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斬馬剣禅「東西両京の大学3」

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(十二) 白眼《はくがん》天下を睥睨《へいげい》し、行動常に人の意表《いひよう》に出でて、飄逸《ひよういつ》ほとんど止《とどま》る所を知らざる和田垣謙三、自ら東洋のバイロンをもって任ぜる長田秋濤《おさだしゆうとう》と友とし善し。かつて相共に觴詠酬酢《しようえいしゆうさく》の楽しみを肆《ほしいまま》にし、到る所|奇行《きこう》を演ず。その相|携《たずさ》えて横浜に至るや、長田その知人なる元町《もとまち》の医師|繁田《しげた》なるものを訪う。時に両人|酔眼《すいがん》すでに朦朧《もうろう》たり。その標札《ひようさつ》の如何《いかん》を験するに遑《いとま》あらず、門前和田垣を待たしめて長田独り入り、その懇親《こんしん》なるに乗じ、玄関より案内をも請《こ》わずして客室に至る。すでにして長田その室内の装飾のはなはだ従前と異なるものあるを発見し、初めてその転居したるに気付き、倉皇《そうこう》として室外に逃《のが》れ、驀然《ばくぜん》門を出でて走る。家人大いに驚き、もって盗の闖入《ちんにゆう》となし、疾走《しつそう》これを追跡す。門前一個|肥大漢《ひだいかん》の彷徨狼狽《ほうこうろうばい》するを見、乃《すなわ》ちこれを捕う。軽敏《けいびん》なる長田はこの時逃れ、すでに数十間の外にあり。遥かに顧《かえり》みてその和田垣が、「僕の朋友が云々」と弁疏《べんそ》しつつあるを見、心中の可笑《おか》しさを忍んで姿を隠せり。すでにして和田垣の帰来するを待ち、その情を問いしに、彼ほとんど窃盗《せつとう》の従犯として警官の手に引渡されんとせりといえり。
 その彼等が『互いの疑惑』を訳さんがために日光にあるや、その名物やまめを食わんと欲し、市中を徘徊《はいかい》す。その掛行灯《かけあんどん》「やながわ」と記せるを見、通人《つうじん》をもって任ぜる彼等はやまめの別名となし、直《ただ》ちに入りてこれを命ず。婢の運び来るに及び、その柳川|鰌鍋《どじよう》なるを見て、相|顧《かえり》みて唖然、初めて善《よ》く游《およ》ぐもの善《よ》く溺《おぽ》るる所以《ゆえん》を知れりという。稿すでに成《な》り、帰ってその歌舞伎座の茶屋三州屋の二階に蟄居《ちつきよ》するや、酔余|灰吹《はいふき》を覆して火を出さんとし、暗《やみ》夜《よ》二階より放尿して、「火の用心」の頭上に注《そそ》ぎ、有髯肥大《ゆうぜんひだい》の和田垣|叩頭百拜《こうとうひやくはい》して、ようやくその怒りを釈《と》くことを得たるの珍事ありしがごとき、今にして有名なる談柄《だんべい》なり。
 飄逸かくの如き和田垣が、その頓才に富み、滑稽《こつけい》に長ずる決して偶然にあらず。彼の狂歌狂句の中もっとも著しきものを挙ぐれば、かつて春候桜花爛慢《しゆんこうおうからんまん》たるの際、その隅田川《すみだがわ》にボートを浮べて、長堤十《ちようてい》里の花を見んか、小金井《こがねい》に遠足を試みて、落花渓流を埋むるの趣を称せんかとの評議|区《まちまち》々たりし事あり、彼たちまち、
 桜花|小金井(こがねい)もよしこぐもよし
の警句を吐きたりという。その民権自由の論天下を風靡《ふうび》し、板垣《いたがを》伯の名|朝野《ちようや》を震盪《しんとう》するの時、
彼品川において牡蠣《かき》を食い、
一首を賦して曰く、
  世の中はカキの味こそよかりけれ
     板垣伯に和田垣博士
と、その奇智大概《きちおおむね》かくの如し。人の彼を呼ぶに無駄垣《ヘヘへ》をもってするもの偶然にあらず。
 洒脱風流かくの如き和田垣は、その胸宇の磊落《らいらく》にして、寛容の気を具うる点において大学教授中|稀《まれ》に見る所の大器なり.、これをもって彼常に小事に拘泥《こうでい》せず、その有名なる借財のごとき、また他人の窮を救うに出しもの多しという。殊に吾人が彼の人物において敬服する所は、常に天真爛慢《てんしんらんまん》にして、些《いささか》の修飾なき一点にあり。吾人もまた彼が日常自ら任ずるごとく、彼をもって、「大きな青年」となすを憚《はばか》らざるなり。しかも佶屈贅牙《きつくつこうが》外面の粉飾をこれ事とする、いわゆる東洋流の青年は決して彼の当る所にあらずして、天空海闊《てんくうかいかつ》大樹《たいじゆ》の天に冲《ちゆう》するがごとき、いわゆる自然的なるをもってその特色とせる西洋流の青年は、初めて彼の人物を表示することを得べきなり。

(十三)無味乾燥なる法科大学の講座中、その滑稽諧謔《こつけいかいぎやく》をもって、日常学生を笑殺《しようさつ》しつつある者博士和田垣謙三以外、ただ田尻稲次郎《たじりいなじろう》あるのみ。田尻はもとより和田垣のごとき風流才子にあらず、趣味|富瞻《ふせん》なる文士にもあらず。ただ彼はその理想|高遠《こうえん》にして、自ら標置《ひようち》する所はなはだ高きの故に、滔《とうとう》々たる天下の俗物の行動は、彼の眼中ただこれ一種のポンチ画としてその印象を止めずんばあらず。これをもって彼の諧謔《かいぎやく》はことごとく批評的、冷笑的《れいしようてき》にして、その半面において必ず実用を兼ねたり。ゆえに諧謔その物においては、和田垣のごとき風流気なく、文学的趣味に乏しく、全く純然たる地《じぐち》ロ駄洒落《だじやれ》の類にして、品質遥かに劣れりといえども、常に崇高偉大《すうこういだい》なる財政政策、紛糾錯綜《ふんきゆうさくそう》せる金融論を説くの間に、巧みに機宜《きぎ》に投じて纏綴《てんてい》せらるるが故に、その地口《じぐち》や駄洒落《だじやれ》やまた一段の妙味をもって歓迎せらるるに至るなり。あたかもこれ百尺の懸崖巍《けんがいぎぎ》々たる巌角《がんかく》を纏綴《てんてい》して咲きたる野花は、その平原|蓬草《ほうそう》の間に咲けるものよりも、さらに一段の光彩あるがごとく然《しか》り。
 かつそれ彼の冷笑的なりと云うもの、必ずしも、和田垣のごとき世人の冷眼視《れいがんし》し、愚弄《ぐろう》し尽《つく》して自ら快なりとする所の無責任なるにあらず。彼の胸中には炎々燃えて、而して尽きざる社会を思い国家を憂うる赤心《せきしん》のあるなり。故に彼の諧謔《かいぎやく》の一面にはまた実に慷慨《こうがい》の情、悲憤《ひふん》の心、撥溂《はつらつ》言外に躍動《やくどう》するものあるを認めしむ。これをもって彼の諧謔は啻《ただ》に漫然一笑《まんぜんいつしよう》に付《ふ》し去るべき尋常滑稽事《じんじようこつけいごと》にあらずして、ことごとくこれ実用実益を兼ねたり。すなわち啻《ただ》にその説明の余興たるのみあらず、また実にその講義の主要なる部分たり。これあるがために彼の慷慨《こうがい》は人を動かすの力あり。これあるがために彼の決論は余韻《よいん》はなはだ多し。もしそれ彼の説明より彼の諧謔を除けば、あたかも眼睛《がんせい》を点ぜざる竜のごとく、彼の講義の全体はために恐らくは生気《せいき》、活気《かつき》なく、彼の滔《とうとう》々たる腐儒死学者《ふじゆしがくしや》のそれと区別なきに至らん。
 彼かつて銀行論を講じ、その小切手の経済上における妙用《みようよう》を説いて、やがて銀行における預け金より多く小切手を振り出すものの弊害《へいがい》に論究し詈《ののし》って曰く、「小切手の過振りということをやって、日歩を盗取するというような小刀ばかり振り廻すのが、日本人の癖《くせ》で、困ったものです。大薙刀《おおなぎなた》を振り廻すやつは、古昔から弁慶《べんけい》一人ですからね」と。経世家《けいせいか》の面目《めんもく》言外に躍如《やくじよ》たり。誰か彼をもって尋常一片の滑稽家をもって目するものぞ。
 またかつて中央銀行の営業準備の種類を列挙し、その各制度の利害を比較論評して比例準備法に至り、罵《ののし》って曰く、「比例準備法というのがまた実に不条理《ふじようり》な奴《やつ》で、それが三分の一とか四分の一とかの銀行紙幣は何時《いつ》も銀行に保存して置くべしというのですがね。元来《がんらい》生きて居る市場を、この死数の比例というもので凡《ずべ》て律して行こうというのが、已《すで》に間違って居る。必要な時はどしどし市場に投下させるが善し、必要の無い時は、四分の一といわず、三分の一といわず、出来るだけ保存さしたが善い。……古昔から死んで生きたものを走らしたは、わしの知って居る所では、孔明《こうめい》一人ですからね」と。何ぞその談論の縦横《じゆうおう》にして、決論の余韻に富めるや。しかもその言外|真摯《しんし》の気の、人をして粛然襟《しゆくぜん》を正さしむるものあるは、彼の講義を通じて一貫の事実なり。
 彼またかつて我国経済上の国是《こくぜ》を論じて曰く、「我国は農をもって立とうかというのに、ノーノーというの外はない。商工業をもって立とうかというに、今日の様な有様ではどうもこうも、しょうがないですからね」と。地口《じぐち》もかくの如き場合においては、無限の妙味あり。要するに彼の諧謔をしてもっとも興味あらしむるものは、諧謔その物にあらずして、彼の人物にあり。

(十四) もしそれ天下の人物にして、その外形と実際との相背反するものありとせば、けだし博士田尻のごとき、そのもっともはなはだしきものの一なり。彼は疎衣疎帽《そいそぼう》、一見《いつけん》役所の小吏のごとく、いかに高く見積るとも決して判任官八等を出でざるなり。しかもその実際に至りては、官大蔵省総務長官、会計検査院に歴任し、人臣としてまた男爵の栄位を極めたり。これその外形実際の相異なれる一なり。彼|躯幹矮小《くかんわいしよう》、形容|枯槁《ここう》いわゆる累《るいるい》々たる喪家《そうか》の狗《いぬ》のごとし。而《しこう》してその蘊奥《うんおう》を叩けば、学識深遠《がくしきしんえん》真に法学博士の学位を値し、経綸縦横画策湧《けいりんじゆうおうかくさく》くがごとし。これその外形、実際の異なる二なり。彼平生滑稽諧謔、口を衝《つ》いて出で、人に会すればすなわち冷評、漫罵《まんば》をもって相見《あいまみ》え、絶えて真面目の談話をなすの間隙を与えず。これをもって人ややもすれば彼をもって滑稽一片の人物となし、田尻の名を聞いて直ちに事を計るに足《た》らずとなすものなきにあらず。しかれどもその真情を叩けば、これ極めて真摯誠実《しんしせいじつ》の人、啻《ただ》に世を憂い、時を慨するの赤誠《せきせい》あるのみならず、その職務に忠実にして、後進の誘掖《ゆうえさ》に力を致すを惜《おし》まざるごとき、これその外形と実際と異なれるの三なり。
 彼の外貌のいかに頓着《とんちやく》せざるについては面白き談あり。彼が新《あらた》に会計検査院長に任ぜらるるや、彼はその新任の披露をなすべく初めて出頭せり。すなわち例のごとく、茶色の背広服の上に、窮屈《きゆうくつ》なる羊羹色《ようかんいう》の外套を被《かぶ》り、洋杖を提げ、大風呂敷を抱え、ギロギロ眼睛《がんせい》を回転しながら闊歩《かつば》してもって来る。院長の御入来《ごにゆうらい》を今や遅しと待ち受けたる守衛《しゆえい》は、この矮小漢《わいしようかん》の臆面《おくめん》もなく玄関口より闖入《ちんにゆう》し来るを見、大喝一声《だいかついつせい》その無礼を咎《とが》めて、姓名を問う。彼簡単に答えて曰く、「わしは田尻《ヘヘロ》です」と。守衛大いに驚き、「ヘーッ」と一声、大いにその疎忽《そこつ》を謝したりという。すでにして導かれて院長室に入るや、彼大風呂敷を卓上に置き、独り行いて就任挨拶《しゆうにんあいさつ》をなさんとし、各室の戸を半《なか》ば開き、首だけ露わして告げて曰く、「わしが田尻です。よろしく願います」と巡行一回、各室すべてかくの如し。全院上下の属僚意《ぞくりよう》外の感に打たれて呆然《ぽうぜん》たり。けだし今にして該院《がいいん》の好|話柄《わへい》たるもの偶然にあらず。

