立っていた。
「日本の紳士よ、あなたは、あんな乱暴な礼儀を知らぬものの言葉によって、真の米国人を誤り考えないようにしてください。彼は教養も何もない匹夫《ひつぶ》に相違ない。どうぞあなたは気を悪くしないでください」
 わざわざ弁解にきた米国人、それに対しては、いつもの順ちゃんにかえって、すこぶる好感を持てる、順ちゃんは、
「よくわかっている。けれどもあんなやつがゴロゴロしているから、日米戦争などといういまわしいうわさも起こるというものだ」
「ほんとうにそうです。あなたはどうか気を悪くしないで、ほんとうの米国人と交際してください」

順ちゃんの野球
 順ちゃんは、その容貌とからだには不似合いなほどいい度胸を持っていた。議論をたたかわしても容易に譲らなかったばかりでなく、言論外の腕力沙汰に及んだ場合でも、見かけによらぬ武勇を現わした。バハロウのキャフェテリヤで毛唐に一本参ったときでも、もし言論以上にまで進展していたら、きっとメリケンの一つぐらい、先方の鼻柱へ加えていたろう。だから、洋服屋の少年部に案内されるような小柄でありながら、グラウンドのプレーには、どうしてりつばな腕前を現わしたものだった。
 東京におけるリーグ戦などでは、相手がよく順ちゃんの技倆を知っているから、油断をしなかったけれども、一度米国人との試合になると、順ちゃんのわい小は、まま味方の利益をもたらした。守備の順ちゃんは、確実な捕球と、正確な投球をもって三塁を守り、毛唐などそのよく動く守備ぶりに感心したが、ボックスにはいっていく順ちゃんには、いっこう敬意を払わなかった。パントくらいがせきの山と軽べつするのが普通であった。ところが順ちゃんの打撃には、尋常一様でないうま味があり、外角を右翼線に打ち込む妙味を持っていた。順ちゃんが毛唐にひと泡吹かしたバッティングの印象中、もっとも私の頭にあざやかに残っているのは、インディアナ大学との試合であった。
 シカゴをふり出しに、ノースウェスタン、パアデュー、イリノイ、パトラ等の大学と転戦した早稲田は、中西部でそのころ鳴らしていたインディアナ大学と一戦を交ゆべく、同地に乗り込んでいった。州立大学で特徴のある学校ではなかったが、運動場の設備には間然するところがなかった。午前中に到着して、午後までひと休みしたが、汽車から汽車の旅に一同すっかり疲れていた。時間がきてみんながフリー・パッティングを始め、大方打ち終ったころ、だれかが加藤がいないという。やっこさん、どうしたのだろうと心配していると、坂の上から加藤高茂が一散に走って来る。どうしたと聞けば、すっかり寝込んでしまって目をさまして見たら、だれもいないので、驚いてユニフォームを着るなり、飛び出してきたのだという。疲れている彼は体育館の一室で休息しているうち、いつのまにか熟睡してしまったのであった。その代りよく眠ったからきっと打ちますよと威勢よくいうので、安部先生もおこごとを控えられた。

精神の野球を望む
 小さな町ではあったが、相当に見物人もあった。もっとも米国の大都会人というものは、大学生同士の野球試合などには、鼻もひっかけない。平生プロフェッショナ歩の試合を見慣れた目には、まずい大学生の試合など、ばかばかしくて見られない。シカゴとかニューヨークとかいう大都会で、大学生の試合を見物に来るのは、その大学の学生か、あるいはよほど酔狂人でなければやって来ない。
 日本の大学ティームが、これらの大都会で試合をすれば、集まってくるのは大方日本人ばかりといっていい。たまに米国人の見物があれば、特別の親日家であるとか、日本に来たことがあるという種類の人物ばかりである。だから先ごろ「なぜ日本へ行きたいか」という懸賞文に当選して来邦した米国の三少年が、甲子園の全国大会に八万の観衆を一見して仰天したのも無理ではないのである。
 米国の野球は技を見るのであって、気合いとか熱とかいうようなものに、関心を持っているものが少ない。そこに日本野球との相違がある。われわれは技のみの野球では満足しない。そこには精神がなくては、意気がなくては、熱がなくてはと注文がむずかしい。だから熱がある試合なら、小学生の野球試合にでも夢中になる代り、たとえプロフェッショナルの試合であっても、熱度が薄ければ、中途から帰ってしまう。              .
 けれども米国人は反対で、技のみを観賞するほか何ものもない。大学生の野球試合など見る気になれないゆえんであろう。しかしプロフェッショナルのない土地では、やむを得ず、大学生のヘボ野球を見て満足しなければならないから、一ドルとか五十セントとか高価な入場券を買ってかなりの人だかりがする。つまり日本の大学ティームなどが遠征した場合は、田舎町のほうがかえって人気を集めることになる。
 インディアナもその例にもれず、日本人の野球がどんなものか見ておこうという好奇心から、不景気な町としては、見物人が多かった。ただし日本人は二人しか在住していなかったので、われわれはまったく孤軍奮闘という有様であった。

悪ヤジの中に立って
 しかもすこぶる不愉快であったことは、見物人の悪口雑言で、アメリカ転戦中、こんな悪ヤジにあったことはなかった。彼らの飛ばす悪ヤジをいちいち聞きわけるほどの耳を持っていたら、まったくたまらなかったであろう。平素は決していやな顔をしたことのない先生すら、このときだけは、むっとせられた。わけても小さい順ちゃんに対する彼らの侮べつは言語道断だった。一球をとるごとに、一球を投ずるごとに、奇声を発し悪態をつくす。順ちゃんは例のごとく黙々として、これらになんら反抗的態度をとらなかったけれども、負けぎらいの順ちゃんの腹の中は、煮えくり返るようであったに違いない。やがて試合は始まった。
 インディアナ大学は、その翌年の大正十一年春、早稲田の招へいで来朝し、東京での試合を全敗し、おかげで招へいした早稲田は、二万八千円というばくだいもない赤字を出したほどであったが、その前年のティームは実に整備したものであった。選手の中から二、三人プロフェッショナルに予約されたものすらあり、攻守ともものすごい力を持っていた。自由打撃や、守備練習を一見しただけで、これはとうてい問題にはならない。悪ヤジに対する腹いせにたたきつけたい思いはヤマヤマであったが、それは万に一つ望まれそうになかった。有田を投手として、第一回二死後に、ホームランを飛ばされて二点、第二回一点のつこう三点をリードされ、第四回から谷口が代って投げた。早稲田は第六回までに、四個の安打を散発したのみ、敵の守備整然として一糸みだれず、どうにも攻めようがない。見物はいっそう冷笑的になり、くやしいけれども方法とてなく、いよいよ第七回へと進んでいった。相手はすっかり安心した。このとき第七回の先頭打者をうけたまわってたったのは、そのもっとも侮べつをうけていた石井順一であった。

順ちゃんの殊勲
 石井に対しては見物人ばかりでなく、相手方の選手も気を許していた。この少年は打てまいという気持が敵投手にも十分あった。順ちゃんは小さいからだをいっそうかがみ込んで、たちまちツウ・ボールを得た。イ軍の投手第三球にストライクをとるつもりで、フワリとゆるく軽く投げ込んだ。これが順ちゃんの得意のコース、アウト・コーナーにまい下がったから、待ち構えた順ちゃん、ハッシと打てば、球はライナーとなって右翼線上へみごとクリーン・ヒットとなった。味方はこの一打に沈滞から浮かび上がった。それっというと、大下常吉が、パントをもって二塁の虚をついて生きる。谷口がバントする。加藤の二匍はプロフェッショナルになるという二塁手デーンという名手が本塁へ悪投したので、相手はすっかり逆上し、久保田の安打、松本の一塁失、高松の安打と連続して、一挙五点を奪った。スコアは五対三となって形勢逆転した。
 しかも、油断はならない。敵はかよいよ本音を出して第七回裏には、二安打、第八回には三安打と打ち出し、早稲田は必死の防戦、からくも一点を残して快勝した。
 このときぐらい愉快を感じたことも珍しかった。それは強敵に打ち勝ったという快感よりも、毛唐の悪ヤジを征服したような気持がなんともいわれなかった。試合上に、喜怒哀楽を現わすことのまれな安部先生すら、ベンチから飛び上がって、三塁から引きあげてきた順ちゃんを抱きしめたほどであった。
 順ちゃんは、酒もたばこもやらないが、女房の選択にはなかなか用意周到で、アメリカまでさがしに行ったといううわさがあるけれども、これは保証の限りではない。
 なにしろ、自分より背が高くても低くてもいかぬという条件が、山ほどある求婚者をてこずらせたらしい。
 もう順ちゃんも納まって、はや二人の父親にならんとしている。運動具店石井カジマヤの主人公である。



父と子の愛情
名遊撃手久保田幀
 こうしてわい小三塁手の順ちゃんの功名話をしていると、思い出されるのは、その隣りに陣取って縦横に手腕をふるった遊撃手、久保田|碵《ただし》の活躍ぶりである。久保田は盛岡の産で、先輩に小原|益遠《ますお》、獅子内謹一郎、野々村納があり、同輩には久慈次郎、永野重次郎がある。盛岡中学全盛時の選手で、全国大会などでも武名を輝かしたものであった。
 早稲田に投じた盛中出身の選手は、いずれも強打者であって、獅子内、久慈なども打力には恐るべきものがあったけれども、久保田はこの強打者中一頭地を抜き、それに快足を持っていた。この点は盛岡出身の選手中、彼の右に出るものはなかろう。第一打者としては、まったく理想的のもので、のちの山崎武彦よりも気合いの点で、あるいはまさっていたかもしれない。
 打撃のフォームなどからすれば、必ずしも感心できないものがあり、ボックス内の姿勢なども、美しくはなかったけれども、一度打棒を振れば、鋭くボールの中心をたたいて、強烈なライナーや、ゴロを飛ばし、その足にまかせて疾風のごとく走るさまは、目もさむるばかりであった。特にバントに妙を得、三塁線へ浅く落してみずから生きるあざやかさ、おそらく歴代の早稲田選手中、第一に指を屈せられるものであろう。からだを丸めて団子のように走る、まるでころがるような感じ、このバントにもっとも苦しんだものは明治の速球投手渡辺大陸(渡辺大陸氏は、昭和三十年十二月十二日死去された)であった。
 大陸の超速球は、当時の早稲田選手がtとに警戒したところであり、その好調の日にあっては、ほとんど手が出せなかった。しかし久保田だけはなんとかして生きた。打てそうになければ、例のバントをもっておびやかす。渡辺君にはまったく苦手というていい打者であったろう。しかしその久保田も、大正十一年の春は、渡辺君の猛球を頭部に打ち当てられて、一週間ほど冷やしとおしであった。その後、どうも大陸の球はこわいというてはいたが、いざとなると例の奥の手を出して、パントで生きている。
 大打者田中勝雄と時を同じうして早稲田に来て、二人とも精進努力を続け、ついに早稲田を背負うて立つ大選手となった。この二人は実に大正年代における名選手というべく、その熱心さも人なみのものではなかった。
久保田の野球環境
久保田も田中も強健無比で病気というものをしない。満四年の間、二人が練習を休んだということを聞かない。早くグラウンドに出て、遅く帰る。多くの選手は古参になると、グラウンドにゆうゆうとして来たり、後進に先立って帰るのが、普通とされていたけれども、二人はその選手生活を終るまで、新人当時の心がけを忘れなかった。さればこそ、攻守成績は年とともに向上し、最後のシーズンのごとき、特に傑出したものであった。真に終りを完了せるものというべく、範を後世に垂れている。今ごろ、こうした心がけの選手があるかどうか、まったく疑わしい。
 しかし久保田の野球生活というものは、他のものに比して必ずしも恵まれたものではなかった。碵は盛岡中学グラウンドの隣接地に生れ、幼ないころから同中学の野球をながめつつ成長した。腕白小僧のはちきれるような元気な目に、獅子内君などの野球姿が、どんなに勇ましく映じたか。毎日グラウンドに来てはチョコチョコとファウル・ボールを拾っていた。当時の盛岡中学は全国中でも、屈指の強ティームで、ほとんど敗北を知らぬほどの技倆、碵少年の目にはこれらがいずれも英雄豪傑のごとく見えたに相違ない。
 彼は小学校にあがるようになると、いまに中学校の野球選手になるのだということを口ぐせのようにいっていた。その希望は果して達せられ、二年、三年には同校ティームの最優秀選手になっていたけれども、困ったことには父親が野球をよろこばない。よろこばない程度ならなんとかがまんもできようが、まま禁止命令が発せられる。こうなると住家がグラウンドの近くにあることがまことに不都合で、少しでも帰宅時間に遅れると、父親自身グラウンドをのぞきにくる。野球の練習でもしているところを見つかれば、大目玉である。久保田の父親は、北山《ほくさん》という雅号で絵も書もよくしたほどの風流人であった。大正十一年函館柏野で夏季練習をして帰途、盛岡に立ち寄ったときには、久保田翁七十三歳であったが、選手一同にみずから染筆した扇を寄贈され、私は今にそれを所持しているが、実にかくしゃくたる老翁であった。昔人の一徹、いかぬと首をふったら、容易にきかない。
 試合が近よって、いれ代り立ち代って解禁を懇願しても、なかなか許しがない。そのつど部長が直談判して、からくも試合出場だけ許されるというやっかいなこと。それでも好きな道はあきらめきれず、彼は昼休みに練習して、試合だけに出場するという悲惨なベースボールを続けて、盛中の選手時代を終った。

老夫婦上京す
早稲田入学を志望して許しが出たときの彼のよろこびは、想像にあまりある。天下晴れて野球の練習ができるだけでも、彼としては東京の空が恋しかった。さすがの北山老も、ここまできてはあくまで禁止しようとはしなかったが、それでも老人は、公然と許可するようなことはなかった。
 ところが、久保田の名声は日に日にたかまり、大正十年ごろに至ると、新聞雑誌にその名手ぶりがうたわれる、碵の遊撃ぶり、打撃ぶりが絵はがきになる。それを東京の知人が、北山老へのお世辞に送ってやる。老人初めは見て見ぬふりをしていたそうであるが、久保田が渡米遠征に加わり、帰来強剛ワシントン大学を迎えて、ひとりよく敵陣をかき乱して快勝を得るという花形になると、盛岡の新聞も東京の新聞も、筆をそろえてその勲功を書き立てる。親としての北山老、悪い気持がしない。
 ある一日、文庫にしまい込んでおいた雑誌や絵ハガキを取り出し、明るい縁に持ち出し、虫眼鏡をかけて、しげしげと愛息の写真に見入っていた。さては老人ひとり言。
「ウムここに力がはいっている。それ打て」
 大声をあげながら、ちょうとばかり縁側を打った。その音に驚いた久保田の母親、勝手元から顔を出してのぞけば、北山老夢中になっての掛け声。まさか気が違ったのではないかと思ったわけでもなかったろうが、曲った腰を伸ばしながら近よって、
「おじいさんなにを見て、ひとり言をいっていなさる?」
 声掛けられてようやくわれに返った北山老、
「おお、ばあさんか、いやなに、いま写真をちょっと見ていたところだ」
「どなたの写真を見て感心してござるのだ?」
「いやなに、そのおまえにはわからぬ異国の写真」
「文字ならわからなくとも、写真なら異国のものでもわかりそうなもの、私にも見せなされ」
「そうまでいうなら、ばあさんに見せてやろうか」
 虫眼鏡と一葉の写真とが、北山老の手から渡された。母親は写真に虫眼鏡をあててしげしげと見入った。
「ほう、これは碵のべースの写真ではありませぬか」
「そうじゃ、それに違いなし、どうじゃ、力がはいっていようが」
「ほんにな、勇ましい姿、それにしてもおまえ様はきつう碵のべースに反対してござらしたではござりませぬか。あいつは球投げをするから、ろくなやつにはならぬとな」
「そうだ、そういうことをいうたようにも覚えている。だがそれはこれほどのものになろうとは思わなかったからじゃ。こうなれば、文句をいうセキもあるまい、のう、ばあさん」
「そのようなものですかの」
「ところでばあさん、ひとつ相談がある。碵の卒業も間もないことゆえ、わしは幀が早稲田の選手中に上京して、ひとつあれのべースを見たいと思う。ばあさんも知ってのとおり、わしは今までかけ違って碵のべースを見たことがない。せがれの話を人様から聞かされても、返答のしようもないというのは、親としてまことに恥ずかしい。私も老い先の短いからだ、思い立ったが吉日というから、今夜にでも出発する。どうか支度を頼みます」
「そう性急にせいでも、碵はもう一年あるで億ないか」
「そこがそれ、女子と小人養いがたしというのじゃ。無常の風はいつ吹くかわからぬ。祺のべースを見ずに目をつぶるようなことがあったら、わしは死んでも成仏はできぬわ。どうでも今夜の急行で発ちますじゃ」
 いい出したらきかぬ、北山翁の気質、
「では行きなはれ。じゃが碵はおまえさんばかりの子ではない」
「わかりきったこと、わしとおまえの中にできた子に違いはない。それをだれが故障をいう」
「故障はいわぬが、私も碵のべースを見に行きとうござる」
「ばあさん、おまえにベースはわかるまい」
「おまえさんにはわかりますか?」
「さあ、それは見たうえでなければ」
「わたしも見たうえなら」
 ここで老人夫婦は、完全に妥協した。その夜盛岡発東上の汽車は、北山翁夫妻を楽しく乗せて走った。


