網迫の電子テキスト乞校正@Wiki
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ja
2023-07-04T14:36:54+09:00
1688449014
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嵯峨の屋おむろ「くされたまご」
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くされたまご(上)
一輛の鉄道馬車京朧の辺にて止りぬ、見れば狭き昇降口に乗る人下る人入まじりて悶着せり、最少しお詰なされて、と罵るは御者の声。しばしば込合《こみあ》ふ様子なりしが、やう〳〵にして静りしは}同よきほどに居並びしなるべし。最後に入来るは若さ女。黒縮緬のおこそ頭巾に顔は半かく糺て見えねど、色の白さうっくしさ、頭巾の蔭よりさし覗くしめりを帯びし目の清しさ、いづれか見る人の心を惹ざらん。いづこに坐るべきかと躊躇ふ様にて、すツきりとして佇立か姿、朝日口背く女郎花のくねらで立てる風情あり誠に心の銷こそ人の目口止まらずらめ、姿の花の引力の強弓、車上の人の夥多の目はたゞ、この花口集りぬ。彼方の一隅に腰を掛で、たyゝ外の方を見詰ゐたる、十六、七の少年ありしが、それだに傍のけはひに誘はれ覚えずこなたを見かへりし、その顔だちの愛らし、目を見合はせし件の女はつか〳〵と歩み寄り、その傍に腰を掛けぬ。腰を掛けつゝ小声にて、「あ窮屈な」と呟きながら眉を顰めて、うツとしさうに被ぶれる頭巾を脱ぎ棄て、初て見するその顔は十人並より美しがるべし。しだらなく合せたその襟附はともすれば洩《も》らすべし胸の羽二重《はぶたえ》、みだらがはしき下前《したまえ》は歩かば蹴出《けだ》さん白き脛《はぎ》、いきなりの束髪結に、見得を棄たる羽織の着こなし、黒人にしては不粋に過ぎ、娘にしてはみだらな粧姿。でもいかなる身分の女か、世なれて見ゆる七不思議なり。少年はまがひなき書生風、ごむ靴に朱糸の靴足袋、短き小倉の袴を穿き、活溌らしか扮装なり。まだをさなげの失かねし無心の風も憎からず。清しき目、朱き唇、翠の眉は桃色の頬に映じ、」層見まさる愛らしさ、飾らぬ粧はなかくに包める玉の光をますべ女は脱いだる頭巾をいぢり、折々その目に情を含み、少年の方を見かへれど、彼方はとんと気かっかず、た・ゝぽんち絵の広告に目を注ぎっヽ余念なし。その中に日本橋、と叫ぶは馬車のすてエしよん、またこゝにても幾人か、或は下り、或は乗り、以前に増りて込合ひたり。この雑沓と諸共に女はやをら腰を移し、少年の方へすり寄りたり、されば二人の間にはたゞ衣一重の垣あるのみ。車の物に打触れて傾くごとに、この女の懐にせる香水は馥郁たるその香を少年の鼻に送るなるべく、また少年のつく息は女の息と混ずるなるべし。とかくする聞に車は進みて万世橋に着くとそのまへ少年は急がはしく真先に飛び下る、女も周章て飛び下る、少年は頓着なく華族の邸に引添ふて彼方の高き坂に向ひっかくと往くほどに、女心同し方へと向ひ、往来まばらになりし時、「もし〳〵」と後より女は小声で呼かけぬ。ざれど彼方の耳には入らず、女はきざみ足にて前へ進み、
「もし〳〵
少年はふり向いて立止まり、
「私ですか。
「少々伺ひますが。
卜言ひて見る目に流す秋の波、情を籠たる口元の少し大き過ぎるは玉に瑕、それをかくすしめ笑ひ、
「西紅梅町と申すはどの辺でござんせう。
「西紅梅町?
少年は不審さうに女の貌を見て、
「西紅梅町は上ッて左の方へ往くのです。
つぎ穂なく言ひ捨て往かんとすれば、女は周章て呼び止め、
くされたまご
「あの、何んですか、まだよほどありますか。
「いゝえ、二、三町です。
少年はきまり悪そうに横を向き、正面の板犀心返答三昧、額にかゝる緑の髪、价悧さうなそのまなざし、愛らしい二重瞼、美しい頬の薄桃色、男が見ても見返るべし。女はつく〴〵と少年の貌を見つめ、心ツこりと笑みて笑凹を現はし、
「十八番地といふとどの辺になりませう。
「知りません。
問ふべき事も尽果ぬ。引止めん術もなければ別れんとせり。その時しも、「松村さん」と呼ぶは後へ来る人なり、見返れば一個の紳士。二人は同時に、
「おゝ宮川君。
「おや宮川さん、どちらへ。
「貴君の所へ、(少年に向ひ)お前、松村さんを知ツてるのか、
「いヽえ。
と膨れた声、女は口をさしばさみ、
「知ッてる方ではないんですが、今探す人がありますので、番地を伺ッてゐたんですよ、
宮川さん、よく貴君御存じですねえ、この方を。
「知ツてますとも、親類です、そして妙だ、貴君と同姓だ、松村と言ひます。
「おやさう、貴君の御親類、私と同姓、おや嬉しい、どこに知ツてる人があるか知れない者ですねえ、どうかゝこれからお心昜く、貴君。
「往来に立ツてゐても仕方がないが、お前、全体どこへ往くので、なに我輩の家、さうか、
言葉をゆるめて、
「えゝと、それでは帰らうか。
と言ひながら女の方を向いて怪しい目附、相談をかけるやうな目附。女も意味の深い一瞥。甘へるやうな一瞥。じツと男を見詰ながら、いと打解けしいと優しき調子にて、宮川の傍へすり寄りながら、
「來て下さらないの、少しお願があるのですよ、貴君の力が借りたいの、來て下さいな。
舌たるき言葉、また少年の方へ向ひ、
「ねえ、貴君、御用がないのならいらツしやいな、宮川さんと一所に、私の所へ、直そこですから。いゝえ御遠慮には及びませんよ、誰もゐないのですから。
女は宮川には勿論の事、今遇ッたばかりの少年にさへ、あだかも十年の知己の如くいと打解けし話ぶり。この談判の結果として、少年は宮川と共に女の住居へ趣きぬ。
「さ、何卒ぞこちらへ。お敷きなすツて。
女は少年に蒲団を勧めて、火鉢に炭を積みゐたり。宮川は遠慮もなく蒲団の上へ箕坐《あぐら》をかき、机に臂をもたせかけ、くの字形に体をゆがめ、そのあたりに散ッてゐる二、三枚の紙をかきよせ、見れば、女主人が筆をふるひし鉛筆画。
「や、大部御上達だ、滅法に上りましたね。
「上りましてせう、ホヽヽヽ私は今に美術共進会へ出そうと思ツて、ハヽヽヽ、お、あつ、火の中へ目が這入ツて、
「え、火の中へ目が? 其奴は大変だ、目玉の黒焼だ。アハヽヽヽ
「何んですねえ、囗の悪い、貴君吹いて下さいよ、私はお茶を入れますから。さ、松村さん、こちらへ寄ツておあたんなさい、私はこの通りながさつ者ですからね、かしこまツてゐちやア厭ですよ。さ、袴をお取んなさいよ、そんな、窮屈袋だわ。ほゝゝゝ
訳もなき愛敬笑ひ、立上りて階子段の傍に寄り、下を覗いて大きな声、
「叔母さん、お湯を、叔母さん、叔母さあアん……つんぼだねえ……いゝえお湯、お湯だツてば……あ、早くよ。
舌打をしながら元の席へ立戻り、坐る格好のしだらなさ、
「耳が遠いから、ちよいと言ひつけるにも大変なの。口がすツぱくなツちまふの。
これより根村の通ふ学校の在所、その下宿の蟆様、松村と宮川との間柄、松村の故郷、その両親の事、さてまたゝ」の婦人は宮川の父の立てたる女旱校の教師といふ事、熱心なる耶蘇教信者といふ事、耶蘇教の宗旨の事、上これらの事が話の種にて、談笑およそ一時間。女主人は始終打解けたやうな、やさしいやうな磊落のやうな、気取ツたやうな、一種不思議の言語取なし。十七の少年にあらぬ者心聞く耳をたつる弁舌なり。
この時宮川は俄仁思ひ出したやうに、
「風教雑誌を読みましたが、昨日の。
「あゝ読みました。
「上村の道徳論はどうでした。
「さうさ、感心するほどでもないのねえ、知ッてる事ばかりです。どうも博士の議論だとは思へま廿んツ、どうして貴君。一体人間は汚れた罪のある心を以て、世の中に生れたんですものを、神の恵でなけりやア、幸になれますものか。
いつまで経ても話のきれる様子なければ、少年はやう〳〵倦み、「遅くなるから」と立かゝるを女主人は周章ておしとゞめ、
「おや、なぜ、よいぢゃありませんか、もツと遊んでらツしゃいよ、あの御膳をあげますから。いゝえ御膳を喫《たべ》ない中は帰しません、ほゝゝ貴君と一所に喫たいの、いゝえ真成《ほんと》に、さうなの、ほゝゝゝまアお坐んなさいよ、お神輿をお据ゑなさいよ。
少年は苦笑ひ。坐り直すのを見て、
「ほゝゝゝあんまり乱暴だから喫驚《びっくり》しましたか、私は新主義なの、ざツくばらん主義なの。
言ひ終ツて俄に静になり、じツと少年の貌を見る、情を含みし目元の愛敬、頬に見えたる笑凹の力。少年は引止めら糺、立掛し膝に面目なく、わざと小用に立つなるべし
跡を見送り宮川は女の傍へすり寄りつ匸最も低き声音にて毋きつぐる二言三言、人指指にて女主人の頬をちよいと突く。……さても無礼な……女主人はこの無礼を何とかする。
見れば、目元に運ぶ万斛の情、体を少し揺ぶツて舌ツたるい甘へた調子。
「人を……憎らしい
同じく(中)
爽かに涼しか月は欄干の辺までもさし入りぬ。年まだ若さ一個の手弱女背を橡側の柱にもたせ、しどけなき立膝して、た。ゝ独りかなづるは月に縁ある四絃の琴。柔かき月光は朧に肩より下を照し、くっろげたる襟の間より著しく見えわたる乳のあたり白き肌膚もなまめかし。裳裾の端は風になびきてひらくと打ひらめき、そのたびに覗く爪はづれの尋常さ。あさ」れなんらの多情の妖物《ようぷっ》。忍音《しのびね》に唱《うた》ふ春雨は清楽《しんがく》に翻《ほん》したれど、さすがに調子色めきて鶯宿梅のゆかしさを風に語らふ風情あり。
折しも階子段に人の足音。
「松村さん。
「おや、晋さん、どうしたの、大変遅いねえ。
二階囗へ顔を出すはまだうら若さ少年。
「真暗ですネ、点ないの、灯火を?
「不風流なことを。まアこの月を御覧なさいよ、あ、ちょいと〳〵、坐らないで。憚り、らんぷを取て頂戴、床の間の。
「おや何んだ、やツぱり点るの。
「実は面倒だから点なかツたのさ。
「おや〳〵来ると早々使ふんだもの。
「だツて長者のためには枝を折れと、東洋の道徳でも言ひまさアね、まして立ツてる者は親でも使へと、ちゃんと聖書の中に書てあるもの。は丶丶丶丶
「馬鹿気きツてら。
「おや膨れて、それでも取ツてくれるから嬉しい。真個に君は柔順だよ、はいこれは憚りさま、七手を戴きたてまつります。ほ丶丶丶丶
笑ひながら火を点る、その顔を見れば前回の婦人なり。また晋といふはその時の少年。
「おやどこへ往くの。
「ちょいと失敬、いひ付る事があるんだから。
流し目に少年をちょいと見返り、しどけなき裳裾を蹴返しっへとツかツぱと階子段を下て往く、万事当世好み活溌なるものなり。少年は手持なさ、月琴を引よせて掻ならす独得の器用引、かけ撥 沢山の素人おどかし、技前は婦人と伯仲の間なり。いつの間にかは戻りし婦人、おやと言ッて立ッたるまへ目を細くしてつく〴〵と眺め、
「甘いこと、大層上手になりましたねえ、きツとどこかで習ッたんだよ、それだから学問が厭になるんだ。
言ひかけて急に真地目《まじめ》、
「真成に冗談ぢやアありませんよ、そんなに月琴ばかり上手になツて、どうなさるの、不可ま廿んねえ、この頃は貴君はなまけるツて、専ら評判ですよ、
「なまけるツて? 馬鹿な、迂詐ですよみんな。
「まア迂詐なら迂詐として、晋さん、私は貴君《あなた》に遇ッたら聞いて見やうと思ッてゐた事があるの。私がこの間、さう、いつだツけ、あれは、さう慥十九日、ちょいと貴君の下宿へ寄ッたら、貴君は昨夜《ゆうべ》出たぎりまだ帰らないツて、言ッてゐましたが、どこへ往ッたんですあの時は、え、どこヘ往たんですよ。
「どこヘッて? あの時は……あの時は朋友の所へ往ッたのさ、それで、その、遅くなツたから泊ッたのさ。
「うそを、知ッてますよ、そんな空をつかツて、小野出さんと一所に往ッたのでせう。さうでせう。あら、さうだもんだから笑ッてゐて、真成に憎らしいよこの人は。
言ひかけてまた真地目、
「不可ま廿んねえ今からそんな所へ往くやうでは、もウお廃なさいよ、あんな所へ往くものはどうせ碌な者にはなりませんよ、田舎でどんなに心配なさツてだか知やアしません。
折から皺がれだ咳払ひ、暫くしてやツとこさ、階子段のヒヘ現はるゝはこの家の老婆、蝠人はふり返ッて莞爾打笑み、
「あ、有難う、どうぞそこへ置いて、晋さん今日はめづらしく御馳走しますよ、君の好物を。
「なに、酒、酒は
「おや、不思議さうな顔して、厭ひ? え、私の所では飲まないの。何ですと私にすまないツて。なぜ、宗教家だから? 宗教家だツても私は飮むのさ、無論管はないのさ、お酒を禁ずるのは儀式上の事ですもの、儀式も無学の者には入要ですけれど、道理を刧ッてる者には要りやアしません。私はお酒を飲むと気が済々として来て、罪も報も忘れてしまツて、真個に清浄潔白になるやうですよ。そして、悪い気なんざア少しもなくなツて、世の中が面白くなるんですから、私はかヘッて飲む方が宜と思ひますわ。
この説敦の最中に下坐敷の方にて男の声。これ前回の宮川なり。
「ゐますか。
「ちょツ、うるさい、またやツて来たよ。
西施ぶりといふ眉の皺、ざれどさすがは女の持前、宮川の顔を見ては急に莞爾、
「お出なさい、ちやうど宜所、今晋さんか来たから御馳走しやうと思ツた所。
机の引出よりころツぷ抜を取出し、
「晋さん、失敬、ちょいと抜いて頂戴。
「宜しい、驚いたなア、せん抜きまで揃ツてるなア。
山海の珍羞とはまゐらぬも、肴屋醉屋を覆したる色々品々、二人前の注文を三分して内心恨しき婦人の顔、ほどなく桜色にはのめいたり。
宮川は婦人に向ひ、
「貴君は昨日の協会へ出ましたかえ。
「なんで出ますものか、人を面白くもない、町口夫人の演説なんざア聞いたツで有難はありませんもの、人を……父母に対する女子の心得ツ。女子の心得もないものだ、自分はどうでせう、あんな行ひで、よくあれで平気で演説が出来ますねえ。
「皆あんなのさ、今の奴は。
「真成ですねえ、愛するツても日本の者は人柄を見ずに愛するんですもの、だが一体愛するといふのは問題ですねえ、無論愛するのは悪くはないさ、ちやうど厭ひな人を愛事《すくこと》が出来ないと同じやうに愛らしい人は愛さない訳にはいきま廿ん、神は敵をも愛せと申しましたもの、だから愛、それ自身は高尚ですが。
また暫らくは愛の説教。間へはさまるは宮川のまぜかへしと晋の心理学、否変理学、婦人はやがて言葉をつき、
「しかし同じ愛するのでも、命をかけて愛するほどなら、実に、まだ頼みがありますが、日本の男女のやうに真実といふものは、薬にしたくも少ともなく、厭ならおよし他にあるからといふやうな浮気|一三昧《いっさんまい》の恋で、寄ると触ると一所になりツこでは、実に困りますねヱ、それといふが畢寛無宗教だからですよ。神の教なんといふと、頭からかツけなして相手にしないんですもの、道徳加地を払ッてないからですよ、それも宜《いい》が、自分たちがさうだものですから、それを標準にして人の事をとやかうといふのですもの、失敬ぢやありませんか。私の事などは妙な事を言ッてますとさ、貴君と怪しいツて、真成に人を馬鹿にした、私はこんな拳主義ですが、これでも神の教は奉じてますからねヱ、
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いやに外部を飾ッて内々醜行を極めてる利口な人とは違ますからネ、それをそんな事を言ッてますとさ、失敬な面が憎いぢゃアありませんか。
宮川は口をはさみ、
「何とでも言ふなら言はせて置くさ、人は何と言はふと自分さへ正ければ良心に恥づる事はないさ、良心に恥づる事さへなければそれで宜さ、さア飲う〳〵、注いでくれたまヘー杯、もウそんな話はやめい〳〵。
これより盃の数重なりて三人は殆どどろんけん。婦人は流し目に晋を見て、「君はもウ酔ッてか意久地《いくじ》のない、なぜぐた〳〵してゐたまふ、妾《わらわ》はぐにゃつく人きつい厭ひ」とたしなめられて笑止にも晋は俄に元気を装ひ、大きな声にて歌を纈ふ、婦人は図に乗ッて宮川に向ひ、「貴君は拍子をとりたまへ」との命令、かしこみ奉りて手を打つ宮川。
暫くは大騒ぎにてありたるが、酒も大方尽たる頃、女は机に片手を突き、反身になツて大きな声、
「諸君! 神は月を造ツで我々にこの清夜を与へてゐます、かくの如き清夜を家の中で費やしますのは実に惜しかべき事ではありませんか。
こゝまでは真面目で言ひ、俄に大声で笑ひ出し、
「さアぶらつきませうよ、街を、街をさ、よう、ぶらつかうてばねえ。
婦人は宮川に手を引かれ、晋もそのうしろに附添ひつゝいづこへか出往きぬ。後にはさし入る真如の月、室内の空気も立かはれり。
同じく(下)
ふけゆく夜半の鐘、数ふれば早十一時。一輛の人力車、轆々と鳴り渡りて突然表口に止りぬ。車上より転ぶ如くよろめきく現はれしは、洋服を着たる一個の男。酒気紛々として鼻を突ばかり、足元の定まらぬは十二分に酔たるものなるべし、何事かうめきながら格子戸口に立寄りしが、酔漢の癖とて荒々しく戸を開べきに、さはなくて静に開け、酔ふても本性たがはぬか、右左りを見返りっヽ中へ這入りて静に閉め、婆ア〳〵と小声で呼べど、寐人りしか留主か答なし。酔漢は浪々《ろうろう》とそのまゝ二階へ昇りたり。
二階の一問には六枚折の古屏風を立廻したれば、内の模様は見えざれど、内より射す灯火の光は、まともに彼方の壁にうっりて更にまた階子段の方へ反射せり。男は呂律のまはらぬ舌にて、ぶつ〳〵と独り呟きながら、屏風の内へよろめき入りぬ。内には一個の若き女背向になりて熟睡せり。女のしたる枕の外にならびたる括枕、知らず何人の枕か、枕上《まくらもと》には盃盤狼藉《はいばんろうぜき》たり。
「おゝ、おい、文子嬢、おい起たまへ、来たよ宮川が、おい、こら松村女史、おい、親愛なる人よちょいと起よ、おい、おい神だツて眠よと言やアしまい、おい、よく睡ツてるなア。
とたんに目に入る燗徳利、生酔の意址のきたな
「なゝなんだ、酒……失敬な失敬……眠酒なんぞ
どツかり枕上へあぐらをかき、右手に徳利を振動し得意顔に北見笑み、徳利の囗より我
ロヘ、さても無作法な口うっし。肴はなきかとぅろく隕、端なく目にっきし括枕
「何んだ枕……二ツたアなんだ……二ツ並べる枕橋、へん人を……畜生。
両手を拡げしまゝ、ぐた〳〵と頭をふり、
「や、あツた〳〵、なまたま、有難し好下物。
この時階子段のきしる音して二階へ昇り来るは一少年あやしき移香のする繻子の襟付たる袷を着て、その裾を長く引ずり、女の細帯を腰に捲付け、その結目をゆるませたれば、今にも下へずり落さうな乱らな姿。前も現はにならぬばかり、はんけちにて手を拭き〳〵漸やく階子を上り終る。小用にでも往しなるべし。屏風の内の酔漢は酒に心を奪れたれば、人来る人のありとも知らず右手に鶏卵を取あげて、頻りに小皿を求むる様子。
少年はかくとも知らず、これも酒に酔たるか、よろめきながらうツかりと屏風の中へすべり入る、思はず躓づく蒲団の端、臥したる上へどツさりと倒れかゝれば女は喫驚、
「おゝ痛い、痛いツてばねえ
ねぼれ声にて叫ぶ婦人。驚き見かへる以前の酔漢、目をすゑてきツとなり。
「だゝ誰だ……や晋か……
見る〳〵貌色かはり、「畜生」と言ふや否や持ツたる鶏卵を、晋の貌へ打付くれば、黄み汁ベツたり貌は狼籍、鶏卵は腐ツてありし者か、鼻持ならぬ悪臭汚穢、晋はそこへ打倒れる。宮川は立上ツて。
「くゝくさツてらア、腐敗鶏卵《くされたまご》め。
あゝ腐敗玉子、しかり真にくされ玉子なり。臥したる者も、倒れたる者も、はたまた罵る者も共に腐れり。彼らは皮相より見る時は頗る美しきものにして腐れざる鶏卵と異ならねど、一たびその皮を破ぶりその内を窺へば一身だ。こ』れ腐敗の塊……悲哉聖者の遺教さへ、軽薄者流の翫具となる今の世の中、あゝ案じらるゝ世の行末……さてもこの煬の結局は……さても文子はいかゞせしぞ。
* ** ** ** ** *
松村文子は、
宮川よりは白眼《しろめ》
学校よりは背中に塩、
知人《しりひと》からは爪はじき、
身には宿す父《てて》なし子、
途方に暮糺てゐるも風の便。
これが腐敗《くされ》たまごの因縁因果です。下手な落語《おとしばなし》をなが〳〵として、飛んだ失礼を致しました。これにてさし代はります、御退屈さま。
岩波文庫 日本近代短篇小説選 明治篇1
2023-07-04T14:36:54+09:00
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太宰治「津軽」一二三(新仮名)
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青空文庫の「新字旧仮名」のものをもとに、新仮名にしようとしています。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2282.html
津軽
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)業《わざ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)白髪|逓《たがい》
-------------------------------------------------------
[#ページの左右中央]
[#ここから8字下げ]
津軽の雪
こな雪
つぶ雪
わた雪
みず雪
かた雪
ざらめ雪
こおり雪
(東奥年鑑より)
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
[#大見出し]序編[#大見出し終わり]
或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであった。私は津軽に生れ、そうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かったのである。
金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。それから三里ほど南下し、岩木川に沿うて五所川原という町が在る。この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるようだ。青森、弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺には他に無い。善く言えば、活気のある町であり、悪く言えば、さわがしい町である。農村の匂いは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらいの小さい町にも既に幽かに忍びいっている模様である。大袈裟な譬喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といったようなところでもあろうか。ここには、私の叔母がいる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕っていたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びに来た。私は、中学校にはいるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知らなかったと言ってよい。やがて、青森の中学校に入学試験を受けに行く時、それは、わずか三、四時間の旅であった筈なのに、私にとっては非常な大旅行の感じで、その時の興奮を私は少し脚色して小説にも書いた事があって、その描写は必ずしも事実そのままではなく、かなしいお道化の虚構に満ちてはいるが、けれども、感じは、だいたいあんなものだったと思っている。すなわち、
「誰にも知られぬ、このような佗びしいおしゃれは、年一年と工夫に富み、村の小学校を卒業して馬車にゆられ汽車に乗り十里はなれた県庁所在地の小都会へ、中学校の入学試験を受けるために出掛けたときの、そのときの少年の服装は、あわれに珍妙なものでありました。白いフランネルのシャツは、よっぽど気に入っていたものとみえて、やはり、そのときも着ていました。しかも、こんどのシャツには蝶々の翅のような大きい襟がついていて、その襟を、夏の開襟シャツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせているのと、そっくり同じ様式で、着物の襟の外側にひっぱり出し、着物の襟に覆いかぶせているのです。なんだか、よだれ掛けのようにも見えます。でも、少年は悲しく緊張して、その風俗が、そっくり貴公子のように見えるだろうと思っていたのです。久留米絣に、白っぽい縞の、短い袴をはいて、それから長い靴下、編上のピカピカ光る黒い靴。それからマント。父はすでに歿し、母は病身ゆえ、少年の身のまわり一切は、やさしい嫂の心づくしでした。少年は、嫂に怜悧に甘えて、むりやりシャツの襟を大きくしてもらって、嫂が笑うと本気に怒り、少年の美学が誰にも解せられぬことを涙が出るほど口惜しく思うのでした。『瀟洒、典雅。』少年の美学の一切は、それに尽きていました。いやいや、生きることのすべて、人生の目的全部がそれに尽きていました。マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り落ちるように、あやうく羽織って、そうしてそれを小粋な業《わざ》だと信じていました。どこから、そんなことを覚えたのでしょう。おしゃれの本能というものは、手本がなくても、おのずから発明するものかも知れません。ほとんど生れてはじめて都会らしい都会に足を踏みこむのでしたから、少年にとっては一世一代の凝った身なりであったわけです。興奮のあまり、その本州北端の一小都会に着いたとたんに少年の言葉つきまで一変してしまっていたほどでした。かねて少年雑誌で習い覚えてあった東京弁を使いました。けれども宿に落ちつき、その宿の女中たちの言葉を聞くと、ここもやっぱり少年の生れ故郷と全く同じ、津軽弁でありましたので、少年はすこし拍子抜けがしました。生れ故郷と、その小都会とは、十里も離れていないのでした。」
この海岸の小都会は、青森市である。津軽第一の海港にしようとして、外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざっと三百二十年ほど前である。当時、すでに人家が千軒くらいあったという。それから近江、越前、越後、加賀、能登、若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり、明治四年の廃藩置県に依って青森県の誕生すると共に、県庁所在地となっていまは本州の北門を守り、北海道函館との間の鉄道連絡船などの事に到っては知らぬ人もあるまい。現在戸数は二万以上、人口十万を越えている様子であるが、旅人にとっては、あまり感じのいい町では無いようである。たびたびの大火のために家屋が貧弱になってしまったのは致し方が無いとしても、旅人にとって、市の中心部はどこか、さっぱり見当がつかない様子である。奇妙にすすけた無表情の家々が立ち並び、何事も旅人に呼びかけようとはしないようである。旅人は、落ちつかぬ気持で、そそくさとこの町を通り抜ける。けれども私は、この青森市に四年いた。そうして、その四箇年は、私の生涯に於いて、たいへん重大な時期でもあったようである。その頃の私の生活に就いては、「思い出」という私の初期の小説にかなり克明に書かれてある。
「いい成績ではなかったが、私はその春、中学校へ受験して合格した。私は、新しい袴と黒い沓下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織って、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた。入口にちぎれた古いのれんのさげてあるその家へ、私はずっと世話になることになっていたのである。
私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持っているが、入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽を被り、袴をつけた。そんな私の姿が往来の窓硝子にでも映ると、私は笑いながらそれへ軽く会釈をしたものである。
それなのに、学校はちっとも面白くなかった。校舎は、まちの端れにあって、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えて来て、廊下も広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにいる教師たちは私をひどく迫害したのである。
私は入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だというのであった。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであったが、お父さんがなくなってよく勉強もできなかったろう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であっただけに、私のこころはいっそう傷つけられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしているとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびは大きいので職員室で評判である、とも言われた。私はそんな莫迦げたことを話し合っている職員室を、おかしく思った。
私と同じ町から来ている一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじっさい生意気そうに見える、あんなに殴られてばかりいると落第するにちがいない、と忠告して呉れた。私は愕然とした。その日の放課後、私は海岸づたいにひとり家路を急いだ。靴底を浪になめられつつ溜息ついて歩いた。洋服の袖で額の汗を拭いていたら、鼠色のびっくりするほど大きい帆がすぐ眼の前をよろよろととおって行った。」
この中学校は、いまも昔と変らず青森市の東端にある。ひらたい公園というのは、合浦《がっぽ》公園の事である。そうしてこの公園は、ほとんど中学校の裏庭と言ってもいいほど、中学校と密着していた。私は冬の吹雪の時以外は、学校の行き帰り、この公園を通り抜け、海岸づたいに歩いた。謂わば裏路である。あまり生徒が歩いていない。私には、この裏路が、すがすがしく思われた。初夏の朝は、殊によかった。なおまた、私の世話になった呉服店というのは、寺町の豊田家である。二十代ちかく続いた青森市屈指の老舗である。ここのお父さんは先年なくなられたが、私はこのお父さんに実の子以上に大事にされた。忘れる事が出来ない。この二、三年来、私は青森市へ二、三度行ったが、その度毎に、このお父さんのお墓へおまいりして、そうして必ず豊田家に宿泊させてもらうならわしである。
「私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。うしろで誰か見ているような気がして、私はいつでも何かの態度をつくっていたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけていたのであるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作はあり得なかったのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考えた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。
(中略)
なにはさてお前は衆にすぐれていなければいけないのだ、という脅迫めいた考えからであったが、じじつ私は勉強していたのである。三年生になってからは、いつもクラスの首席であった。てんとりむしと言われずに首席となることは困難であったが、私はそのような嘲りを受けなかった許りか、級友を手ならす術まで心得ていた。蛸というあだなの柔道の主将さえ私には従順であった。教室の隅に紙屑入の大きな壺があって、私はときたまそれを指さして、蛸、つぼへはいらないかと言えば、蛸はその壺へ頭をいれて笑うのだ。笑い声が壺に響いて異様な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついていた。私が顔の吹出物へ、三角形や六角形や花の形に切った絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑しがらなかった程なのである。
私はこの吹出物には心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ数も殖えて、毎朝、眼をさますたびに掌で顔を撫でまわしてその有様をしらべた。いろいろな薬を買ってつけたが、ききめがないのである。私はそれを薬屋へ買いに行くときには、紙きれへその薬の名を書いて、こんな薬がありますかって、と他人から頼まれたふうにして言わなければいけなかったのである。私はその吹出物を欲情の象徴と考えて眼の先が暗くなるほど恥しかった。いっそ死んでやったらと思うことさえあった。私の顔に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達していた。他家へとついでいた私のいちばん上の姉は、治のところへは嫁に来るひとがあるまい、とまで言っていたそうである。私はせっせと薬をつけた。
弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに薬を買いに行って呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折にも、私は彼の失敗を願ったほどであったけれど、こうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判って来たのである。弟は大きくなるにつれて無口で内気になっていた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出していたが、みんな気の弱々した文章であった。私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしていて、私がなぐさめでもするとかえって不気嫌になった。また、自分の額の生えぎわが富士のかたちになって女みたいなのをいまいましがっていた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じていたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と対するときには、みんな押し隠して了うか、みんなさらけ出して了うか、どちらかであったのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。
秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合った。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語って聞かせたことであって、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれていて、それがするすると長く伸びて一方の端がきっと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである。ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で逢っても、その糸はこんぐらかることがない、そうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまっているのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰ってからもすぐ弟に物語ってやったほどであった。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言った。大きい庭下駄をはいて、団扇をもって、月見草を眺めている少女は、いかにも弟と似つかわしく思われた。私のを語る番であったが、私は真暗い海に眼をやったまま、赤い帯しめての、とだけ言って口を噤んだ。海峡を渡って来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。」
この弟は、それから二、三年後に死んだが、当時、私たちは、この桟橋に行く事を好んだ。冬、雪の降る夜も、傘をさして弟と二人でこの桟橋に行った。深い港の海に、雪がひそひそ降っているのはいいものだ。最近は青森港も船舶輻湊して、この桟橋も船で埋って景色どころではない。それから、隅田川に似た広い川というのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。川というものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇して逆流するかのように流れが鈍くなるものである。私はその鈍い流れを眺めて放心した。きざな譬え方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であったのであろう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとって忘れがたい期間であったとも言えるであろう。青森に就いての思い出は、だいたいそんなものだが、この青森市から三里ほど東の浅虫という海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。やはりその「思い出」という小説の中に次のような一節がある。
「秋になって、私はその都会から汽車で三十分くらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治していたのだ。私はずっとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはいって見せなければならなかったのである。私の学校ぎらいはその頃になって、いっそうひどかったのであるが、何かに追われている私は、それでも一途に勉強していた。私はそこから汽車で学校へかよった。日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさえ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弟に教えてもらって、声をそろえて歌った。遊びつかれてその岩の上で眠って、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだった筈のその岩が、いつか離れ島になっているので、私たちはまだ夢から醒めないでいるような気がするのである。」
いよいよ青春が海に注ぎ込んだね、と冗談を言ってやりたいところでもあろうか。この浅虫の海は清冽で悪くは無いが、しかし、旅館は、必ずしもよいとは言えない。寒々した東北の漁村の趣は、それは当然の事で、決してとがむべきではないが、それでいて、井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さい妙な高慢を感じて閉口したのは私だけであろうか。自分の故郷の温泉であるから、思い切って悪口を言うのであるが、田舎のくせに、どこか、すれているような、妙な不安が感ぜられてならない。私は最近、この温泉地に泊った事はないけれども、宿賃が、おやと思うほど高くなかったら幸いである。これは明らかに私の言いすぎで、私は最近に於いてここに宿泊した事は無く、ただ汽車の窓からこの温泉町の家々を眺め、そうして貧しい芸術家の小さい勘《かん》でものを言っているだけで、他には何の根拠も無いのであるから、私は自分のこの直覚を読者に押しつけたくはないのである。むしろ読者は、私の直覚など信じないほうがいいかも知れない。浅虫も、いまは、つつましい保養の町として出発し直しているに違いないと思われる。ただ、青森市の血気さかんな粋客たちが、或る時期に於いて、この寒々した温泉地を奇怪に高ぶらせ、宿の女将をして、熱海、湯河原の宿もまたまさにかくの如きかと、茅屋にいて浅墓の幻影に酔わせた事があるのではあるまいかという疑惑がちらと脳裡をかすめて、旅のひねくれた貧乏文士は、最近たびたび、この思い出の温泉地を汽車で通過しながら、敢えて下車しなかったというだけの話なのである。
津軽に於いては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉という事になるのかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在って、温泉よりも、スキイ場のために日本中に知れ渡っているようである。山麓の温泉である。ここには、津軽藩の歴史のにおいが幽かに残っていた。私の肉親たちは、この温泉地へも、しばしば湯治に来たので、私も少年の頃あそびに行ったが、浅虫ほど鮮明な思い出は残っていない。けれども、浅虫のかずかずの思い出は、鮮やかであると同時に、その思い出のことごとくが必ずしも愉快とは言えないのに較べて、大鰐の思い出は霞んではいても懐しい。海と山の差異であろうか。私はもう、二十年ちかくも大鰐温泉を見ないが、いま見ると、やはり浅虫のように都会の残杯冷炙に宿酔してあれている感じがするであろうか。私には、それは、あきらめ切れない。ここは浅虫に較べて、東京方面との交通の便は甚だ悪い。そこが、まず、私にとってたのみの綱である。また、この温泉のすぐ近くに碇ヶ関というところがあって、そこは旧藩時代の津軽秋田間の関所で、したがってこの辺には史蹟も多く、昔の津軽人の生活が根強く残っているに相違ないのだから、そんなに易々と都会の風に席巻されようとは思われぬ。さらにまた、最後のたのみの大綱は、ここから三里北方に弘前城が、いまもなお天守閣をそっくり残して、年々歳々、陽春には桜花に包まれその健在を誇っている事である。この弘前城が控えている限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔いするなどの事はあるまいと私は思い込んでいたいのである。
弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、ようやく完成を見たのが、この弘前城であるという。それより代々の藩主この弘前城に拠り、四代信政の時、一族の信英を黒石に分家させて、弘前、黒石の二藩にわかれて津軽を支配し、元禄七名君の中の巨擘とまでうたわれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども、七代信寧の宝暦ならびに天明の大飢饉は津軽一円を凄惨な地獄と化せしめ、藩の財政もまた窮乏の極度に達し、前途暗澹たるうちにも、八代信明、九代寧親は必死に藩勢の回復をはかり、十一代順承の時代に到ってからくも危機を脱し、つづいて十二代承昭の時代に、めでたく藩籍を奉還し、ここに現在の青森県が誕生したという経緯は、弘前城の歴史であると共にまた、津軽の歴史の大略でもある。津軽の歴史に就いては、また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが、いまは、弘前に就いての私の昔の思い出を少し書いて、この津軽の序編を結ぶ事にする。
私は、この弘前の城下に三年いたのである。弘前高等学校の文科に三年いたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝っていた。甚だ異様なものであった。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立寄って、さいしょは朝顔日記であったろうか、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまったけれども、野崎村、壺坂、それから紙治など一とおり当時は覚え込んでいたのである。どうしてそんな、がらにも無い奇怪な事をはじめたのか。私はその責任の全部を、この弘前市に負わせようとは思わないが、しかし、その責任の一斑は弘前市に引受けていただきたいと思っている。義太夫が、不思議にさかんなまちなのである。ときどき素人の義太夫発表会が、まちの劇場でひらかれる。私も、いちど聞きに行ったが、まちの旦那たちが、ちゃんと裃《かみしも》を着て、真面目に義太夫を唸っている。いずれもあまり、上手ではなかったが、少しも気障《きざ》なところが無く、頗る良心的な語り方で、大真面目に唸っている。青森市にも昔から粋人が少くなかったようであるが、芸者たちから、兄さんうまいわね、と言われたいばかりの端唄の稽古、または、自分の粋人振りを政策やら商策やらの武器として用いている抜け目のない人さえあるらしく、つまらない芸事に何という事もなく馬鹿な大汗をかいて勉強致しているこの様な可憐な旦那は、弘前市の方に多く見かけられるように思われる。つまり、この弘前市には、未だに、ほんものの馬鹿者が残っているらしいのである。永慶軍記という古書にも、「奥羽両州の人の心、愚にして、威強き者にも随う事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随わず。」という言葉が記されているそうだが、弘前の人には、そのような、ほんものの馬鹿意地があって、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑いになるという傾向があるようだ。私もまた、ここに三年いたおかげで、ひどく懐古的になって、義太夫に熱中してみたり、また、次のような浪曼性を発揮するような男になった。次の文章は、私の昔の小説の一節であって、やはりおどけた虚構には違いないのであるが、しかし、凡その雰囲気に於いては、まずこんなものであった、と苦笑しながら白状せざるを得ないのである。
「喫茶店で、葡萄酒飲んでいるうちは、よかったのですが、そのうちに割烹店へ、のこのこはいっていって芸者と一緒に、ごはんを食べることなど覚えたのです。少年はそれを別段、わるいこととも思いませんでした。粋な、やくざなふるまいは、つねに最も高尚な趣味であると信じていました。城下まちの、古い静かな割烹店へ、二度、三度、ごはんを食べに行っているうちに、少年のお洒落の本能はまたもむっくり頭をもたげ、こんどは、それこそ大変なことになりました。芝居で見た『め組の喧嘩』の鳶の者の服装して、割烹店の奥庭に面したお座敷で大あぐらかき、おう、ねえさん、きょうはめっぽう、きれえじゃねえか、などと言ってみたく、ワクワクしながら、その服装の準備にとりかかりました。紺の腹掛。あれは、すぐ手にはいりました。あの腹掛のドンブリに、古風な財布をいれて、こう懐手して歩くと、いっぱしの、やくざに見えます。角帯も買いました。締め上げるときゅっと鳴る博多の帯です。唐桟《とうざん》の単衣を一まい呉服屋さんにたのんで、こしらえてもらいました。鳶の者だか、ばくち打ちだか、お店《たな》ものだか、わけのわからぬ服装になってしまいました。統一が無いのです。とにかく、芝居に出て来る人物の印象を与えるような服装だったら、少年はそれで満足なのでした。初夏のころで、少年は素足に麻裏草履をはきました。そこまではよかったのですが、ふと少年は妙なことを考えました。それは股引に就いてでありました。紺の木綿のピッチリした長股引を、芝居の鳶の者が、はいているようですけれど、あれを欲しいと思いました。ひょっとこめ、と言って、ぱっと裾をさばいて、くるりと尻をまくる。あのときに紺の股引が眼にしみるほど引き立ちます。さるまた一つでは、いけません。少年は、その股引を買い求めようと、城下まちを端から端まで走り廻りました。どこも無いのです。あのね、ほら、あの左官屋さんなんか、はいているじゃないか、ぴちっとした紺の股引さ、あんなの無いかしら、ね、と懸命に説明して、呉服屋さん、足袋屋さんに聞いて歩いたのですが、さあ、あれは、いま、と店の人たち笑いながら首を振るのでした。もう、だいぶ暑いころで、少年は、汗だくで捜し廻り、とうとう或る店の主人から、それは、うちにはございませぬが、横丁まがると消防のもの専門の家がありますから、そこへ行ってお聞きになると、ひょっとしたらわかるかも知れません、といいこと教えられ、なるほど消防とは気がつかなかった。鳶の者と言えば、火消しのことで、いまで言えば消防だ、なるほど道理だ、と勢い附いて、その教えられた横丁の店に飛び込みました。店には大小の消火ポンプが並べられてありました。纏《まとい》もあります。なんだか心細くなって、それでも勇気を鼓舞して、股引ありますか、と尋ねたら、あります、と即座に答えて持って来たものは、紺の木綿の股引には、ちがい無いけれども、股引の両外側に太く消防のしるしの赤線が縦にずんと引かれていました。流石にそれをはいて歩く勇気も無く、少年は淋しく股引をあきらめる他なかったのです。」
さすがの馬鹿の本場に於いても、これくらいの馬鹿は少かったかも知れない。書き写しながら作者自身、すこし憂鬱になった。この、芸者たちと一緒にごはんを食べた割烹店の在る花街を、榎《えのき》小路、とは言わなかったかしら。何しろ二十年ちかく昔の事であるから、記憶も薄くなってはっきりしないが、お宮の坂の下の、榎《えのき》小路、というところだったと覚えている。また、紺の股引を買いに汗だくで歩き廻ったところは、土手《どて》町という城下に於いて最も繁華な商店街である。それらに較べると、青森の花街の名は、浜町である。その名に個性がないように思われる。弘前の土手町に相当する青森の商店街は、大町と呼ばれている。これも同様のように思われる。ついでだから、弘前の町名と、青森の町名とを次に列記してみよう。この二つの小都会の性格の相違が案外はっきりして来るかも知れない。本町、在府町、土手町、住吉町、桶屋町、銅屋町、茶畑町、代官町、萱町、百石町、上鞘師町、下鞘師町、鉄砲町、若党町、小人町、鷹匠町、五十石町、紺屋町、などというのが弘前市の街の名である。それに較べて、青森市の街々の名は、次のようなものである。浜町、新浜町、大町、米町、新町、柳町、寺町、堤町、塩町、蜆貝町、新蜆貝町、浦町、浪打、栄町。
けれども私は、弘前市を上等のまち、青森市を下等の町だと思っているのでは決してない。鷹匠町、紺屋町などの懐古的な名前は何も弘前市にだけ限った町名ではなく、日本全国の城下まちに必ず、そんな名前の町があるものだ。なるほど弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身の小説の名手、葛西善蔵氏は、郷土の後輩にこう言って教えている。「自惚れちゃいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の国に行ってみろ。あれくらいの山は、ざらにあら。周囲に高い山がないから、あんなに有難く見えるんだ。自惚れちゃいけないぜ。」
歴史を有する城下町は、日本全国に無数と言ってよいくらいにたくさんあるのに、どうして弘前の城下町の人たちは、あんなに依怙地にその封建性を自慢みたいにしているのだろう。ひらき直って言うまでも無い事だが、九州、西国、大和などに較べると、この津軽地方などは、ほとんど一様に新開地と言ってもいいくらいのものなのだ。全国に誇り得るどのような歴史を有しているのか。近くは明治御維新の時だって、この藩からどのような勤皇家が出たか。藩の態度はどうであったか。露骨に言えば、ただ、他藩の驥尾に附して進退しただけの事ではなかったか。どこにいったい誇るべき伝統があるのだ。けれども弘前人は頑固に何やら肩をそびやかしている。そうして、どんなに勢強きものに対しても、かれは賤しきものなるぞ、ただ時の運つよくして威勢にほこる事にこそあれ、とて、随わぬのである。この地方出身の陸軍大将一戸兵衛閣下は、帰郷の時には必ず、和服にセルの袴であったという話を聞いている。将星の軍装で帰郷するならば、郷里の者たちはすぐさま目をむき肘を張り、彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして、などと言うのがわかっていたから、賢明に、帰郷の時は和服にセルの袴ときめて居られたというような話を聞いたが、全部が事実で無いとしても、このような伝説が起るのも無理がないと思われるほど、弘前の城下の人たちには何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるようだ。何を隠そう、実は、私にもそんな仕末のわるい骨が一本あって、そのためばかりでもなかろうが、まあ、おかげで未だにその日暮しの長屋住居から浮かび上る事が出来ずにいるのだ。数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、
汝を愛し、汝を憎む。
だいぶ弘前の悪口を言ったが、これは弘前に対する憎悪ではなく、作者自身の反省である。私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。謂わば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このように津軽の悪口を言うのである。他国の人が、もし私のこのような悪口を聞いて、そうして安易に津軽を見くびったら、私はやっぱり不愉快に思うだろう。なんと言っても、私は津軽を愛しているのだから。
弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられている。桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれているそうだ。弘前師団の司令部がある。お山参詣と言って、毎年陰暦七月二十八日より八月一日に到る三日間、津軽の霊峰岩木山の山頂奥宮に於けるお祭りに参詣する人、数万、参詣の行き帰り躍りながらこのまちを通過し、まちは殷賑を極める。旅行案内記には、まずざっとそのような事が書かれてある。けれども私は、弘前市を説明するに当って、それだけでは、どうしても不服なのである。それゆえ、あれこれと年少の頃の記憶をたどり、何か一つ、弘前の面目を躍如たらしむるものを描写したかったのであるが、どれもこれも、たわい無い思い出ばかりで、うまくゆかず、とうとう自分にも思いがけなかったひどい悪口など出て来て、作者みずから途方に暮れるばかりである。私はこの旧津軽藩の城下まちに、こだわりすぎているのだ。ここは私たち津軽人の窮極の魂の拠りどころでなければならぬ筈なのに、どうも、それにしては、私のこれまでの説明だけでは、この城下まちの性格が、まだまだあいまいである。桜花に包まれた天守閣は、何も弘前城に限った事ではない。日本全国たいていのお城は桜花に包まれているではないか。その桜花に包まれた天守閣が傍に控えているからとて、大鰐温泉が津軽の匂いを保守できるとは、きまっていないではないか。弘前城が控えている限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔するなどの事はあるまい、とついさっき、ばかに調子づいて書いた筈だが、いろいろ考えて、考えつめて行くと、それもただ、作者の美文調のだらしない感傷にすぎないような気がして来て、何もかも、たよりにならず、心細くなるばかりである。いったいこの城下まちは、だらしないのだ。旧藩主の代々のお城がありながら、県庁を他の新興のまちに奪われている。日本全国、たいていの県庁所在地は、旧藩の城下まちである。青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持って行かざるを得なかったところに、青森県の不幸があったとさえ私は思っている。私は決して青森市を特にきらっているわけではない。新興のまちの繁栄を見るのも、また爽快である。私は、ただ、この弘前市の負けていながら、のほほん顔でいるのが歯がゆいのである。負けているものに、加勢したいのは自然の人情である。私は何とかして弘前市の肩を持ってやりたく、まったく下手な文章ながら、あれこれと工夫して努めて書いて来たのであるが、弘前市の決定的な美点、弘前城の独得の強さを描写する事はついに出来なかった。重ねて言う。ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かある筈である。日本全国、どこを捜しても見つからぬ特異の見事な伝統がある筈である。私はそれを、たしかに予感しているのであるが、それが何であるか、形にあらわして、はっきりこれと読者に誇示できないのが、くやしくてたまらない。この、もどかしさ。
あれは春の夕暮だったと記憶しているが、弘前高等学校の文科生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはずれに孤立しているものだとばかり思っていたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。ああ、こんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持で思わず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「隠沼《こもりぬ》」というような感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思った。とは言っても、これもまた私の、いい気な独り合点で、読者には何の事やらおわかりにならぬかも知れないが、弘前城はこの隠沼を持っているから稀代の名城なのだ、といまになっては私も強引に押切るより他はない。隠沼のほとりに万朶の花が咲いて、そうして白壁の天守閣が無言で立っているとしたら、その城は必ず天下の名城にちがいない。そうして、その名城の傍の温泉も、永遠に淳朴の気風を失う事は無いであろうと、ちかごろの言葉で言えば「希望的観測」を試みて、私はこの愛する弘前城と訣別する事にしよう。思えば、おのれの肉親を語る事が至難な業であると同様に、故郷の核心を語る事も容易に出来る業ではない。ほめていいのか、けなしていいのか、わからない。私はこの津軽の序編に於いて、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐に就いて、私の年少の頃の思い出を展開しながら、また、身のほど知らぬ冒涜の批評の蕪辞をつらねたが、果して私はこの六つの町を的確に語り得たか、どうか、それを考えると、おのずから憂鬱にならざるを得ない。罪万死に当るべき暴言を吐いているかも知れない。この六つの町は、私の過去に於いて最も私と親しく、私の性格を創成し、私の宿命を規定した町であるから、かえって私はこれらの町に就いて盲目なところがあるかも知れない。これらの町を語るに当って、私は決して適任者ではなかったという事を、いま、はっきり自覚した。以下、本編に於いて私は、この六つの町に就いて語る事は努めて避けたい気持である。私は、他の津軽の町を語ろう。
或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、という序編の冒頭の文章に、いよいよこれから引返して行くわけであるが、私はこの旅行に依って、まったく生れてはじめて他の津軽の町村を見たのである。それまでは私は、本当に、あの六つの町の他は知らなかったのである。小学校の頃、遠足に行ったり何かして、金木の近くの幾つかの部落を見た事はあったが、それは現在の私に、なつかしい思い出として色濃く残ってはいないのである。中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰っても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラッパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮し、どこへも旅行に出なかったし、高等学校時代には、休暇になると必ず東京の、すぐ上の兄(この兄は彫刻を学んでいたが、二十七歳で死んだ)その兄の家へ遊びに行ったし、高等学校を卒業と同時に東京の大学へ来て、それっきり十年も故郷へ帰らなかったのであるから、このたびの津軽旅行は、私にとって、なかなか重大の事件であったと言わざるを得ない。
私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知ったかぶりの意見は避けたいと思う。私がそれを言ったところで、所詮は、一夜勉強の恥ずかしい軽薄の鍍金《めっき》である。それらに就いて、くわしく知りたい人は、その地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きている姿を、そのまま読者に伝える事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まずまあ、及第ではなかろうかと私は思っているのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。
[#改丁]
[#大見出し]本編[#大見出し終わり]
[#5字下げ][#中見出し]一 巡礼[#中見出し終わり]
「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません。」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で、」
「そうして、苦しい時なの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっている筈だがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障《きざ》になる。おい、おれは旅に出るよ。」
私もいい加減にとしをとったせいか、自分の気持の説明などは、気障な事のように思われて、(しかも、それは、たいていありふれた文学的な虚飾なのだから)何も言いたくないのである。
津軽の事を書いてみないか、と或る出版社の親しい編輯者に前から言われていたし、私も生きているうちに、いちど、自分の生れた地方の隅々まで見て置きたくて、或る年の春、乞食のような姿で東京を出発した。
五月中旬の事である。乞食のような、という形容は、多分に主観的の意味で使用したのであるが、しかし、客観的に言ったって、あまり立派な姿ではなかった。私には背広服が一着も無い。勤労奉仕の作業服があるだけである。それも仕立屋に特別に注文して作らせたものではなかった。有り合せの木綿の布切を、家の者が紺色に染めて、ジャンパーみたいなものと、ズボンみたいなものにでっち上げた何だか合点のゆかない見馴れぬ型の作業服なのである。染めた直後は、布地の色もたしかに紺であった筈だが、一、二度着て外へ出たら、たちまち変色して、むらさきみたいな妙な色になった。むらさきの洋装は、女でも、よほどの美人でなければ似合わない。私はそのむらさきの作業服に緑色のスフのゲートルをつけて、ゴム底の白いズックの靴をはいた。帽子は、スフのテニス帽。あの洒落者が、こんな姿で旅に出るのは、生れてはじめての事であった。けれども流石に背中のリュックサックには、母の形見を縫い直して仕立てた縫紋の一重羽織と大島の袷、それから仙台平の袴を忍ばせていた。いつ、どんな事があるかもわからない。
十七時三十分上野発の急行列車に乗ったのだが、夜のふけると共に、ひどく寒くなって来た。私は、そのジャンパーみたいなものの下に、薄いシャツを二枚着ているだけなのである。ズボンの下には、パンツだけだ。冬の外套を着て、膝掛けなどを用意して来ている人さえ、寒い、今夜はまたどうしたのかへんに寒い、と騒いでいる。私にも、この寒さは意外であった。東京ではその頃すでに、セルの単衣を着て歩いている気早やな人もあったのである。私は、東北の寒さを失念していた。私は手足を出来るだけ小さくちぢめて、それこそ全く亀縮の形で、ここだ、心頭滅却の修行はここだ、と自分に言い聞かせてみたけれども、暁に及んでいよいよ寒く、心頭滅却の修行もいまはあきらめて、ああ早く青森に着いて、どこかの宿で炉辺に大あぐらをかき、熱燗のお酒を飲みたい、と頗る現実的な事を一心に念ずる下品な有様となった。青森には、朝の八時に着いた。T君が駅に迎えに来ていた。私が前もって手紙で知らせて置いたのである。
「和服でおいでになると思っていました。」
「そんな時代じゃありません。」私は努めて冗談めかしてそう言った。
T君は、女のお子さんを連れて来ていた。ああ、このお子さんにお土産を持って来ればよかったと、その時すぐに思った。
「とにかく、私の家へちょっとお寄りになってお休みになったら?」
「ありがとう。きょうおひる頃までに、蟹田のN君のところへ行こうと思っているんだけど。」
「存じて居ります。Nさんから聞きました。Nさんも、お待ちになっているようです。とにかく、蟹田行のバスが出るまで、私の家で一休みしたらいかがです。」
炉辺に大あぐらをかき熱燗のお酒を、という私のけしからぬ俗な念願は、奇蹟的に実現せられた。T君の家では囲炉裏にかんかん炭火がおこって、そうして鉄瓶には一本お銚子がいれられていた。
「このたびは御苦労さまでした。」とT君は、あらたまって私にお辞儀をして、「ビールのほうが、いいんでしたかしら。」
「いや、お酒が。」私は低く咳ばらいした。
T君は昔、私の家にいた事がある。おもに鶏舎の世話をしていた。私と同じとしだったので、仲良く遊んだ。「女中たちを呶鳴り散らすところが、あれの悪いような善いようなところだ。」とその頃、祖母がT君を批評して言ったのを私は聞いて覚えている。のちT君は青森に出て来て勉強して、それから青森市の或る病院に勤めて、患者からも、また病院の職員たちからも、かなり信頼されていた様子である。先年出征して、南方の孤島で戦い、病気になって昨年帰還し、病気をなおしてまた以前の病院につとめているのである。
「戦地で一ばん、うれしかった事は何かね。」
「それは、」T君は言下に答えた。「戦地で配給のビールをコップに一ぱい飲んだ時です。大事に大事に少しずつ吸い込んで、途中でコップを唇から離して一息つこうと思ったのですが、どうしてもコップが唇から離れないのですね。どうしても離れないのです。」
T君もお酒の好きな人であった。けれども、いまは、少しも飲まない。そうして時々、軽く咳をしている。
「どうだね、からだのほうは。」T君はずっと以前に一度、肋膜を病んだ事があって、こんどそれが戦地で再発したのである。
「こんどは銃後の奉公です。病院で病人の世話をするには、自分でも病気でいちど苦しんでみなければ、わからないところがあります。こんどは、いい体験を得ました。」
「さすがに人間ができて来たようだね。じっさい、胸の病気なんてものは、」と私は、少し酔って来たので、おくめんも無く医者に医学を説きはじめた。「精神の病気なんだ。忘れちまえば、なおるもんだ。たまには大いに酒でも飲むさ。」
「ええ、まあ、ほどよくやっています。」と言って、笑った。私の乱暴な医学は、本職にはあまり信用されないようであった。
「何か召上りませんか。青森にも、このごろは、おいしいおさかなが少くなって。」
「いや、ありがとう。」私は傍のお膳をぼんやり眺めながら、「おいしそうなものばかりじゃないか。手数をかけるね。でも、僕は、そんなにたべたくないんだ。」
