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緒方竹虎『人間中野正剛』「彼と英雄主義──精彩を放つ人物論」

彼と英雄主義──精彩を放つ人物論
  「西郷南洲」
  「大塩平八郎を憶う」
  「進藤喜平太翁」
  「太閤秀古」
  「戦時宰相論」


彼と英雄主義
    精彩を放つ人物論
 中野君の一生は、修道者の一生であった。人生字を知るは憂患の初めといわれる。彼は政治を志したけれども、力を獲ることよりは義に合わんことを求め、そのため現実の政治家としては決して成功ではなかった。修道者である中野君は政治トの岐路に立つごとに、読書尚友、東西古今の英雄豪傑と語って自らの反省の資にしようとした。したがって彼の文章には人物論が多く、人を論ずる時に彼の文気はもっとも精彩を発した。多い彼の人物論のうち、私は「西郷南洲」、「大塩中斎を憶う」および「進藤喜平太翁」を好む。

 「西郷南洲」
   私の少年時代と南洲
 諸君、今日は維新第一の英雄西郷南洲先生の五十年記念祭典を行わるるに際し、偶然にも愛国青年会鹿児島支部の大会に聘せられ、ここに南洲翁に対する私の感慨を述ぶる機会を与えられたことを仕合せに思うのであります。私の郷里は同じ九州の筑前福岡でありますが、福岡の旧士族も多数十年戦争に呼応して起ちましたくらいで、私の少年時代から我が郷党の間には南洲翁崇拝家がずいぶん多かったのであります。たしか五月十日であったかと記憶しておりますが、その日には毎年十年戦役戦歿者の招魂祭が行われました。もちろんそれは十年役に出征した官軍戦死者の霊を祀るのでありますから、我々はそれを官軍の招魂祭と呼びました。これに対抗して民間の有志では、賊軍に投じて戦死した旧士族戦歿者の霊を祀るために、別個の招魂祭を催し、暗にその意気を示したものであります。官軍の招魂祭には学校は定休となって一同参拝しましたが、民間の招魂祭には、有志家を父兄とか知るべとかにもつ子弟達のみがこれに参拝する機会を得たのであります。しかるになぜか私ども少年の心は妙にこの賊の招魂祭に心曳かれ、維新の英雄大西郷とともに死せし先輩の招魂祭を「賊の招魂祭」として、日陰者のように取扱わるるのを心外に感じたのであります。実際大西郷の無邪気な九州少年に与うる感懐は、官賊の境を超越して、ヒシヒシと迫り来るものがあったのであります。

  南洲を生んだ環境

 左様の機縁からして、私は中学時代にもしきりに南洲翁の伝記を読み、また南洲翁が青年時代に愛読せられたという『伝習録』(王陽明∵や、『洗心洞剳記』(大塩平八郎著)や『言志録』(佐藤一斎著)やを半解のまま心を潜めて味わうてみたものであります。そこで一応鹿児島を訪い、城山に登り、岩崎谷を尋ね、かつまた「我家の松籟塵縁を洗う」と南洲翁自身が歌われた退耕の隠宅を見て昔を偲びたいということは、私の久しく切なる願いであったのであります。かようのわけでありますから、十余年前初めてこの地に遊び、浄光妙寺の南洲墓下に立ち、塁々たる若殿原の墓石の間を低徊し、錦江湾を俯瞰し、桜島を仰望した時の感慨は今に忘るることが出来ないのであります。私は少年時代「勝てばこれ官軍、敗くればこれ賊」などという詩を放吟し、ひたすら豪快勇壮なる薩摩隼人を想像しておりましたが、あの城山から見下した一帯の風景は何とシットリした穏かさでしょう。絵のごとく浮び出でたる桜島、その麓を洗う錦江湾の静かな波、遥かに霞む大隅の山々、その風光に少しの覇気もなく、全く温潤含蓄そのものであって、ただ何となく奥床しさと懐かしさを感ずるのであります。英雄の出ずる所地勢よしと言い、人傑地霊というがごとく、英傑は環境を象徴して現わるるものとすれば、南洲翁の本質は稜々《りようりよう》たる気骨とか豪放|磊落《らいらく》とかいう所謂東洋流の志士豪傑の風よりは、いかにも奥深く、いかにも手厚き、渾然たる偉材であったことが首肯《うなず》かるるのであります。こんな考えを懐きながら鹿児島県下を遊説《ゆうぜい》して歩いたことがありますが、私の接したる限りの気分では、所謂薩摩隼人は決して荒くれ男ではありません。はなはだ鄭重で、はなはだ謙遜で、至るところ礼儀の郷《きよう》に入るの感を懐かせられたのであります。しかるに偶然にも遊説の途中、一夜暴風に遇ったことがあるのでありますが、太平洋の彼方から錦江湾をまくし立て、薩南一帯を荒れ狂うた彼の風勢の物凄かったこと私の記憶には未だ他に経験せざるほどの激しさでありました。もとより屋根は飛び、垣は倒れ、私の宿所付近も惨憺たる大被害がありました。承わりますると、かくのごとき暴風は数年に一度くらい、しばしば吹き起るものだそうでありまして、この温潤鄭重なる薩摩隼人が、猛り立ちたる時の勢いを想見せしめたのであります。
 薩南の風光は穏かであります。しかれども平静のうちに活気を蔵しております。筑前の勤王家平野国臣は、「我胸のもゆる思いにくらぶれば、煙は淡《うす》し桜島山」と詠じましたが、その桜島が大正三年に爆破して大荒れに荒れたように、明治維新にも十年戦争にも、薩南の健児が一たび手に唾して起てば、疾風迅雷のごとく他の追随を許さざるものがあったのであります。すなわち薩摩の自然は人に哲学的思索と、詩的感激とを与えます。琵琶を弾じ、天|吹《すい》を奏し、詩を吟じ、柴笛をふく薩摩人は実に一面において天成の詩人であります。南洲翁は実に彼の重厚なる人格の裏に、かくのごとき熱と情緒とを過分に有していた一大巨人であります。
 一面において薩南の自然に陶冶せられた南洲翁の人格は、また他の一面において歴史に感化せられ、境遇に鍛練せられたものであります。三百年前の藩主島津義弘公が、関ヶ原の戦いに戦陣を突破して退却した猛勇は、もとより三州健児の修養に多大の感化を与えたことと思われますが、西郷南洲翁が江戸城を受取った時の風貌が、九州征伐当時の豊臣秀吉が応対振りに似ているのも偶然でないかも知れません。しかして日薩隅の地は琉球との交通を便りにシナの形勢が窺われ、新たに開通した肥薩海岸線一帯を洗うの浪は、シナ揚子江の水と相通じているのであります。かの幕末に際し各雄藩中幾多の名主があった中に、薩の斉彬公が遥かに傑出し、世界の形勢に通暁せられていたのも、所以《ゆえ》ありと見ねばなりません。しかして南洲翁は実にこの名君斉彬公の抜擢《ばつてき》を被り、その啓蒙を受けたのであります。
 かくのごとぎ自然、かくのごとき歴史、かくのごとき環境より生じた南洲翁は、深沈闊大、哲人にして英雄、思想家にして行動家、しかもその行動を飛躍せしむる情熱を深き思想の源泉に汲む底の人であったのであります。私は我が国の英雄中、思想の背景を有し、哲人的風格を有する点において、南洲翁は独特の地歩を有せられ、この意義において南洲翁は現代以後にますます光輝を放つべき不朽の英雄なりと信ずる者であります。岩崎谷の洞窟をご覧になった諸君は定めてお眼に止まったでありましょう。あの途に見ゆる鉄道の隧道の上に彫みつけられた南洲翁の筆蹟は実に「敬天愛人」の四字であります。これは南洲の好んで書かれた文句でありますが、敬天愛人とは何と情趣ある文字ではありませんか。深き人間性の根柢を把握したる者でなければ、到底こんな文句は浮んで来ないのであります。そこらの維新の元勲達に書かせたら、大概「忠君愛国」の四字ぐらいで片づくるでありましょう。忠君愛国はもとより神聖であります。しかし忠君愛国の行動の主体は人間にあります。敬天愛人はこの人間性の深い所を捉えたもので、忠君愛国よりは今一つ奥の所を言っているのであります。南洲翁は忠誠無類の人でありました。また愛国的情熱家でありました。しかしながらその一身を挺して忠君愛国の大任に当るべき自己の修養は、奥深い人間性に尋ね入っているので、そこに敬天愛人というゆかしい音色が出て来るのであります。孔孟の道でも、耶蘇の教えでも、現代の人格教育でも、極地まで推し究め、精髄まで煎じつめると、やはり純真なる人間性の涵養となり、そこに敬天愛人という第一次的の声音が出て来ると思います。しかしてこの純な敬虔な人間性が、発して忠となり、孝となり、愛国となり、殉難の精神となると思います。孝は百行の基と言いますが、人間は生れて母の襁褓《きようほ》の中に長じ、母の次に父という順序にまず父母の恩愛を受くるものであります。ここにおいてか、純真なる人の子の性情は、父母を対象としてまず孝となりて現われ、逐次にその接するところの環境に伴いて兄弟姉妹の親しみとなり、朋友の信となり、男女の愛となり、忠君となり、愛国となるわけで、人間純情の発露なる順序よりして、孝は百行の基なりというたものと思われます。ここにおいてか教育修養の根柢を人間性の純美を尽す点におきますと、その人の主体がちゃんと完成するので、すなわち運用の妙は一身に存し、忠君愛国、義勇奉公、時に応じ、境遇につれて、活撥撥地の活用となし得る次第であります。英国の教育において Be honorable ということを非常に尊重しますが、それは良心に問いて愧《は》じざる人たれという意味(さらに深長)でありまして、これをゼンツルマンたり愛国者たるの前提としているのであります。我が国徳川幕府の時代に及び、唯一の学問たる儒学までが、学問そのものの神聖を失って、覇者の政権に隷属《れいそく》するに至ってから、格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下という肝腎の大学の教えまでも、中途半端に止めさせて、そこに致知格物の大信念に燃ゆるあたわず、また、治国平天下の経綸に突進するあたわざる一寸法師のような人間を養成し、時の政権と組織とに柔順なることのみを忠君愛国なりと教え込むようになりました。これがため折角の武士道をして天地の間に跼蹐《きよくせき》せしめたことは、我が国民性の陶冶上一大欠陥であったと見ねばなりません。南洲先生は天成の偉材、この塁壁を蹴破って、驀地《まつしぐら》に聖賢の心境に突入し、敬天愛人という人間性の奥底から発する純なる音じめを出しながら、独り群雄の間に闊歩しておらるるのは、実に痛快の至りであります。明治維新は封建政治の打破でありますが、南洲翁の心境はこれに先立ち封建時代の思想的拘束を脱却し去っていたのであります。