(十五) もしそれ彼が外貌の滑稽磊落《こつけいらいらく》にして、極めて小事に拘泥《こうでい》せざるの風あるにかかわらず、中極めて真摯《しんし》、善くその職務に忠なるがごとき下の一事に徴して明らかなり。彼ある朝大学に来り、定刻講壇に登る。やがてその身体を椅子に下《おろ》すや、携《たずさ》うる所の風呂敷包の中より、二個の鶏卵と一|罎《びん》の牛乳とを取り出せり。学生はその果して何の用に供するやを疑い、あるいは彼の滑稽なる克く教場において手品を教うるにあらずやと。衆目彼の顔面に注《そそ》がれたりしが、咄嗟《とつさ》彼は二個の鶏卵を卓上に割りて畷《すす》り終り、その学生が呆気《あつけ》に取られつつある間に、彼は早くもまた牛乳を飲み終りて、さて学生に挨拶《あいさつ》して曰く、「諸君|失敬《しつけい》しました」と。教師が講壇において物を食う、けだし稀代《きたい》の珍事なり。誰がこれをもって本気の沙汰《さた》となすものぞ。人の彼をもって滑稽《こつけい》一片の人物となさんとするもの偶然にあらず。しかれども彼がこの奇行を演ずるに至りし所以《ゆえん》の、その職責を重んずるがためなりしというを聞くに及んで、誰かまた彼の赤誠《せきせい》の人たるに感ぜざらんや。この日彼病あり、前日欠席届を認めて書生に渡せしも、書生ついにその提出を忘れたり。田尻その朝この事実を発見し、学生をして空《むな》しく二時間を待《ヘヘ》ちぼけせしむるに忍《ヘへ》びずとなし、すなわち車を飛ばして教場に至る。ついに朝餐《ちようさん》を嗜《たしな》むるの暇《いとま》なく、牛乳と鶏卵とを齎《もた》らしてこれを教場に食いしなりという。
 かくの如く真摯忠直《しんしちゆうちよく》なる彼は、もっとも後進の誘掖《ゆうえき》に力を致すを惜《おし》まざるの風あり。彼がその収入の幾部を割《さ》いてこれを書生の養成費に充《あて》るや、さすがに財政家だけに一定の金額を定めて、それ以上は一厘も支出せざるも、その定額だけは必ず補助することに定めたりという。彼の書生を愛する啻《ただ》にこれのみに止らざるなり。その出るや必ず牛肉を購《あがな》い来って書生に饗応《きようおう》し、自ら共にその班に列するをもって無上《むじよう》の快楽となせり。一日彼某|貴顕《きけん》を訪い、用談を果して去らんとす。主人彼を送って玄関に到る。ただ見る彼の脱ぎ棄《す》てたりし有名なる長靴は、いかにしけんその偶を失してただ隻脚《せつきやく》を止《とど》むるのみ。主人大いに驚き、家人を走らして八方に求めしむ。一人|縁《えん》の下《した》を覗き、犬の長靴の中より牛肉を出して、これを食いつつあるを見、情を具《ぐ》して主公《しゆこう》に聞かす。田尻頭を掻《か》いて曰く、僕今日書生に食わしめんと欲して中途牛肉を購《あがな》い、その風呂敷を携えざるをもって竹皮の侭《まま》これを提げ、今貴家を訪うに当り、長靴の中侭これを隠して座に上りしに、計らざりき、君が犬に嗅《か》ぎ付《つ》けられて、大事のついに露見《ろけん》に至らんとはと。主客相|顧《かえり》みて唖然《あぜん》たりしという。この一話のごとき、その挙止《きよし》の滑稽にして、しかもその動機に常に真摯《しんし》を失わざる、彼の真面目《しんめんぼく》を写して些少《さしよう》の怨《うら》みなきものというべし。
 かつそれ彼の人力車を傭《やと》うや、必ず老車夫を選ぶという。その的を問えば曰く、余といえども老車夫の脚力の弱くして走るに遅き善くこれを知れりといえども、もし余のごとき好事者のこれを傭うにあらずんば、彼等善く衣食し能《あた》わざるをいかにせんと。世に経世家《けいせいか》なるものはなはだ多し。しかもこれを言い、これを論ずるに廉《れん》にして、これを行い、これを施すにおいてもっとも吝なる滔《とうとう》々として然《しか》らざるはなし。独り彼田尻のごとき、経世家として啻《ただ》にその言の時弊に適中して剴切《がいせつ》なるものあるのみならず、その蒼生《そうせい》を思い、黎民《れいみん》を愛するの至情においてもまたはなはだ切実なるものあり。

(一) 大学はこれ学術の淵叢《えんそう》、人材の藪沢《そうたく》、いかに法律学が日常人間利欲関係の研究を事とすとは云え、雲のごとき法科大学の教授中また一人の仙骨漢《せんこつかん》なかるべからず。すなわち吾人《ごじん》はこれを東西に求めて各《おのおの》々一人を得たり。曰く東京法科大学教授博士|宮崎道三郎《みやざきみちさぶろう》、曰く京都法科大学教授博士|千賀鶴太郎《せんがつるたろう》これなり。
 宮崎と千賀とは共に篤学《とくがく》忠直の人にして、まことに学界の仙人たるに背《そむか》ずといえども、彼等はその分担科目において全くその種類を異にせり。すなわち宮崎のそれは法制史にして、千賀のそれは国際公法なり。もし人物の仙人らしき点において両者果して径庭《けいてい》なしとせば、少くもその分担科目においては、宮崎遥かに千賀に比して、仙人の資格を具備《ぐび》したりしというべし。けだし宮崎も千賀も初めより今日のごとき、純然たる学究的人物たりしにあらず。宮崎の始めその大学にありし時、元田肇《もとだはじめ》、山田喜之助《やまだきのすけ》らと共に、吟社《ぎんしや》を組織し、詩人宮崎津城の名は実にその同人の推重《すいちよう》する所たりしなり。その卒業後においても、また善く政治上の論議を好み、そのドイツ留学中におけるがごとき、また善く宇内《うだい》の大勢を放論《ほうろん》したることなきにあらず。千賀またもと同人社の教頭として中村《なかむら》敬宇《けいう》の知遇《ちぐう》にあい、明治十八、九年頃、東京日日新聞通信員としてドイツに至る。その留まりてベルリン大学に入学するに当っても、その研究科目を政治経済の部門に選び、かの内地雑居問題の論議、朝野《ちようや》に盛んなるの頃に当りては、彼反対論者として盛んに留学同人中に気焔《きえん》を挙げつつありしなり。
 その学者的生活の継続《けいそく》せらるるに従い、宮崎も千賀もまずその研究科目においてようやくその退隠的傾向《たいいんてきけいこう》を生ずるに至れり。宮崎は帰朝後まず大学においてローマ法を講じ、ついで比較法制史に転じ、ついに純然たる日本法制史の教授となれり。ローマ法すでに二千年前の死法たりといえども、今日欧州諸法典の根源たるにおいて、ややこれが研究の現行法講習の上において直接必要のあるあり。かの比較法制史に至りては、ローマ、ドイツの法律発展史にして、ほとんどこれ諸法典の実質を問わずして、ただその名目と年代とを並列するの類なるが故に、もっとも実際に遠ざかりしもの、さらに日本法制史に至りては、ただこれ小中村清矩《こなかむらきよのり》一流考証|稽古《けいこ》の閑事業《かんじざよう》にして、欧州法律を継承《けいしよう》したる現今の法典とは、ほとんど全く関係なきに似たり。而して彼宮崎、猟官漁利《りようかんぎより》の徒多き法科大学において、独り超然《ちようぜん》としてこの壺中《こちゆう》の天地に蟄居《ちつきよ》し、また全く世事を知らざるもののごとし。人の彼を呼ぶに仙人をもってするもの決して偶然にあらず。
 もしそれかの千賀に至っては、ドイツに留まること十六年。政治を修め、経済を学び、ついで国際法に及び、ローマ法に到りしがごとき、一個の新聞記者より出でて、純然たる法律学者たるに終りしがごとき、これまた宮崎と好一対《こういつつい》の進化順序にあらずや。

(二) かの東京法科大学教授博士土方寧に至っては、もとより宮崎、千賀のごとき純然たる仙人にあらずといえども、その名利《めいり》に淡く、学問|道楽《どうらく》なる点において、法科大学教授中やや仙人に近きものなり。しかり彼の専門は民法にして、もっとも法律中の実際的なる部分に属すといえども、彼が民法家として独仏全盛の今日において、卓然《たくぜん》として英法の残塁《ざんるい》を死守し、少しも時流の推移に顧慮《こりよ》する所なきがごとき、すなわちもっとも仙味《せんみ》を帯びたるものにあらずとせんや。
 けだし土方はケンブリッジ大学に学び、いわゆる英国法の精髄《せいずい》を伝えたり。彼の持論に曰く、「法律なるものは、、もし精通《せいつう》を欲せば、ただ一国のものにても、決して研究し尽《つく》すべきにあらず、いわんや各国の法律を兼修するにおいてをや」と。かくの如くにして土方は純然たる英法学者をもって任じ、独仏諸国の法典のごとき、ほとんど棄てて顧《かえり》みる所なきがごとし。この故に今日においては、増島、鳩山、江木の諸博士皆英法学者をもって天下に聞こえたりといえども、恐らくはその造詣到底《ぞうけいとうてい》彼の右に出るものなかるべし。
 かくの如くにして彼の法典調査会委員として、民法|編纂《へんさん》の事に従うや、また独仏の勢力|旺盛《おうせい》を極めたる同会において、独り侃《かんかん》々諤《がくがく》々として徹頭徹尾《てつとうてつび》英法主義を主張したるものは彼なりしなり。不幸南風ついに競わず、法典は独法を緯とし、仏法を経として、今日の成果を見るに至りしが故に、独仏法に暗き彼は、法典上積極的に多大の貢献《こうけん》をなす能《あた》わざりしといえども、他山《たざん》の石《いし》をもって玉を琢《みが》くべきの理に従い、消極的にその各条を批評|品鷲《ひんしつ》し、爬羅剔抉《はらてつけつ》善くその欠点を指摘したるの一事に至りては、彼また与って大いに力ありしと云わざるバ、からず。もし彼をして独力英国主義に従って法典を編纂せしむならば、あるいはまたさらに彼の真面目《しんめんぼく》を発揮し得たりしなるべしといえども、ただわずかに彼の批評的才能を用いしめしに過ぎざるは、もっとも惜しむべしとなす。
 けだし土方は、早くよりその同人中において理論家をもって鳴る。かつて大学生たりし時、山田一郎、三宅雄次郎《みゃけゆうじろう》、山田喜之助《やまだきのすけ》と共に、東海道を旅行し、藤枝の旅舎、たまたま山田喜之助の腹痛のために病床に咆哮《ほうアう》するの珍事に会せり。けだし猪《いのしし》を食った報《むく》いならぬ、得意の鯨飲馬食《げいいんばしよく》の祟《たた》りなり。山田一郎大杯を傾けて、頻《しき》りに飲中八仙歌《いんちゆうはつせんか》を吟じ、三宅雄次郎|虱《しらみ》を捻《ひね》って、独り迷想《めいそう》に耽《ふけ》る。極端より極端に走るフランス気質の山田喜之助、絶望の声を破蒲団《やぶれぷとん》の間より放って曰く、人生生にあらずんばすなわち死あるのみ、余またこの苦痛を忍ぶに堪えず、諸君乞う早く僕を殺せと。時に土方|枕頭《ちんとう》に座《ざ》し、冷然《れいぜん》として山田を慰《なぐさ》めて曰く、人生生と死との間に一物あり、称して病という。君まず暫《しば》らくこの病間の苦痛を忍ぶ事を知らざるべからずと。吾人この土方の理論が克く躁急山《そうきゆう》田をして慰め得たるや否やを知らざれども、かくの如き急迫の事情において、なおその冷静なる理論を説くを忘れざる土方は、けだし先天的の法律家たるを失わざるなり。