上野駅頭の父子対面
 電報に驚いて上野駅に出迎えた幀は、シーズン最中に野球ぎらいの父親、しかも母親まで引き具して上京されては、まったくことめんどうと内心すこぶる恐怖せざるを得なかった。練習日ならコーチに事情を話して、東京見物のお供もできようが、試合日というに、どこを案内しろ、今日はかしこを見たいなどいい出されたら、なんとも方法がつくまい。さて困ったことができたと思った。北山翁はいつになく、ニコニコ顔で汽車から降りるやいなや、碵の顔をシゲシゲと見入って、
「元気はどうだ、試合は今がさかりであろうが」
 いつも顔さえ見れば第一番に学校の成績をたずね、次には必ず二言三言こごとをいわねば気が済まぬ父が、的はずれの愛情のこもった声、碵公すっかり面くらった。どうもこれは変だ、親父はなにしに、にわか上京をしたのであろう。
「ハァ、元気で毎日学校へ行っております」
「学校のほうもだが、ベースのほうはどういうぐあいだな?」
「ベースのほうですか、ベースのほうは学校の勉強が忙しいものですから、ときどきやるくらいで、近ごろほんとうに練習したことはありません」
「なに? あまり練習をしておらん、それはけしからん、全体おまえは選手をやめたのか」
「いや、やめたというわけではないのですが、なんとしても学校のほうが」
「学校のほうはむろん大事だ。だが選手というものは、一校を代表して他校と戦うものではないか。その選手が練習を怠っているという法があるものか」
 どうも風向きが妙に変っている。中学時代から今日まで、長い月日の間、父親からこうした教訓を受けたことのない大選手久保田幀、しばしうれしさの茫然自失、ややあって、
「ときにおとうさんはどういう急用があって上京されたのですか?」
「ウム、格別の用向きとてはないのだがな、実はこの世の名残りにおまえのべースを見ておきたいと、にわかに思い立ったのさ」
 この一言を聞いた久保田は、天によろこび、地によろこんで、両親を伏しおがんだ。いそいそと戸塚の合宿に案内する。北山翁は始終ごきげんで、なにくれと野球のことをたずねる。試合を見るまでにせがれから予備知識を得ておこうの魂胆であろう。

さすがの碵もあがり気味
 碵は父のあまりにも急激な転向に、おどおどしてなにから話してよいやら、名選手の答はしどろもどろであった。ときはちょうどワシントンの襲来後、リーグ戦の最中、北山翁は東京見物をあとまわしにして、まず早法第一回のリーグ戦から鑑賞した。早稲田のグラウンドはまだ今のように完備しておらず、スタンドといってもバックネット裏に百人ばかりの座席と、一塁側に数百人が腰掛けうるペンチが据えつけてあるにすぎなかった。北山老夫妻は、ネット裏の中央に案内されて、初めての野球試合を見るのである。
 幀は歓喜して、グラウンドに立った。父の前で、母の前で、腕前を示すのだ。血が体内に沸き返るように覚える。解放された子は、その両親の御前試合にあっぱれ功名をたてようと日ごろの勇気は百倍した。
 野球ぎらいの父が急に発心しての上京、母びとと連れ立っての観戦、碵の心に春風が吹いて手の舞い足の踏むところを知らぬまでの明るさであった。
 やがて試合は開始された。早稲田は谷口、久慈のバッテリー、久保田は相変わらず遊撃を守って第一打者、田中とともに攻守の花形であった。ゲームは早稲田の勝利となったけれども、この日の久保田はことごとく不出来であった。おそらく彼としてこの試合くらい固くなったことはあるまい。
 早稲田歴代の遊撃手中、随一に指を折られる軽捷無類の幀も、その快足をしばられたように動けなかったばかりでなく、ワシントンの快投手連を言句なきまでに打ちまくったその健棒は見る影もなかった。おまけに、中途ゴロをさばかんとして失策、睾丸に打ち当てて転倒するなど、まことに散々であった。親の威光のすばらしさ、禁断から放たれた父の前の可憐な子は、あまりにも緊張した。こうした心理は、いかなマルクスでも解釈ができない。親と子の情愛も格別なら、子供が親の前で功名手柄をといきりたつ、そのよろこびと緊張とは、日ごろの名手に一本のシングルをも与えなかった。
 かつて穂洲の二児が早稲田小学の選手時代、家内がときどきその試合をコッソリ見に行った。群衆の背後にかくれて見ているのであるが、いつかその姿を見つけると、子供は急に緊張してしまい、かえって活動が鈍って成績が思わしくない。それに気づいてから、子供の試合見物をいっさい中止することにしたが、いくつになっても子供なら、幀の失敗も無理ではなかったろう。
 父をスタンドにおいて、一世一代の晴れの試合に寸功をたてえなかった彼は、気の毒なほど落胆した。しかし北山老は上きげんであった。私が、頼のため、
「今日の碵は、今までにない不出来なのです。あなたがおいでになったので、あんまり力を入れすぎたためでしょう。いつもはこんなことはないのですが」
 と弁解すると、
「いや、わしは初めて碵の試合ぶりを見て満足でした。ベースというものは、存外おもしろいものだ。こんなことなら、もっと早く見ておけばよかった」

大選手の球ひろい
 こうした父の許しを得た久保田は、いっそう技術に精進した。そのかいあって大正十一年には,推されて主将となった。当時の戸塚グラウンドには、今のように高さ十二間(二一・八ニメートル)という大ネットは設けられてなかった。柵の外は道幅の狭い村道で、それを隔てて広場になっていた (現在は校舎)。三間(五.四五メートル)ほどのパックネットで訪るから、打撃練習の場合は、ファウル・ボールがその低いネットを越して、広場のほうへ飛んでいく。村道であるから通行人などにも危険があり、始終注意せねばならなかった。
 このように後方に打ち出されるファウルには、明治三十六年以後、大正十四年春までの選手がひとかたならぬ苦労をしたものであった。
 自由打撃は、二組になって各三、四人ずつ交代に打つ。ファウル・ボールの拾い方には、その順序を待っているものが代る代るあたる習慣になっていた。むろんこの拾い方には新参、古参の差別はないのであるが、どうしても新参もののほうが、よけい拾いに行かねばならない。
 ところが田中と久保田の組になった場合の新参選手は、いずれも心がけていながら、この二人に先んじられて拾いに行くことができなかった。ファウルが打ち上げられると、この二人はだれよりも先にスタートして拾いに行く。その迅速さはまことに驚くばかりであった。卒業するまで練習場で横着というものをしなかった。つねに厳粛な態度、しかも新入部員当時の心がけを最後まで忘れなかった。このわずかなファウル・ボールの拾い方にも、大選手の心がけはしのばれ、名人じょうずの反面がうかがわれる。このごろの選手は上級生になるにしたがって漸次技倆が低落する。最近の選手中終りを完了したものは、明治の左翼手松井久一人ぐらいのもので、他の多くのスター・プレイヤーと称されたものは、初めよく、終り悪しの末路である。
 田中、久保田の記録を見れば、一年は一年よりその本領を発揮して、ついに堂々たる成績を完成している。その心がけの抜群や賞すべきではないか。
 久保田幀にもっとも油ののってきたのは、大正十年のアメリカ遠征で、その打撃守備は一行中の白眉であった。ハワイ滞在中の試合には好調でなかったが、いよいよ本土に渡るや、彼は縦横にその手腕をふるい、味方が敵の好投手に悩んでいる場合でも、ひとりよく安打を飛ばして機会をつくった。田中とともに三十八回の総試合に出場し、久保田の打数一五七、得点三七、安打五・一、うち二塁打七、三塁打三、本塁打が一で打率三割二分五厘の第一位を占めている。
 この三割以上は、十回や十五回の試合で得たものではなく、実に三十有八回という多数のゲームにあげた打率であるから、彼の打撃力の強烈さを確証するに十分なものであろう。
 なかんずく、エール大学、バハロウ、ナイヤガラ、ペンシルバニァ大学等に現わしたすごさは、名遊撃手久保田の球生涯を通じて、あまりにもはなやかな記録であった。この妙技に酔わされたアメリカ人の見物は、
「こんなすばらしいカレッジ・ボーイを見たことがない」と激賞したり、米国の新聞紙はたしかにメイジャー・リーグの資格をうたったりした。もっとも、これははなはだしい誇張ではなく、ハーバート・エッチ・ハンターのコーチを受けたときも、もし久保田がアメリカへ行って野球をやる気なら、自分は進んでメイジャー・リーブに推薦しようとまで乗り気になったほどだったから、まんざらではあるまい。
 久保田は大正十二年春、赫々たる武勲を母校野球史に残して校門を去った。東京電気から目蒲電鉄に移り、二人の女児のもっともよき父親として勤務していたが、大下のあとを引き受けて、昭和九年から早稲田のコーチとなった。


終吉と常吉
万能選手の松本
 松本終吉は、大阪朝日の記者として現在は関西球界に雄飛しているが(注、昭和八年現在)、その市岡中学時代の強球は当時の人々から激賞された。不幸中途にして肩を痛め、その猛球を早稲田に持ってくることができず、ついには三塁手や外野手に移ったけれども、一時は明石の楠本のごとき評判をとった。松本のニックネームはタコさんという。それは、なにかいうと顔をあからめる癖があったにも多少の因縁はあろうが、このあだ名の由来は、そのからだ全部の柔らかさにあった。左右の手を逆にうしろにまわして、その指先が襟元に着くという柔らかさ、両足を開けば、そのまましりが地面につく自由自在、終吉さんはまるでタコのようだ、からみつかれたら離れない、というところから、タコさんというあだ名をちょうだいした。
 野球以外の運動における彼を知らないけれども、野球の器用さからいったならば、私がコーチした選手中、松本のようなのは少ない。滑り込みにしろ、一度他人のを見れば、すぐまねができる。ハンターにコーチを受けたときの松本は、有田、谷口とともに投手であったが、変った滑り込みなどになれば、だれよりも先に覚えてしまう。滑る立つという早技をいちばん先に試合場に実現したのは、おそらくあのころの選手中では松本が嚆矢《こうし》であったろう。
 ハンターが、説明だけでできないものでも、松本はただちにやってのける。だから投手、捕手、内野手、外野手ゆくとして可ならざるはない。それが十日も二十日も練習しなければ役立たぬというのではなく、新ポジションでも一度か二度練習すれば、一人前以上の仕事をする。いわゆるオールラウンドのプレーヤーであった。三塁に人がなければ、その日から三塁手をやる、二塁があけば二塁へ、外野手から捕手へと、ティームのあなを完全に補っていく調法さに、そのうえ、打撃も走塁も頭脳も備わった選手であった。

一世一代の大殊勲
 大正九年の春に来征したシカゴ大学は、三度目の招へいで、前二回は日本ティーム全敗という悲惨なる記録、その第一回の四十三年のごとき、大敗の責を負うて、キャプテンであった穂洲をはじめ小川、松田、伊勢田等古参選手が辞任するなどの悲劇も演じられた。穂洲コーチとなって初めてのシーズン、選手一同も復仇の念に燃えていた。けれどもシカゴは相変わらず強く、第一回は新進有田が投げて引分、第二回戦は伊藤が投げて敗れた。しかるに慶応は、第二回戦に新田の好投によってみごとに勝利を得た。これがシカゴに対する第一勝であった。さあファンは承知しない。早慶試合が行なわれずに間接比較に夢中になっていたころだから、早稲田党の興奮は極度に達し、早稲田の勝利を熱望する声、喧々囂々《けんけんごうごう》たるものがあった。けれども穂洲はまだコーチとしてかけ出したばかり、シカゴに対する旧怨の沸き立っている点では選手以上であったが、ふぞろいの選手を擁して勝ち味がなかった。有田はもう役立たぬ。伊藤十郎にも渡辺信敏にも自信がない。
 そこへ松本が投球を買って出た。
「ぼくに投げさせてください。シカゴの打撃ならぼくに自信があります」
 平素自慢をいうたちの選手でない終吉が決心の色を眉宇に現わしての申し出である。そのとき松本は左翼手であったが、ティーム危急の場合を黙視することができなかったのであろう。私もその意気に感じて、敢然松本をプレートに送ることを心に決した。
 大正九年の五月二十五日、慶応に一敗を喫して全勝を過去に葬り去ったシカゴは、早稲田との第三回戦を、ことに警戒して、第一投手クライスラーをたて全力をそそいだ。しかしこの日の松本は、驚くべきほどのコントロールをもってシカゴを完封した。前半わずかに三安打を与えたのみ、一の得点をも与えない。二対○で快勝した。
 この異常なる成績は、対シカゴ戦三度の会戦中、初めて収めたもの、松本終吉一代の殊勲といっていい。松本はこの一戦に好投したばかりでなく、大阪の第二回戦にも十四回にわたる激戦ののち、これを破り、二度目の大功をたてている。
 十年の渡米遠征には、投手の重任を帯びて参加したのであるが、猛烈なるシーシックにかかり、ハワイまでの十日間をほとんど飲まず食わずの状態、そのあだ名にそむくものとして、大いに同情された。これがためかハワイ上陸後、まったく肩をそこね、大陸に渡っても、思うような活躍ができず、わずかにイリノイ大学に善投したのみ、デトロイト大学との対戦には、第一球を投げたさい、腕を抜いて実に悲惨をきわめ、松本自身まったくその不遇を嘆息した。
 松本が肩を痛めなかったら、たしかにシカゴの第三回戦をつかんでいたろうし、遠征軍も、心強い旅行ができたであろうにと惜しまれる。帰朝後、漸次回復し、十二年に主将の印綬《いんじゆ》を帯び左翼を守った。

努力家の大下
 松本とほとんど同時代の選手としては、大下常吉がある。大下の選手時代というものは、これまた典型的努力家であった。奥州八戸中学は、今でこそ岩手福岡中学などとともに、野球界に知られているけれども、大下が投手であったころの八戸中学野球部の存在など、知る人はなかったであろう。八戸は大下によって、福岡は戸来《へらい》によって広く天下に紹介された。
 大下の八戸時代というものは、そのティーム全体としても、大下自身の技倆からしても、問題でなかったに相違なく、青森あたりの中学師範などにも勝つことは少なかったであろう。左ききの丸々と肥った少年投手は気ばかり勝って、いっこうコントロールがなく、悪ヤジに憤慨して群衆にボールをたたきつけようとしたり、プレートの上で泣きながら無我夢中で投球を続けたこともあるという。
 この幼稚な八戸の野球を終って、早稲田に来たときの彼は、外野に立って一個の飛球もつかめなかっ、た。ほんとうの意味の球拾い、これが後年早稲田の強打者となり、一番、三番を承って、明治の渡辺にきらわれるほどになろうとは、だれしも思わなかったであろう。左ききの存外不器用ではなかったが、なんにしても土台ができていなかった。外野の飛球をとらえるまでに一年近くもかかっている。その間本人の努力というものは言語に絶した。中学でいっぱし選手をしてきたものなら、だれでも大学選手ぐらいの技倆にはなれるのだが、下積みになって、ボール拾いや水汲み使いの辛抱ができない。春の入学期に、三十人入部すれば、秋のシーズンはじめには、十五人になり、十人に減じてしまう。翌年の春まで忍耐するものは、十五人が十人になり、十人は五人になり、結局そのうち二、三人が踏みとどまって選手たる名誉をになうということになるのである。
 大下は大正七年の春、田中、久保田、堀田、渡辺、梅川などの選手とともに早稲田へ投じたの.であるが、八年秋に一、二度ピンチ・ヒッターに採用された程度で、大正九年の秋までは正式のポジションを与えられなかった。それでもなんらの不平もとなえず、黙々として粘り強く練習を続けていた。その努力はついに報われずにはおらなかつた。一度右翼手の位置を与えられると、たちまち名外野手たる名声を博し、打順三、四番に抜てきされ、久保田、高松、田中等に伍してなんらの遜色がなかった。深く研究する性質がその打法などにも現われ、自分に合うフォームを考えて、他人の模倣をせず、いかにもうま味があった。

大下鳩七改名の由来
 東北人の、ことに口不調法が、早稲田脱退問題のときなど、存外不便を感じたであろうが、選手としての彼は、文句をあとまわしにして、ひたすら練習した。文句をいうよりもおれはヒットを打つという主義であった。だから後輩である松本終吉がキャプテンであった最後の一年も、快くその指揮命令に従っている。大下はかなりの料理通で、食道楽と相撲と、馬のことになると、口角泡を飛ばす。親類中からなんでも東京力士になったものがあるという。河合君次が入部するまでは、野球部の大関であり、身長はないが、バランスのいい体格、料理通ばかりでなく、量のほうにかけても相当の強者で、久慈次郎には一籌《いつちゆう》を輸しても、当時の選手中関脇以下には落ちない。食道楽というものは、腹七分などいってるようではまだまだ話せない。タラフク食うのでなければ真の味がわかるものか。これが大下一流の主張である。
 だから渡米の船中、久慈次郎がパンを八つ平らげた同じ日の食卓で、鳩の料理を七皿まで、重ね食いをして平気でいたところ、これを安部先生に発見され、メニューのあともどりは作法上いけないのだと私が教えたではありませんか、同じものを重ねて注文してはいけないくらい、わかりそうなものです、以来気をつけなさいと、きめつけられ、大下常吉大いに赤面したが、
「先生、あのうまさについ釣り込まれて、とうとう七皿まで延長してしまったのです。申しわけありません」
 叱られてきまり悪そうにするが、いやにふくれたりしないその態度に罪がなく、先生もかえって気の毒げであった。この鳩料理七皿から大下鳩七と改名することになったが、料理通の鳩七も、バハロウで米国人の家庭に分宿したときには、大変な見当違いをして、空腹にヘコたれてしまった。
 渡米の一行は、案内役のべニンホフ博士のあっせんで、おのおの米国人の家庭にそのホームライフを味わってみることになり、二人組、三人組、あるいは一本立ちで分宿することになった。大下、富永、私の三人は、西洋人の家庭生活などをする必要がないから、ホテルに居残ると反対を唱えたけれども、安部先生に一かつされ、渋々納得して、私は富永と二人、大下は、久慈、永野と東北三人組をつくって、不承不承それぞれの家へ案内された。

