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邦枝完二「女間者」


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       一

「若菜《わかな》、予《よ》は久し振りに屋敷に落着いて、のびのびといたしたぞ。良い心持じゃ」
 師走を前触れする町の慌しさも知らぬもののように、ここ本所松坂町の吉良左兵衛《きらさひょうえ》の屋敷では、今しも寒さに意気地のない隠居の上野介《こうずけのすけ》が、愛妾の若菜を傍に侍らせたまま、まだ頭上に日が高い真ツ昼間から酒盃《さかずき》を傾けていた。
 丁度一年余りというもの、上杉家の上《かみ》、中《なか》、下《しも》の三屋敷と、わが屋敷との間を絶えず往復し続けて、腰の温まる暇もなかった上野介に取っては、この感慨めいた言葉も無理からぬことだった。
「矢張りわが屋敷に超《こ》したことはないの」
「大殿様には、何ゆえお屋敷にお落着遊ばして、お寛《くつろ》ぎなさらないのでございます」
 今年《ことし》十九歳のあでやかな姿を擦り寄せた若菜は、銚子を傾けて満々《なみなみ》と酌をしながらこう訊《たず》ねた。
「そちゃ、予が居らぬと寂しいかの」
 脂粉の香に鼻を擽《くすぐ》られた上野介は、俄《にわか》に相好《そうごう》を崩して若菜の方へ頸を捻《ね》じ向けた。
「はい。――大殿様の御不在の間は、御家老の小林様や、若殿付の山吉様のお眼が、何んとのうわたくしに、辛うお当りなさるように思われてなりませぬ」
「はツはツは。平八郎や新八郎がなぜ恐い。二人共予の家臣じゃ。そちが恐れることはないではないか」
「でも、小林様は奥様付、山吉様は若殿様付と、どちらも上杉家からのお付人。――上杉家からお越しの方々は、大殿様の御寵愛を頂きまするこの若菜を、きっとお憎しみでござりましょう」
「それはそちの気のせいじゃ。両人に限って、そのようなことのあろう道理はない」
「でもわたくしは、何んとのう遠慮にございます。――それと申しますのも、大殿様が御不在がちゆえ。なろうことならこの後は、上杉家へお出で遊ばすのはお止《や》め下さいまして、こうしてお傍に居させて頂きとう存じまする」
「予も出歩きとうはない。しかし兵部《ひようぶ》が承知いたさぬのじゃ。予が常時屋敷に居ることが知れて、もしもの事があっては、取返しがつかぬと申し居っての」
「もしものことと仰せられまするは――」
「それ、例の浅野の浪人共のことじゃ」
 上野介は憂鬱そうに顔を顰《しか》めた。
「まア大殿としたことが。――浅野様の御浪人が何んとやらと、噂のありましたのは、この若菜が御奉公に上りました時分。もはや二年近くも前のことではございませぬか」
「それがなかなかしつこく、近頃は多勢《おおぜい》江戸へ入込んで、折を窺い居ると申すのじゃ」
「何んぞ証拠があってのことにございまするか」
「別段証拠とてもないが、左様兵部が申すのじゃ」
 すると若菜は、突然声を上げて笑った。
「ほほほほ」
「これ若菜。何がおかしい」
「でも千坂様ともあろうお方が、ちと御要心《ごようじん》が過ぎて、臆病風に吹かれて、おいでなさるのではございませぬか。浅野様の御家来に限らず、武士が浪人すれば、追々に江戸へまいりますのは当り前のこと、仕官の道を求めるのは、江戸より外にございませぬ。それを何か履き違えて怖がり遊ばすとは、千坂様にも似合いませぬこと。それもただお恐れなさるだけならまだしも、お屋敷にも落着いてお在《い》で遊ばせぬ程、大殿様に御苦労をお掛けなさるとは、念が入り過ぎて、ちと、御不念《こぶねん》かと存じまする」