  南洲と陽明学

 俗に南洲翁をして、活溌撥地、十万|無碾《むいん》の英雄的行動を自在ならしめた思想的背景は王陽明学の修養に因《よ》ると説かれております。私も少年時代南洲翁の読まれた『伝習録』や、『洗心洞剳記』や『言志録』やを半齧りなりに味わうてみましたが、『伝習録』はご承知のとおり王陽明と門人との対話であり、『洗心洞剳記』は陽明学派の侠儒大塩平八郎の著書であり、『言志録』は縛られぬ程度に社会主義を講じてみようという態度の佐藤一斎の語録であり、いかにも少年時代の私どもを感奮興起せしめたものであります。しかしながら要するに薬に譬えれば草根木皮中の劇薬で、今日では麻睡剤でも注射薬でも、はるかに激烈なものがあるように、現代東西の名著に親しみ得らるる諸君から見れば、これに限るというほどの書物でもないかと思われます。しかし美食に慣れない前の人間には粗食でも栄養となるように、南洲翁にはああいう書物が非常に利目があったかも知れません。南洲翁は少年の時の風貌でも子供喧嘩の仕振りでも、藩公の世嗣の争いに立ち入られた態度でも、陽明派の書物など読めない時代から、挺身難に当ることがその志であって、活撥撥地、檻を蹴破って脱出するはその天来の風格であったかと思われます。かくのごとき天稟を磨く王陽明学派の修養が大いに力あったということは、間違いなき事実かも知れません。朱子学を悪く修めた奴は文天祥の声色など使いたがって、ヒステリイのようになりますが、王陽明の方に変にかぶれると酔っぼらいみたような者になってしまうのであります。読む書物よりも心の把りようでありましょうが、心の把りようはその生れつきと環境とに因《よ》るかも知れません。
 かく「南洲翁を論じて陽明学に及ぶ」という風に大上段に構えると、私がひとかどの陽明学者のように聞えるかも知れませんが、私はわずかばかり読んだ書物の内容も大抵忘れておりますし、また必ずしも記憶していなければならぬとも思いません。ただその心持だけを語ってみようと思います。南洲翁を偲びながら王陽明のどんな句が頭の中に浮んで来ますかと申しますと、まず、「知はこれ行の主意、行はこれ知の工夫、知はこれ行の始、行はこれ知の成る也」とか、また「理の発見見るべきものこれを文と謂い、文の隠微見るべきものこれを理と謂う……博文は、即ちこれ精、約礼は即ちこれ一」とか、「虚文|勝《まさ》りて実行衰う」とか、「博文はこれ約礼の工夫、惟精はこれ惟一の工夫」とかいうような文句であります。これは『伝習録』の首《はじ》めの方にある文句でありますが、これらの文字はシナ明朝時代の俗諺で、孔孟の古典を引用してあるので、ちょっと解りにくいかも知れませぬが、要するにいろいろ物を知るのは、その肝腎要の所を突きつめて、直ちに行動に移るためであると言い、良知の明鏡に照らして理義を窮め尽せば、遂に満腔の情熱を傾けて蹶起せねばならなくなると言い、花やかな言論文章も、雑多な知識も、要点を外れ、急所を煎じつめておらぬとかえって邪魔物だというようなことを、非常に含蓄の多い字句で言い表わしたものであります。しからばその大切な要点、即ち行動を支配する原則的大知をどこに求めるかというと、「天理は即ちこれ明徳、窮理は即ちこれ明徳を明らかにするなり」というふうに解釈しております。そこで天地間自然の理は人間の明徳の中に備わり、本然の明徳即ち良知良能を磨き清めて、その至上命令に服することがすなわち天理に合する所以であるという風に解釈してしまうと、自分だけで信じている良心の当て推量を行動の標準にしてよいという風に間違って参りますが、そこに反求篤信といい、動静一如、事上錬磨といい、涵養触発といい、精々自己に愧じざるがごとく工夫錬磨すべきを説き、よい加減の自己陶酔を許さぬことになっております。要するに南洲翁はこんな風に王陽明の言説に心身を打込んで修養せられたであろうことは想像に難くない次第でありまして、南洲翁の性格と、言論とには大いにその趣きが現われております。
 私は南洲翁の記念品を拝観致しましたが、一入目にたつのは南洲翁の手書せられた私学校綱領であります、いわく、
 道を同じうし義相|協《したか》ふを以て暗に聚合せり故に此の理を研窮し道義に於ては一身を顧みず必ず踏行ふべき事
 王を学び民を憐むは学問の本旨、然らば此の天理を極《きわ》め人民の義務に臨みては一向
 難に当り一同の義を立つべき事
 原文は少しテニヲハか違って変な文章になっておりますが、道義に於ては一身を顧みず必ず踏み行うと言い、一向難に当り一同の義を立つべしと言い、王陽明の所謂知行合一、理気一元の工夫がちゃんとこの間に現われているのであります。南洲翁が郷党数千の健児とともに修養せんとしたところは、言わんがための言論、飾らんがための文章でなくして、博文の間より要約の心髄に到達し、支離滅裂の境を踏み越えて、簡明直截の天地に躍り入らんとするにあったのであります。南洲翁はこの痛快なる文句を単に私学校の壁に題したばかりでなく、その一生涯の行動がまさにこの通りで、月照とともに海に投ぜられたのも、鳥羽伏見の戦いに断じて一発の巨砲を放たれたのも、所謂征韓論に国を挙げて道に殉ずるの覚悟を提唱せられたのも、議破れて廟堂《びようどう》を退かれたのも、一万五千の子弟に嬰児《えいじ》のように純真な巨驅を投げ与えられたのも、みなこの一念の発動に外ならぬと思います。
 鹿児島にはずいぶん体の大きさにおいて南洲翁に匹敵し、これに伴って度量も広く、大人物として天下に名を成した人も少なくありません。しかるにこれらの大人物に比較して、著しく南洲翁が目立つところは、常に道義のために憤りを発し、身を挺して難に当るという魂の飛躍であります。普通所謂大人物といわるる人には不得要領の態度が多い。また余りに是非正邪の分界を明白にせぬことが大人物たるの修養として教えられてさえいるのであります。しかるに南洲翁は枝葉末節はともかく、根本の問題については、常に右するか左するか、最後の見解と決心とを持っておらるるのであります。鳥羽伏見の戦いぱ断じて避けないとか、廃藩置県は断じてこれを行うとか、韓国問題には断じてその衝に当るとか、ちゃんと態度が明白でありました。所謂大政治家とか大人物とかのように曖昧模糊不得要領のところがないのであります。しかしてこれを行うとか、これを断ずるとかいう時に、判断の標準を眼前の利害得失に置かず、必ず道義の鏡に照し、一途に驀進して死をもって徹底せしめんとするの趣きがあります。実に責任感の最大なるところは、死をもってこれに当らねば徹底しないわけで、この辺の覚悟が常にはっきりしているところに南洲翁の真骨頭があり、王陽明の学風が覗わるるのであります。通常南洲翁は枝葉末節に拘泥せず、大概のことは人任せにせられたと伝えられておりますが、それでも南洲翁は決してズボラで投げやりで、細事を慎まれなかったと見ることは出来ません。尋常人が眼角立て、口角泡を飛ばして相争うような問題でも、南洲翁に取りては取るに足らぬ全く無価値の問題と思わるることもありましょう。これらに対しては全く他のなすがままに抛擲《ほうてき》せられたに相違ありません。しかし普通細事において人言を容れられたというのは、細事を疎略にせられたというのでぱなく、細事を大切にされたからということが出来ます。人間の知見には限りあるもので、いかに大人物でも、瑣事末節万般の事|尽《ことこと》くを挙げて自ら裁断することは不可能であります。そこで大体を総攬《そうらん》してよく人言を容るるということは、かえって細事を鄭重に取扱う所以であります。何事にも一言なかるべからずという所謂一言居士なるものは、自己の覚束なき知見をもって、何事にも干与しようとするもので、実に瑣事末節の忽《ゆるがせ》にするべからざるを知らぬ者というが適当と思われます。
 南洲翁が不世出の人物であって、大局を誤らず、小節にぬからず、抜山倒海の志を成すに、殉難の精神をもってせられたことは、その天稟にもよりましょう。また自ら「いくたびか辛酸を経て志始めて堅し」と詠ぜられたように、死生の間に出入して体験会得せられたところもありましょう。この間において王陽明の修養が与って大いに力ありしことを想像するに難くないのであります。

  相通ずる心境

 我国において南洲翁を啓発した王陽明学の始祖は中江藤樹先生であります。藤樹先生は幼にして父を喪い、伊予の大洲で叔父さんの家に養われて教育を受けられました。その叔父さんは藩中でも有力な武士で、その家庭にはしばしぼ藩中の大身の武士達が出入して、夜更くるまで会談したこともあったそうであります。藤樹先生は幼な心に藩中お歴々の立派な侍たちが会談するからには定めし有益の話が多かろう、後学のためにもなろうと次の間から聴き耳聳てて談話を窺ったのであります。しかるに驚くべ「しこれらお歴々の武士達が話すことの卑俗、実に純真なる少年をして顰蹙《ひんしゆく》せしめずにはおかなかったのであります。そこで藤樹先生幼な心に思うよう、自分は文武の道を修めて立派な武士になりたい志願を有していた、しかるにその志の標的たる立派な武士なるものが、こんな見劣りはてたやからである。文武に出精してこんな武士になることが、抑々《そもそも》何の価値があろうかと。たまたま大学を読まるると、天子よりもって庶人に至るまで、一に身を修むるをもって本となすの一語があったのが、藤樹先生は始めて会心自覚、手の舞い足の踏む所を覚えず、男了一生の偉業は功名富貴に非ず、顕位栄達に非ず、まきに胸中|玲瓏《れいろう》の鏡を磨き、心裏清明の泉を涵養して自己の真善美を究むるにあることを悟了せられたことは、有名な話であります。この極めて平易な、極めて穏やかな発憤の中に、徳川覇府の勢威の下に卑屈していた人格の絶対権威を呼び起して、後世の英雄豪傑を蹶起せしむべぎ荘厳なる楔機を蔵していたのであります。
 藤樹先生の一念がここに定まると、もう矢も楯もたまったものでありません。ただ 一直線に聖賢の域に向って突貫し、滔々たる世の中の官位栄辱のごとき、全く眼に映らなかったのであります。藤樹先生は始め伊予の大洲侯に仕えておられたのでありますが、二十七歳にして儒臣の職を辞し去り、遠く近江国小川村に帰ってもっぼら老母に仕えられたのでありますが、その辞し去る時の遺書がすこぶる切実であります。いわく、藩侯にお仕えして書物の講釈をするのなら、天下に学者は多いから、必ずしも藤樹を要せられまい。ただ故郷にある老母にとりては、藤樹は不肖なれども一人の愛児である、この自分の他に自分に代りて母に孝養を尽し得る者はない。自分はその切実なるところにしたがって自分の道を行いたいと。これが藤樹先生が故郷に帰られた要旨であります。進むも退くも一に道の切実なるに従うので、その行動も同様ではありませんが、身を挺して道に殉ずるの一念に至っては、その根拠を同じうするものであります。
 藤樹先生が儒臣の職を辞して小川村に帰って後は、丸腰の一野人中江与右衛門であります。この一個の中江与右衛門は生計の途を立つるために小さな居酒屋を開き、自ら小売商人として働く傍ら、門前の百姓の子を集めて聖賢の途を講じたのであります。所謂門を出でずして教えを天下になすとは藤樹先生のことでありまして、場所は居酒屋の六畳の部屋、相手は門前の鼻垂れ小僧でも、藤樹先生の肺肝より流れ出ずる熱誠は、芝蘭《しらん》の幽谷に生ずるがごとく自ら四辺を薫化し去り、熊沢蕃山のごとき英傑も招かずしてその門下に慕い寄り、後世大塩中斎のごとき傲岸《こうがん》なる学者も、覚えず藤樹書院の前に涙を流して首を垂れ、その他佐久間象山、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛等、いずれも藤樹先生によりて提唱せられた日本独特の王陽明学に陶冶《とうや》せらるるに至ったことは、実徳の人を感奮興起せしむる、実にその絶大なるに驚嘆せざるを得ないのであります。
 かの西郷南洲翁は参議陸軍大将の衣冠と軍服とをかなぐり棄て、一個武村の吉之助として私学校の講堂の荒蓆の上に踞《すわ》り込んだ姿と、藤樹先生が小川村の与右衛門として、百姓の仲間に聖賢の道を講じた姿とは、形こそ異れ、共通の心境が眼の前に見えるようであります。衣冠を着けたり大小を横たえたりしている人の心には真の道念は吹ぎ込み難いのであります。藤樹先生が百姓に仕うるの心、南洲翁が薩南の健児に訴うるの心、これらは皆釈迦が乞食坊キの群に下り、孔子が子弟を伴いて陳蔡の野に飢え、耶蘇が貧民の間に説教すると同じ境地にあるものでありまして、吾人が普通選挙を唱えた根本精神もまたこの外に出でないのであります。
 藤樹先生の流風を汲みながら、経済、治水、産業の学によりて、聖賢の志を行わんとしたのは熊沢蕃山であります。蕃山は藤樹先生の門下に跪《ひざまず》いてその聖賢の心を修得したものでありますが、蕃山おもえらく、孔孟の道は仁義に尽く、人を慈しみ、百姓を憐むは仁の心であろう、しかし饑餓に迫れる百姓、親を養い得ない孝子、不遇に泣く節婦、それらは天下に充ち満ちて、とても一人一人に慈しみ憐みても、これを救済することは覚束ない。その由て来る所以を察すれば、幕府と諸侯との政治が宜しくないからである。おれの仕事は貧乏人に銭をくれてやることでない、幼児の頭を撫でてやることでもない、おれは総括的に天下を見渡して、かくのごとき幕府と諸侯との政道を正すことを仕事とせねばならぬ。経済治水産業を人民に教えて、彼らの窮乏せる環境を改善してやらねばならぬと。これが蕃山の志であって、「おれが築いた堤防がいかなる大洪水にも壊れないのは、おれの工事の一鍬ごとに、藤樹先生によりて得たる仁愛の心が彫み込まれているからである」と豪語したのは、熊沢蕃山の気宇の大なるところであります。これに反しましてもっぼら環境形勢に刺戟せられ、蕃山のごとく天下を大観するあたわず、藤樹先生の学問を、最も思い詰めた過激な形に現わして饑民のために暴動を起した者は大塩平八郎であります。蕃山は民をして饑《う》えざらしめんがために経済治水の学を講じたのでありますが、大塩は饑えたる民を黙視するのに忍びず、猛然として激発したのであります。その表現の形式は異りますが、民を憐む衷情《ちゆうじよう》に至っては一つであります。かの大塩中斎が天保の大饑饉の際、餓孳《がひよう》野に横たわるを見るに忍びず、これが救済を富豪に説きて富豪に侮辱せられ、官権に訴えて官権に迫害せられながら、なお日夜心を砕きて東奔西走し、遂に命より大切なる蔵書までも売り尽して貧民を賑わしたのは、まさしく藤樹先生の仁慈の心に促されたものであります。しかるに一夜棄児を眼前に見るに及び、その悲痛なる泣き声はすなわち、我が胸裡の泣き声であると叫び、今はよそ事に非ず、我が心これがため椀傷《わんしよう》すと称して、遂に蹶起するに至ったのは、余りに差し迫りたる行動なりとはいえ、藤樹先生が職を辞して故郷に帰ったこと、南洲翁が一万五千の子弟の前に、その一身を投げ出したことと、共通の心境がほの見ゆるではありませんか。

