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早川孝太郎『猪・鹿・狸』「猪」


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早川孝太郎「猪・鹿・狸」

凡例
一 猪と鹿と狸と、それぞれに因縁や連絡があったわけではない。
一 話に出てくる地名で、単に村の名だけを記して、郡名を省いたものは、南設楽郡内のことである。
一 村の名をいう場合に、たとえば長篠村浅畑とか、鳳来寺村峰とある類は、多くの場合、その間へ、大字の文字がはいることである。しかし、なかには、昔の話のままに、現在の行政区画を無視したものもあった。郡名と小字をいうた類のものである。
一 大字の名を省いて、村名と小字だけのものもあった。また鳳来寺山東方にあるなになにの部落のごとく、村名を省いたものもあって、一定していない。多くは話の感じに重きをおいてやったためである。まるきし不明の点もあるまいと思うが、かえってわずらわしくなったことは恐縮のほかない。
一 地名の読みかたは、たいてい一回だけ、ふりがなを付けておいた。なかには重複したものもあるようで目ざわりである。あるいはまた、当然必要がないと思うもので、そのままおいたものもある。
一 話の年次はいまから何年前というふうのものは、現在を基準としたのである。明治何年ごろという類は、多く自分が推定したものである。
一 話の順序と標題は、内容に拠ったものではない。多く感じのうえの分類で、なかには同じ標題のなかに、異なったいくつもの話を入れた所がある。
一 カットは自分のスケッチに拠って描いたのであるが、なかにはぜんぜん想像で描いたものもある。

   猪
一 狩人をたずねて
二 子猪を負んだ狩人
三 猪の禍い
四 猪垣のこと
五 猪の案山子
六 村の変遷と猪
七 猪除けのお守り
八 空想の猪
九 猪の跡
一〇 猪にあった話
一一 猪狩りの笑い話
一二 昔の狩人
一三 山の神と狩人
一四 猪買いと狩人
一五 猪の胆
一六 手負い猪に追われて
一七 代々の猪撃ち
一八 ふしぎな狩人
一九 巨猪の話


一 狩人をたずねて
 はや三、四年前にもなるかと思うが、狩りの話が聞きたくて、以前狩人だった男をたずねていったことがある。前から知らぬでもなかったが、前身が狩人のことは、ついすこし前に、はじめて知ったのである。
 あいにくだったが、今日は山田へ田繕《たなお》しにいったと家人の言葉を聞いたときは、ちょっと落胆したが、さらにその田を聞いて出かけていった。街道から山道にかかって二、三町進むと、窪を越した向こうに、柴山をひどく切りくずした跡が見えて、すぐわかった。新しく畔《くろ》を築いて、幾段にも出来た新田の一つに、腰が弓のようになった白髪の男が、よねんなく土を篩《ふる》っている。そばには岩乗な手押車が置いてあった。かねて耳の遠いことは聞いていたので、そばへ寄ってから大きな声で来意を告げると、はじめはなんとも合点のゆかぬ顔つきであったが、だんだん話すうち、得心がついたか、にやにやと相好《そうごう》がくずれた。やがてびっくりするような声で笑ってから、そんなことがなにかの役にたつかというて、さらに愉快そうに笑ってすぐ話し出した。
 十六の年から猪追《ししぼ》いをやったそうである。そして近間《ちかま》の山という山はことごとく歩き尽くして、ときには遠く伊勢路まで入りこんだこともある。ある年|奥郡《おくごおり》(渥美郡伊良胡崎)に猪がたくさんいる話を聞いて、朋輩と二人で出かけたときのこと、赤羽根《あかばね》の海辺を鉄砲かついで歩いてゆくと、岸からわずか離れた岩の上に、ウ(鵜)がこぼれるほど止まっていたそうである。そこで慰み半分に一発放してみると、鳥は驚いていちじに飛び立ったが、そのうち一羽は海のなかへころげ落ちた。そして波にぶかぶか浮かんでいるのだが、二人とも山ザルの悲しさにどうすることもできなんだ。そのまま見捨てていこうとすると、近くの畑でようすを見ていた男が飛んできて、でし殿あれはいらぬかいというて、ザンブリ海へ飛びこんで拾ったそうである。でしとはこの付近でもっぱら狩人を呼ぶ言葉であった。
 この話を聞いていると、春さき日のぼかぼか当たった海辺を、のんきそうに歩いていく狩人の姿が見えるようである。狩人のなかには、居回りの山谷ばかり守ることをせず、えものをもとめては山から山を渡り歩いて、ほんのわずかの問しか家に帰らぬ者もあったのである。
 今年七十七だというたが、十数年前四十幾年の狩人生活をふっつりと断って、ただの農夫にかえって老い先を田地の改良などやっていたのである。じつは狩りほどおもしろい仕事はなかったという。いくらやかましくいわれても、耕作などとてもしんぼうができなんだそうである。そういうているだけ、ひどく謙遜した回顧談であったが、愉快なことはその老人が、諦めたなどといいながら、話の間《あい》の手にこちらが語る他国の狩りのことを、珍しがって聞こうとする態度であった。その晩さらに家へたずねると、一人で茶を汲んだり菓子を出したりして、歓待してくれた。そして若いころとった大鹿の皮で、自分が縫ったというたっつけの、ぼろぼろにほころびたのを納戸の隅から捜し出して見せてくれた。鉄砲もはや売ってしまって、残るものはもうこれだけだというた。
 こうして猪狩りの話も、納戸の隅に置き忘れたたっつけのごとく、すでに過去の物語になりつつあったのであるが、いっぼう、相手の猪は、まだ盛んに出没していたのである。現にこの老人の耕しつつあった田のイネも、年ごとに荒らされつつあったのは、矛盾だか皮肉だかわからなんだ。

二 子猪を負んだ狩人
 これは自分が七つ八つじぶんのことだったと思う。その日はなにかの用事で父が遠出して留守で、母と幼い同胞たちと一問へ塊り合って寝た。山村のことではや簿ら寒いほどの秋であった。ちょうど一眠りしたと思うじぶん、門の戸口をコトコトとたたく音に目をさました。さきに目をさましていた母がまず声をかけたが、外には聞こえぬらしかった。二、三度つづけて問い返すうち、ようやく隣村の狩人とわかってほっとした。用向きを聞くと、いましがた奥の窪でこぼう(子猪)を一つ撃ったのだが、家まで運ぶ間、しょいたを借りたいというのである。母が土間の隅から取り出して、戸口を開けてやると、そのまま急いで立ち去ったが、自分は思いがけぬ経験に興奮して容易に眠られなかった。そのうち、またもや戸口をたたく音がして狩人が帰ってきた。こんどはすぐ起き出して母を促していっしょに外へ出た。さすがに、もの珍しく心をひかれたのである。夜目に瞭然と見えないが、暗がりにしょいたを負って立っている男の肩に、なにやら突っ立っているのが、猪の肢でもあるのか、さかさにしてゆわえつけてあるらしかった。
 なんでも宵待ちにいって、田の畔《くろ》のぼたにしゃがんでいたという。すると上の柴山からボソリボソリおりてくるのが、星空にすかして見ると、大小二つのまぎれもない猪だった。おおよそ狙いをつけて撃つと、つい目の前へ草を分けてころがってきたそうで、親猪のほうはついに取り逃がしたという。そこは自分の家の田圃のそばで、判然記憶にある場所だった。田の脇を道が通っていて、そばに三つ又のスギの古木が立っていた。田植えのおりには、きまってその陰で昼飯を食べた所である。狩人は一とおり話し終わると、新しくタバコをすいつけて、幾度かしょいたの礼を述べて、前の坂道をおりていった。いま考えると夢のような光景である。
 その男は亀さどかいう名まえで、狩人仲間でも豪胆者だとは聞いていた。いつも相棒になる同じ村の若い狩人が、ひどい臆病者で、猪を見かけて逃げてばかりいるのに、この男のおかげでうまいめにあうともいうた。かつて村の某の老爺が、山田の猪小屋で鳴子の綱を引いていると、入口の垂れ筵を黙って持ち上げて、おっとう今夜はおれが番をせるそえというて、ひどくびっくりさせたそうである。以前からの強い狩人はことごとく死んでしまって、夜の夜中に一人山のなかを歩きうるのは、もうかの男一人だともいうた。
 それほどの男でも、たいせつにしていたイヌが、山で何物かに食い殺されたときは、三日三晩も泣きとおしたそうである。赤毛のごく賢いイヌで、主人が狩りに出ぬ日でも、一日に一度はかならず山へはいって、ウサギか狸かをとってきた。あるとき三日もつづけて姿を見せなんだ。そこで近所の者を頼んであっちこっち捜すと、岩山の大きな石の陰に、咽喉を食い破られて死んでいたそうである。おおかた狸かなんぞの、劫をへたものの仕業であろう。あまりたくさんのえものをとった報いだろうともいうた。そのこと以来さすがの豪胆者も急に老いこんだと聞いたが、いまでもたぶん生きているだろう。もう七十いくつの年輩のはずである。

