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馬場恒吾『自伝点描』「自伝」私の少年時代


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私の少年時代

自伝

 失われた歴史

 近頃の児童に歴史と地理の系統的な知識の欠けているのに驚いて、学校で教わらないかと聞くとそういう課目はないという。その代りに社会科というので断片的な地理歴史の知識を与えられているらしい。これでよく、人間として必要な性格が作られるものだと今の教育制度に対して一種の不安を感じた。もっとも私が小学校におった時代と現在とは優に半世紀を隔てているのだから、一概に批判を下すわけには行かないが、児童が何に興味を感ずるかは人間性が変化しない限りそう変化するものとは思われない。
 私は田舎の三百戸ばかりの瀬戸内海に面する農村に育った。当時小学校は八年の課程になっていて、初め三年は村の分教場、次ぎの三年はニキロ隔てた本校、後二年は六キロ離れた高等小学校に通った。だが年齢からいうと高等小学は今の中学程度であった。
 村の小学にいる時分、即ち十歳前後であったが学校の先生(それは訓導と呼ばれた)が正式の授業が済むと、有志の生徒を集めて、豊臣秀吉を主人公とする仮名交りの『太閤記』を読んで聞かした。初めは三、四人の生徒が集まったのだが、後には十数人が先生の肩につかまりながら折り重なって聞くようになった。先生が三十分か一時間読んで、「続きはまた明日」と言って本を閉じると、われわれは残り惜しそうにして散らばって行った。
 暑中休暇になると、私ら有志の生徒は毎日先生の家に行って初めは頼山陽の『日本外史』、少し進むと『十八史略』と『史記』列伝の講義を聞いた。それはまだ田舎の村におった頃だから、満十二歳前後であった。東洋西洋どこの子供でも英雄豪傑、忠勇義烈の人物に対して憧憬崇拝の心をもっていることに異りはない。西洋各国が各々自国の英雄をもっていて、それを自慢にする。米国のワシントンやリンカーン、英国のネルソンやウェリントン、フランスのナポレオン、ドイツのビスマルクなどのファンは世界各国にいるであろう。英雄崇拝はほとんど例外なしの子供の心理ではあるまいか。子供は初めは自分の母を、それから父や祖父母を、それから自国の豪傑、世界の偉人を順次に崇拝して行く。そうして子供の向上心が刺戟される。私は後年どこかでアメリカ人が演説で「青年よ、アンビシャス(野心的)であれ」と叫ぶのを聞いて、変なことを言うと思ったが、これは野心という訳語が悪いので向上の精神をもてという意味だと了解した。
 歴史を小学の課程からはぶいた理由の一つとして、日本初期の皇統の歴史には天皇の年齢で百五十歳以上の御方もあって、その正確さが疑われるからだと言われる。しかしいずれの国にも伝説を含んだ歴史が存在する。米国のごとく建国二百年たらずの国ならばそうした真偽の疑わしい伝説的な建国史はあるまいが、すべての人民が子供の時から読まされる聖書には伝説的な記録がある。伝説は伝説、事実は事実と常識で判断される故に、それが書物に記載されたと言って何の害もない。日本の歴史だってある部分は伝説として取り扱えばよいので、わざわざこれを抹殺する必要はない。