  南洲と海舟

 私は南洲翁五十年祭典の夜、旅館薩摩屋別荘の奥座敷で、純粋なる薩摩琵琶の唯一人者たる飯牟礼老の妙技に接することが出来ました。「墨絵」といい、「武蔵野」といい、この人の弾奏を聴いていると、戦国時代の武人に無常観を説き聴かぜて、嗔恚妄執《しんいもうしゆう》の念を去らしむるの趣きがあり、音楽もまた情操教育の一種たる所以が首肯《うなず》かれました。その「城山」の一曲に聴き入っている際、覚えず勝海舟が亡友南洲を悼むの感慨が会得せられたように感じたのであります。それ達人は大観すより語り起して、十年役の勃発を「唯身一つを打棄てて、若殿原に酬いなん」と、あっさり片づけたとごろ、西郷は朝敵となる心はなかったとか何とか、七面倒臭く南洲|贔屓《ひいき》が言い訳するに比し、遥かに垢抜けがしているのであります。「隆盛打見てほほぞ笑み、あな勇ましの人々や、亥の年以来養いし、腕の力もためしみて、心に残ることもなし、いざ諸共に塵《ちり》の世を、遁《のが》れ出でんはこの時と」の数句に至り感慨胸に迫るものがありますが、この「亥の年以来養いし」については、私はしばしば先輩から異論を聴かされたことがあります。いわく、西郷の心中は決してあんなものではない、あれでは全然謀叛を計画して子弟を教育していたようである云々と。この一句は次の二句とともに海舟が高崎正風に添刪《てんさん》を乞うた時に付け加えられたものとも伝えられていますが、私はこれを非難する人々と正反対に、これらの数句こそ偽りなき海舟翁の述懐として、大いに味わうべきものであると思います。勝海舟翁は南洲翁生前からの知己であって、その肝胆相投じたのはかの江戸城明渡しの際であったと申します。勝海舟は実に一生一代の大芝居を打った時に、南洲翁とは異る手段をとったのであります。勝海舟は錦旗を擁して江戸城に迫り来る官軍に対し、三百年来養い来った腕の力を試みずして、深く日本の大局を考え、大いに四海の形勢を察し、錦旗に抗して骨肉相争うの不可なるを覚り、はやり立つ旗本八万を慰撫して、円満に江戸城を明け渡したのであります。これがお陰で江戸の地は焦士となることを免れ、維新の大業は多くの血を流さずして成就せられたのでありますが、その立物たる勝海舟が、自己と反対の道を歩き、一万五千の子弟に一身を委ねて戦死した亡友西郷南洲に対し、何故に「亥の年以来養いし、腕の力もためしみて、心に残ることもなし」と詠嘆したでありましょうか。福沢諭吉翁はあの闊大円満の大常識家でありますが、勝海舟の江戸城明渡しに非常の不平(?)を有せられ、有名な「瘡我慢の説」を公にして勝海舟を、詰問しておられます。微かにその大意を覚えていますが、ざっと次のような主旨であります。いわく、「あなたが江戸城を明け渡されたのは、大義名分上、また日本全局の打算上、言い訳を承ればもっとも千万のことであります。しかしその説を極端に布衍《ふえん》して行きますと、非常に強大なる外国が日本を武力で威しつけることがあった時に、瘠我慢してこれと戦うよりは、頭をさげてこれに屈した方が世界の平和、人類の幸福のためになる場合があるかも知れません。しかしさようの場合、たとえ道理は叶わぬでも、力は及ぼぬでも敢然として抵抗することが日本男児の瘠我慢ではありませんか。この瘠我慢がなくなれば、世界は余り意地張りのないものになりはしませんか。錦旗を擁する薩長に尊王愛国の精神があれば、幕府方にも憚りながら自己の抱懐する尊王愛国の手段があったはずです。しかし冷静に公平に人間以上の神様の心になって、彼我の言い分を考えてみて、薩長に譲り、徳川.二百年の武も試みもせず、おめおめ城を明け渡すことが、真実の忠君愛国なりと判断して、立派に瘠我慢をお捨てになったのでありましょう。もし真にその通りなら、人間では及びもない神様のような貴方に敬服します。
しかし私の武士道はそれに肖《あや》かりたいとは思いません。貴方が旗本八万の健児を提げて、江戸城を枕に討死しておられたら、我が国の物質上の損害は大でありましょうが、武士のために気を吐き、日本人のために精神を鼓吹し、西洋諸国をしてこの民族侮るべからずと思わせたではありますまいか。私には貴方のお気持は想像がつきかねる。どうか飾らないほんとうのところを承りたい、この文を公開してもこ支障はありませんか」と。原文を持ち合せませぬが、大意はこんなものであったように記憶しております。これに対し勝海舟の答えもまた振るっています。いわく、「私の行動は私の方寸にある、世の批評は世人の勝手である。しかし昔から天下の高処にある大人物でなければ、学者読書人の批評に値しない、不肖の行動を貴方のような偉い学者から批評していただくことは、私も光栄の至りだ、公開も発表も一切ご随意である」と。もっと簡単なもっと含蓄のある文句できびきび答えてあるのは、さすがに海舟翁であります。南洲翁が達人なら、海舟翁もまた別個の達人であります。海舟翁は彼の幕府の逆境に処し、天下の大勢を慮り、思い悩み、考え尽して、遂に江戸城明け渡しを断行せられたことは、けだし非常の大勇を要することで、慷慨悲歌、決を一時に取る者の企て及ばないところであります。その海舟翁が非常の節を全うして、明治の昭代に伯爵となり、大臣となり、藩閥の外に居然たる一勢力をなしたのでありますが、その行蔵の跡を自ら顧みらるると、「心に残ることもなし」というさっぱりした気持にはなり得られなかったでありましょう。海舟翁の眼に映ずる旧幕臣の凋落《ちようらく》、世道人心の変化、夜|闌《たけな》わにして独り孤灯に対する時、果していかがの感慨を催されたでありましょうか。ただ身一つを打すてて若殿原に酬いなんと、潔よく城山の露と消えた亡友南洲が羨ましかったのではありますまいか。海舟は海舟の信ずるところによりて南洲と同じ行きかたはしなかった、自ら信ずることすこぶる厚きにかかわらず、「ああ亡友南洲は、あれで心に残ることもないであろう」と詠嘆せられた心持はいかがであったでしょう。

挺身難に当るの心

 私は南洲翁五卜年祭典に先だち、南洲翁に関する講演や記述はずいぶんあさりました。しかもその大部分が南洲翁が十年役に投ぜられたことを遺憾とし、贔屓の引倒し的に弁解を試みんとし、「あれは南洲翁の心事ではなかった。部下の若者らが血気にはやって、南洲翁を誤つたのだ」と。それでは南洲翁の価値は三文にもならなくなってしまいはしませんか.
 南洲翁は額一枚書かされても、敬天愛人と揮毫《きこう》する人であります。韓国問題を議論しても、国を挙げて道に殉ぜよと切論する人であります。私学校の壁に綱領を掲げても、一向難に当り、一同の義を立てよと言い、道義においては一身を顧みず必ず踏み行うべしとつき詰める人であります。その人格は薩南の大自然と幕末の大機運とに養われ、陽明学の本旨を会得して、必ず一個の大見識を出して結論に到達する人であります。彼の鍛錬せられたる一大自然児の思想は、幕府時代の御用儒学を一蹴して、堅く人間性の根柢を握りしめ、忠君愛国の大義も、これを運用するの妙は、一身の内的至上命令に置くの人物であります。しかして南洲翁は維新の革命児であります。身を挺して難に当り、時の政府の罪人となることは、少年時代からの経歴につき物であります。言い換えれば南洲翁は最初から謀叛人となりかねまじき性格の人物であります。もしそれ不穏の行動という点をあげれば、所謂征韓論の議用いられず、参議陸軍大将という要職にありながら、 擅《ほしいまま》に官を辞して故郷に帰ったことそのことが不穏であります。いわんや陸軍少将桐野利秋、同篠原国幹以下鹿児島出身の軍人らが、政治に干与すべからざる身でありながら、政治上の理由により相つれて野に下るなどということは、並大抵の不穏ではありません。さらにいわんや私学校の壁に題して、一見穏かなような文句ではあるが、一身を顧みず踏み行うとか、一向難に当るとか書きつくるに至っては血の気の盛んな若殿原が尋常では収まらぬことは解り切った道理であります。西郷は挙兵に号令せずとも、その勢いを作った責任は彼にあります。
 しかるにいよいよ子弟が蹶起するに及び、一人冷静になり澄《す》まして、おれの知ったことではない、おれのいう通りに静まらねば、おれは寺にでも入るという風に出られたなら、それではまるてシナの革命家見たようで何の妙味もないではないか。事ここに至りてすべての責任を一身に負い、綺麗さっぱり若殿原に酬いなんと出られたところ、何の説明も中訳もいらぬではありませんか。明治の元勲政府は西郷の朝鮮に対する意見に反対したが、西郷の方ではこの問題のためには身命を賭し、国を挙げて道に殉ずべきものと解釈したのであります.、そこで平常の哲学通りに命を捨てる順序まで発展して来たことについて、何の不思議もないのであります。たとえあの時に兵を挙げることは南洲翁の本意ではなかったにせよ、あの外交問題と人心一新問題で命を捨てることは、西郷南洲平生の哲学の命ずるところであったのであります。西郷はその形勢の発展につき自らその責任を感じ、少しも心に残ることはなかったろうと思います。
 浄光妙寺には南洲翁の墓を囲みて、桐野、村田以下十年役戦歿者の墓が、塁々《るいるい》として立ち並んでおります。その中には十六歳を年少とし、同姓の兄弟三人までも討死した墓石も見出されます。肥後、日向、薩摩を通じて、戦死者の墓は九千に達するとか称せられています。一個の野人西郷吉之助を中心とし、一万五千の子弟が身命を賭して蹶起し、そのうちの九千人まで枕を並べて討死するとは、実に天下の壮観であります。私はシナの革命も見て来ました。ロシアの革命の跡をも尋ねました。しかし覚悟の前で若者がこれほど花々しく死んだ例《ため》しは、不幸にして未だ見たことがありません。しかし岩崎谷の最後まで南洲翁にお供した門人子弟達が事敗れ、死に面しても、一人のこれを恨む者なく、身の負傷をも疲労をも打忘れて、先生のこのお姿がお痛ましいとて、互いに涙を催したと伝えられております。
 南洲翁はその子弟達とは反対に自分一身の進みかたで、かくも一万数千の人の子を損うたことに対し、実に忍びざるの思いがあって心で泣いておられたでありましょう。この忍びざるの心こそは幾千の子弟をして命を捧げて悔いざらしむる神秘的引力でありまして、五十年後の今日「南洲翁は謀叛する気はなかった。門人達に誤られたのだ」などいう軽薄な言葉を泉下に甘受することは、南洲翁としてどうしても出来ないところであろうと思います。現代では一婦人の愛を得れば、これとともに水に投じて悔いざる青年もあります。その説くところの恋愛至上主義も心を虚しうして承われば、かえって同情すべき点があります。しかるに南洲翁は鬼をもひしぐ血気の若者一万人に囲繞せられ、その崇敬、その愛着の的となりて、神仙のごとく死するにおいて、大丈夫の本懐これに過ぎたるはなしといわねばなりません。勝海舟翁が「腕の力もためしみて、心にかかることもなし」と羨望的嘆声を発せられたのももっとも千万であります。
 南洲翁は少年時代かち現存する秩序にとりては、常に危険なる人物であったのであります。しかしながらそれが時の権力者に危険なるにかかわらず、人間性の根本を把握するにおいて、動かすべからざるものがあったのであります。これ故にたとえ賊名を被っても、大衆の心は不思議にも南洲翁に吸い寄せられるのであります。南洲翁は常に「一人の無辜の者を殺して、天下を奪うことをなさず」ということをもって、王道の要点なりとせられました。これを積極的に言い代うれば、「一人の無辜の者を救うためには、いつなりとも一命を投げ出す」ということになりますが、南洲翁は即ちその人であったのであります。水に溺れんとする子供一人を救うがためにも、着物を脱ぎすてて素裸にならねばなりません。場合によりては自分も溺れて死ぬかも知れません。いわんや天下を導き蒼生を救わんがためには、常に一身を挺して難に当るの覚悟がなくてはなりません。
 南洲翁の道念は人間性に出発しております。故に時の権力者の方式には必ずしも合わぬことがあります。しかしながら、真に独創自発の個性を養い、闊達有為の人材を作ろうとするならば、修養の第一義をこの奥深き人間性の涵養に置かねばなりません。この個性を修めずして、単なる忠孝の声色《こわいろ》を強いると、そこに幾多の忠孝を渡世とする俳優を生じます。猿でも芝居を教ゆれば大石内蔵之助を演じます。しかしそれは畢竟人格なき猿の演劇であります、故に躍っている最中に栗一っ投ずれば、たちまち歯をむき出して本性を現わします。今日の教育は滔々としてこの弊害に流るるものではありませんか。南洲翁の五十周年祭典に際し、愛国を呼号して起てる愛国青年会諸君のために、私の偽らざる南洲観を告白した次第であります。     (昭和二年)