会心の穂洲即製英語
 米人の家庭生活実見には、それぞれの家で、かなりの失敗談があった。富永と私とは、ハーリングさんという老夫婦だけの家庭に収容され、存外気楽のほうであったが、なんとしても、富永大監督の無口に、穂洲の無愛嬌、それにしゃべるのが英語なんだからやりきれない。ミスター・ハーリングが勝手元で皿洗いをしている間は、品のよい全身親切に包まれたような老夫人が、われわれの相手をしてくれる。牛込弁天町のバプテスト教会、それはべニンホフ博士の主宰であったが、そこヘハーリングさんの一人息子が来ていた。長い間日本に滞在して布教中であった関係から、ハーリング老夫妻は、非常な日本びいきであり、老夫人はなにかと日本のことをききたがる。このときぐらい、しみじみ会話を習っておけばよかったと思ったことはない。
 富永徳義は、むろん穂洲よりも秀才であるけれども、めんどうくさがりで、ニコニコ八重歯を出して笑うばかり、容易に口を開かない。
 富士山の盆景、三保の松原あたりであろう。西行法師のような行脚僧が、笠に手をかけて、富士山をながめているの図である。富士山は老夫人にもよくわかるが、行脚僧が解せない。
「これはなにか?」という質問だ。
「富、返事をしてやれよ」
「あなたがしなはれ」
「まあ、君がしてやれ」
「おれも知らない」
 困ったことになったと思案中、日本語で二人が話し合っているので、老夫人はけげんな顔をして二人をながめている。ややあって穂洲が勇気をふるい起こしながら、
「ユウ、ノウ、テンプル」
 とやっつけた。
 夫人はそくざに「イエス」と答えたからやつぎばやに、
「ジス、イズ、テンプル・マスター」
 とは、われながらあまりにあざやかにすぎて痛快であった。しかも驚くべし、夫人はいかにも納得したように穂洲即製の英語に感嘆しつつ、
「オー、アイ、シー」
 は諸君いかがでござる。英語というものはかように流ちょうにやらねばいけない。これがチンパンジーやゴリラなら、なんとも方法がないのだが、人間と人間なら、どうにかくふうして話ができるものだ。半年もアメリカにおれば、だれでも一人前に話ができるという。当然のことであろう。けれども(あんまり熱心家になると、日本人を見ても英語で話しかける。それば少なからずしゃくにさわるものだ。一度など支那人ではないかと思われるほどであったから「おい君は日本人じゃないのか?」といってみると「日本人だ」という。「日本人なら日本語がでぎるだろう」と、いや味をいったら、さすがにきまり悪げであった。
 しかしアメリカへ行ったら、アメリカ人にメリケン語で話さねばならぬことはわかりきっている。ただ日本に来る外国人が、アタマが悪ぐて、日本語が話せないのはやっかいである。日本に来たら日本語、英米に行ったら英語と、不公平でないほうがいい。
 翌々日、一同はバハロウに別れを告げて西下の汽車に乗った。車中は失敗談に花が咲く。富も私も、知らぬ顔をしていたが、僧侶という英語を忘れた不覚を、そのままにしておいては、後学のためにならぬと、思いきって、先生に伺ってみた。
「先生、坊主という英語はなんといいましたっけ?」
「ぼんさんですか? ぼんさんはモンクですよ」
「ああそうか、じゃ、やっばりモンクがなかったわけだな」
「君はなんといいました?」
「テンプル・マスター」
「ハハ……まるで弓館君の英語ですネ」
 注にいわく、東日の弓館小鰐君(故人)は、この式の英語にかけては天才であることを、安部先生がよく承知しておられたものとみえる。

東北三人組の珍談
 私どもが、このテンプル・マスターをやっていた同じ時刻、東北三人組の久慈、大下、永野の三豪傑、クーリーさんという人の家に陣取って、晩餐の卓についていた。大きな皿に盛られたうまそうな肉、三人は張りきっていた。
 一皿の肉を、久慈次郎が第一番に平らげてしまうと、クーリー夫人が気をきかせて、「どうぞお代りを」と大皿に盛った同じ料理を差し出した。久慈は心得たりとばかり、第二回目の肉塊を自分の皿に移した。それとほとんどセームタイムに、大下常吉もペロリとやってのけたので、夫人はまた大下のほうへ、大皿をまわそうとした。ところが大下は言下に「ノウ・サンキュウ」一言のもとにはねつけてしまった。夫人は愛想がないように「どうかしたのでしょうか、おなかでも悪い?」と久慈にたずねる。久慈は三人組の中では、キャプテンである。長身居士気をきかせて、
「そうではないのですよ、ホームシックにかかっているのです」
 ごまかしたので一同大笑い。そのまま食卓を離れて、自分たちの部屋に引き下がると、
「常吉さんどうしたんだ。急に小食になったじゃないか」
「なあに大エラーさ、ランチでも食うように一皿一皿違ったやつがくるだろうと、ノウ.サンキュウを一生懸命でやってのけたら、あれきりじゃないか、がっかりしちゃった。はらがペコペコだ。こんなことだろうと思って、ホームライフお断わりと出かけたのだが、安部先生にしこたま怒られ、しぶしぶ来てみれば、この始末。もうアメリカはいやになっちゃったよ」
「ハハ……平生あんまり食いしんぼうだからたまにはいいさ」
 そこへ近所の婆さんが遊びに来た。日本の婆さんにもおしゃべりはあるが、女のおしゃべりというものは、洋の東西を通じて変りのないものとみえる。婆さんは日本人というものが珍しかったのでもあろうが、ここを先途としゃべり立てるので、その難解の英語には、ほとほと困却してしまった。やがて婆さんの亭主も来る。クーリー夫人は、みんなの前にウォーター.メロンを並べて歓待これ努める。
 婆さんの亭主は、婆さんにはもったいないほどのいい人で、なにかと日本のことを興味深くたずねるのであったが、日本の柔術を知りたいといい出した。これは大下常吉のもっとも得意のひとつであったが、まず前座として永野重次郎が相手になることになった。
 重次郎五尺七寸(一・七三メートル)何分という大男だけれど、相手の老人は六尺(一.八ニメートル)以上もあり、重次郎の背広服の襟をしっかりつかんでがんばるから、わざがかからない。
「重公やん、跳腰をかけてやれ」
 大下が助言したので、重公やん本気になって一腰入れるとはね上げた。老人の巨体は宙に浮いて、まさに大木のように倒れんとしたが、レスリングの心得があるので、 一生懸命重公やんにしがみついたからたまらない。二人は抱き合ったままドウとばかりにぶっ倒れる。ちょうどそこにはこの家の家宝ともいうべき大花瓶があった。これも二人のぞばづえをくらって転がったから、腐った水がどんどん床の上に流れ出るという大騒ぎを演じた。
 この活動が静まると今度は、日本青年慰安に頼まれて、近所から妙齢花を欺くばかりの美人がやって来て、パイオリンとピアノの合奏だ。無風流の三人、大いに困ってしまったけれども、厚意をうけなければならぬので、神妙に聞きほれたふりをしている。一曲終ると娘たちは活発に立ち上がり、
「さあ今度はあなたたちの番ですよ」
 と押売りである。大下常吉びっくり仰天し、久慈次郎に応援を求める。久慈もバイオリンでは、腕前の現わしようがなく、しりごみする。
「あなた方がもう一度やったら」
 撃退すれば、娘たちはおとなしく、さらに一曲を調べて、再び三人にせまる。
「実はぼくたち、バイオリンはちっとも弾けない。歌で勘弁してください」
 とばかり陳謝して、国歌を合唱した。けれども娘たちは、どうしてもバイオリンを弾かせたかったものとみえ、今度は永野重次郎にしつこくせがむ。重次郎ここで一曲やってのけなければ国辱と考えたか、娘が渡す.ハイオリンをわしづかみにして、威勢よく突っ立ち上がった。
 次郎と常吉、重公やん気が狂ったのではないかと思ううち、不器用な手つきに弓をかき鳴らせば、あら不思議や、その名曲は神楽坂あたりの暗がりで、編笠姿の書生浪人、艶歌師のたぐいがその日の糧を得る一つとや節であった。しかも一つとやは一つとやに聞こえるからおかしい。重公やんぼろを出さぬうち、三つとやで終曲としたが、アメリカの娘たちはじめ、家内一同の面々、イタリアの大バイオリニストの演奏でも聴いたように感にたえ、重公やんの楽才を賛美した。大下常吉いわく「重公やん、神楽坂あたりでやったんじゃないかね」

加藤の馬車馬国境越えて
 この連中の中で谷口とともにもっとも年若く一行に加わつた選手に加藤高茂がある。加藤は高松の後輩で《愛知一中の選手として全国大会に優勝をしたこともある。一本気の猪突《ちよとつ》をもって鳴り、名古屋時代から馬車馬の異名をとっていた。打力よりも脚力にひいで、その快足はめざましいものがあった。走り出すと向こうみずに走る。戸塚球場にコンクリートの塀ができたばかりのとき、外野の飛球を追うてこれに幾度か頭部を打ちあて、卒倒したりしたけれども、痛いなぞと泣きをあげたことがない。
「おい加藤、今日もコンクリートがへこんだぜ」
「そうだろう、卒業するまでには、ほうぼうをへこましてしまうんだ」
 渡米の途、勇敢無遠慮、だれでもつかまえて話す。「加藤わかるかい?」「わからないが、向こうもわからないのだから五分五分だ」という。
 コレヤ丸の船中で、会話の練習だといって、森村組の重役村井保固氏の令孫オーステン君、同君は八、九歳くらいの少年であったが、両親とも米国人であったから、純粋のアメリカン・ボーイだ。このオーステン君を会話の相手に見たてたのは、加藤なかなかの智謀といっていい。オーステン君は長らく名古屋にいたので、ぼくは名古屋を知っているというと、加藤はそくざに「アイ、アム、ナゴヤ」明りょうにやってのけた。日本語に巧みな少年はハハ……とかわいく高笑いして、「あなたが名古屋ですか?」とやられ、ギャフンと参ってしまった。
 加藤は、これでしばらく馬車馬から、アイ、アム、ナゴヤにのりうつったけれども、あとで安部先生がこの話をきき、「そのくらいの勇気がなければ、会話は早く上達しません」と笑うみんなをたしなめたので、閉口していた彼は、急に威張りだし「どんなもんだい、アメリカをふた月旅行すれば、ぼくなんか、会話に不自山しなくなる」は少々大きい。

ハワイでの逸話
 ハワイ滞在中、ある一日、ヌアヌパリーに遊んだ。ヌアヌパリーはホノルルの古戦場で、勝景の地である。ホノルル市より東北方六マイル。ヌアヌパリーとは、土人語でヌアヌの渓谷というのだそうな。ここでハワイ建国の祖、カメハメハ一世が、オアフの酋長カラニクブレと戦い、酋長軍を絶壁に追いつめて大勝を博したという由緒あるところだ。
 ホノルルに行った人は必ずこのヌアヌの勝景に案内される。選手もホノルル退却の日が近づいたので、自動車を所有している有志家の好意をうけ、この風景を賞すべく車を走らせた。この日はハワイ在留邦人中のチャンピオンばかりがドライブしてくれたのであるが、加藤ら二、三人の搭乗車を運転したのは、当時レスリングのチャンピオンであった池田金城君だった。池田君は東京力士から転身した人で、 一時はハワイ全島を風びしたレスラーである。
 若い選手を乗せたレスラーは、選手のいう袁まに急傾斜の坂道をフール・スピードで走らせる。選手たちは有頂天になってもう少しもう少しとせがむ。もう一曲折すれば、ヌアヌパリーに着くというところまで疾走したとき、とつじょ加藤が、池田君にストップを哀願した。
「金城さん、ちょっとぼくを降ろしてくれませんか」
「どうしたのです、もうすぐですよ」
「ちょっと急用ができたのです」
 車が止まるやいなや、加藤は飛び出した。
「どうするんだ?」
 返事もしない。いちもくさんに草原の中に突進する。一同ふしぎがって目を放さずにいると加藤は手早くMボタンに手をかけた。ハハア、やっこさん辛抱ができなかったのだと合点する6高茂はホノルルを眼下に見る崖の上にさっそうとして立ち上がり、いまやまさにホースを切って放たんとした一せつな、運転台の横に立っていた池田金城は、あッと叫んで疾風のように加藤の後方から飛んでいった。筒きりに迫っている加藤は、ボタンをはずすのももどかしく、あわや急奔放出されんとした危機一髪、金城君はムンズとばかり加藤を抱き止めた。
 不意の襲撃を食って驚いたのは加藤高茂、なにしろホノルル随一のレスラーに抱かれては身動きができない。
「なにをするのだ」
「……」
 金城君は顔色を変えたまま、有無をいわせず加藤を四、五間抱き上げたまま崖上を去った。さすがの加藤もこの事件中に放出するわけにいかぬから、一時中止のやむなきにいたったけれども、池田君の仕打には少なからず不きげんであった。
「どうしたのです? まさかハワイは立小便無用というのではないでしょう」
 池田君は息をはずませ、無言のまま崖の下をおもむろに指さした。
 見ずや、そこの草原の中には、緑眼金髪の彼女と彼女の親愛なる青年とが、仲むつまじく弁当を使っているのを……。一度馬車馬の水雷が崖の上から放射されたら、諸君いかなる大事件が起こると思う。おそらく日米戦争のうわさは昭和八年までは持ち越さずに、そのとき日米談判はみごとに破裂していたであろう。加藤も一目それと知ってあぜんたること久しく、池田君と顔を見合わせて苦笑した。
 シカゴ大学との第一回戦に惜敗して腹をたてながら、デルプラドウホテルへ帰るさ、一軒のグロウサーで、大きなすいかを見つけた。ムシャクシャしている彼は、いきなり店頭に立ってアイ・アム・ナゴヤ式の英語をあやつって、その代価をきいた。日本人をばかにして吹きかけたのではあるまいが、その価、驚くなかれ、ニドル三十五セントなりというのである。このごろのドル相場だったら大散財であるが、そのころは百円が四十八ドルぐらいであったと思う。それにしても日本金の五円以上とは考えざるを得ない。けれどもこれを買わなければ、毛唐人に笑われるかもしれぬ、意気をみせうとばかり大奮発、さぞうまかろうとホテルへ帰って打ち割ってさっそくばくつくと、見た目とは大違い、そのまずさかげんお話にならず、高茂先生大悲観、アメリカのすいかにはコリコリだと大こぼしであった。

かすり木綿の書生選手
 そのころの選手は、一倍元気でもあったが、よく安部先生の意を体して、質素剛健の風を忘れなかった。これがまたすこぶる気持がよかった。貧乏人ばかりであったからだろう、というてはならぬ。名古屋の高松、大阪の田中など、押しも押されもせぬ金満家の息子もいた。それらがみんな地味な風をして、かすりの羽織に観世よりのひもを結んで、小倉のはかま、書生らしくキチンとしていた。
 堀田正は徳山中学を勇気がありすぎて遠慮され、京都の立命館中学から早稲田に来た。投手としても、外野手としても、りっぱに役にたつ腕前であったし、ことに頭脳がよかった。堀田のベースボールは個人的の技術よりも試合運行の才に富んでいた。たしかに名コーチになれたと思う。目先がきき、それがうすっぺらでなかった。押しも強く、後輩などをコーチさせたら実にあざやかなもの、一時立命館が強くなって、全国大会などに優勝をめざしたことがある。旧明治の投手安田君の時代であったろう。これを世話したのが堀田で、奈良の春日野のグラウンドあたりで猛烈な練習をしたらしい。この安田という選手は投手をすることが好きで、堀田は捕手として大成すると見込みをつけ、捕手をやらせていた。しかるに堀田が東京へ帰ってしまうと、安田君みずから投手となってがんばってしまう。とうとう投手として明治に投じたが、もし捕手をしていたら、もっと成功していたろうと堀田は惜しがっていた。
 徳山時代の堀田などは、スパイクのようなハイカラなものはなく、みんな素足で練習した。足が生蕃のようにカチカチになって、小石などにつきあたれば小石のほうが砕ける。まさかそうでもあるまいが、こうした蛮カラの中に選手生活をした彼は、実に心がけのよいものであった。中肉中背の好男子で男らしい顔をしていたが、かすりの着物にヨレヨレの小倉ばかま、ほうばの下駄という昔ふうの書生姿は、まことによく似合って、今の書生どものようにいや味がなかった。
親のすねをかじっているくせに美服をまとう。高価なオーバーを着ているかと思うと、めいせん以上のゾロリとしたなりをして得々としている。これらはばか息子として、カフエーの女給や、ダンスホールではチャホヤされるであろうが、真の男には惚れられない。昔の書生-昔といっても十年前にすぎないのだがーというよりも野球選手は男に惚れられるだけの資格を持っていた。このごろではスポーツ選手で浮名を流す外道人があるようだし、くだらぬ事件-もっとも 新聞雑誌などもスポーツの全盛につけ込んで、針ほどのことを棒ほどに吹聴したり、おもしろくつくり上げたりするむきもあろうけれども、現在選手が軟化しつつあることは事実である。
 堀田などの心意気は真に男に好かれるような気持よさがあった。当時の家庭だとて、年ごろのせがれにかすりの筒袖を着せて十分だとは思っていない。

