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馬場恒吾「自伝点描」「自伝」「読売新聞」時代

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「読売新聞」時代

 十二月八日の衝撃

 サンフランシスコで調印された講和条約が発効し、日本が独立国として再出発する時、日本が如何なる性格をもって列国と交わるであろうか。これは世界全体が興味深く、注意深く見守っているところである。それに答えるために、日本が太平洋戦争を始めた時から今日に到るまでを、私が街頭の人としてどういう心持ちでいたかを書く。
 これがこの期間の時局に対して、一般の日本人がどういう反応を示したかの参考になるであろう。
 日本が対米戦争を始めた一九四一年(昭和+六年)十二月八日、私は私の余り広くない東京郊外の家の応接間で客と対談していた。女中が茶を運んで来て部屋の戸を開け放しにして在った。そこから茶の間のラジオが叫ぶのが聞えた。「日本は英米と交戦状態に入れり」というのである。私は「アッ、しまった」と思わず叫んだ。その衝撃のために、その時の客が誰であったかをその後いく度も思い出さんと勉めるが、どうしても思い出せない。真珠湾攻撃が米国に衝撃であったと同様に、日本人に対しても衝撃であった。このような戦争は日本が太平洋を越えて米国に行き、北米大陸を横断してニューヨークに行き、それから大西洋を越えてロンドンまで行く計画と準備を具えているのでなくば、始めるべきでなかった。
 しかるに事実はそうした準備は誰も考えたことがなく、ただ欧州戦におけるドイツの一時の優勢に眩惑されたるわが軍人の浅薄短慮さが生んだ、冒険以外の何物でもなかった。その時までの私は四十年間を新聞記者や寄稿家として過して来たのであるが、真珠湾攻撃の一年程前から、日本の軍部の指図によるものか、私は新聞、雑誌への執筆を禁ぜられていた。そしてこの箝口令《かんこうれい》は戦争が終るまで続いたのである。
 しかるに、戦争の形勢が日本に不利になるに従って、日本の軍部はわれわれ自由主義的傾向のある言論人に対する圧迫を強くした。私自身も二度も憲兵隊に引っ張られた。別に何を書いたとか、何を企てたという疑いがあったのでなく、ただ何を考えているかを質問するためであったと思われる。これは私のみに限ったことでなく、自由主義的な他の評論家や寄稿家はいずれもぞうした圧迫と迫害を蒙った。
 日本の代表的な評論雑誌の「中央公論」と「改造」の社長は、横浜の警察署でいく日にもわたって訊問と脅迫に遇った。そしてそれからはそれぞれの雑誌を一時休刊するのやむなきに到った。それが日本が無条件降伏をする時まで続いたのである。降伏が一九四五年(昭和二+年)八月十五日であったことは、誰も記憶しているであろう。その時私は信州の片田舎に疎開していて、ラジオで降伏の詔勅を聞いたのである。東京の家は空襲で焼けてしまった故、戦争が終っても東京に還ることが出来ず、十一月の末頃まで田舎にいた。

 読売争議の思い出

 マッカーサー元帥の占領政治は圧迫されていたところの日本の民主主義者に復活の動機を与えたが、同時にそれは共産党に活動の機会を与えた。私が「読売新聞」の社長となって、その新聞社に初めて行ったとき、編集局は共産党に同調する幹部によって支配されていた。そして私はそれと戦うべき運命に置かれていた。約半年にわたる闘争の後、新聞社内で共産党的の色彩を帯びるもの三十余名を社から退かしめることに成功した。
 それにはGHQことにCIEのインボーデン中佐()の熱烈な声援があったことが忘れられない。かれは一九五二年四月十一日、甲府で演説して、秩序のなき自由は無政府状態であり、自由のなき秩序は専制主義だと言ったごとく、過去六年間、新聞の民主化に努力した。
 戦後私が突然「読売新聞」の社長になった当時、編集局には共産党に同情する五、六人の幹部がおった。私はこの人々に退職を求めた。ところが、かれらに同調する連中が騒ぎ出したために、私の意志が通りそうになかった。それで私の方がご免を蒙るほかに方法はないと思って、社の重役宛に辞表を出して逗子の宿に引き上げた。同時にこの辞表を英文に訳して、GHQにいるインボーデン(その時分は少佐)に見せた。
 私は当時「読売」には逗子から通っていたために、辞表を出してからは悠々自適の生活を取り戻したいという気持ちになって、二、三日は逗子の海岸を散歩して暮らした。
 ところである日、司令部の高官の一人から東京に出て来いという伝言があった。そこに行くと、なぜ「読売」を罷めるのかという。編集部幹部が私の言うことを聴かないから、私の方で罷めるのだと言った。その幹部というのは誰だと聞く。これこれだと四人の名を挙げた。
 するとその高官はソッと自分の机の引き出しを開けて、中をのぞき込んでいたが、私に向ってまだあるだろう、これはどうだと言ってほかに二人の名を挙げた。それは私の胸でも黒星を付けてある人々であったが、一時に六人を罷めさすのは私には少し荷が重過ぎると思って、四人だけしか言わなかったのである。それをGHQがすでに知っていると見えたので、私はその二人も実は罷めさせたいのだが一時にはどうかと思ったのだ、と正直に言った。
 相手はそれも一緒に罷めさせたらよいだろうと言う。私は思わず椅子から立ち上がって、それならやりましょう、だがこの騒ぎに対して、私は最後までGHQが私を後援するものと期待してよいかと言った。それは期待してよろしいと言う。その約束を固めるために、私の方が手を差し延べて力一杯握手した。
 後に新聞社にストが起って、工場の植字工が活字を拾わず、新聞が四日間休刊するのやむなきに到った。最後にスト反対の社員が罷業者を社外に押し出したとき、GHQの士官が騎馬で有楽町のガードの所に立って、デモ行進する罷業団を新聞社の方には来させずに、日比谷公園の方へ行進せしめた。新聞社の前にはジープが列んでいた。