「うむ、予もそのように思わぬではない」
 眼に入れても痛くない若菜の口から、もともと煙たい兵部が、理詰に非難されているのを聞いていると、上野介は何んとなく愉快にならずにはいられなかった。
 しかも若菜は艶《えん》を含んだ眼で、絡《から》みつくように媚《こ》びを見せた。
「もしもそれが為めと仰しゃいますなら、若菜はこの後大殿を、お独りで上杉家へお放し申しはいたしませぬ」
 躍起になってこういう若菜を、上野介は如何にも愛らしさに耐えぬもののように、さも満足気に見遣《みや》った。
「ただのう、兵部が綱憲《つなのり》殿に申上げて、綱憲殿から迎えを寄越させる。親の予の身を気遣われる綱憲殿の孝心を思えば、予も無下《むげ》に拒むわけにはまいらぬのじゃ」
「では大殿は、浅野様の御浪人の兎角《とかく》の噂に、何んぞ後ろめたいお思召しがおあり遊ばして、上杉のお殿様のお心遣いに、お従い遊ばすのでございますか」
「ええ滅相な。予には一向、浪人共から怨《うら》まれる節はないのじゃ。殿中で不意に浅野内匠が、予に斬りつけたのも、何んの宿意あってのことか、予には一向に解せぬ。当時予はお勅使饗応役の浅野を、何かと指南いたして遣わしたが、あの何事も弁えぬ田舎大名は、手違いばかりいたし居って、おのれの不覚を棚に上げ、予の指図のせいだと逆怨《さかうら》みをいたしたのじゃ。それが証拠に、公儀におかせられては、あの通りの公明な御裁断を下された。それにも拘らず、浪人共が兎や角申して、予を怨むなどとは以ての外じゃ」
「御尤もにございます。浅野様の御浪人とて、物の道理を弁えて居りましょうゆえ、必ずその辺の事は存じて居りますに相違ございませぬ。殊に江戸は畏れ多くも上様のお膝元、そのお膝元で事を構えては、どのようなお咎めがあろうも知れませぬ。その上御当家は、紀州家と御因縁《おんちなみ》がございますれば、恐れながら上様とも御縁続きの御間柄、如何程浪人衆がお上の御威光を忘れましても、御当家へ手出しが成るか成らぬかは、判り過ぎる程明らかなことでございます。それをただ噂だけを耳にして、大殿のお身に御苦労をお掛けなさるは、勿体のう存じます」
 うむ、うむと頷きながら聞いていた上野介は、愈々満悦の態であった。
「そちゃそれ程に予の身を思いくれるか」
「はい、いつぞや不意に千坂様がお見え遊ばしました折、わたくしはきついお叱りを受けましたが、今度お出で遊ばしましたら、ちと嗜《たしな》めてお上げ申しまする」
「はツはツは。これはえらい権幕じゃ」
「千坂様のなされ方は、大殿様の方に何か引け目がおあり遊ばして、身を避けられるように見えまする。このようなことが続きましては、御当家の御威信にも拘りましょう。また大殿様を悪者にするような致し方は、世間態も悪うございます。それよりお屋敷にお落着き遊ばして、大殿様にお引け目のない御態度を、堂々とお示しなされますことが肝要かと心得まする」
「うむ、そちの申すことは一理ある」
 若菜の言葉を聞いているうちに、まったくこの一年来、兵部の意見に引摺られて、無意味に逃廻っていたおのれの姿が、みじめにさえ思えたのであろう。上野介は真顔になって、こう深く頷いた。
「然らば若菜、かようにいたそう。裏面はともかく、表向は綱憲殿からの招きであってみれば、無下には断われぬ。それゆえ、近く歳暮納《せいぼおさ》めの茶会を催すのを云い立てに、その準備のため当分は屋敷を出られぬと云うてやるのじゃ。それが済めば済んだで、歳末《さいまつ》のこと。また何とか口実が見つかろう。そうこういたすうちに年が明ければ、何とはなしに屋敷に落着けると申すものじゃ。のう、それがよいではないか。予も出歩くのはもはや大儀じゃ」