穂洲ご難の図
 シーズンがすんで、もう選手連中は試験準備に忙しいときとなった。ある雨の降る日であったが、私は選手の動静をみてこようと戸塚の古い合宿所を訪ねた。合宿は森閑として談話室になっていた広間に人の影もない。玄関から内庭に面した縁側に立った私は、そこに一脚の椅子があったから、だれか出てくるまでここで待とうと思って、十九貫(七一.五キロ)の巨体を何げなくおろしたとたん、椅子はクルリと縁側をすべってまっさかさまに転落した。からだを支えようとあせったけれども、もう寒くなっていえので、私は二重回しを着ていた。だるまのように手が出ない。あっという間に前面の泉水へ落ち込んでしまった。この泉水は選手自身が掘った金魚池であったから、水泳の達人でない穂洲ながら、溺死するようなことはなかったけれども、おかげでズブ濡れになってしまった。しずくをたらしながらはい上がったとき、べーブ田中と馬車馬の加藤と、甲州から来ていた投手の小林忠則がアタフタと現われてきて介抱してくれた。
 そのときの私は、まったく自分の失策とのみ思っていたのであるが、後年小林が高杉滝蔵先生の卒業英作に、変ったものを提出したい、それには自分が野球選手であったのだし、高杉先生は野球部長であるから、なにか野球にちなんだものを書いてみたいというので、穂洲泉水ご難というのをみだしに、一文を草してくれといって頼みにきた。そこで私はお安いご用とばかり悪文をつづってやった。今はどんなふうに書いてやったか覚えていないが、小林はこの一文を英訳して高杉先生から相当いいマークをもらっているはずだ。
 小林が頼みにきていかにもおもしろそうに話すその口うらに、不自然さがある。ふと私は彼らのうちのだれかが仕掛けをしたのではないか、むろん平素グラウンドでいじめられている報復に私をおとしいれようとしたのではあるまい。それに私がその日にゆくことをだれも知ってはいない。ほんの思い出したようにひょっこり訪ねたのだから、そこまで御念の入っているはずもない。だれか腰を下ろしたらひっくり返る、ヤンヤと笑ってやろうといういたずらに相違なかったのであろうが、それに私がひっかかった。いっそう痛快ではあったろうが、良心にとがめて間が悪く、いずれも出渋ったらしい。私は小林の申し出を引き受けてから、あれは君が籐椅子に仕掛けをしておいたのだろうと突っ込んでみた。ところが小林は頭をふって、そんなことがあるものですか、あのころの私は新米で小さくなっていたのですよ、と答える。じゃああれはだれのいたずらだ、と重ねてたずねたが、彼はついに笑って答えなかった。
 それはさておき、さるまたまで濡らしてしまった穂洲を田中は非常に気の毒がって、押し入れの中から大きな柳こうりを持ち出して、私に着られそうな着物をあれかこれかと物色した。その開いたこうりの中をひと目みて驚いた。上ものがぎっしり詰まっている。高価な二重回し、錦紗縮緬の兵児帯、大島つむぎの重ね、古代更紗の下衣、仙台平のはかまというように、婿入り衣装一式すでに万般整ったものであった。
「ばかに上等なものじゃないか」
「ほんとうにこんな無駄なものばかりこしらえてくれて困るのです9早稲田の野球部ではかすりの着物と小倉のはかまという掟なのだから、どんな着物をつくってもらっても着られない、というのですが、年ごろになって、みっともないからといっては次ぎ次ぎにこうして送ってくれるのです。親の厚意ですから、粗末にはできませんけれども、休暇のたびに大阪まで持ち帰っては、また東京へ運び返す、それだけでもやっかいです」
 これだけの物持ちでありながら、身につけているものはあかじみたかすりの袷一貫、今ごろの選手連、なんとゆかしいとは思わぬか。私はそんな上等ものを拝借するわけにはいかぬと辞退し、加藤のかすりを借り着して帰ったが、身のまわりを飾らぬ選手中でも、好男子の堀田などは代表的のものであった。


外野の三羽烏
選手諸君の反省を
 思い出の糸をたぐり、ひとり当時をなつかしみつつある間に、私は十余年ぶりで谷口五郎の投球に昔恋しさを覚え、老いざる久慈次郎のキャッチングに感嘆した。これらの選手はまったく、過去の人であるにかかわらず、その技倆には年をとらせていない。全国都市対抗戦の舞台に、大連実業団を背負うて連日快投した谷口の鉄腕、それこそ大正十年から十一年まで、東京の大学投手中に独歩した稀代の快速球であった。速力においてこそ、昔そのままではないが、しかも彼が昨夏示した投球は、ごまかし的のものではない。真正面から押してゆく堂々たるピッチングであった。穂洲が小野、谷口、湯浅、竹内などを、日本の四大投手に数えて推称することに、もし異論を持っていたものがあったとしたら、谷口が如実に示した技倆をもって堪能したであろうと思う。谷口の今の技倆をもって、現在のリーグに投球しても、第一人者たることはいうまでもなく、リーグの強打者の多くは、彼の前に健棒の冴えを失うべきは明らかである。球の配合といい、コントロールといい、彼に比肩すぺきものは、現在の大学投手にはない。
 その谷口や竹内、さては小野、湯浅の大投手たちが、大毎、明治、早稲田の巴戦に打ちまくられて、苦心さんたんしたのであるから、大正十年以後十四年末までの明治、早稲田の技倆というものは想像にかたくないであろう。現リーグの技倆低下は、いかになんびとが否定しようとしても、なしえないことであって、そこに現選手の発奮の余地は十二分にある。今の選手は技倆以外のごとには理屈もあり、社会的にも偉くでもなったもののようにふるまうのにソッはないが、いっこう勉強をしない。
 審判に無理な物いいをつけたり、試合真最中、塁上で小ぜり合いを演じたり、口げんかの絶え間がない。試合がだんだん下品になってくる。腕に物をいわせることができないため、やじ馬と同様、口で試合をしている。練習場では楽をしているくせに、試合場で功名手柄をと望んでいる。ちょうど遊んでいて多額の俸給にありつこうという外道人と、なんら選ぶところがない。世の中にそんなつこうのよいことがあるものかといいたい。
 こうした誤れる考えが、自分のやりそこねに理屈をつけて、審判にくってかかる。自分の不足を知らずに、他を責めようとする。だからリーグには毎シーズン問題が絶えない。満足にシーズンを終ることがない。グラウンドになだれ込むやじ馬、応援団というようなものも、結局撲滅しなければならぬけれども、先決問題は選手の品位を向上させねばならない。彼らはその私的生活にも、大改善をなし、反省しなくてはならぬであろうけれども、第一には、試合上における態度を改めなければならない。
 中学生よりも、実業団よりも、下品なのが今の大学ティームである。これで日本の野球がリードできると思っているなら、まことに情ない次第といわねばなるまい。

見習え、田中の努力
 田中勝雄はその大学選手生活中、一度も審判者に物いいはもちろん、その宣告に対していやな顔をしたことのない大選手であった。そのころの審判者というものは、すべて学生であったから、むろん今の審判者などよりも劣っていたし、多くは補欠選手とかマネージャーとかいうものがあたっていた。田中などもたびたびおそろしい高い球などで三振を宣告されたものであるが、彼は審判者のほうなど見向きもせずベンチへ帰ってきた。
「田中、ずいぶん高い球だったな」
 と、慰めてやると、
「ハア、少し高いようでしたが」
 たったこれきりで、審判者をひと口も非難しようとしない。腹の底には、なあにこの次はホームランを打ってやるぞ、という強気が十分に動いているから、審判者などに一言半句の物いいなどをつけようとしないのである。
 ホームランを打っても、相手の投手に気の毒そうに塁を一周して帰る。スタンドも、ベンチもわき返るような中に、コッソリベンチに帰って小さくなっている。試合がすんで合宿に引きあげる。茶話会などで、みんなが高声で話し合っても隅のほうで縮まっている。つねにけんそんで、からだこそ二十二貫(八二.五キロ)という大兵ではあったが、一見したところ、この温厚の士がグラウンドに出て阿修羅《あしゆら》のごとく活躍するとは思われぬ人柄であった。
 しかも、打席に立っては人一倍の度胸をもって、いかなる投手も恐れない。多くの投手は完全に打ちまくられている。
 平素猫のごときも、いざとなれば猛虎の勇をふるう。去年の夏のある夜、阪神沿線精道村に住む彼の居宅へ、一人の覆面強盗が押し入った。おりから帰宅したばかりの彼は、ユニォン一貫の半裸体で奥の間にいたが、それと気がつくや、床の間にあった日本刀をおっとり、強盗の面前に立ちふさがり、キラリと引き抜くや、これをつきつけて、
「動くときるぞ」
 と威嚇した。
 強盗は、右手にピストルを擬し、無言のまま相対した。日本刀をバットに代えたホームラン王も、ピストルのスピードにはちょっと手が出せない。両者にらみ合うことしばし、ホームラン王はジリジリと迫っていった。この勇猛にさすがの強盗もしりごみして一歩一歩引き下がる。とっさ、田中は刀を投げ捨てて組みついた。強盗の手はたちまちその強力にねじ上げられ、なんなく捕縛、そのまま警察に突き出されてしまった。
 グラウンドの王者としてホームランの高名をうたわれた彼は、ピストルの前にも動ぜぬ度胸をもっていた。こうした人物が中堅となって、早稲田の全盛を築き上げたのであるから、当時の選手はいずれも平凡ではなかった。ことに田中、久保田の努力的練習に化せられた後進選手は、まったく血を流して練習した。
 大正十三、十四年の早稲田は、内外野とも間然するところがなかった。外野の三羽鳥といわれた河合、氷室、瀬木、内野の有田、水原、山崎、根本、井口、バッテリーの竹内、大橋、藤本——宮崎、安田、柳田、伊丹に加えて望月、児玉、緑川、原口、源川、水上、多勢の老巧新進雲のごとく集まっていた。その上右打者として安芸祝があり、水野栄次郎があった。このうち、中学時代にやや名をなしていたものは有田、井口、藤本くらいのもので、他はいずれも無名の選手として早稲田に投じてきた。ことに外野手として大成した氷室と河合のごときは、田中などの感化を受け、命がけの練習によって武名を輝かした代表的のものであったろう。

河合と穂洲の根くらべ
 河合君次は、岐阜中学の外野や投手として、東海連合大会などに出場したのであるが、彼の名をなしたのは、野球よりもむしろ相撲であって、中学力士としては東海有数の闘士であったらしい。
 頑強なからだは持っていたが、目立つほどではなく、はるか外野の隅に球を拾っていた彼をだれも認めるものがなかった。四月の練習は、春のリーグ戦を控えて選手の練磨に、日もこれ足りないときであるから、新入部員はしばらく閑却されがちである。
 ある日選手の練習が終ってまだ時間があったので、私は初めて新入部員を外野に集めてノックを打った。十四、五人の新しい希望に輝く若人は、争って球の下に集まった。長身白面の氷室武夫が目立ってよく捕球するほか、特にこれというものもなかったが、一人右翼にがんばっている一人の部員がいつまでも疲れない。それに私は引きつけられて、ついにこの一人を外野に残して打ちつづけた。
 打っても打ってもヘコたれない。さてはノッカーの穂洲とその新入部員との根くらべになった。久保田、田中、谷口その他の古参選手も舌をまくほどの強さ。私は二2二つ連続して球を打つ、それをはうようにして拾いにゆく。もう降参するであろうと思うと、手をあげて打ってくれという合図、ついに暗くなって引き分けた。
 それが後年の河合君次であった。私はその後も河合や氷室に練習見物人から非難されるほど猛烈なノックを打ったし、彼らが一流選手になってからでも、酷にすぎるくらいのノックを打ってやった。    
 氷室は蒲柳《ほりゆう》のたちでもあり、河合に比べてからだも柔らかく、すでに捕球もできていたから、多少|斟酌《しんしやく》したけれども、河合は頑強な体格でもあり、器用でなかったから思いきって練習させた。科学的練習というものからすれば、河合に与えた私の練習というものなどはまったく問題にならず、無茶であったに相違ない。コーチの持つ熱を選手にぶっつけて、その選手の熱が、またコーチに反発するくらいでなければ、真の練習効果というものはあげえない。
 ベースボールを楽しむのだ、野球を苦しむためにやるのではないなどと、寝ごとをいう選手に名人じょうずができ上がるはずはない。野球選手は苦しんでこそ、その選手生活に意義を生じ、精神の修養も完成される。シミタレたへたくそな野球なら、やらぬほうがましである。
 河合などを私は決して天才とは思っていない。彼にもし人一倍の忍耐心がなかったなら、満足に飛球をとれる野球選手とはなれなかったであろう。比較的硬い体質の彼が、前後左右の打球を広範囲に守った手腕は、汗によってつくられた以外なにものでもない。後年選手生活を終ったとき、彼は私にこういって述懐した。

最優秀の外野人
「あのときの苦しさったらなかった。ほんとうにあなたのすねにボールをたたきつけてやろうと思って、ボールをホームに返したのですよ。あなたのすねをたたき折ったら、ノックをやめてくれるであろうと思ってネ。今になれば相すまんことですが、まったくでした」
 私はその告白をうれしい気持で聞いた。こうした選手を持つ幸福を感じた。さらにまた彼はこういう
「あの、あなたのすねを狙って投げた球が、私の遠投コントロールをどれだけ助けたでしょう。
私が外野手らしい投球を完成したのは、あなたのすねですよ」
 投法は必ずしも美しくなかったけれども、河合ぐらい遠投のコントロールを会得した外野手は、いまだかつてない。夫馬なども肩のよさなら河合にまさるとも劣らぬであろうが、コントロールに至っては、比較にはならない。
 河合は三塁に走者を概き、右翼飛球で容易に本塁を許さず、また二塁の走老は右翼へのシングルでは生還しえなかった。明治の駿足二出川延明が三塁では釘づけされたり、本塁を突いてみごとに刺殺されたのであるから、その速力と正確さは実に驚嘆すべきものであった。
 大正十五年には攻守ともにいよいよ冴えて、早慶戦やその他のリーグ戦に飛躍した氷室武夫を中堅にすえて、左翼は瀬木嘉一郎が守り、右翼には河合ががんばっていた。真に水ももらさぬ外野陣であった。
 瀬木は横浜商業時代、相当名をあげた左ききの選手で、現に全横浜の総帥としていまだに味をみせているが、氷室とともに打ってよく、守ってよく、走ってよい選手であった。瀬木の野球には才力があった。目先のきく野球であり、人物もしっかりしていた。当時この三人を外野の三羽烏といって技倆優秀を称揚したものである。今は横浜で飲料水の製造に商才を働かしている。竹内、大橋などがパックに安心して、思うさまその手腕をふるいえたのは、これらの優秀なる外野手と内野手がそろっていたからであった。
 有田富士夫のあとを襲うた水原義雄が一塁にあり、二塁に軽捷山崎武彦が円熟し、三塁には井口新次郎と"う大物がいた。遊撃の根本|行都《ゆきさと》と合わせて鉄桶の守備、微動だもしない。
 水原は兄弟して早稲田の選手となり、弟の義明は二度までも、リーグのリーディング.ヒッターとなって、いささか賢弟たるの誉れをほしいままにし、義雄はひたすら練習の功をつんで選手をまっとうしたのであるが、危機における打者としては、義雄のほうがすぐれていたかもしれない。
 山崎と根本の二塁、遊撃の連絡はほとんど理想的のものであったし、両者の呼吸はピッタリ合っていたから、一死一塁、二塁とか、満塁のときなど、併殺はなんの懸念するところなく行なわれた。

強打者、井口新次郎
 井口新次郎は、和歌山中学時代からすでに大選手の風貌を備え、大学投手を苦もなく打ち飛ばしていた。二十二貫(八二・五キロ)の肥大漢でありながら、投手もすれば、遊撃も守り、三塁手として堂に入っていた。むろん守備よりも打撃の選手で、小野、湯浅の両投手も井口には手を焼いた。
 田中を失ったのち、井口が現われたことは、早稲田の打撃に一つの目標を与えた。井口のもっとも偉かったことは、カウントの変化を待って打つ点で、彼は決して特殊の場合のほか初球を打たなかった。その多くのヒットはツウ・ストライク後に出している。左打ちの左足を折り曲げた姿勢は模範的のものではなかったけれども、三百匁(=二五グラム)のバットを肩に投手の投球をジーッと待つ大打者の姿には、いかなる投手もいしゅくさせられた。
 カーブも直球もよく打ったが、特にカープ打ちに妙を得ていた。多くの投手は直球を恐れて曲げたために、かえって長打されている。フリー・ヒッターの典型的のものというべく、左翼に打っても、しばしばその頭上を越すようなものを飛ばしているし、飛球が少なく、直球かゴロの火のようなあたりを出していた。彼にホームランの少なかったことは、いわばあたりが理想的の直球強匍であったからで、日本強打者列伝中の白眉というべきであろう。後年卒業に近く、軽量のバットを使って、その打球の妙味を失ったきらいはあるが、早稲田にあっては田中とともに二大強打者といっていい。
 このころの早稲田の打撃順は井口を中心として、第一打者に山崎があり、第二番には瀬木、第三番には有田、もしくは水原、第五番から河合馬氷室、根本というように並んで、バッテリーの竹内、宮崎が打てなかったけれども、これに大橋、安田が代ればすぼらしい打力であった。湯浅幀夫、小野三千麿などの大投手に拮抗《きつこう》できたのは、これらの強打者を擁していたからにほかならない。
 左打者が多かった関係上、シカゴのガビンスなどには相当苦しめられたが、左投手に向かう場合は、根本を第一打者にして藤本、安田を使った。この二人はまったく左投手泣かせで、ガビンスなどもついに安田、根本、藤本のために落城した。