三 猪の禍い

 秋になってイネが色づくころには、山田を耕している者は一晩でも安閑としてはおられなんだ。わずかばかりの冷田《ひえた》の作代《さくしろ》であるが、文字どおり猪の襲来が激しくて、絶えずおびやかされていたのである。収穫間近のあおられるような忙しいなかを、日が落ちてからやとうを幾十本となく矧《は》いで、なんでも今夜があぶないなどと、暗がりをたどって、猪の路へ立てにいった。あるとき父のあとから、ついていったことがある。かの峰からくると教えられて、真っ黒に茂った雑木林を、不安な目で仰いだものだった。柴山から田の畔《くろ》へつづく崖の下へ、矢来のように隙間なくやとうを立てたものである。
 やとうはやとともいうて、矢タケのやや太いものを三尺ほどの長さに切りそろえ、穂先を鋭く尖らせたものだった。表の端でムギからなど焚いて、一本一本先をあぶって、タケの脂肪《あぶら》気を去って鋭くしたのも、古くからつづけてきたことらしかった。やとうは本来おとしあなのなかに立てて、落ちた猪を突き刺すための物の具であったが、べつに崖の下垣根の内などにも置いて、えものをとることにも使った。単に猪をおどすための、防禦の具に用いたのは、せつないときの思いつぎであったかもしれぬ。それをつくる矢タケの茂りが、山の所々に、まだ忘れたように残っていた。
 猪に荒らされたあとのイネは、まことに情け容赦もないことだった。わけて子持ち猪にでも出られたが最後、目も当てられぬ狼籍であった。食う以上に泥のなかへ踏みにじって、たまたま免れたものは、稲扱きにでも掛けたように、粒がことごとくむしってあった。猪は穂のいくつかを、一口にくわえて引ったぐるらしかった。空穂がひょろひょろ風に吹かれているのを見て、思わず涙をこぼしたとは、現にたびたび聞かされたことである。そのうえにもあとの始末が、なみたいていのめんどうでなかった。それと見た隣の田では、まだ青い穂並みを、むざむざ刈り取るさえあった。焼き米にしても、猪に食われるよりましだというた。思えば憎い憎い猪だった。晩がた仕事の隙をみて、そっと狩人の家へ走ったのも、よくよくやるせなくてのことである。
 猪一つとってくれたら、酒の一升ぐらい出してもかえってありがたいと、つい約束もしたのである。鳳来寺村|長良《ながら》の一つ家の話だった。それからは狩人が猪をかついできて表に休むたび、酒一升分の価を払い払いしたが、屋敷回りの猪はちっとも減らないで、狩人たちがとんでもない遠方から、わざわざ回り道をしてかついでくることがわかって、あわてて約束を取り消したという。
 村の某の男だった。屋敷脇の甘藷畑《いもばた》へ、毎晩のように猪が出て片っ端から甘藷を掘る。しまいには宵の口からきている。それである晩鉄砲を用意して待っていて、あたりもすまいと思って放したのがつい撃ち殺してしまった。夜が明けて見てさすがに当惑した。キツネやウサギなどとちがって、三十貫もあるものを、三人や四人の家内で、食って片づけることもできなんだ。ちょっと動かすにも男の手にはあまるほどで、売ることはもちろん、隣近所へ分けて与えることも、狩人たちの思惑が案じられた。万一警察へでも密告されたら、つらい目にあうにきまっている。現在そうした話をあっちこっちで聞いていた。さんざん頭痛にした果てに、女房の縁故をたどって、近間の狩人に情を明かして引き取ってもらったが、それまで二日二晩の間、猪の骸に筵を掛けて、畑の隅に隠しておいたという。でもその狩人から、いくばくかの分けまえをもらったが、えらい気苦労を考えると、めったに猪も撃たれぬとこぼしていた。
 いずれにしてもやっかい千万な猪だったのである。

四 猪垣のこと

 猪の出る路をうつというた。猪は田や畑へ出るにも、かならずうつを通ったので、おとしあなはうつを目がけて設けたのである。自分が子どものころには、畑つづきの木立のなかに、半ばくずれかけたのが、まだ幾個所も残っていた。多く畑から数間もしくは十数問ぐらい入りこんだところで、穴の直径六尺ぐらいで、深さは二間もあった。朋輩の一人が、あやまって落ちてよわったことがある。
 おとしあなは猪を防ぐために設けたのであったが、いっぽう、それで猪をとる狩人もあった。上に細い横木を渡して、カヤ、ススキなどを敷いておき、底には、やとをいちめんに立てておいた。老人の話によると、同じ狩人のなかでも腕に自慢の者がやることではなかった。とれたえものも多くは子猪ばかりで、親猪はめったにかからなんだという。子猪のことを別にうりんぼうというたが、うりんぼうがうまく掛かった所は、盆の精霊送りに、瓜にアサからを通したそのままであったという。これは祖母から聞いた話であった。あるとき隣家のおとしあなへ、大猪が落ちてやとを三本も負いながら、盛んに荒れていて困ったことがあった。近所の者が集まって石|撲《う》ちにしてやっとたおしたという。どこの家でも屋敷の後ろには、きまっておとしあなが設けてあったのである。
 おとしあなへは猪のほかに、もちろんほかの獣もかかったが、とくにヤマイヌの落ちた話が残っている。もう四十五、六年も前であるが、鳳来寺山麓の吉田屋某の裏手の穴へ落ちたことがあった。村の者が多数集まってフジ蔓の畚《もつこ》を作って、その四隅に長い綱を付けて穴のなかへ下げてやると、ヤマイヌがそれに乗ったという。それでさっそく引き揚げて逃がしてやった。翌日その穴へ大鹿が落としこんであったのは、いうまでもなくお礼心であった。ヤマイヌがおとしあなへ落ちたときは、なかで盛んにほえたという。自分の家の地類である某の男は、豪胆で聞こえた狩人だった。あるとき屋敷裏のおとしあなヘヤマイヌが掛かったとき、なかへ梯子《はしご》をおろしておりていって、ヤマイヌを片手に抱いて上がってきた。そのまま放してやると、ヤマイヌはうれしそうに尾を振ってその場を去ったが、並みいる村の者も某の豪胆には魂消《たまげ》たという。ヤマイヌがすこしも抵抗せなんだのは、最初むずを含めたためだというが、むずのことは判然と知らぬ。あるいは抵抗せぬための呪《まじな》いともいうた。明治になるすこし前のことで、翌日大鹿が投げこんであったことは、前の話と同じである。
 話の枝がよけいな方向へ伸びてしまったが、おとしあなとは別に、田や畑をめぐって、深い堀が穿ってあった。猪除けが目的であったことはいうまでもない。だんだん埋められて、いまに残っているのはごくまれであった。ただほりんぼうなどと呼んだが、あるいは別の名称があったかと思う。その外側には、高い垣根が築いてあった。多く石で積み上げたもので、猪除けの垣根というが、あるいはまたわちともいうた。しかし一般にわちと呼んでいたのは、焼け畑にめぐらした垣の謂いであった。二本ずつ杭を打って、それを骨組みとして、横木をたがい違いに組んでいったものである。また焼け畑でなくとも、山村の畑には、多くわちがめぐらしてあった。このほうは焼け畑とは異なって、岩乗な杭を隙間なく打った半永久的な柵で、材料はクリの木を割った角であった。破れた所から杭を補ってゆくので、所々色が変わっていたりした。多くは山のさが畑で、街道などから望むと、遙かな山の半面に、年をへて真っ白にさらされたわちのなかに、青いムギの畝《うね》がだんだんにつづいていたりして、一種なつかしいものであった。