「大塩平八郎を憶う」

 時事日に非にして大塩中斎を憶う。全国各地の米穀騒動は、ようやく危険なる風潮を伴い来りてただに天保八年大阪の変を想見せしむるのみに止まらざるなり。今日この時天下に一人の大塩なきか。吾人は乱徒としての平八郎を慕うに非ず、誠意一徹、死をもって所信を貫くの中斎を仰ぐのみ。叛乱を企つるは尋常事に非ず、可否を論ずるは愚の極みなり。されど乱を成してなお同胞の救済主たる者あり、賊となりてなお国家の守護神たる者あり。大塩中斎のごとき、西郷南洲のごとき即ちこれなり。世人は彼らが憐むべき動機を諒とするのみならず、実にその叛逆の行為をも神聖視するに至る。ここにおいてか聊《いささ》か血性ある者が、近世史上に中斎と南洲とを得て、大いにごれを快とする所以なきに非ず。かの国法に違《たが》い、秩序を紊乱《びんらん》せるの行為は、真に忌むべし。しかれどもこわ単に国法のもとにある者が、国法に準拠して、あるいは乱臣となし、あるいは賊子となすのみ。ここに深く信じ、篤く行わんとする者あり、自ら国法以上に飄逸《ひよういつ》して、道義の天上界におり、国法に反抗し、国法に処罰せらるるを分とせば、何者かこれを罪するを得ん。その肉体は裂くべし、その生命は奪うべし、しかれども斃れて休《ゃ》まざるの所信は、遂に刀鋸鼎钁《とうきよていかく》をもってするもこれを脅かすあたわず。真にある時代の弊習は、到底合法の手段によりて救済するあたわざることあり、これらの時に際し、妖霧を排除して、世の進運を開拓するは、実にこれら国法の賊たる豪傑の士に待つこと多し。現に我が維新の志士は、旧幕府国法の賊にして、新政府国法の建設者たり。かの元勲と称せらるる者、皆この亜流に属せざるはなし。十八世紀の欧州哲学者は、つとにこの意義を学術的に叙述して、所謂「革命の自由」なる説をなせり。その大要にいわく、国法は尊重すべし、国法下にある人民は、国法の覊束を受けざるべからず、しかれども国法は人の作りしものにして、その国法を運用する者もまた人なり。故に国法必ずしも人民の実生活に適せざることあり、国法を運用する者、必ずしも立法の真意義に副わざることあり。すなわち弊害百出して、法を改め、法を執るの人を更迭せしむることあり、これを称して改革という。この改革を順調に行いて、毫も停滞するなからんか、邦家は常に安泰に、国民は常に幸福なり。しかるにある場合には、法を執るの人、私意に囚われ、権柄を用い、国民をして合法的改革を成さしめざることあり、一日現制度を維持せんか、一日人民の災難を増すの勢いを呈せばいかん。この時に当りて、人によりて作られたる国法に服せざる他の人が、慨然として蹶起し、その国法を認めず、その国法を執るの人を認めず、合法以外の手段によりて国法の改変を企つるは、当然の勢いなり。すなわちかくのごとき国法以外の改革を称して革命という。国法はもとより革命を承認せず、故に革命家は国法の眼より見て乱臣賊子なり。しかれども政治哲学は「革命の自由」なるものを承認す。この自由の犠牲者は、実に革命の志士なり、殉難の豪傑なりと。すなわち国家の罪人は、人道の愛児なり。世人が中斎を壮とし、南洲を慕うは、区々国法の小天地に跼蹐《きよくせき》して論を立つるに非ず、不知不識の間、国法以上に飄逸して道義の大天地に霊光を発する英胆毅魄に感応するを禁ぜざるなり。国法果して時世に適せざるか、執法の人果して人民の敵なるか。この判断をなす者は何人そや。これ実に政治的見識の妙用にして、何人も定義を下して規準となすを得ず、これを解決するものは、実に自由の個人なり。我れかく信ず、故にかく断行すと、これ実に革命家の心事なり。しかしてかく信ずるに到るまで演繹的に推理するあり、帰納的に結論するあり、その研究の精疎、その眼識の高低、その動機の純濁は実に革命家をして英雄たらしむるか、市井の勇夫たらしむるかを決する標準なり。大塩中斎は果していかがの人なりしか、革命的暴動を企つるに至るまで、その研究は果して精なりしか、その眼識は果して高かりしか、その動機は果して純なりしか、これ実に是非の議の別るるところなり。中斎かつて洗心洞中に学を講じていわく、
 ある人間う、子産の孔子における、仁智いかんと。いわく仁もとより及ぼず、智もまた及ぼざるなり、請うこれを論ずるに小をもってして、大をもってせざらん。子産校人をして生魚を池に蓄えしむ、これ妄《みだ》りに殺すを欲せずして、これを水に放つなり、仁に庶《ちか》し。しかも校人これを烹《に》て、反命していわく、圉々《ぎよぎよ》焉《えん》、悠然として逝くと、子産これを信ず。これ欺罔《きもう》の別ありといえど、果して智なるか。抑《そも》不智なるか。孔子の畜狗死す、これを埋むるに席をもってし、首陥せしむるなきは仁なり。それ僕隷を使わずして、高弟端木氏を使うは智なり。僕隷を使わば孔子の指令するがごとく首陥せしむるなきを知るべからざるなり。もし首陥せしめば、則但に不智なるのみならず、それ仁もまたこれがために失わる。孔子の小文における、自然に周致にして、漏らさざるなおかくのごとし。これ聖人の聖人たる所以にして、子産の及ばざるところなり。子産安んぞ仁智を尽すを得んや。もしまた仁智を尽して憾みなくば、すなわちこれまた聖なり、特に子産のみならざるなり。
(註)「首陥せしむるなき云々」狗の死骸を埋むるにその首に枕を与うるがごとくして、首の位置を保たしむるなり。狗の死骸に対してすらこれを埋むるにかくのごとき同情を払うなり。
と。大塩中斎が単に市井の勇夫を以て志とせず、仁を全うせんがために、智を究め、手段を尽すの緊要なるを認めしこと、もって看るべきなり。またいわく、
 勇者気を養いて理を明らかにせず、儒者理を明らかにして気を養わず、栄辱禍福、ただこれ趨避するのみ。理気合一、天地と徳を同じくし、陰陽と功を同じくする者、それただ聖賢か。
看るべし、中斎は市井の勇夫たるに甘んぜざるのみならず、尋常の迂儒《うじゆ》たるを屑《いさぎよ》しとせず。理と気を合一せしめて、驀地に聖賢の域に突進せんとするの勇猛心を抱きしを。
これ吾人が時事日に非にして、人心日に浮薄なるの今日、別して中斎を憶う所以なり。見よ今時において理を究めんとするの学者はこれあり、しかれども彼らは理のために理を究むるのみ、天地を貫く大至誠に立脚するに非ざるなり。したがって終始一貫せる志なるものを見るあたわざるなり。すなわち志専一ならざるが故に理義の学も根本に徹底せず、理を談ずれば則ち口頭の理となり、義を説けば、則ち筆端の義に止まるのみ。また看よ今の時において、市井の勇夫は乏しからず、しかれども彼らは単に血気のために動かさるるのみ、毫も志の師たるべき理義の究明に工夫を用いず、すなわち理義なき志はようやくにして専《もつば》らなるあたわず、志もっぱらならざるが故に気もまた餓え、遂に碌々たる窮措大となり終るのみ。かの自由民権論の勃興以後、所在に革命的活劇を演じたる壮士的政客が、今日窮するに及びて、権力者の走狗となるに至りし者、比々としてこれか適例ならざるはなし。
 大塩中斎は最初大阪の与力の家に養われて官職に従事せしも、三十七歳にして職を辞せしより以後、仁智を修め、理気を養い、聖賢をもって志となすの大勇猛心を起せり。彼が天保の饑饉に際会せる頃、学問ようやく老熟せんとし、その著書のごときすでに天下の学者をして敬服せしむるものありき。しかも彼が齢不惑を超えて乱を起して死を辞せざるに至りしは、彼が講学の疎なるに非ずして、彼が熱誠の已むを得ざるものあればなり。
 姚江の学は由来知行合一を主とし、理義一元を信条とす。ここにおいてか知は行の始めなり、行は知の成るなりと称し、真に知る者は行を併せ伴うをもって要件となす。故にその学徒は往々理義を究むるにおいて、浅薄に流るるの弊ありといえど、学者をして単刀直入、その正鵠を得しむる点において、我が旧幕の官学たりし朱子学に勝ること数等なりしとなす。同じく陽明学をもって鳴る者の間、中江藤樹は最初孝経を読みて孝において徹底せんとし、熊沢蕃山は経世の学を喜び、治国安民において徹底せんとし、大塩中斎は資性任侠、奸邪を懲し、無辜を救うにおいて徹底せんとせり。就中《なかんずく》藤樹をもって中斎に比せんか、一はこれ温厚篤実の聖人、一はこれ豪宕卓落《こうとうたくらく》の烈士、その性格全く相反するがごとくなれども、その胸中の誠意已むに已み難く、志を一にし、気を熾《さかん》にし、信ずるところに殉じて疑わざるにおいては一なり。藤樹の門人西川季格は藤樹を評していわく、「その日用行住坐臥の体を見るに、いやしくも平人の及ぶべきものに非ず、その徳容尊んで親しまずという者なし。これ実に扶桑古今第一の君子なり」と。中斎の門人の疋田竹翁は中斎の容貌を叙して曰く「大塩の容貌ですか、なかなか美男でございました。少し痩せぎすですが凜とした風采はそりゃ立派なものです、頭の髷《まげ》は短く結うてございましたが、色は白い方で、眼はあまり大きくなく、少し釣っておりましたから、少し怒りを含まれた時などは、どんなものでもびりつきました」と。もって聖人の風ある中江藤樹と、奇傑の風ある大塩中斎とを想見すべし。