シカゴに快勝
 大正十四年シカゴとの決勝戦に、竹内が四点をリードされ、藤本が代ってからこれを追いかけて、十対四の快勝を占めたのも、三選手の打棒にょるもので、ほとんど絶望と思われた試合に快勝したのであった。この一戦は穂洲の一生涯を通じて忘れえぬ試合である。
 それは四対零の第五回の裏であった。七番目にすわっていた安田が、第一球を遊側に安打し、竹内に代った藤本は二塁を抜いて安打した。瀬木の一匍、シ軍のカニングハムニ塁に封殺せんとしたが、遊撃手受けそこねて、安田は初めて生還し、走者一、二塁無死、シカゴの内野は、早稲田がてっきりバントするものと思って、三塁封殺法をとり、遊撃手のマコンネルは藤本を二塁に引きつけた。咋今さかんに三塁封殺法が流行しだしているが、大正十四年ごろにおいてこの封殺法をやったのは早稲田ぐらいのものであり、封殺された相手方は、バントが拙劣なために封殺されたものと思っていた時代であった。もしもこのさい、その守法を知らなかったならば、私もまんまとシカゴの術中におちいっていたかもしれなかった。幸いにも、私は大正九年の暮にハーパート.ハンターからこの手法をコーチされていたから、ひと目でシカゴの守備を看破しvボックスにはいろうとした根本を呼び返して、できるだけ近い球を狙って引っかけるように命じた。この回天の危機に左投手打ちの名人ともいうべき根本に打順が回ってきたことも、好運といえばこのくらい好運なことはなく、武運を授かったようなものであった。根本は心得てボックスに立った。遊撃の穴に弱いゴロでもなんでも、飛んでくれればと祈っているうち、根本はガビンスの猛球をはっしと打った。球は遊撃手の定位置と思われる空間を流星のごとく飛び去った。中堅左翼間の金網をかすめ、二塁打となり藤本生還、瀬木、根本は三、二塁へと攻め寄せる。そこへ山崎の右翼直球がつづき、右翼手ワイズ日光にくらんで後逸、三塁打となり、河合遊匍失に進んで山崎は第五点を本塁にしるし、まさに得点は逆転した。
 一方藤本は大わらわの奮闘をつづけて、シカゴに三塁を踏ましめず、ガビンスは第六回安田に四球、山崎に二塁打を奪われてマクリンドに投手を譲り、意気消沈せるにつけ込んで、第七回には井口の二塁打、河合四球後、藤本は中堅越えにホームランを放ち、攻守ともにさん然たる功勲をあげ、第八回には山崎が右翼越えに本塁打を飛ばすというすさまじさで、シ軍の左右二投手を完ぶなきまでに打ちのめしてしまった。
 十六年の天津風、この復讐の機を心に描きつつ、早稲田の世話人として心血をそそいだ穂洲の念願はようやく達せられた。二十年ぶりに復活した早慶試合や、強敵明治の決戦もさることながら、シカゴを雌伏したことは私にとって別種の味があり、涙はとめどなく両頬を伝わった。
 しかし考えてみれば、あぶない試合であった。根本、安田、藤本という左投手打ちの打者が生れていなかったら、おそらくガビンスにぎゅうじられてほとんど方策がなかったであろう。

根本千代吉翁に会見
 安田俊信のことはまえに記した。藤本はその後の早慶戦の主力投手として活躍し、今は東京鉄道局に奉職している。
 根本|行都《ゆきさと》は早稲田卒業後、同志数人とともに北海道に移住し、開墾事業に従事したが志を得ず、野附牛で炭屋を開業して失敗、東京に舞いもどり、現在は中央大学野球部の監督として采配をふるっている。早稲田中学時代のヤンチャ仲間には文士佐藤八郎があり、天才弁士古川緑波というのがある。いずれも一家をなしたものというべく、八郎も中学時代はいっぱしの野球選手であり、父君紅緑氏また野球熱心家で私などと天狗クラブのヨタ試合をしたものである。しかも八郎、緑波、行都などは、早稲田中学の雷幹事、増子さんにはずいぶんやっかいにもなり、とうとう緑波は知らず、八郎も行都も終りをまっとうすることができなかった。
 根本は竜ケ崎中学に引きとられて同部の投手となり、鳴尾の全国大会などにも出場した。中学時代から器用なベースボールで、投手も捕手もやってのけ、ことに遊撃手としては大をなすべき素質を早くから認められた。ただその気ままがともすれば中途半端に終りがちであった。
 先輩池田豊がその将来を惜しみ、早稲田入学を勧誘し、本人もややその気になったけれども、厳父が容易にききいれない。池田からの話で、とうとう私が根本千代吉翁に会見懇請することになった。
 選手の入学について父兄に談じたのは、六年のコーチ生活中これがただ一度であった。根本翁は私の住んでいる弁天町から隣町内の早稲田南町に住んでおられたので、日曜日の朝早く私は同家をたずねた。
 そのころ陸軍士官学校の数学教授で頑固一徹との評判、すこぶるつきの野球反対者というのであるから、この談判無事で納まろうとは思われなかった。玄関口で相対した千代吉翁は、禿頭を光らせ、鼻の先に老眼鏡を置いた。麻生豊氏のノンキなトウサンそっくりであり、一見きわめて親しみやすく、どうやら話になりそうに思える。私は短兵急に来意を述べた。「実はご子息のことであがったのですが、いかがでしょう、早稲田へお入れになって野球をやらせては」
 根本翁はジロリと眼鏡越しに私をにらんだが、秋田弁まるだしに一かつをくらわせた。
「とんでもない、野球のためにあの野郎を始末のつかぬものにしてしまった。この上野球をやらせたらどんなものになるかわからん。野球はかたき、そういう相談ならご無用に願いたい」
 味もそっけもないあいさつ、穂洲とりつくしまもなく一撃されてしまった。こりゃとても手ごわい、問題になりそうでないわいと観念したが、このまま引き下がるのはいかにも業腹だ。

説得に成功
「あなたの野球反対はそれで結構だ。士官学校の教授の一人や二人、野球に反対したところでちっとも迷惑でないが、そこでご子息に野球を禁じて、将来うまくゆきますか」
「おれのせがれに大きなおせわではないか」
「むろん大きなおせわだ。しかし私はあなたよりも多くの野球選手を手がけている。将校の卵の前途は請け合うことができないが、野球選手ならたいていゆく先を占うことができる、と思います」
 こう私がいいきると、根本翁は黙念としていた。私は重ねて、
「どうです、やりたい野球を無理に禁じますと、ご子息はきっとまっすぐな道を歩まんですよ。そのとき後悔しても追いつかんでしょう。好きなものを利用して教育する。そこにもりっぱな道があるんじゃないかと思って、私はあなたにご忠告にきたまでです。あなたのご子息が野球がうまいから、早稲田に入学させ、野球部を強くしようなどというのではない。はばかりながら今の早稲田はくさるほど有望な選手がおるのです。ただ野球道の縁につながる一人として、私はご子息の少年時代から知っているので、おすすめにきただけです。おわかりになりましたか、よくお考えになってみてはいかがです。私はこれで失礼します」
 私が立ちかけたとき、根本翁は、急にちょっと待ってくれと声をかけた。
「君のいうことはよくわかった。そこで、せがれをきっと引き受けてくれるか」
「さあ、今引き受けることはできません。なにしろやってみなければわかりません」
「とてもひとすじなわではいかぬやつだ。君が必ず引き受けてくれるというのなら、早稲田に入れよう」
「やってみなければ」
「いや、ここで断然引き受けてくれるといってくれなければいかん。その代り君にあずけた以上、煮て食うても焼いて食うても故障はいわない。引き受けてくれ」
 私はここで根本翁の意気に感じた。
 敢然として、
「よろしい、引き受けましょう」
 といいきってしまった。
 その後根本翁と私とは別懇の間柄となり、種々示教を仰いだのであるが、情味のある愛敬すべき人格者であった。かつては日清・日露の両役に従軍し、金鵄勲章を拝受した勇士、黒溝台の激戦には、連隊旗のゆくえを敵弾雨飛の間にさがして殊勲をたてた武勇談など、翁得意の一席であった。
 厳父から引き受けられたことを知らぬ根本行都は、私から酷烈なるノック洗礼を受けて、あるときは半死半生になった。連続ノックを三十三分にわたって打たれたときなど、口から泡を吹いてちょっとも動けなくなった。外野の河合と内野の根本とは、私のノックを辛抱した記録保持者ともいうべく、彼が後年早稲田の遊撃手として、かつまたシカゴ戦の殊勲者として、名誉の一打を残したのは、頑固なりし父千代吉翁、蔭の援助によるところ多く、故父の愛に感謝しなければなるまい。

成長の陰に
 根本千代吉翁を思い出すたびに忘れえぬ一人は柳田の母堂である。柳田末男は早稲田実業から来て、投手や捕手としてけんめいに練習をつづけたのであるが、当時の野球部には投手に谷口、竹内、大橋という大ものがおり、捕手には永野、宮崎という一流どころががんばっていたため、後進であった柳田は、容易に抬頭することができなかった。しかし野球選手として家庭的に恵まれていた点からいうならば、・柳田のごときはまれにみる多幸な選手であったように思われる。父も母も兄も姉もまったく心を一にして末男の後援にこれ努めた。ことにその母親の心づくしというものは、なみひととおりのものではなかった。
 柳田の母堂は十余人の子福者であったが、若かりしころからの苦労で後年脳を病んで、かなり難渋され、それの回復のためにはあらゆる療法も求めたし、物見遊山等、手のつくしうるところまでつくされたのであるが、いっこうききめがなかった。
 ところが末男が早実に入り、野球選手になるころから、わが子の上を案じては、グラウンドをのぞく日が多くなると、ふしぎに頭脳のぐあいがよくなり、はっきりしてきた。そしてたびたび試合をみているうちに興味もわき、さては早実の練習を見ることが日課のごとくなった。末男が捕手として試合に出場するころになると、それがまた心配でたまらず、どうかして失策をせぬよう、仲間の選手方に迷惑をかけぬようにと、ひたすら心に祈りつつ見物に余念もない。
 ある日の試合に末男の一失から形勢が一変して早実が敗れると、皆さまに申しわけがないといって、さっそく合宿に出かけてゆき、選手一同にいちいちあいさつして、せがれの未熟から皆さまにご迷惑を相かけすみませぬ、以後必ず注意させますからこのたびのところはひらにごかんべんを願いたいと陳謝した。年若の選手たちはこの言葉にあいさつのしようもなかった。そのころ、選手の両親などが合宿を訪問するなどはまったく見られぬ図であったから、ことの意外に選手たちが驚いたのも無理はなかった。
 末男が早稲田大学の野球部に入部してからは、戸塚グラウンドの三塁側の土手に日参して練習や試合を観賞した。早稲田の試合とあれば、駒沢、中野は申すに及ばず、横浜までも出かけてゆく。試合見物となると、多く柳田の厳父幾太郎氏と同伴されたようであるが、スタンドに陣どった母堂は小さい編笠をかぶられて、つつましやかに見物されている。それもそのころのグラウンドには異風であった。
 最初のころはだれも柳田の母堂であることを知らぬから、ときどき柳田のプレーをやじるものどももあったが、そのつど母堂は例の編笠をとってていねいに会釈し、
「ほんとうに未熟で申しわけもありません、どうぞかんべんしてやってください」
 こうしたあいさつをうけて、やじ馬のいずれもが面くらい、
「あなたはどういうお方ですか? なにもおばさんにかかわる筋合いでは……」
「はい、わたしは柳田末男の母親ですが、せがれがいつまでも上達せぬため、力をお入れくださる皆さまにお気をもませて、なんとも申し上げようもございません」
 赤面したやじ馬、
「どういたしまして、つい景気をつけたのですから、気を悪くしないでください」
 コソコソと逃げ出してしまう。
 柳田の母堂は末男がやじられたときばかり、こうして悪やじにあいさつするのではなく、失策や三振に対して悪声を浴びせるやじ馬が近所から飛び出すや、言葉静かに、
「選手方は、いつも一生けんめいにおやりになっておられるのですから、どなたもがまんして見物なさいまし。この次にはヒットやファイン・プレーが出ますよ」
 かく、やさしくたしなめられれば、さすがに悪やじども一言もない。さては柳田のおばさんの近所では、うっかりやじれないということになり、スタンドの一角を美化したといわれている。

母の愛情
 末男が投手から捕手に変った春のシーズン初め、おそろしく左の掌をはらして帰ってきた。
「末男さんどうしたの?」
 母堂がひとしお、心配そうにたずねると、
「しばらくキャッチングをやらずにいて、急にチョッピーやんの球を受けとったら、コンナにはれちゃった」
「谷口さんの球をとったので、そんなにはれたの?」
「お母さん、練習初めにはだれでもはれるのですから、そんなに心配しなくたってもいいのですよ」
「だってそんなにはれては、明日の練習ができないでしょう。お医者さまにみてもらってはどう」
「お母さん笑わせちゃいけない、ボールで掌をはらしましたといって、医者にかかれるものですか。だれもこうはれるのをがまんしつつかためてしまわなければ、ほんとうの捕球はできないのです。大丈夫、明日は、これでまたキャッチングをやるのですから」
「そう、でもずいぶん痛いでしょうネ、茶わんも持てないじゃないか」
 食事を終った末男はさすがにいつもの元気もなく床についた。翌朝彼は洗面のため二階から降りてきたが、突然大きな声で母親に呼びかけた。
「お母さん、ほれごらん、はれがすっかり引いてしまっているでしょう。だから心配することはないんです」
「ほんにネ、おまえが熱心にやるから、その勢いで、はれも引いたのでしょう」
 彼は、その日も元気よくグラウンドに出ていった。
 十余年後の柳田末男は、今もなおそのときのはれが自然に引いたものと思っているかもしれない。
 末男が二階の寝室に引き取るや、母堂は近所の氷屋へ人を走らせた。そしてせがれの眠りついたところを見はからい、氷のうをさげてその枕頭に進んだ。痛める掌に氷のうをのせて冷やしとおすこと終夜、はれは、その情の氷のうにすいこまれつつ、引いていった。世の親と子、夫と妻の間にはもっと崇高なる愛があるに相違ない。しかしそのころの関心をもたれていなかったベースボールの生活の中には、こうした幸福なる挿話をのこした選手の数はきわめて少なかったであろう。
 柳田はついに巨名をうたわれることなく一不遇の選手として終ったかもしれない。けれどもこうした母を持った誇りは、野球選手としては、なにものにも換えがたかったように思われる。
 それから、もうひとつせがれの野球をべんたつした人に横道一郎の父がある。
 横道は釜山商業を卒え、谷口五郎の後輩として、早稲田に投じ三塁手となったが、大打者井口新次郎とその位置を争ったため、大試合に出場する機会をとらええなかった。朝鮮開城部背屯里の父は、まだ見ぬせがれの野球に思いを送って、つねにこれを激励していた。柳田はいま奉天満蒙デパートに勤務し、横道は、開城部背屯里にあって父業に従事しているが、これらの母と父を胸に描くたび、当時の早稲田野球部がいかに幸福であったかを思うと、その真の後援者に感謝せずにはいられない。