こんど津軽へ出掛けるに当って、心にきめた事が一つあった。それは、食い物に淡泊なれ、という事であった。私は別に聖者でもなし、こんな事を言うのは甚だてれくさいのであるが、東京の人は、どうも食い物をほしがりすぎる。私は自身古くさい人間のせいか、武士は食わねど高楊枝などという、ちょっとやけくそにも似たあの馬鹿々々しい痩せ我慢の姿を滑稽に思いながらも愛しているのである。何もことさらに楊枝まで使ってみせなくてもよさそうに思われるのだが、そこが男の意地である。男の意地というものは、とかく滑稽な形であらわれがちのものである。東京の人の中には、意地も張りも無く、地方へ行って、自分たちはいまほとんど餓死せんばかりの状態なのです、とひどく大袈裟に窮状を訴え、そうして田舎の人の差し出す白米のごはんなどを拝んで食べて、お追従たらたら、何かもっと食べるものはありませんか、おいもですか、そいつは有難い、幾月ぶりでこんなおいしいおいもを食べる事でしょう、ついでに少し家へ持って帰りたいのですけれども、わけていただけませんでしょうかしら、などと満面に卑屈の笑いを浮べて歎願する人がたまにあるとかいう噂を聞いた。東京の人みなが、確実に同量の食料の配給を受けている筈である。その人ひとりが、特別に餓死せんばかりの状態なのは奇怪である。或いは胃拡張なのかも知れないが、とにかく食べ物の哀訴歎願は、みっともない。お国のため、などと開き直った事は言わずとも、いつの世だって、人間としての誇りは持ち堪えていたいものだ。東京の少数の例外者が、地方へ行って、ひどく出鱈目に帝都の食料不足を訴えるので、地方の人たちは、東京から来た客人を、すべて食べものをあさりに来たものとして軽蔑して取扱うようになったという噂も聞いた。私は津軽へ、食べものをあさりに来たのではない。姿こそ、むらさき色の乞食にも似ているが、私は真理と愛情の乞食だ、白米の乞食ではない! と東京の人全部の名誉のためにも、演説口調できざな大見得を切ってやりたいくらいの決意をひめて津軽へ来たのだ。もし、誰か私に向って、さあさ、このごはんは白米です、おなかが破れるほど食べて下さい、東京はひどいって話じゃありませんか、としんからの好意を以て言ってくれても、私は軽く一ぱいだけ食べて、そうしてこう言おうと思っていた。「なれたせいか、東京のごはんのほうがおいしい。副食物だって、ちょうど無くなったと思った頃に、ちゃんと配給があります。いつのまにやら胃腑が撤収して小さくなっているので、少したべると満腹します。よくしたもんですよ。」
けれども私のそんなひねくれた用心は、まったく無駄であった。私は津軽のあちこちの知合いの家を訪れたが、一人として私に、白いごはんですよ、腹の破れるほど食い溜めなさいなどと言ってくれた人は無かった。殊にも、私の生家の八十八歳の祖母などに至っては、「東京は、おいしいものが何でもあるところだから、お前に、何かおいしいものを食べさせようと思っても困ってしまうな。瓜の粕漬でも食べさせたいが、どうしたわけだか、このごろ酒粕もとんと無いてば。」と面目なさそうに言うので、私は実に幸福な気がした。謂わば私は、食べ物などの事にはあまり敏感でないおっとりした人たちとばかり逢ったのである。私は自分の幸運を神に感謝した。あれも持って行け、これも持って行け、と私に食料品のお土産をしつこく押しつけた人も無かった。おかげで私は軽いリュックサックを背負って気楽に旅をつづける事が出来たのであるが、けれども帰京してみると、私の家には、それぞれの旅先の優しい人たちからの小包が、私よりもさきに一ぱいとどいていたので呆然とした。それは余談だが、とにかく、T君もそれ以上私に食べものをすすめはしなかったし、東京の食べ物はどんな工合であるかなどという事は、一ぺんも話題にのぼらなかった、おもな話題は、やはり、むかし二人が金木の家で一緒に遊んだ頃の思い出であった。
「僕は、しかし君を、親友だと思っているんだぜ。」実に乱暴な、失敬な、いやみったらしく気障《きざ》ったらしい芝居気たっぷりの、思い上った言葉である。私は言ってしまって身悶えした。他に言いかたが無いものか。
「それは、かえって愉快じゃないんです。」T君も敏感に察したようである。「私は金木のあなたの家に仕えた者です。そうして、あなたは御主人です。そう思っていただかないと、私は、うれしくないんです。へんなものですね。あれから二十年も経っていますけれども、いまでもしょっちゅう金木のあなたの家の夢を見るんです。戦地でも見ました。鶏に餌をやる事を忘れた、しまった! と思って、はっと夢から醒める事があります。」
バスの時間が来た。私はT君と一緒に外へ出た。もう寒くはない。お天気はいいし、それに、熱燗のお酒も飲んだし、寒いどころか、額に汗がにじみ出て来た。合浦公園の桜は、いま、満開だという話であった。青森市の街路は白っぽく乾いて、いや、酔眼に映った出鱈目な印象を述べる事は慎しもう。青森市は、いま造船で懸命なのだ。途中、中学時代に私がお世話になった豊田のお父さんのお墓におまいりして、バスの発着所にいそいだ。どうだね、君も一緒に蟹田へ行かないか、と昔の私ならば、気軽に言えたのでもあろうが、私も流石にとしをとって少しは遠慮という事を覚えて来たせいか、それとも、いや、気持のややこしい説明はよそう。つまり、お互い、大人《おとな》になったのであろう。大人《おとな》というものは侘しいものだ。愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだろう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、という発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。私は黙って歩いていた。突然、T君のほうから言い出した。
「私は、あした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。Nさんの家で逢いましょう。」
「病院のほうは?」
「あしたは日曜です。」
「なあんだ、そうか。早く言えばいいのに。」
私たちには、まだ、たわいない少年の部分も残っていた。
[#5字下げ][#中見出し]二 蟹田[#中見出し終わり]
津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だったところである。青森市からバスに乗って、この東海岸を北上すると、後潟《うしろがた》、蓬田《よもぎた》、蟹田、平館《たいらだて》、一本木、今別《いまべつ》、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩《みまや》に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点である。三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛《たっぴ》の部落にたどりつく。文字どおり、路の尽きる個所である。ここの岬は、それこそ、ぎりぎりの本州の北端である。けれども、この辺は最近、国防上なかなか大事なところであるから、里数その他、具体的な事に就いての記述は、いっさい避けなければならぬ。とにかく、この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。そうして蟹田町は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部落なのだ。青森市からバスで、後潟、蓬田を通り、約一時間半、とは言ってもまあ二時間ちかくで、この町に到着する。所謂、外ヶ浜の中央部である。戸数は一千に近く、人口は五千をはるかに越えている様子である。ちかごろ新築したばかりらしい蟹田警察署は、外ヶ浜全線を通じていちばん堂々として目立つ建築物の一つであろう。蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になっている。竹内運平という弘前の人の著した「青森県通史」に依れば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であったとか、いまは全く産しないが、慶長年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用いたそうで、また、寛文九年の蝦夷蜂起の時には、その鎮圧のための大船五艘を、この蟹田浜で新造した事もあり、また、四代藩主信政の、元禄年間には、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた由であるが、これらの事は、すべて私があとで調べて知った事で、それまでは私は、蟹田は蟹の名産地、そうして私の中学時代の唯一の友人のN君がいるという事だけしか知らなかったのである。私がこんど津軽を行脚するに当って、N君のところへも立寄ってごやくかいになりたく、前もってN君に手紙を差し上げたが、その手紙にも、「なんにも、おかまい下さるな。あなたは、知らん振りをしていて下さい。お出迎えなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。」というような事を書いてやった筈で、食べものには淡泊なれ、という私の自戒も、蟹だけには除外例を認めていたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、蝦、しゃこ、何の養分にもならないような食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かった筈の、愛情と真理の使徒も、話ここに到って、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちゃった。
蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のように積み上げて私を待ち受けてくれていた。
「リンゴ酒でなくちゃいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、N君は、言いにくそうにして言うのである。
駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまっているのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は「大人《おとな》」の私は知っているので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒のように、リンゴ酒が割合い豊富だという噂を聞いていたのだ。
「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。
N君は、ほっとした面持で、
「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きじゃないんだ。実はね、女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂いのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、こう手紙にも書いているのに相違ないから、リンゴ酒を出しましょうと言うのだが、僕はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらいになった筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしているのに違いないと言ったんだ。」
「でも、奥さんの言も当っていない事はないんだ。」
「何を言ってる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか? ビール?」
「ビールは、あとのほうがいい。」私も少し図々しくなって来た。
「僕もそのほうがいい。おうい、お酒だ。お燗がぬるくてもかまわないから、すぐ持って来てくれ。」
[#ここから2字下げ]
何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す。
青雲倶に達せず、白髪|逓《たがい》に相驚く。
二十年前に別れ、三千里外に行く。
此時|一盞《いっさん》無くんば、何を以てか平生を叙せん。 (白居易)
[#ここで字下げ終わり]
私は、中学時代には、よその家へ遊びに行った事は絶無であったが、どういうわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行った。N君はその頃、寺町の大きい酒屋の二階に下宿していた。私たちは毎朝、誘ひ合って一緒に登校した。そうして、帰りには裏路の、海岸伝いにぶらぶら歩いて、雨が降っても、あわてて走ったりなどはせず、全身濡れ鼠になっても平気で、ゆっくり歩いた。いま思えば二人とも、頗る鷹揚に、抜けたようなところのある子であった。そこが二人の友情の鍵かも知れなかった。私たちはお寺の前の広場で、ランニングをしたり、テニスをしたり、また日曜には弁当を持って近くの山へ遊びに行った。「思い出」という私の初期の小説の中に出て来る「友人」というのはたいていこのN君の事なのである。N君は中学校を卒業してから、東京へ出て、或る雑誌社に勤めたようである。私はN君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊は復活した。N君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であったが、しかし、私たちはほとんど毎日のように逢って遊んだ。こんどの遊びは、テニスやランニングではなかった。N君は、雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりいたようである。けれども私は、人にだまされる度毎に少しずつ暗い卑屈な男になって行ったが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になって行くのである。N君は不思議な男だ、ひがまないのが感心だ、あの点は祖先の遺徳と思うより他はない、と口の悪い遊び仲間も、その素直さには一様に敬服していた。N君は、中学時代にも金木の私の生家に遊びに来た事はあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちょいちょい遊びに来て、そうして、この兄が二十七で死んだ時には、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。そのうちにN君は、田舎の家の精米業を継がなければならなくなって帰郷した。家業を継いでからも、その不思議な人徳に依り、町の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、何とか会の幹事だのいろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になっている模様なのである。その夜も、N君の家へこの地方の若い顔役が二、三人あそびに来て一緒にお酒やビールを飲んだけれども、N君の人気はなかなかのものらしく、やはり一座の花形であった。芭蕉翁の行脚掟として世に伝えられているものの中に、一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし、乱に及ばずの禁あり、という一箇条があったようであるが、あの、論語の酒無量不及乱という言葉は、酒はいくら飲んでもいいが失礼な振舞いをするな、という意味に私は解しているので、敢えて翁の教えに従おうともしないのである。泥酔などして礼を失しない程度ならば、いいのである。当り前の話ではないか。私はアルコールには強いのである。芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思われる。よその家でごちそうになって、そうして乱に及ぶなどという、それほどの馬鹿ではないつもりだ。此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん、である。私は大いに飲んだ。なおまた翁の、あの行脚掟の中には、一、俳諧の外、雑話すべからず、雑話出ずれば居眠りして労を養うべし、という条項もあったようであるが、私はこの掟にも従わなかった。芭蕉翁の行脚は、私たち俗人から見れば、ほとんど蕉風宣伝のための地方御出張ではあるまいかと疑いたくなるほど、旅の行く先々に於いて句会をひらき蕉風地方支部をこしらえて歩いている。俳諸の聴講生に取りまかれている講師ならば、それは俳諸の他の雑話を避けて、そうして雑話が出たら狸寝入りをしようが何をしようが勝手であろうが、私の旅は、何も太宰風の地方支部をこしらえるための旅ではなし、N君だってまさか私から、文学の講義を聞こうと思って酒席をもうけたわけじゃあるまいし、また、その夜、N君のお家へ遊びに来られた顔役の人たちだって、私がN君の昔からの親友であるという理由で私にも多少の親しみを感じてくれて、盃の献酬をしているというような実情なのだから、私が開き直って、文学精神の在りどころを説き来り説き去り、しこうして、雑談いずれば床柱を背にして狸寝入りをするというのは、あまりおだやかな仕草ではないように思われる。私はその夜、文学の事は一言も語らなかった。東京の言葉さえ使わなかった。かえって気障なくらいに努力して、純粋の津軽弁で話をした。そうして日常瑣事の世俗の雑談ばかりした。そんなにまでして勤めなくともいいのにと、酒席の誰かひとりが感じたに違いないと思われるほど、私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。(津島修治というのは、私の生れた時からの戸籍名であって、また、オズカスというのは叔父糟という漢字でもあてはめたらいいのであろうか、三男坊や四男坊をいやしめて言う時に、この地方ではその言葉を使うのである。)こんどの旅に依って、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようという企画も、私に無いわけではなかったのである。都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかもうとする念願である。言いかたを変えれば、津軽人とは、どんなものであったか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。そうして私は、実に容易に、随所に於いてそれを発見した。誰がどうというのではない。乞食姿の貧しい旅人には、そんな思い上った批評はゆるされない。それこそ、失礼きわまる事である。私はまさか個人々々の言動、または私に対するもてなしの中に、それを発見しているのではない。そんな探偵みたいな油断のならぬ眼つきをして私は旅をしていなかったつもりだ。私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いていた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいうべきものを囁かれる事が実にしばしばあったのである。私はそれを信じた。私の発見というのは、そのように、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どなたが何とおっしゃったとか、私はそれには、ほとんど何もこだわるところが無かったのである。それは当然の事で、私などには、それにこだわる資格も何も無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かった。「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」という妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いていた。
慎しもうと思いながら、つい、下手な感懐を述べた。私の理論はしどろもどろで、自分でも、何を言っているのか、わからない場合が多い。嘘を言っている事さえある。だから、気持の説明は、いやなのだ。何だかどうも、見え透いたまずい虚飾を行っているようで、慚愧赤面するばかりだ。かならず後悔ほぞを噛むと知っていながら、興奮するとつい、それこそ「廻らぬ舌に鞭打ち鞭打ち」口をとがらせて呶々と支離滅裂の事を言い出し、相手の心に軽蔑どころか、憐憫の情をさえ起させてしまうのは、これも私の哀しい宿命の一つらしい。
その夜は、しかし、私はそのような下手な感懐をもらす事はせず、芭蕉翁の遺訓にはそむいているようだったけれども、居眠りもせず大いに雑談にのみ打興じ、眼前に好物の蟹の山を眺めて夜の更けるまで飲みつづけた。N君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでいるばかりで一向に手を出さないのを見てとり、これは蟹をむいてたべるのを大儀がっているのに違いないとお思いになった様子で、ご自分でせっせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかという、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。おそらくは、けさ、この蟹田浜からあがったばかりの蟹なのであろう。もぎたての果実のように新鮮な軽い味である。私は、食べ物に無関心たれという自戒を平気で破って、三つも四つも食べた。この夜、奥さんは、来る人来る人みんなにお膳を差し上げて、この土地の人でさえ、そのお膳の料理の豊潤に驚いていたくらいであった。顔役のお客さんたちが帰ってしまうと、私とN君は奥の座敷から茶の間へ酒席を移して、アトフキをはじめた。アトフキというのは、この津軽地方に於いて、祝言か何か家に人寄せがあった場合、お客が皆かえった後で、身内の少数の者だけが、その残肴を集めてささやかにひらく慰労の宴の事であって、或いは「後引《あとひ》き」の訛かも知れない。N君は私よりも更にアルコールには強いたちなので、私たちは共に、乱に及ぶ憂いは無かったが、
「しかし、君も、」と私は、深い溜息をついて、「相変らず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。」
僕に酒を教えたのは、実に、このN君なのである。それは、たしかに、そうなのである。
「うむ。」とN君は盃を手にしたままで、真面目に首肯き、「僕だって、ずいぶんその事に就いては考えているんだぜ。君が酒で何か失敗みたいな事をやらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかったよ。でもね、このごろは、こう考え直そうと努めているんだ。あいつは、僕が教えなくたって、ひとりで、酒飲みになった奴に違いない。僕の知った事ではないと。」
「ああ、そうなんだ。そのとおりなんだ。君に責任なんかありゃしないよ。全く、そのとおりなんだ。」
やがて奥さんも加り、お互いの子供の事など語り合って、しんみり、アトフキをやっているうちに、突如、鶏鳴あかつきを告げたので、大いに驚いて私は寝所へ引上げた。
翌る朝、眼をさますと、青森市のT君の声が聞えた。約束どおり、朝の一番のバスでやって来てくれたのだ。私はすぐにはね起きた。T君がいてくれると、私は、何だか安心で、気強いのである。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとり連れて来ていた。また、その病院の蟹田分院の事務長をしているSさんという人も一緒に来ていた。私が顔を洗っている間に、三厩の近くの今別から、Mさんという小説の好きな若い人も、私が蟹田に来る事をN君からでも聞いていたらしく、はにかんで笑いながらやって来られた。Mさんは、N君とも、またT君とも、Sさんとも旧知の間柄のようである。これから、すぐ皆で、蟹田の山へ花見に行こうという相談が、まとまった様子である。
観瀾山《かんらんざん》。私はれいのむらさきのジャンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのようなものものしい身支度をする必要は全然なかった。その山は、蟹田の町はずれにあって、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかった。その日は、まぶしいくらいの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。東北の海と言えば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でそうして水の色も淡く、塩分も薄いように感ぜられ、磯の香さえほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似ている。深さなどに就いては、国防上、言わぬほうがいいかも知れないが、浪は優しく砂浜を嬲っている。そうして海浜のすぐ近くに網がいくつも立てられていて、蟹をはじめ、イカ、カレヒ、サバ、イワシ、鱈、アンカウ、さまざまの魚が四季を通じて容易に捕獲できる様子である。この町では、いまも昔と変らず、毎朝、さかなやがリヤカーにさかなを一ぱい積んで、イカにサバだじゃあ、アンカウにアオバだじゃあ、スズキにホッケだじゃあ、と怒っているような大声で叫んで、売り歩いているのである。そうして、この辺のさかなやは、その日にとれたさかなばかりを売り歩いて、前日の売れ残りは一さい取扱わないようである。よそへ送ってしまうのかも知れない。だから、この町の人たちは、その日にとれた生きたさかなばかり食べているわけであるが、しかし、海が荒れたりなどしてたった一日でも漁の無かった時には、町中に一尾のなまざかなも見当らず、町の人たちは、干物と山菜で食事をしている。これは、蟹田に限らず、外ヶ浜一帯のどの漁村でも、また、外ヶ浜だけとも限らず、津軽の西海岸の漁村に於いても、全く同様である。蟹田はまた、頗る山菜にめぐまれているところのようである。蟹田は海岸の町ではあるが、また、平野もあれば、山もある。津軽半島の東海岸は、山がすぐ海岸に迫っているので、平野は乏しく、山の斜面に田や畑を開墾しているところも少くない状態なので、山を越えて津軽半島西部の広い津軽平野に住んでいる人たちは、この外ヶ浜地方を、カゲ(山の陰《かげ》の意)と呼んで、多少、あわれんでいる傾向が無いわけでもないように思われる。けれども、この蟹田地方だけは、決して西部に劣らぬ見事な沃野を持っているのだ。西部の人たちに、あわれまれていると知ったら、蟹田の人たちは、くすぐったく思うだろう。蟹田地方には、蟹田川という水量ゆたかな温和な川がゆるゆると流れていて、その流域に田畑が広く展開しているのである。ただこの地方には、東風も、西風も強く当るので不作のとしも少くないようであるが、しかし、西部の人たちが想像しているほど、土地が痩せてはいないのである。観瀾山から見下すと、水量たっぷりの蟹田川が長蛇の如くうねって、その両側に一番打のすんだ水田が落ちつき払って控えていて、ゆたかな、たのもしい景観をなしている。山は奥羽山脈の支脈の梵珠《ぼんじゅ》山脈である。この山脈は津軽半島の根元《ねもと》から起ってまっすぐに北進して半島の突端の竜飛岬まで走って海にころげ落ちる。二百メートルから三、四百メートルくらいの低い山々が並んで、観瀾山からほぼまっすぐ西に青く聳えている大倉岳は、この山脈に於いて増川岳などと共に最高の山の一つなのであるが、それとて、七百メートルあるかないかくらいのものなのである。けれども、山高きが故に貴からず、樹木あるが故に貴し、とか、いやに興覚めなハッキリした事を断言してはばからぬ実利主義者もあるのだから、津軽の人たちは、敢えてその山脈の低きを恥じる必要もあるまい。この山脈は、全国有数の扁柏《ひば》の産地である。その古い伝統を誇ってよい津軽の産物は、扁柏である。林檎なんかじゃないんだ。林檎なんてのは、明治初年にアメリカ人から種をもらって試植し、それから明治二十年代に到ってフランスの宣教師からフランス流の剪定法を教わって、俄然、成績を挙げ、それから地方の人たちもこの林檎栽培にむきになりはじめて、青森名産として全国に知られたのは、大正にはいってからの事で、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼はまぐりほど軽薄な「産物」でも無いが、紀州の蜜柑などに較べると、はるかに歴史は浅いのである。関東、関西の人たちは、津軽と言えばすぐに林檎を思い出し、そうしてこの扁柏林に就いては、あまり知らないように見受けられる。青森県という名もそこから起ったのではないかと思われるほど、津軽の山々には樹木が枝々をからませ合って冬もなお青く繁っている。昔から、日本三大森林地の一つとして数えられているようであって、昭和四年版の日本地理風俗大系にも、「そもそも、この津軽の大森林は遠く津軽藩祖為信の遺業に因し、爾来、厳然たる制度の下に今日なおその鬱蒼をつづけ、そうしてわが国の模範林制と呼ばれている。はじめ天和、貞享の頃、津軽半島地方に於いて、日本海岸の砂丘数里の間に植林を行い、もって潮風を防ぎ、またもって岩木川下流地方の荒蕪開拓に資した。爾来、藩にてはこの方針を襲い、鋭意植林に努めた結果、寛永年間にはいわゆる屏風樹林の成木を見て、またこれに依って耕地八千三百余町歩の開墾を見るに到った。それより、藩内の各地は頻りに造林につとめ、百有余所の大藩有林を設けるに及んだ。かくて明治時代に到っても、官庁は大いに林政に注意し、青森県扁柏林の好評は世に嘖々として聞える。けだしこの地方の材質は、よく各種の建築土木の用途に適し、殊に水湿に耐える特性を有すると、材木の産出の豊富なると、またその運搬に比較的便利なるとをもって重宝がられ、年産額八十万石。」と記されてあるが、これは昭和四年版であるから、現在の産額はその三倍くらいになっていると思われる。けれども、以上は、津軽地方全体の扁柏林に就いての記述であって、これを以って特別に蟹田地方だけの自慢となす事は出来ないが、しかし、この観瀾山から眺められるこんもり繁った山々は、津軽地方に於いても最もすぐれた森林地帯で、れいの日本地理風俗大系にも、蟹田川の河口の大きな写真が出ていて、そうして、その写真には、「この蟹田川附近には日本三美林の称ある扁柏の国有林があり、蟹田町はその積出港としてなかなか盛んな港で、ここから森林鉄道が海岸を離れて山に入り、毎日多くの材木を積んでここに運び来るのである。この地方の木材は良質でしかも安価なので知られている。」という説明が附せられてある。蟹田の人たちは誇らじと欲するも得べけんやである。しかも、この津軽半島の脊梁をなす梵珠山脈は、扁柏ばかりでなく、杉、山毛欅《ぶな》、楢、桂、橡、カラ松などの木材も産し、また、山菜の豊富を以て知られているのである。半島の西部の金木地方も、山菜はなかなか豊富であるが、この蟹田地方も、ワラビ、ゼンマイ、ウド、タケノコ、フキ、アザミ、キノコの類が、町のすぐ近くの山麓から実に容易にとれるのである。このように蟹田町は、田あり畑あり、海の幸、山の幸にも恵まれて、それこそ鼓腹撃壌の別天地のように読者には思われるだろうが、しかし、この観瀾山から見下した蟹田の町の気配は、何か物憂い。活気が無いのだ。いままで私は蟹田をほめ過ぎるほど、ほめて書いて来たのであるから、ここらで少し、悪口を言ったって、蟹田の人たちはまさか私を殴りゃしないだろうと思われる。蟹田の人たちは温和である。温和というのは美徳であるが、町をもの憂くさせるほど町民が無気力なのも、旅人にとっては心細い。天然の恵みが多いという事は、町勢にとって、かえって悪い事ではあるまいかと思わせるほど、蟹田の町は、おとなしく、しんと静まりかえっている。河口の防波堤も半分つくりかけて投げ出したような形に見える。家を建てようとして地ならしをして、それっきり、家を建てようともせずその赤土の空地にかぼちゃなどを植えている。観瀾山から、それが全部見えるというわけではないが、蟹田には、どうも建設の途中で投げ出した工事が多すぎるように思われる。町政の溌剌たる推進をさまたげる妙な古陋の策動屋みたいなものがいるんじゃないか、と私はN君に尋ねたら、この若い町会議員は苦笑して、よせ、よせ、と言った。つつしむべきは士族の商法、文士の政談。私の蟹田町政に就いての出しゃばりの質問は、くろうとの町会議員の憫笑を招来しただけの馬鹿らしい結果に終った。それに就いて、すぐ思い出される話はドガの失敗談である。フランス画壇の名匠エドガア・ドガは、かつてパリーの或る舞踊劇場の廊下で、偶然、大政治家クレマンソオと同じ長椅子に腰をおろした。ドガは遠慮も無く、かねて自己の抱懐していた高邁の政治談をこの大政治家に向って開陳した。「私が、もし、宰相となったならば、ですね、その責任の重大を思い、あらゆる恩愛のきづなを断ち切り、苦行者の如く簡易質素の生活を選び、役所のすぐ近くのアパートの五階あたりに極めて小さい一室を借り、そこには一脚のテーブルと粗末な鉄の寝台があるだけで、役所から帰ると深夜までそのテーブルに於いて残務の整理をし、睡魔の襲うと共に、服も靴もぬがずに、そのままベッドにごろ寝をして、翌る朝、眼が覚めると直ちに立って、立ったまま鶏卵とスープを喫し、鞄をかかえて役所へ行くという工合の生活をするに違いない!」と情熱をこめて語ったのであるが、クレマンソオは一言も答えず、ただ、なんだか全く呆れはてたような軽蔑の眼つきで、この画壇の巨匠の顔を、しげしげと見ただけであったという。ドガ氏も、その眼つきには参ったらしい。よっぽど恥かしかったと見えて、その失敗談は誰にも知らせず、十五年経ってから、彼の少数の友人の中でも一ばんのお気に入りだったらしいヴァレリイ氏にだけ、こっそり打ち明けたのである。十五年というひどく永い年月、ひた隠しに隠していたところを見ると、さすが傲慢不遜の名匠も、くろうと政治家の無意識な軽蔑の眼つきにやられて、それこそ骨のずいまでこたえたものがあったのであろうと、そぞろ同情の念の胸にせまり来るを覚えるのである。とかく芸術家の政治談は、怪我のもとである。ドガ氏がよいお手本である。一個の貧乏文士に過ぎない私は、観瀾山の桜の花や、また津軽の友人たちの愛情に就いてだけ語っているほうが、どうやら無難のようである。