(三) 授業時間の外《ほか》は、常に図書館内書籍堆裏に蟄居《ちつきよ》して、法制史の講究に余念《よねん》なき宮崎道三郎も、実に東京法科大学の一名物たるに背《そむ》かずといえども、かの京都法科大学において、自己の仮寓《かぐう》地たる洛外加茂《らくがいかも》村の外《ほか》、未だ京都の明媚《めいび》なる風色を知らずと称せらるる千賀鶴太郎もまた学界得|易《やす》からざるの奇人なり。
 彼ドイツに留学すること十六年なりしと云う、これすでに一奇なり。いわんやそのベルリンにおいてドイツ語の研究を始めしこと、齢すでに三十五歳に達せし時なりと云うにおいてをや。彼その故国を辞するの時、家に子あり。齢ようやく四、五歳に達せしに過ぎざりしが、その帰朝するに及んでその児すでに堂々たる十九歳の一青年として、高等学校に学びつつありしという。彼帰朝|感慨《かんがい》を人に語って曰く、「私が日本を出る時には、専制政治《せんせいせいじ》でありましたが、帰って来て見ると、立憲代議政体になって居りました」と。宛然《えんぜん》たるこれ浦島太郎《うらしまたろう》か、リップ・ヴァン・ウィンクルのロ吻《こうふん》なり。人の彼を目するに、時間の観念なき人物をもってするもの偶然にあらず。
 彼の時間の観念なきは、決してこれに止らざるなり。彼が今春出版したる政党|弊害論《へいがいうん》なるものは、彼が明治十五、六年の交、民権自由の論議朝野を振盪《しんとう》しつつありし頃、時勢に感じて起稿《きこう》したりしもの。爾来《じらい》ついに世に公《おおやけ》にするの期を得ざりしが、時勢一転、政党の横暴ついに世人をして代議政治に飽《あ》かしめんとするの今日《こんにち》、彼をして再び筐底《きようてい》の塵《ちり》を払って、枯木《かれき》に花を着けしむるの奇観《きかん》を見たり。要するに彼の行動は徹頭徹尾《てつとうてつぴ》浦島太郎的にして、全く時間の経過に無頓着《むとんちやく》なるものに似たり。
 彼のその苦学の情態に至りてはさらに奇《きき》々怪《かいかい》々なるものあり。彼東洋語学校の日本語教授としてわずかに学費を支え、その教授のために外出するの外は、絶えてベルリンの街路を歩みしことなく、四六時中ただ毛布を頭より被《かぶ》りて暖炉《だんう》の傍《かたわ》らに蹲踞《そんきよ》し、手裏《しゆり》かつて書籍を放たざりしと云う。殊にもっとも不思議なりしは、彼が十六年の間ただ一脚の椅子を用いたりしことにして、その皮破れ骨|露《あら》わるるに及んでは、載するに新聞紙をもってし、辛《から》くその命脈《めいみやく》を繋《つな》ぎたり。人彼に対して、当時妻子を思わざりしやの問を発するものあれば、彼答えて曰く、「左様《さよう》始めの中《うち》は少し考えましたが、終にはとんと忘れて居りました」と。かくの如き質問はこれ吾人が孤島漂流者《ことうひようりゆうしや》に向かいてなす所の質問なり。而してかくの如き答弁もまた吾人が善く漂流者より聞く所の答弁なり。彼はいかにしても学界の浦島太郎たり、リップ・ヴァン・ウィンクルたるを失わざるなり。

(四)思うに土方は徹頭徹尾英国風の男なり。彼はその学風において、英国主義なるのみならず、またその人物において英国風なり。見よ彼はその法律学において純然たる英国学派たるのみならず、専門以外哲学を解し、英文に巧みなるがごとき、その学問の一科に偏せざる点において、はなはだしく英国学者の風あるにあらずや。もしそれ彼の人物に至っては、謹厚《きんこう》ならこれ一個英国紳士の典型《てんけい》たり。けだし彼の在学当時の同人は、いずれがこれ白面の青書生たらざるなかりしも、各その特色を発揮し互いに相下らざるの風ありき。かの豪壮快闊《こうそうかいかつ》の山田喜之助は、フランス気風を代表し、狡獪怜悧《こうかいれいり》なる砂川雄峻《すなかわかつとし》はドイツ気風を代表し、岡山兼吉《おかやまけんきち》と彼土方とは英国気風を代表したりき。しかも岡山の発揮したる英国気質は進歩的のそれにして、土方の代表したる英国気質は保守的のそれなり。かくの如くにして彼は徹頭徹尾保守主義にして、彼が学者の本領《ほんりよう》を持し、世のいわゆる名利の徒と伍を同じうすることを恥るがごときも、またその主義の結果なり。而して彼の学制に対する意見のごとき、いわゆる英国流の形体を学んで寄宿監督主義《きしゆくかんとくしゆぎ》を主張するの極端なるに至っては、すなわちその保守主義の余弊《よへい》を受けたるものと云わざるべからず。
 殊に吾人が彼をもって英国流なりとなすは、彼が運動家たるの一事これなり。彼が英語学校以来、ベースボールの選手として、頗《すこぶ》る技術の見るべきものありて、いわゆる我国における最も先進のボールマンたる万人の知悉《ちしつ》する事実なり。これに加えて彼が岡山兼吉等と共に、ポート会を大学に組織したるは、すなわち今日の赤門端艇会《あかもんたんていかい》の濫觴《らんしよう》にして、彼の真面目なる勉強家たると同時に熱心なる運動家たりしは、いわゆる彼の「能《よ》く勉め、能《よ》く遊ぶ」という英国一流の良俗を実現したるものにあらずや。彼の運動家たりし一事は、一面において彼がはなはだ遊技好きの男なりしを示す。彼は種々の遊技を好み、いわゆるもっとも道楽の多き男なりき。彼の猟好《りよう》きと、相撲《すもう》好きのごとき、そのもっとも有名なるもの、就中《なかんずく》その相撲のごときは、彼がその批評眼においてはなはだ高きものあるのみならず、また夫子《ふうし》自身|四股《しこ》を踏《ふ》み鳴《な》らして、力を角することを好めり。彼の碁における、玉突《たまつき》におけるただこれ尋常の才なるも、彼の書における同人中に名筆家の名ありき。
 けだし土方は英文においては、同人中一人の彼に及ぶものなかりしも、漢学の素養《そよう》においては、もっとも欠如たるものありき。彼が「百尺の竿頭《かんとう》一歩を進め」と云うを過《あやま》りて、「三尺の杆頭《かんとう》数歩を進め」と書せしがごときは、今にして同人間の好談柄《こうだんぺい》にして、近日大学の講堂民法の条文中、「定足数《ていそくすう》に満たざる云々」の文章を批評して、「定る足の数」とははなはだしき悪文なりと云いしがごとき、学生中の好笑話なり。かくの如き漢学の素養なきにかかわらず、その筆蹟《ひつせき》においては、はなはだ嘆美すべきものあり。而して彼が学生たりし時より常に手習《てならい》をなしたるは、等しく同人の奇としたる所なりしが、これまた彼の道楽《どうらく》の一種としてこれを見れば、さまで怪《あや》しむべきことにもあらず。要するに彼はかくの如く、道楽多き男なるが故に、人のややもすれば、彼の研鑽倦《けんさんう》まざるの美徳を呼ぶにも、いわゆる学問道楽《がくもんどうらく》をもってせんとするもの偶然にあらざるなり。

(五) 土方においてもっとも特色とする所は、彼が有名なる饒舌家《じようぜつか》たるの一事これなり。彼の多弁なる一日談じてなお倦《う》むことを知らず。話頭《わとう》百転|喃《なんなん》々としてほとんど尽くる所を知らず。しかも聴者|思索《しさく》してその要領を握《つか》まんと欲せば、茫焉《ぼうえん》としてついにまた何の得る所なし。聞説彼《きくならく》近来大いにこの点において戒色を加え、やや悛《あらた》むる所ありと伝う。あるいは恐る、かくの如くにしてついに大学の一名物を失うならんことを。
 彼の第二の特色は、その破天荒《はてんこう》の空想家たるの一事これなり。これをもって彼常に設計家をもって有名なり。しかも設計や多くはこれ余りに理想的、妄想的にして、その実行し得べきものは十の一、二に過ぎず、彼の相撲改良案《すもうかいりようあん》なるものの一に曰く、日本国中を求めて天下第一の大女を尋ね出し、これを大砲《おおつつ》に妻《めあわ》して、日本一の大男を生ましめば、けだし天下の快事なるべしと。
 彼の空想はかくの如き児戯《じぎ》に類するの極端に達すといえども、時にまた奇功《きこう》を奏して、傍人を驚かすことなきにあらず。彼かつて大学予備門にあるの頃、市島謙吉《いちしまけんきち》と共に「空罎《あさびん》の御払《おはらい》」を実行し、不時の奇利《きり》を博せしことあり。けだしその頃大学予備門においては、学生の仮病《けびよう》を使うこと一時の流行を極め、その科業を欠席せんと欲するもの、皆医室に来って風邪薬を請求せり。これにおいて医員は多くその学生の使嗾《しそう》を容れて、葛根湯《かつこんとう》一流の水薬を調合し、これをシャンパンの空罎《あきびん》に入れて分配することを例とせり。かくの如くにして、シャンパンの空罎は寄宿者の各室を墳充《てんじゆう》し、多きは四、五十本、少きもまた二、三十本を蓄《たくわ》えざるはなかりき。もって当時いかに学生の怠惰《たいだ》者多かりしやを知るに足る。ある日土方、市島謙吉に向ってこの廃物《はいぶつ》を利用せんことを提議す。議すなわち成り、当時有名の一洋物店に至りて「空罎の御払い」を希望せざるやを問い、その快諾《かいだく》するに及んで、すなわち小使《こづかい》に命じて各室の空罎を集めしむ。総数実に数百本なり。ここにおいてこれを大半切《おおはんぎり》に投じてこれを洗滌《せんじよう》し、荷車をもって市中に運べり。代価実に十数金に当る。洋物店の主人現金をもって仕払わんとす。土方等これを辞して曰く、金銭をもって物を売るは僕等の事にあらず、願わくは僕等に与うるに、花魁《かかい》一樽をもってせよと。すなわち酒を車に乗せて寄宿舎に帰り、蓋《ふた》を開いて大いに全舎を饗応せりという。
 この一話はまことにこれ一場の児戯に似たりといえども、他の一面においてはまた彼土方の利欲に淡き、紳士的|面目《めんぼく》を発露《はつろ》せざるにあらず。彼がその代金に手を触れずして、代うるに酒をもってし、衆と楽を共にしたるがごとき、すなわちこれを証するものあり。かつて大学に島田某なる学生あり、その卒業期に際して落第数回に亘《わた》り、ほとんど学業を中絶せんとするの悲境に沈みしことあり。ある年の学年試業、彼またその得点の成期の及第点に満たざるの故をもって、教員会議の議題に上る。時に土方大いにその学生の境遇を憐《あわれ》み、弁護庇保《ぺんごひほ》到らざるなく、ついに満場に哀願《あいがん》して曰く、願くは諸君、僕のためにこの学生を憐め、今後僕自ら保護の任に当り、必ず彼をして、将来あるものたらしむべしと。議ようやく決し、島田はついに卒業の恩典に浴することを得たり。彼今現に正金銀行の役員たり。彼|今日《こんにち》あるを致せしもの、全く土方の恩恵なり。要するにかくの如く名利《めいり》に淡き、情熱に富み、智識に秀で、また別に体力の習練《しゆうれん》に心を傾けたる土方は、たとえやや平凡の譏《そしり》を免れざるも、ついに円満なる英国紳士の典型たるを失わず。