五 猪の案山子

 猪のそめ(案山子)のことは、すでに「三州横山話」にも書いたごとく、ひとつひとつ観察すると、ずいぶん変わったものがあった。氏神の祭礼に引き出した一丈もある藁人形を、後に着物だけ剥《は》いで山田へもちこんで立てたのがあった。たしか日露戦争の凱旋の年で人形はロシア兵だったと思う。顔を胡粉で彩色した念入りのものだっただけに、遠くからながめても気味が悪いなどというた。また北|設楽《したら》郡の田峰で実見したものは、藁でウマをこしらえて人形を乗せたのがあった。鳥おどしの案山子などもそうであったが、以前のように簑笠姿のものな、どはほとんど見なくなって、メリヤスのシャツを着せたり、経木細工の帽子をかぶせたりした。そうかと思うとある家では、昔からある裃《かみしも》のぼろぼろになったのを、こんなものに用はないというて、案山子に着せてしまったという。現に自分らが聞いた唄のなかに、
 女郎《おやま》買いして家の嬶《かかあ》見れば
 三里やまおく猪のそめ
とか、あるいは下の句だけ、布里《ふり》や一色《いつしき》の猪のそめなどというのがあった。いずれにしても唄の作者などには、思いもおよばぬかっこうであった。
 女の髪の毛を焼いて串《くし》にはさんで立てたり、カンテラを棒の先に吊るしておいたのと、同趣向のもので、古くからあったものに、かべというものがあった。ぼろを芯《しん》にして、上を藁で包んだ、長い苞《つと》のようなかっこうだった。一方の端に火をつけて、タケ竿の先に吊るして畔ごとに立てておいた。それのごく小さいものを、夏ぶんブヨを除けるために、草刈り女などが腰に下げたくらいだから、ぼろのキナ臭い煙で、猪をいやがらせるためであった。
 あるいはまた太いほだの端に十分火を回らせて、畔にころがしたのがあった。二つともすこしくらいの雨にも平気で、二日三日くらいつづけて燃えていたのである。
 案山子ではないが、猪除けのわちの変形と思われるも、のに、山つづきの畔から畔へ鉄条網を張りめぐらしたものがあった。新趣向の一つで、間接には戦争などの影響であった。しかし結局昔どおりの番小屋に、刈入れまで番をするのが、確実でもあり、わりあい手がるでもあった。それでわれもわれもと新たに小屋を設けて、はては一目に見とおされるほどの窪中に、思い思いの藁小屋が、五つ六つも建ったこともあった。ただ昔と違ってきたことは、鳴子の綱を引くかわりに、石油の空罐をたたき、ませ木を打つ代用に、屋根葺き用の亜鉛板をもちこんでたたいたりすることだった。そうかというて老人のある家では、昔ながらのませ木を打っていたのもあった。
 ませ木は小屋を中央から仕切って、横に渡した丸太であった。炉にあたりながら、手ごろの棒を持って、ときおりタンタンとたたいては、眠い眠い夜を送ったのである。そして合いま合いまに、ホーホーと呼ばったのである。尻取り文句のなかに「ホイは山家の猪追《ししぼ》いさ」というのがあったが、まさにそれであった。ませ木のかわりに、板を打つのもあったが、いずれにしても寂とした秋の夜の山谷に、その音をおどすに十分だったのである。思えば猪追う術も昔がなおなつかしかった。ましてわが打つませ木の音に聞きほれたなどの心持は、なつかしいかぎりであった。
 自分が親しくした老人に、八十いくつまで番小屋泊りをやった男があった。何度やめてくれと頼んでもきかなんだ。とうとう死ぬ年までませ木をたたきとおしたという。じつは猪番がなにより楽しみだったそうである。その老人の手すさびに打つませ木の音が、まだどこか耳の底に響くような気がする。

六 村の変遷と猪

 誰しもそういうたことであるが、近ごろの猪は以前のわちおとしあな時代から比べると、りこうになったばかりでなく、性質も悪くなったという。悪くなったというのは、性質が単純でなくなったことである。わずかなものの響きにも、変わったものの香にも、恐れて近づかなかったはずの猪が、たちまちそれらに馴れて平気になることであった。そうかと思うと、しだいに出没が巧妙になって、一夜の間に十里十五里の山の奥国から、峰伝い窪伝いに風のように渡ってきて、その夜のうちに再び元のすみかへ帰ってしまうと信じられた。猪が出たと聞いて、付近の山を捜したのでは、もう遅いとは、現に狩人がいうていた。
 軒端に積んだイネ束を襲い、屋敷回りの甘藷《いも》穴を掘り返すなどは、五十年前を考えればなんの珍しいことでも.なかったが、当時と比べると、猪の本拠であったはずの山がひどく明るくなったあとだっただけに、猪が猜くなったように考えられたのである。いまひとつの理由は、ひところ盛んに木が切られたとぎに、ほとんど跡を絶った事実もあったので、その後出る猪は、別物のようにも考えられたのである。
 山の姿が以前と比べてひどく変わったことは、自分などの記憶から判断しても、著しいものがあった。屋敷の裏手のスギ木立へはいれば、一丈もあるシダの茂みがつついて、筧《かけい》の径にかぶさった奇怪なかっこうのスギの古木には(これをじゃんかと呼んでいた)、 毎年キネズミが巣食ったのでも想像される。前の畑の畔《くろ》には、夕方になると畑中を影にするようなエノキの大木があった。屋敷内にあったカヤの大木の根元は、近づくこともできないほど、蔓草類がからみ合っていた。表の端にまで枝がかぶさりかかった所は、その木一つでも、十分山村の風趣があった。これらは自分の家だけについてであるが、村全体を見疲しても、山を分けて家があった感があったのである。
 猪が好んで出た山田の畔つづきの草場《くさんば》柴山には、きまってネムノキが遺してあって、それが相当古木になっていた。夏ぶんなど濃い緑の草生のなかから、白い木肌が立ち並んで、あの紅色の美しい花の咲くときなどは、山の美しさ以上、果てしない山の深さがあった。草場ヘネムノキを立てることは、草のためによいといい伝えていたのであったが、いまではそんなことを信じる者はなかった。なんでも日陰が悪いとして、片っ端から切ってしまった。シダの茂みは下刈りのたびに浅くなり、萱場《かやんば》ぼろうは切り開いて、猪の立ち寄る陰はほとんどなかったはずである。まして昔は同じように出没した鹿やヤマイヌは、とくに姿を隠してしまって、夜でも汽車の笛を聞くような所へ、出てくる猪の気がしれなかったのである。
 猪除けの案山子にしても、追う方法でも、雑然としたいかにも心ないやりかたであったが、じつはもういなくなるはずだに、まだかまだかで、一日延ばしに日をおくっていたせいもあった。
 別に説をなす者は、深山の御料林などが伐採されるたびに、そこを追われた猪が、迷い出るともいうた。あるいはそのへんの消息は事実であったかもしれぬ。現に鳳来寺御料林が払下げになった年には、おびただしい猪が出たそうである。

七 猪除けのお守り

 ある雨のそぼ降る晩だったというた。猪の番小屋のすぐそばで、なにやらボソリとへんな音を聞いてふしぎに思った男が、そっと垂れ筵のなかからのぞくと、畔に沿った井溝《みぞ》の傍らに、なんだか真っ黒いものがじっとしている。はじめは狩人でもあるかと思ったが、よくよくすかして見ると、それが大きな猪だったという。
 いかに番をしていても、ちょっと油断をすれば、猪が出たのである。ある家では人手がないために、夜どおしカンテラを田のなかにともしておいてそれでも食われたが、その隣の田では、作り主がいそがしいままに、どうでもなれと覚悟を決めて、幾日もほっておいたが、いっこう寄り付きもせなんだという。あるいは不運の者にかぎって.荒らされるなどと信じられた。そうかと思うと、ただの一晩、風邪気で番小屋行きを休んだばっかりに、ひどく.イネを食われたりした。こうなると、屋敷にいるネズミかなそのように、そっとそこいらからこっちの内証話を聞いているようにも思えたのである。あの人も運が悪いのんなどと、猪に出られた作り主を女同士が陰でささやいているのを、現に耳にしたものであった。
 はや昔話になった山住《やまずみ》さんの猪除けのお守りを、一人が思い出して迎えてくると、はじめは嘲ってみても、なんだか不安になって、われもわれもと迎えにいって、畔ごとに立てた。山住さんはヤマイヌをまつるという神であった。つい三、四年前のことで、刈取りを終わった後までも、畔から畔へ、矢串に挿した白い紙札が、おびただしく立っていた。なかには迎えにいったとき、はたして猪が出ぬかなどと、だめを押して、お札で心もとなくばお姿をお連れ申すかと、取次ぎの男におどかされて、いやそれにはおよびませぬと、早々帰ったなどの話もあった。しかし奇妙にその年一年だけは、猪が出なんだそうである。そうはいっても、翌年は一人も迎えにいった者はなかったというから、村の人々の心持も、猪以上わからなんだ。
 山住さんのお姿を借りてくれば、猪でも鹿でも田へ近づくものは片っ端から食い殺して、その場へころがしてあるという。またその期間中は、田圃近くの草の葉陰や石の上に、見えるともなく凄いお姿が現われるともいうた。現に村の空寺へ住持になってきた山住一派の坊さんは、疑うなら、食い殺してお目にかけようかと、恐ろしいことをいうたそうである。
 自分も一度その坊さんをたずねてみたが、あいにく不在で会えなんだ。留守の婆さんにいろいろたずねて帰ったが、須弥壇の本尊と並んで、榊《さかき》を立て注連縄《しめなわ》を張り、白い幕が下がって山住さんがまつってあった。なかに方五寸ばかりの真っ黒い箱があって、お姿が納まっているというた。たしか箱の表に右の字が一字記してあった。なかが拝見したいとずうずうしく頼んでみたら、造作はないがあとで納めるのがむずかしいから、なんなら住持のいる節にしてくれと、もっともらしい言いわけであった。箱から出すといっしょにあばれて困るのだそうである。そういう間にも、婆さんの陰惨な顔つきと右の字を書いた箱の神秘に魅せられるように思ったが、あとで聞いた話では、村でも心ある者は、住持のやりかたに困っているとのことだった。いっぽう坊さんには、山住さんがどうしても離れぬのだそうである。その後、寺の後ろの山へ、新しく祠《ほこら》を建ててまつったと聞いたが、手近に山住の一派がこられても、猪はまだ盛んに出るので、番小屋泊りも休まれぬそうである。

