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馬場恒吾『自伝点描』「自伝」「国民新聞」記者の頃

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amizako

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「国民新聞」記者の頃

 原敬とパリ講和会議

 私は、一九一四年欧州大戦が始まらんとするとき、徳富蘇峰の主宰する「国民新聞」の記者となって、十年間勤めたのである。初めは外報部におって、外国電報や外国新聞を見ていたのであるが、後には政治部と一緒になり、編集全体に関係するようになった。私を「国民新聞」に入れたのは、今参議院議員である伊達源一郎氏であった。氏とは京都の同志社で友達であった。私が数え年二十二か三の時、私は基督教の牧師にならんと欲して、同志社の神学校に半年ばかりいたことがある。伊達氏はその時やはり同志社の学生であって、同じ構内の寄宿舎におったので懇意になった。初めて蘇峰氏に会ったとき、新聞の上では相当猛烈な文章を書かれる蘇峰氏が、こんなに温和な、そしてむしろ丁寧過ぎる程丁寧な人柄であるかと驚いた。
 私はそれまで英語の新聞や雑誌にばかり関係していたので、日本の新聞記者社会にはむしろ門外漢であった。それで初め三、四年は可もなく不可もなく勤めていたが、大正六年になって、私は顔に癌が出来て、それを帝大の近藤次繁博士に手術してもらった。幸いに手術が成功して、病院は一ヵ月で退院したが、家に帰って二ヵ月は寝たり起きたりしていた。この三ヵ月間の休養時代に、私はいろいろの空想に耽った。
 第一次欧州大戦はすでに四年目に入って、日本もドイツ領の膠州湾を攻略し、東洋にいるドイツの軍隊を追い同ず限りに於ては、英、米、仏の連合国側を助けた。しかし当時、ロシヤはレーニンとトロツキーが共産革命を起したためにロマノブ朝が没落し、敵国ドイツ軍と単独講和を結んで最早連合国側ではなかった。それのみならず、ロシヤ側からドイツを攻めていたチェコスロヴァキア兵何万人かはシベリアを通って西欧に帰らんか、あるいはまたロシヤを通って対ドイツ戦に行かんか、途方に暮れていた有様であった。それで西欧諸国が同盟国の一つである日本に向って、しきりに欧州出兵を希望して来た。日本の政府も国民も欧州は余りに遠いという理由で煮え切らなかった。
 私は病後の保養で家に閉じ籠っている時、日本軍が歩武堂々としてベルリンのウンテル・デン・リンデン街を行進したら、如何に世界中の人が目を見張るだろうと思った。それは英、米、仏、伊などの要求によって出兵するのだから、世界も喜ぶであろう。ベルリンまでどこを通って行くかといえば、少し遠方だけれども、シベリアを通るほかに方法はない。こういう空想を描いて、シベリア出兵の夢を十回ばかりの文章に書いた。
「国民新聞」の編集をしていた石川六郎君が私の親友であったがため、これを新聞に出すように頼んだ。署名は何んとでもいい加減な名前にしてくれと言った。新聞に出たところを見ると、筆者は櫛風沐雨楼主人となっていた。けだし雨が漏り、風にゆられる私の小さな家を見て思いついた雅号であろうとおかしくなった。この原稿の切抜きは、当時外務省の書記官で近衛内閣当時の外務大臣になった松岡洋右氏が見せてくれというので貸したが、そのままになった。今更読んでも仕様がないが、その一文で私は諸方に友人が出来た。
 当時「国民新聞」には相当手腕のある記者が何人もおった。後に「朝日新聞」の幹部になった野村秀雄氏は、政友会担当の名記者であった。私が社に出るようになったとき、かれは政友会の幹事長横田千之助氏が、一度君に逢いたいというからよいかと言う。私が承諾すると、横田氏は私と野村氏を築地の大村屋(P)に招いて、シベリア出兵の可能性を聞いた。私はあれは夢物語だと言ったが、知っている事実は話した。それが縁になって、横田氏は時々私の陋屋に来り、また私もかれを訪れるようになった。後に原内閣が成立してからはかれは法制局長官となったが、実際は原敬の懐がたなであった。そのことは後に書く。