 (六)宮崎道三郎《みやざきみちさぶろう》、もと土井晩霞の門に学ぶ。彼の詩文《しぶん》の素養《そよう》もけだしこれにもとつくものにして、彼が純然たる古学者の風あるも、またその因をここに帰せざるべからず。彼が卒業の際に在りて、その志のむしろ政治にありしこと、吾人のすでに説きしがごとしといえども、彼と同級生にして学事において常に彼の好敵手《こうてきしゆ》たりし元田肇は、卒業の当時は却て純然たる学者たらんと欲せしなり。而して学事に志ありし元田は、一家の事情よりついに実務に従事するの已《や》むべからざるに至り、却て雄飛《ゆうひ》の志盛んなりし宮崎が、純然たる学者たるに終りしは、人生の変転また実に奇なりしと云うべし。
 学者としての彼は、まことにこれ謹厚《きんこう》なる古学者の風あり。もしそれ彼の志の何の辺にありしかに至りては、謙譲《けんじよう》なる彼がもとよりこれを口にすべきの理なきも、その中心を披瀝《ひれき》して、直ちに流麗《りゆうれい》なる字句に上《の》ぼせし彼の吟詠《ぎんえい》に徴《ちよう》すれば、髣髴《ほうふつ》としてその真情を察し得られざるにあらず。彼が「冬夜読書」と題して井上巽軒《いのうえそんけん》に送りし左の一篇のごときは、すなわちその一なり。
陰晴日夜変
貧賤業難就
謝絶浮華客
古今成敗理
西嶺凝積雪
原頭寒月落
忽思巽軒子
平生共責善
志士甘艱苦
鴻鵠天地闊
世事徒紛々
研学豈忘勤
中夜膏油焚
一一白黒分
天籟四檐聞
犬吠隔野雲
廃寝攻斯文
知己独算君
欲策済世勲
終不混燕群
 紛《ふんぷん》々たる俗事を避けて、独り研鑽《けんさん》の事に従い、しかも志聖《こころざし》賢の道を離れず、学常に経世《けいせい》の眼目《がんもく》を出でざる、いわゆる古学者の面目は、善くこの一篇に躍如《やくじよ》たりと云うべし。
 謹厚にして挙止|苟《いやしく》もせざる宮崎は、また実にその学事に対して忠直謹厚なり。彼の同人が争いて杜撰《ずさん》の著書を出版して、虚名を貪《むさぼ》りつつある間に、彼は幾度か稿を脱せし著述を、常に筐底《きようてい》に蔵して、未だ一巻も世に出さず、他日自ら堅く信ずる所の書を出して、大いに社会を利せんことを期せり。彼今や一身を日本法制史の研究に委《⑳だ》ね、窃《ひそか》にもって必生の事業となせり。これをもって彼講義を了《おわ》れば、常に図書館に入りて古書の渉猟《しようりよう》に従い、またほとんど世事を知らざるもののごとし。彼|近比《ちかごろ》教場において学生に談《かた》って、事多く志《こころざし》と違い、自らその事業の半《なか》ばならざるに、髯髪《ぜんばつ》ようやく白きに至りしを嘆じ、大いに自らその無能を恥ずと云いしという。思うに飛ばず鳴かざる、ここに二十有余年なる彼は、その日本法制史の著書において、必ず世人を驚動《きようどう》せしむるものあるを疑わず。
 けだし純然たる学究としてこれを見れば、千賀の篤学《とくがく》は却て宮崎の上にありと云うべし。千賀の赤毛布を被《かぶ》りて、暖炉《だんう》の前に蹲踞《そんきよ》するやかの達磨大師《だるまだいし》の面壁九年のごとく、眼中ただ文字あって他あるを知らず。彼の他人と来往談笑《らいおうだんしよう》するがごとき、ほとんど見るべからざるの事実なり。これに比すれば、宮崎が純然たる学究以外また別に瀟洒《しようしや》たる君子の風貌《ふうぽう》を具え、風流を忘れず、社交を疎《うとん》ぜず、しかもまた別に謹厚犯すべからざるの面目を存せる、まことにこれ一個|典雅高潔《てんがこうけっ》の好紳士なり。試みにまず彼等の風貌に考えよ。教場にありてズボンのボタンの脱《はず》れて白シャツの出でしに心|注《そそ》がず、学生に笑われて顔を赧《あか》らめたりという程少しも服装の如何《いかん》に頓着《とんちやく》せざるものは千賀なり。常に華美ならざれども、垢付《あかつ》かざる衣服を纏《まと》い、風姿常に端然《たんぜん》として英語にいわゆる清楚《せいそ》の文字をもって形容すべきは宮崎なり。要するに千賀は素朴なるこれ一個田舎漢の風あり。宮崎はこれ典雅《てんが》なる大宮人《おおみやびと》の風采《ふうさい》を有す。満身これ意力をもって満ち、一度《ひとたび》事に当れば、必ずその到徹《とうてつ》を見ずんば止まざるの風あるものは千賀なり。遜譲謙退《そんじようけんたい》常に万全《ばんぜん》を期して、容易に放たざるの自重に過ぐるあるものは宮崎なり。而して彼等は学者として、君子として、共に東西両京大学の一大名物たるを失わざるなり。

寺尾、戸水、高橋対岡村

こV学海すでに仙人《せんにん》あり、江戸っ子あり、岩谷松平あり、国定忠次《くにさだちゆうじ》あり、豈一介《あにいつかい》の壮士《そうし》なからん。吾人はこれを東西両京の法科大学に求めて、ここに四人を得たり。曰く博士|寺尾亨《てらおとおる》、曰く博士|戸水寛人《とみずひろんど》、曰く博士|高橋作衛《たかはしさくえ》、曰く法学士|岡村司《おかむらつかさ》これなり。かくの如くにして、寺尾と戸水と高橋とは、共に東京法科大学の三大壮士なりといえども、彼等はその年輩において各階級を異にせり。齢|不惑《ふわく》を越えて髯髪半《ぜんばつなか》ば白き寺尾はすなわち老壮士なり。直言放論《ちよくげんほうろん》眼中人なきがごときも、思慮着実周到《しりよちやくじつしゆうとう》を失わざる戸水はすなわち中年壮士なり。かの年少気を負い、悲歌|慷慨《こうがい》克く腕力を用いるを辞せざる高橋は、すなわち血気満《けつきまんまん》々の青年壮士なり。
 この老壮士、中年壮士、青年壮士は各その特色を異にすといえども、彼等が等しく国際法学者たるは、けだし奇なりと云うべし。国際法学者としての寺尾はすなわち仏国主義を取り、高橋と戸水とは英国風に拠れり。前者は理論を尊び、後者は実際を主とし、前者はまず原則を立て、新例を開かんとし、後者は旧慣実例を尋ねて、而してその中より原則を求めんとす。国際法の改善、進歩を主張するものは前者にして、なるべく空理を避けて実行的の法則を得んと欲するものは後者なり。けだし前者は進歩的にして、後者はむしろ保守的傾向を有せり。
 かくの如き国際法学者たる彼等が、大いに政治的|臭味《しゆうみ》を有するもの偶然にあらず。いな彼等が国際法学者として常に世界の大勢を達観《たつかん》するの機会を有するが故に、政治的臭味を帯べるにあらずして、彼等が元来《がんらい》政治家風の人格たるが故に、善く政治に関係多き国際法を修むるに至りしなり。今やこの学界の三壮士は、袖を列ねて満州問題に関し躍起《やつき》運動に熱中しつつあり。いわゆるこれ燕趙悲歌《えんちようひか》の徒、彼等がロシア撃つべし、満州取るべしと絶糾しつつあるもの、誰かもって、征韓《せいかん》当時の私学校《しがつこう》党《とう》を想起せざらんや。もしそれ桂内《かつら》閣にして、優柔不断《ゆうじゆうふだん》決するなくんば、あるいは彼等が赤門《あかもん》三千の健児を集め、富井政章《とみいまさあき》を擁立して再び西南の役を実現せざるなきを保すべからず。桂内閣たるものもしロシアと戦うの意なくば、宜《よう》しく一師団の丘ハを動かして、赤門方面を警戒せざるべからず。もしそれ京都の岡村司に至りては、純然たるこれ学者的壮士なり。彼は大言《たいげん》壮語《そうご》において遥かに東京大学の三壮士を凌《しの》ぐものありといえども、もとこれ純乎たる哲学者たり。これをもって彼の悲歌と慷慨《こうがい》とは、少しも政治的臭味なし。この点においては彼と東京大学の三壮士とは、全くその面目を異にせり。しかれどもただ東京の戸水が哲学的趣味を有するは、ただわずかに彼とその資質を同じうするのみ。

(二)博士寺尾はもと司法官の出なり。彼が明治十七年司法省法学校を卒業するや、直ちに横浜地方裁判所判事に任じ、留まること実に六年なりき。かくの如く彼の出所は、彼が一片の公法家にあらずして、国際公私両法において各一家を成せる所以《ゆえん》を説明せずんばあらず。思うに法律の学たるその実際生活の条規を定むるものなるが故に、決して抽象的の空理のみを研究してもって斯学の真髄《しんずい》を把捉《はそく》し得べきにあらず。必ずある程度まで実際問題の解決に処して、その理論の変化と応用とを味わわざるべからず。而してこの点においては彼寺尾は他の大学教授に向かいて求むべからざるの特権を有せり。これ彼の議論が時にもっとも警抜にして、人をして驚嘆措《きようたんお》かざらしむることある所以《ゆえん》なり。
 かくの如き私法家として入りたる彼の国際法における研究の態度が、自ら理論を前《さ》きにして、実例を後にするの傾向あるは自然なり。これ彼が仏国学派を固守して、国際法の理想の実現を追求して已《や》まざる所以《ゆえん》にして、彼の所説がややもすれば万国国際法会の決議をもって現行法視するの傾向あるを免れざるは、すなわちその因をここに帰せざるべからず。
 高橋作衛《たかはしさくえ》の学風に至りては、ややこれと趣きを異にし、まず列国外交史の研究をもって、その原則発見の基本となさんとす。これ彼が英国各派の場合主義をもって目せらるる所以《ゆえん》にして、彼が研究の日なお浅き割合に多く実例に通ずると同時に、ややもすればその所説が寺尾に比して部分的なり、円熟《えんじゆく》を欠けりとの批難ある所以《ゆえん》なり。しかれども彼の部分に深き研究をなしつつある所以《ゆえん》は、必ず他日、円熟の日において大なる成果ある所以《ゆえん》にして、彼の将来の多望なるは、あたかも芸術未だ若しといえども、特種の点において、他人の及ぶべからざる技倆《ぎりよう》を有する太刀山が、その円熟の日の多望なるがごとくしかり。いわんや彼がようやく英国学派の小天地に満足せずして、着《ちやくちや》々その研《く》究を独仏の範囲に及ぼしつつの傾向あるをや。またいわんや、彼は純乎《じゆんこ》たる国際公法学者として一生をこれに捧《ささ》げつつあるをや。
 かの戸水寛人《とみずひろんど》に至りては、さらに両者とその学風を異にするものあり。彼の国際公法のこときは、その蘊蓄《うんちく》善く尋常専《じんじよう》門学者を凌《しの》ぐものありといえども、これ実は彼に在りてはむしろ一片の余芸《よげい》たるのみ。彼は気味の悪きほど博学なる学者にして、その専門の果して何学なるやは人もこれを知らず。また自らも知らずという。
 時は実に昨日のことなり、剣禅彼の評論を試むべく、編輯室内|推敲《すいこう》に余念なかりし時、使丁来て一郵書を手渡し去る。剣禅すなわち緘《かん》を開いて左の文字を得たり。