八 空想の猪

 かつてある若い女房が、朝まだほの暗いうちに、村の、あいちの入りの山へ、刈干《かつぽ》しの草を背負いにいくと、路の行く手へ灰色した小ブタほどの獣が現われて、前に立いってころころ歩いていったという。そのとき獣のほうでは、あとから人間のくることなどは、いっこう感づかぬらしかった。女房も気丈者で、平気であとをついて、込のの三丁もいったが、そのうち獣は脇の草むらへそれてしまった。家へ帰ってその話をすると、老人からそれこそ猪だと聞かされたが、じつはびっくりするかと思いのほか、あんなものが猪だったかと、あんがいな顔つきをしたそうである。
 話に聞いたばかりでなく、現に田圃のイネを踏みにじったり、のたを打ち、ミミズを掘った跡を見て、実際の姿を想像していた者が、 一たび自然そのままを見た場合には、この女房と同じものたりなさを感じたのである。まことにあんなものが猪だったのである。
 自分らの経験でも、猪は恐ろしいもの、強い獣と、本の心つくときから聞いていた。それがあるとき屋敷の奥の窪から、狩人にかつがれてゆく姿を、初めて見たときは、同じ幻滅を感じたものであった。それでまたいっぽうには、まるで別の猪の世界を想像していたのだからふしぎである。どうしても実感のほうが押えられがちであった。
 幼少のころ八名郡|宇里《うり》の山里からきた杣《そま》が、家に泊まっていたことがある。五十五、六のごく実直らしい、語ずきの男だった。妙なことにその男の話が、いつも狩りや獣のことばかりであった。日数がたってはじめてわかったのだが、前身が狩人だったのである。どうしてよき(斧)を持つようになったか聞きもせなんだが、およそ一ヵ月ほどの間に、数かぎりなく狩りの話や獣の話をしてくれた。そのうちいまだに忘れられぬほどの感動を与えられたのは、猪と鹿の比較談であった。山のたわなど逃げてゆく鹿を狙って撃ったとき、うまく急所に当たると、文字どおり屏風を倒すごとくころがって、なんとも、いわれぬ快哉であるが、猪のほうだとそうは参らなかった。いかに急所を撃たれても、けっして鹿のような倒れかたはせなんだ。弾丸を受けてからもなお二、三歩肢を.運んで、静かに前かがみに、つくばいこむというのである。その話を聞いていると、いかにも剛勇の士の最後を見るようで、猪の猪らしい態度が、名実ともにかなったごとく感じられたものである。
 あるいはまた恐ろしい手負い猪の話であった。これにかかったが最後命はないと聞かされて、牙をむいたもの凄い姿を胸に描いてみた。その恐ろしい手負い猪を、そばへ引き寄せてからうまく引きはずして、後ろの谷へ真っ逆さまに突っこかしたという村の某の逸話を、いつまでも信じていて、幾度か人にも話したものであった。
 そうかと思うと激しい追狩りの最中に、逃げながらも幾度か引っ返して猟犬を追いまくるという話を、恍惚として聞き入ったものである。幾度聞いてもあかぬ興味を覚えたが、そのたびに空想の世界が、だんだん根を張って伸びてしまったのである。

九 猪の跡

 狩人の話では、猪は夏から秋の初めにかけて、かりにつくという。かりは峰近い萱場《かやんば》ぼろうなどの、やや平坦な地を選んで、猪がつくった寝床であった。地面を長方形に穿って、そのなかにはこ(落ち葉)や枯れ草を敷ぎ、上にはやや丈の長いカヤの類を橋渡しにおおってあった。出入りは一方の端からするともいうた。かりはまた山の中腹にもあったが、窪中などの湿地は避けたのである。アブやカの襲来を防ぐためというたが、子もまたそこで育てたので、生まれてまもない子猪が、かりの近くにたおれていることがあるという。まだ肌に毛を生じないとき、カに刺し殺されるのだという。
 萱場は文字どおりカヤ立場で、六尺以上にも伸びたカヤが密生して、足を踏み入れることもできぬような所が、自分の村などにもまだあった。トチの類がまばらに立っているくらいで、ほとんど他の植物は生える余地がなかった。ままイタドリが混じっていたくらいのものである。ぼろうは山にはよくある人間の手のまだおよばぬ一郭で、グミ、アケビ、山ブドウ、その他名もわからぬ蔓科の植物が、たがいにからみ合って、鬱然と塚のようになっていた。日光もなかへはろくろく通さぬほどであった。秋になるとそれらの実がいちじに色づいて、鳥の群れなども集まった。自然の恵みの豊かな所で、狸などの穴も、そうしたぼろうのなかが多かった。どちらも屈強な猪の隠れ場所であった。
 のた(ぬた)を打った跡にも、狩人はまた注意を怠らな.かった。猪がのたを打つのは窪合いなどの踏んでもすぐ、水の湧く湿地で、ぐしゃったれと呼んだほど、水の多いじめじめした所であった。地形からいうと沢谷の奥の行、詰りであった。あるとき村のねぶつぶの山で跡を見たことがある。子どものときで判然記憶せぬが、なんでも一ヵ所ひどくこね返して、田植えの植え代《しろ》を掻いたようになって、上に澄んだ水が溜まっていたと思う。そのおり聞いた話だったが、猪はからだがほてってほてって仕かたがないので、ときおりきてはからだを漬けるという。
 山の窪中には、猪がのたを打ちかけた跡というのがあった。両方から谷が迫ったなかの、わずかに径を通じた所などで、ちょっと進むこともできぬほどに踏み荒らして、肢跡の一つ一つに水があふれていた。まだ昨夜出たばかりだに、そこいらに猪がいるなどというた。肢跡は、蹄の先が尖ったものほど若猪で、円みが深いほど古猪という。
 あるいはまた山のつるねなどの平坦な草刈り場を畑のように掘り返した跡があった。ミミズや地虫を捜したのであるが、シャベルででもやったように、一塊りずっ土が穿ってあった。そうかと思うと、木の根を掘り石を分けて、自然薯を掘った。せっかく秋に目標のムギを播いておいたに、猪の奴に先をこされたなどと、自然薯掘りが口惜しがっていた。山のクリなどもそうであった。猪の荒らした後には、ほとんど一つとして残ってはいなかった。ことごとく落ち葉を分けて捜し出してしまう。ときたまあったと思えば、なかの実だけがうまくえぐり取ってあった。
 昔は床下のこっとう(地虫の類にて多くはセミの幼虫)まで掘りにぎたという。朝起ぎて見たら背戸口にえらい穴があけてあったなどというた。山沢に出てカニをあさり、またヘビも食ったというから、なんでもござれ食わぬものなしの猪だったのである。