「はい、そうして頂ければ、わたくしもどのように嬉しゅうございましょう。それでは納めのお茶会は、何日にお定《き》め遊ばしまする」
「そうじゃな。来月十日頃にでもいたそうか」
「大殿様、わたくしが津軽家の御用人様のお口添えで、お屋敷へ御奉公に上りましたのは、五月の六日でございました。今の仕合せな身の上を思いますると、六日という日が忘れられませず、毎月心祝いをいたしておりまする」
「うむ、左様か。然らばそちの心祝いの日に定めて取らそうかな。日取り決定の上は、誰よりも先ず四方庵と大友近江守へ通知いたさねばならぬの」
「お嬉しゅう存じまする。では早速|春斎《しゆんさい》に申付けまして……」
 上野介の気の変るのを惧《おそ》れでもするように、若菜は急いで傍《かたわら》の振鈴を取り上げると、二つ続けて軽く鳴らした。
 すると恰も呼ばれるのを待構えてでもいたように、茶坊主の春斎が右手の襖から現われた。
 初冬には珍らしい暖かい陽《ひ》が障子を射て、縁には鶯の囀りが高かった。

       二

「お鶴様。浅野様の御浪人が、御当家の大殿様を付け狙っているというのは、まことでござりまするか」
 いきなり、十五歳になる愛嬌者《あいきょうもの》の茶坊主春斎からこう問いかけられた若菜付の侍女鶴は、ぎょツとしてその美しい顔を振り向けた。
「春斎殿は、なぜそのようなこと訊《き》きやるのじゃ」
「でも今し方、大殿様とお部屋様のお話を、立聞いたのでございます。大殿様はちっともお悪くないのに、浅野様の御浪人は、大殿様を逆怨みしているのだそうでございますねえ」
「まア。……」
「お部屋様もそのように申されておいでになりました。それで大殿様は、御自分が悪くないのをお示しなさるために、この後はお屋敷をお出ましなさらないそうでございます」
「そんなにまで、浅野様の御家来が、狙っていると仰しゃっておいででしたかえ」
「はい。上杉様の千坂様が、大層御心配とのことにございました。浅野様の御浪人は、悪い人達でございますねえ。お鶴様は何んとお思いなさいます」
「まったくわたしも、悪い人達だと思いますよ」
「もしも御浪人が、御当家へ乗込んで来たら、お鶴様は何んとなされますね」
「乗込んで来たとて、お屋敷には沢山警護のお方がお出で遊ばすゆえ、心配はいりますまい」
「わたくしは、浪人共が、奥の方へ這入って来ましたら、きっと大殿様をお護り申して、戦って見せる覚悟でございまする」
「まア春斎殿は、お武家様でもないくせに。……」
「たとえお坊主でも、殿様にお仕え申せば、お侍と同じこと。春斎とても忠義の道は心得ておりまする。――おおそれよりもお鶴様、来月六日には、納めのお茶会をお催しなされることになりました。おかげで、大殿がお屋敷にお在で遊ぼすと、また忙しいことでございます」
 いたずらそうな眼をくるりと動かして、笑いながら春斎は走り去って行ったが、鶴は憂鬱にならずにはいられなかった。
 それもその筈であろう。鶴は隠密としてここの屋敷へ入込んでいる、赤穂の浪士岡島八十右衛門の妹だった。亡君泉下の妄執を晴らさんとして、臥薪嘗胆《がしんしょうたん》二ヶ年の苦を忍びながら、機《おり》を窺っている尽忠《じんちゅう》の人々を悪人と云われても、弁解が出来ないばかりでなく、純真な少年の心に誤りが植え付けられたのをまざまざと見ながら、真実を語って聞かせてやれないのが、堪《たまら》なく鶴の心を滅入らせた。
 部屋の外には、今まで赤々と映えていた早い冬の日脚が陰って、屋内には既に夕暗がたゆとうていた。行燈《あんどん》の仕度をしようとして立上った鶴は、折から急いで部屋へ入って来た若菜を見た。
「鶴、そこにいやったか」
「はい」