穂洲監督就任のいきさつ
異色の青年記者
 奈良の冬季練習に参加する前までの穂洲は、読売新聞社会部の一記者であった。ここでも私は忘れえない三、四人の友人を語ることができる。私が入社したころの読売新聞はまだ文学新聞としての面影を存しており、本野一郎さんの所有であった。金崎賢氏が主筆で、上司小剣さんもいたし、土岐哀果君もいた。その土岐君の社会部長の下に、われわれの仲間がゴロゴロしていたわけであるが、故大村幹君の世話で私が入社したときには、大沢、丸茂など、当時社会部記者として一流の腕ききもおり、三羽烏というべき立花寛一、青野季吉、市川正]という異色ある青年記者が筆をそろえていた。これらは早稲田の文科や政治科を出ると、大枚十八円という禄をちょうだいして、文学新聞の名にあこがれつつ随身したものであった。
 立花はのちに根本興行部に走り、大いにその偉材を用いられるはずであった。しかもこと志と違ってか、彼が広言した松竹との対抗戦もお流れとなったが、筆をとらせては実にすばらしいものであった。長編の小説を書いて青野季吉が売り込み役になり、中央公論かなんかに交渉して失敗してからヤケを起こし、文筆のごとき男子終生の業にあらずと、惜しまれつつ読売を去って根岸の人になってしまった。その読売の社会面に、連続もののテキヤの裏面を書いたあかぬけした文章のごとき、いつまでも記憶している人もあるであろう。五尺(一・五ニメートル)のわい軈ではあったが、胆力、才気ともにコ轡常ではなかった。穂洲とは古いなじみで、私が早稲田の選手時代から同県人というよしみからつねに激励の文章を送ってくれたものであった。
 青野と市川と立花とは、学力から、年齢から、若さから、同気相求むる三人であり、筆も議論も不平も柑匹敵していた。
 青野季古は、ついに評論家として大成したようである。早く新聞社などから見限られたのが本人発奮の種ともなったろう。酒飲み友だちとしては、きわめて親切気があり、書生の殻を脱しなかった。この三秀才に交わって、四人しては算段して、笹屋の金釜をよく飲んだものであった。
酒は青野がいちばん強く、またその味を解していたが、一度亀屋の若衆がとおりがかりの青野の面上へ、二階から何か落したということから大騒動を巻き起こし、とうとう青野が命より大事な眼鏡を壊してしまい、それをまた補充するのに四人が四苦八苦したことがあった。
 市川正一は、後年人も知るように、共産党に投じ、今は語るにすべもないが、人間の本質からいうなら、彼のような柔和な人思いの男は少なかったと思う。才というよりも熱の人で、器用さよりも努力して大成するほうの質であったろう。だから、容易に転向などはできにくいかもしれない。
 少年時代から日本精神主義というもののほか知らなかった私というものに、交友四十年の間一度も議論をしかけて、からかおうとしなかった彼は、私にとってはただ親切な一友人にすぎなかった。それだけ研究が深刻になり、実際運動にたずさわるようになると、友人の迷惑を思ったのであろう、一度も訪ねてこなかった。
 もっとも大正八年読売新聞社が本野家を離れて、松山忠二郎氏の手に渡ったとき、青野も市川も同社を去り、私は早稲田の世話人となってから相会う機会もだんだんになくなったわけでもある。
忘れえぬ"宮さん"
 この三人は、読売新聞社時代、無能だった私というものを、まったくかぼってくれたのであるが、さらに四人というよりも、ほとんどその当時の同社員に親切の限りをつくしてくれた宮さんと呼ばれる少年のあったことを書きもらすことができない。
 宮さんというのは、今の時事新報の記老宮島武夫君(のちセ・リーグ公式記録員)のことである。宮島はそのころ十七、八歳の苦学生で、読売の編集局になくてはならぬ少年であった。そのころの銀座は、昔の柳がまだ生き生きしていたし、京橋の角にあった読売新聞社の入口にも幾本かの柳が糸を垂れていた。
 松山氏の代変りとなったとき、宮島も一度同社から身を引いたことがあるが、他の社へ勤めていても、この柳の影が恋しさから、宮さんはどうしても別れ去るに忍びなかった。終始社の前をさまようている。それを見るに見かねて、私から当時の社会部長であった千葉亀雄さんに頼んで再び入社することになった。
 千葉さんは、私の頼みを聞かれながら、
「そんなに社に執着を持っておられる人は、それだけで買うべき値打がある。よろしい、引き受けましょう」といって快諾された。それまで私は千葉さんと語ったことはないし、ただ命ぜられた仕事をやっていたにすぎないのだけれど、この一言を聞いたとき、千葉さんという人は偉い人だと思った。
 まったく宮島は、読売新聞社を家として育ったようなものであり、あらゆる社員がいろいろのことで世話になった。どんないやな使いでも、それこそ快く引き受けて、誠意のありったけをつくした。
 昔の新聞社の空気の中にあって、少しもスレない少年、この無垢の気持、これをだれもが宮島の身上といっていた。頭脳もよく熱心さも人一倍であったから、編集局のことはなんでも心得ていた。国技館の相撲に詰めれば、三年とたたないうちにそのもっとも難とされる手さばきを覚えて先輩記者連をあっといわせる。そのころ相撲全盛のとき、相撲記者になるには、よほどの熱心家であっても、手さばきを書くまでにはなかなか三年では仕上がらなかった。国技館の六場所はむろん、花相撲にまで付いていっても、一人前になるのはむずかしかった。だから手さばきを書きうる記者というものは、どうして威張っていたものだった。それを十六、七からやってのけた。私などもやむを得ず三、四場所相撲の評論を書かせられて閉口したものであり、今考えると冷汗を禁じえない。
 当時の大小力士に対しても、なんとも申しわけないしだいであるけれども、師匠の宮島先生の口述をそのまま筆にしたにとどまるので、この点は大方の寛恕を願えると思う。
 野球のスコアは私が手ほどきしたのであるが、これもわずかニシーズンでほとんど完全なものとなっている。試合の少なかったそのころ、ニシーズンで相当にスコアをコナすということは、選手の経歴のあるものでも容易ではなかった。それを野球には無知識であるともいうべき宮島lI宮島にキャッチボールをさせたら、おそらくボールを頭で受けるかもしれないーがやってのけたのであるから、私のごとき無器用なものが舌を巻いたのも当然といってよかろう。

宮島の義侠
 大正八年の暮、いよいよ私が早稲田の専任コーチを引き受けたとき、私は千葉さんの前に出かけて種々事情を述べ了解を得たのであるが、千葉さんはただちに私の後任のことを相談された。私はそくざに宮島を適任者として推薦した。ちょっと首をかしげられた千葉さんは、「年が若すぎる」と思案された。「年は若くとも、与えられた仕事ができれば」と私が主張すると、全部をいいきらないうちに、「もちろんそうです。では宮島君にやってもらいましょう」と簡単に解決して、私はその夜銀座のおでんやで宮島と別杯を傾け、コーチ中の断酒を誓って出発した。
 その後宮島は一人前の記者となっても、いつまでも無邪気に青年記者連の中の愛嬌ものとして存在していた。しかし彼は、ただ赤ん坊のような無気力さから、読売の軒を離れかねたり、忘年会のくずれに引張り込まれた青楼に一夜を端座していたりするのではない。芝に生れた彼にも一片の…峽気は躍動している。
 編集室の夜がふけてきて、思い出される一品洋食屋のランプ、それは京橋を渡った角にあった。宮島とその同僚の若手記者とは定連として迎えられながら、注文したカツレツとライスカレーに舌鼓を打っていた。
 ガチャーンという物の壊れた音に食い気を妨げられた宮島が目を上げて見ると、そこには十二、三の少年が、床に落ちて粉みじんになった洋食皿をながめてベンをかいている。同時に、
「またこわしやがったな、しょうのないガキだ」
'胴間声が響くや、少年は立ちすくんでしまった。と、コックの部屋のドアが開いて現われた男が、いきなり少年にビンタをかける。ワーッと泣き出す寂しい情景である。
「コラッ、なにをするんだ」
 たまりかねた宮島が思わず一かつすると、コックはギョロリ一べつをくれたが、また少年に一拳を浴びせた。間髪を入れずに宮島の手にした皿は、コックの頭上に飛んだ。ボールのコントロールならともかく、・宮島の皿投げはみごとに相手を射た。
「なにをしやがるんだ、手前にだれがなんといったんだい」
「鬼のようなやつに文句は無用だ。相手になるからさあ来い」
 なおも一枚の皿は、コックを目がけて飛んだ。ここで狭い洋食屋の土間はまさに一大乱闘場に化せんとしたが、洋食屋の主人と宮島の同僚とがようやく二人を押ししずめて血を見るまでに至らなかった。
 けれども、社に帰った宮島の胸はしずまらなかった。あんな可憐な少年を、皿一枚で虐待するあのコックを許すわけにはいかない。もう一度出かけて行って、制裁しなければならぬ、といきまくのを、同僚二、三人がかりでようやくなだめて、その夜は帰した。

厚顔の面会人
 あくる日宮島が出社すると、受付から面会人があるという。何げなく応接間へ出てみると、昨夜の洋食屋にただ一人いる女給が、そこの椅子につつましやかに腰をおろしている。
「君か、ぼくに会いたいというのは」
「そうなんです、昨夜はほんとうに失礼いたしました。どうか、かんべんしてください」
「かんべんもクソもあるものか。客の前であんな小さなものを虐待しやがって、あいつは、人間の血の流れていないやつなんだ」
「まったくわたしも同感なんです。お客様には相すみませんから、こうしてお詫びを申し上げますけれど、もうあんな家に一日もいる気にはなれません」
「で、どうするというのだ。君があの家におろうとおるまいと、ぼくの知ったことじゃないじゃないか」
「それはそうなんですけれども、あまりあなたが、たのもしいものですから、実はご相談に上がったわけなんですが」
「いまさらぼくに相談されたって、あの子どもがどうなるわけでなし、そんなことは困るね」
「いいえ、あの子どものことではなく、わたしのことなんですの。わたしは今までにあなたのような男らしい方に会ったことがありません。どうせ一生ひとりで暮せるわけのものでないのですから、そこを失礼ですが、ご相談に上がったようなわけなんです」
「おい、ちょっと待った。君の話はさっぱりぼくにはわからないから、昨夜いっしょに行った友人を連れてくる。談判するがいいや」
「もし、わたしはあなたにご相談があって……」
 という声をあとに残した宮島君、いっさんに編集室に逃げ込んだ。
「たいへんな相談を持ち込まれてしまった。女はぼくには大の苦手だから君に頼む。早く追っ払ってくれ」
「あんな男らしい方と一生の苦楽を共にしたい。まだお若い方なんだから、いまいま養っていただこうなど、そんな虫のいいことはいわない。わたしもせいぜい働いて、その方に苦労はかけないつもりであるから、お力添えを願いたい」
 というのであった。
 同僚は、宮島のために百方陳弁したけれども、いっかな、きかなかった。
 その日追い帰せば、また翌日押売りにくる。数日悩まされてからやっと、面会謝絶を宣告しとおして、頑強なる厚意者を退けたという宮島女難の一席。

野球勢力の拡大
 宮島に別れを告げて、読売社を辞したのは、大正八年十二月二十日であったように記憶している。そして同二十一日夜には奈良の冬季練習に参加すべく出発した。コーチとしての春日野初練習のことは、すでに述べたとおりであるが、世話人を引き受けるまでのいきさつについても、少しく書き残しておきたい。
 早稲田の野球部は、一時河野安通志君が講師たりしころ、同時に野球部の監督をされたことがあるけれども、それまで専任のコーチというものはなかった。暇のつくりうる先輩が、思い思いにグラウンドを訪ねては後輩選手にノックを打ってやるのがせきの山だった。多くはキャプテン独裁の練習であり、ベンチ・コーチなどの必要を感じたときには、特に先輩を頼むこともあったが、それもきわめてまれであった。初めは専任コーチの必要がなかったわけであり、部員が多くなって、そろそろコーチの必要を感じたときには、費用の不足から、これを実現することが困難であった。
 幾度もいうように明治三十八年の第一回渡米遠征の借銭が、大正九年、すなわち私がコーチになったのちまで持ち越されていたほどの窮状で、大正三年の早慶明三大学の片輪リーグが結成され、公然入場料を徴収する規約が作られてからでも、その収入たるや、まことに微々たるもの、一年中の野球部費にあててあますどころか、一年間の部費というものは千円足らず、それでいっさいをまかなうのであるから、その貧困さはいわん方もなく、専任コーチなど思いもよらぬことであった。
 しかるに野球の勢力はいよいよ拡大する。部員の数も漸次増加した大正七、八年ごろになると、キャプテン独裁では、なかなかやりきれなくなり、秩序ある野球部たるには、どうしても専任のコーチをおかねばならぬ時期が到来した。これを最初に痛感したのが、部長安部先生と先輩押川清君であった。
 この両者は野球部創設以来、部の進展には肝胆を砕いていたのであるが、ようやく早稲田も専任コーチを必要とすることを、おりおり語り合うようになった。当時河野君は講師を辞していたので、先輩中、直接に選手のめんどうを見るものなく、押川君や私などときおり練習を助けるくらいの程度であった。
 いよいよ先生と押川君との間に専任コーチ委嘱の議が熟したけれども、ここに両氏がもっとも当惑したのは、適任者の物色難ではなくして、実にその手当捻出の困難にあった。野球部は上述のごとき財政難にある。野球部の費用さえ満足でないおり、コーチの手当など野球部費から支出することなど、とうていできうべくもない。必要にせまられているが、当時の野球部財政ではいかんともなしがたい。安部先生にも押川君にも名案が浮かばず、コーチ問題はまさに立ち消えにならんとした。
 しかし両者ともそれをあきらめるにはかなりの未練があり、おのおの脳漿を絞ったすえ、考え出されたのが、稲門クラブの会費徴収で、稲門クラブさえ奮発するなら、月に五十円くらいの手当ならできよう。むろんこれは野球部費の一部をさし加えての話であるが、とにかくそうしたところに着眼して、手当捻出の計は成った。
 さて、このわずかな手当をもって適任者を物色しうるかどうか、ここには多少の疑問も存した。なぜなら大正七年の米騒動以来、物価の騰貴は恐ろしいほどで、会社勤人の俸給というものは少なくて四、五割は引き上げられたにかかわらず、それでもサラリーマンは生活難の悲鳴をあげている。学生の学費月額が五十円を突破している世柄に、コーチのできうる年配者が五十円の相場で引きとられては、たとえ独身者でもどうかと思う。ここは経済学の教授である先生にはあまりにわかりきっていた。財源にひと安心した先生や押川君も、急に変化した世態に、今度はその選定に困惑した。
 ちょうどその問題で押川君が苦労していたころ、天狗クラブの会合が芝浦の月見亭にあって、私は芝公園の寺内に住んでおられた押川君を誘ってこの会合に出席することになった。芝公園から芝浦まで二人は歩きながら話した。押川君は私にその後の専任コーチのことについていろいろ語られたが、いかに母校野球部愛とはいえ、食わずにはできない相談だから、適任者があっても無理押しはできない。先輩の中に食うに困らぬやつがいると、大いに助かるのだが、注文にはまるような適当なものがないと嘆息される。
 名案だが実行はできない。そこに先生にもぼくにも苦衷があるというような話をききながら、黙々と歩いていた私の胸を強く打ったものは、シカゴ敗戦の責任であった。

報恩と復讐のコーチに
穂洲監督就任のいきさつ
 明治四十三年の秋、シカゴ大学の外襲をうけて、こっぱみじんになった早稲田野球部のみじめな姿、強猛シカゴには、慶応も早稲田も、その他のチームも形なしの全敗ではあったが、これを招へいして大敗を喫した早稲田というものは、まったく攻撃の中心となった。
 まず当時の穂洲はキャプテンとして、小川重吉、松田捨吉、伊勢田剛は古参選手として、いずれも責を負うて選手を辞した。しかも世の野球ファンの酷評というものはほとんどキャプテンたる穂洲に集まった。それは選手気質を尊重して、武士道野球を高唱せる当時としてあまりに当然であり、松田も伊勢田も、小川も穂洲も、なんの未練気もなく、ふり捨てた選手席ではあるが、いかにしても消し去ることのできないのは、母校野球部に与えた敗戦の汚名であらねばならぬ。
 そのときから十年後の今日、なお穂洲は、野球を見るたびにその復讐の日を考えていた。むろんそれは個人に与えられた屈辱に対する憤怒の炎というよりも、育て上げられた母校野球部に相済まぬという気持でいっぱいであった。しかし早稲田選手として穂洲が、よみがえるわけにはいかぬ。報恩と復讐とは別途の方法をとらなければならぬとつね日ごろ考えていた。わが子に遺志を継承させる、ばかばかしい途方もないことではあったが、それを本気に考えなければならぬはめにあった。
 三十歳の男がいかに若返ったとて、安部先生が再度選手にしてくれるはずもなければ、自分一代ではシカゴ復讐の大事はなしとげられない。もはやわが子に頼むほか道もないと観念していた、ときもときであった。押川君の話を聞きつつある間に、自分の胸は妙にわくついた。うかつにもかかる好機のあったことに気がつかなかった。わが子にゆだねるまえに、こうした一手もあったのだ。ひょっとしたら自分の手でシカゴへの復讐ができるかもしれない。そう思うと矢も楯もなく、自分がそれを買って出たいような気がした。
「それをぼくにやらせてくれないだろうか」
 まったく不用意にこういいきった。
 押川君もこの一言には意外であったかもしれない。が、落ちついた押川君は、
「君が引き受けてくれれば先生もよろこばれるだろう。でも、二人の子供をかかえて、わずかな手当でやっていけるかい?」
「やっていけなくてもやっていく。ぼくには一つの念願があるのだから、そんなことは問題ではない」
「君ばかりそういっても、家庭を持ってみれば独身時代と違うからな。細君などの意見も聞いてみなければ」
 押川君はそういって、ともかく先生に君の意志のあるところを告げるから、君もまた十分考えてみたまえ、妻君などの意見をじゅうりんしてはいけないから、十分その点は納得させるようとの注意であった。
 その日から数日過ぎた。女房に話すべき機会はもちろんあったし、自分も話しておいたほうがよいかと思ったけれども、なにしろ相手は野球に対する理解も薄いのだし、亭主がシカゴに対する不倶戴天の心事など、知ろうはずもない。そこへ会社からもらっている月給の三分の二の手当で、生計をたてねばならぬなどと話したら、一竜二もなく不賛成を唱えるにきまっている。