その前日には西風が強く吹いて、N君の家の戸障子をゆすぶり、「蟹田ってのは、風の町だね。」と私は、れいの独り合点の卓説を吐いたりなどしていたものだが、きょうの蟹田町は、前夜の私の暴論を忍び笑うかのような、おだやかな上天気である。そよとの風も無い。観瀾山の桜は、いまが最盛期らしい。静かに、淡く咲いている。爛漫という形容は、当っていない。花弁も薄くすきとおるようで、心細く、いかにも雪に洗われて咲いたという感じである。違った種類の桜かも知れないと思わせる程である。ノヴァリスの青い花も、こんな花を空想して言ったのではあるまいかと思わせるほど、幽かな花だ。私たちは桜花の下の芝生にあぐらをかいて坐って、重箱をひろげた。これは、やはり、N君の奥さんのお料理である。他に、蟹とシャコが、大きい竹の籠に一ぱい。それから、ビール。私はいやしく見られない程度に、シャコの皮をむき、蟹の脚をしゃぶり、重箱のお料理にも箸をつけた。重箱のお料理の中では、ヤリイカの胴にヤリイカの透明な卵をぎゆうぎゆうつめ込んで、そのままお醤油の附焼きにして輪切りにしてあったのが、私にはひどくおいしかった。帰還兵のT君は、暑い暑いと言って上衣を脱ぎ半裸体になって立ち上り、軍隊式の体操をはじめた。タオルの手拭いで向う鉢巻きをしたその黒い顔は、ちょっとビルマのバーモオ長官に似ていた。その日、集った人たちは、情熱の程度に於いてはそれぞれ少しずつ相違があったようであるが、何か小説に就いての述懐を私から聞き出したいような素振りを見せた。私は問われただけの事は、ハッキリ答えた。「問に答えざるはよろしからず。」というれいの芭蕉翁の行脚の掟にしたがったわけであるが、しかし、他のもっと重大な箇条には見事にそむいてしまった。一、他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。私はその、甚だいやしい事を、やっちゃった。芭蕉だって、他門の俳諸の悪口は、チクチク言ったに違いないのであるが、けれども流石に私みたいに、たしなみも何も無く、眉をはね上げ口を曲げ、肩をいからして他の小説家を罵倒するなどというあさましい事はしなかったであろう。私は、にがにがしくも、そのあさましい振舞いをしてしまったのである。日本の或る五十年配の作家の仕事に就いて問われて、私は、そんなによくはない、とつい、うっかり答えてしまったのである。最近、その作家の過去の仕事が、どういうわけか、畏敬に近いくらいの感情で東京の読書人にも迎えられている様子で、神様、という妙な呼び方をする者なども出て来て、その作家を好きだと告白する事は、その読書人の趣味の高尚を証明するたづきになるというへんな風潮さえ瞥見せられて、それこそ、贔屓の引きだおしと言うもので、その作家は大いに迷惑して苦笑しているのかも知れないが、しかし、私はかねてその作家の奇妙な勢威を望見して、れいの津軽人の愚昧なる心から、「かれは賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして云々。」と、ひとりで興奮して、素直にその風潮に従う事は出来なかった。そうして、このごろに到って、その作家の作品の大半をまた読み直してみて、うまいなあ、とは思ったが、格別、趣味の高尚は感じなかった。かえって、エゲツナイところに、この作家の強みがあるのではあるまいかと思ったくらいであった。書かれてある世界もケチな小市民の意味も無く気取った一喜一憂である。作品の主人公は、自分の生き方に就いてときどき「良心的」な反省をするが、そんな箇所は特に古くさく、こんなイヤミな反省ならば、しないほうがよいと思われるくらいで、「文学的」な青臭さから離れようとして、かえって、それにはまってしまっているようなミミッチイものが感ぜられた。ユウモアを心掛けているらしい箇所も、意外なほどたくさんあったが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きているので読者は素直に笑えない。貴族的、という幼い批評を耳にした事もあったが、とんでもない事で、それこそ贔屓の引きたおしである。貴族というものは、だらしないくらい闊達なものではないかと思われる。フランス革命の際、暴徒たちが王の居室にまで乱入したが、その時、フランス国王ルイ十六世、暗愚なりと雖も、からから笑って矢庭に暴徒のひとりから革命帽を奪いとり、自分でそれをひょいとかぶって、フランス万歳、と叫んだ。血に飢えたる暴徒たちも、この天衣無縫の不思議な気品に打たれて、思わず王と共に、フランス万歳を絶叫し、王の身体には一指も触れずにおとなしく王の居室から退去したのである。まことの貴族には、このような無邪気なつくろわぬ気品があるものだ。口をひきしめて襟元をかき合せてすましているのは、あれは、貴族の下男によくある型だ。貴族的なんて、あわれな言葉を使っちゃいけない。
その日、蟹田の観瀾山で一緒にビールを飲んだ人たちも、たいていその五十年配の作家の心酔者らしく、私に対して、その作家の事ばかり質問するので、とうとう私も芭蕉翁の行脚の掟を破って、そのような悪口を言い、言いはじめたら次第に興奮して来て、それこそ眉をはね上げ口を曲げる結果になって、貴族的なんて、へんなところで脱線してしまった。一座の人たちは、私の話に少しも同感の色を示さなかった。「貴族的なんて、そんな馬鹿な事を私たちは言ってはいません。」と今別から来たMさんは、当惑の面持で、ひとりごとのようにして言った。酔漢の放言に閉口し切っているというようなふうに見えた。他の人たちも、互いに顔を見合せてにやにや笑っている。
「要するに、」私の声は悲鳴に似ていた。ああ、先輩作家の悪口は言うものでない。「男振りにだまされちゃいかんという事だ。ルイ十六世は、史上まれに見る醜男だったんだ。」いよいよ脱線するばかりである。
「でも、あの人の作品は、私は好きです。」とMさんは、イヤにはっきり宣言する。
「日本じゃ、あの人の作品など、いいほうなんでしょう?」と青森の病院のHさんは、つつましく、取りなし顔に言う。
私の立場は、いけなくなるばかりだ。
「そりゃ、いいほうかも知れない。まあ、いいほうだろう。しかし、君たちは、僕を前に置きながら、僕の作品に就いて一言も言ってくれないのは、ひどいじゃないか。」私は笑いながら本音《ほんね》を吐いた。
みんな微笑した。やはり、本音を吐くに限る、と私は図に乗り、
「僕の作品なんかは、滅茶苦茶だけれど、しかし僕は、大望を抱いているんだ。その大望が重すぎて、よろめいているのが僕の現在のこの姿だ。君たちには、だらしのない無智な薄汚い姿に見えるだろうが、しかし僕は本当の気品というものを知っている。松葉の形の干菓子《ひがし》を出したり、青磁の壺に水仙を投げ入れて見せたって、僕はちっともそれを上品だとは思わない。成金趣味だよ、失敬だよ。本当の気品というものは、真黒いどっしりした大きい岩に白菊一輪だ。土台に、むさい大きい岩が無くちゃ駄目なもんだ。それが本当の上品というものだ。君たちなんか、まだ若いから、針金で支えられたカーネーションをコップに投げいれたみたいな女学生くさいリリシズムを、芸術の気品だなんて思っていやがる。」
暴言であった。「他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人を譏りておのれに誇るは甚だいやし。」この翁の行脚の掟は、厳粛の真理に似ている。じっさい、甚だいやしいものだ。私にはこのいやしい悪癖があるので、東京の文壇に於いても、皆に不愉快の感を与え、薄汚い馬鹿者として遠ざけられているのである。「まあ、仕様が無いや。」と私は、うしろに両手をついて仰向き、「僕の作品なんか、まったく、ひどいんだからな。何を言ったって、はじまらん。でも、君たちの好きなその作家の十分の一くらいは、僕の仕事をみとめてくれてもいいじゃないか。君たちは、僕の仕事をさっぱりみとめてくれないから、僕だって、あらぬ事を口走りたくなって来るんだ。みとめてくれよ。二十分の一でもいいんだ。みとめろよ。」
みんな、ひどく笑った。笑われて、私も、気持がたすかった。蟹田分院の事務長のSさんが、腰を浮かして、
「どうです。この辺で、席を変えませんか。」と、世慣れた人に特有の慈悲深くなだめるような口調で言った。蟹田町で一ばん大きいEという旅館に、皆の昼飯の仕度をさせてあるという。いいのか、と私はT君に眼でたずねた。
「いいんです。ごちそうになりましょう。」T君は立ち上って上衣を着ながら、「僕たちが前から計画していたのです。Sさんが配給の上等酒をとって置いたそうですから、これから皆で、それをごちそうになりに行きましょう。Nさんのごちそうにばかりなっていては、いけません。」
私はT君の言う事におとなしく従った。だから、T君が傍についていてくれると、心強いのである。
Eという旅館は、なかなか綺麗だった。部屋の床の間も、ちゃんとしていたし、便所も清潔だった。ひとりでやって来て泊っても、わびしくない宿だと思った。いったいに、津軽半島の東海岸の旅館は、西海岸のそれと較べると上等である。昔から多くの他国の旅人を送り迎えした伝統のあらわれかも知れない。昔は北海道へ渡るのに、かならず三厩から船出する事になっていたので、この外ヶ浜街道はそのための全国の旅人を朝夕送迎していたのである。旅館のお膳にも蟹が附いていた。
「やっぱり、蟹田だなあ。」と誰か言った。
T君はお酒を飲めないので、ひとり、さきにごはんを食べたが、他の人たちは、皆、Sさんの上等酒を飲み、ごはんを後廻しにした。酔うに従ってSさんは、上機嫌になって来た。
「私はね、誰の小説でも、みな一様に好きなんです。読んでみると、みんな面白い。なかなか、どうして、上手なものです。だから私は、小説家ってやつを好きで仕様が無いんです。どんな小説家でも、好きで好きでたまらないんです。私は、子供を、男の子で三つになりましたがね、こいつを小説家にしようと思っているんです。名前も、文男と附けました。文《ぶん》の男《おとこ》と書きます。頭の恰好が、どうも、あなたに似ているようです。失礼ながら、そんな工合に、はちが開いているような形なのです。」
私の頭が、鉢が開いているとは初耳であった。私は、自分の容貌のいろいろさまざまの欠点を残りくま無く知悉しているつもりであったが、頭の形までへんだとは気がつかなかった。自分で気の附かない欠点がまだまだたくさんあるのではあるまいかと、他の作家の悪口を言った直後でもあったし、ひどく不安になって来た。Sさんは、いよいよ上機嫌で、
「どうです。お酒もそろそろ無くなったようですし、これから私の家へみんなでいらっしゃいませんか。ね。ちょっとでいいんです。うちの女房にも、文男にも、逢ってやって下さい。たのみます。リンゴ酒なら、蟹田には、いくらでもありますから、家へ来て、リンゴ酒を、ね。」と、しきりに私を誘惑するのである。御好志はありがたかったが、私は頭の鉢以来、とみに意気が沮喪して、早くN君の家へ引上げて、一寝入りしたかった。Sさんのお家へ行って、こんどは頭の鉢どころか、頭の内容まで見破られ、ののしられるような結果になるのではあるまいかと思えばなおさら気が重かった。私は、れいに依ってT君の顔色を伺った。T君が行けと言えば、これは、行かなくてはなるまいと覚悟していた。T君は、真面目な顔をしてちょっと考え、
「行っておやりになったら? Sさんは、きょうは珍らしくひどく酔っているようですが、ずいぶん前から、あなたのおいでになるのを楽しみにして待っていたのです。」
私は行く事にした。頭の鉢にこだわる事は、やめた。あれはSさんが、ユウモアのつもりでおっしゃったのに違いないと思い直した。どうも、容貌に自信が無いと、こんなつまらぬ事にもくよくよしていけない。容貌に就いてばかりでなく、私にいま最も欠けているものは「自信」かも知れない。
Sさんのお家へ行って、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさえ少しめんくらった。Sさんは、お家へはいるなり、たてつづけに奥さんに用事を言いつけるのである。「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。とうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰って人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよかろう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んじゃったんだ。リンゴ酒を持って来い。なんだ、一升しか無いのか。少い! もう二升買って来い。待て。その縁側にかけてある干鱈《ひだら》をむしって、待て、それは金槌《かなづち》でたたいてやわらかくしてから、むしらなくちゃ駄目なものなんだ。待て、そんな手つきじゃいけない、僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合いに、こんな工合いに、あ、痛え、まあ、こんな工合いだ。おい、醤油を持って来い。干鱈には醤油をつけなくちゃ駄目だ。コップが一つ、いや二つ足りない。早く持って来い、待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買って来い、待て、坊やを連れて来い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらうんだ。どうです、この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいているというんでしょう。あなたの頭の形に似ていると思うんですがね。しめたものです。おい、坊やをあっちへ連れて行け。うるさくてかなわない。お客さんの前に、こんな汚い子を連れて来るなんて、失敬じゃないか。成金趣味だぞ。早くリンゴ酒を、もう二升。お客さんが逃げてしまうじゃないか。待て、お前はここにいてサアヴィスをしろ。さあ、みんなにお酌。リンゴ酒は隣りのおばさんに頼んで買って来てもらえ。おばさんは、砂糖をほしがっていたから少しわけてやれ。待て、おばさんにやっちゃいかん。東京のお客さんに、うちの砂糖全部お土産に差し上げろ。いいか、忘れちゃいけないよ。全部、差し上げろ。新聞紙で包んでそれから油紙で包んで紐でゆはへて差し上げろ。子供を泣かせちゃ、いかん。失敬じゃないか。成金趣味だぞ。貴族ってのはそんなものじゃないんだ。待て。砂糖はお客さんがお帰りの時でいいんだってば。音楽、音楽。レコードをはじめろ。シューベルト、ショパン、バッハ、なんでもいい。音楽を始めろ。待て。なんだ、それは、バッハか。やめろ。うるさくてかなわん。話も何も出来やしない。もっと静かなレコードを掛けろ、待て、食うものが無くなった。アンコーのフライを作れ。ソースがわが家の自慢と来ている。果してお客さんのお気に召すかどうか、待て、アンコーのフライとそれから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食えないものだ。そうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ。」
私は決して誇張法を用みて描写しているのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。干鱈《ひだら》というのは、大きい鱈を吹雪にさらして凍らせて干したもので、芭蕉翁などのよろこびそうな軽い閑雅な味のものであるが、Sさんの家の縁側には、それが五、六本つるされてあって、Sさんは、よろよろと立ち上り、それを二、三本ひったくって、滅多矢鱈に鉄槌で乱打し、左の親指を負傷して、それから、ころんで、這ふようにして皆にリンゴ酒を注いで廻り、頭の鉢の一件も、決してSさんは私をからかうつもりで言ったのではなく、また、ユウモアのつもりで言ったのでもなかったのだという事が私にはっきりわかって来た。Sさんは、鉢のひらいた頭というものを、真剣に尊敬しているらしいのである。いいものだと思っているらしいのである。津軽人の愚直可憐、見るべしである。そうして、ついには、卵味噌、卵味噌と連呼するに到ったのであるが、この卵味噌のカヤキなるものに就いては、一般の読者には少しく説明が要るように思われる。津軽に於いては、牛鍋、鳥鍋の事をそれぞれ、牛のカヤキ、鳥のカヤキという工合に呼ぶのである。貝焼《かいやき》の訛りであろうと思われる。いまはそうでもないようだけれど、私の幼少の頃には、津軽に於いては、肉を煮るのに、帆立貝の大きい貝殻を用いていた。貝殻から幾分ダシが出ると盲信しているところも無いわけではないようであるが、とにかく、これは先住民族アイヌの遺風ではなかろうかと思われる。私たちは皆、このカヤキを食べて育ったのである。卵味噌のカヤキというのは、その貝の鍋を使い、味噌に鰹節をけずって入れて煮て、それに鶏卵を落して食べる原始的な料理であるが、実は、これは病人の食べるものなのである。病気になって食がすすまなくなった時、このカヤキの卵味噌をお粥に載せて食べるのである。けれども、これもまた津軽特有の料理の一つにはちがいなかった。Sさんは、それを思いつき、私に食べさせようとして連呼しているのだ。私は奥さんに、もうたくさんですから、と拝むように頼んでSさんの家を辞去した。読者もここに注目をしていただきたい。その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。しかも、生粋《きっすい》の津軽人のそれである。これは私に於いても、Sさんと全く同様な事がしばしばあるので、遠慮なく言う事が出来るのであるが、友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなってしまうのである。ただ胸がわくわくして意味も無く右往左往し、そうして電燈に頭をぶつけて電燈の笠を割ったりなどした経験さえ私にはある。食事中に珍客があらわれた場合に、私はすぐに箸を投げ出し、口をもぐもぐさせながら玄関に出るので、かえってお客に顔をしかめられる事がある。お客を待たせて、心静かに食事をつづけるなどという芸当は私には出来ないのである。そうしてSさんの如く、実質に於いては、到れりつくせりの心づかいをして、そうして何やらかやら、家中のもの一切合切持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になって、かえって後でそのお客に自分の非礼をお詫びしなければならぬなどという事になるのである。ちぎっては投げ、むしっては投げ、取って投げ、果ては自分の命までも、という愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかえって無礼な暴力的なもののように思われ、ついには敬遠という事になるのではあるまいか、と私はSさんに依って私自身の宿命を知らされたような気がして、帰る途々、Sさんがなつかしく気の毒でならなかった。津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない。東京の人は、ただ妙にもったいぶって、チョッピリずつ料理を出すからなあ。ぶえんの平茸《ひらたけ》ではないけれど、私も木曾殿みたいに、この愛情の過度の露出のゆえに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられて来た事か。「かい給え、かい給えや。」とぞ責めたりける、である。
後で聞いたが、Sさんはそれから一週間、その日の卵味噌の事を思い出すと恥ずかしくて酒を飲まずには居られなかったという。ふだんは人一倍はにかみやの、神経の繊細な人らしい。これもまた津軽人の特徴である。生粋の津軽人というものは、ふだんは、決して粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人よりも、はるかに優雅な、こまかい思いやりを持っている。その抑制が、事情に依って、どっと堰を破って奔騰する時、どうしたらいいかわからなくなって、「ぶえんの平茸ここにあり、とうとう。」といそがす形になってしまって、軽薄の都会人に顰蹙せられるくやしい結果になるのである。Sさんはその翌日、小さくなって酒を飲み、そこへ一友人がたずねて行って、
「どう? あれから奥さんに叱られたでしょう?」と笑いながら尋ねたら、Sさんは、処女の如くはにかんで、「いいえ、まだ。」と答えたという。
叱られるつもりでいるらしい。
[#5字下げ][#中見出し]三 外ヶ浜[#中見出し終わり]
Sさんの家を辞去してN君の家へ引上げ、N君と私は、さらにまたビールを飲み、その夜はT君も引きとめられてN君の家へ泊る事になった。三人一緒に奥の部屋に寝たのであるが、T君は翌朝早々、私たちのまだ眠っているうちにバスで青森へ帰った。勤めがいそがしい様子である。
「咳をしていたね。」T君が起きて身支度をしながらコンコンと軽い咳をしていたのを、私は眠っていながらも耳ざとく聞いてへんに悲しかったので、起きるとすぐにN君にそう言った。N君も起きてズボンをはきながら、
「うん、咳をしていた。」と厳粛な顔をして言った。酒飲みというものは、酒を飲んでいない時にはひどく厳粛な顔をしているものである。いや、顔ばかりではないかも知れない。心も、きびしくなっているものである。「あまり、いい咳じゃなかったね。」N君も、さすがに、眠っているようではあっても、ちゃんとそれを聞き取っていたのである。
「気で押すさ。」とN君は突き放すような口調で言って、ズボンのバンドをしめ上げ、「僕たちだって、なおしたんじゃないか。」
N君も、私も、永い間、呼吸器の病気と闘って来たのである。N君はひどい喘息だったが、いまはそれを完全に克服してしまった様子である。
この旅行に出る前に、満洲の兵隊たちのために発行されている或る雑誌に短篇小説を一つ送る事を約束していて、その締切がきょうあすに迫っていたので、私はその日一日と、それから翌る日一日と、二日間、奥の部屋を借りて仕事をした。N君も、その間、別棟の精米工場で働いていた。二日目の夕刻、N君は私の仕事をしている部屋へやって来て、
「書けたかね。二、三枚でも書けたかね。僕のほうは、もう一時間経ったら、完了だ。一週間分の仕事を二日でやってしまった。あとでまた遊ぼうと思うと気持に張合いが出て、仕事の能率もぐんと上るね。もう少しだ。最後の馬力をかけよう。」と言って、すぐ工場のほうへ行き、十分も経たぬうちに、また私の部屋へやって来て、
「書けたかね。僕のほうは、もう少しだ。このごろは機械の調子もいいんだ。君は、まだうちの工場を見た事が無いだろう。汚い工場だよ。見ないほうがいいかも知れない。まあ、精を出そう。僕は工場のほうにいるからね。」と言って帰って行くのである。鈍感な私も、やっと、その時、気がついた。N君は私に、工場で働いている彼の甲斐甲斐しい姿を見せたいのに違いない。もうすぐ彼の仕事が終るから、終らないうちに見に来い、という謎であったのだ。私はそれに気が附いて微笑した。いそいで仕事を片附け、私は、道路を隔て別棟になっている精米工場に出かけた。N君は継ぎはぎだらけのコール天の上衣を着て、目まぐるしく廻転する巨大な精米機の傍に、両腕をうしろにまわし、仔細らしい顔をして立っていた。
「さかんだね。」と私は大声で言った。
N君は振りかえり、それは嬉しそうに笑って、
「仕事は、すんだか。よかったな。僕のほうも、もうすぐなんだ。はいり給え。下駄のままでいい。」と言うのだが、私は、下駄のままで精米所へのこのこはいるほど無神経な男ではない。N君だって、清潔な藁草履とはきかえている。そこらを見廻しても、上草履のようなものも無かったし、私は、工場の門口に立って、ただ、にやにや、笑っていた。裸足《はだし》になってはいろうかとも思ったが、それはN君をただ恐縮させるばかりの大袈裟な偽善的な仕草に似ているようにも思われて、裸足にもなれなかった。私には、常識的な善事を行うに当って、甚だてれる悪癖がある。
「ずいぶん大がかりな機械じゃないか。よく君はひとりで操縦が出来るね。」お世辞では無かった。N君も、私と同様、科学的知識に於いては、あまり達人ではなかったのである。
「いや、簡単なものなんだ。このスイッチをこうすると、」などと言いながら、あちこちのスイッチをひねって、モーターをぴたりと止めて見せたり、また籾殻の吹雪を現出させて見せたり、出来上りの米を瀑布のようにざっと落下させて見せたり自由自在にその巨大な機械をあやつって見せるのである。
ふと私は、工場のまん中の柱に張りつけられてある小さいポスターに目をとめた。お銚子の形の顔をした男が、あぐらをかき腕まくりして大盃を傾け、その大盃には家や土蔵がちょこんと載っていて、そうしてその妙な画には、「酒は身を飲み家を飲む」という説明の文句が印刷されてあった。私は、そのポスターを永い事、見つめていたので、N君も気がついたか、私の顔を見てにやりと笑った。私もにやりと笑った。同罪の士である。「どうもねえ。」という感じなのである。私はそんなポスターを工場の柱に張って置くN君を、いじらしく思った。誰か大酒を恨まざる、である。私の場合は、あの大盃に、私の貧しい約二十種類の著書が載っているという按配なのである。私には、飲むべき家も蔵も無い。「酒は身を飲み著書を飲む」とでも言うべきところであろう。
工場の奥に、かなり大きい機械が二つ休んでいる。あれは何? とN君に聞いたら、N君は幽かな溜息をついて、
「あれは、なあ、縄を作る機械と、筵《むしろ》を作る機械なんだが、なかなか操作がむずかしくて、どうも僕の手には負えないんだ。四、五年前、この辺一帯ひどい不作で、精米の依頼もばったり無くなって、いや、困ってねえ、毎日毎日、炉傍に坐って煙草をふかして、いろいろ考えた末、こんな機械を買って、この工場の隅で、ばったんばったんやってみたのだが、僕は不器用だから、どうしても、うまくいかないんだ。淋しいもんだったよ。結局一家六人、ほそぼそと寝食いさ。あの頃は、もう、どうなる事かと思ったね。」
N君には、四歳の男の子がひとりある他に、死んだ妹さんの子供をも三人あずかっているのだ。妹さんの御亭主も、北支で戦死をなさったので、N君夫妻は、この三人の遺児を当然の事として育て、自分の子供と全く同様に可愛がっているのだ。奥さんの言に依れば、N君は可愛がりすぎる傾きさえあるそうだ。三人の遺児のうち、一番の総領は青森の工業学校にはいっているのだそうで、その子が或る土曜日に青森から七里の道をバスにも乗らずてくてく歩いて夜中の十二時頃に蟹田の家へたどり着き、伯父さん、伯父さん、と言って玄関の戸を叩き、N君は飛び起きて玄関をあけ、無我夢中でその子の肩を抱いて、歩いて来たのか、へえ、歩いて来たのか、と許り言ってものも言えず、そうして、奥さんを矢鱈に叱り飛ばして、それ、砂糖湯を飲ませろ、餅を焼け、うどんを温めろと、矢継早に用事を言いつけ、奥さんは、この子は疲れて眠いでしょうから、と言いかけたら、「な、なにい!」と言って頗る大袈裟に奥さんに向ってこぶしを振り上げ、あまりにどうも珍妙な喧嘩なので、甥のその子が、ぷっと噴き出して、N君もこぶしを振り上げながら笑い出し、奥さんも笑って、何が何やら、うやむやになったという事などもあったそうで、それもまた、N君の人柄の片鱗を示す好箇の挿話であると私には感じられた。
「七転び八起きだね。いろんな事がある。」と言って私は、自分の身の上とも思い合せ、ふっと涙ぐましくなった。この善良な友人が、馴れぬ手つきで、工場の隅で、ひとり、ばったんばったん筵を織っている侘しい姿が、ありありと眼前に見えるような気がして来た。私は、この友人を愛している。
その夜はまた、お互い一仕事すんだのだから、などと言いわけして二人でビールを飲み、郷土の凶作の事に就いて話し合った。N君は青森県郷土史研究会の会員だったので、郷土史の文献をかなり持っていた。
「何せ、こんなだからなあ。」と言ってN君は或る本をひらいて私に見せたが、そのペエジには次のような、津軽凶作の年表とでもいうべき不吉な一覧表が載っていた。
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元和一年 大凶
元和二年 大凶
寛永十七年 大凶
寛永十八年 大凶
寛永十九年 凶
明暦二年 凶
寛文六年 凶
寛文十一年 凶
延宝二年 凶
延宝三年 凶
延宝七年 凶
天和一年 大凶
貞享一年 凶
元禄五年 大凶
元禄七年 大凶
元禄八年 大凶
元禄九年 凶
元禄十五年 半凶
宝永二年 凶
宝永三年 凶
宝永四年 大凶
享保一年 凶
享保五年 凶
元文二年 凶
元文五年 凶
延享二年 大凶
延享四年 凶
寛延二年 大凶
宝暦五年 大凶
明和四年 凶
安永五年 半凶
天明二年 大凶
天明三年 大凶
天明六年 大凶
天明七年 半凶
寛政一年 凶
寛政五年 凶
寛政十一年 凶
文化十年 凶
天保三年 半凶
天保四年 大凶
天保六年 大凶
天保七年 大凶
天保八年 凶
天保九年 大凶
天保十年 凶
慶応二年 凶
明治二年 凶
明治六年 凶
明治二十二年 凶
明治二十四年 凶
明治三十年 凶
明治三十五年 大凶
明治三十八年 大凶
大正二年 凶
昭和六年 凶
昭和九年 凶
昭和十年 凶
昭和十五年 半凶
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津軽の人でなくても、この年表に接しては溜息をつかざるを得ないだろう。大阪夏の陣、豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回の凶作があったのである。まず五年に一度ずつ凶作に見舞われているという勘定になるのである。さらにまた、N君はべつな本をひらいて私に見せたが、それには、「翌天保四年に到りては、立春吉祥の其日より東風頻に吹荒み、三月上巳の節句に到れども積雪消えず農家にて雪舟用いたり。五月に到り苗の生長僅かに一束なれども時節の階級避くべからざるが故に竟に其儘植附けに着手したり。然れども連日の東風弥々吹き募り、六月土用に入りても密雲冪々として天候朦々晴天白日を見る事殆ど稀なり(中略)毎日朝夕の冷気強く六月土用中に綿入を着用せり、夜は殊に冷にして七月|佞武多《ねぶた》(作者註。陰暦七夕の頃、武者の形あるいは竜虎の形などの極彩色の大燈籠を荷車に載せて曳き、若い衆たちさまざまに扮装して街々を踊りながら練り歩く津軽年中行事の一つである。他町の大燈籠と衝突して喧嘩の事必ずあり。坂上田村麻呂、蝦夷征伐の折、このような大燈籠を見せびらかして山中の蝦夷をおびき寄せ之を殱滅せし遺風なりとの説あれども、なお信ずるに足らず。津軽に限らず東北各地にこれと似たる風俗あり。東北の夏祭りの山車《だし》と思わば大過なからん歟。)の頃に到りても道路にては蚊の声を聞かず、家屋の内に於ては聊か之を聞く事あれども蚊帳を用うるを要せず蝉声の如きも甚だ稀なり、七月六日頃より暑気出で盆前単衣物を着用す、同十三日頃より早稲大いに出穂ありし為人気頗る宜しく盆踊りも頗る賑かなりしが、同十五日、十六日の日光白色を帯び恰も夜中の鏡に似たり、同十七日夜半、踊児も散り、来往の者も稀疎にして追々暁方に及べる時、図らざりき厚霜を降らし出穂の首傾きたり、往来老若之を見る者涕泣充満たり。」という、あわれと言うより他には全く言いようのない有様が記されてあって、私たちの幼い頃にも、老人たちからケガヅ(津軽では、凶作の事をケガヅと言う。飢渇《きかつ》の訛りかも知れない。)の酸鼻戦懐の状を聞き、幼いながらも暗憺たる気持になって泣きべそをかいてしまったものだが、久し振りで故郷に帰り、このような記録をあからさまに見せつけられ、哀愁を通り越して何か、わけのわからぬ憤怒さえ感ぜられて、
「これは、いかん。」と言った。「科学の世の中とか何とか偉そうな事を言ってたって、こんな凶作を防ぐ法を百姓たちに教えてやる事も出来ないなんて、だらしがねえ。」
「いや、技師たちもいろいろ研究はしているのだ。冷害に堪えるように品種が改良されてもいるし、植附けの時期にも工夫が加えられて、今では、昔のように徹底した不作など無くなったけれども、でも、それでも、やっぱり、四、五年に一度は、いけない時があるんだねえ。」
「だらしが無え。」私は、誰にとも無き忿懣で、口を曲げてののしった。
N君は笑って、
「沙漠の中で生きている人もあるんだからね。怒ったって仕様がないよ。こんな風土からはまた独得な人情も生れるんだ。」
「あんまり結構な人情でもないね。春風駘蕩たるところが無いんで、僕なんか、いつでも南国の芸術家には押され気味だ。」
「それでも君は、負けないじゃないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ。第八師団は国宝だって言われているじゃないか。」