 つと傍へ寄添って来た若菜は、急に声を潜《ひそ》めた。
「お鶴様、大殿は今お湯殿へ行かれました。お喜びなされませ。きょうは様々《さまざま》に云いくるめて、この後上杉家へはお出で遊ばさないことに定《き》まりました。それに、来月六日は、十時《よつ》から歳末納めのお茶の湯の朝会が決まりましてございます。さすれば他の日は兎も角も、五日夜から六日へかけての、御在邸は狂いますまい。御苦労ながらこの由を手紙《ふみ》に認《したた》めて、明朝津軽屋敷の大石|無人《ぶじん》様まで、お届けなされて下さりませ」
「心得ましてござります。何かとお骨折り御苦労に存じまする」
「それにつけても、大殿が外へお立出にならぬとなれば、この後あなた様とも、落着いてお話し申す暇はなくなりましょう。変った事があれば、隙《すき》を見てお知らせいたします程に、お抜かりなくお勤め下さりませ」
「わたくしの方は、大丈夫でございます。あなた様こそ御苦労ながら――」
「どうやら大殿のお心も、余程|緩《ゆる》んで油断が出来ている様子。この後は何かにつけて、好都合でございます。――それにしてもお鶴様。これから先は昼夜を分たず、現在|怨敵《おんてき》の戯れを受けるのかと思えば、この身が竦《すく》むように情けのうございます」
 若菜はこういって、不意に涙の差しぐんで来た眼を袖で押えた。
「御無念のほどはお察し申しますが、もはや長いことではございますまい。先達ての大石様のお話では、御城代様も、もはや平間村から江戸へお這入《はい》り遊ばしましたとのこと。殊によれば五日六日の機《おり》を脱《のが》さず、御本懐をお達しなされましょうも知れませぬ。毎日大石様の許《もと》へお通いなされますお兄上毛利様も、あなた様のお働きを、お喜びなされておいでになる由にございます」
「では、大石様の許へは兄小平太が……」
「はい。お兄上が、その役目をお受持にて、毎日こちらからの報《しら》せを尋ねにお出で遊ばすのでございます」
 若菜の眼許《めもと》には、一条の光に照らされたような明るい微笑が、夕《ゆうべ》の薄闇のなかに仄白《ほのじろ》く浮び上った。
「お鶴様、兄が皆様と御一緒に、このお屋敷へ討入の日が、どのように心待たれるか知れませぬ。この望みがあるばっかりに、わたくしは死ぬ程辛い目を忍んでいるのでございます」
「御辛抱《こしんぼう》下さりませ。お喜びの日は、もはや眼の前に迫ったも同様でございます」
 若菜は慰められて、漸く心を取直した。
「ではわたくしは、あちらへまいっておりまする。報せの手紙《ふみ》のことは御用心遊ばして……」
「大丈夫でございます」
 上野介の愛妾若菜は、実は毛利小平太の妹絹……。薄闇の中を出て行く、その若菜の後ろ姿を見送って、鶴は、ふと眼頭の熱くなるのを覚えた。

       三

 待ちに待った師走六日の納めの茶会は、計らずもその前日の五日、将軍家が、御側用人松平右京太夫邸へ御成という、不慮の故障に妨げられて延期となったが、若菜が懸命の努力|空《むな》しからず、吉例の煤《すす》払いの翌十四日と再決定されて、滞《とどこお》りなく準備は進められた。
 当日の朝は、まだ前日からの雪が、思い出したようにちらついていたが、幸い招客の繰込んで来る午《うま》の刻には、からりと晴れ上って、師走らしい冴えた空模様と変っていた。
 それがために大友近江守をはじめ、十人からの招客は一人の故障もなく、駕籠を吊らせて次々に繰込んで来た。鶴も春斎も、他の家臣や女中達と同様、朝から眼の廻るような忙しさだった。格別用の有りそうにも思えぬ若菜までが、何くれと指図する用事が湧いて、落着いてはいられなかった。従って若菜と鶴とは、言葉を交わしている暇もなかった。
