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緒方竹虎『人間中野正剛』「彼の政治的立場」

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彼の政治的立場
 アジア主義的傾向
  「孫逸仙、黄興両氏の風采」
  「敢て対シ同憂の士に質す」
  「蒋介石との会見」
 波瀾を極めた政界遍路
  「犬養毅氏」論
 東方、社大の合同問題


彼の政治的立場
 アジア主義的傾向
 中野君の思想の根幹をなしたと思わるるアジア主義的傾向は、彼が犬養毅、頭山満に随伴して中国の辛亥革命に赴いた時に胸奥ふかく植え付けられた。彼が明治四十四年十二月三十日、上海の客舎から朝日新聞に送った「孫逸仙、黄興両氏の風采」という一文を読むと、当時二十六歳の彼がいかに大風起って雲飛揚する革命陣営の雰囲気を身に感じ、アジアの将来を思うて若い心をわくわくさせたかを想わせるのである。
    「孫逸仙、黄興両氏の風采」
  二十七日上海に着し、豊陽館に投ず、未だ行李を解くにいとまあらず、大元帥黄興君来りて頭山満翁を訪う。余もまた一行とともに席を同じうし、両氏の対話を未熟なる漢文の筆談をもって通訳することとなれり。余はかつて東京においてしばしぼ黄君を見る。当時君は流離困頓の一孤客にして、その身に纏いしもの、夏は汗染みたる古浴衣、冬は垢着きたる破れ綿入れに過ぎざりき。その際君が万難に屈せず、貧窮と戦いて、その主義に殉ぜんとする意気を壮としたりし余は、数年ならずして、英姿颯爽たる二名の副官を伴い、威風堂々として自動車を駆り来る大元帥としての君を見るに至れり。余の感慨深ぎは言わずもがな、当時牛込新小川町民報社内、雑書|堆《うずたか》き所、虱を捻りて国事を談ぜし黄君その人、誰か大勢のかくまで速やかに変ずべきを想わんや。
 黄君、頭山翁に対して多年の好意を謝し、なお日本有志の同情に縋《すが》りて、列国をしてシナの政体に干渉するの端を啓かしめざるよう、助力あらんことを請えり。黄君の最も憂うるところは、一時世に喧伝せられし武力干渉説が、あるいは事実となりて現れ来らんことにあるもののごとし。頭山翁これに対して、日本国民の輿論が一般に無偏不党に決せる事実を述べ、かつ友邦の識者が速やかに時局を解決し、土匪流賊をして蜂起するに暇あらざらしめ、もって列国の杞憂を解き、もって東亜永遠の平和を確立せられんことを望み、余は雑談に移りて、互いに旧雨の情を叙せり。余席を同じくして両氏の対話を聴くことおよそ三時間、ひそかに黄君の態度を見るに、辞礼慇懃毫も慕敬の意を失わず、端坐山のごとく悠揚迫らざるは、かえって人をして親愛尊敬の念を起さしむ。その年長者に対する真に己を忘れて益を求むるの風あり、大元帥たる黄興君は毫も当年の窮書生たる態度を改めざるなり。余もまた友ならばかかる人とともに死なぼやとの感を禁ずるあたわず。この人あるいはシナ四億の生霊を寧《やす》んずるの天命を有するものか。
 翌日早朝馬車を駆りて孫逸仙君を訪う。三四の有力者と同伴なり。孫君のいる所、門前衛兵を置き、誰何はなはだ厳にして警戒怠りなし。西洋間の応接室に請ぜられ、待つこと数時、明日大総統に選ばるべき孫文先生は、背広服を身軽に装い、いと快活に現われ来れり。直ちに一行に握手し、辞礼を交え茶を献じ、応答停滞なし。その笑うや軽く、その語るや軽く、余等をして交際振の巧妙なるに感服せしめたり。昨日これ黄興君に東洋豪傑の面影ありというべくんば、今日見るドクトル孫には欧米紳士の風采ありと称すべし。黄君の男らしき態度を頼もしく思いし人は、何人もまた孫君の閑雅なる言容を快とすべし。
 二十九日孫君は大統領に選ぼれたり.、これ主として黄君の推譲に因れりという。けだし黄君の意に以為《おもえ》らく、力をもって革命政府の今日あるを致さしめしは黎元洪将軍なり。つとにこの主義を鼓吹して、気運を促せし者は孫文先生なり。不肖黄のごとき徒らに狂奔して幾多有為の同志を殺せしに過ぎざるなりと。各省の軍隊中、黄に望みを嘱して、孫を戴くを好まざる者多し。しかるに黄の尽力によりて遂に議を纏むるを得るに至れり。ここにおいてか三十日の夜、孫新大統領は、パレース・ホテルに在上海日本人を請待して、新任の披露をなせり。来賓すべて百名ばかり、犬養氏以下各会社代表人、新聞記者らみな到る。孫総統まず起ちて挨拶をなし、中華民国が成立して外国の名士と款《かん》を交うるは今日をもって始めとす。身親しく欧米を巡遊せしに、各国人民の同情はみな革命党に注がれたり、今後諸君の尽力によりて、ますます日本政府と親しみ、さらに欧米各国との交際を一層親密ならしめんこと余らの真に希望するところなりと。犬養氏これに対して答辞を述べ、三鞭を挙げたり。この間孫総統は左右に向って遺漏なく辞礼を交え、数年前の志士孫逸仙は全く欧米先進国の大総統に譲らざる態度を備うるに至れり。黄興君は終始一貫、依然として素朴なる草沢の雄なり。今日の盛宴に列してもなおさきに頭山翁を訪いし時と同じ態度なり。来賓の客が名刺を呈して名乗り寄るを、面はゆげに応待するのみ。席を定むるにも孫総統の次に湯化竜、張継等の諸氏を推し、自らは手持無沙汰に末席に踞まり、功成りて賞を受くるを恥ずるがごとし。
 滬《こ》に入るの即夜大元帥黄君を見、翌朝大総統孫君を見て、おのおのその長ずるところを異にするを看取し、今また披露式場に両人を並べ見て感さらに深し。三十一日夜新政府の閣員決定すべく、中華民国万歳の声は上海、南京、武昌等長江一帯の地より南方各省に震動すべし。しかして南北一となりて国家及び政府の形態を作るはけだし遠きに非ざるべし。しかれども真に四百余州を統一し、真に中華民国を盛んにし、真に東亜を平和にし、真に世界の文明に貢献せんと欲せぽ、前途遠いかな。孫君傲らず、黄君勉めて怠らずんば、呱々の声を挙げたる新政府の今後や多望ならん。
 しかし、この辛亥革命行は、ひとり彼の思想としてのアジア主義的傾向を培ったばかりでなく、私をして言わしむれば、この行以後彼は新聞社の編集局に跼蹐することを屑《いさぎよし》とせず、一個奔放不覊な評論家または国際論客としての生面を開いて行った。多感な彼は新聞社の枠内で仕事をする辛気臭さに堪えないのである。僚艦とともに艦隊運動をすることが出来ないのてある。
 辛亥革命でアジア主義の洗礼を受けた中野君は、大正四年三月、最初の欧州視察旅行に上った。その道すがらの触目偶感、一として彼のアジア的感情に油をそそぐものならぬはない。彼の故国に寄せた通信は、虐げられたアジア及びアジア人の運命を悲む人道主義の声であった。
 国亡びて山河あり、城春にして草木深し、鳴呼これ何ら悽愴の言そや。神戸を解纜《かいらん》してよりマルセイユに着するまで、その経る所はみな亡国もしくは半亡国なり、しかしてこれら亡国の民はみな吾人と思想感情文明の系統を同じうする有色人種にして、これらを征服しこれらを利用する優勝者は、みな吾人と祖先を異にし文教を異にする白人なり。吾人は白人に対して怨なく、白人の教を受くるに吝《やぶさか》ならず。されど彼ヒューマニティを叫べぽ、我にも人道主義の声あり、彼我の揚言するところを実行せんとならば、世界の人種的不公平あるを許すべからず。かくて余が渡欧の旅行記は、期せずして人種的偏見を呪う無韻の叙情詩となれり。
     ×
 国を去りてより数千里、海に航しては明月を仰ぎ、陸に上りては興亡の跡を見る。痛恨に堪えざるものあり、愉快に堪えざるものあり。吾人は吾人と同じき礼教の民が、一として自由の天地に闊歩するなきを見るの時、窃《ひそ》かに同情の涙の湧出するを禁ずるあたわず。しかれどもこれら呪われたる有色の親近らが、相率いて我を慕い、わが風を望みて起たんとするあるを見るの時、独り窃《ひそ》かに会心の笑みを漏らさざるを得ざるなり。上海、香港、シンガポール、マラッカ、ペナソよりコロソボに到るの間、吾人は実に何を目撃せしか。かつて孔子を出せし国の末路やいかん、かつて安らけく緑陰に眠りしマライ人の現状やいかん、かつて釈迦を出せし民族の後裔やいかん。途上に車輪の轣轆《れきろく》たるあり、車上に揚々たるはみな白膚碧眼の人なり、車前に鞭を執り輪下に塵に塗るるは、みな吾人と眉目相似たる有色の民なり。白色の客は胸を張り肩を…聳やかし、時に眼を瞋《いか》らして睨み、あるいは声を励しくして叱す。有色の隷は鞠躬如《きつきゆうじよ》たり、跼蹐焉たり、鞭を執りて、汗を拭うにいとまなく、走りて息を休むるに由なきなり。白人の眼光電のごとく、叱声雷のごとし、有色の人これを恐れざるに非ざれども、極熱の地太陽の直射に曝されし身は時として疲労動くに堪えざるをいかんせん。すなわち稍々逡巡するあらんか、車上の客は足を揚げて蹴り、杖を掉《ふる》いて打つ。蹴られし者、打たれし者、これもまた人の子なり、流汗拭うに暇なく、気息まさに絶えんとす。鳴呼これ何の状そや。今日の文明世界は実に奴隷を認めず、偽善家はもって表面を人道的に粉飾し得たりとなす。しかれども弱くして自ら支えざる国民は、実際奴隷以下の悲境にあるをいかん。