 今一人懇意になったのは、寺内内閣の外務大臣になった本野一郎氏であった。かれは駐露大使であって、外務大臣になるべく日本に帰るとき、私は静岡まで迎えに行き、静岡でかれの車に乗って、名刺を出したのが初対面であった。本野氏は汽車の弁当を取り寄せ、私にもくれて一緒に食事をした。いろいろ話をしたが、新聞には書けないことばかりであった。沼津に着いたとき多数の出迎えが車に乗り込んで来たが故に、私は遠慮して他の車に行った。新聞社会でいうところの箱乗りは、私には苦手であった。
 当時、「読売」の記者であった奥野七郎君が本野外相と懇意であった(そのころは「読売新聞」が本野家の所有であったためであろう)。奥野氏が本野外相から一度官邸に来いという伝言だという。それで官邸を訪れると、本野氏はシベリア出兵に反対の説を述べる。私はあれは夢物語のつもりで書いたのであるが、必ずしも本野氏の説が正しいと思わぬと、一時間以上議論した。後にこの会見のことを奥野君に話すと、本野大臣は実は出兵論者なんだ、ただ君がどんなことを考えているかとワザと反対論を唱えてみたのであろうと言った。
 それから何ヵ月かして、ある日.本野外相が辞職するのではないかという説が飛んだ。私は大臣に会ってみようと思って.外務省に行くと、前に言った松岡洋右氏(その時は秘書官であったと思う)が大臣室から飛び出して来た。私は松岡氏に大臣は辞職するのではないかと聴くと、イヤ、しない、断じて罷めないと言う。それはそうかと思って私は追求せずに帰ったが、それから一週間すると、本野氏は果して辞職して、後藤新平氏が後任になった。何年かの後に、松岡氏は私に向って、君に一生に一度の嘘を吐いたのが今でも気にかかっている、しかしあのときは、ああ言わざるを得ない事情があったのだから勘弁してくれ給え、と言った。
 本野氏が辞職してからは、私はしぼしば麻布材木町のかれの家を訪ねた。かれは数年前胃癌をヴィエナで手術したのであるが、それが再発したらしかった。ある夏の日、かれを病床に訪れると、私にアイスクリームを出して、自分も食べた。しかるに最早胃にも入らないとみえて、直ぐに嘔吐した。私は気の毒で見ておられなかった。それから数日の後に、かれはこの世を去った。老練な外交官であったが、かれの熱烈な愛国心は当時の政界には容れられなかったのである。
 寺内正毅内閣は大正七年の夏、米騒動の余波を受けて瓦解した。私は寺内氏としみじみ話をしたことはなかった。いっか霞ヶ関離宮での夜会に呼ばれたことがあるが、その時は玄関で挨拶したのみで、何の話もしなかった。新聞社の同僚の中には寺内氏に味方するものもあって、それが私を夕食に呼んで寺内氏の効能を述べ立て、私に一度寺内氏に接近してみうと口説いた。その場では、それは新聞記者である以上総理大臣が面会するというのに拒絶する理由はない、会ってもよいと返事をした。だが、考えてみると、寺内氏の処に出入する新聞記者といえば、大抵いわゆる札付きの連中が多いように見えた。私は君子は危きに近づかずという格言を守って、ついに寺内に近づかなかった。
 寺内氏に特別な懇意な人に西原亀三氏がおった。これは西原借款で有名になった人で、中国の段祺瑞に何億かの借款を与えた。西原氏はむしろ恬淡無欲の人で、日中両国提携して東洋の繁栄を促進するという、極めて公明正大な人であった。私は寺内嫌いで、その飛ばっちりで西原借款をも攻撃したが、西原氏はそのことを少しも意に介せず、ある日国民新聞社に蘇峰氏を訪ねたついでに私にも会った。そしてかれと非常に懇意になったが、かれは私に向って、寺内に会えとも、寺内攻撃をやめよとも言わなかった。かれは極めて親切な、恬淡無欲の人で、私はかれと親友になった。太平洋戦争の終る頃、かれは丹波の山の奥の自宅に引っ込んだ。私は今頃かれはどうしているかと始終考える。