 やがて茶の湯も終って、お道具拝見となり、上野介自慢の珍宝什器《ちんぼうじゅうき》に客が感嘆の声を放つ頃には、夕影の立って来た庭に、降り積った雪のみが白々と寒かった。
 屋内にも、庭の燈籠にも灯が点《とも》されて、座敷には料理が並び、酒宴の支度が整っていた。
 主客共に盃を手にすると、はじめて吻《ほっ》と寛いだ心になって、漸く年忘れの会らしい宴席が開始された。わけても日頃気難しい上野介は、人が変ったかと思えるくらいに機嫌がよく、客の旗本の一人に続いて、常にもなく謡曲の一くさりを謡ったりした。
 かくて歓《かん》を尽した客が腰を上げたのは、もはや初更《しょこう》も過ぎた頃だった。
 上野介はそのまま若菜を連れて居間へ退いたが、家臣や女中が後片付を済せ、戸閉りをしたのは既に亥の刻も過ぎて、一同へとへとに疲れ果てていた。
 長屋へ下った者は勿論、奥の女中達は横になるや否や、前後不覚に正体もなく寝込んでしまった。
 宿直《とのい》の武士さえ酒気と疲労に居眠りを続けて、雪に化粧された地上の物象を、清らかに照らすこの夜の月を仰いだのは、僅かに表門と裏門の門番だけだった。
 こうして吉良邸全体が、疲労の底に眠り果ててしまった寅《とら》の上刻過ぎ、小玄関の次の間に寝ていた十五歳の茶坊主春斎は、ふと戸を蹴破る音に眼を覚ました途端、誰やらが「火事だツ」と叫ぶ声を耳にした。
「えツ、火事」
 驚いた春斎は、がばとばかりに飛び起きた。
 すると更に続いて聞えて来た声は、もはや屋内に起っていた。
「これは播州赤穂の遺臣、主君|内匠頭《たくみのかみ》の遺志を継ぎ、上野介殿の御首級所望のため推参《すいさん》いたした。上野介殿はいずれに在《おわ》すや。見参《けんざん》見参」
 それを聞くや否や、春斎は襖を押開きざま、勝手知った暗闇の廊下を、仔猫のように素速く上野介の寝所へ駈け着けた。ぎょツとするよりも先に、悪人が大殿様を殺しに来たという意識が、電光の如くに閃《ひら》めいたのであった。
「大殿様、大殿様――」
 春斎は忙しく声をかけたが、返答がないと知ると、無茶苦茶に襖を叩いた。
「誰じゃ」
 それは若菜の声だった。
「お部屋様、一大事にござります。浅野様の悪人共が、大殿様をお討取り申すと云ってまいりました」
「えッ」
「春斎、そ、それはまことか」
 若菜の驚愕《おどろき》の声に続いて、上野介の上ずった狼狽の声が聞えた。
「あれあれ、あの通り暴《あば》れて居りまする」
「うむ、そちが第一に知らせにまいった。天晴《あっぱ》れ忠義者じゃ。急いで長屋の浪人部屋へまいり、清水一学をはじめ、 一同を起してまいれ」
「はい、心得ましてござります」
 春斎はおのが身に危険を感じるよりも、忠義者と云われた言葉に英雄心を刺戟されて、聊《いささ》か得意にさえなっていた。
 再び廊下を幾曲りして、側玄関の方へ近づくに従って、既に間毎《まごと》に灯が点り、物音はますます凄じく、人の叫びを加えて高まっていた。
 春斎が元の部屋の前まで来掛かると、襖を開け拡げた室内には蝋燭が点って、袖に白布の縫取りをした、黒装束の異様な風態の武士が、どきどぎするような抜身の槍や刀を提げていた。
 飛鳥の如くその前を通り抜けようとした春斎は、いきなり背後《うしろ》からむんずとばかりに襟頸《えりくび》を掴まれて、部屋の中へ引摺り込まれた。
「坊主、上野介殿のお居間はいずれじゃ。一命は助けて取らすゆえ、案内いたせ」
 薙刀《なぎなた》のような大太刀を突いた武士がこう荒々しく云った。
「手前は知らぬ」
「なに、知らぬ。坊主が主人の部屋を知らぬ筈があるか。申せ、申さぬと、一命は助けぬぞ」