 余は今更往年の攘夷家に伍して、白人を非難せんとするものに非ず、ただ弱き者の現状がかくのごときを説明するのみ。説明して自ら徒らに憤懣《ふんまん》に堪えず、徒らに同情に堪えざるのみ。釈迦の教を奉じて生肉さえ食わざるインド人、ただ緑陰に団欒して争うを知らざりしマライ人、彼ら何の罪ありて今のごとき末路に至れるか。鳴呼彼ら真に罪なし、彼らの罪はただ弱かりしにあるのみ。ベルンハルディは強国の民を代表して揚言していわく、凡そ世に存するすべての罪の中において、国として弱きは第一の罪なりと。彼らは実に弱ぎの罪によりてここに至る、今日これを誰に向いてか訴えん、ただ東方帝国の一男児、窃《ひそ》かにこれを憐むのみ。憐みて彼らの間を行けば、道路の人も我に頼りて慰安を求めんとするかに感ぜられ、少しく意を留めて彼らの中の志ある者と談ずれば、彼らの間には我を慕い、我を学び、我を宗として起たんとするの気運、朧気ながら萌しつつあるを知るべし。大丈夫強者に圧せらるるは恥なり、弱者に慕わるるは真に栄なり。我れ亡国の山河を踏みて感慨の多きに堪えざるなり。
 一年半の外遊を了えて帰国した彼が、欧州の現勢とアジアの衰運を見て下した結論は、アジア主義の大道を踏むことであった。大正五年八月、彼は「敢て対シ同憂の士に質す」と題して左の論策を発表した。

「敢て対シ同憂の士に質す」

最近一年有半の欧米漫遊は、余をして痛切に戦後における、東方時局の紛糾を憂慮せしめたり。ここにおいてか余は帰来識者に会うごとに日シ親善して、アジア百年の長計を樹立するの急務たるを力説せり。しかるに所謂愛国者流のこれに耳を傾けざるはもちろん、余と憂いを同じうする東方有志の徒が、余の説をもって軟弱なりとなし、はなはだしく不平の色をなせるに喫驚せり。余輩は右顧|左眄《さべん》して、毫も一定の針路を進むあたわざる日本の伝来的外交に憤り、国是を自信と決意との上に定め、臥薪嘗胆して国運を開拓せんことを力説するや久し。今日日シ親善の説をなすに当りて、世人にその軟弱を指摘せらるるは、最も慮外に勝えざるところなり。余輩の対外政策はむしろ硬中の硬なるもの、射利は志に非ず、僥倖は望むところに非ず、軽躁、付和、雷同は最も戒むるところ、沈思黙考もって帝国が世界の那辺に立つかを明白にし、拮据経営実力を頼みて已を得ざるの大道を押し進むにあり。故にその譲るべきに譲るは、恐英、恐露、恐独、恐米の霞ヶ関よりも打算的にして、その進むべきに進むは、ジンゴと称せらるる壮士外交家よりも敢為ならんと欲す。余輩の譲らんとするや、扼腕党は軟弱と称してこれを慨すべし、余輩の進まんと説くや、当局者は猪突なりとしてこれを危むべし。惟うに余輩の猛進主義とジンゴ連の盲進主義との異なる所以は、世界の全局を見ると見ざるとにあり。世界の全局を達観する者は、日本とシナとに向いて、共通の大敵が外より脅かし来りつつあるを知る、故に鷸蚌《いつぼう》の争い漁夫に乗ぜらるるの愚を悟る。
 ここにおいてか天の使命たる汎アジア主義の大道を踏まんことを力説するなり。しかるに世界全局に向って眼を開かざる者は、日本なる小天地に跼蹐して、シナなる対手国を狙う。その故に齷齪《あくそく》たる島国根性は豆のごとき敵愾心を生み、この敵愾心を満足せしむべく、火事泥主義を鼓吹し、ただシナを圧迫し得たるを顧みて、背後に他の野心国の紅舌を吐きつつあるを知らざるなり。否彼らのはなはだしぎ者は単に世界を見ざるのみならず、シナをも見ざるなり。すなわち彼らは内政を見、競争を見、政権を恋い、私福を慮り、党争上の利不利より起算して対シ政策を決定するに至るなり。彼らは自ら称して硬と称す。しかれどもその硬なるもの、規模はなはだ狭小なるをいかん。彼らが説くところの最も大なるもの、北においては満蒙鮮の統一の外に出でず、南においては利権の斬り取りの外に出でざるなり。余輩は満蒙鮮の統一を狭隘なりとなすが故に、日シの統一、亜州の呼応を策するなり。利権斬り取り主義の小慾なるに廉らざるをもって、日シ経済の共通融合を欲するなり。満蒙鮮の統一は積弱のシナを蹂躙するをもって手段となす、故に真勇なき軽薄党も勇躍してこれに随い得べし。なお武国の対外硬論は、これに満足して自ら勇を誇り得るか。余輩の日シ統一、亜州の呼応たる大策は、シナを扶擁し、アジア半亡の諸邦を提げて、列強の前に弱者を護るの楯たらんとするにあり、故にこれを遂行するには、国力を傾注して国運を開拓するの決意と努力とを要す。(中略)
 戦後(第一次大戦)の大勢は列国の経済をして軍国的ならしめ、原料の供給にも製造品の市場にも、おのおの国境を設けんとするの傾向あるを看取せば、吾人は原料の発掘地としてまた製造品の市場としてますます対岸の大国土を重要視せざるを得ず。欧米人はシナを目して世界の富強を支配するの鍵とし、この鍵を握る国は世界の覇たるべしと論ぜり。実にその国士の大なる、その原料の豊富なる、よく世界的大工業に供給して余力あるべきはもちろん、四億万の民衆は優に世界的大工業の生産物を消化するに足るべし。今日内乱相次ぎ人民塗炭の苦に陥れる際といえど、シナが市場として大規模なるは中外の注目するところ、一朝その富にして開発せられ、その民の生活にして向上せんか、その消化力の大なる、遥かに想像に絶するものあらん。白人の大略は真に測り知るべからず、彼らはシナに向いていわゆる経済的施設を進め、その経済的因縁をたどりて、極東の宝庫を壟断するの政策を立て、日本より経済的発展の余地を奪いて後、アジアを意のままに支配せんとす。ここにおいてか吾人もまた自衛の必要上、この欧米各国侵略の勢いを制し、東亜の頽廃を救済するに微力を尽さざるべからず、故に吾人のいわゆる東亜を支持すと称する呼号は、かの親善論者のごとく、善隣の友邦のために謀るに非ずして、まず自国のために謀るなり、自国を主とし友邦を従として利益を謀るは、その動機の前後する順序なりといえども、ただこれを実行するに当りては、日本なくシナなく、単に共同の敵に脅かされたるアジア民族あるのみ。
 この角度から彼と蒋介石氏との会見記を見ると非常の興味がある。中野君は日華事変の直前即ち昭和十一年、南京に蒋主席を訪問し、その会見記を自ら綴って「毎日新聞」に寄せている。その主旨とするところは口華の攻守同盟と経済的融合とであった。攻守同盟という言葉は太平洋戦争に破れて戦争を永遠に抛棄した今の日本からは、全く別世界の話のようであるが、主旨が世界の平和及び繁栄のための日華合作にあったことは言うまでもない。

「蒋介石との会見」

「中野さん、ずいぶん久し振りでした。この頃はお忙しいのに、北シの方をゆっくり見ていただいたそうですが、北シはどうでしょう。あんなふうでいいでしょうかね」というのである。これは実に婉曲な言葉であるが、十分な辛辣味を含んでいる。即ち
日本は満州をあんなことにして、今度は北シ工作に出て来ているでぱないか。その手筋は分っているぞ、そんなことで日シ親善も、東亜百年の大計もあるものか。どうだ、考えてみないか、ということである、自分はこれに答えて言うた。
「ご説の通り北シをよく見て参りました。今貴方ば、あんなふうでよいかと問われましたが、その言外の意味は真剣です。しかしあんなふうでよいとか、悪いとかここで議論をするようでは、口本の役人と貴国政府要人との談判のようなことになってしまいます。私が貴方とお話しすべきことぱ、そんな善悪の議論を超越し、現に北シのあるがごとき情勢を、そのまま受け入れて、善かれ悪しかれこの現実の上に、いかに処すべぎかでなければなりません。私はかの地において、表面裏面に動く幾多貴国の重要人物と語り合いましたが、北シが政治的に、経済的に、特殊の事情のもとに置かれたるはもとより、その人心の傾向よりするも、中シ及び南シと異なれる特殊地域を形成しつつあるは、争うべからざる事実であります。それは武力による日本の重圧を感じてからであるかも知れぬ。経済的実利の誘惑によるかも知れぬ。しかしそれが漸次に勢いをなし来る現実に対しては、その拠って来るところを究めて、これに善処することが識者の任務であります。私は率直に結論から申しますが、今日の世界的環境のもとに、日本とシナとは、全面的に融合するのでなければ、部分的に接壌地帯から摩擦を激化するの他はありません。もし、北シの部分的摩擦を忌み嫌わるるならば、日本とシナとが全面的に融合して部分的摩擦の原因を解消させてしまう他はないと思います。この見地より出発する私の主張は、日シの攻守同盟と、日シの経済的融合とであります」と説き、それから三時間に亘って蒋介石氏の極東大勢論と、自分の日シ外交論とを語り合ったが、その時の蒋介石氏の音容、今なお筆者の眼前に髣髴たるを感ずるのである。
 蒋介石氏はその当時、満州問題は全然諦めているようであった。満州事変を引ぎ起す直前までのシナの排日行動は、明白にその行き過ぎていたことを自認していた。しかして筆者が表現した「部分的摩擦」という言葉に耳を聳だて、その部分的摩擦が即ち領土的侵略の前提なりと解し、北シの領土的侵略は、絶対に認容すべからず。もし日本が侵略的野心を】擲するならば、日シの全面的融合は可能なりと主張し、その言葉の裏に、部分的摩擦に怯えたる彼ぱ、これを緩和せんがために、全面的融合に向って活路を開くのやむを得ないことを痛感していることを示していた。