斬馬剣禅に与うる書
戸水東京帝国大学教授
 拝啓、本日より小生らの批評|御始《おはじ》めの様《よう》に存ぜられ候《そうら》えども、教授に対する批評は先回限りにて擱筆《かくひつ》せられし方《かた》、あるいは得策《とくさく》なりしならんと存《ぞんじ》候《そうろう》。いかにとなれば、穂積、梅、岡野らの諸大家は法律学に関して、けだし人材の雄《ゆう》なるべしと被存候得共《ぞんじられそうらえども》、之《これ》を天才と比較することは足下に在りては恐らくは不能の事と存候呵《ぞんじそうろうかか》々。不敢|再拝《さいはい》
   六月十八日朝
                                  戸水寛人
  読売新聞社内 斬馬剣禅足下
 英雄を知るものそれ果して英雄なりとすれば、天才を知るものまた天才ならざるべからず。不幸にして吾人は操觚者《そうこしや》としてかくの如き天才を有せざるが故に、彼の果して学術界の天才なりや否やを鑑識《かんしき》する能わざれども、しかも吾人は彼に向いて、京都の岡松に走《しんにゆう》を掛けたる程の怪物なることは、これを保証することを得。見よ彼はその家が代々加州本多家(今の政以《せいい》男の家)の儒者にして、五、六歳の頃すでに四書を諳《そら》んじたりという程|神童《しんどう》なりき。かくの如くにして彼の漢学の素養は、頗《すこぶ》る驚くべきものあり。彼が大学選科より本科に転ずるに際して、漢文学の試験を受くるや、故|内藤耻叟《ないとうちそう》試験
委員として、彼に『伯夷列伝《はくいれつでん》』を示し、その素読《そどく》及び釈義《しやくぎ》を命ず。彼すなわちその書を執《とり》て、これを朗読し了《おわ》り、その釈義を始めんとするや、内藤手を挙げてこれを制止し、直ちに及第点を与えしと云う。後《のち》戸水、内藤に会してその故《ゆえ》を問う。答えて曰く、「君の様に早く読まれては、聞いて居る方で骨が折れるから」と。けだし戸水がその書中の訓点に頓着《とんちやく》せず、滔《とうとう》々朗読し去りたるをもって、内藤直ちに彼の学力を知りたるなり。泰西《たいせい》の学術の素養《そよう》に至りては、さらに大いに不可思議なるものあり。

(三)博士戸水の博学は、けだし万人の認むる所なり。彼の英国に遊ぶや、その官命はすなわちミッドル・テンフルにおいて英法を研究するにありしも、その講義に出席したるもの六年の在学期中、わずかに二時間なりしという。而して彼日夜書斎に蟄居《ちつきよ》して、政治、経済、文学、哲学等百科の学に渉猟《しようりよう》し、その法律学のごときただこれを独学兼修せしのみ。かくの如くにして彼がその二時間の聴講のごときは、ただバリストルの学位を得るの試験の難易《なんい》に関する瀬踏《せぷみ》に過ぎざりしと云う。
 彼が独仏の諸国を歴遊して帰るや、東京帝国大学は彼に托するに、ローマ法の講座をもってせり。これ彼に向かいてはむしろ寝耳《ねみみ》に水《みず》なり。何となれば、彼留学中決して特別にこれが準備をなさざりし故なり。けだしラテン語たくさんのローマ法講座は、すでに尋常人に向かいて多大の重荷たり。いわんや博士富井がその法典調査のために寸暇《すんか》なきの故に、彼に托するに、民法講座の兼担をもってせしをや。帰朝|早《そうそう》々彼がこの重任に当りて、しかも民法講座において頗《すこぶ》る好評を博《はく》したるがごとき、博学彼にして、初めてこれを克《よ》くしたりしなるべし。しかり彼の学問的|臂力《ひりよく》は克く鼎《かなえ》を扛《あげ》るに足る。誰か彼を文界の壮士《そうし》となすに躊躇《ちゆうちよ》するものぞ。
 彼すでに法科大学の壮士たり。これをもって学界不時の変あるごとに、彼|傭壮士《やといそうし》として倉皇《そうこう》その急に赴《おもむ》くことあり。かの穂積陳重《ほづみのぶしげ》が万国東洋学会に参列すべくローマに至るや、彼は傭われて法理学講座を担任せるがごときはその一例にして、かの富井に代りて民法を講ぜしがごときも、すなわちまたその好適例たるを失わず。しかも常にその応援講義において、好評おさおさ本尊《ほんぞん》を凌《しの》ぐものあるは、けだし彼が変通自在《へんつうじざい》の怪物たるに基因せずんばあらず。殊に彼の法理学講義のごとき、ギリシアのソクラテスの智徳合一説《ちとくこういつ》より、近世カントの批判説に至るまで、いわゆる純正哲学の深遠《しんえん》なる哲理を講ぜしに至りては、ただこれ権利義務の卑近《ひきん》なる屁理屈《へりくつ》の外《ほか》、何物《なにもの》も解する能《あたわざ》る三百の法律書生が、ただこれ呆然《ぽうぜん》として煙《けむ》に巻かれたるの観ありしは、けだしもっとも彼の怪物的手腕を発揮したる実例なり。
 彼の学生たりし時、同人相会して毎週一回演説会を催せしことありき。時たまたま彼の演説順番に当る。彼辞して曰く、余はついに準備するの余暇なかりしと。 一人曰く、しからば演説せざるに如《し》かず。他の一人は曰く、これ会則を紊《みだす》るものなり、一言にても可なり、必ず演説せざるべからずと。彼|已《や》むなく壇上に上り、忸怩《じくじ》として演説を始む。題して「日本人種はメキシコに出でたるの説」という。しかもその説《と》く所を聞くに、人類学、考古学、言語学に亘《わた》りて滔《とうとう》々と万言、実に当日演説中の白眉《はくび》なりき。この一事はもって彼が学生時代よりすでに怪物の資質を有せしことを立証するものにして、今日《こんにち》彼の満州問題の研究において、彼が大学図書館中において、亜細亜《アジア》という文字ある書籍は、ことごとくこれを読破したりとの評ある所以《ゆえん》なり。

(四) 学者として多角形なる戸水は、また実に法理哲学者として京都の岡村司の好敵手《こうてきしゆ》なり。しかれども吾人が岡村司において発見する所の特長は、決して戸水の多方面的才能のそれにあらずして、もっとも学者として正直なる学者たるの一事これなり。彼もと総州古河藩の儒者の家に生れ、その始め志を兵馬《へいば》の職に立つ。不幸体格の許さざるありて、再び方途《ほうと》を法律の学に転ぜり。その始め彼が笈《きゆう》を負《おう》て東都に遊ぶや、三島中洲《みしまちゆうしゆう》について漢学を修む。かの京都大学の織田万《おだよろず》のごときは、実に当年の同窓たりしなり。かくの如くにして、彼は法学者としても、もっとも法理哲学の研究を好み、就中《なかんずく》儒教の性理説にもとついて自然法説を主張し、その道徳説にもとついて家長権主義を固執したりき。
 岡村が自然法説を主張せしは、一面儒教の感化たると同時に、また仏国学風の感化なり。彼の大学にあるや、法理学を穂積陳重に聞く。穂積は英国風の学者にしてオースチンの歴史派の学説を祖述しつつあるものなり。その学年試験に際して、穂積学生の答案を査定したるや、一日|従容《しようよう》として学生に向かいて曰く、今回の試験答案中もっとも高点なりしものを岡村司君のそれとなす。岡村君は仏法科に属し自然法主義を執《と》るの人、今回の答案中、余が持論たる歴史派の説の弱点を併列し、ことごとくこれに論駁《うんばく》を加えて、もって自然法説を主張せられたる。その論鋒の犀利《さいり》にして徹底せる、近来稀《きんらいまれ》に見る所の大文字なり。学者は宜《よう》しくかくの如く大胆《だいたん》ならざるべからず。余は実にこの種の答案に向かいて最高点を付することを躊躇《ちゆうちよ》せざるものなりと。学生に答案を示して激賞措かざりしという。
 吾人は今この学界の一美事を読者に紹介して、彼岡村のもっとも大胆《だいたん》にして正直なる学者たるを示し得ると同時に、穂積陳重が大いに学者らしき襟度《きんど》を有することを天下に表白し得ることを喜ぶ。けだし穂積の人格については、世上|幾多《いくた》の批難ありて、吾人もまた前に忌憚《きたん》なく評論せしといえども、彼が学術に忠なるの一事に至りては、万口一致これが称賛を惜《おし》まざるなり。
 彼近日自ら法理学の試験を行うに当りても、また学生に告ぐるに、決して穂積自身の持論をもって答うるの必要なきをもってせしという。かくの如くにして、初めて東京大学は大学らしき大学たるを得べし。而して吾人はかの穂積|八束《やつか》がこの点において深く自ら反省せんことを望まざるを得ず。現に第卜七議会においても、彼すでに代議士根本正のために、痛くこの点について詰責《きつせき》せられたるにあらずや。
 かくの如く自説を執《と》るに固き岡村は、その仏国に留学しつつある間に翻然《ほんぜん》としてその主張の大半を放棄せり。彼は仏国の学者と意見を闘わして、ますます自然法説を確信するに至りしと同時に、該国《がいこく》の社会組織を見て、全く儒教の家族主義を棄てて、仏国流の個人主義を主張するに至れり。彼がその昔、毎夜十数の学生を集めて、滔《とうとう》々として孔孟《こうもう》の道徳説を講ずるに当りてや、誰かまた今日《こんにち》のごとき極端なる本能主義を主張するに至るを思わんや。彼その心機一転《しんきいつてん》の理由を説明して曰く、君子は豹変《ひようへん》すと。けだし彼の率直にして、純傑なる心は、ついに儒教の偽善的《ぎぜんてき》道徳説を主張する能《あた》わざりしに至りしなり。要するに彼は徹頭徹尾正直なる学者にして、しかもその所信《しよしん》の主張において、少しも忌憚修飾《きたんしゆうしよく》なき点において、いわゆる学界の壮士たるを失わざるなり。

(五) 「教師という商売は乞食《こじき》と同じ様で、三日やると止《や》められるものでない」とは、これ老壮士|寺尾《てらお》が常に人に談《かた》って、大学教授の言説の自由を誇称しつつあるの言なり。けだし放言直論は寺尾の生命なり。もし彼よりその特権を奪わば、彼は恐らくは胸中の欝勃《うつぼつ》遺るに由《よし》なく、あるいはついに東海を踏んで憤死《ふんし》せざるなきを期すべからず。読者|乞《こ》うまず彼が、「将来の日本」と題する、東邦協会における演説《えんぜつ》筆記の大要を読め。曰く、「さて日本の昔の精神的修養は、奪の教えと鑑の教えくらいで、礫な代りに悪徳などには羅しなかった・ところが一朝各国の仲間入りするに及《およ》んで、従来の藁家《わらや》に居られないから、俄普請《にわかぶしん》の必要を感じた・そこでペンキ鑞で嫩覊骨のゾ」とく見せかけようとした.かの徹灑もペンキ塗の廾|工《く》くらいであったろう。しかりペンキ塗も強《あなが》ち悪いとは言えない。一時の間《ま》に合《あわ》せとしては当然だ。しかるを今日|最早《もはや》ペンキ塗の頽《はが》れかかって居るにかかわらず、平気でその中に住まって居る者の気が知れない。もっとも中には自らペンキ塗の大工たり、左官《さかん》たり、手間取《てまとり》だった手合《てあい》もあるから、なるべく自分達の生きてるうちにペンキ塗を壊《ヲ わ》したくないのだろうから、その手合《てあい》の私情としては幾分か恕《じよ》すべきであるが、新教育を受けた少壮者がその頽《はが》れかかったペンキ塗へ入って、ペンキ人間の残肴冷盃《ざんこうれいはい》を頂戴《ちようだい》して居るのは何事だろう。一日も早くペンキ塗を打《ぶ》っ壊《こわ》して煉瓦造《れんがづくり》を建てねばならぬじゃないか」と。これ寺尾が現代の偽善的《ぎぜんてき》社会組織に対して憤懣《ふんまん》の情、禁ずる能わず、仏国の第二、第三の革命に習って、大声叱呼《たいせいしつこ》頻《しき》りに第二の維新を叫びつつある一例なり。
 かくの如き彼の直言癖は、到る処にその鋒鋩《ほうー3う》を顕《あロりわ》さずんば止まず。彼、兼任外務省参事官としても常に大臣を捕えて外交上の論議を闘わし、公論正議少しも忌憚《きたん》する所なしという。これをもって自尊傲慢《じそんこうまん》の青木周蔵《あおきしゆうぞう》のごときは、もっとも彼を快しとせざりしも、現在外相|小村寿太郎《こむらじゆたろう》は却って彼を推重《すいちよう》せりと伝う。彼の家庭におけるや、また日夜|諄《じゆんじゆん》々として、その家人に対する教戒《きようかい》の言を絶たず。はなはだしきはその老母に対してさえ、時に講釈《こうしやく》をなすことありという。これをもって彼の知友は、時に彼に対して、「いくら大学の教師でも、家の中でまで講釈ばかりしていては困るじゃないか」と忠告することありという。要するに放言直論は彼の本領《ほんりよう》たると同時に病癖《びようへき》なり。これあるがために、彼|一介《いつかい》の大学教授に甘んず。しかもこれあるがために、彼また学界老壮士の称あり。
 啻《ただ》にその言論の忌憚《きたん》なきがために壮士たるのみあらず、また実に挙止《きょし》の磊落《らいらく》にして小節《しょうせっ》に拘泥《こうでい》せざるの点において彼はなはだ老壮士の名を値す。彼がその寛闊肌《かんかつはだ》の和装をもって大学の講壇に上り、鰐口《わにぐち》大の口を開き、破鐘《はしよう》のごとき音声《おんじよう》をもって、「国際法は」と喚《わ》めき出すや、よし鴻門《こうもん》の会《かい》における項羽《こうう》その人にあらずといえども、学生また誰か覚えず「壮士なり」との嘆声《たんせい》を発せざるを得んや。これをもって彼の講壇において、言説を遺《おく》るや、疎大豪放《そだいこうほう》人をして覚えず失笑を禁ぜざらしむ。中について有名なるは、「国際法とはドイツ語においてはウオルケルレヒトと云うんじゃ」と云いしがごとき、その国際私法を講じて、浪費者《ろうひしや》という文字を思索《しさく》し得ず、煩悶《はんもん》の末《すえ》、「馬鹿使いじゃ」と云いしがごとき、これなり。かくの如くにして、彼の試験は、その問題の容易なるをもって有名なり。試験当日彼が闥《たつ》を排して教場に入るや、学生はまず拍手喝采《はくしゆかつさい》をもってこれを迎う。彼「国際法とは何ぞ」のごとき簡易なる問題を黒板に記し、自ら一回これを朗読《ろうどく》し、哄然《こうぜん》として大笑するや、学生の歓呼《かんこ》再び堂に振う。
  けだし彼東京法科大学教授中において、もっとも学生間に人望《じんぽう》あるもの偶然にあらず。