「いらぬ、命など惜しゅうはないわ」
「ええ、子供の癖に強情な奴め」
 突き飛ばされてよろめいた春斎は、忽《たちま》ちおのが寝ていた蒲団《ふとん》の上へ尻餅を突いたが「やい、何をする」と云いざま、立上るなり傍にあった煙草盆を取って、颯《さっ》と三人の武士の中へ投げ込んだ。
「ええツ、手向い致すか」
 武士の一人はこう叫んだが、辺り一面の灰神楽《はいかぐら》で、暫しは互いに顔さえ見分けることが出来なかった。
 この間に春斎は、火箸《ひばし》やら鉄瓶《てつびん》やら湯呑やら、周囲にあり合う物を手当り次第に取っては投げつけた。
 義士達はさすがにこの少年を持て余して、飛び来る器物を払い落していたが、しかも春斎は何んとなく、相手が少年のおのれを斬ろうとせぬ気配を見て取ったのであろう。なおも盲目滅法《めくらめつぼう》な抵抗を試みた。
「要なき小坊主に手間取っては不覚じゃ。各々《おのおの》奥へ」
 遂に春斎を持て余したのであろう。義士達はそのまま逃げるが如くに廊下へ飛び出した。が、今は死物狂いに興奮した春斎は、灯の点いたままの燭台を振り翳《かざ》して、後から一人の武士に打ってかかった。
 その瞬間、春斎の背後《うしろ》へ踏込んで来ていた別な一人の武士が「ええ面倒な」と叫ぶや否や、ざくりと春斎の肩口へ一刀を浴せた。
「わッ」と悲鳴を上げた春斎は、もんどり打って廊下へ俯伏《うつぶ》したが、斬られたと覚えた途端に、上野介の命《めい》を思い出したのであろう。
「し、清水様ア……」と叫んで手足をぶるぶる震わしながら息絶えた。
 思わず三人の武士は立停って振り返った。
「寺坂、不愍《ふびん》なことをいたしたの」
「哀れに存じましたが、致し方がございませぬ」
「うむ、吉良家には惜しき坊主じゃ」
 義士達は等しく、片手|拝《おが》みにこの勇敢な少年の冥福を祈った。
 この時、矢張り長屋の浪人部屋へ報らせに行くとおぼしく、宿直の武士が三人、追取り刀で廊下を駈出して来たが、義士達の姿を見ると、はツと立竦《たちすく》んだ。
 これを見るや、義士達は忽ち身を翻《ひるがえ》して突き進んで行った。

       四

 一方、寝床の上に起き上った上野介は、白無垢《しろむく》の上に若菜が衣類を着せかける間も、歯の根が合わないまでに、がたがた顫《ふる》えていた。
「こ、これ、若菜。い、いずれへ匿《かく》れたがよいの。宿直の者は如何《いかが》いたした。し、清水一学はいまだまいらぬか」
 若菜も異様な戦慄を覚えていたが、もとより上野介の恐怖とは正反対の、一年余に亘《わた》る屈辱が、一挙に取返せる歓喜のそれだった。
「大殿様、大丈夫でございます。皆様でお防ぎなさいますのに、ここまで踏み込んでまいります筈はござりませぬ」
「そ、それでもあの通り、だんだん物音がひどくなるではないか」
「でも、皆様はこの御寝所を、お護りなされましょう。ここをお立出で遊ばすのは、却ってお危うございます」
 若菜は出来るだけ上野介の行動を、静止させようと努めた。こうしている間も兄小平太が真先に駈け着けて、この怨敵に初太刀をつけ、操《みさお》を蹂躙《じゅうりん》された妹の無念と屈辱を、一挙に晴らしてくれればとの、希いと期待に胸をときめかせていた。
「矢張り兵部は偉い。兵部は今宵を見越して居ったのじゃ。誰ぞ、上杉家へ注進いたしたであろうな――はて、いまだに誰もこれへは、まいりおらぬか」
 こう上野介が焦々《いらいら》と口走った刹那だった。はるか隔った縁側の雨戸をがたりと揺すって、ぶすツと矢の突立った音が響いた。すると上野介は脅え上って、思わず褥《しとね》から畳の上へ飛下りた。