 彼はいわく、かくのごとき場合、最も確実なることは、シナがまず莫大なる打撃と損害とを蒙ることである。ソ連や英米が、シナの急に赴いてくれるかどうかは確かでないが、一まず日本から散々の目に遭わせられるということだけは、何よりも確実である。それだけでも、シナの堪えざるところ、欲せざるところである。しかし日本も一時シナの要所を脅かして、その猛威を揮うことは出来ようが、それが終極において日本のためになるかどうか、それは別個の問題である。かかる場合にははばかりながら、自分も潔《いさりきよ》く陣頭に立とう。シナの愛国運動も、土匪も、流賊も、共匪も、日本に対して動き出すであろう。この全面的抗日を抑えるために、日本はその貴重なる軍隊を全シの野に暴露せねばなるまい。こうなったらシナ全国の経済も、産業も混乱するであろう。日本の対シ経済も全滅するであろう。しかして日本の兵も、財もおびただしく濫費せらるるであろう。かくしてシナは破滅に瀕し、日本は疲弊するに及びて、その時こそ極東に対して虎視眈々たる列国は動き出すであろう。この時に及びて難を蒙るものは、民国のみでなく、日本もまた免れ得ないではないか。貴国の利害は貴国人自ら考慮するとして、民国のためにも、英ソを引きて日本に戦争するなどいう馬鹿げた計画が樹て得られるものでないと。果然蒋介石氏ぱ唇歯輔車の関係を文字の上にのみでなく、突き詰めた意味において体得していたのである。
 蒋介石氏のいうところは、まさに日本人のいわんと欲するところである。しかし、筆老が蒋介石氏と会見して以来一年間に発展した日シ間の情勢は、蒋介石氏自らが民国のために堪えざるところ、欲せざるところといった経路を驀地《まつしぐら》に進んで来た観がある。それにはシナの方にも責任はあろうが、日本の方にもその責任がないではない。
 しかし、その後の日華間の情勢は、中野君のいう通りに、「蒋介石氏自らが民国のために堪えざるところ、欲せざるところといった経路を驀地に進んで来た観」があり、爾来彼はこの問題に関する限りほとんど筆を投じたが、事態は遂に最悪の道を辿り、日華事変は太平洋戦争にまで発展し、蒋氏のいわゆる「日本の対シ経済の全滅」どころでない、両国ともに傷ついてアジアの支柱はまさに摧けんとしているのである。

 波瀾を極めた政界遍路

 中野君の政治的足跡を見ようとして、私は彼が明治の末期、戎蛮馬の筆名により「朝日新聞」紙上に発表して天下を驚かした「朝野の政治家」の中から「犬養毅氏」一篇をまずここに掲げる。彼は当時二十五歳であった。

  「犬養毅氏」論

 布衣巌穴の士、聞達を天下に求めんと欲せば、青雲の先輩に付かざるべからず。しかれども、人おのおの理想あり、理想はなはだ高き者は、先輩を求むるに最も難く、やや低き者はやや易く、無識見、無理想にて、顕位これ我主、権勢これ我先輩、到るところに追従し、到るところに労役し、もって立身出世の途を講じ得る者は、最も安楽にして、最も仕合せなり。これをもって、天下の政治を論じて公侯大臣に満足せず、政党におりて領袖幹部に感服せず、会社におりて社長重役に慊《あきた》らず、役人となりて長官の為人《ひととなり》に疑いある者は、非常の才ありて辛うじて矯々烈士の名を成すべく、尋常以下、みな固陋|狷介《けんかい》の変物として、地下線下に葬らるるに至るべし。
 世に、理想低ぎ者は幸いなるかな。権威ごとに感服し、名勢ごとに臣従す。山県公と伊藤公とに好く松方侯と井上侯とに可、しかして桂公に御せられ、西園寺侯に用いらる、かくのごとくにして栄達せざらんとするも得んや。我国最近の政界におりて、山県公に抗し、伊藤公を侮り、井上侯を悪み、桂公を罵しる者、何によりてか、青雲の高きに攀ずべき。
 犬養毅君のごときは、一世の権門すべて君が政敵なり。山県系の武断藩閥に好からず、伊藤系の文治藩閥に好からず、しかしてまた井上、松方系の金権藩閥を唾棄す。君は絶対的に反抗的政治家なり。決して浮ばざる地獄谷の主人公なり。いやしくも権勢ある者は、みな君が御すべからざるに懲りて、決して手を下さんとするなく、君もまた喬木の遊禽を冷笑して、幽谷にも自から春風の至るあるを自得するもののごとし。
 君は青年時代より逆境におり、最初より読書の資にすら窮せしもののごとし。君が笈を負いて始めて東都に来るや、純然たる一個の漢学書生なりぎ。君はもとより学校などと称する、形式ばりたる模型の中に入れらるるを喜ばず、またたとえ希望したりとて、富家の児と同列に、学資を郷里に仰ぐことも不可能なりき。君は実際学校などと鹿爪らしきものを好まずといえども、博く海外の書を読みて、東西の形勢に通ずるに非ざれば、治国平天下の道を行うに由なきを知れり。ここにおいてか、君は都下の英学塾を歴訪せり、君は至るところの塾先生に面会して、漢学の棄つべからざる理由を説き、あちらより英書を学びて、こちらより漢学を教えんことを希望したり。しかれども塾先生は漢学の必要を認めざりしか、はたまたこの蓬頭瘠驅《ほうとうせきく》の貧書生を顧みざりしか、君の提供せし物々交換の希望は、全都市を持回りて、遂に容れらるるあたわざりき。
 君は止むを得ずして慶応義塾に入れり。慶応義塾は全く我国従来の武士気質を卑下したりき。袴を着けて攘臂《じようび》することはこれを許さず、書生はこの旧来の陋習を脱し、食堂に入るには、必ず角帯を締めざるべからずとせり。また書生の刀を蔵する風習を厳禁し、この殺伐なる人斬り庖丁、人道を講ずる者はこれを手にすべからずとせり。
 田舎郷士の家にありて、純日本的教育を受けたる木堂、何ぞかくのごとき舶来の準縄に律せられんや。かれ弊袴を穿ちてはいわく、瘠せたりといえども、士君子の礼服なり、この物決して脱すべからずと。名刀を破机の傍に立ててはいわく、窮せりといえども、日本武士の気魄なり、この物決して離すべからずと。
 君は政党におりて、藩閥内閣に反抗するがごとく、学校にありて、福沢翁の学風に反抗したり。当時君と同窓の友たる尾崎咢堂は、その煥発せる才華と、その活達なる雄弁とをもって、よく英国紳士風に陶冶せられ、塾中の花と謳われたりき。しかるに木堂はどこまでも東洋式なり、破帽と高下駄と喧嘩と口論とをもって押通したりき。
 この間君は書を購うの資に窮すれば、深夜|窃《ひそか》に蝋燭を点じて、新聞雑誌に投書すべき原稿を作り、慶応の学風には感服せざるに係わらず、とにかく暫時にして大いに英書を解読するに至れり。
 君は福沢翁の表面の学風には反対せしも、半面においては大いに翁に感服するものありき。翁が「瘠我慢の説」のごときは、後に発表せられしものなれども、君はつとにこれを知り、大いにこれに感激せしもののごとく、江戸城を枕として、将卒ともに焦土となるに非ざれば、徳川幕臣の武士道は決して全からずと痛論したることもありき。君は福沢翁と全くその模型を異にすれども、翁が「瘠我慢の説」に表したる反抗的侠気は、流れて木堂の血管に入り、ますますその逆境癖を強からしむるに至れり。君は英書を読み習い、かつまたかくのごとぎ気風を佩び、中途にして塾を去れり。



 もし年少の人、木堂に向って処世の方針を問うあれば、君は型のごとく答えて言う。金儲けして楽がしたければ、素町人に身を落すにしかず。余ら年少の際、歯牙にも懸けざりし鈍物輩、ただその士大夫たるの気概なかりしが故に、丁稚小僧より成上りて巨万の富を致せる者少なからず。富は町人の独有なり、士は貧を守るにしかず。 君もし魯鈍にして威張らんと欲せば、高等官試験に応じて役人と成れ。上に抗するの疳癖《かんぺき》を殺して、十年辛抱せば必ずや相当の地位に進まん。もし悧巧にして上役に知られば、知事局長とならん、便佞《べんねい》にして藩閥の懐中に飛入らば、次官となり、大臣とならん。しかれども胸中に奇気を蔵する者は、勉めたりとてこれをよくすべからず。
 もし徒《いたず》らに人に屈するを好まずして、胸に経世の志を懐かば、自から他に途あり。政党に投じて、快腕を掉《払る》うにしかず。実際現今のわが政党ほど、人物の払底せしはなし。ことに学問と頭脳とを有する人物に至りてはほとんど皆無なり。君らが学校において作りたる基礎をもソて、この内外白般の政治経済を研究し、これを政党に供給して、奮闘を継続するあらば、君らぱ久しからずして、嶄然頭角を現わし得べし。役人には官等あり、実業家にも順序あり、愚者も一歩一歩を誤らずば、久しくして相応の高きに登り得べし。しかれども非凡の才幹あり、絶倫の識見ありといえども決して一躍して得意の地位に即くあたわず、今後官吏の増加して先進の停滞ますますはなはだしきに至らば、抜群の出世はいよいよ困難なるに至らん。
 独り政党はしからず、一切平等にして、全く腕次第なり。もとより政党の間にも、長老と称せられ、領袖と称せらるる者ありといえども、何ら動かすべからざるの規則ありてこれを定むるに非ず。鈍長老と愚領袖とは、年少の新智識をもってよくこれを導くべく、血気の活手腕をもって、よくこれを鞭撻すべし。しかして憲法の我国に行わるる以上、藩閥は決して久しくその連命を、支うべきに非ず、天下の政権は必ずや政党の手に落ち来るべし。しからば年少者の政党に投ずるは、成敗論よりしてもはなはだ得策なり。