生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすって育った私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝はっていないわけは無い。春風駘蕩の美徳もうらやましいものには違いないが、私はやはり祖先のかなしい血に、出来るだけ見事な花を咲かせるように努力するより他には仕方がないようだ。いたずらに過去の悲惨に歎息せず、N君みたいにその櫛風沐雨の伝統を鷹揚に誇っているほうがいいのかも知れない。しかも津軽だって、いつまでも昔のように酸鼻の地獄絵を繰り返しているわけではない。その翌日、私はN君に案内してもらって、外ヶ浜街道をバスで北上し、三厩で一泊して、それからさらに海岸の波打際の心細い路を歩いて本州の北端、竜飛岬まで行ったのであるが、その三厩竜飛間の荒涼索莫たる各部落でさえ、烈風に抗し、怒濤に屈せず、懸命に一家を支え、津軽人の健在を可憐に誇示していたし、三厩以南の各部落、殊にも三厩、今別などに到っては瀟洒たる海港の明るい雰囲気の中に落ちつき払った生活を展開して見せてくれていたのである。ああ、いたずらにケガヅの影におびえる事なかれである。以下は佐藤弘という理学士の快文章であるが、私のこの書の読者の憂鬱を消すために、なおまた私たち津軽人の明るい出発の乾盃の辞としてちょっと借用して見よう。佐藤理学士の奥州産業総説に曰く、「撃てば則ち草に匿れ、追えば即ち山に入った蝦夷族の版図たりし奥州、山岳重畳して到るところ天然の障壁をなし、以て交通を阻害している奥州、風波高く海運不便なる日本海と、北上山脈にさえぎられて発達しない鋸歯状の岬湾の多い太平洋とに包まれた奥州。しかも冬期降雪多く、本州中で一番寒く、古来、数十回の凶作に襲来されたという奥州。九州の耕地面積二割五分に対して、わずかに一割半を占むる哀れなる奥州。どこから見ても不利な自然的条件に支配されているその奥州は、さて、六百三十万の人口を養うに、今日いかなる産業に拠っているであろうか。
どの地理書を繙いても、奥州の地たるや本州の東北端に僻在し、衣、食、住、いずれも粗樸、とある。古来からの茅葺、柾葺、杉皮葺は、とにかくとして、現在多くの民は、トタン葺の家に住み、ふろしきを被って、もんぺいをはき、中流以下悉く粗食に甘んじている、という。真偽や如何。それほど奥州の地は、産業に恵まれていないのであろうか。高速度を以て誇りとする第二十世紀の文明は、ひとり東北の地に到達していないのであろうか。否、それは既に過去の奥州であって、人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まず文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる擡頭力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り、かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居住地に教化の御光を与え、而して、いまや見よ、開発また開拓、膏田沃野の刻一刻と増加することを。そして改良また改善、牧畜、林業、漁業の日に日に盛大におもむく事を。まして況んや、住民の分布薄疎にして、将来の発展の余裕、また大いにこの地にありというに於いてをや。
むく鳥、鴨、四十雀、雁などの渡り鳥の大群が、食を求めてこの地方をさまよい歩くが如く、膨脹時代にあった大和民族が各地方より北上してこの奥州に到り、蝦夷を征服しつつ、或いは山に猟し、或いは川に漁して、いろいろな富源の魅力にひきつけられ、あちらこちらと、さまよい歩いた。かくして数代経過し、ここに人々は、思い思いの地に定著して、或いは秋田、荘内、津軽の平野に米を植え、或いは北奥の山地に殖林を試み、或いは平原に馬を飼い、或いは海辺の漁業に専心して以て今日に於ける隆盛なる産業の基礎を作ったのである。奥州六県、六百三十万の民はかくして先人の開発せし特徴ある産業をおろそかにせず、益々これが発達の途を講じ、渡り鳥は永遠にさまよえども、素朴なる東北の民は最早や動かず、米を作って林檎を売り、鬱蒼たる美林につづく緑の大平原には毛並輝く見事な若駒を走らせ、出漁の船は躍る銀鱗を満載して港にはいるのである。」
まことに有難い祝辞で、思わず駈け寄ってお礼の握手でもしたくなるくらいのものだ。さて私はその翌日、N君の案内で奥州外ヶ浜を北上したのであるが、出発に先立ち、まず問題は酒であった。
「お酒は、どうします? リュックサックに、ビールの二、三本も入れて置きましょうか?」と、奥さんに言われて、私は、まったく、冷汗三斗の思いであった。なぜ、酒飲みなどという不面目な種族の男に生れて来たか、と思った。
「いや、いいです。無ければ無いで、また、それは、べつに。」などと、しどろもどろの不得要領なる事を言いながらリュックサックを背負い、逃げるが如く家を出て、後からやって来たN君に、
「いや、どうも。酒、と聞くとひやっとするよ。針の筵《むしろ》だ。」と実感をそのまま言った。N君も同じ思いと見えて、顔を赤くし、うふふと笑い、
「僕もね、ひとりじゃ我慢も出来るんだが、君の顔を見ると、飲まずには居られないんだ。今別のMさんが配給のお酒を近所から少しずつ集めて置くって言っていたから、今別にちょっと立寄ろうじゃないか。」
私は複雑な溜息をついて、
「みんなに苦労をかけるわい。」と言った。
はじめは蟹田から船でまっすぐに竜飛まで行き、帰りは徒歩とバスという計画であったのだが、その日は朝から東風が強く、荒天といっていいくらいの天候で、乗って行く筈の定期船は欠航になってしまったので、予定をかえて、バスで出発する事にしたのである。バスは案外、空《す》いていて、二人とも楽に腰かける事が出来た。外ヶ浜街道を一時間ほど北上したら、次第に風も弱くなり、青空も見えて来て、このぶんならば定期船も出るのではなかろうかと思われた。とにかく、今別のMさんのお家へ立寄り、船が出るようだったら、お酒をもらってすぐ今別の港から船に乗ろうという事にした。往きも帰りも同じ陸路を通るのは、気がきかなくて、つまらない事のように思われた。N君はバスの窓から、さまざまの風景を指差して説明してくれたが、もうそろそろ要塞地帯に近づいているのだから、そのN君の親切な説明をここにいちいち書き記すのは慎しむべきであろう。とにかく、この辺には、昔の蝦夷の栖家《すみか》の面影は少しも見受けられず、お天気のよくなって来たせいか、どの村落も小綺麗に明るく見えた。寛政年間に出版せられた京の名医橘南谿の東遊記には、「天地《あめつち》ひらけしよりこのかた今の時ほど太平なる事はあらじ、西は鬼界屋玖の嶋より東は奥州の外ヶ浜まで号令の行届かざるもなし。往古は屋玖の島は屋玖国とて異国のように聞え、奥州も半ば蝦夷人の領地なりしにや、猶近き頃まで夷人の住所なりしと見えて南部、津軽辺の地名には変名多し。外ヶ浜通りの村の名にもタッピ、ホロヅキ、内マッペ、外マッペ、イマベツ、ウテツなどいう所有り。是皆蝦夷詞なり。今にても、ウテツなどの辺は風俗もやや蝦夷に類して津軽の人も彼等はエゾ種といいて、いやしむるなり。余思うにウテツ辺に限らず、南部、津軽辺の村民も大かたはエゾ種なるべし。只早く皇化に浴して風俗言語も改りたる所は、先祖より日本人のごとくいいなし居る事とぞ思わる。故に礼儀文華のいまだ開けざるはもっともの事なり。」と記されてあるが、それから約百五十年、地下の南谿を今日この坦々たるコンクリート道路をバスに乗せて通らせたならば、呆然たるさまにて首をひねり、或いは、こぞの雪いまいずこなどという嘆を発するかも知れない。南谿の東遊記西遊記は江戸時代の名著の一つに数えられているようであるが、その凡例にも、「予が漫遊もと医学の為なれば医事にかかれることは雑談といえども別に記録して同志の人にも示す。只此書は旅中見聞せる事を筆のついでにしるせるものにして、強て其事の虚実を正さず、誤りしるせる事も多かるべし。」とみずから告白している如く、読者の好奇心を刺戟すれば足るというような荒唐無稽に似た記事も少しとしないと言ってよい。他の地方の事は言わず、例をこの外ヶ浜近辺に就いての記事だけに限って言っても、「奥州三馬屋(作者註。三厩の古称。)は、松前渡海の津にて、津軽領外ヶ浜にありて、日本東北の限りなり。むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給いしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたえかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かわり恙なく松前の地に渡り給いぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音という。又波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給いし所となり。是によりて此地を三馬屋と称するなりとぞ。」と、何の疑いもさしはさまずに記してあるし、また、「奥州津軽の外ヶ浜に平館という所あり。此所の北にあたり巌石海に突出たる所あり、是を石崎の鼻という。其所を越えて暫く行けば朱谷《しゅだに》あり。山々高く聳えたる間より細き谷川流れ出て海に落る。此谷の土石皆朱色なり。水の色までいと赤く、ぬれたる石の朝日に映ずるいろ誠に花やかにして目さむる心地す。其落る所の海の小石までも多く朱色なり。北辺の海中の魚皆赤しと云。谷にある所の朱の気によりて、海中の魚、或は石までも朱色なること無情有情ともに是に感ずる事ふしぎなり。」と言ってすましているかと思うと、また、おきなと称する怪魚が北海に住んでいて、「其大きさ二里三里にも及べるにや、ついに其魚の全身を見たる人はなし。稀れに海上に浮たるを見るに大なる島いくつも出来たるごとくなり、是おきなの背中尾鰭などの少しずつ見ゆるなりとぞ。二十尋三十尋の鯨を呑む事、鯨の鰯を呑むがごとくなるゆえ、此魚来れば鯨東西に逃走るなり。」などと言っておどかしたり、また、「此三馬屋に逗留せし頃、一夜、此家の近きあたりの老人来りぬれば、家内の祖父祖母《じじばば》など打集り、囲炉裏にまといして四方山の物語せしに彼者共語りしは、扨も此二三十年以前松前の津波程おそろしかりしことはあらず、其頃風も静に雨も遠かりしが、只何となく空の気色打くもりたるようなりしに、夜々折々光り物して東西に虚空を飛行するものあり、漸々に甚敷、其四五日前に到れば白昼にもいろいろの神々虚空を飛行し給う。衣冠にて馬上に見ゆるもあり、或は竜に乗り雲に乗り、或は犀象のたぐひに打乗り、白き装束なるもあり、赤き青き色々の出立にて、其姿も亦大なるもあり小きもあり、異類異形の仏神空中にみちみちて東西に飛行し玉う。我々も皆外へ出て毎日々々いと有難くをがみたり。不思議なる事にてまのあたり拝み奉ることよと四五日が程もいいくらすうちに、ある夕暮、沖の方を見やりたるに、真白にして雪の山の如きもの遥に見ゆ。あれ見よ、又ふしぎなるものの海中に出来たれといううちに、だんだんに近く寄り来りて、近く見えし嶋山の上を打越して来るを見るに大浪の打来るなり。すは津波こそ、はや逃げよ、と老若男女われさきにと逃迷いしかど、しばしが間に打寄て、民屋田畑草木禽獣まで少しも残らず海底のみくずと成れば、生残る人民、海辺の村里には一人もなし、扨こそ初に神々の雲中を飛行し給いけるは此大変ある事をしろしめして此地を逃去り給いしなるべしといい合て恐れ侍りぬと語りぬ。」などという、もったいないような、また夢のような事も、平易の文章でさらさらと書き記されているのである。現在のこの辺の風景に就いては、この際、あまり具体的に書かぬほうがよいと思われるし、荒唐無稽とは言っても、せめて古人の旅行記など書き写し、そのお伽噺みたいな雰囲気にひたってみるのも一興と思われて、実は、東遊記の二三の記事をここに抜書きしたというわけでもあったのだが、ついでにもう一つ、小説の好きな人には殊にも面白く感ぜられるのではあるまいかと思われる記事があるから紹介しよう。
「奥州津軽の外ヶ浜に在りし頃、所の役人より丹後の人は居ずやと頻りに吟味せし事あり。いかなるゆえぞと尋ぬるに、津軽の岩城山《いわきやま》の神はなはだ丹後の人を忌嫌う、もし忍びても丹後の人此地に入る時は天気大きに損じて風雨打続き船の出入無く、津軽領はなはだ難儀に及ぶとなり。余が遊びし頃も打続き風悪しかりければ、丹後の人の入りて居るにやと吟味せしこととぞ。天気あしければ、いつにても役人よりきびしく吟味して、もし入込み居る時は急に送り出すこととなり。丹後の人、津軽領の界を出れば、天気たちまち晴て風静に成なり。土俗の、いいならわしにて忌嫌うのみならず、役人よりも毎度改むる事、珍らしき事なり。青森、三馬屋、そのほか外ヶ浜通り港々、最も甚敷丹後の人を忌嫌う。あまりあやしければ、いかなるわけのありてかくはいう事ぞと委敷尋ね問うに、当国岩城山の神と云うは、安寿姫《あんじゅひめ》出生の地なればとて安寿姫を祭る。此姫は丹後の国にさまよいて、三庄《さんしょう》太夫にくるしめられしゆえ、今に至り、其国の人といえば忌嫌いて風雨を起し岩城の神荒れ玉ふとなり。外ヶ浜通り九十里余、皆多くは漁猟又は船の通行にて世渡ることなれば、常々最も順風を願う。然るに、差当りたる天気にさわりあることなれば、一国こぞって丹後の人を忌嫌う事にはなりぬ。此説、隣境にも及びて松前南部等にても港々にては多くは丹後人を忌みて送り出す事なり。かばかり人の恨は深きものにや。」
へんな話である。丹後の人こそ、いい迷惑である。丹後の国は、いまの京都府の北部であるが、あの辺の人は、この時代に津軽へ来たら、ひどいめに遭わなければならなかったわけである。安寿姫と厨子王《ずしおう》の話は、私たちも子供の頃から絵本などで知らされているし、また鴎外の傑作「山椒大夫」の事は、小説の好きな人なら誰でも知っている。けれども、あの哀話の美しい姉弟が津軽の生れで、そうして死後岩木山に祭られているという事は、あまり知られていないようであるが、実は、私はこれも何だか、あやしい話だと思っているのである。義経が津軽に来たとか、三里の大魚が泳いでいるとか、石の色が溶けて川の水も魚の鱗も赤いとかということを、平気で書いている南谿氏の事だから、これも或いはれいの「強いて其事の虚実を正さず」式の無責任な記事かも知れない。もっとも、この安寿厨子王津軽人説は、和漢三才図会の岩城山権現《いわきさんごんげん》の条にも出ている。三才図会は漢文で少し読みにくいが、「相伝う、昔、当国(津軽)の領主、岩城判官正氏という者あり。永保元年の冬、在京中、讒者の為に西海に謫せらる。本国に二子あり。姉を安寿と名づく。弟を津志王丸と名づく。母と共にさまよい、出羽を過ぎ、越後に到り直江の浦云々。」などと自信ありげに書き出しているが、おしまいのほうに到って、「岩城と津軽の岩城山とは南北百余里を隔て之を祭るはいぶかし。」とおのずから語るに落ちるような工合になってしまっている。鴎外の「山椒大夫」には、「岩代の信夫郡の住家を出て」と書いている。つまりこれは、岩城という字を、「いわき」と読んだり「いわしろ」と読んだりして、ごちゃまぜになって、とうとう津軽の岩木山がその伝説を引受ける事になったのではないかと思われる。しかし、昔の津軽の人たちは、安寿厨子王が津軽の子供である事を堅く信じ、にっくき山椒大夫を呪うあまりに、丹後の人が入込めば津軽の天候が悪化するとまで思いつめていたとは、私たち安寿厨子王の同情者にとっては、痛快でない事もないのである。
外ヶ浜の昔噺は、これ位にしてやめて、さて、私たちのバスはお昼頃、Mさんのいる今別に着いた。今別は前にも言ったように、明るく、近代的とさえ言いたいくらいの港町である。人口も、四千に近いようである。N君に案内されて、Mさんのお家を訪れたが、奥さんが出て来られて、留守です、とおっしゃる。ちょっとお元気が無いように見受けられた。よその家庭のこのような様子を見ると、私はすぐに、ああ、これは、僕の事で喧嘩をしたんじゃないかな? と思ってしまう癖がある。当っている事もあるし、当っていない事もある。作家や新聞記者等の出現は、善良の家庭に、とかく不安の感を起させ易いものである。その事は、作家にとっても、かなりの苦痛になっている筈である。この苦痛を体験した事のない作家は、馬鹿である。
「どちらへ、いらっしゃったのですか?」とN君はのんびりしている。リュックサックをおろして、「とにかく、ちょっと休ませていただきます。」玄関の式台に腰をおろした。
「呼んでまいります。」
「はあ、すみませんですな。」N君は泰然たるものである。「病院のほうですか?」
「え、そうかと思います。」美しく内気そうな奥さんは、小さい声で言って下駄をつっかけ外へ出て行った。Mさんは、今別の或る病院に勤めているのである。
私もN君と並んで式台に腰をおろし、Mさんを待った。
「よく、打合せて置いたのかね。」
「うん、まあね。」N君は、落ちついて煙草をふかしている。
「あいにく昼飯時で、いけなかったね。」私は何かと気をもんでいた。
「いや、僕たちもお弁当を持って来たんだから。」と言って澄ましている。西郷隆盛もかくやと思われるくらいであった。
Mさんが来た。はにかんで笑いながら、
「さ、どうぞ。」と言う。
「いや、そうしても居られないんです。」とN君は腰をあげて、「船が出るようだったら、すぐに船で竜飛まで行きたいと思っているのです。」
「そう。」Mさんは軽く首肯き、「じゃあ、出るかどうか、ちょっと聞いて来ます。」
Mさんがわざわざ波止場まで聞きに行ってくれたのだが、船はやはり欠航という事であった。
「仕方が無い。」たのもしい私の案内者は別に落胆した様子も見せず、「それじゃ、ここでちょっと休ませてもらって弁当を食べるか。」
「うん、ここで腰かけたままでいい。」私はいやらしく遠慮した。
「あがりませんか。」Mさんは気弱そうに言う。
「あがらしてもらおうじゃないか。」N君は平気でゲートルを解きはじめた。「ゆっくり、次の旅程を考えましょう。」
私たちはMさんの書斎に通された。小さい囲炉裏があって、炭火がパチパチ言っておこっていた。書棚には本がぎっしりつまっていて、ヴァレリイ全集や鏡花全集も揃えられてあった。「礼儀文華のいまだ開けざるはもっともの事なり。」と自信ありげに断案を下した南谿氏も、ここに到って或いは失神するかも知れない。
「お酒は、あります。」上品なMさんは、かえってご自分のほうで顔を赤くしてそう言った。「飲みましょう。」
「いやいや、ここで飲んでは、」と言いかけて、N君は、うふふと笑ってごまかした。
「それは大丈夫。」とMさんは敏感に察して、「竜飛へお持ちになる酒は、また別に取って置いてありますから。」
「ほほ、」とN君は、はしゃいで、「いや、しかし、いまから飲んでは、きょうのうちに竜飛に到着する事が出来なくなるかも、」などと言っているうちに、奥さんが黙ってお銚子を持って来た。この奥さんは、もとから無口な人なのであって、別に僕たちに対して怒っているのでは無いかも知れない、と私は自分に都合のいいように考え直し、
「それじゃ酔わない程度に、少し飲もうか。」とN君に向って提案した。
「飲んだら酔うよ。」N君は先輩顔で言って、「きょうは、これあ、三厩泊りかな?」
「それがいいでしょう。きょうは今別でゆっくり遊んで、三厩までだったら歩いて、まあ、ぶらぶら歩いて一時間かな? どんなに酔ってたって楽に行けます。」とMさんもすすめる。きょうは三厩一泊ときめて、私たちは飲んだ。
私には、この部屋へはいった時から、こだわっていたものが一つあった。それは私が蟹田でつい悪口を言ってしまったあの五十年配の作家の随筆集が、Mさんの机の上にきちんと置かれている事であった。愛読者というものは偉いもので、私があの日、蟹田の観瀾山であれほど口汚くこの作家を罵倒しても、この作家に対するMさんの信頼はいささかも動揺しなかったものと見える。
「ちょっと、その本を貸して。」どうも気になって落ちつかないので、とうとう私は、Mさんからその本を借りて、いい加減にぱっと開いて、その箇所を鵜の目鷹の目で読みはじめた。何かアラを拾って凱歌を挙げたかったのであるが、私の読んだ箇所は、その作家も特別に緊張して書いたところらしく、さすがに打ち込むすきが無いのである。私は、黙って読んだ。一ページ読み、二ページ読み、三ページ読み、とうとう五ページ読んで、それから、本を投げ出した。
「いま読んだところは、少しよかった。しかし、他の作品には悪いところもある。」と私は負け惜しみを言った。
Mさんは、うれしそうにしていた。
「装釘が豪華だからなあ。」と私は小さい声で、さらに負け惜しみを言った。「こんな上等の紙に、こんな大きな活字で印刷されたら、たいていの文章は、立派に見えるよ。」
Mさんは相手にせず、ただ黙って笑っている。勝利者の微笑である。けれども私は本心は、そんなに口惜しくもなかったのである。いい文章を読んで、ほっとしていたのである。アラを拾って凱歌などを奏するよりは、どんなに、いい気持のものかわからない。ウソじゃない。私は、いい文章を読みたい。
今別には本覚寺という有名なお寺がある。貞伝和尚という偉い坊主が、ここの住職だったので知られているのである。貞伝和尚の事は、竹内運平氏著の青森県通史にも記載せられてある。すなわち、「貞伝和尚は、今別の新山甚左衛門の子で、早く弘前誓願寺に弟子入して、のち磐城平、専称寺に修業する事十五年、二十九歳の時より津軽今別、本覚寺の住職となって、享保十六年四十二歳に到る間、其教化する処、津軽地方のみならず近隣の国々にも及び、享保十二年、金銅塔婆建立の供養の時の如きは、領内は勿論、南部、秋田、松前地方の善男善女の雲集参詣を見た。」というような事が記されてある。そのお寺を、これから一つ見に行こうじゃないか、と外ヶ浜の案内者N町会議員は言い出した。
「文学談もいいが、どうも、君の文学談は一般向きでないね。ヘンテコなところがある。だから、いつまで経っても有名にならん。貞伝和尚なんかはね、」とN君は、かなり酔っていた。「貞伝和尚なんかはね、仏の教えを説くのは後まわしにして、まず民衆の生活の福利増進を図ってやった。そうでもなくちゃ、民衆なんか、仏の教えも何も聞きゃしないんだ。貞伝和尚は、或いは産業を興し、或いは、」と言いかけて、ひとりで噴き出し、「まあ、とにかく行って見よう。今別へ来て本覚寺を見なくちゃ恥です。貞伝和尚は、外ヶ浜の誇りなんだ。そう言いながら、実は、僕もまだ見ていないんだ。いい機会だから、きょうは見に行きたい。みんなで一緒に見に行こうじゃないか。」
私は、ここで飲みながらMさんと、所謂ヘンテコなところのある文学談をしていたかった。Mさんも、そうらしかった。けれども、N君の貞伝和尚に対する情熱はなかなかのもので、とうとう私たちの重い尻を上げさせてしまった。
「それじゃ、その本覚寺に立寄って、それからまっすぐに三厩まで歩いて行ってしまおう。」私は玄関の式台に腰かけてゲートルを巻き附けながら、「どうです、あなたも。」と、Mさんを誘った。
「はあ、三厩までお供させていただきます。」
「そいつあ有難い。この勢いじゃ、町会議員は今夜あたり、三厩の宿で蟹田町政に就いて長講一席やらかすんじゃないかと思って、実は、憂鬱だったんです。あなたが附合ってくれると、心強い。奥さん、御主人を今夜、お借りします。」
「はあ。」とだけ言って、微笑する。少しは慣れた様子であった。いや、あきらめたのかも知れない。
私たちはお酒をそれぞれの水筒につめてもらって、大陽気で出発した。そうして途中も、N君は、テイデン和尚、テイデン和尚、と言い、頗るうるさかったのである。お寺の屋根が見えて来た頃、私たちは、魚売の小母さんに出逢った。曳いているリヤカーには、さまざまのさかなが一ぱい積まれている。私は二尺くらいの鯛を見つけて、
「その鯛は、いくらです。」まるっきり見当が、つかなかった。
「一円七十銭です。」安いものだと思った。
私は、つい、買ってしまった。けれども、買ってしまってから、仕末に窮した。これからお寺へ行くのである。二尺の鯛をさげてお寺へ行くのは奇怪の図である。私は途方にくれた。
「つまらんものを買ったねえ。」とN君は、口をゆがめて私を軽蔑した。「そんなものを買ってどうするの?」
「いや、三厩の宿へ行って、これを一枚のままで塩焼きにしてもらって、大きいお皿に載せて三人でつつこうと思ってね。」
「どうも、君は、ヘンテコな事を考える。それでは、まるでお祝言か何かみたいだ。」
「でも、一円七十銭で、ちょっと豪華な気分にひたる事も出来るんだから、有難いじゃないか。」
「有難かないよ。一円七十銭なんて、この辺では高い。実に君は下手な買い物をした。」
「そうかねえ。」私は、しょげた。
とうとう私は二尺の鯛をぶらさげたまま、お寺の境内にはいってしまった。
「どうしましょう。」と私は小声でMさんに相談した。「弱りました。」
「そうですね。」Mさんは真面目な顔して考えて、「お寺へ行って新聞紙か何かもらって来ましょう。ちょっと、ここで待っていて下さい。」
Mさんはお寺の庫裏のほうに行き、やがて新聞紙と紐を持って来て、問題の鯛を包んで私のリュックサックにいれてくれた。私は、ほっとして、お寺の山門を見上げたりなどしたが、別段すぐれた建築とも見えなかった。
「たいしたお寺でもないじゃないか。」と私は小声でN君に言った。
「いやいや、いやいや。外観よりも内容がいいんだ。とにかく、お寺へはいって坊さんの説明でも聞きましょう。」
私は気が重かった。しぶしぶN君の後について行ったが、それから、実にひどいめに逢った。お寺の坊さんはお留守のようで、五十年配のおかみさんらしいひとが出て来て、私たちを本堂に案内してくれて、それから、長い長い説明がはじまった。私たちは、きちんと膝を折って、かしこまって拝聴していなければならぬのである。説明がちょっと一区切っいて、やれうれしやと立上ろうとすると、N君は膝をすすめて、
「しからば、さらにもう一つお尋ねいたしますが、」と言うのである。「いったい、このお寺はテイデン和尚が、いつごろお作りになったものなのでしょうか。」
「何をおっしゃっているのです。貞伝上人様はこのお寺を御草創なさったのではございませんよ。貞伝上人様は、このお寺の中興開山、五代目の上人様でございまして、——」と、またもや長い説明が続く。
「そうでしたかな。」とN君は、きょとんとして、「しからば、さらにお尋ねいたしますが、このテイザン和尚は、」テイザン和尚と言った。まったく滅茶苦茶である。
N君は、ひとり熱狂して膝をすすめ膝をすすめ、ついにはその老婦人の膝との間隔が紙一重くらいのところまで進出して、一問一答をつづけるのである。そろそろ、あたりが暗くなって来て、これから三厩まで行けるかどうか、心細くなって来た。
「あそこにありまする大きな見事な額《がく》は、その大野九郎兵衛様のお書きになった額でございます。」
「さようでございますか。」とN君は感服し、「大野九郎兵衛様と申しますと、——」
「ご存じでございましょう。忠臣義士のひとりでございます。」忠臣義士と言ったようである。「あのお方は、この土地でおなくなりになりまして、おなくなりになったのは、四十二歳、たいへん御信仰の厚いお方でございましたそうで、このお寺にもたびたび莫大の御寄進をなされ、——」
Mさんはこの時とうとう立ち上り、おかみさんの前に行って、内ポケットから白紙に包んだものを差出し、黙って丁寧にお辞儀をしてそれからN君に向って、
「そろそろ、おいとまを。」と小さい声で言った。
「はあ、いや、帰りましょう。」とN君は鷹揚に言い、「結構なお話を承りました。」とおかみさんにおあいそを言って、ようやく立ち上ったのであるが、あとで聞いてみると、おかみさんの話を一つも記憶していないという。私たちは呆れて、
「あんなに情熱的にいろんな質問を発していたじゃないか。」と言うと、
「いや、すべて、うわのそらだった。何せ、ひどく酔ってたんだ。僕は君たちがいろいろ知りたいだろうと思って、がまんして、あのおかみの話相手になってやっていたんだ。僕は犠牲者だ。」つまらない犠牲心を発揮したものである。
三厩の宿に着いた時には、もう日が暮れかけていた。表二階の小綺麗な部屋に案内された。外ヶ浜の宿屋は、みな、町に不似合なくらい上等である。部屋から、すぐ海が見える。小雨が降りはじめて、海は白く凪いでいる。
「わるくないね。鯛もあるし、海の雨を眺めながら、ゆっくり飲もう。」私はリュックサックから鯛の包みを出して、女中さんに渡し、「これは鯛ですけどね、これをこのまま塩焼きにして持って来て下さい。」
この女中さんは、あまり悧巧でないような顔をしていて、ただ、はあ、とだけ言って、ぼんやりその包を受取って部屋から出て行った。
「わかりましたか。」N君も、私と同様すこし女中さんに不安を感じたのであろう。呼びとめて念を押した。「そのまま塩焼きにするんですよ。三人だからと言って、三つに切らなくてもいいのですよ。ことさらに、三等分の必要はないんですよ。わかりましたか。」N君の説明も、あまり上手とは言えなかった。女中さんは、やっぱり、はあ、と頼りないような返辞をしただけであった。
やがてお膳が出た。鯛はいま塩焼にしています、お酒はきょうは無いそうです、とにこりともせずに、れいの、悧巧そうでない女中さんが言う。
「仕方が無い。持参の酒を飲もう。」
「そういう事になるね。」とN君は気早く、水筒を引寄せ、「すみませんがお銚子を二本と盃を三つばかり。」
ことさらに三つとは限らないか、などと冗談を言っているうちに、鯛が出た。ことさらに三つに切らなくてもいいというN君の注意が、実に馬鹿々々しい結果になっていたのである。頭も尾も骨もなく、ただ鯛の切身の塩焼きが五片ばかり、何の風情も無く白茶けて皿に載っているのである。私は決して、たべものにこだわっているのではない。食いたくて、二尺の鯛を買ったのではない。読者は、わかってくれるだろうと思う。私はそれを一尾の原形のままで焼いてもらって、そうしてそれを大皿に載せて眺めたかったのである。食う食わないは主要な問題でないのだ。私は、それを眺めながらお酒を飲み、ゆたかな気分になりたかったのである。ことさらに三つに切らなくてもいい、というN君の言い方もへんだったが、そんなら五つに切りましょうと考えるこの宿の者の無神経が、癪にさわるやら、うらめしいやら、私は全く地団駄を踏む思いであった。
「つまらねえ事をしてくれた。」お皿に愚かしく積まれてある五切れのやきざかな(それはもう鯛では無い、単なる、やきざかなだ)を眺めて、私は、泣きたく思った。せめて、刺身にでもしてもらったのなら、まだ、あきらめもつくと思った。頭や骨はどうしたろう。大きい見事な頭だったのに、捨てちゃったのかしら。さかなの豊富な地方の宿は、かえって、さかなに鈍感になって、料理法も何も知りゃしない。
「怒るなよ、おいしいぜ。」人格円満のN君は、平気でそのやきざかなに箸をつけて、そう言った。
「そうかね。それじゃ、君がひとりで全部たべたらいい。食えよ。僕は、食わん。こんなもの、馬鹿々々しくって食えるか。だいたい、君が悪いんだ。ことさらに三等分の必要は無い、なんて、そんな蟹田町会の予算総会で使うような気取った言葉で註釈を加えるから、あの間抜けの女中が、まごついてしまったんだ。君が悪いんだ。僕は、君を、うらむよ。」
N君はのんきに、うふふと笑い、
「しかし、また、愉快じゃないか。三つに切ったりなどしないように、と言ったら、五つに切った。しゃれている。しゃれているよ、ここの人は。さあ、乾盃。乾盃、乾盃。」
私は、わけのわからぬ乾盃を強いられ、鯛の鬱憤のせいか、ひどく酩酊して、あやうく乱に及びそうになったので、ひとりでさっさと寝てしまった。いま思い出しても、あの鯛は、くやしい。だいたい、無神経だ。
翌る朝、起きたら、まだ雨が降っていた。下へ降りて、宿の者に聞いたら、きょうも船は欠航らしいという事であった。竜飛まで海岸伝いに歩いて行くより他は無い。雨のはれ次第、思い切って、すぐ出発しようという事になり、私たちは、また蒲団にもぐり込んで雑談しながら雨のはれるのを待った。
「姉と妹とがあってね、」私は、ふいとそんなお伽噺をはじめた。姉と妹が、母親から同じ分量の松毬《まつかさ》を与えられ、これでもって、ごはんとおみおつけを作って見よと言いつけられ、ケチで用心深い妹は、松毬を大事にして一個ずつ竈《かまど》にほうり込んで燃やし、おみおつけどころか、ごはんさえ満足に煮ることが出来なかった。姉はおっとりして、こだわらぬ性格だったので、与えられた松毬をいちどにどっと惜しげも無く竈にくべたところが、その火で楽にごはんが出来、そうして、あとに燠《おき》が残ったので、その燠でおみおつけも出来た。「そんな話、知ってる? ね、飲もうよ。竜飛へ持って行くんだって、ゆうべ、もう一つの水筒のお酒、残して置いたろう? あれ、飲もうよ。ケチケチしてたって仕様が無いよ。こだわらずに、いちどにどっとやろうじゃないか。そうすると、あとに燠が残るかも知れない。いや、残らなくてもいい。竜飛へ行ったら、また、何とかなるさ。何も竜飛でお酒を飲まなくたって、いいじゃないか。死ぬわけじゃあるまいし。お酒を飲まずに寝て、静かに、来しかた行く末を考えるのも、わるくないものだよ。」
「わかった、わかった。」N君は、がばと起きて、「万事、姉娘式で行こう。いちどにどっと、やってしまおう。」
私たちは起きて囲炉裏をかこみ、鉄瓶にお燗をして、雨のはれるのを待ちながら、残りのお酒を全部、飲んでしまった。
お昼頃、雨がはれた。私たちは、おそい朝飯をたべ、出発の身仕度をした。うすら寒い曇天である。宿の前で、Mさんとわかれ、N君と私は北に向って発足した。
「登って見ようか。」N君は、義経寺《ぎけいじ》の石の鳥居の前で立ちどまった。松前の何某という鳥居の寄進者の名が、その鳥居の柱に刻み込まれていた。
「うん。」私たちはその石の鳥居をくぐって、石の段々を登った。頂上まで、かなりあった。石段の両側の樹々の梢から雨のしずくが落ちて来る。
「これか。」
石段を登り切った小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立っている。堂の扉には、笹竜胆《ささりんどう》の源家の紋が附いている。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持で、
「これか。」と、また言った。
「これだ。」N君は間抜けた声で答えた。
むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給いしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたえかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かわり恙なく松前の地に渡り給いぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音という。