 郷関を出つるの書

 中学校時代から初めて私が最も感興を覚えた読物は『里見八犬伝』と『水滸伝』であった。『八犬伝』は馬琴の大作で八犬士の忠勇義烈の事蹟を書いたもの、それはもとより小説的に創作されたものであろうが、この作に一貫した仁義忠孝の精神は、日本人の魂として今の人々にとってもそれを心得ていても決して恥かしからぬ教訓になる。『水滸伝』は梁山泊に立籠った義賊の群れの話であるが、その頭領はやはり慈悲と仁義を旨として、かれら特有の道徳をもっていた。『水滸伝』や『八犬伝』はいずれも千ページ以上の大冊であるが故に、それを読むのは一ヵ月以上もかかる。私は暑中休暇全部を費やしてやっと読了したように記憶する。この頃になっても『八犬伝』を拾い読みすることがあるが、話の筋は荒唐無稽に思われても、馬琴がその物語りを運ぶ上に関東各地の地理を詳細に描いている庚申山や利根川辺の描写は、旅行案内を見るように面白い。
 歴史には必ず地理が伴う。何となれば人間の生活は地について行われるからだ。私は今の老年になってもただ地図を眺めて日を暮らすことがある。日本内地の地図ならばかつての旅行を追懐するとともに、新らたに旅行の計画を立てることに無限の興味を感ずる。こうして毎日地図と首っ引ぎしながら、実際は老齢とその他の事情でとても実行出来そうもないことが人生の悲劇だと思う。しかし少年の時はもとより、そんな実行可能か不可能かは考えなかった。
 世界地理を教わる頃から.アフリカの砂漠とか未開人とかに非常に興味をもった。高等小学生のとぎ、父親から大金(といって二円か四円程度だと思う。一ドルが二円で換算された)をねだって舶来のアフリカ地誌を買った。そしてアフリカの地理といえば先生よりも私の方が詳しかった。そしてアフリカ探検記といえば何でも貪り読んだ。
 それから中学校に進んだ頃、スタソレーがリヴィングストンを捜しに行ったアフリカ探検記が日本に来たという丸善の広告が出た。私はそれを買うべく十円たらずの金を親からもらった。しかし金が入ると、本を買わずに、かねて自分が志望していた東京遊学を実行した。これも今から考えると冒険の一つであった。そして、家の人に心配させたことだけでも後悔にたえないものがある。
 その当時は鉄道が岡山まで来ていなかった。それは神戸から姫路で止まっていた。それである日の午後芝居を見に行くと言って、羽織も着ず、袷二枚を重ね着にして家を出た。荷物としては東京で入学試験を受ける時に入用だと思って袴を一枚、当時博文館から出た一冊三百ページばかりの中国とかロシヤとかの歴史もの三冊か四冊(これは一冊三十銭くらいであったと思う)を入れた風呂敷包みと洋傘一本をもって出た。
 当時私の家は今の後楽園を入った所の入口の数軒の借家の一つであった。家を出て朝日川にかかっている一町余りの橋を渡った所に人力車宿があり、そこの車に乗って市の中央である京橋の船宿に行った。そして神戸に行く船に乗るのはどうしたらよいかと聞いた。それはその船宿から小舟に乗って川を下り、児島湾の沖に出て瀬戸内海を航行する船を待つのであった。岡山から乗客が私のほかに四、五人いたから、それらと一緒に屋根もない小舟に乗って海に出た。雨が降る夜でどこも見えない海で、小舟で漂流しているのは心細かった。最早真夜中と思われる頃、闇の中で汽笛が鳴って、われわれは船側のハッチから汽船の中にはい上がったのである。そして棚のようになった座席に上がって寝たが、そこには乗客の使うべき木の枕があった。初めての航海であったためか、私は非常に船がゆれるように思われて頭が痛く、とても熟睡は出来なかった。
 播磨灘に出た頃は実際に風雨激しく、船客はみな半病人の姿であった。正午頃神戸に着いたが、船から上がった所の桟橋は強雨の横降りで、私は洋傘をもって来てよかったと思った。とにかく海岸に近い何とかいう宿屋に入って考えた。元来は神戸から横浜へ船で行くつもりであった。けだし汽車よりも値段が安かろうと思ったからである。しかるに宿屋に着いて考えると、再び船にゆられることはどうしても厭だと思った。それで汽車で東京に行くことに決心して三宮駅に行った。初めて汽車に乗るのであったから新橋まで三等で三円七十五銭払ったことを六十年経過した今でも記憶している。東京では英語学校と物理学校に入学していたが、半年たらずで脚気になって、郷里から母の兄が迎えに来て連れ帰られた。
 私は脱走の罰があたったと思った。帰って聞くと私を非常に愛していた祖母は私が脱け出した翌日、湯上りに卒倒するくらい心配したという。父は岡山から数里離れた片上という所に勤めていたが、日曜に家に帰って私の置き手紙を読んで泣いていたと母が話していた。父は「それほど東京に行きたかったのならばそう言えばよいのに」と言うので、母は「そう言っておハ、たのに、お父さんが承知しないからだ」と言ったという。

さ迷えるユダヤ人

 半年ばかり田舎で休養しているうちに脚気は全快、今度はみんなの承諾を得て京都にあった第三高等学校の試験を受けて入学した。工科志望の予科三級というのであった。だから学校では数学とか物理などを勉強させられたが、下宿に帰ると小説とか詩歌を耽読した。割合に英語が読めたのでシェークスピアの史劇、バイロソやバーンズなどを愛読した。ことにバイロソがスペイン、イタリア、ギリシアなどを旅行した懐古的な詩には魅せられた。バイロソは終にギリシア独立戦争に参加して死ぬるのであるが、そのドラマチックな一生にはわれわれの胸を打つものがあったのである。バイロンは家庭的に悲劇があったために、故郷の英国を追われるごとく去ったが、かれの愛国的な熱情は、ギリシアの独立のために死ぬるという最後の劇的な場面で彩られた。
 これは西洋人または東洋人と区別していうべきことではないが、人間の性情の中で何が最も光彩を放つかといえば、天下公衆のために自分を犠牲にするというところの義侠的な現われは、各国民のそれぞれの自国に対する愛国心である。もとより方角を間違えた愛国心や見当はずれの愛国心という例は、数え挙げればいくらでもあるであろう。だが国をなくした人々の状態を見れば、愛国心というものが人間の性情の中でどんな働きをするかがよく判る。
 国を失った民族の著しい実例にユダヤ人がある。独立国家としてのユダヤは、キリスト生前すでにローマによって亡ぼされたが、ユダヤ人は世界に散在して財政的に手腕を揮っている。欧米の富豪にはユダヤ人として有名なものがいる。日露戦争の時日本に二億ドルを貸したシフ氏は日本の恩人として日本から勲章を贈られた。シェークスピア劇の『ヴェニスの商人』に出る、金貸しのシャイロックもユダヤ人と見られる。ユダヤ人必ずしもことごとく富有ではない。私はニュ!ヨークにいたときユダヤ人町に行ったが、知っている米国人が夜行っては危険だと注意してくれた。とにかく、自分が頼るべき国というものがなければ、個人個人が金を蓄えて強くならなければならぬ。だからかれらは大抵頭が鋭く金もうけが上手である。それで、普通の英米人はユダヤ人のことを余りほめない。表面は仲よく交際しても、内心は警戒を怠らぬように見かけられる。
 ニューヨークで電車などでしばしば天女のごとく見える美人を見ることがある。そしてそれを友人にささやくと、あれはユダヤ人だと言う。そしてユダヤ人の女は若いときは素晴らしく美しいが、三十前後になると四斗樽のごとく肥るのだと注意する。唐詩にある「商女は知らず亡国の恨」と私は感心する。
 私は「国破れて山河あり」という文句を種々に使用したが、祖国をもたない悲哀はユダヤ人が体験したと思う。金はいくらでももっているであろう。しかしそれを愛惜する心持ちと、祖国のため民族のために、一身を犠牲にして顧みない心持ちとどちらが尊いか。それは言わずとも明白だ。
 ユダヤ人は二千年近くも自分の国というものをもたざヴしが故、愛国という感情に遠ざかったことも無理でないと言える。マルクス、レーニン、トロツキーその他共産主義の先達といわれる人々にはユダヤ人が多かった。民族として自分らの国をもたなければ、そうなるのも当然だと言える。しかしわれわれがそれを真似る必要はない。