(六)豪放なる寺尾は最も酒を嗜《たしな》む。彼が懐中常《かいちゆう》にウイスキーを携うるは、世に隠《かく》れもなき事実なり。彼かつて実兄|寺尾寿《てらおひさし》(理科大学教授)を訪《おとな》わんと欲し、途に一学生に会す。彼すなわちこれを誘い、共に倶《とも》にその家に至る。たまたま家兄の不在に会す。彼すなわち自ら入り、手ずから酒肴《しゆこう》を出し、学生と共にかつ飲みかつ歌えり。すでにして兄寺尾帰り、その乱酔《らんすい》の状を見て、大いに喫驚《きつきよう》したりと伝う。彼の豪放なる、大概《おおむね》かくの如し。近者《きんしや》彼の飲酒ますます長じ、しばしば宿酔《しゆくすい》の苦しむる所となる。ここにおいて彼|一計《いつけい》を案《あん》じ、試みにまず万病《まんびよう》に効験《こうけん》ありと称せらるる神液なる瞹昧《あいまい》薬を身体に注射し、もって二日酔《ふつかよい》に備う。幸いにしてこの一薬|奇効《きこう》を奏せしをもって、爾来《じらい》彼の乱酔《らんすい》して家に帰るや、必ず家人に命じてこれを注射せしむるを常とす。一友あり彼に忠告して曰く、かくの如き苦痛を忍《しの》んでまで酒を飲むは愚にあらずや、如《し》かず断然《だんぜん》酒を禁ぜんにはと。彼答えて曰く、これ君等が渋面作《じゆうめん》りてビットルを飲みながら、餅菓子《もちがし》を食うがごとしと。友またついに一言なかりしという。
 言うなかれ寺尾の学生に人望《じんぽう》あるはその試験の易《やす》きがためなりと。否《いな》彼のその人物の磊落淡泊《らいらくたんぱく》、正直なるの点において、けだし万人の好愛する所となる。これをもって彼もっとも偽善《ぎぜん》を悪《にく》み、世のいわゆるペンキ塗《ぬり》人物を嫌うこと蛇蝎《だかつ》のごとく、他日必ずこれが面皮を剥脱《はくだつ》することをもって志とせり。彼が東邦協会における気焔のごときは、すなわちその一なり。彼また心事すこぶる高潔《こうけつ》、自ら過渡時代《かとじだい》の人物をもって任じ、後進のために途《みち》を開くをもって必生の能事《のうじ》となせり。彼が高橋作衛、山田三郎らのために幹旋《あつせん》して、各その国際法学者として一家の地位を成《な》さしめたるは、彼が与って、大いに力ありという。彼また任侠善《にんきよう》く後進学生のために謀《はか》り、薄資《はくし》のものに向かいては四方に金主を求めてこれを扶助《ふじよ》するを勉むるという。現今彼の門下に七、八人の大学生あるも、多くは全く彼のこの種の恩恵の下《もと》に勉学しつつあるものなり。
 要するに彼は人物としても、ややその毛色の変りたると共に、見識においてもまた大いに流俗《りゆうそく》を抜けり。けだし彼の教授たり、学者たると共に好箇《こうこ》の教育家なり、これをもって彼を目するに、豪放|一片《いつぺん》の人物なりとすれば、未だ彼を知らざるもの、彼は人物として人々の心底《しんそこ》賞讃すべきものにして、真摯忠誠《しんしちゆうせい》けだしその真面目《しんめんぼく》ならずんばあらず。

(七) 博士戸水と云えば満州問題を想い、満州問題と云えば直ちに戸水寛人を想う。けだし戸水と満州問題とは常に離るべからざるの連想にして、これ彼が満州博士、戦争博士の名称ある所以《ゆえん》なり。頃日《けいじつ》文部総務長官岡田良平、大学総長|山川健次郎《やまかわけんじろう》に注意して曰く、近者《きんしや》戸水の行動ははなはだ不穏《ふおん》なり、乞う貴下よりこれを差止《さしと》められんことをと。山川答えて曰く、しかれどもこれ外国に実例あることなり、余は猥《みだ》りに教授の言論の自由を掣肘《せいちゆう》することを欲せずと。岡田ついにまた争わざりしという。けだし現時社会の問題たるかの七博士なるものは、何《いず》れか一世の雄にして、識見学殖優《しきけんがくしよく》に流俗《りゆうそく》を抜《ぬ》けるにあらざるなしといえども、就中《なかんずく》その議論の警抜《けいばつ》にして、所説《しよせつ》の破天荒《はてんこう》なるにおいてはかの戸水の右に出ずるものなし。故にかの老壮士寺尾の如《ごと》き大言壮士《たいげんそうし》において、決して人後《じんご》に落ちるものにあらずといえども、戸水の気焔《きえん》に対しては時に三舎《さんしや》を避くることあり。近日満州問題に関して七博士の会合を見たり。時に満州博士の気焔、例に依てはなはだ突飛《とつぴ》なり。老壮士寺尾|辟易《へきえき》して曰く、かくの如くんば余が内閣を
組織するの時、また戸水君をして外交の局に当らしむ能《あた》わずと。戸水答えて曰く、余と雖《いえど》も一朝外務の枢機《すうき》に参するに当りては、決してこの種の言をなすものにあらずと。相顧みて唖然《あぜん》たりしという。
 思うにかくの如き彼の大言癖は、ややもすれば彼の資質の軽忽突飛《けいこつとつぴ》を疑わしむるものありといえども、これ未だ彼の心事を知らざるものなり。彼昨年の法科大学卒業生謝恩会に臨み、演説して曰く、由来《ゆらい》大学卒業生の欠点とする所は、その学術の素養《そよへつ》の足《た》らざるにあらず、全く世事に通ぜざるにあり。しかるに本年の卒業生諸君の宴席《えんせき》には、雛妓《すうぎ》の侍するもの例年に倍せり。これは余が諸君の一大進歩と11)て、大いに慶賀《けいが》して措《お》かざる所なりと。由来この種の宴会においては、教授は柄になき厳格なる道徳説をもって学生を戒《いまし》むるを常とす。戸水のかくの如き破天荒的訓戒《はてんこうてきくんかい》は、けだし学生の意表《いひよう》に出でたる所なり。思うにこの一例は善く戸水の資質を表わすものなり。彼は一面において大言壮語《たいげんそうご》よく人を驚かすことありといえども、他の一面においてはまた決していたずらに他人の感触《かんしよく》を害することを喜ぶものにあらず。彼はその得意の直言をもってしばしば人をして顔を顰《しか》めしむることあると同時に、他人の五の提議に対しては必ず十だけ賛成することを常とするものなり。かの卒業生の雛妓招聘《すうぎしようへい》を賛成せしがごとき、すなわちその一例なり。
 かくの如くにして彼は決して軽挙暴動《けいきよぽうどう》の人にあらずして、着実自重の人なり。彼は疎暴破壊《そぼうはかい》の人にあらずして、温厚円満《おんこうえんまん》の人なり。これ吾人が彼を、壮士としては中年壮士をもって呼ぶ所以《ゆえん》なり。かくの如くにして彼の主張は多くその深思熟慮《しんしじゆくりよ》の結果にして、牢乎《ろうこ》たる確信の上に立てりといえども、ややもすればその声の大に過ぐるがために人の誤解《ごかい》を招《まね》くの損あり。彼の満州問題、法科大学学制改革意見のごとき、実にその好適例なり。現に彼は満州問題研究のために、大学図書館内の亜細亜《アジア》という文字ある書はことごとくこれを読破《どくは》したりと云わるるほど、研究を積みしにあらずや。しかも我《わが》新聞が論ずるがごとく、彼をもって、「冷
静、理教を尽くさずして事実と相違うもの」となすあるは、偏《ひとえ》に彼のために惜《お》しむべきこととなす。戸水たるもの大いに思いをこの点に致さざるべからず。

(八) 客気横溢《かつきおういつ》の青年壮士として、機略縦横《きりやくじゆうおう》の東方|策士《さくし》として、風姿颯爽《ふうしさつそう》の東洋|豪傑《ごうけつ》(但し自称)として、その出処進退《しゆつしよしんたい》の談《かた》りてもっとも趣味多きものを博士高橋作衛となす。甲斐《かい》の俊傑山本勘介《しゆんけつやまもとかんすけ》が、「高遠《たかとお》三日に、諏訪《すわ》七日、飯田松本通《いいだまつもととお》り掛《が》け」と喝破《かつば》しけん、かの信南の要衝《ようしよう》遠高は実に彼の郷里なり。父|白山《はくざん》は闔藩《こうはん》の鴻儒《こうじゆ》にして、殊に詩文をもって聞こゆ。その聘《へい》せられて長野中学校の教諭となるや、年少彼父に従いて長野に遊ぶ。而して彼の志を学者に立てて、大学に入学すべく東都に来り初めて英学を修めしもの、実に彼が二十歳の時なりというをもって、彼が父の膝下《しつか》に侍《じ》して学得したる詩文の素養《そよう》の決して尋常にあらざるを知《し》るに足《た》る。これ実に彼が東洋|豪傑《こうけつ》風の素《もと》を成したる第一歩なり。
 すでにして彼第=局等中学校を経て大学に入る。その一中時代、大学時代はこれ彼が垢面《こうめん》蓬髪《ほうはつ》の純然たる壮士時代にして、彼が肩頭《かたがしら》を聳《そび》やかし高屐《こうげき》を穿《うが》ちて大道を闊歩《かつぼ》せしの状、ほとんど目《ま》のあたり見るがごとし。
 左の一絶はけだし彼がこの時代の作ならずんばあらず。
一群遊子歩跚々
独有青衿難得酒
酔頬紅於霜葉丹
双肩聳月夜吟寒
 彼の一中時代、大学時代はもっとも腕白《わんぱく》の時期なり。彼が首謀者《しゆぽうしや》としてなしたる賄征伐《まかないせいばつ》、彼がその同輩先輩となしたる組打沙汰《くみうちざた》はほとんどその幾回なるを知らず。殊にもっとも有名なるを、世上|清水彦五郎《しみずひこごろう》辞職勧告事件として知られたる賄征伐となす。けだし当時、高橋は自ら寄宿舎法科大学部の部幹《ぶかん》たり。これその学生の暴挙を抑制《よくせい》すべき地位にあるものなり。しかるに彼自ら率先《そつせん》して征伐の事に従い、膳を擲《なげう》ち、卓を覆《くつがえ》し、一挙して食堂の全部を破壊し尽《つく》せり。時の舎監《しやかん》清水彦五郎、賄《まかない》の訴えを聞き、首謀者十数名に向かいて保安条例を執行《しっこう》して、寄宿舎内より立退《たちのき》を命じ、もし聞かずんば退学せしむべしと威嚇す。
 ここにおいて彼等|首謀者《しゆぽうしや》らは清水の亡状《ぼうじよう》を怒り、委貝を挙げて清水に辞職勧告をなすに決す。委員とは誰ぞ曰く、京都大学の壮士|岡村司《おかむらつかさ》、詰問《きつもん》博士勝本勘三郎および彼、高橋作衛これなり。ここにおいて彼等三名は舎監室に至り、例の詰問に妙を得たる勝本は、口を尖《とが》らし清水を責めて曰く、僕等愚といえどもいやしくも高等の教育を受けたるものなり。故《ゆえ》なくして決して這般《しやはん》の暴行をなすものにあらず。しかるに貴下は市井賈人《しせいこじん》のかの賄《まかない》の親方《おやかた》なるものの訴えを聞いて、直ちに僕等に退舎を命ず。いわゆる片手落《かたてお》ちの沙汰《さた》たるもの、これ果して堂々たる帝国大学の舎監たるもののなすべき行動なりや。これをもって僕等、貴下の下せる退舎の命に従うの前、宜《よろ》しく貴下が自ら進退《しんたい》を決せんことを勧告《かんこく》す。もし聞かれずんば、僕等ただ総長に逼《せま》るの一策あるのみと。辞令共に激し、清水彦五郎大いに恐れ、ついにその退舎令を取消すに至れりという。もしそれ彼の格闘に至りて、さらに大いに記すべきことあり。