 寺内内閣の潰れた後が、原敬の政友会内閣であった。大正七年九月の成立である。
 私は明治以来の政治家を評論するとき、維新以来の日本の偉人といえば福沢諭吉、大隈重信、原敬の三人だとしばしば書いた。そして今でもそう思っている。不幸にして福沢氏とは一度も面会したことがない。かれをよく知っている人は時事新報系統にはたくさんいるであろうが、別にその人たちから福沢氏の話を聞いたこともないのに、私が福沢氏に傾倒する所以は、かれの『福翁自伝』を読んでからのみである。かれは日本の開国当時の混乱と騒擾時代に際して、平然として学生を教え、世間を指導する書物を書いていた。そして自分が大官や参議になることを絶対に拒否して、ただ学校と新聞に拠って一世を指導した。その人物が恬淡無欲であるために、その言論が権威をもったと感心している。
 大隈氏とは私自身が早稲田の学生であった関係で、しぼしば接近する機会が多かった。私が感心しているのは、かれが国内政治ではしぼしばヘマをやったり、あるいはマゴマゴしたこともあろうが、かれがいつでも世界全体を目標として議論を立て、行動を規定することは偉いと思った。かれの言うことを聞いてもその風貌を見ても、かれの関心は世界と共にあるという気分が溢れていた。小心翼々として自分の利害や自分の政党のことに没頭している政治家に比較すると、その規模が違うと思った。ことにわれわれ早稲田の学生のいうことは何でもよいという態度であった。何万というわれわれ学生をみんな自分の孫だと思うらしかった。
 原敬氏は福沢や大隈とは全く異った型の人物であった。私はかれと懇意になったが、かれに初めて逢ったのは、かれが内閣を組織した後であったと思う。それは前に述べた横田千之助が私に向って、一度総理にお会いなさい、総理には特別に話してありますからというのがきっかけであった。その当時、原敬氏に最も懇意であった新聞記者は「時事新報」の前田蓮山氏だということは、われわれの仲間でぱ周知の事実であった。私も前田とは後に懇意になったが、その当時は競争相手であった。新聞として最も神経的になる競争は人事に関する報道である。例えばパリ講和会議に行く全権は誰であろうか、ワシントンの海軍軍縮会議の全権は誰かということを探す段になると、新聞記者は神経衰弱的に興奮する。ワシントン軍縮会議の時に当時の貴族院議長の徳川家達公が行くと素破抜いたのは、「時事新報」であった。私は前田蓮山にやられたと頭を抱えた。後に蓮山に向って、君は原にいつ頃遇うのだと聞くと、蓮山は夜の一時半に来いということもあると答えた。パリ講和会議の首席全権が西園寺であることは「国民新聞」が素破抜いた。これは横田が私に漏らしたのである。今は原も横田も故人になったのであるから、その経緯を語っても誰の迷惑にもならないであろう。
 一九一八年十一月ドイツの降伏によって、第一次欧州大戦が終り、その講和会議がパリに開かれると決った。そしてその会議に日本からは誰が全権として行くか、すべての新聞社はそれこそ血眼になって探しにがかった。しかしこれは容易に判るものではなかった。われわれもこれは力及ばず、ほとんど絶望せんとした。講和会議の期日が近づくにつれ、各社ともに神経過敏になっていた。