一〇 猪にあった話

 猪が人の近づいたのも知らずに、大いびきで寝ていた話は、よく耳にすることである。七、八年前、アケビをとりにいって、猪にあったという女から、当時の状況を聞いたことがあった。山国とはいっても、狩人以外で、猪を目のあたり見た者は、いたって少なかったのである。村のじべっとうの山は、深い窪で底に沢が一すじ流れていた。その沢をまたいで茂ったぼろうの一つに、アケビが鈴なりに下がっていたそうである。女はカヤを押し分けて近づいて、いま一息でその下へ出られると思って、ひょいと前を見ると、カヤの葉がおそろしく寝た真ん中に、真っ黒い獣が寝ていた。はっと思ったときゴロゴロとネコのようないびきが聞こえたそうである。どんなかっこうで、どんなふうに寝ていたかも、いっさい夢中で逃げてきたというた。アケビのほうへ目を奪《と》られて、そばへゆくまで気がつかなんだだけに、驚きかたも激しかったのである。それにしても、紫色に熟れたアケビと、枯れカヤのなかに眠る猪の対照は、思いがけぬ絵であった。そのうえアケビの枝にいろいろの鳥の群れを配したなら、いちだん美しい画面がひらけたろうと思う。
 絵にはならなんだが、つぎの話も数尺の距離から猪を観察した、耳新しい実験談である。
 村の某の男であった。鳳来寺村|分垂《ぶんだれ》の山中で、一人炭を焼いていると、午《ひる》すぎごろとも思うじぶん、なにやら近くのシダを押し分けて山を下ってくるものがあった。木のまからそっとすかしてみると、いましも一頭の大猪が、静かに炭竈のほうへ近づきつつあったという。とっさのことで、逃げるまも隠れる隙もない、飛びかかったらそれまで力のかぎり打とうと肚をすえて、炭木をかたく握っていたそうである。しかし猪は男を見てもかくべつ驚いたようすもなく、静かに炭竃のそばを通り抜けて、下へ向けて下っていったという。事実はただこれだけであったが、某の説明によるとその猪が劫をへた恐ろしい古猪だった。毛並みは灰ぼ色がほとんど白くなって、背から胸へかけて、マツやにでも塗っているらしく、さわりてはみなんだが、かちかちとまるで岩をかぶったようであったという。なんだか講談に出てくるヒヒのようで、にわかに信じがたい気もされるが、実験者はかたく信じて疑わなんだ。猪がマツやにを塗る話は他にもある。しかもこの話には、その猪をただものでなくするに十分な傍証もからんでいた。数日前からそっちこっちの山で、幾組もの狩人を悩まして、弾丸《たま》を三つ四つ食っていながら、どうしてもとることのできぬ出没自在の古猪であった。多くの点がそれに符合していたのである。
 その後、その猪はいかにしたか消息はついに聞かなんだが、おそらく撃たれたにしても、ただの殺されかたはしなかったであろう。いっぽう話のほうは、実験者が平素無口な実直者だっただけ、そのまま信じられて、しだいにマツやにのような箔を付けて、ながく語り伝えられるであろう。
 山深い土地に住んで、猪とは絶えず交渉をもった人たちでも、冷静な態度で観察していた者はいたって少なかった。自然のままの存在には、かつがれてゆく骸などとは異なって、威厳というのか、とにかく犯しがたいあるものを備えていたことは事実である。そのためか多くは見た目以上に、語ろうとした点もあったろうと思う。狩人の多くがすでにそうであった。

一一 猪狩りの笑い話

 現に自分の知っている一人だが、はじめて猪狩りの勢子《せこ》になったとき、猪が恐ろしくて大しくじりをやった話を、なんべんとなく語った男がある。話のすじはこうであった。狩り場に着いてただ一人になると、猪がわがほうへばかりくるように思えて、心配でならなんだ。やがてのこと隣の窪でドンと一発筒音が響いて、ホーッと矢声がした。それを聞くと急に恐ろしくなって、夢中でそばのクリの木へ駆け上って、くるかくるかと下ばかりのぞいていた。猪を撃つなどの気持はとっくにどこかへ飛んでしまった。するとまたもや近くで一発筒音がしたが、それと同時にすぐ後ろのぼろうから、ドサドサとえらい地響きをたててなにやらおどり出したものがある。それに驚いてびっくり飛び上がった拍子に足を踏みはずして、根元へしたたか突っこけた、ちょうどそこへ一方を追われた猪が落ち延びてきて、男を尻目にかけて、ゆうゆうつるねへ向けて走り去った。はじめ地響きをたてておどり出したのは、じつはそこに眠っていた子猪たちが、筒音に驚いて逃げ出したところだった。おかげで腰骨を打ったうえ、仲間には笑われたり怒られたりして、猪追いにはもうこりごりしたというのである。
 自慢話などと異なって、当の本人の失敗談だけに、聞く者の興味はふかかったが、じつは同じ類の話を、ほかでも聞いたことがあった。あるいは臆病者の猪狩りに、付いて回った笑話の一つであったかもしれぬ。自分が初めて聞いたときの記憶では、まだ年がいかなかったためか、十分おかしみがのみこめなくて、かえってそばにいた大どもたちがゲラゲラ笑っていたものである。
 男の名は鈴木戸作というて、本業は木挽きだった。元来話ずきの男で、また話の材料をふしぎなほどたくさんもっていた。自分の家で普請のときには、前後百日余りも泊まって仕事をしていたが、その間、いくらでも新しい話があった。この話なども、話の合いまに、おもしろおかしく聞かせた一つであった。
 男もよし腕もよし、そのうえ愛想がよくてどうした因果だうなどと、自身でもいうていたほどで、そのころもう四十五、六であったが、女房ももたず、近間の村から村を渡り歩いていた。よくよくののんき者さなどと、陰で笑っていた者もあった。また戸作の嘘話かなどと、頭からけなしてしまう者もあった。仕事を頼みたいにも、どこにいるかわからぬなどというたほどで、定まった家もなかった。そのころ自分の家に古い三世相の本があって、身の上を判断してやると喜んで聞いていた。数年前郷里へ帰ったとき、何年ぶりかで途中で会ったら、丁寧な挨拶をして、あなたがいつぞや五十六になれば身が固まるというてくだすったが、おかげで家をもちましたといわれて、めんくらったことがあった。
 ごくのんきそうにみえたが、身の上を聞くとそうでもなかった。なんでも親がひどく年とってから出来た子で、兄弟たちからじゃま者にされとおして育ったというた。父親も他の兄弟たちの手まえ家におくわけにいかないで、七つか八つのじぶんに親類へ預けられた、そこで子もりをさせられながら育ったという。おれのように苦労をした者はなかったと、あんがいな話を聞かされたことがあった。
 よけいな話がながくなったが、前いったようなこっけいは、なにも戸作の嘘話ばかりではなかった。じつは多くの狩人に、共通の経験であったかと思う。ある村の物持ちの主人が、猪狩りに興味をもって、一ぺんやってみたくてたまらず、わざわざ真っ白い鹿皮のたっつけをこしらえて、凛々しい狩り装束に身を固めてみても、いざとなると猪が恐ろしくなって尻ごみして、ついただの一回も現場を踏まずに終わったなどの話は、相手が素人《しろうと》で物持ちの主人だっただけ、臆病さもいちだんと濃厚だったのである。

一二 昔の狩人

 猪の話に直接関係はなかったが、狩人の話のついでに、珍しくもない昔話を一つ付け加える。
 あるとき、ある所で独り者の狩人が、夜業に炉辺で翌日使う鉄砲|弾《だま》を、茶釜の蓋でせっせと丸めていた。すると向いの炉縁に飼いネコがちゃんとすわって、じっと手つきを見ている。弾《たま》が一つ出来上がって脇に置くたび、前肢を上げて耳の後ろから前へ一回越させた。翌朝は早く起きて、狩りにいこうとして炉の茶釜の下を焚きつけたが、ふしぎなことに前夜使ったはずの茶釜の蓋がどうしても見つからない。しかもその朝にかぎって飼いネコの姿が見えなかった。狩人はそのまま支度してまだ暗いうちに家を出た。だんだん山へはいってゆくと行く手の岩の上にあるマツの大木から、なにやら怪しい光がする。さっそく弾込めして一発狙って放したが、いっこう手ごたえがない。つぎからつぎへいくら撃っても手ごたえがなくて、とうとうありったけの弾を使って、最後の一発を放してしまうと、そのとき、はじめてなにやらチャリンと金物の落ちた音がした。怪しい光ものはまだあるので、こんどは別に取っておきの弾を取り出して撃つと、はじめて手ごたえがあった。そこで岩の下へいってみると、ネコが頭を撃ち抜かれてたおれていた。よくよく見ると朝がた見えなかった飼いネコであった。しかもそばには茶釜の蓋がころがっていた。ネコが茶釜の蓋を持ち出したのである。そして前夜つくった弾だけは防いで、もう用はないと、蓋を捨てたところをいっぼう狩人は別の弾で撃ったのである。べつに黄金の弾で撃った話もある。じつはなんでもない化けネコの話であるが、ただ自分がこの話に興味があるのは、話にもあるとおり、自分らの記憶にあるころにも、狩人のなかには、茶釜の蓋で、鉄砲弾をこしらえていた者がまだあった。型に流しこんだ鉛を短く切って、それを木の根祿などでこしらえた頑固な台の上で、茶釜の蓋で押えながら、ゴロゴロ丸薬でもつくるようにやっていた。つい近所の家の主人が、それをよくやっていた。元込めの旧式な火縄銃をもっていた。先代からの狩人で、若いころには背戸の山で猪を撃ったこともあったというた。めったに狩りに出かけるようなことはなかったが、ただ鑪札だけは毎年受けておくともいうた。平素は農業熱心で、遊ぶことがなにより嫌いだというたほどの男であった。それがどうかすると、ぶらりと鉄砲をかついで山へ出かけたのである。そうして一日山を歩いてくれば気がすんだそうである。
 この男などのやっていた服装が、やはり昔の狩人そのままであった。鹿皮のたっつけを穿《は》き、背にもめんのいじこ袋を負って、腰に昔ふうの山刀を帯んでいた。さすがにもう藁の舟底などはかぶらなんだが、火縄は持っていた。他の専門の狩人は服装などもだんだん新しくなっていったが、年に一度か二度しか出ぬために、昔のままのものが、そっくり無事でいたのである。そのために、そんな大時代のふうをして狩りにも出たのである。じつは狩りとはいい条、気晴らしにいったのだから、道具などなんでもかまわなかった点もある。自分の家などにも、火縄銃が一梃あって、別に粗末な鞘《さや》に納めた山刀も一振りあった。やはり祖父の代までは、ときとして気晴らしに山へいくこともあったそうである。