(九)謚撫は東洋鬻の諜毆なり.これをもって彼高橋の人に対するや情誼響厚く、柄《がら》になき親孝行の美名さえあり。彼がその二十歳に至るまで父母の膝下《しつか》を離れざりしは、その慈母の多病にして奉養日《ほうようひ》もなお足らざりしに因《よ》るというの説あるは真か。彼が高等中学にあるの日、厳父の病を看《み》んがために、一年四回故郷に帰りたりと云うは、彼の親友間に行われる美談なり。あるいは曰く左の一絶は実にその際の作なりと。
天風驀地度渓間
恨発信南蕭索雨
人与白雲往又還
也追客子過関山
 すでにして彼父|白山《はくざん》の病《やまい》、中風《ちゆうぶう》なるを知り、あるいはそのついに起たざるを疑い、自らまず自活の策を樹《た》てんと欲し、その高等中学にあるの日、教員検定試験を受けて、漢文、歴史、地理の三科に及第《きゆうだい》せり。ここにおいて彼自ら深く自家の学力を誇り、一日同郷の先輩伊沢修治《せんばいいざわしゆうじ》を訪うて、天下の人物を罵倒《ばンう》せり。癇癖《かんべき》の伊沢大いに彼の尊大《そんだい》を怒り、在《あ》り合《あ》う座蒲団《ざぶとん》を執《と》り、彼に擲《なげう》てり。利かぬ気の高橋|如何《いかん》ぞ黙視《もくし》せんや、「何を」と云い様《ざま》互いに格闘を始め、回向院《えこういん》における太刀山《たちやま》、駒《こま》ケ岳《たけ》の勝負のごとく、暫時《ざんじ》は竜攘虎搏《りゆうじようこはく》の奇観を呈したりしが、見《み》る間《ま》に高橋の太刀山は伊沢の駒ケ岳を取って抑えてこれを膝下に布《し》けり。家人驚き来たって双方《そうほう》を引き分け、高橋を宥《なだ》めてこれを帰り去らしめたり。翌日伊沢書を高橋に送って曰く、僕昨日の事ただ君の慢心《まんしん》を抑えんと欲せしのみ、また決して他ありしにあらず、願くは再び来れ、共に歓を尽《つく》さんと。ここにおいて彼等さらに改めて好誼《こうぎ》を結び、交情日《こうじよう》に倍するに至りしという。
 かくの如き彼の腕力癖は、大学教授たりし後《のち》においても改《あらたま》らず、その学生を御《ぎよ》するにおいて、なおこの慣用手段《かんようしゆだん》を用いるを辞せざるの風あり。ある宴会の席上、青木某なる一学生
あり。微醺《びくん》を帯び来たって高橋の隣席に座し、聞えよがしの高声をもって独語して曰く、「何だ洋行帰りだと思って威張《いば》りやがって」と。高橋聞いてその無礼を怒り、鉄拳《てつけん》を振って健《したた》かにその頭を打ちぬ。学生もまた怒り、あわや一場の格闘を生ぜんとせしが、辛《から》く傍人《ぼうじん》の止むる所となってまた大事に至らずして止《や》みき。すでにしてその学生大いに悔《く》い、彼の面前に来《きた》って無礼を陳謝《ちんしや》し、彼もまた釈けて大いに歓語したりという。のちこの学生、彼の周旋《しゆうせん》に因《よ》りて某会社に入れり。けだし伊沢の座蒲団事件《ざぶとんじけん》と好一対《こういつつい》に話柄《わへい》たり。思うに尋常後進の教授なるものは、多く学生の鼻息《はないき》を覗うてその歓心を失わざらんことをこれ勉むるをもって普通となす。彼高橋、学生に鉄拳を加えてその暴慢を抑えたるは、聊《いささ》かもって彼の壮士的面目を覗《うかが》うに足る。
 その他、田島錦治と池上曙楼《いけがみあけぼのろう》に格闘せしを始めとして、彼が一中時代、大学時代の腕力沙汰《わんりよくざた》はほとんど枚挙《まいきよ》に暇《いとま》あらず。要するに彼の書生時代は意気満盛《いきまんせい》の時にして、「書懐」と題する左の一絶のごときは、善く彼の当年の意気を示して、而《しこヤつ》して余りあるものなり。曰く、
眼界唯看天地横
雲山自是前程遠
休言一路満榛荊
白日浩歌載筆行
 思うにかくの如き彼の一中時代、大学時代は、彼の東洋豪傑風の素《もと》を成《な》したる第二歩なり。

(十) 彼高橋がもっともその東洋豪傑風を発揮《はつき》したるものを、日清戦役従軍の一段となす。これより先彼の大学を出るや、選ばれて海軍教授たり。たまたま日清戦役のこと起るや、我《わが》聯合艦隊は戦時における海上の問題を解決せんがために、一人の国際法学者を従軍せしむるの必要あり。時あたかも平壌未《へいじよう》だ陥らず、黄海《こうかい》の戦未《たたかい》だ起らざるの前、敵の艦隊|定遠《ていえん》、鎮遠《ちんえん》の二|艨艟《もうどう》を擁して、その勢い遥かに我《わが》艦隊を凌《しの》ぐとの風説あり。これをもってたとえ直接にその戦闘に参与せざるまでも、身を一葉《いちよう》の戦艦に托して、砲烟弾雨《ほうえんだんう》の間を来往《らいおう》するは、決して常人の喜ぶ所にあらず。これをもって我国の学者にしてまたついにこの募に応ぜんとするものなし。この時に当りて班超筆《はんちよう》を擲《なげう》つの故事《こじ》に傚《なら》い、慨然蹶起《がいぜんけつき》軍に従いしものは、けだし豪傑肌なる彼高橋作衛となす。当時彼吟じて曰く、
何人蹶起策奇勲
恨殺班超空擲筆
四白州荒欲日嘆
幕中論法侍将軍
と。そのまさに発せんとするや、素《もと》よりすでに万死を期して一生を望まず、具《つぶ》さに実弟雄次郎(今の工学士福岡鉱山監督署技師)に托するに後事をもってして発す。幸いにして彼|黄海《こうかい》の難戦には参せざりしも、かの旅順《りよじゆん》および威海衛《いかいえい》の攻撃は、実に彼が実践したる所なりき。特にもっとも特筆《とくひつ》すべきは、かの聯合艦隊司令長官|伊東《いとう》中将が、敵将|丁如昌《ていじよしよう》に致したる漢文の降を勧《すす》むるの書は、まったく彼の手に成《な》りし一事これなり。思う当年彼が渤海《ぼつかい》湾頭|剣戟《けんげき》を横《よこたえ》て寒月に嘯《うそぶ》きし時、いかに意気の八荒《はつこう》を呑《の》みしものありしそ。要するに彼の艦隊従軍は、その東洋豪傑風をなしたる第三歩なり。
 かくの如き東洋豪傑、青年壮士の風ある高橋が、磊落疎放《らいらくそほう》、小事に齷齪《あくせく》たらざるの風あるは、けだし自然なり。殊にその磊落は彼の不潔なることにおいてもっともその特色を発揮《はつき》せり。彼のベルギーにあるや、彼の白|襯衣《しんい》はなはだ汚る。同宿の英国令嬢某のごとき窃《ひそか》にもって不快となす。けだしベルギーの国際法大家ナイス氏、篤学《とくがく》にして辺幅《へんぷく》を修《おさ》めず、もっとも不潔をもって有名なり。学生皆曰く、ナイスが髪を梳《くしけず》れると、襟垢《えりあか》の付かざる衣服を纏《まと》いたるとは未だかつて見しことなしと。時に高橋しばしばナイス氏と往来して、その説を敲《たた》く。深く高橋を知らざるものは以為《おもえら》く、彼の不潔なるはけだしナイスに私淑《ししゆく》せるならんと。しかるに時のベルギi公使館書記官たりし法学士|萩原守一《はぎわらもりいち》は、今の朝鮮駐在公使館一等書記官高橋の同学にして、その有名なるハイカラだけに常に高橋を叱して曰く、「貴様《きさま》の汚いのは大学の時から有名なもんだが、もうヨーロッパへでも来たら、少し気を注《つ》けたらどうか」と。ここにおいて人皆彼の不潔性の由来するはなはだ遠きを知りしという。