 藤樹幼より伊予の大洲に長じ、大洲侯に仕う。母の故郷にある者、年ようやく老いて奉侍するものなきを悲しみ、仕を辞して帰養せんことを乞う。侯これを許さず。癸酉の元旦、たまたま皐魚《こうざよ》が伝を読み、樹欲レ静而風不レ止、子欲レ養而親不レ待の一節に至りて感慨に堪えず、詩を賦していわく、
 覊旅逢レ春遠耐レ哀。緡蛮黄鳥止二斯梅⑩樹欲レ静兮風不レ止。来者可・追帰去来と。遂に意を決していわく、大洲侯にして余がごとき庸儒を求めんとならぽ、天下あに余一人を限らん。しかるに我が母にとりて、余は不肖といえどもただ一人の子なり。求むるの最も切なるところに就きて道を全うせざるべからずと。家財一切を売却して、負債を償い、残余を老僕に恵みて後、纔《わずか》に旅費五百文を携え、官を棄て近江の小川村に帰れり。人その心事を憐まざるなし。
 大塩中斎三十七歳にして官を辞し、一意諸生を誨《おし》え、諄々として倦むところなし、学ようやく精しく教化また日に大なり。しかるに天保五年甲午以来、年|荐《しきいり》に饑え、五穀稔らず、七年|丙申《へいしん》に至りて、饑饉はなはだしく、春より夏に亘りて淫雨連天、濛濛として日輪をみざること数十日に及ぶ、秋に至りて烈風暴雨あり、収穫ほとんど絶無となる。かくて丙申の年は饑寒の中に暮れて、丁酉の春は来れり。されど春風は愁雲を払うに由なく、天下の饑饉は日にはなはだしきを加えて、道路餓死する者日に幾十百人なるを知らず。しかるに所謂豪商なる者は、貨を擁し、穀を積み、笑って餓革の野に満つるを眺め、有司らはかえって富豪らを酒色の間に相逐追して、毫も民の痛苦を顧みず。これにおいてか中斎は日夜奔走して、人民を救助せんとすれど、大阪市上、陽に中斎の熱誠に感ずる者あれど、敢て資を捐《えん》して中斎の志を成さしめんとする者なし。中斎元旦の詩にいわく、
 新衣着得祝二新年』羹餅味濃易レ下レ咽。忽憶城中多菜色の一身温袍愧干天のと。中斎ここにおいて一切人を頼むの念を去り、独力救済を企て、遂に堪えずして乱を大阪に起すに至れり。人その志を憐まざるはなし。 看よ中江藤樹と、大塩中斎と、その風幸の異ることかくのごとく、その気風の異ることかくのごとし。しかれども胸中に誠意の燃ゆるあり、発して熱情となり、金石を熔かし、鉄壁を貫くに至りては一なり。藤樹はいわく、樹欲レ静兮風不レ止。来者可レ追帰去来と。中斎はいわく、忽憶城中多二菜色』 一身温袍愧二干天一と。 一はこれ親を思うの至情なり、一はこれ民を憐むの至情なり。身大洲にありて重く藩侯に用いらるるといえども、子養わんと欲して親待たざるの一事に想到するや、矢も楯もたまらず、一意帰養に志し、他を顧みるにいとまなきはこれ中江藤樹なり。身与力の隠居として、天下学者の問に盛名を馳せ、諸生踵を接してその門に集るといえども、一朝城中に菜色多きを憶うや、一身の温袍天に愧ずるの情に堪えず。富豪に説きて得ず、書巻を売却して足らず、遂に慨然剣を按じて蹶起するに至りしは大塩中斎なり。一は孝、一は侠、その発するところの形式同じからずといえども、胸中の至誠、死に至りて徹底するところは、全くその軌を一にす。大塩中斎が大虚の解釈は、実に彼が奸邪の輩を見て赫然憤怒する所以と、可憐の窮民を見て法然襟を湿す所以と、ともにこれを立証するに足れり。いわく、
 心帰・于大虚ハ則大虚乃心也、然後当レ知三道与レ学之無二崖際一也、夫人之嘉言善行、即吾心之善、而人之醜言悪行、亦吾心中之悪也、是故聖人不レ能レ外二視之一也、斉家治国平天下、無下一不上レ存二心中之善訥無ド一不Lレ去二心中之悪訥道与レ学無二崖際一可レ見矣、或日、如二子之説ハ則悪人之罹レ刑、亦刑二聖人之心一者乎、日、然矣、是即去・吾心之悪一之道也、然而不レ得レ不レ悲也、豈亦可二歓喜一乎。日、善人之遇レ賞、亦賞二聖人之心一者乎、日、然矣、是即存二吾心之善・之道也、然而不レ得レ不レ喜也、豈可二娟嫉一乎。只娟・嫉人之善ハ歓二喜人之悪一者、以二吾心一為レ物、乃一小人、而非・聖人大虚一之心也、
またいわく、
 心帰・手大虚晶以レ容・夫下之善一、則天下之善、皆為・我有ハ山豆不赤大乎。
またいわく、
 有二血気一者、至二草木瓦石ハ視二其死ハ視二摧折ハ視二其毀壊ハ則令レ感二傷吾心ハ以.一本為・・心中物一故也。
中斎がしばしば血を咯くに至りし刻苦修養は、遂に心を大虚に帰し、大虚を心となすに至りして徹底せり。ここにおいてか森羅万象は中斎の心なり、他人の不善をなすを悪むこと、あたかも自ら不善に汚されたるがごとく、他人の奸邪を懲らさんと欲すること、あたかも自ら胸中の邪念を払わんとするがごとし。否中斎の心事は単にこれのみならず、草木瓦石に至るまで、その死するを視、その摧折《さいせつ》するを視、その毀壊するを視れぽ、あたかも自ら死するがごとく、自ら傷くがごとく、その心を感傷せしめずんば已まざるなり。いわんや眼前に人民の饑餓を見、前後に老若の叫喚を聴くをや。中斎が大虚の心霊、たちまち感傷し、たちまち悲痛し、人民を救済するに切なること、自ら飢渇《きかつ》を医するより急なるに至るぱ、多く怪しむに足らざるなり。しかるに当時の大阪奉行は跡部山城守なり。城代は土井大炊頭なり。いずれも姑息《こそく》の俗吏にして、かねて中斎の不覊を忌むのみならず、人民の痛苦に対しては、毫頭同情を有せざる冷酷の徒輩なり。最初中斎は寒を訴え餓を叫ぶ人民の窮状を黙視するに忍びず。養子格之助をして跡部山城守に説ぎ、官廩《かんりん》を開きて賑恤《しんじゆつ》ぜられんことを求む。しかるに跡部は言を左右に託して、因循決せず、ようやくにして城代土井大炊頭に聞くに及び、城代は将軍家来春の慶事、米穀を要するの多端なるを言いて、かえって米を江戸に送るの急務なるを答うるに至れり。中斎ここにおいてかさらに手段を尽し、米穀不可ならば金蔵を開き、闕所金をもって毎戸に五両を救恤せらるべしと哀願せしも、山城守は毫もこれに耳を傾けず、遂に怫然《ふつぜん》として使者格之助を叱し、席を立ちて退席するのはなはだしぎに及べり。中斎これを聞き、喟然《きぜん》として天を仰ぎ、流涕長大息していわく、一身民を安ずるの職におり、冷淡軽薄この極に至るは何事そやと。
 これより去りて富豪に同情を求めんとし、まず鴻池善右衛門を訪う。鴻池は実に船場の富豪なり。中斎が官民飢寒の惨状を語り、東組与力二十余人の世禄を抵当とし、金若干を得て、救恤の費に充てんと説くを聞き、大いに感動して約するに微力を尽さんことをもってせり。中斎衷心より歓喜して、その好意を謝するとともに、道を説き、義を語り、言々切々、声に次ぐに熱涙をもってす。鴻池ますます動かされ、遂に三井、平野以下二十余名と相議し、金額を決定して、必ず貴意に副わんと説き、数日の猶予を請えり。しかるに翌日に及び、鴻池が豪商を招待して、中斎の請いに応ぜんとするに及び、町人会議の常として、吝薔家は奇怪の辞柄を設けて、折角の美挙を破壊するに至れり。鴻池は始め豪商に会するや、いわく、己まず五千両を貸さん、諸君は請う、この挙に賛してさらに五千両を貸せ、併せて一万両を得ば平八郎に交付せんと。議まさに決せんとす。米屋平右衛門なる者あり、いわく、救恤の事たる高位の人これを行うべし、大塩先生は名士なりといえども、一の与力の隠居のみ、身分を踰《こ》え上位者を憚らず、自ら救恤せんとするがごときは不当なり、我ら町人の分際として、この非行を助け、一旦奉行所の詰責に遇わば、何の辞をもってこれに答うべき、まず奉行所の裁可を仰ぎて後貸出すも晩《おそ》からじと。衆議遂にこれに決し、跡部山城守に訴う、山城守いわく、咄々平八郎、我に請いて許されず、転じて市民を説き擅《ほしいまま》に奉行を凌がんとす、一身の私を成さんとするか、抑名《そもそも》を売らんとするか、いやしくも、奉行の許可を得ずして、大塩に金を貸す者あらば、直ちに厳罰に処せんと。
 鴻池ら大いに怖れ、状を具し書を贈りて中斎に謝す。中斎書簡を一読するや、怒気天を衝き歯を切り、眥《まなじり》を決していわく、何らの素町人ぞ、我を欺《あざむ》くのはなはだしきや、何らの奸吏ぞ、我を憎むの極まれるやと。直ちに庄司善右衛門を招きて、最後の決心をなすに至れり。果然人民の痛苦を見て、一身の痛苦となせし中斎が大虚の心霊は、ここに奸商俗吏の邪悪を見て、心中の不善を責むるより急切なる衝動を感じ、奔騰して止まざるの勢いを激ぜしなり。中斎の主願は人民を救うにあり。救済の目的を達ぜんとせること、果して智を尽せるや否や知るべからず。大阪の市街、兵火に罹る者四分の一、一部の窮民は散乱せる金穀を収めたれども、多数の人民は饑餓の難に加うるに、祝融の災をもってするに至れり。しかれども至誠は往々にして、打算の外に超越す。天地を燬き尽すの大情熱は、死に至らざれば休止せず。かの西郷南洲が笑て残骸を擲ちて子弟に報ずと称し、身朝敵となりて城山の露と消ゆるを辞せざりしがごとき、確かに大塩中斎とその心事を一にせり。王陽明はいえり、
 知者行之始、行者知之成、聖学只一箇功夫、知行不レ可三分作二両事一
と、陽明の説をもってすれば、知は行を併せて始めて全く、行わざれば未だ知れりというべからず。中斎はすでに人民の窮困を知れり。知れるが故にこれを救済せざれば、誠を尽せりというべからず。中斎が人民の窮困を目撃せるの刹那、彼は死を賭してこれを救済するの運命に逢著《ほうちやく》せるなり。もしそれ世の所謂慈善家のごとく、我はこれまで尽力し、斯々《かくかく》の苦労を忍びたり、しかし遂に目的を達するあたわざるは天なりと称し、中途にして抛棄せば、もって知行合一の学に忠なりとはいうべからず。もしそれ斃れて已むの決心なくして誠意を云々し得べくんば、誠なる楽天地は惰夫《だふ》と怯者との安宅と化し去るべし。かの西郷南洲が征韓論をもって進退を賭したる、大塩中斎が人民救済に徹底せんとして、叛逆の徒となれる、いずれも已むに已み難き至誠の発露なり。鳴呼血性男児にして姚江の学に志す者、何人か南洲の如からざる。何人か中斎の侶たらざる。至誠なること中斎のごときに至りて、足を挙ぐれば尽く王道と称するの境涯に逍遥すべく、吾人は容易に順逆の故をもってその人を是非するの料となすべからざるなり。
 しかれども吾人は決して乱徒を称揚するに非ず、ただその心術を論ずるなり。今の時、その心術より推して、その乱行を神聖化するに足る者幾人ありや。中斎が乱を企つるに至るまで、幾度か学問に鑑み、幾度か手段を尽し、煩悶懊悩の結果、遂に最後の決心をなせしものとすれば、その心事もまた悲しからずや。彼は後世より論じて社会主義的色彩を帯ぶと称せらる。しかれども今の時において社会主義の是非はすでに問題とならず。されど所謂国家社会主義的政策は列強のようやく採用するところにして、社会問題を閑却するがごとき愛国者は到底今日の世に存在すべからず、しかして大塩中斎の所謂社会主義的色彩は、彼の一身の窮困より社会を呪詛《じゆそ》して、自暴自棄的偏見を抱く者と、全くその類を異にせり。今日の所謂危険思想に流るる者、その境遇の同情すべく、心事の悲しむべきものなきに非ずといえど、彼らの大多数ぱ耽溺生活に身を持ち崩し、悲惨なる生活はますますその思想を病的ならしめ、果ては男女の道、朋友の交等に至り.て、人倫を絶するは愚か、ほとんど牛馬にすら劣るに至る。かくて世に疎んぜられ、世を罵り、遂に自己胸中の幻影をもって実社会を律せんとするぱ妄なり。彼らは烏滸《おこ》がましくも、社会組織の変更を説く、しかれども彼らは一歩現実の社会より傑出して社会の指導者たるの資格を有せざるのみならず、現実の社会にすら生存するあたわざる劣等の人格性行を備うるをいかんせん。中斎をもって彼らに比較せんか、その差ただに雲泥のみならざるなり。
 大塩家は元より決して乏しからず、中斎に至りて勤倹至らざるなく、粗食に甘んじ、悪衣を恥じず、もって家道を修む。しかれども平常人と交りて利欲に淡く、常に与うることを好みて、受くるをいさぎよしとせず。客の至るあり、什器書画の類に至るまで、いやしくもこれを賞讃するあれば喜んでこれを贈り、毫も吝むところなし。頼山陽が中斎の家に飲み、鴻雁の幅を称揚して、直ちにこれを贈られ、長句を賦して謝意を表せしがごときは、単にその一例なれども、中斎が当時の学者より受けたる幾多の手簡を閲するも、高価なる物品を無頓着に割愛して、友人を喜ばしめたものはなはだ多し。ただ学問に傾倒せしだけ、書籍を愛することはなはだしく、与力の微禄より門生の月謝に至るまで、余りあればことごとくもって書籍を購い、文庫蔵するところ五万巻の多きに上れり。中斎は平素倹素なりしも、交友を援け、微賤を愍みたるをもって、たまたま饑饉に際会して救恤を行わんとするも、瑣の余財を有せず、すなわち強いて賑わさんと欲せば、秘愛の書を売るの他なきなり。ここにおいてか書庫を傾けて民の凍餒《とうたい》に代えんと欲し、書肆河内屋善兵衛を招き、蔵書全部を市にひさがしめて六百二十五両を得たり。中斎大いに悦び、割符を配して窮民を施行所に集め、毎戸一朱を与えて、焦眉の急を救わしめたり。饑餓凍餒せる者、割符を持し、歓呼して集る者雲のごとく、日未だ全く上らざるに、早くも金額を施与し尽したり。窮民ら感激し、中斎の門前に叩頭して恩を謝する者、終夜踵を接す。奉行山城守聞て憤ることはなはだしく、大いに養子格之助を譴責す。鳴呼私財を傾け、学者第一の秘愛たる書籍を売りて貧民を救助す。しかも賞を受くるなくしてかえって罪を得、天下実にかくのごときの非法あらんや。中斎は格之助の被譴を報ずるを聴き、また憤らず、相顧みて微笑せり。父子は暗黙の間すでに意を決せしなり。一意すでに決するところ、火もまた涼し。中斎は宿昔の修養によりて仁を求め、自ら信ずるところの仁を得たり。狂となし賊となすも、彼の顧みるところに非ざるなり。