生涯を野球にかけて
女房説得の苦労
 今の月給でさえ月々不足を生じる程度なのに、このうえ減額されたら二人の子供をひぼしにせねばならぬではないかと主張されるに相違ない。すこぶる険呑《けんのん》である。しかず、背水の陣をしくほかはない。押川君の返事があってから談判を開始しよう。私はいっさい口をつぐんでいた。そこへ押川君よりの返事があった。これはたぶん読売新聞社で聞いたように記憶している。先生も賛成されたから、いよいよ君に頼むことにした、どうかひと奮発してうまくやってもらいたい、先生はこのことを決定されるとともに奈良の冬季練習場に出発された、君もさっそく同地に出向いてくれるようにとのことであった。
 実をいうと、自分ではそう早くきまるものとは思っていなかった。もしまた、きまったところで、春のシーズンからであろうとたかをくくっていた。そうすれば、女房をゆっくり説きふせることもできるし、友人などとも別盃を傾ける暇もある。更生の道をたどるに心残りのないようにしておきたいくらいに考えていた。
 ところが押川君の指令では、さっそく出かけねばならない。社にも辞表を出さねばならず、第一、女房の承諾を得なければならぬ。もっともあくまで反対するようであれば、最後の一手、勝手にしろがあるだけだが、できることなら平和のうちに解決したい。これこそ仇敵同士ではないのであるから、円満に賛成を得るほうがいいにきまっている。社のほうをあとまわしにして、帰宅早々談判を開始した。
 相手は野球のことはわからないのだが、無事賛成を得るために、節を屈して早稲田野球部の現状から説き起し、監督の必要なるゆえんに及び、そこで今日押川君から、しかじかの話があった旨を語り、しこうして恩師安部先生、ならびに先輩押川君の申し付けにそむきがたく、これを承諾したから、おれは明日社に辞表を出して、奈良の練習に参加せねばならぬことを一気に述べたてた。女房は膝にした次男忠英の頭をなでながら、だまりこくって聞いていたが、
「まだあなたはべースをやるつもり?」
 という奇問を発した。
「自分でやるんじゃないさ。選手の世話をやくんだ」
「やっぱり同じじゃないの、いい年をしてベースでもないでしょう」
 諸君、大正八年の時世は、まだこういうものであった。今日、野球の監督になるということは、なんにも恥ずかしいことではない。今の世の中では、監督の就任や辞任は二段抜き三段抜きと.いう大きな社会事実として取り扱われる。だから監督先生の鼻息も荒いわけでもあろうが、当時はまことに軽べつされたものであった。女房からいい年をしておよしなさいと諫言された穂洲は、社の友人からも、あるいはその他の親友からも同様の忠告をうけた。君、いまさらペースボールでもあるまい。天職を捨てて野球のコーチになる。そんな有意義なものであろうか、というのが野球関係以外の友人から聞かされる痛い言葉であった。
 しかし、自分がいだいている念願は、いまさらこれらの知人たちに打ち開けたところが、かえって嘲笑を買う以外なんらの価値もない。私はただ苦笑するのみで、これを反ばくする勇気がなかった。
 だが女房だけはいかにしても、説得しなければならない。けれども野球に真の理解のないものを説伏することは、決して容易のわざではない。野球部に対する至情を叫び、安部先生への報恩、先輩の情義を並べても、ベースというものを中にはさんでは、どうしても納得のできない女房であった。幾度か破裂しようとする胸を抑えて、なお熱心に説く穂洲であった。結局、問題は落ちるところへ落ちていった。
「今の収入でも苦しいのに、それが今の三分の二の収入に減って、あなたはやっていけると思う?」
 これに触れることがいちばん閉口ではあったが、さればとて親子四人の生命を托する問題であるのだから、女房からいえば、むしろ先決問題であった。
「やれるとは思わないが、親子四人カユをすすっても、どうかぼくの願いをかなえさせてくれまいか」
 こうなるともはや哀願的である。
「わたしは苦労することは覚悟ですけれども、子供をネ」
 野球選手なりしがために、学生時代、着ずともの汚名をこうむっ允。その反感からの反対ばかりでなく、女房としては、実際問題からも反対を唱えねばならなかった。自分ももっともだとは思っている。それかというて、千載一遇というべきシカゴ復讐への好機を棒にふるわけにはどうしてもいかない。練習は午後であるから、午前中原稿を書いても、補充ができようから、手当は少なくとも現在の収入ぐらいにはどうにかこぎつけうる。必ずしも子供らに不自由はさせないつもりだ。
「ところが、その原稿というのがあてにならないのですからネ」
 まったく原稿内職というものは、あてにならない。それは穂洲自身もよく承知しているから、ピンとこたえるけれども、ここでカブトはぬげぬ。
「学生選手相手であるから、今までのように酒を飲むわけにはいかないし、ほんとうに精進しなければならない。それだけでも助かるじゃないか、酒なんかを飲もうものなら、さっそく安部先生から免職されてしまうからネ」
 これはだいぶ有効であった。押川春浪門下にはせ参じて、血を吐きながら猛練習をした穂洲が、酒盃をほうって野球一途におもむこうとするのをやや理解しそうになった。
「あなたにそれだけの決心があれば……ですが、今夜ひと晩考えさせてください」
 ややめんどうくさくなったが、ここで大声疾呼してしまえば、せっかくの苦心も水泡に帰するおそれもある。そのまま談判を中止して、一夜明けると、女房は、
「それほどあなたが決心なさったのなら、わたしはこのうえなにも申しませぬ」
 賛成はしないが、気ままにするがいいとの返事。穂洲は勇躍して出社し、さっそく千葉部長に了解を求め、社友に別れを告げ、立花、市川、青野を失っためちの唯一の親友宮島武夫に後事を托して、奈良へと出発したのであった。

弁天町御殿
 大正九年の春のシーズンから、私のコーチというものは本式に始まったのであるが、この専任コーチというものはかなり好奇の目をもって迎えられた。「世の中はいろいろに変るものだ、今度はべースの先生というのができたネ」なんて、皮肉な言葉を浴びせるものもあった。こうした言葉は決して快くひびきはしなかった。しかし自分は堅い決意をしていたのであるから、少しも屈しなかった。おれの持つ念願が有象無象にわかるものか、いまに見うとやせ我慢した。
 しかし生活状態は、女房が心配したとおり、極度の窮迫であった。なにしろものすごい物価騰貴は三等米が一円で二升(二・八キロ)とはこない。一升(一.四キロ)六、七十銭というのであるから話にはならぬ。カユをすすってこの困窮に打ち勝つ意気は持っていても、貧乏世帯をきりまわす女房の苦労というものは、なみたいていではない。今でも女房はときどきいや味をいうことがあるが、嫁にきて着物一枚厚意に預かったことがないとこぼす。着物一枚どころか、食うに困る状態では、着るものなどむろんあと回しである。
 六円八十銭の家賃が諸式の暴騰につれてドンドンあがる。そのころ私どもは牛込弁天町の二番地、有名な山鹿素行の墓のある宗参寺前に住んでいた。これを穂洲みずからは弁天町御殿と称していたが、弁天町の貧民窟ともいうべき場所柄で、屋台を引き回す支那そぼや、層拾い、なべやきうどんという豪傑どもが多く住んでおり、一名屋台横町とも呼ばれていた。この横町に父からもらったはなむけの金子三十円を土台に新世帯を持ったのが、武侠世界の記者時代、二児をあげてから読売新聞社に移り、それからコーチ時代を過ぎて、現在の朝日に仕官するまで、実に十九年の久しきにわたった。昭和五年春三月道路改修のことから、住み慣れたこの家にも別れを告げねばならなかったが、私にも女房にも、それから忠広、忠英の二児にも、思い出深い住家であった。
 大正十年の渡米も、この家から門出したのであるし、早慶復活を慶応の桐原真二君と議したのも、ついにシカゴを破ったのも、この家に住んでいたときの出来事であった。
 大正十二年の震災には、倒壊を免れたけれども、半ば傾いて見る影もなかった。愛惜の情、見捨てるに忍びず、そのまま住んでいた。口の悪いのは、穂洲を訪ねたいと思うが、いまにも潰れそうなあの住居には正気で訪問はできないという。まさかそれほど危険ではなかったように思うけれど、貧民窟たるには相違なかった。しかし人間は虚栄さえ捨てれば、どんな住居に、どんな生活でもできるし、容易に餓死しないものである。
 穂洲はこの危険家屋に十九年の歳月を送り、カユをすすってしかも十九貫三百(七ニキロ)の体重を保持し、いつも酒を飲んでいるのではないかと疑われるような血色をして、赤貧の中にも断じて鋭気をくじかれずに、シカゴ復讐の一路に向かって邁進した。
 午前中は原稿を書いて、手薄な手当を補充する約束であったが、コーチになると同時に雑誌「運動界」を創刊し、これが編集にあたったため、有料原稿の依頼に応ずるどころか、月々貧乏雑誌編集につぎ込むことはあっても、余分の金などはいってくることはない。かえって家事の合間に、雑誌の広告料収金人として、女房が使われるという始末だから、いよいよ不平はつのるばかりだ。
「運動界」は大正十年の四月まで私が編集し、渡米遠征にさいして太田四州君に譲り渡したから、その後苦労は太田君に乗りうつり、四州老は、三年まえ勇躍廃刊するまで難戦苦闘した。この譲り渡し後といえども、穂洲の財政には変化なく、全身を傾けつくしての練習に疲れたからだや、技術の研究、野球部の人事外交等、それからそれへとわいてくる雑事の中に、原稿の製作など思いもよらなかった。いうさいの交際を断ち、まったく野球に没入して、余分の出費ははぶかれたけれども、定められた手当をもって、一家をマネージする女房の奮闘こそ、穂洲がグラウンドにおける汗と血以上であったこと、いうまでもない。

新聞飯の元祖
六歳の忠広の手をひき、四歳になったばかりの忠英を背に負うて、寒風の中を朝夕の惣菜を求めに出て行く。御用ききの声をゆうゆう台所に聞き、いながら欲するものを命ずるなどは、中流以上でなければなしがたい芸当である。貧乏人はみずから出動して安いものを買わねばならない。今は公設市場というものが、各方面にできて便利であるが、そのころはまだ常置されていなかった。山吹町の地蔵横町というのがそのころ評判であって、ここには魚屋、八百屋、その他が軒を並べ、普通近所の店屋より、一割も二割も安いものがある。彼女は大きなふろしきを用意して、四、五町もあるその地蔵横町に出動する。忠広が水鼻をすすりながら母親に手をひかれて同行する姿が、今も眼底に残っている。
 内地米ばかりでは高くてやヴきれないから、台湾米や朝鮮米のまじったのを承知で買う。三間しかない借家に㍉電気を三つつけることはぜいたくであったから、二つで間に合わせ、ひもを長くして、必要に応じ、これを引っ張り歩く。ガスで飯をたくのは不経済であるというので、石油カンを買い、それに焚口を造り、木片や新聞紙をもやして一家四人の露命をつなぐ。後年朝日新聞の家庭欄に、新聞紙を燃料とする飯のたき方が出ていたとき、これを読んで苦笑を禁じえなかった。広子はこれを大正九年にみずから発明して新聞飯の尖端を行っていた。
 紙は木を原料として、という科学的の考えからではなく、窮して通じたにすぎないであろうが、この発明(?)は燃やしようによっては一升飯が約二十枚の新聞紙でたき上がる。もっとも新聞紙をペラのまま燃やしてはだめで、一枚を半折し、半折したものをさらに二つ折りになし、それをよくねじり固めて燃やすようにせねばならない。たき上がりはガスの飯などよりはずっと上等で、ちょうどわらだきの飯のような理想的風味がある。この発明飯たきは、「野球生活の思い出」における豆腐哲学とともに、大方の同志に伝授したいものであり、穂洲コーチの余徳といいたい。
 貧乏は自慢にはならぬ。願わくばだれも豪華な暮しをしたいに相違ない。すき好んで貧乏人になりたいものがあるものか。無理のない程度なら、酒池肉林まんざらではなかろう。高価な洋服、カンガルーのくつ、着心地はき心地悪かろうはずがない。女房だって女なら、狐の襟巻きにも目がつこうし、寒菊模様や絵羽織も欲しくないわけはない。しかもこれらの欲望を満たそうとすれば当然無理が生じ、身をつめねばならず、清貧高節を持し天日を楽しめない。
 新世帯からぜいたくな考えにとらわれている今の青年の中には、これから約束しようという花嫁の持参金を目当てにしている虫のいいのがある。嫁入調度はむろんのこと、相手方のふところ工合までも勘定しなければ婚約に応じない。娘を持った親こそいい迷惑といわねばならず、いかに浮世の習わしとはいえ、養育費から教育費を計上したら、莫大な費用をかけているのに、何百何千という調度品から、おまけに持参金まで要求されてはたまったものではない。そのうえ、もらってやるという大きな面をされては泣くにも泣かれまい。女児を持つ親のために、婚姻の費用いっさいならびに教育費ぐらいは花聟たるべきもののほうで支弁せよという新法律を国家が制定してやるといいと思う。こうなると、欲の皮の突っ張っているやつは容易に嫁をもらうことができぬ、という痛快事が現出するであろう。
 大学や専門学校を出たばかりの弱輩が、家庭を持って夢にみていた新家庭の甘さが実現しえられたらお目にかかる。父兄や婚家の援助を断然排除して、真の家庭を営もうとすれば、今私がいうたように新聞飯以上には出ない。
 もっともここに断わっておかねばならぬことは、花嫁ご寮自身も空想の新家庭を描いていては困る。飯は女中がガスや電気でたくものなりという定義以上を心得ず、いわゆる有閑夫人一流の生れそこねであっては、せっかく国家が新法律を制定したところで、今度は嫁を求むる青年のほうであがきがとれなくなってしまう。嫁入りまえの娘というものは、ガス、電気の現代式はもちろん、まき、炭、コークス類から新聞紙応用の飯たきまで心得ていなければならぬ。先方の望みに応じて、いかなる飯たきでも優等の手際でやってのける才能がなければ、まず第一に落第するとい51ことに、これも国家が新法律を制定する必要がある。ただし新聞飯はよろこんで穂洲夫婦がコーチするから、遠近にかかわらず申し込まれたい。免許皆伝の場合といえども、ベースボールと同じくコーチ料等はいっさい申し受けないから。

穂洲野球一家へと……
生涯を野球にかけて
 幸い女房は少女時代、野州の偉人田中正造翁の薫陶感化を受け、後年安部先生の教化に浴した。女房がこの苦境時代堅く奉じていたところのものは、田中翁のあくまで苫難に打ち勝つという強烈なる意志であり、安部先生の家庭経済学現金買いの主旨であった。黙々とグラウンドのことのみを考えている穂洲にひきかえて、女房は貧乏暮しの世帯をくり回し、二児の教育に全力を集中七た。たとえ一升(一.四キロ)買いをするまでも、掛け買いをしない。月末軍用金が乏しくなれば、その乏しくなった範囲内で作戦計画をめぐらした。もちろんこの苦境をきりぬけたのを、一も二もなく女房の功に帰すわけにはいかず、そこにはひとえに田中翁や安部恩師の感化に負うところ多大なこというまでもない。
 大正十年春、第四回の米国遠征の門出にのぼらんとした数日前から、長男忠広はハシカにかかった。私は出発までに全快してくれればと祈ったのであるが、やや軽快にはなったが、なお注意を要する程度にあった。出発の三月二十七日は時はずれの雪さえ降る春寒で、病児のうえを気づかいつつ私は横浜を出帆した。
 ハワイ、ホノルル滞在中、第一信を受けたとき、忠広はすでに全快したであろうと読み下してみると、漸次良好というのみで詳しい病状は記してなかった。しかも私はたかがハシカであるのだからと楽観して、連戦連敗の試合をいかにして好転せんかということのみしか考えていなかった。ハワイの試合を終って米国中西部のシカゴ市に落ちついたとき、第二信を受けた。それには忠広が全快して就学したこと、忠英も感染したが軽微で、一週間足らずで全治したことなどが記してあった。

宿敵シカゴを破る
よき協力者たち
 私は非常に愉快になって、さっそく安部先生に報告すると、先生はそのとき、駒尾夫人からの通信を手にしておられたが、いきなり私の手を固く握りしめながら、
「飛田君、ほんとうによかった。アーちゃんの全快したことは家内からの手紙にもあります。けれどもこの手紙をどんなに待っていたかしれない。実は君には心配をかけてもせんないことと思うて黙っていたのですが、ハワイで受け取った家内からの手紙では、アーちゃんの危険状態を知らせ、おそらく助からぬであろうというのでした。アーちゃんは君、私たちが出発した翌日から肺炎にかかって重態であったのです。それを君にいうことができないので、私はまったくつらかった。今この手紙を見てほッとしたところです」
 先生は喜色を満面にただよわせてこういわれる。アーちゃんとは、次男の忠英が舌のまわらぬ時代、忠広をこう呼んだのが始まりで、一家中も当時の選手も、私の知友も、皆この別名を呼び慣らした。彼は小学校から中学、現在専門学校になっても、それが通り名になっている。
 アーチが肺炎になったことは、私として初耳であったから、ぎょっとしたが、それよりも女房が一人手でいかに焦慮したであろうかを察せずにはいられなかった。
 苦労に苦労を重ねつつある間に、女房もおりおり野球を見る機会があり、ことに軽井沢の夏季練習などには、安部先生の厚意から、一家四人が同行して、家内は夏季合宿の炊事手伝いをもなした。女房が野球に多少でも理解を持つようになったことは、穂洲にとってかなりの強味でもあった。
 彼女は野球の勝ち負けがわかるようになると、その日の勝負や、選手の負傷などがひどく気にかかってたまらず、不動尊の守り札を選手のユニフォームに縫いつけてやったり、榎町のお釈迦様へお百度を踏んだりした。安部先生はそんな迷信はきらわれるからやめたほうがいいと私が忠告すると、すなおにきいていたけれども、いよいよ大戦争となれば、いても立ってもいられぬものとみえ、暗いうちに床を抜け出して、戦勝の祈願をこめた。それをひそかに知る穂洲の練習に対する熱度が、いっそうたかまったことはいうまでもない。
 石の上にも三年、穂洲一家の苦難時代も、野球界の隆盛とともにようやく関を越し、その後先生の厚意で一人前の手当をうけることになり、南京米から解放されるようになったけれども、私の思い出中、この三年間がもっともなつかしい。
 忠広、忠英の二児は成長するにつれて、彼らもまた親切なる穂洲の後援者であった。敵と戦うまえ二児の心づかいはまさに穂洲以上で、なにかと親父に注意する。ことに大正十四年ごろになると、F二児は早稲田小学の選手としてかなり生意気なことをいうようになった。ときには親父の作戦に非を打つようなこともあって、苦笑を禁じえなかったが、試合を気にすることはいじらしいくらい。
「アーちゃんが試合を見にいくといつも負けるからおよしよ」
「ウム、ぼくがいくと三田稲門のときなんかきっと負けっちまう」
「ぼくがベンチへ行って負けたことがない」
「どうしてだろう」
「ぼくは強いんだい」
 こう忠英は、いばりながら、バット・ボ;イに乗り出してくる。忠広はそれをうらやましく思うけれども、もし自分が試合場に出かけて早稲田が負けたらという懸念から、じっと我慢して試合場に来ない。それをしばらく辛抱していた。