 ある夜私は新聞社から横田に電話をかけて電話口に出てもらった。-そしてパリに行く首席全権は決まりましたかと、さりげない様子で聞いた。向うからは、よく知りませんがもう決まりそうですぜという。私は、誰ですか、総理ですかと聞いた。横田は総理は行くわけには行きません、もっと上かも知れませんぜという。私は総理の上といえば西園寺だが、西園寺は行かれないでしょうと言うと、横田は、いや、それがどうですかねと言ってクスッと笑った気配がした。へえ、そうですがね、有難うと言って私は電話を切った。これ以上ねばると、新聞に書いては困ると言われるのを恐れたのである。そして編集の机にかえると、西園寺の写真を大きく出そう、講和会議の全権が決まったのだと私は叫んだ。翌日の新聞にはそれがデカデカに出る。他の新聞を見ると林のごとく静かであった。私は少し不安を感じた。もしこれが間違ったら、新聞史上の大誤報として残るのである。しかし横田があれほどに言うのだから、大丈夫だと自分で自分に言いきかして安心の顔をしていた。その翌日になると、ほかの新聞も西園寺全権ということを少しずつ書きだした。大々的に報ずることはただ「国民新聞」に名をなさしめるだけであるから、そんなに派手な記事にしなかった。
 いよいよ講和会議が開かれることになって、私も「国民新聞」の特派員ということになって、パリに行った。一月三日横浜出帆の郵船「諏訪丸」で米国経由で出発した。この船には当時郵船会社社長近藤康平氏一行も乗っていた。その人達もパリに行くというので、船中は賑かであった。私は六年ぶりにニューヨークに着いた。前に四年も住んでいた所で、どこへ放り出されてもまごつきはしないと高をくくって、ホテルの約束もしないで夕方ペンシルヴァニア停車場に降りた。そして停車場から、前に一年間もおったホテルに電話を掛けてみたが、空いた部屋がないと言う。同行して来た海軍大佐の大角岑生氏(後に大臣になった人)が、それではひとまず自分のホテルに行こう、そこに部屋があるかも知れぬと言うので、ブロードウェー三十一丁目のインペリアルというホテルへ行った。そしてそこの十七階かの部屋で一週間泊った。
 太平洋を渡るときは比較的波が静かで、毎日甲板を散歩していたが、大西洋の波は比較にならぬ程荒かった。上甲板まで波に洗われる。したがって甲板の散歩などは思いもよらぬ有様で、同乗の数人の日本人は上甲板の喫煙室に集まって日を暮した。みんなパリに行く連中であったので、将来の日本をどう持って行くかという議論ばかりした。われわれはロンドンで数日道草を食ったために、パリに着いたのは二月中頃であった。しかし西園寺一行はインド洋、地中海を通って来るので、まだ着いていなかった。
 この会議には日本は連合国側の五大国の一つとして威張っていた。五大国というのは、英、米、仏、伊、日であったが、その中でも強国として米、英、日の三国が数えられた。ロシヤはもとより強国であるが、中途に共産革命が起り、レーニン、トロツキーの天下になり、それがドイツと単独講和を結んだために、講和会議に出席しなかった。パリにある凱旋門の上に連合国の国旗が建てられていたが、その中にロシヤの旗が見えないことに各国が同情していたものである。
 パリ講和会議は、初め米国大統領ウィルソンの声明によると、公開的の討論で決める公開的の約束ということであったが、会議の進行はなかなか公開的でなかった。ことに日本から来ている外務省官僚はやはり秘密主義の人が多かった。それは別に新聞記者を目の敵にするのではないが、同省の同僚に対しても、容易に自分のもっている情報を与えない。自分のみが知っているということに官僚の立身出世の秘訣がある。それ故に、講和会議の進行の模様については、面白いニュースは取りにくかった。
 西園寺公がパリに着いたとき、われわれ日本の新聞記者とどこかのホテルで会見することになった。私はちょうど、西園寺公の隣りの椅子におったので、公が煙草を喫まんとするとき、マッチをすって差出した。公の手が微かに震えているのを見て、はるばるパリに来られたことに同情した。公が若かりし時はパリを遊んで歩かれたとは聞いていたが、全権会議などに出るのには興味索然たるものがあるだろうと思った。新聞記者との会見もお座なりで、熱はなかった。