 ただ書生政治家として、その生活を支うるの困難なるあり。故に昔の浪人は、大抵医に隠れたりき。今日において書生商売として、最も適当なる者、ただ新聞記者と弁護士とあり。しかして弁護士の面倒なるは、新聞記者の快活なるにしかず。故に年少政治家の手腕を研くは、新聞記者をもって最良となす。しかれどもこの経路を進めて天下になすあらんと欲せば、徒《いたず》らに人に屈服するの必要なき代りに、激流を泳ぎて、決して疲れざるの健気あるを要すと。
 鳴呼これ木堂自らの蹌磴《そうとう》を語るなり。君は報知新聞にありても、すこぶるわがまま勝手に振舞えり、ただに徒《いたず》らに他に屈せざるのみならず、主筆矢野文雄を愚図と罵りて社を去れり。朝野新聞におりても同様なり。秋田魁新聞におりし頃のごとき、知事も書記官も、里老も反対党も、ほとんど君が眼中になかりき。少しく時代を転倒すれども、経済雑誌を起せし際のごとき、君は思い切りて一世の碩学専門家と抗論せり。その議論の善悪、論拠の浅深のごとき今より遡りて、これを論ずるをもちいず。
 君はかくのごとく、碧空を飛翔して、霜禽を攫《つか》み、自ら王侯の門に覊《き》せられざるをもって誇りとしたりき。君は実際馴らすべからざるの猛禽猛獣なり、鷲と獅子の大なしとするも、隼と狼との精悍あり。君は猫となりて、人に愛撫せられんよりぱ、餓狼となりて、人に恐れらるるを得意とすべし。
 君は時ありてか狼のごとし。人その瘠小を侮り、誤りて手を頭上に加うれば、必ず猛然として反噬《はんせい》す。君はまた時ありてか鷹のごとし、雀を捕えて趾下に敷き、もって霜夜に脚の冷ゆるを防げば、明朝は遥かに雀の飛去るを見送りて、終日餌をその方向に求めず、これ君の広く恐れらるる所以にして、また狭く懐かるる所以なり。かくして他は君が狼たるをはばかり、君は自ら鷹たるを誇り、操觚界に奔放して、半世の基礎を築けり。鳴呼君は新聞記者をもって、鷹の稚翼を延べ、狼の爪牙を磨く所となせしか。
 反抗は終始を一貫して木堂の生命なり。学生として校風に反抗し、新聞記者として、内は主筆に、外は社会に反抗し、政党員として時ありてか、領袖に反抗し、政治家として藩閥政府に反抗し、個人として滔々《とうとう》たる世風に反抗す。
 君は目前の事物を基礎として比較善を助成するを好まずして、直ちに一躍して絶対善を要求せんと欲す。故に君が生涯は千百の反抗ありて、一の屈従なきなり。請うさらに立入りて、君が反抗の歴史を説かしめよ。
 明治十七年頃、韓山の風雲急なるや、君は従軍記者として、軍艦に搭乗せり。君はこの短日月の間、範囲狭小なる軍艦生活に反抗せり。当時軍人の威張ることは、今日の比に非ず。幾多意気地なき記者輩は、軍艦内の佐官等を呼ぶに、閣下の尊称をもってし、艦長副艦長等、記者を呼ぶに新聞屋をもってし、一人のこれを怪しむ者なかりき。ここにおいてか不屈の木堂、あにこの為体《ていたらく》に憤慨せざらんや。君は士官を忌むこと腐鼠のごとく、同輩を看ること塵芥のごとく、これらの徒とともに同じ船室に起臥するをすら、不快なりとしたりき。
 一夜月清く波静なり、木堂独り毛布一枚を被りて甲板上に臥す。たまたま艦長某氏もまた甲板上に現れ、木堂を看て誰何していわく、なんじ何者ぞと。木堂不平満面、これに答えていわく、「おれはおれだ」と敢て呼ぶに閣下の尊称をもってせず。艦長木堂が風幸の異なるを見てこれを快しとなし、「アア君は新聞記者か、余に従いて船室に来れ、ともに大いに語らん」と。木堂なお拗《すね》て動かず。艦長ますますその奇矯を喜び、遂に礼を厚くして、己の室に請じ去る。これより木堂は艦長副艦長等とおれ、貴様の挨拶をもって交り、艦内を横行して、盛んに天下経綸の熱を吹けり。ここにおいてか少壮士官の徒、多く君が気焔に巻かれ、某士官のごときは、にわかに軍人たるを厭いて、みだりに天下取りを学び、後に老書生として木堂の食客たるに至れり。鳴呼君は反抗をもって、遂にある意味に軍艦内を征服せしなり。時に君が年未だ三十を越えず。
 君が政党における経歴は、改進党より進歩党、進歩党より憲政党、憲政党より憲政本党、憲政本党より国民党、常にその嫡系を辿りて、一度も脱線せしことなし。しかれども君は改進党結党の当時より、つとに諸先輩に満足せずして、党風に対する反抗者なりき。
 大隈伯は明治十四年の政変とともに野に下り、明治十五年改進党を組織せり。その内容を分析すれば、大隈伯に従いて野に下れる役人組、後藤象二郎系の慶応派、沼間守一、河野敏鎌氏等の嚶鳴社、小野梓氏等の大学鴎渡会を主とす。その人物を挙ぐれば、以上諸氏の他に、北畠治房、前島密、矢野文雄、牟田口元学、藤田茂吉、春木義彰、笠ハ浦勝人、島田三郎、犬養毅、尾崎行雄諸氏あり。年少新智識の士に乏しからずといえど、これを要するに、気障な役人の古手に非ざれぼ自由党の創立に加盟し得ざりし、気骨なき理窟屋の衆合なりき。
 改進党はこれらの人物を集め、自ら誇称して、地位、名望、財産ある紳士の結党なりとせり。民党として何たる耻《はず》かしき誇言そや。改進党には、幾多の饒舌漢ありき。幾多の小理窟屋ありき。しかれども下ッ腹の据わらざること、改進党有志のごときはなく、ハイカラがりて擲らるる者、喋りて脅さるる者、比々として大概しからざるはなかりき。宜なるかな、自由党との対陣に議論に勝ちて喧嘩に負けしことや。党員すでにかくのごとし。さればその党則のごときは徹頭徹尾役人風なり、大隈伯の下に四天王五奉行あり。尾崎、犬養等の年少者が、大隈伯に奏聞するには、幾度かこれらの上役の手を経ざるべからざりき。木堂が性の直截的なる、あにかくのごとき煩に堪えんや。
 木堂が終始一貫して背かざる者は、大隈伯なり。改革派の人が伯を追わんとせし時も、君は断乎としてこれに反対したりき。しかれども君はこの唯一の大隈伯に対してすら、事に臨みては、ずいぶん激しく反抗したりき。
 松隈内閣の末葉、大隈伯の藩閥組に苛め出されんとするや、伯は西郷従道侯によりて、なお一縷の命脈を繋がんとしたり。しかるに従道侯は事の不可能なるを知りて、これを京都に避けたりき。木堂らこの大隈伯の態度をもって未練がましきものとなし、急に進歩党を纏めて、隈伯辞職の決議を敢行したり。この事始めより伯の意に反す。しかれども木堂は決してかくのごとき、優柔不断を承認するものに非ず、僭越にもかくして伯の辞職を余儀なくせしなり。ただこの精鋭の気、木堂の藩閥政府に降らざる所以にして、この悍馬を放飼いにせしはまた大隈伯の卓越せし所以なり。
 木堂はかくのごとく、大隈伯にすら仮借することなかりぎ。しかして君は先輩に対しても、勉めてその私恩を受くるを避け、一朝政見を異にするの際、他の私恩に束縛せられざるの準備をなせるもののごとし。犬養、尾崎等の諸氏、中国改進党を起さんとして地方に遊説するや、木堂が家、債鬼の攻撃に堪えず、一日数回の電信を発して、その執達吏に押えられしを報じ、救済の方法を聴かんとせり。この日木堂たまたま客舎にあらず、木堂に随行せる前代議士宮島槍八氏、事の急なるを察して、電書を開封し、これを尾崎氏に諮《はか》れり。しかれども尾崎氏も同じく貧窮党、策の施すべきなし、すなわち大隈伯に電報してその急を告げ、とにかく救済の承諾を得たり。宮島氏大いに安堵して木堂の帰るをまつ。木堂深更に及びてようやく帰り来る。宮島氏朝来の形勢を報じて、尾崎氏に謀りし由を告げたり。木堂ここにおいてかただ一言、ウン尾崎がやってくれたかと、深く意にも介せざるがごとし。
 宮島君さらに尾崎氏の力及ばずして、これを大隈伯に報じ、とにかく一時の急を逃れしを告ぐ。木堂これを聴いて絶然《ふつぜん》、声色を励ましていわく、この馬鹿者、なんじ何故に我名を詐称して、金銭の調達をなせしや。余輩窮せりといえども、かくのごとき愚劣なる親切を甘受する者ならんや。余らが福沢翁よりの献上物として、大隈の幕下におるは、まことにこれ公の縁なり。一朝政見を異にするの日あらぽ、いつ、大隈を敵とせざるべからざるやも知るべからず。しかるに今日のごとき一家の私事に、彼の力を借らぽ、公事上において大隈の部下たるのみならず、私事上においても、かつその下僕たらざるを得ざらん。これをすら思わずしてみだりに余の名を騙《かた》りて、金銭の調達を依頼せんとす。なんじがなせる過ちは、なんじ自ら償わざるべからず。今より電報を発して即刻これを取消すべしと。その言やはなはだ皮肉なりというべし。宮島氏心にはなはだ木堂の毒舌を憤るといえども、いかんともするなく、深夜一里の田舎道を歩して電信局に至り、取消しの電報を発して、ようやく収まるに至れり。宮島氏後に人に語りていわく、かの時ほど癪に障りしはなしと。
 木堂はその名のごとく剛毅なる男なり。しかして君が強は何の強ぞ、南方の強か、北方の強か、君が強は倔強なり。君が強は自発的には現れずして、圧してしかしてこれを屈せんとすれば必ず大いに発す。君の強を示せしこと、国民党の内訌問題に際し、改革派のために除名せられし時のごときはあらず。その常議員会において、君の除名を議するや、十五名の常議員中、君の味方は、君自身及びその他一、二氏に過ぎず。木堂時に胆石を病み、かつ腸を病み、気息|奄々《えんえん》たり。しかもなお大石氏を始めとして、満座の反対者を罵倒していささかも下らず。加藤某が片膝立てて木堂を罵り返すや、病狼は飛躍して加藤氏に薄《せま》れり。木堂が鉄拳はたちまち加藤氏の頬上に落ちたり。満座呆然また唖然、木堂の気、すでに改革派を呑めり。気飢たる者はいずくんぞかくのごとくなるを得んや。倔強の士に非ざれば、何ぞ、かくのごとく不屈なるを得んや。この狼死すとも決して悲鳴をあげざるなり。