れいの「東遊記」で紹介せられているのは、この寺である。
私たちは無言で石段を降りた。
「ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだろう? 弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいう話だ。」N君はそう言って、力無く笑った。私は信じたいと思ったが、駄目であった。鳥居を出たところに岩がある。東遊記にまた曰く、
「波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給いし所となり。是によりて此地を三馬屋《みまや》と称するなりとぞ。」
私たちはその巨石の前を、ことさらに急いで通り過ぎた。故郷のこのような伝説は、奇妙に恥ずかしいものである。
「これは、きっと、鎌倉時代によそから流れて来た不良青年の二人組が、何を隠そうそれがしは九郎判官、してまたこれなる髯男は武蔵坊弁慶、一夜の宿をたのむぞ、なんて言って、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違いない。どうも、津軽には、義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけじゃなく、江戸時代になっても、そんな義経と弁慶が、うろついていたのかも知れない。」
「しかし、弁慶の役は、つまらなかったろうね。」N君は私よりも更に鬚が濃いので、或いは弁慶の役を押しつけられるのではなかろうかという不安を感じたらしかった。「七つ道具という重いものを背負って歩かなくちゃいけないのだから、やくかいだ。」
話しているうちに、そんな二人の不良青年の放浪生活が、ひどく楽しかったもののように空想せられ、うらやましくさえなって来た。
「この辺には、美人が多いね。」と私は小声で言った。通り過ぎる部落の、家の蔭からちらと姿を見せてふっと消える娘さんたちは、みな色が白く、みなりも小ざっぱりして、気品があった。手足が荒れていない感じなのである。
「そうかね。そう言えば、そうだね。」N君ほど、女にあっさりしている人も少い。ただ、もっぱら、酒である。
「まさか、いま、義経だと言って名乗ったって、信じないだろうしね。」私は馬鹿な事を空想してみた。
はじめは、そんなたわいない事を言い合って、ぶらぶら歩いていたのだが、だんだん二人の歩調が早くなって来た。まるで二人で足早《あしばや》を競っているみたいな形になって、そうして、めっきり無口になった。三厩の酒の酔いが醒めて来たのである。ひどく寒い。いそがざるを得ないのである。私たちは、共に厳粛な顔になって、せっせと歩いた。浜風が次第に勁くなって来た。私は帽子を幾度も吹き飛ばされそうになって、その度毎に、帽子の鍔をぐっと下にひっぱり、とうとうスフの帽子の鍔の附根が、びりりと破れてしまった。雨が時々、ぱらぱら降る。真黒い雲が低く空を覆っている。波のうねりも大きくなって来て、海岸伝いの細い路を歩いている私たちの頬にしぶきがかかる。
「これでも、道がずいぶんよくなったのだよ。六、七年前は、こうではなかった。波のひくのを待って素早く通り抜けなければならぬところが幾箇処もあったのだからね。」
「でも、いまでも、夜は駄目だね。とても、歩けまい。」
「そう、夜は駄目だ。義経でも弁慶でも駄目だ。」
私たちは真面目な顔をしてそんな事を言い、尚もせっせと歩いた。
「疲れないか。」N君は振返って言った。「案外、健脚だね。」
「うん、未だ老いずだ。」
二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなって来た。凄愴とでもいう感じである。それは、もはや、風景でなかった。風景というものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂わば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼われてなついてしまって、高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やっぱり檻の中の猛獣のような、人くさい匂いが幽かに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なってやしない。点景人物の存在もゆるさない。強いて、点景人物を置こうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。むらさきのジャンパーを着たにやけ男などは、一も二も無くはねかえされてしまう。絵にも歌にもなりゃしない。ただ岩石と、水である。ゴンチャロフであったか、大洋を航海して時化《しけ》に遭った時、老練の船長が、「まあちょっと甲板に出てごらんなさい。この大きい波を何と形容したらいいのでしょう。あなたがた文学者は、きっとこの波に対して、素晴らしい形容詞を与えて下さるに違いない。」ゴンチャロフは、波を見つめてやがて、溜息をつき、ただ一言、「おそろしい。」
大洋の激浪や、砂漠の暴風に対しては、どんな文学的な形容詞も思い浮ばないのと同様に、この本州の路のきはまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私はそれらから眼をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩いた。もう三十分くらいで竜飛に着くという頃に、私は幽かに笑い、
「こりゃどうも、やっぱりお酒を残して置いたほうがよかったね。竜飛の宿に、お酒があるとは思えないし、どうもこう寒くてはね。」と思ばず愚痴をこぼした。
「いや、僕もいまその事を考えていたんだ。も少し行くと、僕の昔の知合いの家があるんだが、ひょっとするとそこに配給のお酒があるかも知れない。そこは、お酒を飲まない家なんだ。」
「当ってみてくれ。」
「うん、やっぱり酒が無くちゃいけない。」
竜飛の一つ手前の部落に、その知合いの家があった。N君は帽子を脱いでその家へはいり、しばらくして、笑いを噛み殺しているような顔をして出て来て、
「悪運つよし。水筒に一ぱいつめてもらって来た。五合以上はある。」
「燠《おき》が残っていたわけだ。行こう。」
もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るようにして竜飛に向って突進した。路がいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかった。
「竜飛だ。」とN君が、変った調子で言った。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。
「誰だって驚くよ。僕もね、はじめてここへ来た時、や、これはよその台所へはいってしまった、と思ってひやりとしたからね。」とN君も言っていた。
けれども、ここは国防上、ずいぶん重要な土地である。私はこの部落に就いて、これ以上語る事は避けなければならぬ。露路をとおって私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て、私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた、おや、と眼をみはるほど小綺麗で、そうして普請も決して薄っぺらでない。まず、どてらに着換えて、私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り、やっと、どうやら、人心地を取かえした。
「ええと、お酒はありますか。」N君は、思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答えは、案外であった。
「へえ、ございます。」おもながの、上品な婆さんである。そう答えて、平然としている。N君は苦笑して、
「いや、おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ。」
「どうぞ、ナンボでも。」と言って微笑んでいる。
私たちは顔を見合せた。このお婆さんは、このごろお酒が貴重品になっているという事実を、知らないのではなかろうかとさえ疑われた。
「きょう配給がありましてな、近所に、飲まないところもかなりありますから、そんなのを集めて、」と言って、集めるような手つきをして、それから一升瓶をたくさんかかえるように腕をひろげて、「さっき内の者が、こんなに一ぱい持ってまいりました。」
「それくらいあれば、たくさんだ。」と私は、やっと安心して、「この鉄瓶でお燗をしますから、お銚子にお酒をいれて、四、五本、いや、めんどうくさい、六本、すぐに持って来て下さい。」お婆さんの気の変らぬうちに、たくさん取寄せて置いたほうがいいと思った。「お膳は、あとでもいいから。」
お婆さんは、言われたとおりに、お盆へ、お銚子を六本載せて持って来た。一、二本、飲んでいるうちにお膳も出た。
「どうぞ、まあ、ごゆっくり。」
「ありがとう。」
六本のお酒が、またたく間に無くなった。
「もう無くなった。」私は驚いた。「ばかに早いね。早すぎるよ。」
「そんなに飲んだかね。」とN君も、いぶかしそうな顔をして、からのお銚子を一本ずつ振って見て、「無い。何せ寒かったもので、無我夢中で飲んだらしいね。」
「どのお銚子にも、こぼれるくらい一ぱいお酒がはいっていたんだぜ。こんなに早く飲んでしまって、もう六本なんて言ったら、お婆さんは僕たちを化物じゃないかと思って警戒するかも知れない。つまらぬ恐怖心を起させて、もうお酒はかんべんして下さいなどと言われてもいけないから、ここは、持参の酒をお燗して飲んで、少し間《ま》をもたせて、それから、もう六本ばかりと言ったほうがよい。今夜は、この本州の北端の宿で、一つ飲み明かそうじゃないか。」と、へんな策略を案出したのが失敗の基であった。
私たちは、水筒のお酒をお銚子に移して、こんどは出来るだけゆっくり飲んだ。そのうちにN君は、急に酔って来た。
「こりゃいかん。今夜は僕は酔うかも知れない。」酔うかも知れないじゃない。既にひどく酔ってしまった様子である。「こりゃ、いかん。今夜は、僕は酔うぞ。いいか。酔ってもいいか。」
「かまわないとも。僕も今夜は酔うつもりだ。ま、ゆっくりやろう。」
「歌を一つやらかそうか。僕の歌は、君、聞いた事が無いだろう。めったにやらないんだ。でも、今夜は一つ歌いたい。ね、君、歌ってもいいだろう。」
「仕方がない。拝聴しよう。」私は覚悟をきめた。
いくう、山河あ、と、れいの牧水の旅の歌を、N君は眼をつぶって低く吟じはじめた。想像していたほどは、ひどくない。黙って聞いていると、身にしみるものがあった。
「どう? へんかね。」
「いや、ちょっと、ほろりとした。」
「それじゃ、もう一つ。」
こんどは、ひどかった。彼も本州の北端の宿へ来て、気宇が広大になったのか、仰天するほどのおそろしい蛮声を張り上げた。
とうかいのう、小島のう、磯のう、と、啄木の歌をはじめたのだが、その声の荒々しく大きい事、外の風の音も、彼の声のために打消されてしまったほどであった。
「ひどいなあ。」と言ったら、
「ひどいか。それじゃ、やり直し。」大きく深呼吸を一つして、さらに蛮声を張り上げるのである。東海の磯の小島、と間違って歌ったり、また、どういうわけか突如として、今もまた昔を書けば増鏡、なんて増鏡の歌が出たり、呻くが如く、喚くが如く、おらぶが如く、実にまずい事になってしまった。私は、奥のお婆さんに聞えなければいいが、とはらはらしていたのだが、果せる哉、襖がすっとあいて、お婆さんが出て来て、
「さ、歌コも出たようだし、そろそろ、お休みになりせえ。」と言って、お膳をさげ、さっさと蒲団をひいてしまった。さすがに、N君の気宇広大の蛮声には、度胆を抜かれたものらしい。私はまだまだ、これから、大いに飲もうと思っていたのに、実に、馬鹿らしい事になってしまった。
「まずかった。歌は、まずかった。一つか二つでよせばよかったのだ。あれじゃあ、誰だっておどろくよ。」と私は、ぶつぶつ不平を言いながら、泣寝入りの形であった。
翌る朝、私は寝床の中で、童女のいい歌声を聞いた。翌る日は風もおさまり、部屋には朝日がさし込んでいて、童女が表の路で手毬歌を歌っているのである。私は、頭をもたげて、耳をすました。
[#ここから2字下げ]
せッせッせ
夏もちかづく
八十八夜
野にも山にも
新緑の
風に藤波
さわぐ時
[#ここで字下げ終わり]
私は、たまらない気持になった。いまでも中央の人たちに蝦夷の土地と思い込まれて軽蔑されている本州の北端で、このような美しい発音の爽やかな歌を聞こうとは思わなかった。かの佐藤理学士の言説の如く、「人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まず文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる擡頭力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り、かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居住地に教化の御光を与え、而して、いまや見よ云々。」というような、希望に満ちた曙光に似たものを、その可憐な童女の歌声に感じて、私はたまらない気持であった。
(つづく)
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2023-07-01T21:29:47+09:00
1688214587
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太宰治「津軽」四五(新仮名)
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(から、つづき)
[#5字下げ][#中見出し]四 津軽平野[#中見出し終わり]
「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越《コシ》の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田《アキタ》(今の秋田)渟代《ヌシロ》(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連|石布《イワシキ》、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳《ユキノムラジハカトコ》、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのずから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の将軍藤原保則、乱を平げて津軽より渡島《ワタリジマ》に至り、雑種の夷人前代未だ嘗て帰附せざるもの、悉く内属すとあり。渡島は今の北海道なり。津軽の陸奥に属せしは、源頼朝奥羽を定め、陸奥の守護の下に附せし以来の事なるべし。
「青森県沿革」本県の地は、明治の初年に到るまで岩手・宮城・福島諸県の地と共に一個国を成し、陸奥といい、明治の初年には此地に弘前・黒石・八戸・七戸《シチノヘ》および斗南《トナミ》の五藩ありしが、明治四年七月列藩を廃して悉く県となし、同年九月府県廃合の事あり。一時みな弘前県に合併せしが、同年十一月弘前県を廃し、青森県を置き、前記の各藩を以て其管下とせしも、後|二戸《ニノヘ》郡を岩手県に附し、以て今日に到れり。
「津軽氏」藤原氏より出でたる氏。鎮守府将軍秀郷より八世秀栄、康和の頃陸奥津軽郡の地を領し、後に津軽十三の湊に城きて居り、津軽を氏とす。明応年中、近衛尚通の子政信、家を継ぐ。政信の孫為信に到りて大に著わる。其子孫わかれて弘前・黒石の旧藩主たりし諸家等となる。
「津軽為信」戦国時代の武将。父は大浦甚三郎守信、母は堀越城主武田重信の女なり。天文十九年正月生る。幼名扇。永禄十年三月、十八歳の時、伯父津軽為則の養子となり、近衛前久の猶子となれり。妻は為則の女なり。元亀二年五月、南部高信と戦いこれを斬り、天正六年七月二十七日、波岡城主北畠顕村を伐ち其領を併せ、尋で近傍の諸邑を略し、十三年には凡そ津軽を一統し、十五年豊臣秀吉に謁せんとして発途せしも、秋田城介安倍実季、道を遮り果さずして還る。十七年、鷹、馬等を秀吉に贈り好を通ず。されば十八年の小田原征伐にも早く秀吉の軍に応じたりしを以て、津軽及合浦・外ヶ浜一円を安堵せり。十九年の九戸乱にも兵を出し、文禄二年四月上洛して秀吉に謁し、又近衛家に謁え、牡丹花の徽章を用うるを許さる。尋で使を肥前名護屋に遣わし、秀吉の陣を犒い、三年正月には従四位下右京大夫となり、慶長五年関ヶ原の役には、兵を出して徳川家康の軍に従い、西上して大垣に戦い、上野国大館二千石を加増す。十二年十二月五日、京都にて卒す。年五十八。
「津軽平野」陸奥国、南・中・北、三津軽郡に亘る平野。岩木川の河谷なり。東は十和田湖の西より北走する津軽半島の脊梁をなす山脈を限とし、南は羽後境の矢立峠・立石越等により分水線を劃し、西は岩木山塊と海岸一帯の砂丘(屏風山と称す)に擁蔽せらる。岩木川は其本流西方よりし、南より来る平《ヒラ》川及び東より来る浅瀬石《アサセイシ》川と弘前市の北にて会合し、正北に流れ、十三潟に注ぎて後、海に入る。平野の広袤、南北約十五里、東西の幅約五里、北するに随って幅は縮小し、木造・五所川原の線にて三里、十三潟の岸に到れば僅かに一里なり。此間土地低平、支流溝渠網の如く通じ、青森県産米は、大部分此平野より出ず。
[#地から2字上げ](以上、日本百科大辞典に拠る)
津軽の歴史は、あまり人に知られていない。陸奥も青森県も津軽と同じものだと思っている人さえあるようである。無理もない事で、私たちの学校で習った日本歴史の教科書には、津軽という名詞が、たった一箇所に、ちらと出ているだけであった。すなわち、阿倍比羅夫の蝦夷討伐のところに、「幸徳天皇が崩ぜられて、斉明天皇がお立ちになるや、中大兄皇子は、引続き皇太子として政をお輔けになり、阿倍比羅夫をして、今の秋田・津軽の地方を平げしめられた。」というような文章があって、津軽の名前も出て来るが、本当にもう、それっきり、小学校の教科書にも、また中学校の教科書にも、高等学校の講義にも、その比羅夫のところの他には津軽なんて名前は出て来ない。皇紀五百七十三年の四道将軍の派遣も、北方は今の福島県あたり迄だったようだし、それから約二百年後の日本武尊の蝦夷御平定も北は日高見国までのようで、日高見国というのは今の宮城県の北部あたりらしく、それから約五百五十年くらい経って大化改新があり、阿倍比羅夫の蝦夷征伐に依って、はじめて津軽の名前が浮び上り、また、それつ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築いて蝦夷を鎮められたと伝えられているだけで津軽の名前はも早や出て来ない。平安時代になって、坂上田村麻呂が遠く北へ進んで蝦夷の根拠地をうち破り、胆沢城《いざわじょう》(今の岩手県水沢町附近)を築いて鎮所となしたとあるが、津軽まではやって来なかったようである。その後、弘仁年間には文室綿麻呂の遠征があり、また元慶二年には出羽蝦夷の叛乱があり藤原保則その平定に赴き、その叛乱には津軽蝦夷も荷担していたとかいう事であるが、専門家でもない私たちは、蝦夷征伐といえば田村麻呂、その次には約二百五十年ばかり飛んで源平時代初期の、前九年後三年の役を教えられているばかりである。この前九年後三年の役だって、舞台は今の岩手県・秋田県であって、安倍氏清原氏などの所謂|熟蝦夷《ニギエゾ》が活躍するばかりで、都加留《ツガル》などという奥地の純粋の蝦夷の動静に就いては、私たちの教科書には少しも記されていなかった。それから藤原氏三代百余年間の平泉の栄華があり、文治五年、源頼朝に依って奥州は平定せられ、もうその頃から、私たちの教科書はいよいよ東北地方から遠ざかり、明治維新にも奥州諸藩は、ただちょっと立って裾をはたいて坐り直したというだけの形で、薩長土の各藩に於けるが如き積極性は認められない。まあ、大過なく時勢に便乗した、と言われても、仕方の無いようなところがある。結局、もう、何も無い。私たちの教科書、神代の事は申すもかしこし、神武天皇以来現代まで、阿倍比羅夫ただ一個所に於いて「津軽」の名前を見つける事が出来るだけだというのは、まことに心細い。いったい、その間、津軽では何をしていたのか。ただ、裾をはたいて坐り直し、また裾をはたいて坐り直し、二千六百年間、一歩も外へ出ないで、眼をぱちくりさせていただけの事なのか。いやいやそうではないらしい。ご当人に言わせると、「こう見えても、これでなかなか忙がしくてねえ。」というようなところらしい。
「奥羽とは奥州、出羽の併称で、奥州とは陸奥《むつ》州の略称である。陸奥とは、もと白河、勿来の二関以北の総称であった。名義は『道の奥』で、略されて『みちのく』となった。その『みち』の国の名を、古い地方音によって『むつ』と発音し、『むつ』の国となった。この地方は東海東山両道の末をうけて、一番奥にある異民族住居の国であったから、漠然と道の奥と呼んだに他ならぬ。漢字『陸』は『道』の義である。
次に出羽は『いでは』で、出端《いではし》の義と解せられる。古は本州中部から東北の日本海方面地方を、漠然と越《こし》の国と呼んだ。これも奥の方は、陸奥《みちのく》と同じく、久しく異民族住居の化外の地で、これを出端《いではし》と言ったのであろう。即ち太平洋方面なる陸奥と共に、もと久しく王化の外に置かれた僻陬であったことを、その名に示している。」というのは、喜田博士の解説であるが、簡明である。解説は簡単で明瞭なるに越した事はない。出羽奥州すでに化外の僻陬と見なされていたのだから、その極北の津軽半島などに到っては熊や猿の住む土地くらいに考えられていたかも知れない。喜田博士は、さらに奥羽の沿革を説き、「頼朝の奥羽平定以後と雖も、その統治に当り自然他と同一なること能わず、『出羽陸奥に於いては夷の地たるによりて』との理由のもとに、一旦実施しかけた田制改革の処分をも中止して、すべて秀衡、泰衡の旧規に従うべきことを命ずるのやむを得ざる程であった。随って最北の津軽地方の如きは、住民まだ蝦夷の旧態を存するもの多く、直接鎌倉武士を以てしては、これを統治し難い事情があったと見えて、土豪|安東《あんどう》氏を代官に任じ、蝦夷管領としてこれを鎮撫せしめた。」というような事を記している。この安東氏の頃あたりから、まあ、少しは津軽の事情もわかって来る。その前は、何が何やら、アイヌがうろうろしていただけの事かも知れない。しかし、このアイヌは、ばかに出来ない。所謂日本の先住民族の一種であるが、いま北海道に残ってしょんぼりしているアイヌとは、根本的にたちが違っていたものらしい。その遺物遺跡を見るに、世界のあらゆる石器時代の土器に比して優位をしめている程であるとも言われ、今の北海道アイヌの祖先は、古くから北海道に住んで、本州の文化に触れること少く、土地隔絶、天恵少く、随って石器時代にも、奥羽地方の同族に見るが如き発達を遂げるに到らず、殊に近世は、松前藩以来、内地人の圧迫を被ること多く、甚しく去勢されて、堕落の極に達しているのに反し、奥羽のアイヌは、溌剌と独自の文化を誇り、或いは内地諸国に移住し、また内地人も奥羽へ盛んに入り込んで来て、次第に他の地方と区別の無い大和民族になってしまった。それに就いて理学博士小川琢治氏も、次のように論断しているようである。「続日本紀には奈良朝前後に粛慎人及び渤海人が、日本海を渡って来朝した記載がある。そのうち特に著しいのは聖武天皇の天平十八年(一四〇六年)及び光仁天皇の宝亀二年(一四三一年)の如く渤海人千余人、つぎに三百余人の多人数が、それぞれ今の秋田地方に来着した事実で、満洲地方と交通が頗る自由に行われたのは想像し難くない。秋田附近から五銖銭が出土したことがあり、東北には漢文帝武帝を祀った神社があったらしいのは、いずれも直接の交通が大陸とこの地方との間に行われたことを推測せしめる。今昔物語に、安倍頼時が満洲に渡って見聞したことを載せたのは、これらの考古学及び土俗学上の資料と併せ考えて、決して一場の説話として捨てるべきものでない。われわれは、更に一歩を進めて、当時の東北蕃族は皇化東漸以前に、大陸との直接の交通に依って得たる文華の程度が、不充分なる中央に残った史料から推定する如く、低級ではなかったことを同時に確信し得られるのである。田村麻呂、頼義、義家などの武将が、これを緩服するに頗る困難であったのも、敵手が単に無智なるがために精悍なる台湾生蕃の如き土族でなかったと考えて、はじめて氷解するのである。」
そうして、小川博士は、大和朝廷の大官たちが、しばしば蝦夷《えみし》、東人《あずまびと》、毛人《けびと》などと名乗ったのは、一つには、奥羽地方人の勇猛、またはその異国的なハイカラな情緒にあやかりたいという意味もあったのではなかろうかと考えてみるのも面白いではないか、というような事も言い添えている。こうして見ると、津軽人の祖先も、本州の北端で、決してただうろうろしていたわけでは無かったようでもあるが、けれども、中央の歴史には、どういうものか、さっぱり出て来ない。わずかに、前述の安東氏あたりから、津軽の様子が、ほのかに分明して来る。喜田博士の曰く、「安東氏は自ら安倍貞任の子|高星《たかぼし》の後と称し、その遠祖は長髄彦《ながすねひこ》の兄|安日《あび》なりと言っている。長髄彦、神武天皇に抗して誅せられ、兄安日は奥州外ヶ浜に流されて、その子孫安倍氏となったというのである。いずれにしても鎌倉時代以前よりの、北奥の大豪族であったに相違ない。津軽に於いて、口三郡は鎌倉役であり、奥三郡は御内裏様御領で、天下の御帳に載らざる無役の地だったと伝えられているのは、鎌倉幕府の威力もその奥地に及ばず、安東氏の自由に委して、謂わゆる守護不入の地となっていたことを語ったものであろう。
鎌倉時代の末、津軽に於いて安東氏一族の間に内訌あり、遂に蝦夷の騒乱となるに到って、幕府の執権北条高時、将を遣わしてこれを鎮撫せしめたが、鎌倉武士の威力を以てしてこれに勝つ能わず、結局和談の儀を以て引き上げたとある。」
さすがの喜田博士も津軽の歴史を述べるに当っては、少し自信のなさそうな口振りである。まったく、津軽の歴史は、はっきりしないらしい。ただ、この北端の国は、他国と戦い、負けた事が無いというのは本当のようだ。服従という観念に全く欠けていたらしい。他国の武将もこれには呆れて、見て見ぬ振りをして勝手に振舞わせていたらしい。昭和文壇に於ける誰かと似ている。それはともかく、他国が相手にせぬので、仲間同志で悪口を言い合い格闘をはじめる。安東氏一族の内訌に端を発した津軽蝦夷の騒擾などその一例である。津軽の人、竹内運平氏の青森県通史に拠れば、「この安東一族の騒乱は、引いて関八州の騒動となり、所謂北条九代記の『是ぞ天地の命の革むべき危機の初め』となってやがては元弘の変となり、建武の中興となった。」とあるが、或いはその御大業の遠因の一つに数えられてしかるべきものかも知れない。まことならば、津軽が、ほんの少しでも中央の政局を動かしたのは、実にこれ一つという事になって、この安東氏一族の内訌は、津軽の歴史に特筆大書すべき光栄ある記録とでも言わなければならなくなる。いまの青森県の太平洋寄りの地方は古くから糠部《ぬかのぶ》と称する蝦夷地であったが、鎌倉時代以後、ここに甲州武田氏の一族南部氏が移り住み、その勢い頗る強大となり、吉野、室町時代を経て、秀吉の全国統一に到るまで、津軽はこの南部と争い、津軽に於いては安東氏のかわりに津軽氏が立ち、どうやら津軽一国を安堵し、津軽氏は十二代つづいて、明治維新、藩主承昭は藩籍を謹んで奉還したというのが、まあ、津軽の歴史の大略である。この津軽氏の遠祖に就いては諸説がある。喜田博士もそれに触れて、「津軽に於いては、安東氏没落し、津軽氏独立して南部氏と境を接して長く相敵視するの間柄となった。津軽氏は近衛関白尚通の後裔と称している。しかし一方では南部氏の分れであるといい、或いは藤原基衡の次男|秀栄《ひでしげ》の後だとも、或いは安東氏の一族であるかの如くにも伝え、諸説紛々適従するところを知らぬ。」と言っている。また、竹内運平氏もその事に就いて次のように述べている。「南部家と津軽家とは江戸時代を通じ、著しく感情の疎隔を有しつつ終始した。右の原因は、南部氏が津軽家を以て祖先の敵であり旧領を押領せるものと見做す事、及び津軽家はもと南部の一族であり、被官の地位にあったのに其主に背いたと称し、また一方、津軽家にては、わが遠祖は藤原氏であり、中世に於いても近衛家の血統の加われるものである、と主張する事等から起って居るらしい。勿論、事実に於いて南部高信は津軽為信のために亡ぼされ、津軽郡中の南部方の諸城は奪取せられて居るのみならず、為信数代の祖大浦光信の母は、南部久慈備前守の女であり、以後数代南部信濃守と称して居る家柄であったから、南部氏の津軽家に対し一族の裏切者として深怨を含んで居る事も無理のない事と思う。なお、津軽家はその遠祖を藤原、近衛家などに求めているが、現在より見ては、必ずしも吾等を首肯せしむる根本証拠を伴うて居るものではない。南部氏に非ず、との弁護の立場を取って居る可足記の如きも、甚だ力弱い論旨を示して居る。古くは津軽に於いても高屋家記の如きは、大浦氏を以て南部家の支族とし、木立日記にも『南部様津軽様御家は御一体なり』と云い、近来出版になった読史備要等も為信を久慈氏(南部氏一族)として居る事に対し、それを否定すべき確実なる資料は、今のところ無いように思う。しかし津軽には過去にこそ南部の血統もあり、また被官ではあっても、血統の他の一面にはどんな由緒のものもないとは云えない。」と喜田博士同様、断乎たる結論は避けている。それを簡明直截に疑わず規定しているのは、日本百科大辞典だけであったから、一つの参考としてこの章のはじめに載せて置いた。
以上くだくだしく述べて来たが、考えてみると、津軽というのは、日本全国から見てまことに渺たる存在である。芭蕉の「奥の細道」には、その出発に当り、「前途三千里のおもい胸にふさがりて」と書いてあるが、それだって北は平泉、いまの岩手県の南端に過ぎない。青森県に到達するには、その二倍歩かなければならぬ。そうして、その青森県の日本海寄りの半島たった一つが津軽なのである。昔の津軽は、全流程二十二里八町の岩木川に沿うてひらけた津軽平野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下ってせいぜい深浦あたり迄、そうして南は、まあ弘前迄といっていいだろう。分家の黒石藩が南にあるが、この辺にはまた黒石藩としての独自の伝統もあり、津軽藩とちがった所謂文化的な気風も育成せられているようだから、これは除いて、そうして、北端は竜飛である。まことに心細いくらいに狭い。これでは、中央の歴史に相手にされなかったのも無理はないと思われて来る。私は、その「道の奥」の奥の極点の宿で一夜を明し、翌る日、やっぱりまだ船が出そうにも無いので、前日歩いて来た路をまた歩いて三厩まで来て、三厩で昼食をとり、それからバスでまっすぐに蟹田のN君の家へ帰って来た。歩いてみると、しかし、津軽もそんなに小さくはない。その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかえて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道で津軽平野を北上し、私の生れた土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなっていた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に梵珠山脈があって山中には路らしい路も無いような有様らしいので、仕方なく四角形の他の三辺を大迂回して行かなければならぬのである。金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居《じょい》という家族の居間にさがって、改めて嫂に挨拶した。
「いつ、東京を?」と嫂は聞いた。
私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思っていますが、ついでに金木にも立寄り、父母の墓参をさせていただきたいと思っていますから、その折にはよろしくお願いします、というような葉書を嫂に差上げていたのである。
「一週間ほど前です。東海岸で、手間どってしまいました。蟹田のN君には、ずいぶんお世話になりました。」N君の事は、嫂も知っている筈だった。
「そう。こちらではまた、お葉書が来ても、なかなかご本人がお見えにならないので、どうしたのかと心配していました。陽子や光《みっ》ちゃんなどは、とても待って、毎日交代に停車場へ出張していたのですよ。おしまいには、怒って、もう来たって知らない、と言っていた人もありました。」
陽子というのは長兄の長女で、半年ほど前に弘前の近くの地主の家へお嫁に行き、その新郎と一緒にちょいちょい金木へ遊びに来るらしく、その時も、お二人でやって来ていたのである。光ちゃんというのは、私たちの一ばん上の姉の末娘で、まだ嫁がず金木の家へいつも手伝いに来ている素直な子である。その二人の姪が、からみ合いながら、えへへ、なんておどけた笑い方をして出て来て、酒飲みのだらしない叔父さんに挨拶した。陽子は女学生みたいで、まだ少しも奥さんらしくない。
「おかしい恰好。」と私の服装をすぐに笑った。
「ばか。これが、東京のはやりさ。」
嫂に手をひかれて、祖母も出て来た。八十八歳である。
「よく来た。ああ、よく来た。」と大声で言う。元気な人だったが、でも、さすがに少し弱って来ているようにも見えた。