 全権の中で私がしばしば会ったのは、牧野伸顕伯と珍田捨巳の両氏であった。牧野伯には人種平等案を強く主張されるよう希望を述べたのであるが、今から考えると、人種平等などは国力さえ強くなれば自然に出来るので、そんな議論をするのは畢竟田舎者だと、今から思うと汗顔の至りである。
 パリで最も懇意にしたのは珍田捨巳大使であった。かれは私がニューヨークにおった時のワシントン駐在の大使であった。ニューヨークで何かの宴会があって、かれはそれに出席して、その夜はホテル・プラザに泊られた。それでニューヨークの領事館の堀義貴君とともに、大使のところへ遊びに行って、夜遅くまでウイスキーを飲んだことがある。堀君が翌日大使を見舞に行くと、大使は私らのいた部屋から自分の寝室まで歩けなくて、逼《は》って行ったと言われたそうだ。
 パリに於けるわが全権はみんな最善をつくしたであろうが、日本はこの世界大戦ではわずかにドイツの東洋に於ける根拠地と艦隊を駆逐しただけであるから、大して華々しい成果を挙げることは出来なかった。しかし私にとっては、パリに行ったために数人の友人が出来た。それらとは日本に帰ってから一緒に運動したり、あるいは親友になった。そのなかに鈴木文治、永井柳太郎、中野正剛、長島隆二という連中がおった。
 この連中とともに私はパリに於ける日本の使節団が発散する官僚的空気に憤慨して、日本に帰ったら普通選挙を主張しようと相談した。日本には別々に帰ったが、一緒になってから、われわれはしばしぼ演説会を開いた。永井、中野、長島ともに有名な雄弁家であった。私は演説はほとんど経験がないので、いつでも開会の辞を述べた。ある夜、神田の青年会館の演説会が終ってから、小川町の喫茶店でコーヒーを飲みながら、永井柳太郎が僕に向って、君は手を振っても声が出ないじゃないか、と言って笑った。しかし私はやはり、演説では鈴木文治が一番偉いと思っていた。ほかの弁士ぱ喝采されさえずれば満足するが、労働組合を率いている鈴木は、演説は喝采されただけでは満足しない、演説は喝采されても、組合に入って会費を納めるまで来なくてはつまらんという風であった。だからかれの演説は聴衆の胸に喰い入るような調子であった。、
 パリ講和会議で、日本は五大国の一つだと威張ったけれども、日本が第一次世界大戦に貢献したのはわずかに青島攻略くらいであった。それが、国力を挙げて戦った英、米、仏、伊と肩を列べたのは、向うが礼儀をつくした形であった。原敬はそれを知っていた。これが重要な会議と見たら、かれ自身パリに出張したであろう。どうせ儀礼に終始するのだと見たから、元老の西園寺の出馬を懇請して先輩に花を持たした。この頃出版された『原敬日記』を見ると、元より露骨にそうは書いていないし、原は丁寧懇切を極めて西園寺をいたわっているが、かれはパリ会議など大したものでないと思っていたことは事実である。
 私は原氏には芝公園のかれの家でしばしば会った。別に新聞種を聞こうとするのでなく、ただ書生論を闘わすのみであった。忙しいにもかかわらず、原氏は世上百般のことを議論した。「君は今原内閣を攻撃するが、そう出る釘々の頭を叩いては、日本に偉い政治家がいなくなるぞ。あの水戸藩がそうだ。議論ばかりして財産も平均させたから、ろくな奴はいないじゃないか」と机のふちの釘を打ち込む真似をしながら、滔々と議論した。かれは首相として偉がるよりは、たまには昔の書生論を闘わすのが愉快らしかった。
 それからしぼらくして、原氏は東京駅で暗殺された。その遺骸が盛岡に送られた後、芝のかれの家に焼香に行くと、かれの位牌を置いてある小さな部屋の畳はほとんど擦り切れていた。あれほど時めく首相もこんな質素な暮らしをしていたかと、私は不覚の涙をこぼした。


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