 しかれども君はかくのごとく窮境の現るるも、君はこの強をもって大風起って雲飛揚するの勢いを作るあたわざるなり。君の改革派に除名せられて本部を去り、事務所を旭館に設くるや、君に好意ある某浪人は君に策を与えて言えり。故星亨は人物として首肯し難きも、そのなせし行動については、大いに玩味せざるべからず。今君、党を除名せられて、本城を奪われたり。彼ら多勢を恃《たの》みて横暴を恣《ほしいまま》にするも要するに腰抜ハイカラの集合のみ。この際君のとるべき手段は一あり、君は星の故智を学ぶにしかず。今より若干の同志を引率して本部に迫り、鼠輩を駆逐して旗を本城に樹てば、この争い一挙にして君の勝利に帰せん、今日の場合これを除きて、一の良策あるなしと。
 加藤を擲りし木堂は、まさに喜んでこれを敢行すべきはずなり。しかれども君の強は倔強にして、かくのごとき際に積極的挑戦をなすの強に非ず。果然君はこれをよくせざりき。木堂に好意を有する某氏、後に聞て歎じていわく、鳴呼木堂もやはり改進党の出身なり、小理窟畑の生立なり、愚図なり、阿呆なり、腰抜なりと。これ実に君に贔屓する者が、君がために慷慨せしに過ぎざれども、もって木堂が積極強に非ずして、消極強たるを味わうべし。君は実に浪人間に人気を有する点において、現政党者流の第一なり。しかれども君はこれら浪人組の頭目として、天下を蹂躪するの呼吸を解せざるなり。もとより本部掠奪の策が、果して時宜を得たるや否やは疑問なれど、万事この調子にて、盲進し得ざる所以のもの必ずその故あらん。名将のもとに弱卒なしとすれば、強兵を多く有せざりし木堂、再考三考せざるべからず。星亨らの百姓政党に紳士党の圧迫せられし所以、実に弱兵の饒舌家多かりしによる。藩閥を叩き潰すべく、兵を用いたる第一人は江藤新平なり。これでは到底駄目なりとて、豪傑組の観念せしは十年戦争後なり。しかして言論と称する口頭の遠矢を放ち始めてより、十年、二十年、三十年、三十五年、藩閥の鉄楯は揺がんともせず。ただ星亨なる者あり、この人一種の魔物なりしも、百姓の蛮力を使用して、いささかこの鉄楯を破らんと試みたりき、この事確かに言論の遠矢よりは有効なりぎ。ここにおいてか木堂なる者、大いに鑑《かんが》みざるべからず。言論の勝利と称して、小穢なき饒舌漢を集めたりとて、急場の用をなさざることは、内訌問題の際にこれを実験せり。木堂今より豪傑駕御の道を講ぜざるべからず。しかして星の醜行なくして、星以上の暴れ者を御せんと欲せば、その困難もまた尠少《せんしよう》ならず。
 木堂好んで武を談ず、その荒木又右衛門を論ずる、最も痛快なり。いわく、又右衛門の柳生但馬守に召さるるところ、もとより講談の作り話に過ぎざるべきも、善く武人の覚悟を示すものあり。反覆玩味せば、もって裸一貫にて世に処するの呼吸を悟るべし。又右衛門柳生流を名乗りて、将軍家指南の流名を冒すや、柳生家は又右衛門の僭越を怒り、無礼討に斬り捨てんとせり。又右衛門は首を洗って柳生家へ向えり。門弟一同は師の身を危ぶみてこれに随従せんことを乞えり。又右衛門これを拒絶し、単身一刀を横えて、門を出ず。この時彼の心中、ただこの一刀あり、柳生家雲霞のごとき剣客も、敢て恐るるに足らずとなせしならん。
 荒木は実際一刀を頼んで死地に向いしなり。しかるに柳生家の玄関に差懸るや、両刀はご遠慮あれとて、これを預かられたり。彼思えらく、右手に一本の鉄扇あり、柳生が一刀何かあらんと。さらに堂奥に通らんとするや、侍士またその鉄扇を請い去る。彼ここにおいてか、身に寸鉄を帯びず、赤裸々をもって天下の剣士に対せざるべからず。男児の真面目はかえってこの際に現るるなり。彼はすでに覚悟せり。すでに覚悟せるの際、虎穴に入るもなお光風に浴し、深淵に投ずるもなお霽月《せいげつ》を望むなり。悠然として柳生に対し、恐れず騒がず、応答停滞なし、柳生忽然一刀を払う。又右衛門おもむろに台上の奉書を取り、巻きてもって晴眼に構う。すでに死を決し、すでに難を忘れ、かつ己を虚うし、かつ敵を呑む。その構えあに寸分の隙あらんや。その武器を持せざるの故をもって、この紙一枚の構えを冒さば、冒す者剣の精神において破れたるなり。柳生刀を投じて感嘆措かず、荒木に許すに柳生流をもってす。鳴呼従者を捐《す》て、鉄扇を捐て、赤裸々をもって強敵に対するの一呼吸、これを応用せばもって、滔滔たる世の逆流に抗すべしと。
 木堂あるいはこの心をもって心となすものか。
 余はさきに木堂がために、精鋭三十騎を率い天下を横行せば足れりとせり。今後必然の窮境に臨み、君が同志三十人を有せば君が事定れり。
 余かつてこれを聞く、長州奇兵隊の盛時、卒伍の間に鷲山玄一なる者あり、容貌獰悪言語礼に嫻《なら》わず、人皆交らずしてこれを悪む。一夜奇兵隊の荒くれ者、衆を挙げて玄一を懲す。鉄拳をもって横面に加うるあり、足を揚げて脾腹《ひばら》を蹴るあり、鉄砲の台尻をもって乱打するあり、遂に蒲団をもって玄一を蔽い踏み、蹴り、擲り、蒸すことしばし、玄一の体疲れて綿のごとし。
 しかれども彼れ瞑目座禅して一語を発せず、自若として木偶《でく》のごとし。ここにおいてか擲る者かえって恐れ、懲す者かえって色を動かし、遂に玄一を屈服せしむるあたわず、日を経るの後衆かえってその剛毅なるに感じ、従前の反動として、玄一は大いに勇名を隊中に謳わるるに至れり。木堂もまたかくのごとし、君の名声は内訌以来大いに天下に高きをなせり。二たび三たび擲られよ、踏まれよ、蹴られよ、これに屈することなくんば、君が声望は一難を経るごとに一倍し来らん。
 余は君が節を枉げて、世に調法がらるるを希望せず。しかれども君もまた反覆自省し、理として正しきを得ば、情の未だ至らざるなきかを懼れよ、情として麗しきを致さば理の未だ極まらざるなきかを慮《おもんぱか》れ。前年進歩党に内訌の萌さんとするや、木堂一日上野の鶯谷に碁を囲む。某氏席にあり、衆前にて木堂を揶揄していわく、またまた内輪喧嘩を始めしかと。木堂真面目になり弁じていわく、鼠輩裏面に蠢動《しゆんどう》してしきりに不平の声を漏らすがごとし、しかれども面を合せてこれを質せばついに一理由のあるなし、小人の御し難きかくのごときかと。某氏いわくこれあるかな。君の面前において述べ得るがごとき理由は、君これを解くに途あらん。しかれども述べ得ざるの理由に至りては、智者といえどもこれをいかんともするなし。しかして他をして言に出すべからざるの恨を抱かしむるに至りては、君深くこれを思わざるべからず。
 君はかの酒屋の黒犬なり。昔酒を醸して商う者あり、米は精《しろ》きを選び、水は清きを用い、精進潔斎して醸造に意を籠め、市価の半ばにしてこれを売らんとす。しかれども酒ますます醇に、価ますます低くして、遂に来客の増すなく、店頭かえってますます淋れんとす。キ翁嘆息して隣家の嫗に語る。嫗いわく、翁の店いかに酒を醇にし、価を廉にするも、決して繁昌するの理なきなり。翁の門前に黒犬あり、未知の人を見れば必ず吠ゆ、わずかに旧沽の犬に馴染む者のみ翁が家の酒を愛して去るに忍びざるなりと。主翁聴いて始めて首《うな》ずく。進歩党の栄えざる、またかくのごとし。君この黒犬に鑑みざるべからずと。木堂聴いて苦笑す。
 寸鉄人を殺すこの一言。木堂たる者、深く味わざるべからず。しかれども余ひそかに一世を観ずるに、門前の黒犬を捕えて後庭に繋ぎ、蓄音機と金の招牌とをもって俗客を呼び、赤襷の少婦を客引として、暖簾の繁昌を謀らんとする者、比々としてみなしかり。かくのごとくならばこの店の酒、焉《いずく》んぞ醇なること昔のごとぎを得んや。主翁が黒犬を捕えて後庭に繋ぐに同意すれども、世俗の見に媚びて、蓄音機を店頭に据え、赤襷の客引を雇うを許さず。醇酒を醸造して人の買うなくんぼ、独酌にてその甘味に傲れ。憂うるところは酒の醇不醇にありて、客の多きと少なきとは、これを第二位に措きて可なり。                    (明治四十四年)
 政治家としての中野正剛を論ずるのは、本書の目的でないが、彼の「犬養毅氏」論ぱ彼自らを論ずるのであって、篇中ところどころ「中野」を「犬養」に置ぎ替えても善さそうなところさえある。彼は畢竟「酒屋の黒犬」をもって終ったのである。しかも、百戦練磨の犬養翁には、人を人臭しとも思わぬ横着さがあったが、おが中野君にはそれがない。
 政友会で田中総裁急死の後、後継総裁に困じて犬養翁の出馬を求めんとし、森恪氏が幹事長の役柄から、湯河原の静養先に犬養翁を訪問した時である。犬養翁はこれより先き、幾年か前、政革合同とともに政界引退を声明しながら、選挙区の熱願に余儀なくされて、再び議席に着き、政友会の顧問ともなったのである。したがって政界の常識は到底犬養氏が総裁を引受けないと判断した。しかるに森氏が党情を述べて犬養翁の出馬を要請するや、犬養翁は何の躊躇もなく言下にこれを引受け、森氏が「何か条件でも?」といえば、「いや何も条件などない」という。この犬養翁の総裁引受けは、おそらくは幾人かの自称総裁候補者を唖然たらしめたであろう。しかるに、中野君には、この機略と横着さはないのである.かつて早稲田時代の学友林長民君は、中野君を批評して「才気余りありて智胆足らず」と語ったが、義を見て刀を見ない旺盛無類の気力はあっても、機略とか策略とかいったものはいかにも不得意であり、彼の直情と相容れないようであ