「若菜。ここにいては危い。家臣の者が誰もまいらぬうちに、もしも浪人共が踏込んでまいったら何んとするのじゃ。さ、何を愚図愚図いたして居る。速う予を安全な場所へ連れてまいらぬか」
 上野介は若菜の手を把《と》って、無理に襖の方へ引張った。
 今はこれまでと思った若菜は、遂に寝所を立出でると、反対に上野介の手を引張って先に立った。
「兄に遭えますように、……小平太がまいりますように……」
 若菜は心の中でこう念じ続けた。
「こ、これ若菜。いずれへまいる。そちらへ行っては、物音が近くなるではないか」
 上野介は元来た方へ、慌てて若菜を引張った。
 折から長屋へ乱入した義士達を相手に奮戦して、血路を開いて駈け込んで来たのであろう。抜き放った白刃を提《ひっさ》げたまま、廊下を近付いて来たのは清水一学だった。
「大殿、大殿ではござりませぬか」
「お、一学か」
「御安泰祝着に存じまする。さ、少しも速う」
 声を潜めた一学は、いきなり上野介の手を把った。
 上野介も一学の顔を見て、蘇生《そせい》の思いをしたのであろう。そのまま若菜のことは忘れた如く、一学と共に立去ろうとした。
「あれ、大殿様――」
 若菜が追縋《おいすが》ろうとすると一学が遮《さえぎ》った。
「お部屋様、浪士共は女子供に目をくれるなと申して居りますれば、お居間へお引取り下されましょう。御一緒ではいざという時、働きがままになりませぬ」
 そのまま一学が上野介を導いて行く後へ、更にまた一人。「大殿」と呼びながら追縋って来たのは、用人の大須賀治郎右衛門だった。
 若菜はそのままおのが居間へは帰らず、ひそかに上野介の後を尾けた。すると台所へ這入って行った一学は、奥の方の物置の戸を押開けた。
「大殿、恐れながら火急の場合、暫しこの中にて御辛抱下さりませ」
 やがて大須賀治郎右衛門共々、三人は物置の中へ這入って、ぴたりと戸を閉してしまった。
 それを見届けた若菜は、急いで寝所まで引返すと、隣室の寝所と接した襖の影へ屏風を引寄せて、その後へ忍んだまま息を殺していた。
 出て行って、同志の人々に出遭い次第、上野介の隠れ場所を告げることは易かったが、若菜の最後の希いは、依然兄小平太を求めて歇《や》まなかった。上野介に操まで奪われた妹が、邸内にありながら、怨敵に初太刀さえも着け得なかったと云われては、兄の面目に拘わるであろう。――殊にそれにも増して、兄は妹の身を儘にした上野介へ、怨みの刃《やいば》を酬いたいであろう。
 思えば上野介を一刺《ひとさし》にする機会は、毎夜の如くに続いた。しかもそれに耐えて今宵を迎えたのは、兄の名誉によって、妹の屈辱を取戻して貰いたいという、唯一つの希いのために外ならなかった。兄が来るまで、せめて兄小平太の声が聞えるまで。――
 そう思って若菜は、じツと身を潜めながら、やがて寝所を目がけて押込んで来るに相違ない同志の人々を、別けても兄小平太を待受けた。

       五

 清水一学は三村次郎左衛門、紅埴源蔵《あかはにげんぞう》、潮田又之丞《うしおだまたのじよう》の三人に、大須賀治郎右衛門は堀部安兵衛に、それぞれ斬り倒されて台所へ死屍《しし》を横たえた後、薄明の邸内に高々と鳴り渡った呼子《よぶこ》の笛に続いて、参集した義士一同の面前に於て、遂に上野介は討取られた。
 歴々《ありあり》と背中に残る亡君怨みの刀痕を験《しら》べた時、眼《ま》のあたり生きた紀念《かたみ》に逢った如く、一同はせぐり来る涙を抑え兼ねて、声を放って泣いた。
 が、それとは異る悲しみの涙が、時を同じくして流れていたことを人々が知ったのは、本懐遂げた歓びに凱歌を奏して、将《まさ》に引揚げようとした時だった。
 台所を立出《たちい》でた内蔵助は、そこの廊下に泣き沈んでいる鶴の姿を、薄明りの中に見出した。