 天保八年丁酉の歳は、全国に亘りて饑饉極度に達し、京阪地方最もはなはだし。ことに京都の地は四面繞らすに山をもってするが故に、運輸の便乏しく、年の餓うるとともに地方よりの輸入ほとんど杜絶し、秋に入りて王城の大路小路、餓革の横たわる者算なく、餓死流離する者五万六千人に達せり。しかも大阪の城代は、京都に送るべき米を止めて江戸に回送し、ますます輦轂《れんこく》のもとをして、饑餓をはなはだしからしむ。ここにおいてかすでに人民の窮困に泣き、奸商俗吏の冷酷に激せられし中斎が大虚の心霊は、さらに勤王の至情に動かされて、高調勃発せざるを得ざるに至れり。
 中斎すなわち格之助にいいていわく、有司人民に薄くして、将軍に厚く、皇室を畏れずして、幕府を憚るは何事そや。覇者政柄を執ること三百年、大義を忘れて名分を紊《みだ》り、横暴抵止するところなし。吾曹《われら》平常学ぶところ何事ぞ。愛民の至情を尽し、尊王の熱誠を傾け、斃れて已むに非ずんば、これ学問の賊なりと。格之助大いに感動し、ともに義のために死せんことを請い、たちまち四十人の血判を得たり。この他士分以下百姓小前の味方、中斎に従いて死せんことを希う者八百余人と称せらる。鳴呼士風頽廃し、諸民驕奢に流れし天保の衰世、八百余人を結束して死につかしむるは容易の業に非ず。洗心洞中の講学と、躬行実践的教化とが、いかに深く人心に徹せしかを察するに難からざるなり。中斎が定めし洗心洞入学の盟誓中にいわく、「忠信を主とす、しかも聖賢の意を失うべからず、もし習俗の率い制するところとならば、学を廃し業を荒み、もって奸細淫邪に陥らん云々」と。習俗に反抗し、百川の東するに当りて、我れ独り道を重んじて西せんとするの気概想見すべきに非ずや。しかして習俗に制せられずして、かえって習俗を率い、軽薄淫靡の大阪に凜たる風霜の気を生ぜしめし者、中斎に非ざればあたわず。これを今日の不平者流が、口に万機一新を説き、文に革命的矯激の辞を並べながら、うち、寡妻を服せしむるあたわず、外、朋友を信ぜしむるあたわず、あるいは痴情の活劇を演じ、あるいは金銭上の争議を醸し、八百余人は愚か、一人の親交を有するなきに比せんか、中斎のごときは実に謀叛家中の徳行家というべきなり。
 姚江の学はある意味において、宋明の学風に反抗して起りたる英雄的心学なり。王陽明の現われし時、科学の弊風はようやく極端に達し、学者は試験に及第せんがために、模擬|剽窃《ひようせつ》をもって、形式一遍の八股文を事とし、その経学を講ずる者も、みな程朱の説を奉ずるをもって登竜の捷径なりとなし、姑息因循、官僚学の害毒ほとんど一世を糜爛《びらん》せしむるの観あり。この時に当り言論をもって滔々たる口頭筆端の徒と争わんは、蛙鳴の間に鶯声を聴かしめんとするに等しく、その煩、到底勝うべからず。ここにおいてか王陽明は躬行をもって人を率い、知行合一理気一元を信条として、高く旗幟を天下に掲げたり。かの陽明が博大昌明なる文辞、もって滔々たる模擬剽窃の俗流をして、顔色なからしめしは、これ詞章の力に非ずして、詞章の背後に存する理気の力なり、熱誠の力なり。大塩中斎の出でし時、林家の朱子学は、すでに官僚唯一の教育方針となり、これに反する者はみな幕府の迫害を受け、ことに王陽明学のごときは、寛政以後ほとんど謀叛の学なりとして、一世の権力者に蛇蝎《だかつ》視せらるるに至れり。しかるに朱子学は由来帰納的研究に類し、理路精密にして、自ら整然たる外形を具備せり。.故に庸儒といえども、これを口にし、これを筆にするにおいては、容易にこれを論破するを得ず。この時に当り大塩中斎出で、猛然として王陽明以上、孔孟をもってその志となし、理を究め気を養い、勇往直前して、儕輩を圧倒するに至れり。されば中斎が天下に盛名を馳せしは決して、詞章の末に非ずして、英雄の心をもって聖賢の域に突入せんとせし意気の致すところなり。されぼ佐藤一斎のごとき先輩は、中斎の『洗心洞剳記』を評して、「万人未発の条、一にして足らず候え共、堯舜の上善尽るなし、ことに御年齢強壮の御事、此段幾層御長進有るべきか、測るべからず御頼母敷存候」と述べ、山陽のごとき眼中人なき学者も、中斎を評すに「小陽明」をもってせしに関らず、記誦詞章をもって学問の本義とせし田中従吾軒のごときは、中斎をもって素人学者となし、傲慢にして忿《いか》り易く、話にならぬ人物と評せり。一斎と山陽、各異るところあれども、胸中一息の中斎と相通ずるあり、確かに尋常の庸儒と異るを見るべきなり。
 今日の時、学説の紛々として、帰着するところを知らざるは王陽明の現われし際のごとく、学者の気概なくして、多くは衣冠する幇間に等しきは、大塩中斎の現われし際のごとし。見よ一部の文学者流の奇怪なる、淫邪に陥りて愧じず、醜行を公にして憚らず、ただに愧じず憚らざるのみならず、かえって牽強付会し、飾るに主義云々をもってするのはなはだしきに及べり。道徳の権威なく正邪の弁別なきこと、今日のごときはなかるべし。この時に当り彼らを口頭をもって誨んは迂なり。行動によりて顔色なからしむるに如《し》かざるなり。見よ、彼らは禽獣のごとく行動す、これに対して真に神人のごとく行動する者あらば、天下は両者を比較して、いずれを仰ぐべきか。彼らは男女の倫を紊り、朋友の道を傷《そし》りて意に介せず。これに対して家庭相和し、朋友相信じ、深く養い、篤く行い、孜々として倦まざる者あらば、世人はこの両者を対照し、いずれに向いて尊敬の念を払うべきか。畢竟帰向を定むる所以のものは、空論に非ずして、誠意の力なり、意気の力なり、躬行の力なり。これ吾人が今日において、大塩中斎を憶う所以なり。中斎の意気込をもって、学を修め、門人を率い、進んで政治に従う者あらば、世人は富岳を雲霧の上に仰ぐの感をなすべきなり。



 中斎が企てし丁酉の乱は、未だ発せざるに先だちて、幕吏の知るところとなり、八百人の同勢中五百人を糾合するのみにて、大阪の焼討を試み、しばしば奉行城代の兵を破り、急に富豪の家を襲いてその金穀を途上に撒布し、洽《あまね》く窮民をしてこれを収めしめしが、衆寡遂に敵ぜず、同勢あるいは死し、あるいは散じ、中斎もまた養子格之助とともに爆薬を抱きて自ら焦死するに至れり。中斎妻なし、妾あり、子あり、家門を治むることすこぶる厳、かつて妾が中斎の家訓に背き他より櫛を贈られてこれを収むるを知るに及び、遂に髪を断ちて尼とならしめたり。もって廉潔の家風を察すべきなり。罪に座して同族尽く罰せられ、一子弓太郎後に赦されしも夭折し、中斎の家系全く絶ゆ。しかれども中斎は仁を欲して仁を得し者、自ら恨むところなかるべし。中斎がまさに乱を発せんとするや、檄を草して摂河泉三国に撒布し、細民をして大阪の巷に踏藉せらるる金穀を収めしめんとす。その富豪と奸吏とを罵れる一節、宛として後世の政商と権略家とを叙するの観あり、いわく、
 三都の内、大阪の金持共、年来諸大名へ貸つけ候利得の金銀並に扶持米を莫大に掠め取り、未曾有の有福に暮し、町人の身を以て、大名の家老用人格等に取り用いられ、又は自己の田畑新田等を夥しく所持し、何不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏れも致さず、餓死の貧人、乞食をも敢て救わず、其身は膏粱の味とて、結構の物を食い、妾宅等へ入り込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘い参り、高価の酒を湯水を飲むも同様に致し、此難渋の時節に絹服を纏い候河原者を妓女と共に迎え、平生同様に遊楽に耽り候は何等の事に候哉、紂王長夜の酒盛も同じ事、其所の奉行諸役人、手に握り居候政を以て、此の妄状を逞しうする段、決して天道聖人の御赦し叶い難き事に候。蟄居の我等、最早堪忍なり難く、湯武の勢、孔孟の徳はなけれ共、無拠天《よんどころなく》下の為と存じ、血族の禍を犯し、此度有志の者と申合せ、下民を悩まし苦しめ候諸役人を先ず誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大阪市金持の町人共を誅戮に及び可申候間、右の者共穴蔵に貯蔵候金銀銭等、諸蔵屋敷内に隠し置候俵米、夫々分散配当致し遣わし候間、摂河泉の内、田畑所持致さざる者、仮令所持致し候とも、父母妻子家内の養い方出来難き程の難渋者へは、右金米等取らせ遣わし候間、いつにても大阪市中に騒動起り候と聞伝え候わば、里数を厭わず、一刻も早く大阪へ向け馳せ参るべく候云々。
と。その富豪と奸吏とが相結託し、腐敗堕落を極むるの状、宛として当代の疑獄事件を見るがごとし。中斎がもはや堪忍なり難く、湯武の勢い、孔孟の徳はなけれどもと称し、天下のために蹶起するに至りしは、その思慮の浅きに因ると言わんよりは、むしろその熱誠の溢るるなり。今の時は中斎の時と異れり。中斎の時は凶年続きて五穀欠乏せしものなれども、今の時は曲豆年続きて、米価ますます高きなり。由来するところを究めずして、みだりに天下に所謂義挙を唱うるも、窮民は決して救わるべきに非ざるなり。思うに戦時には戦時の経済政策あり。ドイッを始めとして交戦列国が、つとにバンク・ノートの経済を改めて、物資の経済を計りしに際し、独り我帝国が単に輸出の超過、正貨の増加を喜びて、物資の欠乏、物価の騰貴を算中に置かざりしは、今日の禍いの由来する主因たり。もし仲小路農相の頑迷、小智を狭みて、輿論を顧みず、人工的小策に没頭するがごときに至りては、ほとんど跡部山城に髣髴たるものありといえども、今日帝国の食料問題は、畢竟一仲小路農相の処理し得べきに非ざるなり。大政党も過去において罪を犯せり、識者も今日まで注意を怠れり。今日は大塩中斎の熱誠をもって、熊沢蕃山の経綸を出すべき時…機に逢著せるなり。鳴呼時事日に非にして大塩を憶う。平八郎が決挙を慕うに非ずして、中斎の熱誠をもって、蕃山の経綸を行う者を渇仰するのみ。                (大正七年八月)

