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馬場恒吾『自伝点描』「自伝」高等学校時代

高等学校時代

 十七歳の頃、脚気で東京から故郷に帰ってしばらく静養した。病気も治って、京都の第三高等学校の入学試験を受けた。幸いに入学出来たので私は京都に三年ばかりいて、三高の予科を卒業した。
 ところが、私の卒業の年に学校の規則がかわった。今までは、第三高等中学を卒業すれば大学へ行けたのに、その年から、京都の三高だけは専門学校になって、大学に行きたい者は他の高等学校へ転校させるということだった。
 そうなるとみんな東京を志願する。それでは駄目だから籤引きできめることになった。私は仙台があたった。皆それぞれ行く先がきまると解散式を行うことにした。その時第三高等学校の校長は柝田彦市という人だった。お別れだというので、土瓶にお酒を入れて、暗くなった学校の芝生でくみかわした。学校で酒を飲むなど悲壮の経験だった。
 私は岡山県生れなので初めは東北地方とはまるで縁がなかった。京都i・東京を飛び越えて仙台へ行ったわけだ。そして仙台の第二高等学校に入った。吉村寅太郎という有名な篤学者が校長だった.、おかしいのは学年の初めに生徒がみんな講堂に集って、始業式に吉村校長が講堂に来て話をするというとぎ、私ら三高から行ったものは手をたたいた。もとから二高にいた連中は手をたたかなかった。その連中はわれわれに怒って「三高から来たやつは手をたたくなんてけしからん」といって問題になったことがある。けれどもわれわれは別に悪意でやったのでなく、ただそういう風習が違うだけの話だからそのままになった。
 それまでは高等学校は二年だったが、私は一年半ばかり仙台におった。京都辺に比べると仙台は非常に寒い。冬になると往来に雪が積るのは勿論だが、その雪を軒下に集めて雪が降らないときに往来にまく。それで冬は年中道がぐじゃぐじゃになっている。それがわれわれ慣れないものには不愉快だった。また仙台の連中は男でも高い足駄をはいて、カランコロンと音を立てて女みたいに歩く。私たちはやつぱり関西の者だから、当り前の下駄をはいてどっかどっかと歩くと、凍った道にすべって往来の真中に転ぶ。そんなことがしぼしぼあって、なるほどやつぱり「郷に入っては郷に従え」でカランコロンやらなければ駄目だと思ったことがあった。しかしその時分には、造船志望の工科におったのだが、全く学科に興味がなかった。
 その時分耶蘇教の教会に始終いった。東北学院に押川方義という先生がおって、熱烈な宗教家として知られていた。後に政治家となったが、この人はキリスト教界で有名な人で、その当時において日本中に知られていた。押川氏は日曜ごとに東北学院の小さな地下室で聖書の講義をして、私達は欠かさず聞ぎに行った。学友には平沢均治というクリスチャンがおった。非常にいい人で、今どこに行ったか知りたいと思っている。押川氏は後に政治家になったけれども、やはり宗教家として偉かったと私は思っている。それから後のことであるが、私が同志社に行ったとき、世話になった横井時雄さんもやはり宗教家から政治家になって政友会で活躍したけれども、やはり宗教家としての方がよかったように思う。
 話がもとにもどるが、仙台では私は工科をやったが工科の課目には測量があって、鉄の鎖を引っ張り、仙台の北方に病院がある、そこの伝染病室の傍らをこれを引っ張って測量するのが面白くなかった。そこへ正月になって私はちょっと風邪をひいて、東二番丁の下宿で元日から数日寝たことがあった。その時考えたことは、あと半年くらいすれば卒業して大学にゆくのだったが、工科なんかつまらないと思った。結局学校をやめてしまって故郷に帰った。それから一時は宗教家になろうと思って同志社の神学校に行った。それも半年くらいでやめて早稲田に行き、新聞記者になった。
 学生として仙台にいたのはわずか一年半くらいのものだったが、東北地方の人情風物に対しては非常によい感じを持つようになった。新聞記者になった後にも別にこれという用事がなくても、旅行するとなると東北に出かける。ある年はただブラヅと東京を出て、汽車で青森から奥羽線を回るだけの旅をした。また別の時に小牛田から新庄に出て、まだ汽車のない時代に山形の余目から湯温海に行ぎ、それから越後の村上まで船で帰った。第二亠高等学校をやめて帰郷するとき塩釜から松島を見た。紀行文でも芭蕉の『奥の細道』を愛読するのは東北の風物にあこがれたからであろう。


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