った。
 これは有名な話であるか、例の中野の電話国有民営案が閣議で難航を続けている一日、小泉逓相がふと何者か隣の閣僚応接室の扉を開けるのを認め、それが中野であることを確めた瞬間、彼はたちまち井上蔵相の椅子に迫り、何事か蔵相との間に激しい議論を上下したが、中野が閣議室を去るとともに電話民営案は予算不足の故をもって葬られ、中野もやがて辞職して野に下ったということであった。次官の閣議室無断|闖入《ちんにゆう》はおそらくは閣僚を呆然たらしめたであろうが、中野君としては小泉のいわゆる「事実」大臣として、蔵相の反対を論駁すべく閣議室に入るにあまり不自然を感じなかったのであろう。彼の直情を語っているが、同時に彼の「黒犬」性を語る一話柄でもある。
 中野君の政界遍路は革新倶楽部から始まった。中野君は学生時代から犬養木堂の門に出入し、「犬養毅氏」論にも見うるがごとく、政治家としての犬養氏に私淑するところが多かった。しかし、政界に出た後の彼は、久しく犬養氏指導下の革新倶楽部に止まることをせず、憲政会の安達謙蔵氏に接近して政党主義に帰依し、次いで安達氏を奉じて国民同盟に拠り、さらに安達氏と別れて東方会を組織した。その絶え間なき遍路の跡を見ると、彼のレ」の直情が最も多く原因をなしたと思われる。これについても林長民君が彼に忠告して「君は問題を寝かすことを考えねばいけない」と言ったことを、彼から聞かされたことがあるが、持久戦は最も彼の苦手であった。
 彼のこの直情は、安達を表面に立てた例の「協力内閣」問題の時に遺憾なく露呈された。もちろん協力内閣問題が若槻内閣を瓦解に導いたのは、例えば井上蔵相の安達追出しというような複雑な動機も手伝っているが、中野君の善意ではあるが性格的な直情が、破綻を大袈裟にしたことは蔽えないようである。両端を叩くために、まず若槻礼次郎氏の『古風庵回顧録』の語るところを聞こう。
 満州事変は、政府の意思に反してますます拡大した。そしてこういう噂さえ伝わった。それは、満州軍の鼻息が荒く、政府が強いて自分らを抑えようとするならば、自分らは日本の国籍を脱し、馬賊となって目的を達するのだと、豪語しているというのだった。かくのごとき風説は信ずるに足らないが、興奮のあまり、これに類した事態でも起ったら、日本の信用は全く地に墜ち、日本陸軍の名誉は雲散霧消せざるを得ない。私は深く考えざるを得なかった。満州軍が政府の命令を軽視するのは、今の政府ぱ、一党一派の民政党内閣であり、国民の一部の意見を代表しているに過ぎない。国民の多数は、必ずしも現内閣と同じ意見だとはいえない。それだから政府がいかなる命令をしても、これを肯かないのではないか、と考えるに至った。それで満州軍をして、政府の命令に服せしめるためには、民政党だけの内閣でなく、各政党の連合内閣を作れば、政府の命令ぱ国民全体の意思を代表することになり、政府の命令が徹底することとなる。そこで私は、そういう連合内閣が、今の政党の情勢下において、出来るかどうかを知りたいと思った。
 それには内務大臣の安達謙蔵が、各政党の事情を熟知しているので、一応彼にこのことを話し、各党の意向を打診することを頼んだのであった。しかしこういう連合内閣を作るという構想は、政治上の重大事であって、私一人で専断決行すべきでないので、少くとも有力な閣員とぱ話し合う必要があった。それで外務大臣幣原喜重郎、大蔵大臣井上準之助の両君に、このことを話して賛成を求めた。ところが両君とも、断然これに反対した。政友会と連合すれば、財政方針は変更せねぼなるまい。現に行っている外交政策、財政政策は、今日の時局に最も適当のものであり、これを変更することは、国家の不利この上もない。といって、切に私に翻意を促した。
 この両大臣の反対を押し切ることは、私のよくするところでない。私は連立内閣を断念し、この問題を打切ることとした。それで安達を呼んで、こういう反対があるので、あのことは断念するから、先日頼んだことは、中止されたいと告げた。これに対して安達は、人間というものは、初一念が正しい。それから以後の意見は、何か繼つて来て、みな邪念である。だから連合内閣を作ろうという最初の意見が正論である。これを、中止しようというのぱ、不純の論である。ぜひ初一念を貫徹せられたいという。それに対して私は、これはよく考えた末に、中止に決したのだから、今さら変更できない。よって連合内閣の話は、一切打切ってもらいたいと、彼の言に応じなかったので、安達も諒承して帰った。
 そのころ、九州に陸軍大演習があって、安達内務大臣は、陛下のお伴をして熊本に行った。熊本の第五師団長は荒木貞夫であった。安達は荒木と数回会見した模様であったが、その帰途、馬関で新聞記者と会見し、時局は連合内閣を必要とすると語り、それが、新聞に掲載された。これが国務大臣の口から出たのだから、世間では種々の風説が飛んだ。私は安達の帰京を待って、彼を詰《なじ》った。馬関で連合内閣のことを公言せられたが、自分の迷惑この上もない。自分の迷惑のみでなく、内閣の政務進行の上にも多大の影響がある.今後は十分慎んで再びかくのごときことのないようにしてもらいたいといった。すると安達は、また例の初一念論を持ち出して、最初にあなたが決心したのが一番いい論だから、やっぽりその通りやろうじゃないかという。今さらそんなことは出来るかといって、二人は別れた。
 それから数日後に、代議士の富田幸次郎が訪ねて来た。会うと、連立内閣のことについては、こうこう決めて来たからといって、何か巻紙に書いたものを私に示した。私はその紙切れに手も触れず、そんなことを私は君に頼んだことはない。連立論は一遍安達に話したが、これを中止したことは安達も承知している。これは君らの関係したことじゃないといって、富田のいうことには耳をも貸さず、もちろんその紙切れには目も通さなかった。しかし富田などが、こんなことをいって来るのは、ひっきょう安達が、まだどこかで暗躍しているからに違いない。大本の安達を止めなければ、いつまでも世間に疑惑を流すであろう。安達には二回も差止めたのに、なおこれである。この上は閣員全体を集めて、みんなが連立に反対だということを明らかにして安達にも断念させ、世間の噂の根も絶ち、問題に結末をつけることとした。
 それで急に臨時閣議を開いた。それは夕方の五時頃であった。閣員全部集ったが、安達だけ出席しない。電話で再三再四催促したが、要領を得ない。内務次官の次田を安達の宅にやって、大切な事で閣議を開くから、すぐ出るようにといわせたが、出て来ない。さらに法制局長官の川崎をやって出席を促したが、言を左右に託して応じない。夕方から皆集って、夜の十二時を過ぎた。これでは仕方がないから、誰か閣僚が行って、はっきりとこの問題をきめて来なければいかん。ぐずぐずしている場合じゃないというので、田中文部大臣(隆三)が代理として行くことになった。田中が行って、是非閣議に出ろ、いつまでも問題を不安定にしておくことは出来んから、閣議に出ないなら辞表を出せといって辞表を書かせようとしたが、安達は、閣員全体が辞職するならば自分も辞表を出すが、自分一人だけに辞表出せというならば、同意することは出来んといって、辞表を書かない。田中は空しく帰って来た。
 こうなれば、私自身が閣内の統一を保つことが出来ない。これは辞職する他ない。それで閣僚一同に辞職の決意を告げ、みな総辞職に同意したので、夜明けの四時ごろ一たん散会し、翌日改めて閣議を開き、辞表を取纏めて御手許に捧呈した。この時は安達も閣議に出席して、辞表を書いた。これは昭和六年の十二月であった。
 安達の執着した連立内閣というのはどんなものか、私ぱ全然それを知らない。富田が私のところに持って来た書つけに、その筋書が書いてあったか知らんが、私は手にも触れなかった。安達はどんな夢を見ていたのか。あるいは安達総理大臣のもとに、民政党からも、政友会からも人を入れて、安達内閣を夢みていたのか。それとも犬養総理大臣で、安達は副総理となって実権を握ろうというのか。そんなことであったろうと思う。安達という男は、平素そういう策士的の考えを、抱いていたと思う。
 この『古風庵回顧録』のなかには、どこにも中野君の名が出て来ないが、安達に協力内閣を考えさせ、党を割ってもそれを主張させようとした裏面には、中野君がいたぱずである。ただ、いたばかりでなく、この頃が中野君の政治家として一番脂の乗った時だったと思う。古風庵ば「安達という男は、平素そういう策上的の考えを、抱いていたと思う」と書いているが、安達翁は策士のごとく思われながら、実は決して策士でない。むしろ大政党の大番頭として実直に事務を処理し、人の信頼を裏切らない堅実無比が彼の身上であった。したがって、加藤高明のもとに女房役を務めさせれば、これ以上の避り役はないのであるが、若槻のもとではそういかない。古風庵の記述は、頭の善い若槻の考え方として一応筋が通っているが、内閣自体の非力を顧みず、一刀両断、安達の始末を付けようとしたところに、非常の無理があるのを見逃せない。