「進藤喜平太翁」

 布衣無冠の国士、進藤喜平太先生、七十六歳を一期として、眠るがごとく九州福岡の寓居に逝く。士林進藤喜平太の令名を伝うるや久し。ややもすれば玄洋社長の経歴に配して、その人物を髣髴に仰ぐも、その事功に至りては、挙げて数うるあるを見ず。先生は実に卓言なく、奇行なく、智名なく、勇功なく、ただ玲瓏玉のごとき純人格を横たえて、坦々たる大道を闊歩し、触るるところ尽《ことこと》く畏敬の念と欽慕の情とを贏《か》ち得しのみ。世人は未だかつて先生が叱咤呼号せしを聞かず、慷慨悲歌せしを見ず、しかれども先生を知る者は皆先生の胸裡常に慈母の温情を湛うるを知る。公事に当りては常に必ず身命を賭するの決意あるを知る。先生は真に上大の載、無色無臭にして自ら四辺を純化せるものというべきなり。
 筆者若冠にして操觚《そうこ》の事に従うの志あり、一夜斯界の先覚故池辺三山翁を訪う。三山は熊本の産、十年戦争の叛将池辺吉十郎氏の遺児にして、すこぶる乃父の風格を伝うと称せらる。応答の余、談九州の人物に及び、西郷南洲、副島種臣、江藤新平を地下に叩き、大隈重信、頭山立雲、佐々克堂、平岡浩太郎を掌上に品隲し、一介の青年をして傾聴夜の闌なるを忘れしむ。まさに辞し去らんとするに臨み、三山言を改めていわく、君の郷党もまた人傑多し、しかれども真に君子の質にして、豪傑の骨を存する者は、それ進藤喜平太氏か。交るの久しきに及びて、君もまた余が言の欺かざるを知るべきなりと。



 進藤喜平太先生は福岡藩士進藤栄助の子、嘉永四年福岡城下に生る。幼にして、高場乱子女史の門に学ぶ。高場氏は郷党の所謂人参畑の婆さんにして、一世の女豪なり。家塾を城外人参畑に開きて古学を講ず、必ずしも章句の末に拘泥せず、驀地に年少の子弟を提げて、聖賢豪傑の肺肝に迫るの概あり。浅見絅斎の「靖献遺言」は最もその愛講せしところなり。箱田六輔、頭山満、宮川太一郎等みな進藤先生とともにその門下に学ぶ。高場女史常にいわく、門生中その心事の高明にして、素練を秋水に洗うがごときは進藤なり。進藤にしてもし勇気だにあらぽ、その前途真に測るべからざるものあらんと。けだし高場女史は英邁なりといえども巾幗《きんかく》に過ぎず。進藤先生の玉質玲瓏たるを見て、未だその真勇鬼神を恐れざるを看取し得ざりしがごとし。しかるに明治十年の乱頭山立雲以下|契盟《けいめい》の志士ことごとく獄に投ぜらるるに及んでや、進藤先生の真骨頭は直ちに同志の驚嘆推服するところとなれり。始め同志の捕わるるや、拷問苛責至らざるなく、緊縛して逆釣りにし、青竹をもって乱打し、肉爛れ、眼眩み、失神するものしばしぼならんとせり。この間にありて、衒《てら》わず、怯《おび》えず、言うべきに言い、黙すべきに黙し、応答停滞なく、水際だちて決心のほどを想わしめしは進藤先生なり。頭山翁常にいわく、同志は交々《こもごも》牢屋より引き出されて、残酷なる拷問に会えり。いずれも死せるがごとくなりて、戻り来るに似ず、進藤のみは文字通り泰然自若として眉毛一線動かさず、神色毫も平常と異るなし。すなわち彼一人苛責を免れしかと疑い、試みに衣を排してその身体を検すれば、膚裂け、肉破れ、かえって最も拷問の厳しかりしを示せり云々と、かつて高場乱子女史をして、勇気だにあらばと評せしめし進藤先生はボこの時に当りて始めて勇気こそは進藤と称せらるるに至りしなり。瑣事といえどももって先生の為人《ひととなり》を想見すべきなり。
 進藤先生を仰ぎて七十六歳の高齢に至るまで、玄洋社長の任務を全うせしめし人に喜多島淳君あり。常にいわく、余今日に至るまで先生を奉じて手足の労に服す。長年月の間未だ一度も進藤先生が自己を語りしを聞かず。先生の誠実、先生の友情、先生の豪胆、みなその経歴の久しきに及びて、自ら他よりこれを推賞せしのみ。先生は実に自己の功名を説かざるのみならず、自己の貧をすら説かざるなり。これあに尋常人の企及し得るところならんやと。もし事功を挙げて先生の英名を飾らんか。慷慨激発せし玄洋社の活映画は、一として進藤先生を登場の主要人物とせざるはなし。しかれども玄洋社の壮図を挙げて、いかにこれを宣揚するも、一個進藤の純人格に対して、毫もその真価を増減するの料となすに足らず、進藤の人格は遥かに塵寰《じんかん》より飄逸して、区々たる世の功名に超越せり。もし進藤先生にして中原の主潮に棹さしめんか、アジアの風雲に嘯《うそぶ》かしめんか、その事功はようやくにして、先生の人格に追随するを得べきなり。
 筆者の進藤先生を語るや、世人往々にしてこれが匹儔を挙げて、比較対照せんとす、いわく杉浦天台道士に比せばいかん、いわく某々名士に比せばいかんと。進藤先生はこれらの諸名士と全く趣を異にす。先生には謹直といい、廉潔といい、篤実というがごとき、彫琢の痕跡を留めず、平々淡々として真に水のごとし。善事は黙して己一人これを躬行す。かつて人に勧誘せず、また人のこれを行わざるを責めざるなり。悪事は断じて自らこれをなさず。ただに行為の上にこれを示さざるのみならず、心の真底よりまことにこれを嫌忌す。しかして未だかつて他の悪をなすを剔抉《てきけつ》せしを見ざるなり。かくのごとくにして先生は常に静かなり、常に従容たり、あたかも長江の流れて声なきがごとし。自ら定むるところの常道を進みて、須臾も休止するところなきなり。進藤先生の晩年を知る人は、長江の下流溶々として海に入るを望むがごとし、そのかつて三峡を越ゆるの時、巌角に砕けて雪を散じ、懸崖を咬みて渦を巻きしを想見するあたわざるなり。



 筆者のごときは先生に識られてまさに二十年に垂《なんな》んとす。乏しき今日の地歩といえども、先生に負うところ実に多きなり。しかれども故《いたず》らに先生の恩寵を挙ぐるは、仮りてもって自己の賤劣を飾るの嫌なきあたわず。ただ同じく先生の恩に浴する者の間においてのみ、相共に各自の感激を語るを得ん。すなわち甲に説き、乙に語り、丙と談ずれば、いやしくも一たび先生の覆翼下に入りし者、尽《ことこと》く先生の慈愛を体験せざるなし。先生の気概に励まされざるなし。先生の心事に対して自ら愧《は》じざるなし。先生の遺骨を奉じて火葬場に行かんとすれば、田夫も野人も車夫も学生も、帽を脱し腰をかがめて、霊柩を拝せざるなし。玄洋社に告別式を挙げし際のごとき、中央知名の士の弔詞を寄するもの、霊前に山積せしのみならず、郷党の上下各階級みな参拝せざるなし。名流あり、紳士あり、丁稚あり、労働者あり、小商人あり、苦学生あり、彼らの各々に就きて所見を叩かんか、浅深厚薄の別こそあれ、各々先生に対する小さき衷心の感激を語らざるはなし。先生の葬儀は実に些の人工を加えざる一大社会葬というべきなり。
 晩節を全うするは難し。就中《なかんずく》過渡時代の名士において最もしかりとなす。しかるに進藤先生は至純至誠、その人格は垂直に屹立して、七十六年間ただひたすらに向上せり。しかして晩年に及びてますますその識見の透徹するを思わしめしは、これけだし誠なるよりして、明らかなるを得しものに非ざるか。清痩鶴のごとき先生は高く高くその風車《ふうぽう》を雲際に没し去りぬ。号泣するも何ぞ及ぼん、先生の遺風天高く水長し。
                             (大正十四年五月)