(十一) 頃日、七博士の袖を列ねて首相|桂《かつら》を訪うや、博士富井まず諄《じゆんじゆ》々として戦《ん》争の到底《とうてい》避くべからざる所以《ゆえん》、満州の決して他国の占領に委《まか》すべからざる所以《ゆえん》を痛論せり。桂すなわち慰撫《いぶ》の口調をもって諭《さと》して曰く、外交の事はすでに当局者のあるあり、諸君願くは安んじてこれを政府に一任せられんことを乞うと。時に高橋|色《いう》を作《な》して曰く、今日の事決して専制時代《せんせいじだい》の思想をもって律すべからず、今日の外交は決して政府の外交にあらず、すなわち国民の外交なり、これ吾徒がその主張の貫徹《かんてつ》を期する所以《ゆえん》にして、これを政府に一任する能《あた》わざる所以《ゆえん》なり、乞う願くは決する所あれと。桂苦笑また一言なかりしという。
 この一事はもっていかに高橋が年少|気鋭《きえい》にして、その青年壮士という名目《めいもく》を値するものあるやを示すものなり。然《しか》り彼は一面において慷慨激越《こうがいげきえつ》、善く義に勇むの正直なる男なりといえども、彼をもって徹頭徹尾《てつとうてつび》止直なる男、進むあるを知りて退《しりそ》くあるを知らざる、いわゆる一片の猪武者《いのししむしや》となすがごときは、未《いま》だ彼を知らざるものなり。彼はかくの如き壮士たると共に一|策士《さくし》なり。彼は邁往《まいおう》直前の直情漢《ちよくじようかん》たると同時に、変通自在《へんつうじざい》の怪物《かいぶつ》なり。これをもって彼の父|白山《はくざん》のごときすら常に彼を評するに、もっとも解すべからざる人間をもってせしという。左の一事実のごときは、もっとも彼の策士的面目《さくしてきめんぼく》を表彰するものたらずんばあらず。彼の英国に遊ぶや、まず日清戦争従軍中に蒐集《しゆうしゆう》したる幾多《いくた》の材料を利して、『日清戦役中における国際公法の適用』を著わすの意あり。しかもこれをケンブリッジ又はオックスフォード大学の出版部よりせんことを欲せり。何となればこれその書籍の価値を公《おおやけ》に証明するものたればなり。ここにおいて人の紹介をもってケンブリッジ大学の神学部総長某氏に至り、その国際公法学者ウェーストレーキ氏の講義を聞かんがために、下宿屋またはある家庭の彼を止宿せしめ得べきものありやを問う。某氏答えるに到底その求むべからざる所以《ゆえλ》をもってし、かつただ神学校寄宿舎に空室あり、彼にしてもし神を信ぜばこれに入るるを難ぜざることを告げ、さらに彼に問うに基督《キリスト》教を奉ずるや否やをもってす。彼|以為《おもえ》らく、「正直は最良の政略なり」との西諺《せいげん》応用すべきはまさにこの際にありと。答うるに否をもってす。某氏|沈吟《ちんぎん》して曰く、神学校は由来《ゆらい》未信者を入れず、しかも遠来《えんらい》の孤客《こかく》をしてその志を成《な》さしめざるは、窃《ひそか》に余が遺憾《いかん》とする所なり。余が意決す、君をして舎内の人たらしめん、ただ君が謹厳《きんげん》身を卒えんことを乞うのみと。ここにおいて彼好める酒を絶ち、朝夕寺院に参じ、舎内にあること実に半年、ようやくにしてウェーストレ!キ博士の校訂を経て著述の完成を見たり。よって行きてこれが出版を博士に計る、博士ついにこれを許さざるなり。
 ここにおいてケンブリッジは永くその足を止《とど》むべき所にあらずとなし、即日|行李《こうり》を収めてオックスフォードに往く。オックスフォード大学には有名なるホルランド博士あり。彼|此度《このたび》は全く「正直は最良の政略なり」との手段を棄て、絹帽を戴き、カラーを高くし、傭馬車を駆って、傲然として博士を訪問せり。彼時に名刺《めいし》に書して曰く、東京帝国大学教授高橋作衛と。博士彼の矮小《わいしよう》なれども肥満せる風采を眺み、その鹿爪《しかつめ》らしき言語を聞き、彼を遇するに真個の教授をもってせり。
 やがて相交ること数ヵ月、彼|故《ことさ》らに大学の講義にも出席せず、ある日|従容《しようよう》としてその自著を出して彼の校閲を乞うと称し、その称賛の辞を得るに及《およ》んで、直ちにこれを大学出版部の手より公《おおやけ》にせんことを計る。正直なる博士は彼の術中に陥り、ついに彼の『日清戦役中における国際公法の適用』をして、その名誉ある大学出版書目の中に加えしむるに至れり。吾人はもとよりこの書の価値の彼の学才を証明するに足る良好の著述なることを嘆称するものなりといえども、彼がこれを、オックスフォード大学出版部の中より出版せしめしその政略の巧妙なるに至りては、さらに讃嘆を禁ずる能《あた》わざるものなり。
 要するに彼は学者に珍しき策士なり、吾人は彼が長く学界の人たるべきや否《いな》やを疑う。思うに彼がついに大学を踏台《ふみだい》として、政界に雄飛《ゆうひ》するの時、さらに彼の東洋豪傑的東方策士的青年壮士的面目は、さらにその異彩《いさい》を放《はな》つべきを信じて而《しこへつ》して疑わざるなり。

(十二) もしその人を知らんと欲せばその交る所に見よと、古人の金言《きんげん》決して我を欺《あざむ》かざるなり。京都大学の岡村司《おかむらつかさ》、剛直真摯《ごうちよくしんし》をもって有名なる故の第一高等学校教授文学士赤沼金三郎と友とし好し。その始め彼等の共に倶に三島中洲《みしまちゆうしゆう》の門に学ぶや、互いにその人となりを疑い、弁難攻撃《べんなんこうげき》相下らず。そのはなはだしきに至りては互いに罵詈《げり》を交換し、ほとんど相|殴《う》たんと欲するに至りしことしばしばなりき。しかも彼等互いに気骨《きこつ》の流俗《りゆうそく》と異なるものあるを見て相接近し、ついに渙然《かんぜん》として氷釈《ひようしやく》し、臂《ひじ》を把《と》って交を締するに至りて、また情の厚きほとんど管鮑《かんぽう》の類にあらざるものあるに至れり。
 けだし岡村も赤沼も共に三島中洲の門に出でて、共に司法省法学校に入れり。その後該校官費制度の廃せらるるに及んで、彼等は共に大学予備門の人となり、次《つい》で岡村は法科大学に入り、赤沼は文科に転ぜり。すでにして岡村の大学を卒業して、栄官に就《つ》ける間に、独り赤沼は一年志願兵として、日清戦争に参し、いわゆる文武の間に彷徨《ほうこう》して、久しく業を終る能《あた》わざりき。ここにおいて彼もっとも学資に窮し、ほとんど衣食の途《みち》すらなきに至れり。この際に当り、一方において彼に向かいて学費を給し、一方において彼の実弟赤沼徳郎(今の山口高等学校教授)をして、その大学の科程を終らしめしものを彼岡村司となす。かの率直なる赤沼が当時、左の熱誠に満てる文字をもって、彼の厚情に応《こた》えたるもの偶然にあらず。
  岡村君足下、友道の廃《すた》るること久し矣《かな》、その相得るや盃を啣《ふく》み日を指して而《しこう》して誓う者、 一旦《いつたん》利害|勢《せい》を異にし、貧富境を分てば、すなわち啻《ただ》に棄捐《きえん》顧みざるのみならず、擠排《せいはい》石を下す者、比《ひひ》々皆これなり。婁騒《ル ソ 》氏曰く、朋友不足恃、朋友之義、在死生相済艱厄互救、而平居無事之日、不知其為人、一旦臨逆境始知其非真友、既遅矣、と言過激を免れずといえども、また全く理なきにあらず。(中略)僕足下と相見ざること六旬、足下撫丗に酵くと聞き・一書を作りてもって賀せんと欲す。多事鋤鷹未
 だ能《あた》わず、今|忽《たちま》ち書あり、贈るに財幣|若干《じやつかん》をもってしかつ曰く、今より後《のち》僕願わくは月俸一分を分てもって足下筆墨の資に供せんと。(中略)抑《そもそ》も僕足下の書を読み、感激|已《や》まざる所以《ゆえん》の者。友道地を掃らうの時に方《あた》り、足下独り窮亨《きゆうきよう》をもってその徳を弐にせざるにあり、云《しかじか》々。
 赤沼金三郎は率直の人なり、熱誠の人なり、決して言辞を苟《いやしく》もせざる人なり。この人にしてこの言あり、吾人は読者と共に大概《おおむね》岡村がそのいかなる人物なるべきかを想見するを難ぜざるものなり。

(十三) かの岡村が赤沼と好き抑《そもそ》も何に因するや。彼等が熱血の人たるに依《よ》るか、それあるいは然《しか》らん。彼等が風骨《ふうこつ》の非凡なるに依《よ》るかそれあるいは然《しか》らん。しかれども彼等が共に真摯《しんし》の人にして、いわゆる共に精神家の類たるは、彼等の交情をしてかくの如く密ならしめたる所以《ゆえん》ならずんばあらず。彼すでに極めて真摯《しんし》なり。これをもって虚飾《きよしよく》と偽善《ぎぜん》とは彼の断じて取らざる所、その所信《しよしん》を吐露《とろ》し、その所説を尽すにおいて、決して何人《なんぴと》の面前たるも少しも顧慮《こりよ》する所なきなり。これ実に彼が学者として壮士の名ある所以《ゆえん》にして、彼が幾多《いくた》の奇行は常にこの一点に集れるもののごとし。
 彼始め大学を卒業するや、まず志を官海《かんかい》に立てて文部省属官たり、しかも彼や決して永く五斗米のために腰を屈するの俗骨《そつこつ》にあらず。その官庁におけるやすなわち大臣を捕えて気焔《きえん》を吐《は》くこと、かの東京大学の寺尾のごとし。しかも寺尾は大学教授にして参事官なり。その大臣と論ずるにおいて決して些《いささ》かの怪しむべきなし。独り彼岡村はその一小属官たるの時において、すでに大臣と論議を闘わせしというにおいて、誰か彼の壮士的資質を認めざらんや。かくの如くにして、大臣その者は彼をもって奇骨《きこつ》大いに好愛すべきものとなせしといえども、彼の周辺を囲める紛《ふんぷん》々たる俗吏《ぞくり》は、常に彼を見るに猜疑《さいぎ》の眼をもってし、ついにかの官人の標本たる時の文部省参事官|寺田勇吉《てらだゆうきち》と衝突《しようとつ》して、辞表を提出するの已《や》むべからざるに至れり。爾来《じらい》彼|狷介《けんかい》の質自ら到底|俗間《そつかん》に容《い》れられざるを知り、断然望《だんぜんのぞみ》を官海に絶ちて学界の人となり、陸軍教授、東京大学講師を歴任してついに京都大学教授たるに至れり。
 もしそれ彼が学者としていかに激烈なる直論家なるかは、大概《おおむね》下の事実に徴して明らかなり。本年三月中旬、京都大学講堂落成の式を挙ぐ。学生は勿論《もちろん》内外の来賓《らいひん》新聞記者堂に満つ。礼典ようやく歩を進め、やがて教授の講話をなすの時に達するや、彼|悍鷲《かんじゆ》の巨眼を開き疎髯《そぜん》を撫して講壇に立ちて曰く、僕今日材料のもって諸君の清聴を汚《けが》すに足《た》るべきものなし、ただルーソーの告白は僕が平生愛読の書なり。願くは今日これを諸君に紹介することを許せと。かくの如くにして彼その率直露骨《そつちよくろこつ》の文字をもって有名なる『コンフェッション』を演説し始めたり。曰くルーソーは某所において盗賊せり。曰く彼はかくの如くにして処女を辱《はずかし》めたり。曰く彼はかくの如くにして桶屋《おけや》の女房と慇懃《いんぎん》を通ぜり。曰く何、曰く何と。その写実の精細《せいさい》にして委曲《いきよく》を尽せる、その言辞の露骨にして修飾なき、その演説二時間中は、満場|呆然《ぼうぜん》としてほとんど全く五里霧中《ごりむちゆう》に彷徨《ほうこう》せるがごとくなりき。しかもその演説のいかに痴態《ちたい》を極めつつあるの時に当りても、彼はほとんど眉宇《びう》をだに動かさず、泰然自若《たいぜんじじやく》として話頭を進めつつあり。その興《きよう》に乗ずるや一言は一言より切に、一話は一話より奇にして、聴者ほとんど失笑《しつしよう》するの暇《いとま》すらなかりしという。而《しこう》して最後に至りて彼の下せる断案《だんあん》なるものが、いわゆるもっとも彼の資質を表白《ひようはく》するものにして、ここにもっとも特筆大書《とくひつたいしよ》して読者に紹介せざるべからざるものあり。曰く要するに人生最上の道徳《どうとく》はその本能を発揮し、その所存を尽くすにあり。かの節欲、制情を教ゆる古来東西の道徳説は、必竟《ひつきよう》これ不自然にして人為的なる偽善偽義《ぎぜんぎざ》の類のみ。吾人は須《すべか》らくその所信を決行し、その本能を尽すにおいては、ただこれ邁往直前、ルイ十六世を断頭台《だんとうだい》に上《の》ぼせし、ロベスピールのごとき大胆なるに至らざるべからずと。これ実にかの小胆なる京都の新聞記者をして頻《ししさ》りに第二の哲学館事件を呼ばしめたる所以《ゆえん》なり。
 吾人は決して全く彼岡村と所説《しよせつ》を共にするものにあらずといえども、吾人は彼が心術の公明正大にしてその所説を吐くに大胆に、その所信を貫《つらぬ》くに果敢《かかん》なるの勇気に感ぜざるを得ず。これ吾人が彼をもって学界の壮士をもって呼ぶ所以《ゆえん》にして、しかも東京法科大学における三大壮士に匹敵《ひつてき》して而《しこう》して余りありとなす所以《ゆえん》なり。由来《ゆらい》京都大学快男に富む、彼のごとき方《まさ》にその雄《ゆう》なるもの、いたずらに先進教授の意を迎うるをもって能事《のうじ》これ終れりとする所の、かの東京のハイカラ教授連、宜《よう》しく須《すべか》らく彼の邁往《まいおう》なる意気に学ぶ所ありて可なり。



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