 新聞課の好意

 しかし司令部全体の意見が、共産系の活動に反対しているとは言えなかった。新聞社で私に反対する六人の指導者と見られた人々に退社を要求した後に、私は突然日本側の検事局(P 日比谷公園に面する北側の役所)から呼び出されて、読売争議の事情を聞かれたことがある。
 案内を知らない私が二階か三階の廊下をうろついていると、そこへ「読売」から追い出された社員の一人が通りかかった。手首にはめられた手錠をガチャガチャいわせながら、「馬場さん、あなたのお陰でこんな目にあいました」という。
 それで私がここに呼び出されたのは、日本側で事件を調べているのだなと気が付いた。私は調べられた時、ただ編集方針が違うのでかれらに退社してもらったので、別に刑事問題でも何でもないと言った。
 ところでそれから数日すると、総司令部の他の部局のコンスタンチノという人から私に向って、何日の午前十時までにかれの事務所に来いという通知が来た。その当時も私は逗子にいたので、午前十時は困る、十時半にしてくれという返事を出した。
 それで指定の日の十時半に行ってコンスタンチノの部屋に行くと、「馬場さん、あなたは遅い遅い」という。「私は三十分遅れると返事を出したじゃないか」と言った。
 私は昔ニューヨークで、「オリエンタル・レビュi」という英文月刊雑誌を出していて、米国人の新聞記者を使ったり、街のバーを飲み歩いたりして言葉が乱暴になっているので、占領治下には不向きであると思われた。コンスタンチノは急がしそうにコーエンという人のいる別の部屋に私を連れていった。
 そこで驚いたことには、読売から退社してもらった人々が、今度は手錠もはめずに悠々と弁当を食っている光景であった。正面にはコーエンが何か言い渡すかのごとく坐っている。それと向い合って、テーブルを隔てて私を坐らした。そして、民主主義的な新聞のあり方についてレター・ペーパー半ページばかりにタイプした書き付けをくれた。私はザッと目を通すと、書いてあることは当り前のことだから何も言わなかった。コーエンが口述することにも別に変ったことはなかった。
 けだしこれは私が読売から追い出した六名に対して、司令部の一部は好意を表するという示威運動であろうと思った。この口述の半ば頃に司令部の民間情報局のパインズがこの部屋に入って、私の傍に坐った(パインズは今では司令部を罷めて、独立の事業家になっている)。かれはこの会見の終るまで一言も吐かなかった。けだし新聞情報課では私が司令部の他の局に呼び出されたと聞いて、パインズを監視に寄越したのかと思われる。私は今でも新聞課には感謝している。

 リッジウェー大将論

 これも争議の最中であったが、マッカーサー元帥に会見する機会があった。当時新聞協会長であった伊藤正徳氏が、ある日突然「読売」に来て、マッカーサー元帥が会見するというから今から行こうという。一緒に行くのは「毎日」の永戸君、「朝日」の長谷部君で、みんな車で下で待っているという。それで四人がマッカ!サ!の部屋に通されるとベーカー将軍がいて、私を元帥と肱が触れるほどの椅子に坐らしめた。
 元帥はなかなかの雄弁で、日本を育成教化する趣旨のことを述べた。それが終ると、私は別に何も言うことはないような気分になって、四人揃って退去した。
 元帥に面会したのはそれ一度切りであったが、元帥が五年たらず日本におって、日本の健全な復活に努力したことは、日本人の誰もが感謝するところであった。だからかれの解任されたとき、われわれ日本人はほとんど挙ってマッカーサーの去ることを惜しんだ。私自身は一九五一年四月、かれが羽田を出発する時刻に私がいる目黒の上空を眺めて、かれの飛行機が見えはしないかと爆音に耳を澄ましていた。
 しかし飛行機は羽田からまっすぐに海上に飛び去ったらしく、その姿は見えなかった。けだし大抵の日本人は同じように別れを惜しんだと思われる。
 後任のリッジウェー大将には、一九五二年三月、やはりGHQで会った。「毎日」の本田、「朝日」の村山、「読売」の安田の諸氏と一緒であった。リッジウェー大将は、マッカーサi元帥に比べて非常に親しみ易く感ぜられる人であった。
 かれは日本流の低いテーブルの上に置いたコーヒーをわれわれの茶碗に注いでくれて、話をする態度も極めて懇談的であった。話の内容も新聞に出た通りで、別にそれを新聞に発表せよともするなとも言わず、親しみのにじみ出る人柄であった。それは政治的野心のない米国軍人に共通な性格であろう。私はかれが日本にいることが米国のためにも日本のためにもどんなによいか知れないと思っていたが、かれは欧州のアイゼンパワー元帥の後任として欧州に往っている。