一三 山の神と狩人

 狩人が猪を撃ったときは、その場で首のいかり毛を抜いて山の神にささげるのが、古くからの作法であった。その方法はまず手ごろの木を切って皮を剥《は》ぎ、先を割《さ》いて串をつくり、それに毛をはさんで立てるのである。別にその場で臓腑…を抜いてまつることもあったが、猪の場合はごくまれであった(詳しくは鹿の項に譲る)。 そのおりの唱え言などはもうなかった。ただ実直な狩人には、人にものいうごとくに、よう猪をお授けくだされたと、唱える者もあったという。
 山の神をまつることは、狩りの前にも行なった。幾日山を歩いても、さらにえものに遭遇せぬときは、いったん家に帰って、さらに出直したのである。そして山口に地を選んで、手近の常緑木《あおぎ》の小枝を二、三折り敷いて、その上に酒をそそぎかけてまつった。山の神さま猪をしなしてくだされと祈ったというが、猪狩りにかぎったことではなかった。しなしてくだされは狩人の言葉で、えものにめぐり合わせ給えの意であった。あるいはまたえものを前にしてまつることもあった。多くは巨大な古猪などの場合で、狩りの懸念されるおりであった。方法も前と変りなく、残りの酒を汲みかわして出かけたのである。
 山の神は女性であるとは、もっぱらいうたことで、山の木の葉一枚も惜しまれるというたが、あるいは一眼一本脚の大漢《おおおとこ》であるともいうた。現に鳳来寺山中で、遭遇した者もあったと聞いたが、久しい前で、しかも詳しいことは伝わらない。そうかと思うと、同じ山中で永年狩りを渡世にしていた丸山某は、数里四方にわたるという森林中をほとんどいたらぬ隈なく跋渉して、人跡まれな山中に夜を明かしたことも、幾度か量りしれぬが、ただの一度も遭遇せぬからは、昔の人の嘘だと断言した。しかもえものを取匿されることだけはあったという。何ものの所為かわからぬが、確かにたおしたにかかわらず、谷を渡って近づいてみるともう影も形もなかった。なかにはほどへてからヤマイヌなどに荒らされているのを、見出すこともある。そうかと思うと幾度も捜索して、確かになかったはずの所に、はや半分腐っているのを、後に発見することもあった。いずれにしても目の迷いなどと信じられぬ、山のふしぎは確かにあった。それで結局は山の神に隠されたとしておいたというた。同じ山の西麓、玖老勢《くろぜ》村の某の狩人は、たおした猪の行くえを求めあぐんで、諦めて帰りかけると、誰やら後ろで呼んだそうである。ふり返ってみると、全身毛だらけの大男が立っていた。もはや逃げるに逃げられずそこに立ちすくんでいると、大男はそばへ寄ってなにやら問いかける。よく聞いてみると、しきりにどこの者だとたずねるのだそうである。そうしてだんだん話すうち、じつは三十年前に家出した、同じ村の豆腐屋某の伜《せがれ》であると語ったという。その狩人にはもちろんそのことは思い出せなんだという。どうして暮らしていると聞いてみると、初めは木の実を拾ったり、木のあま皮を剥いで飢えを凌いだが、いまではなんでもとって食うという。そうしているうち、いつか体中に毛が生えてしまったと、語ったそうである。最後に別れるとき、おれに会ったことは、けっしてしゃべってくれるなというたが、その狩人が臨終のおりに、傍らの者に語ったという。そのとき見失った猪の行くえはどうだったか、その男と関係あるように思われるのに、そのことについては聞かれなんだ。
 自分に語ったのは、今年七十いくつになる老媼だった。子どものころ母から聞いたそうであるが、恐ろしいと思って、以来誰にも話さなんだというた。

一四 猪買いと狩人

 撃った猪はその場で臓腑を抜くこともないではなかったが、いったん池や沢のほとりへかつぎ出したのである。いまでもはっきり目に残っているが、日の暮れがたにガヤガヤ話し声を前ぶれにして、泥まみれになった狩人たちが、屋敷の奥の窪から出てきたことがある。なかにはからだの前半分が泥になって、びっこを引いた者もあった。そのなかに肢をしっかり棒に結わえつけられて、逆さに吊るされた猪が、二人の狩人にかつがれていった。その傍らをイヌが元気よく走っていた。一つの赤イヌは、横腹が破れて腸がすこしはみ出していた。そら猪が通るなどというて、われがちに駆け出して見たものである。
 猪の臓腑を抜いて、猪買いのくるまで水に浸けておく場所をししふてというた。村の藪下という家が、代々狩人で、谷底の日もろくろく射さぬような屋敷であった。表の端に太いカキの木が幾株もあって、その下が沢になって、ししふてがあった。自分が子どものころは、もう名称だけだったが、二方石垣で囲んだちょっとした淵で、蒼く澄んだ水の底に、鰭の紅くなったハヤが、いくつか泳いでいた。以前は日が暮れてから、松明《たいまつ》をともして狩人がガヤガヤやっていたものだという。もう五十年も前であるが、おおぜいの狩人がいつものように臓腑を抜いていると、イヌが向こう岸にいて、しきりに鼻を鳴らしていた。それを見た狩人の一人が、ホラというて、臓腑の一片を投げてやると、いつのまにきていたのか傍らのカキの枝にタカがいて、あっというまにその一片を宙にさらっていったことがあった。
 そのころは冬になると、いついっても猪の二つ三つは浸けてあった。あるとぎ村の某の狩人が、珍しい大猪を撃って、臓腑抜き三十五貫もあるのをそこに浸けておいた。それを新城の町からきた猪買いが、えらいことをやったのうといいながら、岸にしゃがんで、指頭で突っついていたそうである。そのうち後肢をつかんだと思ったら、片手でずるずるとわけもなくさげ出したには、見ていた狩人たちがいずれも魂消《たまげ》たというた。金槌という力士上がりの男で、江戸の本場所で三段目まで取り上げた、力持ちで評判者であったそうだ。
 そのころは、とった猪はそのまま売ってしまって、肉を食ったり、狩人が切売りするようなことはなかった。そしてえもののあった晩は、日待ちをやって、臓腑だけ煮て食ったのである。食うときには、やはり諏訪明神から迎えてきた箸を使った。前いうたししふてのそばの屋敷は、狩人たちがよく集まる場所だった。そこで日待ちをやって、臓腑を煮たのである。そんなわけかして、なにかと人出入りが多くて、いついっても、一人や二人はきっと遊んでいたという。
 狩人が猪の臓腑を抜くとき、第一に目ざしたのは、その胆であった。ししのいというて、万病に霊能あるというたのである。村でも物持ちといわれるほどの家では、かならず買って貯えてあった。狩人自身ももっていた。糸で結わえて陰干しにしておいて、小刻みに刻んで売ったのである。しかし多くは肉といっしょに、猪買いの手に買われていった。どこに需要があったか知らぬが、ときとすると肉全部よりも一個の胆のほうが高く売れたそうである。明治になって後でも、胆が一つ七十五銭で、かんじんの猪の骸は二十五銭ぐらいにしかならぬこともあったという。
 これは珍しいといわれるような大猪の胆であれば、物持ちへでももちこんで、米の三俵や五俵に代えるのはわけはなかったと、狩人の一人はいうていた。いま考えると、嘘のような話である。