「おお、鶴どのではないか」
「御城代様――」
「永の月日、いかい御苦労をおかけいたしたのう。その甲斐あって今日唯今、首尾よう本懐を遂げ申したぞ。お喜び下され。これと申すも、お身達の働きに負うところ多うござる。内蔵助一同に代って、厚く御礼申すそ。――して、絹どのは如何いたされたの」
「は、はい。そのお絹様が……」
「なに、絹どのが」
「兄上毛利小平太様の御一列ではござりませぬのを、裏切者の妹になったとお嘆きなされ、御自害なされましてござりまする」
「そりゃ絹どのには、自害とか。……場所はいずれじゃ。御案内下され」
「はい……」
 鶴が悄然《しようぜん》と導いたのは、上野介の寝所だった。
 見れば畳は朱に染んで、待ちに待った兄に裏切られた若菜が、見るも無惨な姿を横たえていた。
「小平太の不信ゆえに、不愍《ふびん》なことをいたした……」
 内蔵助は暗然と涙を呑んだ。
「たとえお身の兄小平太は、不信の徒《と》となるとも、お身が心身を賭《と》しての働きは、今日我等一統、亡君の妄執《もうしゅう》を晴らし奉る喜びへの、立派な導きにござったぞ。我等無事に泉岳寺へ引揚げ、亡君の御前に吉良殿の御首級《みしるし》を供え奉るに於ては、御身の忠節、功績の程、誓って言上仕る。――絹どの、後より我等も参り会すなれど、御冥福を祈り申すぞ」
 内蔵助の惜別《せきべつ》の言葉に続いて、人々は暫し熱い涙の眼を閉じて冥福を祈ったが、若菜の骸《なきがら》の傍に坐した鶴の歔欷《すすりなき》の声が、次第に強くなりまさって行った。
       ×       ×       ×
 やがて裏門のほとりに打鳴らされたは、引揚合図の銅鑼《どら》の音《ね》だった。左兵衛を探すために今一度と、八方に散った人々も、遂に諦めて裏門際へ馳せ集って来た。
 折から明け渡る黎明《れいめい》の色に、塀越しの土屋邸の高張提燈の灯影は淡かったが、なお厳重な警戒を続けている様子だった。
 これを見るなり、原惣右衛門と片岡源五右衛門の両士は、つかつかと雪を踏んで塀際へ歩み寄った。
「我等浅野内匠頭の遺臣、只今上野介殿の御首級《みしるし》をあげ申してござる。一党四十七人、毛頭《もうとう》逃げ匿《かく》れ致す所存はござらぬ」
 惣右衛門が凜然《りんぜん》と云い放てぼ、源五右衛門がそのまま後を受けて呼ばわった。
「追付け公儀へ訴え出《い》で、御裁断を相待つ所存にござれば、何卒御安堵の上固めをお解き下され。御騒動相掛け恐れ入り申してござるが、失礼ながら塀越しに御挨拶仕る――」
 この隣家への挨拶によって、人々ははじめて成すべきことの終ったのを、はツきりと意識したのであろう。抑《おさ》えても抑え切れぬ感慨が胸に満《み》ち充《み》ちて、互いに見交《みか》わす微笑の眼には、静かな涙が浮んでいた。
 名打《なう》ての弓取りたる早水藤左衛門は、この時邸内を振返って声高々と最後に叫んだ。
「我等上野介殿を討取って、唯今|立退《たちの》き申すところでござる。我れと思わん方々はお出合いなされい。――斯《か》く申す早水藤左衛門満堯《はやみとうざえもんみつたか》、一箭《ひとや》仕る――」
 兵《ひよう》と切って放った箭《や》は唸《うな》りを生じて、家老小林平八郎の長屋の雨戸に突き立った。
 それを合図に満邸《まんてい》寂《せき》として声なき中を、一党の人々は粛然《しゅくぜん》と裏門を後にした。


校正に使用した本「忠臣蔵コレクション1 本伝篇」河出文庫、河出書房新社
   1993年12月6日初版発行
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