 一つのディレンマ

 戦後共産党が跳梁を始めたのは『,読売」に於てのみでなく、他の新聞社にもあった。そして社会全体が不安の空気に掩われていた。これは日本の民主主義化の一つの行き過ぎであった。しかしマヅカーサー元帥に率いられた総司令部は共産党に対して好意を示さず、 「読売」の例は特別として、社会各方面に現われた赤がかった傾向の指導者と運動を弾圧した。その結果として、占領一年の後には共産党的の活動は、社会の表面から姿を消した。けだしそれは地下にもぐって、占領政治の終るのを待っていたのであろう。
 これは占領政治が終って、日本自身の力によって日本の政治を行うという今日、われわれ国民としては、慎重な考慮を払い重大な決心を必要とすることである。われわれは一つのディレンマに面している。われわれは日本を無謀な戦争に逐い込んだ昔の軍閥、またはそれに類似したものを復活することは絶対に避けなければならぬ。
 政府が軍部を制圧し得ず、国民の協賛なき戦争を始めさせたのは、他に原因もあろうが、主たる原因は軍部が余りに強くなって独断専行をこととしたからである。この事実は、日本人なら誰でも認めている事柄である。何故軍部がそのように横暴になり得たかと言えば、それは昭和七年に軍人が徒党を組んで、時の首相犬養毅をその官邸で銃殺し、続いて昭和十一年にはまた軍人が兵隊を率いて岡田首相をその官邸に襲撃し、他の長老政治家を四人も殺したのである。こうした暴挙を事前に止め得ない陸海軍はたしかに規律がみだれていた。
 それ故にこそ、かれらは国民の意向をただすことなく、真珠湾攻撃からマレー沖海戦を始めたのである。戦後の日本国民は、こうした無軌道な陸海軍の行き方を断じて排撃しなければならぬ。これは国民全体の信念であろう。
 われわれは五十年間も民主政治を経験し、そしてその味を知っているのであるから、もし軍部に過大な権力を与えなかったならば、それを失うこともなかったであろう。今面目の国際情勢に照らして見れば、日本は自分の存在を保つためには再軍備しなければならぬ。これは何人の目にも明白な事実である。
 同時に、戦前のごとく軍人をして国策を随意に決定せしめる危険に対して、極度に警戒しなければならぬ。これも国民の常識になってひる。それ故にこそ、現在の政府および新聞は再軍備を主張するに躊躇している。このディレンマを解消する簡単な方法は、軍部大臣を文官制にすることに限る。それは日本にまだ軍部なるものが正式に存在しない今日こそ最も簡単に、そして反対するものもなく実行出来る事柄である。そうして日本の民主主義が育成強化されるならば、戦争と占領の十年間の犠牲も無駄ではなかったと言われるであろう。

 松葉杖の日本

 講和条約が効力を生じたと同時に、日本は独立国となる。しかし軍備を有せざる日本は病後の身体と同じく、松葉杖に頼って漸く街頭に出たという状態である。往来を眺めると一人歩きは危なかしく、とても見ていられない状態だと評し得る。それ故に、今まで日本の占領を掌っていた米国が日本に進駐軍を貯める。そして外敵の侵入がある場合にそなえる。それは世界の平和を守るために採られる最少限度の処置であろう。それに反対するのは、他の方面から日本を占領しに来るもののあることを肯定するものであろうかと一般から疑われる。
 われわれ日本人は日本人たる性格を取り戻すことから初めなければならぬ。すでに十年の一昔になったが、日独同盟を結んでヒトラーの靴の紐をも結ばんとした日本の軍人や外交官は、今|何処《いずこ》にある。かれらの大部分はすでにこの世から去った。しかしかれらの浅薄短慮な考え方が日本を駆って対英米の太平洋戦争に突入せしめ、その結果が無条件降伏と六年半の占領政治になった。
 心ある日本人は初めから太平洋戦争に疑問をもっていた。しかしそれに反対のようなことを気振りにも見せると、たちまち憲兵隊に引っ張られるのであった。
 米国進駐軍の占領政治の方がそれよりましであった。それは米国流の民主主義、自由主義を旨としたからである。しかし如何に温情と好意に溢れていたにせよ、占領は占領であった。温室に閉じこめられたよりは寒風吹ぎすさむ曠野に出たいというのが野性を保存している人情である。米国の保護育成に対しては、われわれ日本人は深く感謝する。しかし今は日本人としては独立独行して如何に日本の真面目を発揮するか、如何に人類の平和と発達に貢献するか、その方針を考えることが焦眉の問題であろう。そしてこの問題を満足に解決することが即ち、米国の好意に酬ゆることになろう。

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