 中野君はこう語っている。
  満州問題、経済問題で若槻さんは弱ってしまい、遂にト月の二十七日、西園寺公を坐漁荘に訪問した翌日、すなわち十月二十八日、閣議の後安達内相に相談を持ちかけた。若槻さんはその時何と言ったか。いわく、「どうも実に困る、内政外交財政ともにすこぶるむつかしい。天下には不穏の気が満ち満ちている」と。これは何を意味するかといえば、その頃噂されたクーデターのことである。そして「安達君、おれでは到底やれぬ。議会も目の前に迫っている。とても切抜けられぬ。どうか君代って時局を収拾してくれ」という。これに対し安達氏は「それは出来ない。君が発奮するより他はない。思い直してどうにか考えてくれ」と言って聴かなかった。すると若槻さんは「おれは罷める。そのあとに君を取代える。宮中に対してこういう手続きをすればいい」ということまで言うたそうである。押問答の末、若槻さんがどうしてもいかぬというので、安達氏は「そんなら、この財政金融の窮状と外交問題の錯綜せる内容と、軍の主張と外務の主張とみなこれを曝け出して、反対党政友会とともに今後の対策を協議したらどうか。それには外からの議論では困る。戸を開けて内に入って、一緒になってすっかり調査してもらったら、国家危急の時、処すべき道は自らありそうなものじゃないか」と、ここで初めて協力内閣説を言い出した。若槻さんは「誰を総理大臣にするのだ」と問う。安達氏は「投出せば反対党員が首班になるかも知れぬが、それも協力内閣をやる以上致し方ないじゃないか」と答えた。これに対し若槻さんは「それならばそれでも宜しい。しかし僕は大蔵大臣になってくれなど言われたってそれはやれぬ」と言うので、安達氏は「もう一晩寝てゆっくり考えてくれ、明日まで考えて君の考えが変らなけれは、ご相談しよう」と言って別れた。
 翌朝安達氏が行くと、若槻さんはやはり変っていない。「一晩寝ても二晩寝ても僕の考えは変らぬ」という。そしてさらに言うには「今や国際連盟は十三対一の決議をもって我が満州軍を原駐地に撤退せしむべしという最後通牒に等しい通告を発して来ている。その日限が十一月十六日に切れる。だから、出来ることならその前に協力内閣を作ってくれ.、そうすれば外交上にも非常に心強い」と。かように言ったが、安達氏は熊本の大演習に行かねばならぬので、「その前はいかぬ、十一月二十四日に帰って来る。帰った後のことにしてくれ」と話を決め、三十日、細かく二人でその手続きを打合せた。そして二人して西園寺公を訪問してこの意見を具申することも、その時打合せた。西園寺公は十一月一日上京することになっていた。
 ところが三十一日の朝になって、若槻さんは安達氏に対し、「僕が協力内閣のことまで西園寺公に話してしまうと、その成立に対し総理大臣として責任を負わねばならぬ。だから僕は辞意だけを申上げ、協力内閣のことは君から話をしてくれ」とのことだったそうだ。これは誰からかの入智慧であったろう。しかし若槻さんは協力内閣を止めるとは言わない。したがって十一月一日と二日に、若槻さんと安達氏はそれぞれ西園寺公を訪問して約束通りの意見を述べ、西園寺公は、「自分が協力内閣を指図するわけにはいかぬ。両党で纏めていただきたい。犬養君には何かの手続きでその意味を通ずるくらいのことはしてもいいが、干渉は出来ない」とのことだったそうだ。
 しかるにここまで進んだ話が、安達氏の留守中に変った。井上蔵相の反対が主たる理由のようであった。民政党の懇談会の席で、若槻さんは居据りの意嚮を漏した。安達氏は熊本でこのことを聞いた。そこで東京に戻って来る途中、私は京都に出迎えて、安達氏に閣内の情勢の変ったことを話すと、安達氏は「そういうことはどうでもよい。若槻は政党を超越して国家のためにやろうとしたのだ。こうなっては内閣をやって行けるものではない。しばらく伏せておくというのならそれもよろしいが、若槻が止めたと言明するようでは、すでに外に向って声明した以上、何か言わねばならぬ。実は熊本出発の時、東京の記者団から、通告があったから、汽車の中では話さぬが、二十一日東京に着いたら声明すると予告しておいた」とのことであった。
 二十三日、富田顧問(幸次郎)が若槻さんを訪問すると、若槻さんは「あの協力内閣問題に僕は原則として賛成である。しかし今日の情勢実に至難であるから中止しようと思う」と言う。しかし、富田顧問が「安達は困難であるがやってみようと言い、あなたは至難であるから中止するという。その差は幾何《いくばく》もない。そこで私は解決の具体案を作ってみる」と≡口っても、若槻さんは敢てそれを遮らなかった。
 そこで富田顧問は政友会の久原氏との問に話を進め、契約書を作った。もちろん政友会幹事長としてである。契約書は、両党いずれに大命が降っても平等の立場で内閣を組織する、政策は赤心を披瀝して決定するというのである。このことは久原氏から西園寺公にも通達された。
 ところが十二月十日、富田氏がこの契約書を若槻さんに見せると、若槻さんの態度がすっかり変った。絶対にいかぬと言う。そして富田氏が辞し去ると、若槻さんは閣僚の非常招集を行って、一人一人契約書反対に同意を求めた。しかも、最初に呼んで相談せねばならぬ副総裁格にしてかつ協力内閣の相手だった安達氏を呼ぶのが一番終いだった。それは閣僚の意見を纏めておいて安達氏を圧迫したのである。
 安達氏は「今問題を決めないでも、寝かしておいて篤と考慮しよう」というが、若槻さんは応じない。「今日中に是非君の意嚮を翻してくれ」、「元老にも進言したのに、今止めるということはいけない。寝せておこうじゃないか」、「いやそれはいかん。今決定してもらいたい」、「今決定は出来ない」、「それなら単独辞職してくれ」、「共同にやったことだから単独辞職する理由がない」……「しからば内閣は辞職する」ということになった。その辞職する時の辞表の書き方は、閣僚中の安達氏一人が意見を異にするから辞職するとある。加藤高明の連立内閣で政友会の大臣が罷めた時、閣僚意見を異にしたという辞表を出すというと、多数党たる加藤さんに大命が再降下した。それにあやかろうとしたのだろう。が、今度は午後の十時まで、首相官邸に各閣僚が待ち構えたにもかかわらず、大命は再降下せずして犬養内閣が出来た。
 若槻の弱行は言うまでもないが、中野君が持前の直情からいわゆる声明書をがむしゃらに発表して乗ずる隙を与えたことも争えない。しかし、それにしても、安達構想は、もし柳条溝以来の軍の馬車馬を抑制するのが目的であったとすれば、それは少くも筋違いではなかった。満州事変の突発以来、政党は軍の鼻息に押されてほとんどひょろひょろ腰であった。その際、政府の権威の保維は、政党の総結集によってのみわずかに成し得ることであった。協力内閣はもちろん政策の妥協を意味するであろうが、政府の屋台骨が揺いでは「財政方針の変更」どころではないではないか。
 若槻内閣の崩壊についで大命を拝した犬養は、西園寺の危惧にもかかわらず、断々乎として単独内閣を組織した。犬養は連立内閣よりは一たび議会を解散して、絶対多数を占めた方がよいと考えた.-果然総選挙の結果は、議会史はじまって以来の多数を獲得して、犬養の構想を裏書するかにみえた。そして、もし軍にしてこの多数政府の方針を無視するならば、参謀総長官(閑院)のこ諒解を得て、闕下に伏奏し、若い連中の三十人も馘《くびき》れぽ問題はないと考えたようであった。しかし、結果はわずか数人のテロによる五・一五事件の勃発となって、犬養の横死とともに政党内閣は舞台から消し飛んだ。犬養の気魄ばまさに珍とすべきものであった。政友会の態度も強弩《きようど》の末の政党としての限界を示すものであったろう。それすら、この運命である。このことは、安達の「夢」が、少くも構想としては筋違いでなかったことを語っている。
 しかし、それにもかかわらず、協力内閣論が閣内の反対勢力に簡単に押し切られ、除名にもひとしい脱党の他ない結末に終ったのは、むしろ無残であった。安達、中野の政界の膾鐙《そうとう》はこの時以来続けられた。


東方、社大の合同問題

 日華事変の結んで解けない昭和十四年二月、中野君は、社会大衆党執行委員長安部磯雄氏と連名で突如次のような共同宣言を発表した。
  共同宣言
 日本は現下の日シ事変を克服し、東亜再建の大使命を貫徹すべくまさに一大試煉のもとに置かれている。しかして難局打開の唯一方法は、過去の日本歴史が指示するごとく、つねに建国の精神を顕現し、一君万民の大義に則りて、全国民の協力を新たにするにある。世界に卓越せる我国体において特権政治、派閥政治、階級政治、独善政治は断じて許さるべきでない。万民輔翼は国体の精華であって、国民参政は憲法の基本である。
 すなわちここに新日本の指導精神を提唱して、社会各層の自覚と熱情とに愬《うつた》え、同胞の元気を恢弘して、洗練せられたる国家意思にまで凝結せしむるは、実に新時代に欠くべからざる政党の任務である。