「どうしますか。」と嫂は私に向って、「ごはんは、ここで食べますか。二階に、みんないるんですけど。」
陽子のお婿さんを中心に、長兄や次兄が二階で飲みはじめている様子である。
兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらい打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかっていない。
「お差支えなかったら、二階へ行きましょうか。」ここでひとりで、ビールなど飲んでいるのも、いじけているみたいで、いやらしい事だと思った。
「どちらだって、かまいませんよ。」嫂は笑いながら、「それじゃ、二階へお膳を。」と光ちゃんたちに言いつけた。
私はジャンパー姿のままで二階に上って行った。金襖の一ばんいい日本間《にほんま》で、兄たちは、ひっそりお酒を飲んでいた。私はどたばたとはいり、
「修治です。はじめて。」と言って、まずお婿さんに挨拶して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫びをした。長兄も次兄も、あ、と言って、ちょっと首肯いたきりだった。わが家の流儀である。いや、津軽の流儀と言っていいかも知れない。私は慣れているので平気でお膳について、光ちゃんと嫂のお酌で、黙ってお酒を飲んでいた。お婿さんは、床柱をうしろにして坐って、もうだいぶお顔が赤くなっている。兄たちも、昔はお酒に強かったようだが、このごろは、めっきり弱くなったようで、さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、いけません、そちらさんこそ、どうぞ、などと上品にお互いゆずり合っている。外ヶ浜で荒っぽく飲んで来た私には、まるで竜宮か何か別天地のようで、兄たちと私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然とし、緊張した。
「蟹は、どうしましょう。あとで?」と嫂は小声で私に言った。私は蟹田の蟹を少しお土産に持って来たのだ。
「さあ。」蟹というものは、どうも野趣がありすぎて上品のお膳をいやしくする傾きがあるので私はちょっと躊躇した。嫂も同じ気持だったのかも知れない。
「蟹?」と長兄は聞きとがめて、「かまいませんよ。持って来なさい。ナプキンも一緒に。」
今夜は、長兄もお婿さんがいるせいか、機嫌がいいようだ。
蟹が出た。
「おあがり、なさいませんか。」と長兄はお婿さんにもすすめて、自身まっさきに蟹の甲羅をむいた。
私は、ほっとした。
「失礼ですが、どなたです。」お婿さんは、無邪気そうな笑顔で私に言った。はっと思った。無理もないとすぐに思い直して、
「はあ、あのう、英治さん(次兄の名)の弟です。」と笑いながら答えたが、しょげてしまって、これあ、英治さんの名前を出してもいけなかったかしら、と卑屈に気を使って、次兄の顔色を伺ったが、次兄は知らん顔をしているので、取りつく島も無かった。ま、いいや、と私は膝を崩して、光ちゃんに、こんどはビールをお酌させた。
金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、こうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、そうしてその原稿を売らなければ生きて行けないという悪い宿業を背負っている男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕い、あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない。
翌る日は、雨であった。起きて二階の長兄の応接間へ行ってみたら、長兄はお婿さんに絵を見せていた。金屏風が二つあって、一つには山桜、一つには田園の山水とでもいった閑雅な風景が画かれている。私は落款を見た。が、読めなかった。
「誰です。」と顔を赤らめ、おどおどしながら聞いた。
「スイアン。」と兄は答えた。
「スイアン。」まだわからなかった。
「知らないのか。」兄は別に叱りもせず、おだやかにそう言って、「百穂のお父さんです。」
「へえ?」百穂のお父さんもやっぱり画家だったという事は聞いて知っていたが、そのお父さんが穂庵《すいあん》という人で、こんないい絵をかくとは知らなかった。私だって、絵はきらいではないし、いや、きらいどころか、かなり通《つう》のつもりでいたのだが、穂庵を知らなかったとは、大失態であった。屏風をひとめ見て、おや? 穂庵、と軽く言ったなら、長兄も少しは私を見直したかも知れなかったのに、間抜けた声で、誰です、は情ない。取返しのつかぬ事になってしまった、と身悶えしたが、兄は、そんな私を問題にせず、
「秋田には、偉い人がいます。」とお婿さんに向って低く言った。
「津軽の綾足《あやたり》はどうでしょう。」名誉恢復と、それから、お世辞のつもりもあって、私は、おっかなびっくり出しゃばってみた。津軽の画家といえば、まあ、綾足くらいのものらしいが、実はこれも、この前に金木へ来た時、兄の持っている綾足の画を見せてもらって、はじめて、津軽にもこんな偉い画家がいたという事を知った次第なのである。
「あれは、また、べつのもので。」と兄は全く気乗りのしないような口調で呟いて、椅子に腰をおろした。私たちは皆、立って屏風の絵を眺めていたのだが、兄が坐ったので、お婿さんもそれと向い合った椅子に腰をかけ、私は少し離れて、入口の傍のソフアに腰をおろした。
「この人などは、まあ、これで、ほんすじでしょうから。」とやはりお婿さんのほうを向いて言った。兄は前から、私には、あまり直接話をしない。
そう言えば、綾足のぼってりした重量感には、もう少しどうかするとゲテモノに落ちそうな不安もある。
「文化の伝統、といいますか、」兄は背中を丸めてお婿さんの顔を見つめ、「やっぱり、秋田には、根強いものがあると思います。」
「津軽は、だめか。」何を言っても、ぶざまな結果になるので、私はあきらめて、笑いながらひとりごとを言った。
「こんど、津軽の事を何か書くんだって?」と兄は、突然、私に向って話しかけた。
「ええ、でも、何も、津軽の事なんか知らないので、」と私はしどろもどろになり、「何か、いい参考書でも無いでしょうか。」
「さあ、」と兄は笑い、「わたしも、どうも、郷土史にはあまり興味が無いので。」
「津軽名所案内といったような極く大衆的な本でも無いでしょうか。まるで、もう、何も知らないのですから。」
「無い、無い。」と兄は私のずぼらに呆れたように苦笑しながら首を振って、それから立ち上ってお婿さんに、
「それじゃあ、わたしは農会へちょっと行って来ますから、そこらにある本でも御覧になって、どうも、きょうはお天気がわるくて。」と言って出かけて行った。
「農会も、いま、いそがしいのでしょうね。」と私はお婿さんに尋ねた。
「ええ、いま、ちょうど米の供出割当の決定があるので、たいへんなのです。」とお婿さんは若くても、地主だから、その方面の事はよく知っている。いろいろこまかい数字を挙げて説明してくれたが、私には、半分もわからなかった。
「僕などは、いままで米の事などむきになって考えた事は無かったようなものなのですが、でも、こんな時代になって来ると、やはり汽車の窓から水田をそれこそ、わが事のように一喜一憂して眺めているのですね。ことしは、いつまでも、こんなにうすら寒くて、田植えもおくれるんじゃないでしょうか。」私は、れいに依って専門家に向い、半可通を振りまわした。
「大丈夫でしょう。このごろは寒ければ寒いで、対策も考えて居りますから。苗の発育も、まあ、普通のようです。」
「そうですか。」と私は、もっともらしい顔をして首肯き、「僕の知識は、きのう汽車の窓からこの津軽平野を眺めて得ただけのものなのですが、馬耕というんですか、あの馬に挽かせて田を打ちかえすあれを、牛に挽かせてやっているのがずいぶん多いようですね。僕たちの子供の頃には、馬耕に限らず、荷車を挽かせるのでも何でも、全部、馬で、牛を使役するという事は、ほとんど無かったんですがね。僕なんか、はじめて東京へ行った時、牛が荷車を挽いているのを見て、奇怪に感じた程です。」
「そうでしょう。馬はめっきり少くなりました。たいてい、出征したのです。それから、牛は飼養するのに手数がかからないという関係もあるでしょうね。でも、仕事の能率の点では、牛は馬の半分、いや、もっともっと駄目かも知れません。」
「出征といえば、もう、——」
「僕ですか? もう、二度も令状をいただきましたが、二度とも途中でかえされて、面目ないんです。」健康な青年の、くったくない笑顔はいいものだ。「こんどは、かえされたくないと思っているんですが。」自然な口調で、軽く言った。
「この地方に、これは偉い、としんから敬服出来るような、隠れた大人物がいないものでしょうか。」
「さあ、僕なんかには、よくわかりませんけど、篤農家などと言われている人の中に、ひょっとしたら、あるんじゃないでしょうか。」
「そうでしょうね。」私は大いに同感だった。「僕なんかも、理窟は下手だし、まあ篤文家とでもいったような痴《こけ》の一念で生きて行きたいと思っているのですが、どうも、つまらぬ虚栄などもあって、常識的な、きざったらしい事になってしまって、ものになりません。しかし、篤農家も、篤農家としてあまり大きいレッテルをはられると、だめになりはしませんか。」
「そう。そうです。新聞社などが無責任に矢鱈に騒ぎ立て、ひっぱり出して講演をさせたり何かするので、せっかくの篤農家も妙な男になってしまうのです。有名になってしまうと、駄目になります。」
「まったくですね。」私はそれにも同感だった。「男って、あわれなものですからね。名声には、もろいものです。ジャアナリズムなんて、もとをただせば、アメリカあたりの資本家の発明したもので、いい加減なものですからね。毒薬ですよ。有名になったとたんに、たいてい腑抜けになっていますからね。」私は、へんなところで自分の一身上の鬱憤をはらした。こんな不平家は、しかし、そうは言っても、内心では有名になりたがっているというような傾向があるから、注意を要する。
ひるすぎ、私は傘さして、雨の庭をひとりで眺めて歩いた。一木一草も変っていない感じであった。こうして、古い家をそのまま保持している兄の努力も並たいていではなかろうと察した。池のほとりに立っていたら、チャボリと小さい音がした。見ると、蛙が飛び込んだのである。つまらない、あさはかな音である。とたんに私は、あの、芭蕉翁の古池の句を理解できた。私には、あの句がわからなかった。どこがいいのか、さっぱり見当もつかなかった。名物にうまいものなし、と断じていたが、それは私の受けた教育が悪かったせいであった。あの古池の句に就いて、私たちは学校で、どんな説明を与えられていたか。森閑たる昼なお暗きところに蒼然たる古池があって、そこに、どぶうんと(大川へ身投げじゃあるまいし)蛙が飛び込み、ああ、余韻嫋々、一鳥蹄きて山さらに静かなりとはこの事だ、と教えられていたのである。なんという、思わせぶりたっぷりの、月並《つきなみ》な駄句であろう。いやみったらしくて、ぞくぞくするわい。鼻持ちならん、と永い間、私はこの句を敬遠していたのだが、いま、いや、そうじゃないと思い直した。どぶうん、なんて説明をするから、わからなくなってしまうのだ。余韻も何も無い。ただの、チャボリだ。謂わば世の中のほんの片隅の、実にまずしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあったのだ。古池や蛙飛び込む水の音。そう思ってこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。当時の檀林派のにやけたマンネリズムを見事に蹴飛ばしている。謂わば破格の着想である。月も雪も花も無い。風流もない。ただ、まずしいものの、まずしい命だけだ。当時の風流宗匠たちが、この句に愕然としたわけも、それでよくわかる。在来の風流の概念の破壊である。革新である。いい芸術家は、こう来なくっちゃ嘘だ、とひとりで興奮して、その夜、旅の手帖にこう書いた。
「山吹や蛙飛び込む水の音。其角、ものかは。なんにも知らない。われと来て遊べや親の無い雀。すこし近い。でも、あけすけでいや味《み》。古池や、無類なり。」
翌る日は、上天気だった。姪の陽子と、そのお婿さんと、私と、それからアヤが皆のお弁当を背負って、四人で、金木町から一里ほど東の高流《たかながれ》と称する二百メートル足らずの、なだらかな小山に遊びに行った。アヤ、と言っても、女の名前ではない。じいや、という程の意味である。お父さん、という意味にも使われる。アヤに対する Femme は、アパである。アバとも言う。どういうところから、これらの言葉が起って来たのか、私には、わからない。オヤ、オバの訛りか、などと当てずっぽうしてみたってはじまらない。諸家の諸説がある事であろう。高流という山の名前も、姪の説に依ると、高長根《たかながね》というのが正しい呼び方で、なだらかに裾のひろがっているさまが、さながら長根の感じとか何とかという事であったが、これにもまた諸家の諸説があるのであろう。諸家の諸説が紛々として帰趨の定まらぬところに、郷土学の妙味がある様子である。姪とアヤは、お弁当や何かで手間取っているので、お婿さんと私とだけ、一足さきに家を出た。よい天気である。津軽の旅行は、五、六月に限る。れいの「東遊記」にも、「昔より北地に遊ぶ人は皆夏ばかりなれば、草木も青み渡り、風も南風に変り、海づらものどかなれば、恐ろしき名にも立ざる事と覚ゆ。我北地に到りしは、九月より三月の頃なれば、途中にて旅人には絶えて逢う事なかりし。我旅行は医術修行の為なれば、格別の事なり。只名所をのみ探らんとの心にて行く人は必ず四月以後に行くべき国なり。」としてあるが、旅行の達人の言として、読者もこれだけは信じて、覚えて置くがよい。津軽では、梅、桃、桜、林檎、梨、すもも、一度にこの頃、花が咲くのである。自信ありげに、私が先に立って町はずれまで歩いて来たが、高流へ行く路がわからない。小学校の頃に二、三度行った事があるきりなのだから、忘れるのも無理はないとも思ったが、しかし、その辺の様子が、幼い頃の記憶とまるで違っている。私は当惑して、
「停車場や何か出来て、この辺は、すっかり変って、高流には、どう行けばいいのか、わからなくなりました。あの山なんですがね。」と私は、前方に見える、への字形に盛りあがった薄みどり色の丘陵を指差して言った。「この辺で、少しぶらぶらして、アヤたちを待つ事にしましょう。」とお婿さんに笑いながら提案した。
「そうしましょう。」とお婿さんも笑いながら、「この辺に、青森県の修錬農場があるとか聞きましたけど。」私よりも、よく知っている。
「そうですか。捜してみましょう。」
修錬農場は、その路から半丁ほど右にはいった小高い丘の上にあった。農村中堅人物の養成と拓士訓練の為に設立せられたもののようであるが、この本州の北端の原野に、もったいないくらいの堂々たる設備である。秩父の宮様が弘前の八師団に御勤務あそばされていらっしゃった折に、かしこくも、この農場にひとかたならず御助勢下されたとか、講堂もその御蔭で、地方稀に見る荘厳の建物になって、その他、作業場あり、家畜小屋あり、肥料蓄積所、寄宿舎、私は、ただ、眼を丸くして驚くばかりであった。
「へえ? ちっとも、知らなかった。金木には過ぎたるものじゃないですか。」そう言いながら、私は、へんに嬉しくて仕方が無かった。やっぱり自分の生れた土地には、ひそかに、力こぶをいれているものらしい。
農場の入口に、大きい石碑が立っていて、それには、昭和十年八月、朝香宮様の御成、同年九月、高松宮様の御成、同年十月、秩父宮様ならびに同妃宮様の御成、昭和十三年八月に秩父宮様ふたたび御成、という幾重もの光栄を謹んで記しているのである。金木町の人たちは、この農場を、もっともっと誇ってよい。金木だけではない、これは、津軽平野の永遠の誇りであろう。実習地とでもいうのか、津軽の各部落から選ばれた模範農村青年たちの作った畑や果樹園、水田などが、それらの建築物の背後に、実に美しく展開していた。お婿さんはあちこち歩いて耕地をつくづく眺め、
「たいしたものだなあ。」と溜息をついて言った。お婿さんは地主だから、私などより、ずいぶんいろいろ、わかるところがあるのであろう。
「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮んでいる。実際、軽く浮んでいる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏《いちょう》の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟たる美女ではある。
「金木も、どうも、わるくないじゃないか。」私は、あわてたような口調で言った。「わるくないよ。」口をとがらせて言っている。
「いいですな。」お婿さんは落ちついて言った。
私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどっしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかった。西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまって、もはや美人の面影は無い。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いという伝説もあるそうだが、米のほうはともかく、この北津軽地方は、こんなにお山が綺麗に見えながら、美人のほうは、どうも、心細いように、私には見受けられたが、これは或いは私の観察の浅薄なせいかも知れない。
「アヤたちは、どうしたでしょうね。」ふっと私は、その事が心配になり出した。「どんどんさきに行ってしまったんじゃないかしら。」アヤたちの事を、つい忘却しているほど、私たちは、修錬農場の設備や風景に感心してしまっていたのである。私たちは、もとの路に引返して、あちこち見廻していると、アヤが、思いがけない傍系の野路からひょっこり出て来て、わしたちは、いままであなたたちを手わけしてさがしていた、と笑いながら言う。アヤは、この辺の野原を捜し廻り、姪は、高流へ行く路をまっすぐにどんどん後を追っかけるようにして行ったという。
「そいつあ気の毒だったな。陽ちゃんは、それじゃあ、ずいぶん遠くまで行ってしまったろうね。おうい。」と前方に向って大声で呼んだが、何の返辞も無い。
「まいりましょう。」とアヤは背中の荷物をゆすり上げて、「どうせ、一本道ですから。」
空には雲雀がせはしく囀っている。こうして、故郷の春の野路を歩くのも、二十年振りくらいであろうか。一面の芝生で、ところどころに低い灌木の繁みがあったり、小さい沼があったり、土地の起伏もゆるやかで、一昔前だったら都会の人たちは、絶好のゴルフ場とでも言ってほめたであろう。しかも、見よ、いまはこの原野にも着々と開墾の鍬が入れられ、人家の屋根も美しく光り、あれが更生部落、あれが隣村の分村、とアヤの説明を聞きながら、金木も発展して、賑やかになったものだと、しみじみ思った。そろそろ、山の登り坂にさしかかっても、まだ姪の姿が見えない。
「どうしたのでしょうね。」私は、母親ゆずりの苦労性である。
「いやあ、どこかにいるでしょう。」新郎は、てれながらも余裕を見せた。
「とにかく、聞いてみましょう。」私は路傍の畑で働いているお百姓さんに、スフの帽子をとってお辞儀をして、「この路を、洋服を着た若いアネサマがとおりませんでしたか。」と尋ねた。とおった、という答えである。何だか、走るように、ひどくいそいでとおったという。春の野路を、走るようにいそいで新郎の後を追って行く姪の姿を想像して、わるくないと思った。しばらく山を登って行くと、並木の落葉松の蔭に姪が笑いながら立っていた。ここまで追っかけて来てもいないから、あとから来るのだろうと思って、ここでワラビを取っていたという。別に疲れた様子も見えない。この辺は、ワラビ、ウド、アザミ、タケノコなど山菜の宝庫らしい。秋には、初茸《はつたけ》、土かぶり、なめこなどのキノコ類が、アヤの形容に依れば「敷《し》かさっているほど」一ぱい生えて、五所川原、木造あたりの遠方から取りに来る人もあるという。
「陽ちゃまは、きのこ取りの名人です。」と言い添えた。また、山を登りながら、
「金木へ、宮様がおいでになったそうだね。」と私が言うと、アヤは、改まった口調で、はい、と答えた。
「ありがたい事だな。」
「はい。」と緊張している。
「よく、金木みたいなところに、おいで下さったものだな。」
「はい。」
「自動車で、おいでになったか。」
「はい。自動車でおいでになりました。」
「アヤも、拝んだか。」
「はい。拝ませていただきました。」
「アヤは、仕合せだな。」
「はい。」と答えて、首筋に巻いているタオルで顔の汗を拭いた。
鶯が鳴いている。スミレ、タンポポ、野菊、ツツジ、白ウツギ、アケビ、野バラ、それから、私の知らない花が、山路の両側の芝生に明るく咲いている。背の低い柳、カシハも新芽を出して、そうして山を登って行くにつれて、笹がたいへん多くなった。二百メートルにも足りない小山であるが、見晴しはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅まで見渡す事が出来ると言いたいくらいのものであった。私たちは立ちどまって、平野を見下し、アヤから説明を聞いて、また少し歩いて立ちどまり、津軽富士を眺めてほめて、いつのまにやら、小山の頂上に到達した。
「これが頂上か。」私はちょっと気抜けして、アヤに尋ねた。
「はい、そうです。」
「なあんだ。」とは言ったものの、眼前に展開している春の津軽平野の風景には、うっとりしてしまった。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ光って見える。その銀線の尽きるあたりに、古代の鏡のように鈍く光っているのは、田光《たっぴ》沼であろうか。さらにその遠方に模糊と煙るが如く白くひろがっているのは、十三湖らしい。十三湖あるいは十三|潟《がた》と呼ばれて、「津軽大小の河水凡そ十有三の派流、この地に落合いて大湖となる。しかも各河川固有の色を失わず。」と「十三往来」に記され、津軽平野北端の湖で、岩木川をはじめ津軽平野を流れる大小十三の河川がここに集り、周囲は約八里、しかし、河川の運び来る土砂の為に、湖底は浅く、最も深いところでも三メートルくらいのものだという。水は、海水の流入によって鹹水であるが、岩木川からそそぎ這入る河水も少くないので、その河口のあたりは淡水で、魚類も淡水魚と鹹水魚と両方宿り住んでいるという。湖が日本海に開いている南口に、十三という小さい部落がある。この辺は、いまから七、八百年も前からひらけて、津軽の豪族、安東氏の本拠であったという説もあり、また江戸時代には、その北方の小泊港と共に、津軽の木材、米穀を積出し、殷盛を極めたとかいう話であるが、いまはその一片の面影も無いようである。その十三湖の北に権現崎が見える。しかし、この辺から、国防上重要の地域にはいる。私たちは眼を転じて、前方の岩木川のさらに遠方の青くさっと引かれた爽やかな一線を眺めよう。日本海である。七里長浜、一眸の内である。北は権現崎より、南は大戸瀬崎まで、眼界を遮ぎる何物も無い。
「これはいい。僕だったら、ここへお城を築いて、」と言いかけたら、
「冬はどうします?」と陽子につっ込まれて、ぐっとつまった。
「これで、雪が降らなければなあ。」と私は、幽かな憂鬱を感じて歎息した。
山の陰の谷川に降りて、河原で弁当をひらいた。渓流にひやしたビールは、わるくなかった。姪とアヤは、リンゴ液を飲んだ。そのうちに、ふと私は見つけた。
「蛇!」
お婿さんは脱ぎ捨てた上衣をかかえて腰をうかした。
「大丈夫、大丈夫。」と私は谷川の対岸の岩壁を指差して言った。「あの岩壁に這い上ろうとしているのです。」奔湍から首をぬっと出して、見る見る一尺ばかり岩壁によじ登りかけては、はらりと落ちる。また、するすると登りかけては、落ちる。執念深く二十回ほどそれを試みて、さすがに疲れてあきらめたか、流れに押流されるようにして長々と水面にからだを浮かせたままこちらの岸に近づいて来た。アヤは、この時、立ち上った。一間ばかりの木の枝を持ち、黙って走って行って、ざんぶと渓流に突入し、ずぶりとやった。私たちは眼をそむけ、
「死んだか、死んだか。」私は、あわれな声を出した。
「片附けました。」アヤは、木の枝も一緒に渓流にほうり投げた。
「まむしじゃないか。」私は、それでも、まだ恐怖していた。
「まむしなら、生捕りにしますが、いまのは、青大将でした。まむしの生胆は薬になります。」
「まむしも、この山にいるのかね。」
「はい。」
私は、浮かぬ気持で、ビールを飲んだ。
アヤは、誰よりも早くごはんをすまして、それから大きい丸太を引ずって来て、それを渓流に投げ入れ、足がかりにして、ひょいと対岸に飛び移った。そうして、対岸の山の絶壁によじ登り、ウドやアザミなど、山菜を取り集めている様子である。
「あぶないなあ。わざわざ、あんな危いところへ行かなくったって、他のところにもたくさん生えているのに。」私は、はらはらしながらアヤの冒険を批評した。「あれはきっと、アヤは興奮して、わざとあんな危いところへ行き、僕たちにアヤの勇敢なところを大いに見せびらかそうという魂胆に違いない。」
「そうよ、そうよ。」と姪も大笑いしながら、賛成した。
「アヤあ!」と私は大声で呼びかけた。「もう、いい。あぶないから、もう、いい。」
「はい。」とアヤは答えて、するすると崖から降りた。私は、ほっとした。
帰りは、アヤの取り集めた山菜を、陽子が背負った。この姪は、もとから、なりも振りも、あまりかまわない子であった。帰途は、外ヶ浜に於ける「いまだ老いざる健脚家」も、さすがに疲れて、めっきり無口になってしまった。山から降りたら、郭公が鳴いている。町はずれの製材所には、材木がおびただしく積まれていて、トロッコがたえず右往左往している。ゆたかな里の風景である。
「金木も、しかし、活気を呈して来ました。」と、私はぽつんと言った。
「そうですか。」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂そうに、そう言った。
私は急にてれて、
「いやあ、僕なんかには、何もわかりゃしませんけど、でも、十年前の金木は、こうじゃなかったような気がします。だんだん、さびれて行くばかりの町のように見えました。いまのようじゃなかった。いまは何か、もりかえしたような感じがします。」
家へ帰って兄に、金木の景色もなかなかいい、思いをあらたにしました、と言ったら、兄は、としをとると自分の生れて育った土地の景色が、京都よりも奈良よりも、佳くはないか、と思われて来るものです、と答えた。
翌る日は前日の一行に、兄夫婦も加はって、金木の東南方一里半くらいの、鹿の子川溜池というところへ出かけた。出発真際に、兄のところへお客さんが見えたので、私たちだけ一足さきに出かけた。モンペに白足袋に草履といういでたちであった。二里ちかくも遠くへ出歩くなどは、嫂にとって、金木へお嫁に来てはじめての事かも知れない。その日も上天気で、前日よりさらに暖かかった。私たちは、アヤに案内されて金木川に沿うて森林鉄道の軌道をてくてく歩いた。軌道の枕木の間隔が、一歩には狭く、半歩には広く、ひどく意地悪く出来ていて、甚だ歩きにくかった。私は疲れて、早くも無口になり、汗ばかり拭いていた。お天気がよすぎると、旅人はぐったりなって、かえって意気があがらぬもののようである。
「この辺が、大水の跡です。」アヤは、立ちどまって説明した。川の附近の田畑数町歩一面に、激戦地の跡もかくやと思わせるほど、巨大の根株や、丸太が散乱している。その前のとし、私の家の八十八歳の祖母も、とんと経験が無い、と言っているほどの大洪水がこの金木町を襲ったのである。
「この木が、みんな山から流されて来たのです。」と言って、アヤは悲しそうな顔をした。
「ひどいなあ。」私は汗を拭きながら、「まるで、海のようだったろうね。」
「海のようでした。」
金木川にわかれて、こんどは鹿《か》の子川に沿うてしばらくのぼり、やっと森林鉄道の軌道から解放されて、ちょっと右へはいったところに、周囲半里以上もあるかと思われる大きい溜池が、それこそ一鳥啼いて更に静かな面持ちで、蒼々満々と水を湛えている。この辺は、荘右衛門沢という深い谷間だったそうであるが、谷間の底の鹿の子川をせきとめて、この大きい溜池を作ったのは、昭和十六年、つい最近の事である。溜池のほとりの大きい石碑には、兄の名前も彫り込まれていた。溜池の周囲に工事の跡の絶壁の赤土が、まだ生々しく露出しているので、所謂天然の荘厳を欠いてはいるが、しかし、金木という一部落の力が感ぜられ、このような人為の成果というものも、また、快適な風景とせざるを得ない、などと、おっちょこちょいの旅の批評家は、立ちどまって煙草をふかし、四方八方を眺めながら、いい加減の感想をまとめていた。私は自信ありげに、一同を引率し、溜池のほとりを歩いて、
「ここがいい。この辺がいい。」と言って池の岬の木蔭に腰をおろした。「アヤ、ちょっと調べてくれ。これは、ウルシの木じゃないだろうな。」ウルシにかぶれては、私はこのさき旅をつづけるのに、憂鬱でたまらないだろう。ウルシの木ではないと言う。
「じゃあ、その木は。なんだか、あやしい木だ。調べてくれ。」みんなは笑っていたが、私は真面目であった。それも、ウルシの木ではないと言う。私は全く安心して、この場所で弁当をひらく事にきめた。ビールを飲みながら、私はいい機嫌で少しおしゃべりをした。私は小学校二、三年の時、遠足で金木から三里半ばかり離れた西海岸の高山というところへ行って、はじめて海を見た時の興奮を話した。その時には引率の先生がまっさきに興奮して、私たちを海に向けて二列横隊にならばせ、「われは海の子」という唱歌を合唱させたが、生れてはじめて海を見たくせに、われは海の子白波の騒ぐ磯辺の松原に、とかいう海岸生れの子供の歌をうたうのは、いかにも不自然で、私は子供心にも恥かしく落ちつかない気持であった。そうして、私はその遠足の時には、奇妙に服装に凝って、鍔のひろい麦藁帽に兄が富士登山の時に使った神社の焼印の綺麗に幾つも押されてある白木の杖、先生から出来るだけ身軽にして草鞋、と言われたのに私だけ不要の袴を着け、長い靴下に編上の靴をはいて、なよなよと媚を含んで出かけたのだが、一里も歩かぬうちに、もうへたばって、まず袴と靴をぬがせられ、草履、といっても片方は赤い緒の草履、片方は藁の緒の草履という、片ちんばの、すり切れたみじめな草履をあてがわれ、やがて帽子も取り上げられ、杖もおあずけ、とうとう病人用として学校で傭って行った荷車に載せられ、家へ帰った時の恰好ったら、出て行く時の輝かしさの片影も無く、靴を片手にぶらさげ、杖にすがり、などと私は調子づいて話して皆を笑わせていると、
「おうい。」と呼ぶ声。兄だ。
「おうい。」と私たちも口々に呼んだ。アヤは走って迎えに行った。やがて、兄は、ピッケルをさげて現われた。私はありったけのビールをみな飲んでしまっていたので、甚だ具合がわるかった。兄は、すぐにごはんを食べ、それから皆で、溜池の奥の方へ歩いて行った。バサッと大きい音がして、水鳥が池から飛び立った。私とお婿さんとは顔を見合せ、意味も無く、うなづき合った。雁だか鴨だか、口に出して言えるほどには、お互い自信がなかったようなふうなのだ。とにかく、野生の水鳥には違いなかった。深山幽谷の精気が、ふっと感ぜられた。兄は、背中を丸くして黙って歩いている。兄とこうして、一緒に外を歩くのも何年振りであろうか。十年ほど前、東京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのように背中を丸くして黙って歩いて、それから数歩はなれて私は兄のそのうしろ姿を眺めては、ひとりでめそめそ泣きながら歩いた事があったけれど、あれ以来はじめての事かも知れない。私は兄から、あの事件に就いてまだ許されているとは思わない。一生、だめかも知れない。ひびのはいった茶碗は、どう仕様も無い。どうしたって、もとのとおりにはならない。津軽人は特に、心のひびを忘れない種族である。この後、もう、これっきりで、ふたたび兄と一緒に外を歩く機会は、無いのかも知れないとも思った。水の落ちる音が、次第に高く聞えて来た。溜池の端に、鹿の子滝という、この地方の名所がある。ほどなく、その五丈ばかりの細い滝が、私たちの脚下に見えた。つまり私たちは、荘右衛門沢の縁《へり》に沿うた幅一尺くらいの心細い小路を歩いているのであって、右手はすぐ屏風を立てたような山、左手は足もとから断崖になっていて、その谷底に滝壺がいかにも深そうな青い色でとぐろを巻いているのである。
「これは、どうも、目まいの気味です。」と嫂は、冗談めかして言って、陽子の手にすがりついて、おっかなそうに歩いている。
右手の山腹には、ツツジが美しく咲いている。兄はピッケルを肩にかついで、ツツジの見事に咲き誇っている箇所に来るたんびに、少し歩調をゆるめる。藤の花も、そろそろ咲きかけている。路は次第に下り坂になって、私たちは滝口に降りた。一間ほどの幅の小さい谷川で、流れのまんなかあたりに、木の根株が置かれてあり、それを足がかりにして、ひょいひょいと二歩で飛び越せるようになっている。ひとりひとり、ひょいひょいと飛び越した。嫂が、ひとり残った。
「だめです。」空言って笑うばかりで飛び越そうとしない。足がすくんで、前に出ない様子である。
「おぶってやりなさい。」と兄は、アヤに言いつけた。アヤが傍へ寄っても、嫂は、ただ笑って、だめだめと手を振るばかりだ。この時、アヤは怪力を発揮し、巨大の根っこを抱きかかえて来て、ざんぶとばかり滝口に投じた。まあ、どうやら、橋が出来た。嫂は、ちょっと渡りかけたが、やはり足が前にすすまないらしい。アヤの肩に手を置いて、やっと半分くらい渡りかけて、あとは川も浅いので、即席の橋から川へ飛び降りて、じゃぶじゃぶと水の中を歩いて渡ってしまった。モンペの裾も白足袋も草履も、びしょ濡れになった様子である。