一五 猪の胆

 つい近ごろのことである。水力発電所の用水路へ、開設初めの年に、猪がいくつも落ちたことがあった。朝になって水門口に掛かっているのを拾った。そのたびに所員たちが肉を取って食ったり人にやったりしてしまった。なかに一人土地から出た者がいた。もちろん肉の分けまえも取ったが、そっと胆を取って、これだけは一人占めにした。舎宅の縁側の庇に吊るしておいて、子どもが腹が痛むなどというと、すこしずつ刻んで飲ませたという。そのためその一軒だけは、他の連中がそろって下痢をやったさいにも、医者にもかからずにしまったそうである。あるとき所員の一人がそこへ遊びにきて、座敷に寝ころんで世間話をしていた。仰向いているうち、庇に吊るした黒い干《ひ》からびたものを発見した。これは全体なんだというようなことから、だんだんわけを話すと、ひどく口惜しがったそうである。
 万病の霊薬といい条、実際効験のあったのは、腹痛ぐらいであるともいうた。いまから考えると、明治三十六、七年ごろは、猪の胆に対する一般の信望が、近在の医者殿よりはるかにうえであった。急病人の話などでも、第一に聞くのは、猪の胆を飲ましたかなどという、急きこんだ言葉であった。
 あるときキノコの毒にあてられた男が、座敷中をころがって苦しんだすえ、ようよう静かになったと思ったら、こんどはかたく歯を食い締めて、はや応答もないようになった。それを釘抜きの柄で歯をこじあけて、水に浮かせた蒼黒い塊を注ぎこんでやると、たちまち正気づいたというた。あるいはまた二日二晩苦しみとおしたうえ、えらい熱で、どうやらあぶないようだと、急に夜中になって身寄りへ飛脚を出した。それとちょうど一足違いに、猪の胆を持って駆けつけた者があった。急いでそれを飲ませると、飛脚の者が村端れの峠へ、差しかかったかと思うじぶんに、はや恐ろしい下痢がきて、そのままけろりとらくになったという。このようすでは飛脚もいるまいと、あわてて飛脚を呼び返す二度めの飛脚を出した。そうして夜のしらじら明けには、その飛脚衆がそろって.笑いながら帰ってきたなどというた。
 山国のことで、猪の胆などいかほどでも手にはいりそうに思えるが、以前の村の生活では、あっても手に入れることは容易でなかった。まして平常から貯えておくなどは、物持ちとうたわれる者かなんぞでないかぎり、かなわぬこととしてあった。容易に手にはいらぬだけ、それだけ霊能高いとしたのである。
 自分の知っているある女は、深夜に狩人の家をたたき起こして、わずかばかり紙にひねって渡されたのを、しっかり掌のうちに握り締めて、山路二十町を一飛びに飛んで帰ったことがあったそうだ。ちょうど五月田植えの真っ最中で、明日は植え代を掻くというその晩がたに、にわかに亭主が腹を病み出した。さんざん呻き苦しむのを介抱しながら、いろいろ仕事の手順を考えてみた。明口植え代が掻けぬとなると、あとの順が狂ってしまう、こりゃどうしても、朝までには快くせにゃならぬと、覚悟を決めた。病人のすこし静まるのを待って、隣村の狩人の家へ飛んでいった。そうして猪の胆を手に入れてきて、病人の枕元にすわって、手塩に浮かせた黒い小さな塊を、うやうやしくおしいただいたときの心持は、忘れ、てはもったいないほど、ありがたかったという。
 しかし後になって、その代を払うには、他人に話されもせぬほど、えらい難儀をしたというた。わずか七十五銭の金だったそうである。それを支払うのに隣村の大海まで背負っていって、一把二銭何厘に売った薪《もや》の代を積んだ金ですませた。他人のまだ寝ているうちに、荷ごしらえしては背負ったという。夏じゅうかかってやっとまとめたが、男はよもやそんなことは知るまいと口惜しがっていた。

一六 手負い猪に追われて

 なんというても猪の話では、猪狩りの逸話が華やかで、あった。旧幕時代から鳳来寺山三禰宜の一人で、山麓|門谷《かどや》の旧家であった平沢利右衛門という男は、六十年も前に故人であったが、いまに噂に残る狩りずきで兼ねて猪狩りの名人であった。体格もすぐれていて人がらも備わって、若いころは二十四孝の勝頼を見るようであったというからその武者ぶりも想像された。しかも剛胆この上もなかったというから、狩人には申し分ない男であった。いつも下男を供につれて狩りに出かけたそうである。そしてすこしも猪を恐れなんだ。いかな猛猪にあってもかならず撃ち止めて、かつて後ろを見せたことはなかった。これに反して供の下男はおきまりの腰抜け男であった。いつも狩りの供というと、また今日もかというては泣いたそうである。かほどの剛胆者が生涯にたった一度手負い猪に追いかけられて逃げたことがあった。しかも田圃へつづく柴山をころがるようにして逃げたというた。門谷の高徳《こうとく》の山で、巨猪を撃ち損じたときであった。下男はいち早く逃げてしまって無事だったが、いっぽう、あるじは柴山から田の脇の路を走って逃げた。それを猪はどこまでもと追いかかってきた、はや背中へ掛かりそうに迫ったとき、おりから目の前に、馬頭観音をまつったシデの大木が立っていた。それに身をかわして、やっと根元を回って逃げた。そうして人と猪と、その根元をくるくる独楽《こま》のように七回りまで回ったとは、ずいぶん激しい働きであった。そのうちどこでどう火縄の手さばきをやったか、もののみごとに後ろから一発、さすがの巨猪をたおしたという。後ろから一発はちとあやしいが、、じつは激しく回るうち尠猪を追いかけるような形勢になったというのである。どうやら壮快の域をとおりこして、話になってしまったのは惜しかった。じつはその激しい働きを、下男が遠くから見物していたのだそうである。
 家がらもよく身分も禰宜《ねぎ》であったが、生来の殺生ずきで、夏ぶんは毎晩のように、下男をつれて川へ網打ちにゆくのが仕事だったという。わが村には網を入れるほど広い川がなかった、それで山路一里半を越えて、寒峡《かんさ》川へ出かけたのである。ある晩横山の寄り木の瀬にかかったとき、岩の間に川流れ(土左衛門)が引っ掛かっているのを知らずに踏みつけたが、かくべつ驚いたようすもなかった。なんだ川流れかといいながら、二度胴中を踏んでみて、さらに川を下って網を入れた剛胆さには、さすがに下男もあきれ果てたという。
 いまに生き残っている老人たちの話によると、年をとるに従って、あまりに狩りに対する自信が強すぎて困ったという。他人がせっかく撃ったものまで、えものを見ればなんでもおれが撃ったなどと、頑張ってしようがなかったそうである。ときとすると筒音を聞いてからよちよち出かけてきて、おれが撃っておいたが、よく運んでくれたなどと、とぼけるのか、そう思いこんでいるのか、無態なことを言い出してよわったという。相手が相手だけに、泣き出しそうになった狩人もあった。そしてもうそのころは、髯も髪も真っ白いすごいような老人だったそうである。
 剛勇比類ない狩人のあった一方には、また笑話の種になるほどの弱い狩人の話もあったのである。
 鳳来寺村|玖老勢《くろぜ》の、遠山某とい鴇代官上がりの男は、大達《おおだて》の山で手負い猪にかかって、臀の肉をひどく食われて、半死半生になって、それがもとでついに命までちぢめたというた。猪が人間を食った話は信じられぬから、畢竟噛まれたとか、牙にかけられた類の話を誤り伝えたこととも思われる。明治初年のことで、平素からあまり好感をもたれない、代官上がりの武士だっただけに、ことさら興味ぶかく笑い話にされたのは気の毒でもあった。.

一七 代々の猪撃ち
   
 人品|骨《こつ》がらはあるいはどうだったか知らないが、伊那街道と鳳来寺道の追分に、代々旅人宿を営んでいた某の家の主人なども、猪狩りにかけては、平沢禰宜にまさるとも劣らぬほどの剛の者であった。シデの大木を七回りしたなどの、華やかな逸話こそなかったが、代々引きつづいた猪狩りの名うてであった。力はあくまで強く、剛情一点張りのがむしゃらで、鉄砲はあえて上手というほどでなかったが、狩り場へいっても好んで難場に当たった。なんでも人並み以上のことをしないではものたりぬ性分だったという。ときおり思い出して耕作の手伝いなどをしても、力が余って、鍬をたたきこわすほうが多かったそうである。
 先代は、さらに輪をかけたがむしゃらだったそうである。冬の夜など屋敷近くでヤマイヌがほえたりすると、いかな深夜でもむっくり起きて、ません棒をとって、暗がりを追いかけたほどの無法者であった。その血を享けた男だけに、ものに恐れるなどの心持は微塵もなかったという。手負い猪を谷底へ突き飛ばして、殺した話があるほどだから、たいていは想像された。いまでも当時を知っている者はことごとくそういうた。村の宮淵の橋普請のおり、二丈幾尺の巨大な橋桁《はしげた》が崖に落ちかかって、あぶないあぶないと大混乱の最中、上から鳶口《とびぐち》を一つ打ちこんで、おれ一人で押えているから全部下へ回って足場を組めと頑張った。そのときばかりは、ばかとも無法者ともいいようはなかったという。しかしながら近郷の狩人たちが、手ごわい猪に出あったたび、酒を買って山の神をまつるいっぼう、かならずこの男のもとへ応援を頼みにいったというから、見かけ倒しの剛勇ではなかったのである。
 亡《な》くなったのはまだ昔でもない明治初年で、働き盛りの年だったというた。山が生んだ最後の人とでもいうような、特異な性格が災いして、晩年の家庭はじつをいうと悲惨であった。ふとした気まぐれから、子どもまであった女房を去らせてしまった。そしてどこやらの町からなじみの女を身請けして連れてきたが、それがまた無類の悪女だったそうである。毎日酒をあおって寝ていることと、子どもをせっかんするほかには能がなかった。しかも後になって、明日の命もしれぬ夫を、空屋同然になった家に残して、跡をくらましたそうである。そのときばかりはさすが剛情我慢な男も、口惜し涙を流して過ちを悔いたという。
 二人の男の子があって、いずれも父の血を継いで、臂力はおそろしく強かった。ただ幼いころからひどい艱難のなかに育ったせいか、背はすこしも伸びなんだ。兄のほうは先祖のあとを継いで、以前の屋敷跡に、名ばかりの家を構えていたのも悲しかった。弟はもの心つくころから、村の寺へ弟子にやられたそうである。その間になにかのことから生みの親の居所を耳にして、わずか数え.年十二だったというに、沙弥の着る衣一枚着たまま寺を.抜け出して、どこをどう聞いていったか、三河から甲斐の鰍《かじか》沢へ、母を慕っていったそうである。それからえらい艱難にあった話も聞いた。
 これが猪狩りの名うての家の末路と思うと情けなかった。いまではもう夢のような昔語りになってしまった。当年のいたいけな兄のほうも、はや頭に霜をいただくほどになった。そうして自分の知るかぎりでは、いまに昔ながらの山刀を、もち伝えている。