 社会大衆党及び東方会ぱ、おのおの別個の歴史を有し、その主張において時に前後緩急を異にして来たが、真剣に国家民人を憂慮する点において何ら差別はない。窮極押しつまりたる今日においては、互いに赤誠を披瀝して大和魂の本能に帰一し、戦友のごとく和親協力して、時代の先駆たるを辞すべきでない。ここにおいて両党はおのおの直ちに解党の手続きを取り、血盟の同志を基礎とする全体主義単一国民政党を結成するため、急速に準備委員会を組織することにしたい。けだし立党のことは天下の公事に属し、単なる両党の合同に堕すべきに非ず。もとより広く同憂の士を天下に求むべきであるが、まず自由の立場にある革新的同志の糾合より出発し、努めていわゆるポリチックスに流るることを警戒する。下名等はこの方針により、全責任を帯びて直ちに新政党結成の実現に着手することを誓約する。
   昭和十四年二月九日
                社会大衆党執行委員長 安部磯雄
                     東方会会長 中野正剛
 東方会と社会大衆党の合同によるいわゆる全体主義単一国民政党の結成は、独伊巡礼を経た後の中野君として、まさに一世一代の大芝居であった。この計画には最初、安達謙蔵氏の国民同盟も加盟を約束したのであるが、当時国民同盟を参加団体とした院内の第一議員倶楽部の昭和会系がこれに反対したため安達は去就に迷い、遂に選挙区事情を理由に参加を取消して来たので、東方、社大のみの合同となったのである。国民同盟の参加取消しを聴くと同時に、中野君は電光石火、みずから「共同宣言」の文案を起草し、江戸川アパートに静養中の安部社大委員長を病床に訪問してこれが承認を求め、同時に宣言に基く新党結成準備委員を発表した。
 しかし、この新党結成は、中野君が事破れた後に東方会の全体会議席上告白したごとく、彼の書いたままの両党共同宣言を出すまでがヤマであった。安達の脱退は安部の決意を鈍らせ、「結党は賛成であるが自分は参加を見合せる」と申入れ来るに至って、決河の勢いは挫折せざるを得なかった。思うに、このような径路を辿って計画がやぶれたのは、初めから社大党に中野君のいわゆる全体主義単一国民政党を結成するほどの明確なる決意はなく、中野君の勢いに呑まれ、行懸りは行懸りを生んで遂に共同宣言の発表にまで及んだのであろう。当時、新政党計画の決裂は、東方会側が中野「党首」を強行しようとしたところに原因が存したと伝えられ、これは東方会も敢て打消さなかったのであるが、問題はそんなことよりもむしろその出発点にあった。要するにそれは、時局の重圧下に促された一昂奮に過ぎなかったのであって、「社会大衆党、東方会、日本革新農村協議会(中途より運動に参加せるもの)を枢軸とする革新新党準備委員会は、社大東方両党首の声明を基礎として諸般の準備を進めて来たが、問題を具体化するについて機未だ熟せざるところあり、この際新党の結成を見合せ、友好の精神を持続しながら機会を待つことに決定した」という交渉打切りの共同声明は、要領を得ざるがごとくにして要領を尽したものであった。
 東方、社大合同問題は、交渉の過程に関する限り、中野君の黒星ではなかった。しかしながら、このことの与えた政治の現実に対する失望は大きく、たまたま上海行の途上、議会批判の談話が議会を刺戟して除名騒ぎを惹起すや、むしろ議員を辞職して、満腹の牢騒を国民運動に傾倒することを考えた。左はその当時の声明書である。
 除名問題が無事解決したことについて、議長に御礼を申述べ、さらに改めて議員を辞して来た。自分は最初これ(議会の除名騒ぎ)を一笑に付していたが、いやしくも議長から正式の召喚を受けた以上、一応帰京して了解を求めるつもりであった。しかるに不幸病に倒れたのは遺憾千万であったが、一行の同志青年あるいは荷船に便乗して海南島に向い、あるいは三等列車に寿司詰になって、奥地や北シにそれぞれ旅行を続けた。彼らは必ず新しき感激を戦線より銃後に伝えるであろう。自分は将兵諸君の涙ぐましき努力と犠牲とを見聞し、傷病兵と手を把りて語るに及び、覚えず頭が下った。さらに上海の静養中、日シ幾多の人物と語り尽して、一大憂悶に襲われた後、日シ問題の芽生えが、現地に渦巻く混乱の中に見出さるるを感じた。自分は真に日本に生きた政党があるなら、その精鋭を挙げて現地に押し渡り、あるいは将兵を鼓舞し、あるいは三国と渡り合い、あるいは国民と四つに組むくらいの活動はせねばならぬと思った。シナ側には政治家の行動と元気とが、戦線にまで漲っているのに、日本側にはこ
れに対応する国民的行動がない。自分は政治家として大責任を痛感した。
 東方会は元来東亜問題を中心とし、実践的研究団体として発達して来たのであるが、会長たる自分が代議士であると、どうも議会中心政党の形態に流れ易い傾きがあった。先般の失敗(東方社大合同問題)は、議員中心に企てられたる新政党の最後の幻滅であった。しかしてこの全責任は自分一身にある。自分はこの情勢に鑑みて断然議員を辞し、真っ裸になりて、国民大衆の中に投ぜんとするものである。昨年独伊より帰りて一年間東奔西走の結果、日本全国に鬱勃たる国民運動の同志あることを確認した。自分は今回の旅行中にも、到る所に青年の元気が新日本の胎動を促進しつつあるを目撃した。しかしてこれのみが日本の至宝である。自分は微力であるが、一身を捧げて青年の友となろう。しかしてこの新興日本の意気こそは、日満シはもとより、インド、ビルマ到る所に動き出したる青年の意気に対応し、直ちに新秩序建設の基調たるべきものである。
 議院政治はもとより否定する者ではない。同志中に議員を有することは、国民運動の議会工作として必要である。他日国民運動が徹底して、議会の雰囲気を一変し得る見込みが立った暁には、新運動の基礎により、一挙に議会進出を企てるであろう。
 自分は今日の場合、日本の全動向を決定すべき基本的国民運動に傾倒せんがため、この第一歩を踏み出すものである。
 中野君のアジア的感情が現地の情況を目撃して堪え難い憂悶となったことが想像されるが、そのかつて民政党の綱領を草すべく議会中心政治を唱えた頃とくらべて、政治に対する考え方の動揺あるを蔽えなかった。
 しかしながら、現実政治家としての動きは成功でなかったが、中野君の心境は以上の幾失敗を重ねるうちに非常に進んだ。それは彼の絶えざる屈節読書、克己復礼から来ている。ことに賢貞の細君を喪って以後、彼は家庭の寂寥を乗馬と王陽明全集の読破にまぎらし、いわゆる知行合一の心胸を拓開する上に悟入するところが大ぎかったと思われる。したがってその以後の彼の動ぎは、政治というよりは学問の精進である。政治には妥協があるけれども学問の理義には妥協がない。彼は東条内閣の推薦選挙を拒否して議席を再び闘い取ったが、東条内閣下の議会における東方会の針路は、言論結社等弾圧法反対にはじまり、最初から正面衝突の方向を指していた。
 昭和十六年十二月、太平洋戦争開始直後に開かれた臨時議会に、東条内閣は言論出版集会結社等臨時取締法なるものを提出し、言論も結社も集会もすべて政府の許可制とし、政府に都合の悪い言論、集会、結社等は一切これを許さない措置の法律的基礎を設けようとした。これは議会としてはまさに自殺であり、したがって、政府を独裁化するものに他ならない。憲法政治の否認である。
 これに対し中野君は東方会の幹部に「この法案を叩き潰せ」と命じた。そこで幹部はじめ所属代議士は内務省、司法省の関係者間に膝詰談判して法案の撤回を迫り、議会においてもあらゆる方法を講じて阻止に努めたけれども、政府はあらかじめ政党側の領袖を抱き込み済みで、十分の審議も尽さず一夜のうちにこれを成立させ、この時以後東方会は明瞭に東条内閣と倶《とも》に天を戴かざるの立場に立つに至ったのである。
 言論結社の弾圧に反対した東方会は、東条内閣のいわゆる推薦選挙にももちろん正面から反対である。そして翼賛議院制度協議会の推薦を拒否して四十八名の候補者を立てたが、政府の弾圧の結果は、わずかに六名当選という惨敗を喫した。次いで東方会は、政府の政治結社統制の結果、思想結社東方同志会を名乗る他なきに至り、徳富蘇峰氏らの居中斡旋と敗残の会員の懇望によって、已むなく一時翼賛政治会の庇に拠ったが、苟合《こうごう》は到底永続きするものではなかった。
 昭和十七年六月、政府は食糧増産と中小企業整備の両案を臨時議会に提出し、またまた一日をもってこの重要法案を強行通過させようとした。そして会期延長を提案した一議員を翼政会幹部を動かして除名処分に付した。
 このような露骨な議会否認の傾向は、さすがに黙過を許さなかった。翼政代議士総会で鳩山一郎氏がまず起ち、「翼政会で事前審議をしたと強弁するのかも知れないが、翼政の審議はいわば闇取引きで、議事録にも速記録にも載らないし、国民は毫もその内容を与り知らない。臨時議会の会期延長には幾多の前例がある。議会は法案を通すだけでなく、法案を通じて直ちに国民の戦力を動員することこそ議会の奉公である」と会期延長の動議を提出し、次いで中野君は、鳩山氏の動議に賛意を表するとともに「翼政の幹部はお茶坊主体制を強化して阿付迎合に日もこれ足りない」と喝破し、議場はために混乱したが、この政府及び翼政会の暴戻な態度を見て、鳩山氏他二、三の議員とともに中野君は翼政会を脱会し、爾来全く実際政治から遠ざかった。


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