 知識を世界に求めよ

 われわれの仲間の言葉に足が地に着いているとかいないとか言われる。自分の立場が現実を離れて空想の中にフラフラしているものはこうして批評される。われわれが拠ってもって立つ所の土地が、即ちわれわれの国である。その国を愛するに何の不思議があろうそ。それは自分の国というものをもたぬ人々が嘲笑する感情であろうが、われわれはかえってそうした人々を憐れむという立場に置かれているのである。もし自分の国というものがあるならば、誰だって神が、この美しき山川草木をわれらに与え給うたことに感謝する。
 前にも述べたことであるが、私は暇さえあれば地図を眺めるのが楽しみだ。昔は行きたい所があれば万障繰合せて旅行に出た。今は年をとったためにそうは行かない。それでも地図を眺めて、ここに行くのはどうするか、ここはどんな景色どんな環境であろうかと想像するだけでも言い尽せない興味がある。それで諸方を探して最も精しい地図を求める。そうして毎日旅行案内と地図と首っ引きして時間を過ごす。私は米国、欧州、インド洋を通って世界一周をした経験はあるが、そうした遠方の処には余り興味がない。自分相応に手軽に旅行出来るところという下心があるが故、木曾周辺とか会津方面とかに最大の魅力を感じる。私のごとぎ老人でさえそうであるから、知識欲と好奇心の旺盛な少年に何故地理という独立科目を省略したか。これは不自然だと断定するほかはない。これと同じく自然に英雄崇拝の傾向をもっている児童たちに何故系統立った歴史を教えないか。これは国民に偉大なる国民たらしめる当然の道を与えないことになる。
 もとより、敗戦後の日本のように外国との自由な交通が出来ず、あたかも米国の保護の下にいるような時には、日本人としてどこに味方の国があるか、どこに敵意をもつ国があるかを見ている必要はなかった。しかし今は講和も成立して、日本も漸次独り立ちの生活を立てなければならぬということが明白になっている。しかるに地球のどこに誰がいるか、どこはどうして行けるかくらいの地理を知らずにいるというのは、余りに呑気過ぎるといわれるであろう。
 われわれは日本の歴史と地理を知らなければならぬとともに、世界の歴史と地理をも一応は心得ておく必要がある。そしてそれは決して興味のない勉強ではない。子供の時は冒険とか探検に対して誰でも異常心理とでもいわれる程の興味をもつ。例えばアフリカとか南米とかいう日本とは比較的に政治的交渉の縁のない大陸に対しても、その未知の世界を探検するという意味に於て特別の興味をもつのである。
 歴史からいえば、イラン、イラクが人類の揺籃地であり、エジプトもまたピラミッドとツタンカーメンの古墳が示唆する興味をもち、ギリシアとロ1マは西洋史話の宝庫となって、世界の青少年を感動せしめたのである。日本の少年に、こうした人類文明の発生した歴史的な宝庫に充分に出入することを拒むのはひどいと言わざるを得ない。
 徳川幕府時代約三百年の鎖国政治のために、日本人は外国と交通を遮断されていた。それがためにわれわれはどのくらい損をしたか判らぬ。文化におくれ、産業におくれ、一般の国力の発展におくれたのである。それを一時に取り戻さんとして、戸惑いをした結果が、大東亜戦争の悲劇であった。明治天皇の五カ条の御誓文に「知識を世界に求め」とあるのは、今もなお貴重な教訓だと思われる。だからわれわれが独立国として認められた時に際してまず感ずるのは、学校に於ける地理と歴史の独立課目に対する郷愁である。


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