辛苦のはてに……
 ところが大正十四年十一月九日、シカゴとの決勝戦、この日は穂洲が実に命を賭して試合場に臨んだのであるが、年少の忠広にも、親父の決死的出場が感知されたのであろう。彼は相変わらず弟に譲ハ、て試合場に来なかったけれども、試合が気にかかってたまらなくなったらしい。
 彼はとうとう弁天町のわが家を抜け出して、思案しつつ、戸塚のほうへとぼとぼと歩いていた。大学の構内を抜けると、グラウンドへ吸いつけられるように歩んでいった。場内は存外ひっそりとしていた。彼は負けているなと直感したに相違ない。入場口をたたくにも気がひけて、そろそろと場外にある高台にのぼっていった。そこから試合の状況は見えないけれども、高くそびえたスコア・ボールドが見える。それを遠見しようとした。その高台に集まった人々は、皆一様に嘆声をもらしている。アーチはボールドを一目見て驚いた。シカゴは一回と三回に各一点を収め、さらに彼が見ているひとみの中に、2の数字が掲げられたのである。彼は泣かんばかりになって目をそらした。やっぱりぼくが来なければよかった。彼は後悔しながら帰ろうとしたとき、早稲田の第五回攻撃が開始された。四対○ではガビンスの猛球を前にどうしようもない、と彼は小さな胸を痛めていた。そこへ安田が安打の先鋒をきり、藤本が二側安打につづき、瀬木は一匍の二塁悪投に生き、安田の生還となり、根本の二塁打、山崎の三塁打と早稲田得意の安打集中で、五点を回復した。忠広がこおどりしたろうさまが目に見えるようだ。
「忠ちゃん、今日の試合はぼくがいったから勝ったんだよ」
「そうかい。アーちゃん来たんか」
「ぼくが行ったら四対○がたちまち五点さ」
「アーちゃんが来ても勝つことがあるんだネ」
「そうさ」
 忠広はいつになく大得意であった。この試合は穂洲にとって一世一代であったばかりでなく、二児にとっても忘れがたいものであろう。こうして一家中野球に入りびたりの六年というものが過ぎていった。ちょうど野球の家といった形で。

穂洲の待球主義
 私が満六年の間、まずは大過なく世話役を勤めえたことは、一に恩師安部先生の庇護にほかならないのであるが、もう一つは私を世話役として集まった多くの選手がいずれもよく私の練習法を理解してくれたにある。そして私はまったくお世辞でなく、当時の選手の優秀な人格に心から敬意を表したい。彼らは真に明朗たる気持をもって野球を楽しみ、練習を励んだ。そこに早稲田の黄金時代は生れ、日本一の強ティームともなり、私の唯一の望みであったところの宿敵シカゴへの復讐も成就したのであった。
 私は野球に限らず何事でも、地力主義でなければならぬと考えている。まず地力を握う。むろんかけ引きということも等閑に付すべきではないが、頭脳だけで勝とうとすれば、そこに無理が生ずる。実際の戦争になれば不意討ちもあろうし、夜討ちの奇襲などもあって、実力に劣るものが、あるいは奇計によって勝つ場合もあろう。しかしそれは野球戦の場合には通じない。もっとも野球試合にあっても、ときに実力の劣ったティームが、強ティームに勝利を得ることもある。'現に私は早稲田の世話人時代、後進の立教ティームにしばしば敗北した。立教は竹中、太田時代よく早稲田から金星を奪った。これには多少の因縁関係があって立教ティームが池袋に呱々の声をあげたとき、私は懇望されて同ティームをコーチし、その後立教が整頓してからでも、つねに相談に預かり、立教がリーグに加盟する場合に尽力するなど、私と立教ティームとはかなり古い関係があった。もちろん、こうした私的関係を試合上に働かせるようなことはありようはずはないが、そこは人間のあさましさで、立教に対すると平生の戦闘意識は、どこか欠けるところがあったのであろう。勝ちうべき試合をときどきさらわれた。しかし三回勝負を、二回まで失うというようなことはなかった。負けそうになってもはね返した。そこに実力の相違があったことを争うことができまい。
 地力を養わねばならぬ。それが私のコーチの根本である。頭脳よりわき出るかけ引き、作戦、それは地力をつくり上げてからで遅くはない。奇手を用いるまえに、堂々と四つ相撲をとって勝ちたい、うけて立つ大相撲をとってみたいというのが念願であった。
 相撲のうけて立つのとは違うけれども、多少こうした気持から、私は先攻より後攻を欲した。後年の早稲田はいやに先攻を好むようになったけれども、規則どおりにいく場合は、やむを得なかったが、先方の許す限り私は後攻法をとった。ヒッティングよりも待球主義を愛用した。私がヒッティング・システムを用いたリーグ戦は、明治の大投手湯浅君が円熟した、大正十三、四年ごろの二、三試合にすぎなかった。この待球主義は私の常套手段であったから、相手方はどのティームも明白に承知していたに相違ない。けれどもそれがため、私は非常な困難に陥ったことを記憶していない。待球法に逆手を用いようと相手投手が作戦投球するとみれば、ただちにヒッティングに変化して攻めるだけの用意をしておきさえすれば、少しも不便はない。しかし選手中には、この攻法をもどかしがって、最初からはなばなしく打ちまくってみたいものもあったろう。
 私がコーチとなって二年目、そのころ先輩になっていた中島駒次郎が上京して、私と合宿に落ち合い、松本終吉と連れだって穴八幡あたりを散歩したとき、終吉が突然、駒次郎に、
「駒やん、ウェイティングの場合、打ってしまったらどんなもんや」
「いかんやろう」
「いかんかな、好きな球でホームランを打ってもいかんか」
「そりゃいかんやろう。ウェイティングになりゃへんが」
「ホームランを打ってもコーチにしかられるか」
「しかられるがな。作戦をぶちこわしてしまうものは異端者や」
「さようかな」
 二人は同じ市岡中学の出身、仲よく大阪弁で応酬している。はたから私はこの問答を聞いていたが、終吉が元気なくしおれているのを気の毒に思って、
「終吉はウェイティング反対論者か?」
「いいえ、そういうわけでもありません」
 すると中島駒次郎が、新高山で義太夫をうなり、安部先生を仰天させたという}流の大声をあげてカラカラと笑いながら、
「終吉はあんないい腕を持っていながら、球を待ったら、ねっからあきまへん。だによってこんなあほうをいいまんのやろ」
 野球の研究にかけてねばりのあった終吉の腑に落ちない愚問、駒次郎はいとも明快に解決した。穂洲も終吉のなぞを存外器用に解いて、その後終吉にだけは、第一球から打つことを許した。これは待球作戦の場合、違法であるには相違ないが、九人の中にこうしたものが一人混っていることは、一面待球作戦を助長することにもなり、大して故障を起さぬと思ったからであった。
 私の待球主義は、谷口や竹内、大橋のような大投手が生れるに及んで、いよいよ確固たるものとなった。しかしてこの待球主義を実行するには、あくまで地力を養わねばならぬと考えた。地力をつくる資本は、練習より他に求むるなにものもない。一にも練習、二にも練習、三にも練習、米国大選手の教えを待つまでもなく、永久不滅たるべきこの金言は、すでにわが旧一高の選手によって如実に示されている。=尚の野球精神というものは、これによってつくられ、一高から一高式の練習をとり去ったら尊敬に価するものはない。
「戦術技術は新しく」「精神は古く」それが私のモットーであった。練習を生命と心得、すべてを練習中につくりあげ、試合場に立つまでには相手に勝っている。バントをしくじり、安打を飛ばしえない選手を擁して、いかに明智の作戦をしたからとて、そこに勝利があるはずのものではない。そう正直に考えて、できることならベンチで居眠りをしていても試合に勝ちうるまで地力をつくりたいと思った。
 選手こそ災難であり、虐待にひとしい練習を強要された。しかしこれらの練習は決して選手のみに汗をしぼらせ血を流させたのではない。穂洲もまた相当に精進した。弁天町二番地から戸塚球場までは十二分を要したのであるが、私は十二時半にはグラウンドへ向かって出かけた。そしてけいこ着に着替えてグラウンドに立つときがいつも一時であった。むろん一時に全部の選手は集まることができない。休暇中以外は課業の済んだものから順次に集まってくる。それらに適当な練習をさせているうちに、本選手の顔がそろうのは、二時半から三時ごろであったろう。春の日ながから夏にかけての練習はいつも七時から七時半ごろ、熱心の権化のような永野重次郎などに、特別にファウル・フライを打たされた場合のごとき、家へ帰るのは八時過ぎになっていた。

練習は生命である
 大正十三、四年には野球部も大世帯になって四、五十人の部員がいたから、二組にも三組にもノックを打たねばならぬ。せいぜい十五人か二十人ぐらいの人数なら、そんなに長時間を要しないのであるが、四、五十人の部員に、できるだけ有効な練習をさせようとするには、いきおい練習時間が長引かねばならない。私は決して無謀に長時間練習を提唱するものではなく、練習は試合以上に頭脳的で、できるだけ長時間であれと主張するものだが、早稲田のコーチ時代における私は、多くの部員に練習をさせたため、ノックを一時間半以上も打ったであろう。相手変れど主かわらず、入れ替わり立ち替わる選手に打ち込むノックは、決して楽なものではない。午後一時から七時までの六時間は、ぼんやり立っていてもかなり疲れるであろう。穂洲は他から非難されるほど練習をしたけれども、それは決して選手ばかりに難行苦行させたのではない。穂洲も分に応じて、辛酸をなめたのである。
 家内が大病して二日ほど休んだほか、戸塚球場に皆勤した。猛雨でない限りは戸塚グラウンドに出かけて、汚ない更衣所の中にあって、雨のやむのを待った。選手が出渋っていれば、グラウンド・キーパーの田中伊之介を迎えにやる。それほど練習第一主義をとった。今は奉天の電燈会社の庶務次席になっているが、小倉中学出身の井上正夫を鍛えたときなど、今でも気の毒であったと思う。井上は五尺二寸(一五八センチ)十一貫(四一・五キロ)という小兵であり、蚊の脛のような脚をしていた。久保田碵の卒業を控えて、その後継遊撃手に仕立てねばならなかったので、彼はずいぶんみじめな練習をさせられた。連続的にノックを打たれてヘタぼっても、容易にやめなかった私を、スタンドからはいかにも残酷に見られたろう。ある日井上に例のごとくノックを打っていると、ヘトヘトになった彼がファンブルした球を、その後方にあって拾ってやる篤志家が現われた。二、三度それをくり返した。ときに一かつされて、かの篤志家は外野に後退したが、それは同じ小倉中学を有田富士夫や井上などとともに卒業して、早稲田野球部に投じた、長尾正信という選手であった。長尾は俳句などをよくした文学青年で、後年選手となり、外野などを守ったが、当時人材が多かったため大名をなすことができなかったひとりである。彼は井上の疲労を見るに見かねて応援に出かけてきたのを、私に一かつされたのであった。井上の練習が終ってから、私は長尾を呼んで、
「君はだれにたのまれて遊撃の後方まで出かけてきたのだ?」
 と私がきくと、
「だれにも頼まれませんでしたが、あんまり井上がかわいそうになったものですから、少し手伝ってやろうと思いまして」
 私はこの言葉を聞いてホロリとしたが、ここでコーチがそうかといって、この手伝い人を肯定してはいけない。穂洲邪けんに、
「よけいなことをするんじゃない。そんなに球が拾いたければ、君にも打ってやるからライトへ行け」
 長尾はハッと答えて威勢よく右翼へ走って行った。そこへ私の連続ノックがそそがれる。長尾は河合のように頑丈ではなかったから、十分とたたないうちに、一歩も出なくなった。それを見ぬふりして打つノック。練習見物人からすれば残忍性を帯びているように見えるだろうけれど、打つ当人になれば涙をのんでのノックであり、その二人のぶっつかり合う熱が合して、じょうずになり強くなるのである。そこが私のコーチのコツというべきものであろう。
 地力養成から必然的に.、練習を生命と心得た穂洲は、練習が計画したとおりにいったときぐらい、愉快なことはなかった。毎日それぞれのプランをたてて行なうのであるが、なかなかつこうよくはいかぬ。それが三日に一度、五日に一度、思うように運び、選手の気合いも、形式技術も、頭脳も、というように、ほとんど間然するところなく行なわれたときは、大試合に勝った場合以上の愉快さである。試合に負けて帰ったときは、努めて平気を装うことができても、練習が思うようにいかなかったときだけは、不きげんさをかくしえなかった。女房は、
「そう毎日毎日うまくいくものなら、毎日練習しなくてもいいわけですわね」
 といや味をいったりしたが、あるときはどういうぐあいか、一同がダラダラして少しも気合いが乗らない。とうとうかんしゃくを起こして、「おまえたちでかってに練習してみろ」と吐き出すようにいって、日の高いのに更衣所に引き揚げてきた。あとから宮崎が追いかけてきて「そう怒らずにやってください」というのを耳にもかけず、更衣所にはいってしまうと、そこヘグラブをさげて大橋松雄がはいってきた。
「君はどうしたのだ。練習をしないのか」
「あなたがやめて帰るのなら、ぼくもやめて帰ります」
「みんなはどうした?」
「みんなやっていますよ」
「みんながやっているのに、君だけやめるという法があるか」
「そんなら、あなたも怒らずにやりましょう」
 頭のいい大橋に一本やられたこともあった。

宿望を達して
 こうして大正十四年の秋が来た。これが世話人たりし穂洲、最後のシーズンであった。その春ごろから穂洲の気持には、かなりの異状を呈してきた。それまでグラウンドへ行くことがもどかしいほど、時間がくるといそいそと出かけて、練習を真に楽しむ心があった穂洲は、どういうものか、練習場に行くのをおっくうに思うようになった。弁天町から北の方、戸塚球場に向かって歩く自分の足は、なんとなく重かった。
 時、たまたま早慶試合は復活する。不倶戴天のシカゴは来朝する。いわば千載一遇の秋である。早慶試合はともかく、シカゴは十六年の間、夢寐《むび》にも忘れることのできなかった宿敵、この機会を逸して、またいつの日かと思うと、自分の熱度が日に日に衰えつつあるのが恨めしかった。幸いシカゴをシカゴをと思う一念が、からくも涸れんとする穂洲の熱気をくいとめてくれた。
 夏の軽井沢練習のころから、早慶戦のうわさはひとしおたかまるし、シカゴの来征も評判となり、野球界の人気は沸騰した。この秋は早慶戦やシカゴ戦ばかりでなく、湯浅、竹内という二大投手が、最後のシーズンとして、血戦を行なうべき早明戦も呼びものとなっていた。早慶戦やシカゴ戦のほかは、いささか閑却されてはいたが、実質からいえばこの早明戦が随一であったろう。しかし私からするならば、早慶戦や早明戦ではない。敵は実に本能寺のシカゴにある。シカゴがいかに精鋭を尽して来たにもせよ、今度こそ逃すものかと決死の覚悟であった。しかるにこの秋は、最初ティーム全体の力が出ず、シカゴの第一戦を敗れ、関西では大毎にしてやられる有様。引分け戦をくり返したのち、やっとシカゴと一勝一敗になって、この試合を中断し、ただちに早慶試合を迎えた。
 早明戦を一勝一敗にして、第三回戦を四対○に快勝すると間もなく、朝鮮遠征にいやが上にも自信をつけたシカゴが帰京して、いよいよ最後の決戦を行なうこととなった。
 大正十四年十一月九日、その日をつかむべく精根を尽し、一生を棒に振ってもと狂気した穂洲にとって、生涯を通じての吉日というていい。試合の経過はすでに述べているが、竹内の投球があまりに振わず、ガビンスの快球に健棒を封ぜられ、四対○とリードされて絶望を思われたとき、私はベンチに腕を組んで長大息した。六年の苦心報いられず、この好機を逸すれば、シカゴにまみえるはさらに五年後であらねばならない。落日の熱にある穂洲が、なお五年の辛抱はとうていできうべしとも思われぬ。悲痛なベンチにグラウンドを凝視していると、安田俊信が開運の安打を飛ばして、形勢が一変した。真に天祐というのは、こんなことであろう。
 選手たちからすれば、早慶戦や早明戦に勝ったほどの感激はなく、ファンもまたそれほどにはよろこぶふうもなかった。ただ四対○の不利から、みごとにはね返した痛快さを味わう程度にすぎなかったであろう。
 しかし、穂洲は夢心地でわが家に帰った。抱きついてくる忠広、忠英の二児を抱いて、ホロホロと涙が落ちた。
 その夜、心ひそかに引退を決した。もう自分のなすべき仕事は終った。不満足ではあるが、高恩の早稲田野球部や、恩師安部先生にもいささか報ゆるところがあったと思われる。翌日穂洲は、家内にも意中を告げずにグラウンドへ出かけた。晴れ晴れと、足も軽やかであった。そこへ安部先生もおいでになったから、口頭で辞任を申し出た。先生はしばし私の顔をみつめておられたが、「いずれ先輩とも相談して」ということであった。しかし私の決心はいかなる事情があるにせよ、ひるがえすことができない。私はそこで、選手一同に、一塁側のベンチに集まってもらって、袂別の辞を述べた。感謝の念がいっぱいで、一々握手した選手の手に、熱い涙がハラハラと落ちる。一同首を垂れていた中に、ただ一人竹内愛一が、
「まだいいではありませんか、もちっとやんなはれ」
 京都言葉丸出しのとんきょうな声で、私に命令でもするように聞こえたおかしさに、一同われに返ってふき出した。
 気も軽々と家路を急いだ穂洲は、敷居をまたぐと同時に、
「おい、今日、コーチをやめてきたよ」
 と声をかけると、さすがに女房は、ちょっと意外な面持ちであったが、忠広と忠英はいきなり「万歳」と叫んだ。それがどういう意味の万歳であったか、いまだに解せない。
 その後の穂洲は、再び新聞記者のかえり新参となって東京朝日に飼われている。二児も成長して、人なみの文句をいうようになったが、穂洲の野球見物にはかわりがない。ただ学生野球が堕落して見るに堪えぬようになったら、いつでも愛犬マロを連れて、故郷の水府城南なる涸沼湖畔に帰る。そこで磯節をうなりながら鰌《どじよう》すくいの天日を送ろう。
 ここで長らくの間、ひとりよがりの思い出ばなしをきいてくだされた、大方の諸賢に拝謝し、棚おろしをした親愛なる私の球友たちに陳謝したい。
(終)

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