「太閤秀吉」

 中野君が昭和十七年十二月、「天下一人をもって興る」と題する講演を日比谷公会堂でやったのが東条軍閥の忌諱に触れてまず舌を封ぜられ、次いで翌年正月「東京朝日」にのせた「戦時宰相論」が東条の激怒を買って筆を折られて以後、中野君の政治的活動は全く狭められたが、それでも古人と語ることを知る彼の心境は、必しも屈託しなかった。彼はそこで任侠の恩師黒須巳之吉君が中野の志を悲んで寄付した成城の別荘に振東塾を開設し、現実の政治より政治の根幹をなす人間に培うべしとして聴講随意の「太閤秀吉」の講筵《こうえん》を開いた。そこには彼の率いた東方会の青年以外、官僚も会社員も学生も伝え聞いて殺到し、警察のスパイも聞き耳を立てた。彼は太閤に託して胸中の磊塊を吐いた。「太閤秀吉」が終ると「建武中興」を講じた。建武中興に藉りて時局を諷しようとしたことはもちろんである。「太閤秀吉」は後、単行本として出版され、七万部を売った。藁は水の方向を知る。世間の動向をみて彼の心境もまた決して寂しくなかった。単行本になった「太閤秀吉」の序文はそれを語っている。
 中野が講義をするので政治演説に亘りはせぬかというその筋のご苦心もあったようであり、絶えず数名の当局者が出席しておられた。しかし、自分は大体、自分の久しき体験によって、所謂政治というものは嫌いである。日本国の一大危機、しかして一大展開期にあたり、何かお役に立ち得るなら格別のこと、所謂政治を試みても今日の世において五十歩、百歩の争いをなすに止まらない。それは自分が頭で判断するのみならず、体で知り抜いているのである。しかし時勢に貢献してお役に立ちたいという赤誠は燃焼し、白熱して寸時も止むことがない。そこで為政者が聴いても、役人が聞いても、ないし田夫野人が聴いても、普偏妥当的にその人の涵養に役立たせたいという気持で講義したのである。畢竟、その日その日の出来事に眼をふらず、人世の地下水を涵養したのである。
 統制経済の理念だとか、イデオロギーだとか、たかだか日本では二、三十年間流行している術語を列べ、その術語に拘束せられて国策を論じ、その国策の基礎たる人生を律するなどは、そこらの資格試験の合格を目指す人達の仕事である。それはいささかも日本の興亡に関係あるものでない。俯仰数千歳、人類社会興亡の跡を見て、自ら見識をもって自ら今日に処する道を講ずるのが、無学なる自分として、振東塾青年諸君に対して講ずる学問ではあるまいか。
 イギリスはスペイン、ポルトガル、オランダ、フランスに立ち遅れて世界に乗り出したが、次々にこれらの競争者を打ち倒し、数百年世界に覇を唱えたのは残念ながら厳粛なる事実である。それは所謂自由主義だとか商人根性だとかの所産ではない。朴訥剛毅にして雄図大略をかねる大きな精神がその後に控えているからである。自分は直接ドイッ語によりてドイッの名著を味読してみたい。シェクスピアでも、カーライルでも読みづらいが、これらの筆者が、その精魂をペンの先から血汐のごとくにじみ出させた跡を辿り、仲介者や、翻訳者を俟《ま》たずして、そのまま我が心と触れさせたいのである。そうすることは日本精神を鞴に掛け、鉄槌の鍛錬を加えることであって、決して欧米依存に流るる所以でない。シナの歴史である『十八史略』でも、単なる記録の羅列ではない。そこに人生が反省せられ、興亡の跡が検討せられ、正邪の道が批判せられ、満篇ことごとく智能と見識との華を咲かせたものである。
 秀吉はいささか沐猴にして冠する趣きがないではないが、錦を着て故郷に帰ったり、猛士を得て四方を守るなどいう守成的弱みに拘束されず、最後まで積極進取であった点は、日本人らしくして心気すこぶる爽快ではないか。漢の高祖のように、一家の計をなすに汲々たるものならば、天下を統一したる翌日から徳川家康を始末する工夫などに没頭し、朝鮮遠征はしなかったかもしれない。しかるに秀吉は理想の着弾距離の方が、寿命よりも長かったのである。奉公の志の方が、一家の計よりは旺盛であったのである。進んで進んで止まるところを知らず、漢の高祖のごとくいやらしい謀略を人生の上に試みずして斃れたのは面白いではないか。日本のために人材を動員し、蒼生のために泰平を拓き、国体を明徴にし、皇威を宣揚して、外征の中途に斃れたのは、日本の英雄として国体にも相応しいと言えるでないか。
 自分は『日本外史』を読みて、秀吉をそのままに語り、妙な処世訓とか理念とかをそこに交えていない。長所も短所も強みも弱みも備えたる日本人秀吉をそのまま描き出して、諸生とともに各自の心境を開拓せんとするものである。
「秀吉は理想の着弾距離の方が、寿命よりも長かったのである。奉公の志の方が、一家の計よりは旺盛であったのである。進んで進んで止まるところを知らず、漢の高祖のごとくいやらしい謀略を人生の上に試みずして斃れたのは面白いではないか」というのは彼自ら竹を割ったような彼自身を語っているのである。中野が警察に逮捕の口実を与えた重臣工作というものは稚拙はなはだしいものであったが、その稚拙なところにむしろ彼の面目があるのである。
「いやらしい謀略を人生の上に試み」ることくらい彼の憎んだものはない。故に彼は、高祖より項羽、家康より秀吉、信玄より謙信、大久保より西郷が好きであった。その彼の人間探究はついに「戦時宰相論」に至って結論に達したのである。
「戦時宰相論」、一文の主旨は、出師表の「先帝臣が謹慎なるを知る」の一語にある。中野はその当時、戦時宰相を論ぜんとしてそのテーマを得べく三日間沈吟し、ようやく四日目に「謹慎」の二字を得、衾を蹶って一気にこの文を草し了ったと語っていた。
「謹慎」はただちに戦局挽回の万能膏にはならない。しかも、頽瀾を既倒に回らすために戦時宰相として何が最も要請されるかを沈思した時、諸葛孔明の謹慎と廉潔と誠忠に思い到らざるを得なかったのである。行文はむしろ淡々としているのであるが、謹慎において病み、廉潔において病むところの者には、匕首ただちに胸に薄《せま》るの思いがあったのであろう。「朝日新聞」は発売を禁止され、中野君はその時以来筆を折られて、その十月の自裁まで彼の名文はまた再び見ることが出来なかった。

「戦時宰相論」
  国民の愛国熱と同化

 西郷南洲いわく「フランス三十万の兵、三年の糧ありて敵に降りしは、余り算盤に精しかりしが故なり」と。
 老虎クレマンソウはいわく「今やロシアは吾人を裏切った。されど余は戦争を行う。憐れむべきルーマニアは敵に降った。されど余は戦争を行う」と。また「パリを喪失せば、ロアール河の線に拠り、ロアール河支えずんば、ピレネイ山脈の線に拠り、断じて敵を反撃撃滅せん」と。
 ナポレオン三世の屈服せしところ、クレマンソウは見事にこれを克服したのである。戦時宰相たる第一の資格は、絶対に強きことにある。戦いは闘争の最も激烈にして大規模なるものである。闘争において弱きは罪悪である。国は経済によりて滅びず、敗戦によりてすら滅びず、指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷うことによりて滅びるのである。前大戦の際帝政ロシアは滅びた。されどブレストリトゥスクの屈辱講和の際、レイニンは昂然として言うた。
「ペトログラードを失わばモスクワに拠り、モスクワを失わばシベリアに、シベリアを失わば、カムチャツカの一角に、同志とともに理想社会を建設して世界革命を指導せん」と。
 これは武力戦、経済戦が絶望となりたる後、なお思想戦によりて積極的抗戦の強行を決意したのである。しかるに今次大戦において、「パリの文化を救わんがために」
フランスは降伏した。西郷南洲をしてこれを目撃せしめば何と嘆ずるであろう。パリの「建物」をもって「文化」なりと解するところに、人民戦線以来の誤れる唯物的世界観が覗われる。
 非常時宰相は絶対に強きを要する。されど個人の強さには限りがある。宰相として真に強からんがためには、国民の愛国的情熱と同化し、時にこれを鼓舞し、時にこれに激励さるることが必要である。カイゼルは個人として俊敏であった。されど各方面の戦況少しく悪化すると、たちまち顔色|憔悴《しようすい》し、いつもの颯爽たる英姿は急に消え失せた。ヒンデンブルグ、ルーデンドルフは個人としてはもとより強かったに相違ない、されど彼らが真に強さを発揮したのはタンネンベルヒの陣中、戦砲を煙硝の臭に浸していた際である。全軍の総指揮権を握《にぎ》った刹那、彼らは半可通の専制政治家に顛落した。ドイッの全国民があれだけ愛国心に燃え、最前線の少年兵が虚空をつかんで斃れても、なおパリの方向ににじり寄らんとした光景、それが彼らの眼には映らなかったのか。彼らは国民を信頼せずして、これを拘束せんとした。彼らは生産能力に対して何らの認識なく、「補助勤務法案」なるものを提出し、「満十五歳より六十歳に至る全男女に労役義務を課すること」を強行した。これが所謂「ヒンデンブルグの絶望案」である。それは国民の自主的愛国心を蹂躙して、屈従的労務を要求するものであり、たちまち生産力を減退して、随所に怨嗟《えんさ》の声を招き、遂に思想の悪化による国民的頽廃を誘致したのである。ヒンデンブルグとルーデンドルフとは戦線の民衆即兵士とともにある時には強いが、国民感情から遊離し、国民から怨嗟せらるるに及んでは、たちまち指導者としての腰抜けとなってしまった。あれだけの権勢を把握しながら、政治屋どもに嚇かされ、遂には政治家の真似して「名誉ある休戦」など言い出し、やがて左翼敗戦論者に死命を制せられたのは、軍服に似合わしからざる一大醜態である。彼らは黔首《けんしゆ》を愚劣にし、卑怯にし、遂に敗戦主義を醸成して、自らその犠牲となったのである。

  尽忠の至誠を捧げよ

 大日本国は上に世界無比なる皇室を戴いている。忝《かたじ》けないことには、非常時宰相は必ずしも蓋世の英雄たらずともその任務を果し得るのである。否日本の非常時宰相はたとえ英雄の本質を有するも、英雄の盛名を恣《ほしいまま》にしてはならないのである。日本の非常時宰相は殉国の至誠を捧げ、匪躬《ひきゆう》の節を尽せば自ら強さが出て来るのである。山崎闇斎の高弟浅見絅斎は日本主義に徹底した儒者であるが、幕府を憚《はばか》り「靖献遺言」を著してシナの先烈を語り、日本武士に節義を教えた人である。玄洋社の創設者頭山満翁のごときはこれを味読して部下の青年を薫陶した。その「靖献遺言」の劈頭には非常時宰相の典型として諸葛孔明を掲げている。もとより国体は違うが、東洋の一先烈として我らに非常時宰相の必須条件を教うるものがある。諸葛孔明が兵を用うること神のごとく、民を視ること慈父のごとく、文武の大宰相として蜀漢の興廃を担いて起ち、死をもって節を全うせしところは、実に英雄にして忠臣の資質を兼ねる者である。彼が非常時宰相たるの心得は出師の表にも現われている。彼は虚名を求めず、英雄を気取らず、もっぱら君主のために人材を推挽し、むしろ己の盛名を厭うて、本質的に国家の全責任を担っている。宮中向きは誰々、政治向きは誰々、前線将軍は誰誰と、言を極めてその誠忠と智能とを称揚し、ただ自己については「先帝臣が謹慎なるを知る」と奏し、真に臣たる者の心だてを語っている。彼は謹慎である。それ故に私生活も清楚である。彼はいわく、
 「臣は成都に桑八百株、薄田十五頃がある。これで子孫の衣食は余饒があり、臣は在外勤務に就いていて私の調度はいりませぬ。身に必要な衣食はみな官費でいただき、別に生活のために一尺一寸を増す必要はない。臣が死するの日、決して余財ありて陛下に負《そむ》くようなことはありませぬ」
と。彼は誠忠なるが故に謹慎であり、謹慎なるが故に廉潔である。

  謹慎にして廉潔たれ

 南宋の忠臣岳飛が「文臣銭を愛《おし》まず、武臣命を愛まざれば天下平ならん」と言うた言葉が偲ばれる。孔明は誠忠、謹慎、廉潔なるが故に百姓を労わりおきてを示し、赤誠を開き、公道を布き、賞する時には遠き者を遺《わす》れず、罰する時には近親に阿《おもね》らなかった。彼が長期戦に備えんがため、兵士をして百姓とともに前線の背後で耕さしめた時、軍律はなはだ厳にして、兵に私を営む者なく、百姓はおのおの堵に安んじた。彼は涙を呑んで敗戦の責任者たる馬謖《ばしよく》を斬ったが、彼に貶黜《へんちゆつ》せられた者も、彼の公平無私にして温情あるに感動し、彼の死を聞きては泣いて嘆息した。彼の信賞必罰は誠忠より発するが故に、偏私なくして、温情がある。孔明の強さは此辺から出発する。彼は敗戦の際には、国民の前に包まずその始末を公表し、自ら責めて、天下の諒解と忠言とを求めた。これがために士気かえって昂揚せられ、民その敗戦を忘ると記《しる》されている。彼は英邁の資ではあるが、本質においてどこまでも正直者である。畢竟彼の智謀は正直なる動機より発するのである。彼の仕えたる蜀は敵国たる魏や呉に対して、土地狭小、資源貧弱であった。彼は智計を出して天下三分の略を立て、ほとんど中原を制せんとして未だ成らず、盟邦は背き、名将関羽は戦死し、先帝は崩じ、精鋭は尽くるという窮境に立った。されど窮境に立ちて絶対強硬方針であった。彼は安易を講和に求むるがごときは絶対に反対であった。彼は所謂瀘水を渡りて不毛の雲貴を攻略し、挺身軍を提げて魏と雌雄を決せんとし、長期戦の覚悟を定めながら、百方謀を回らして、短期決戦の機会を捕捉せんとした。しかも敵恐れてこれに近づかず、敵地に屯田して陣中病を得て五丈原頭に歿した。彼は難局に当り、「今や民窮し兵疲るも、事|息《や》むべからず則ち住まると行くと労費相等し」と言い、クレマンソウやフォッシュのごとき絶対不屈の意気を示している。彼が布陣の跡を見れば、敵将も嘆賞して、天下の奇才なりと言い、死せる孔明は活きたる仲達を走らせた。彼は至誠にして至剛であったのだ。

  天下の人材を活用

 日露戦争において桂公はむしろ貫禄なき首相であった。彼は孔明のように謹慎には見えなかったが、陛下の御為に天下の人材を活用して、もっぱら実質上の責任者をもって任じた。山県公に頭が上らず、井上侯に叱られ、伊藤公をはばかり、それで外交には天下の賢才小村を用い、出征軍に大山をいただき、連合艦隊に東郷を推し、鬼才児玉源太郎をして文武の連絡たらしめ、傲岸なる山本権兵衛をも懼《おそ》れずして閣内の重鎮とした。しかして民衆の敵愾心勃発して、日比谷の焼打ちとなった時、窃かに国民に感謝して会心の笑みを漏らした。桂公は横着なるかに見えて、心の奥底に誠忠と謹慎とを蔵し、それがあの大幅にして剰すところなき人材動員となって現われたのではないか。難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しかして気宇広大でなければならぬ。
 


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