一八 ふしぎな狩人

 山で狩りなどしていた者のなかには、平地の人々の想像もおよばぬような、ふしぎな官能や経験をもった人物があった。つい近ごろ聞いた話などもその一つである。じつは不猟つづきによわりこんだ狩人たちが、どこからか聞き出して頼みこんできたのが最初で、評判になったというた。まだ四十台のからだの小締りに締まったというほか、かくべつ見たところ変わってもいなかった。ただふしぎなことは、山へはいったと思うと、猪のいるいないがすぐわかったそうである。
 鼻で嗅ぎ出すのだろうともいうたが、話のようすではそればかりでもないようだ。それについて、自分の知っている狩人の一人がいうたことがあった。猪のあとを求めてシダを分けていくときなど、いまのさぎ猪が通ったというようなことが、ふっと胸に浮かぶがほとんど間違いなかったという。そうした官能の働きか、所在を知ることは驚くほど的確だったそうである。しかも山を跋渉することの自由自在で、すこしも倦むことを知らぬには、いっしょに狩りをした者がいずれも舌を巻いたという。心もち上半身を前かがみにした中腰の構えで、頭を前に出して小股に歩いてゆくようすがまことに尋常でなかった。いかな茨の下ぼろうのなかでも、たちまちくぐり抜けるには、とても真似などできなんだという。犬千代と渾名があるというから、千代なんとかの名まえらしいが、会ったわけでないから詳しいことはわからない。北|設楽《したら》郡かわてとかの者とだけは聞いた。獣のことや猟の方法など、なにからなにまで気持のよいほど知っていたそうである。狩りをすますと同時に、三日ほどいただけで、どこかへ去ってしまったという。おかげで頼んだ狩人た、ちは、思いのほかえものがあった。なんなら毎年頼みたいというたとも聞いた。あまり珍しいから、いろいろ噂を聞いてみた。
 生家は村でもかなりな家がらだそうである。そうとう教育もあって、村長くらいはできるなどというた。ただ、もって生まれた病というのか、狩りをしたり、魚をとることがすきなために、家にもいつかれないで、ほうぼうを渡り歩いているという。いたって仕事が嫌いで、宿屋を泊まり歩いていても、一間に閉じ籠もって朝から酒ばかり飲んでいた。宿銭が溜まったじぶんに、釣りの道具を持って、ふいと出ていったと思うと、晩がたにはびっくりするほど、ウナギをとってきたそうである。それで払いをすますと、またしばらくは遊んでいたという。魚に不自由な、山のなかの宿屋などでは重宝がった。ただ長くいつかぬので困るという。ウナギなど一日に三貫目もさげてきたことがあったそうだ。コイなども、どこからさげてくるかと思うほど、はやくとってきたというが、どうしてとるかなどと質問すると、ふっと無口になって、話そうとしなかったそうである。ウナギにしてもコイでも、餌で釣っていたことは確かであったという。なんだかことごとく信じられぬような点もある。
 ときとするとまだこんな人がいたのである。猪とは縁がないが、以前狂言の振付けをして、村から村を回っていた相模屋某と名乗る男なども、変わった男だった。地狂言がなくなってからは、浄珊璃を語って、村々を回っていた。もちろんそれだけでは生活ができなんだので、冬は小鳥をとり夏ぶんはウナギを釣って渡世にしていた。ウナギなどとることはじつに巧妙だったという。今日は何百目ほしいと注文すると、晩がたにはきっとそれだけの魚をさげてきたそうである。

一九 巨猪の話

 巨猪をとった話は、どんな狩人でもきまって一つぐらいはもっていた。それが申し合わせたように四十貫というたのも偶然であった。猪としては、四十貫どころがあるいは限度であったらしい。しかもその程度の猪は珍しいとはいい条、まだまだいたらしいのである。某の狩人がそういうていた。あるとき出沢《すざわ》村の入りのあてで、仲間と二人で発見した肢跡は、かつて見ぬほどの巨大さで、こんな肢をした猪だったら、ウシほどもあろうと想像して、山の神をまつるやら、応援を頼みにゆくやら、えらい騒ぎをやって、やがて撃ち止めてみたら、なるほど大きいにはちがいないが、四十貫そこそこだったという。ただ、肢の蹄が骸に似合わず大きかったそうである。そんな猪を万一取り逃がしたら、それこそ七十貫や八十貫闇の猪にたちまちなったかもしれぬ。とった猪のほうは、いちいちかついだしろものだけに、ばかばかしい誇張はなかったのである。
 鳳来寺村|行者越《ぎようじやこえ》の、丸山某は五十幾年の狩人生活の間に、ただ一人で撃ちとった猪の数は、七百頭に余るほどの剛の者だったが、四十貫を越すほどのえものは、ただの一つしかなかったという。しかしながらその一つが、六十貫に余る巨大なものだったというから、まず未聞のこととして恥ずかしくなかった。もう四十年も前のことで、細かい点はふかい記憶もなかった。ただなんとしても珍しかったことと、その猪を撃つ前日に、偶然遠くから望み見た印象だけは、いまもありあり目に残るというていた。
 ちょうど秋の末で、北設楽郡|駒立《こまだて》の奥の山へ、遊《うかれ》牝猪を撃ちに人りこんだときだったそうである。山の峰に立って、遙かに前方の谷を望むと、枯れ草がどこまでもつづいたなかを、およそ四、五十頭もあるかと思われる猪の大群が、ひとぎわすぐれた巨猪を先頭にして、いっせいに谷に:かって走りつつあった。そのうち先頭の猪がいかにも大きくて、他の猪が子猪のように見えたそうである。あまりのみごとさについ見ほれてしまったほどで、そのときほどの壮観は、あとにもさきにも見なかったという。翌日あっけなく撃ち止めた猪がじつは前日群れ猪の先頭にあったものらしく、比類ない巨猪だった。一人で黒川の村まで背負い出して、美濃の猪買いに売ったが、臓腑抜解き五十五貫あったから、六十幾貫は間違いなかったという。丸山某は異常な臂力の持主で、百貫の荷を負うていかなる険阻にも堪えたという。
 六十幾貫は、類いない巨猪のはずであったが、同じ男の語るところでは、同じ北設楽郡|古戸《ふつと》の山では、七十五貫あるいは九十貫の猪を撃ったことを、話には聞いたそうである。しかし実際見たわけではないから、真偽のほどはわからないというていた。
 はたしてそんな巨猪が、いたかどうかなんともわからぬが、北設楽郡内でも、段戸山《だんどざん》や彦坊の山のスギの植林`地には、丈余に伸びたカヤの葉陰に、多数の猪が群れ狂うているのを、山仕夢に入りこんだ杣や木挽きがよく見るというた。御料林のことで、あそこばかりは猪も放し飼いだなどと語るのを聞いたことがあった。はたしてそうであるか、聞こう聞こうと思いながら、ついにそのおりもない。
 巨猪ではないが、猪の一属に、シラミ猪というのがあって、からだいちめんシラミのたかったものがあるという。肉は臭くて食べられぬというた。はたしてそんな猪がいるか、これもまだ確かめる機会がない。

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