「まるで、もう、高山帰りの姿です。」嫂は、私のさっきの高山へ遠足してみじめな姿で帰った話をふと思い出したらしく、笑いながらそう言って、陽子もお婿さんも、どっと笑ったら、兄は振りかえって、
「え? 何?」と聞いた。みんな笑うのをやめた。兄がへんな顔をしているので、説明してあげようかな、とも思ったが、あまり馬鹿々々しい話なので、あらたまって「高山帰り」の由来を説き起す勇気は私にも無かった。兄は黙って歩き出した。兄は、いつでも孤独である。
[#5字下げ][#中見出し]五 西海岸[#中見出し終わり]
前にも幾度となく述べて来たが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知っていなかった。津軽の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行った事がない。高山というのは、金木からまっすぐ西に三里半ばかり行き車力《しゃりき》という人口五千くらいのかなり大きい村をすぎて、すぐ到達できる海浜の小山で、そこのお稲荷さんは有名なものだそうであるが、何せ少年の頃の記憶であるから、あの服装の失敗だけが色濃く胸中に残っているくらいのもので、あとはすべて、とりとめも無くぼんやりしてしまっている。この機会に、津軽の西海岸を廻ってみようという計画も前から私にあったのである。鹿の子川溜池へ遊びに行ったその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかえ、十分経つか経たぬかのうちに、木造《きづくり》駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちょっと見て置きたいと思っていたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少いようだが、町の歴史は古いらしい。精米所の機械の音が、どっどっと、だるげに聞えて来る。どこかの軒下で、鳩が鳴いている。ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎えている。父はこの町のMという旧家の三男かであったのを、私の家から迎えられて何代目かの当主になったのである。この父は、私の十四の時に死んだのであるから、私はこの父の「人間」に就いては、ほとんど知らないと言わざるを得ない。また自作の「思い出」の中の一節を借りるが、「私の父は非常に忙しい人で、うちにいることがあまりなかった。うちにいても子供らと一緒には居らなかった。私は此の父を恐れていた。父の万年筆をほしがっていながらそれを言い出せないで、ひとり色々と思い悩んだ末、或る晩に床の中で眼をつぶったまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があったけれど、勿論それは父の耳にも心にもはいらなかったらしい。私と弟とが米俵のぎっしり積まれたひろい米蔵に入って面白く遊んでいると、父が入口に立ちはだかって、坊主、出ろ、出ろ、と叱った。光を背から受けているので父の大きい姿がまっくろに見えた。私は、あの時の恐怖を惟うと今でも、いやな気がする。(中略)その翌春、雪のまだ深く積っていた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。私は父の死よりも、こういうセンセイションの方に興奮を感じた。遺族の名にまじって私の名も新聞に出ていた。父の死骸は大きい寝棺に横たはり橇に乗って故郷へ帰って来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎えに行った。やがて森の蔭から幾台となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑って出て来たのを眺めて私は美しいと思った。つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集った。棺の蓋が取りはらわれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠っているようであった。高い鼻筋がすっと青白くなっていた。私は皆の泣声を聞き、さそわれて涙を流した。」まあ、だいたいこんな事だけが父に関する記憶と言っていいくらいのもので、父が死んでからは、私は現在の長兄に対して父と同様のおっかなさを感じ、またそれゆえ安心して寄りかかってもいたし、父がいないから淋しいなどと思った事はいちども無かったのである。しかし、だんだんとしを取るにつれて、いったい父は、どんな性格の男だったのだろう、などと無礼な忖度をしてみるようになって、東京の草屋に於ける私の仮寝の夢にも、父があらわれ、実は死んだのではなくて或る政治上の意味で姿をかくしていたのだという事がわかり、思い出の父の面影よりは少し老い疲れていて、私はその姿をひどくなつかしく思ったり、夢の話はつまらないが、とにかく、父に対する関心は最近非常に強くなって来たのは事実である。父の兄弟は皆、肺がわるくて、父も肺結核ではないが、やはり何か呼吸器の障りで吐血などして死んだのである。五十三で死んで、私は子供心には、そのとしがたいへんな老齢のように感ぜられ、まず大往生と思っていたのだが、いまは五十三の死歿を頽齢の大往生どころか、ひどい若死にと考えるようになった。も少し父を生かして置いたら、津軽のためにも、もっともっと偉い事業をしたのかも知れん、などと生意気な事など考えている。その父が、どんな家に生れて、どんな町に育ったか、私はそれを一度見て置きたいと思っていたのだ。木造の町は、一本路の両側に家が立ち並んでいるだけだ。そうして、家々の背後には、見事に打返された水田が展開している。水田のところどころにポプラの並木が立っている。こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違いないのであるが、木造《きづくり》のポプラほど、あざやかに記憶に残ってはいない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよいでいた。ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違わず、華奢で頗る美人である。このように山容が美しく見えるところからは、お米と美人が産出するという伝説があるとか。この地方は、お米はたしかに豊富らしいが、もう一方の、美人の件は、どうであろう。これも、金木地方と同様にちょっと心細いのではあるまいか。その件に関してだけは、あの伝説は、むしろ逆じゃないかとさえ私には疑われた。岩木山の美しく見える土地には、いや、もう言うまい。こんな話は、えてして差しさわりの多いものだから、ただ町を一巡しただけの、ひやかしの旅人のにわかに断定を下すべき筋合のものではないかも知れない。その日も、ひどくいい天気で、停車場からただまっすぐの一本街のコンクリート路の上には薄い春霞のようなものが、もやもや煙っていて、ゴム底の靴で猫のように足音も無くのこのこ歩いているうちに春の温気《うんき》にあてられ、何だか頭がぼんやりして来て、木造警察署の看板を、木造《もくぞう》警察署と読んで、なるほど木造《もくぞう》の建築物、と首肯き、はっと気附いて苦笑したりなどした。
木造《きづくり》は、また、コモヒの町である。コモヒというのは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞって店先に日よけの天幕を張ったろう、そうして、読者諸君は、その天幕の下を涼しそうな顔をして歩いたろう、そうして、これはまるで即席の長い廊下みたいだと思ったろう、つまり、あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作ってあるのが、北国のコモヒだと思えば、たいして間違いは無い。しかも之は、日ざしをよけるために作ったのではない。そんな、しゃれたものではない。冬、雪が深く積った時に、家と家との聯絡に便利なように、各々の軒をくっつけ、長い廊下を作って置くのである。吹雪の時などには、風雪にさらされる恐れもなく、気楽に買い物に出掛けられるので、最も重宝だし、子供の遊び場としても東京の歩道のような危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人にとって大助かりだろうし、また、私のように、春の温気にまいった旅人も、ここへ飛び込むと、ひやりと涼しく、店に坐っている人達からじろじろ見られるのは少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。コモヒというのは、小店《こみせ》の訛りであると一般に信じられているようだが、私は、隠瀬《このせ》あるいは隠日《こもひ》とでもいう漢字をあてはめたほうが、早わかりではなかろうか、などと考えてひとりで悦にいっている次第である。そのコモヒを歩いていたら、M薬品問屋の前に来た。私の父の生れた家だ。立ち寄らず、そのままとおり過ぎて、やはりコモヒをまっすぐに歩いて行きながら、どうしようかなあ、と考えた。この町のコモヒは、実に長い。津軽の古い町には、たいていこのコモヒというものがあるらしいけれども、この木造町みたいに、町全部がコモヒに依って貫通せられているといったようなところは少いのではあるまいか。いよいよ木造は、コモヒの町にきまった。しばらく歩いて、ようやくコモヒも尽きたところで私は廻れ右して、溜息ついて引返した。私は今まで、Mの家に行った事は、いちども無い。木造町へ来た事も無い。或いは私の幼年時代に、誰かに連れられて遊びに来た事はあったかも知れないが、いまの私の記憶には何も残っていない。Mの家の当主は、私よりも四つ五つ年上の、にぎやかな人で、昔からちょいちょい金木へも遊びに来て私とは顔馴染である。私がいま、たずねて行っても、まさか、いやな顔はなさるまいが、どうも、しかし、私の訪ね方が唐突である。こんな薄汚いなりをして、Mさんしばらく、などと何の用も無いのに卑屈に笑って声をかけたら、Mさんはぎょっとして、こいついよいよ東京を食いつめて、金でも借りに来たんじゃないか、などと思やすまいか。死ぬまえにいちど、父の生れた家を見たくて、というのも、おそろしいくらいに気障《きざ》だ。男が、いいとしをして、そんな事はとても言えたもんじゃない。いっそこのまま帰ろうか、などと悶えて歩いているうちに、またもとのM薬品問屋の前に来た。もう二度と、来る機会はないのだ。恥をかいてもかまわない。はいろう。私は、とっさに覚悟をきめて、ごめん下さい、と店の奥のほうに声をかけた。Mさんが出て来て、やあ、ほう、これは、さあさあ、とたいへんな勢いで私には何も言わせず、引っぱり上げるように座敷へ上げて、床の間の前に無理矢理坐らせてしまった。ああ、これ、お酒、とお家の人たちに言いつけて、二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かった。
「久し振り。久し振り。」とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらいです。」
「さあ、もし子供の時に来た事があるとすれば、三十年振りくらいでしょう。」
「そうだろうとも、そうだろうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮する事はない。よく来た。実に、よく来た。」
この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだという話を聞いているが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ。私には養子の父の心理が何かわかるような気がして、微笑ましかった。そう思って見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似ている。私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の「人間」に触れたような気がして、このMさんのお家へ立寄った甲斐があったと思った。Mさんは、何かと私をもてなそうとする。
「いや、もういいんだ。一時の汽車で、深浦へ行かなければいけないのです。」
「深浦へ? 何しに?」
「べつに、どうってわけも無いけど、いちど見て置きたいのです。」
「書くのか?」
「ええ、それもあるんだけど、」いつ死ぬかわからんし、などと相手に興覚めさせるような事は言えなかった。
「じゃあ、木造の事も書くんだな。木造の事を書くんだったらね、」とMさんは、少しもこだわるところがなく、「まず第一に、米の供出高を書いてもらいたいね。警察署管内の比較では、この木造署管内は、全国一だ。どうです、日本一ですよ。これは、僕たちの努力の結晶と言っても、差支え無いと思う。この辺一帯の田の、水が枯れた時に、僕は隣村へ水をもらいに行って、ついに大成功して、大トラ変じて水虎大明神という事になったのです。僕たちも、地主だからって、遊んでは居られない。僕は脊髄がわるいんだけど、でも、田の草取りをしましたよ。まあ、こんどは東京のあんた達にも、おいしいごはんがどっさり配給されるでしょう。」たのもしい限りである。Mさんは、小さい頃から、闊達な気性のひとであった。子供っぽいくりくりした丸い眼に魅力があって、この地方の人たち皆に敬愛せられているようだ。私は、心の中でMさんの仕合せを祈り、なおも引きとめられるのを汗を流して辞去し、午後一時の深浦行きの汽車にやっと間に合う事が出来た。
木造から、五能線に依って約三十分くらいで鳴沢、鰺ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまいになって、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいうものだそうで、その海蝕を受けて平坦になった斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になったので、これを千畳敷と名附け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛え、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼《さかづきぬま》と称するのだそうだけれど、直径一尺から二尺くらいのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よっぽどの大酒飲みが名附けたものに違いない。この辺の海岸には奇岩削立し、怒濤にその脚を絶えず洗われている、と、まあ、名所案内記ふうに書けば、そうもなるのだろうが、外ヶ浜北端の海浜のような異様な物凄さは無く、謂わば全国到るところにある普通の「風景」になってしまっていて、津軽独得の佶屈とでもいうような他国の者にとって特に難解の雰囲気は無い。つまり、ひらけているのである。人の眼に、舐められて、明るく馴れてしまっているのである。れいの竹内運平氏は「青森県通史」に於いて、この辺以南は、昔からの津軽領ではなく、秋田領であったのを、慶長八年に隣藩佐竹氏と談合の上、これを津軽領に編入したというような記録もあると言っている。私などただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言うのだが、やはり、もうこの辺から、何だか、津軽ではないような気がするのである。津軽の不幸な宿命は、ここには無い。あの、津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺には無い。山水を眺めただけでも、わかるような気がする。すべて、充分に聡明である。所謂、文化的である。ばかな傲慢な心は持っていない。大戸瀬から約四十分で、深浦へ着くのだが、この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるような、決して出しゃばろうとせぬつつましい温和な表情、悪く言えばお利巧なちゃっかりした表情をして、旅人を無言で送迎している。つまり、旅人に対しては全く無関心のふうを示しているのである。私は、深浦のこのような雰囲気を深浦の欠点として挙げて言っているのでは決してない。そんな表情でもしなければ、人はこの世に生きて行き切れないのではないかとも思っている。これは、成長してしまった大人の表情なのかも知れない。何やら自信が、奥深く沈潜している。津軽の北部に見受けられるような、子供っぽい悪あがきは無い。津軽の北部は、生煮えの野菜みたいだが、ここはもう透明に煮え切っている。ああ、そうだ。こうして較べてみるとよくわかる。津軽の奥の人たちには、本当のところは、歴史の自信というものがないのだ。まるっきりないのだ。だから、矢鱈に肩をいからして、「かれは賤しきものなるぞ。」などと人の悪口ばかり言って、傲慢な姿勢を執らざるを得なくなるのだ。あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、佶屈となり、そうして悲しい孤独の宿命を形成するという事になったのかも知れない。津軽の人よ、顔を挙げて笑えよ。ルネッサンス直前の鬱勃たる擡頭力をこの地に認めると断言してはばからぬ人さえあったではないか。日本の文華が小さく完成して行きづまっている時、この津軽地方の大きい未完成が、どれだけ日本の希望になっているか、一夜しずかに考えて、などというとすぐ、それそれそんなに不自然に肩を張る。人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない。知らん振りして、信じて、しばらく努力を続けて行こうではないか。
深浦町は、現在人口五千くらい、旧津軽領西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであった。丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巌、弁天嶋、行合岬など一とおり海岸の名勝がそろっている。しずかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさに吊されて干されている。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついている感じがする。駅からまっすぐに一本路をとおって、町のはずれに、円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定せられているという。私は、それにおまいりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思った。完成されている町は、また旅人に、わびしい感じを与えるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷った。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思った。なるべく思い出さないようにしているのだが、心の空虚の隙《すき》をねらって、ひょいと子供の面影が胸に飛び込む。私は立ち上って町の郵便局へ行き、葉書を一枚買って、東京の留守宅へ短いたよりを認めた。子供は百日咳をやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言った。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かった。私はその早さに、少し救われた。部屋は汚いが、お膳の上には鯛と鮑の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。鯛と鮑がこの港の特産物のようである。お酒を二本飲んだが、まだ寝るには早い。津軽へやってきて以来、人のごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら、とつまらぬ考えを起し、さっきお膳を持って来た十二、三歳の娘さんを廊下でつかまえ、お酒はもう無いか、と聞くと、ございません、という。どこか他に飲むところは無いかと聞くと、ございます、と言下に答えた。ほっとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教わり、行って見ると、意外に小綺麗な料亭であった。二階の十畳くらいの、海の見える部屋に案内され、津軽塗の食卓に向って大あぐらをかき、酒、酒、と言った。お酒だけ、すぐに持って来た。これも有難かった。たいてい料理で手間取って、客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたおばさんが、お銚子だけ持ってすぐに来た。私は、そのおばさんから深浦の伝説か何か聞こうかと思った。
「深浦の名所は何です。」
「観音さんへおまいりなさいましたか。」
「観音さん? あ、円覚寺の事を、観音さんと言うのか。そう。」このおばさんから、何か古めかしい話を聞く事が出来るかも知れないと思った。しかるに、その座敷に、ぶってり太った若い女があらわれて、妙にきざな洒落など飛ばし、私は、いやで仕様が無かったので、男子すべからく率直たるべしと思い、
「君、お願いだから下へ行ってくれないか。」と言った。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方をしてはいけない。私は、ひどいめに逢った。その若い女中が、ふくれて立ち上ると、おばさんも一緒に立ち上り、二人ともいなくなってしまった。ひとりが部屋から追い出されたのに、もうひとりが黙って坐っているなどは、朋輩の仁義からいっても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。翌る朝、私がわびしい気持で朝ごはんを食べていたら、主人がお銚子と、小さいお皿を持って来て、
「あなたは、津島さんでしょう。」と言った。
「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。
「そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので。」
「でも、あれは、偽名でもないのです。」
「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです。」
私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。こうして、津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしほ腹綿にしみるものがあった。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知ったという事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗った。
鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立寄った。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあったようだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがったさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方に於ける家々の食膳を賑はしたものらしい。けれども、いまは、人口も四千五百くらい、木造、深浦よりも少いような具合で、往年の隆々たる勢力を失いかけているようだ。鰺ヶ沢というからには、きっと昔の或る時期に、見事な鰺がたくさんとれたところかとも思われるが、私たちの幼年時代には、ここの鰺の話はちっとも聞かず、ただ、ハタハタだけが有名であった。ハタハタは、このごろ東京にも時たま配給されるようであるから、読者もご存じの事と思うが、鰰、または鱩などという字を書いて、鱗の無い五、六寸くらいのさかなで、まあ、海の鮎とでも思っていただいたら大過ないのではあるまいか。西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のようである。東京の人たちは、あれを油っこくていやだと言っているようだけれど、私たちには非常に淡泊な味のものに感ぜられる。津軽では、あたらしいハタハタを、そのまま薄醤油で煮て片端から食べて、二十匹三十匹を平気でたひらげる人は決して珍らしくない。ハタハタの会などがあって、一ばん多く食べた人には賞品、などという話もしばしば聞いた。東京へ来るハタハタは古くなっているし、それに料理法も知らないだろうから、ことさらまずいものに感ぜられるのであろう。俳句の歳時記などにも、ハタハタが出ているようだし、また、ハタハタの味は淡いという意味の江戸時代の俳人の句を一つ読んだ記憶もあるし、あるいは江戸の通人には、珍味とされていたものかも知れない。いずれにもせよ、このハタハタを食べる事は、津軽の冬の炉辺のたのしみの一つであるという事には間違いない。私は、そのハタハタに依って、幼年時代から鰺ヶ沢の名を知ってはいたのだが、その町を見るのは、いまがはじめてであった。山を背負い、片方はすぐ海の、おそろしくひょろ長い町である。市中はものの匂いや、とかいう凡兆の句を思い出させるような、妙によどんだ甘酸っぱい匂いのする町である。川の水も、どろりと濁っている。どこか、疲れている。木造町のように、ここにも長い「コモヒ」があるけれども、少し崩れかかっている、木造町のコモヒのような涼しさが無い。その日も、ひどくいい天気だったが、日ざしを避けて、コモヒを歩いていても、へんに息づまるような気持がする。飲食店が多いようである。昔は、ここは所謂銘酒屋のようなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思われる。今でも、そのなごりか、おそばやが四、五軒、軒をつらねて、今の時代には珍らしく「やすんで行きせえ。」などと言って道を通る人に呼びかけている。ちょうどお昼だったので、私は、そのおそばやの一軒にはいって、休ませてもらった。おそばに、焼ざかなが二皿ついて、四十銭であった。おそばのおつゆも、まずくなかった。それにしても、この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこ迄行っても、同じような家並が何の変化もなく、だらだらと続いているのである。私は、一里歩いたような気がした。やっと町のはずれに出て、また引返した。町の中心というものが無いのである。たいていの町には、その町の中心勢力が、ある箇所にかたまり、町の重《おもし》になっていて、その町を素通りする旅人にも、ああ、この辺がクライマックスだな、と感じさせるように出来ているものだが、鰺ヶ沢にはそれが無い。扇のかなめがこわれて、ばらばらに、ほどけている感じだ。これでは町の勢力あらそひなど、ごたごたあるのではなかろうかと、れいのドガ式政談さえ胸中に往来したほど、どこか、かなめの心細い町であった。こう書きながら、私は幽かに苦笑しているのであるが、深浦といい鰺ヶ沢といい、これでも私の好きな友人なんかがいて、ああよく来てくれた、と言ってよろこんで迎えてくれて、あちこち案内し説明などしてくれたならば、私はまた、たわいなく、自分の直感を捨て、深浦、鰺ヶ沢こそ、津軽の粋である、と感激の筆致でもって書きかねまいものでもないのだから、実際、旅の印象記などあてにならないものである。深浦、鰺ヶ沢の人は、もしこの私の本を読んでも、だから軽く笑って見のがしてほしい。私の印象記は、決して本質的に、君たちの故土を汚すほどの権威も何も持っていないのだから。
鰺ヶ沢の町を引上げて、また五能線に乗って五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まっすぐに、中畑さんのお宅へ伺った。中畑さんの事は、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈の後仕末を、少しもいやな顔をせず引受けてくれた恩人である。しばらく振りの中畑さんは、いたましいくらいに、ひどくふけていた。昨年、病気をなさって、それから、こんなに痩せたのだそうである。
「時代だじゃあ。あんたが、こんな姿で東京からやって来るようになったもののう。」と、それでも嬉しそうに、私の乞食にも似たる姿をつくづく眺め、「や、靴下が切れているな。」と言って、自分で立って箪笥から上等の靴下を一つ出して私に寄こした。
「これから、ハイカラ町《ちょう》へ行きたいと思ってるんだけど。」
「あ、それはいい。行っていらっしゃい。それ、けい子、御案内。」と中畑さんは、めっきり痩せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでいるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町という名前であったのだけれども、いまは大町とか何とか、別な名前のようである。五所川原町に就いては、序編に於いて述べたが、ここには私の幼年時代の思い出がたくさんある。四、五年前、私は五所川原の或る新聞に次のような随筆を発表した。
「叔母が五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年の頃だったと思います。たしか、左右衛門だった筈です。梅の由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思わず立ち上ってしまった程に驚きました。あの旭座は、その後間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔が、金木から、はっきり見えました。映写室から発火したという話でした。そうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が、罪に問われました。過失傷害致死とかいう罪名でした。子供心にも、どういうわけだか、その技師の罪名と、運命を忘れる事が出来ませんでした。旭《あさひ》座という名前が『火《ひ》』の字に関係があるから焼けたのだという噂も聞きました。二十年も前の事です。
七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎のあたりまでありました。三尺ちかくあったのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたので、それにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちょうど古着屋のまえでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵児帯でした。ひどく恥かしく思いました。叔母が顔色を変えて走って来ました。私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ぶりが悪いので、何かと人にからかわれて、ひとりでひがんでいましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言ってくれました。他の人が、私の器量の悪口を言うと、叔母は、本気に怒りました。みんな、遠い思い出になりました。」
中畑さんのひとり娘のけいちゃんと一緒に中畑さんの家を出て、
「僕は岩木川を、ちょっと見たいんだけどな。ここから遠いか。」
すぐそこだという。
「それじゃ、連れて行って。」
けいちゃんの案内で町を五分も歩いたかと思うと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もっと町から遠かったように覚えている。子供の足には、これくらいの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであろう。それに私は、家の中にばかりいて、外へ出るのがおっかなくて、外出の時には目まいするほど緊張していたものだから、なおさら遠く思われたのだろう。橋がある。これは、記憶とそんなに違わず、いま見てもやっぱり同じ様に、長い橋だ。
「いぬいばし、と言ったかしら。」
「ええ、そう。」
「いぬい、って、どんな字だったかしら。方角の乾《いぬい》だったかな?」
「さあ、そうでしょう。」笑っている。
「自信無し、か。どうでもいいや。渡ってみよう。」
私は片手で欄干を撫でながらゆっくり橋を渡って行った。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似ている。河原一面の緑の草から陽炎がのぼって、何だか眼がくるめくようだ。そうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光って流れている。
「夏には、ここへみんな夕涼みにまいります。他に行くところもないし。」
五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑わう事だろうと思った。
「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちゃんは、川の上流のほうを指差して教えて、「父の自慢の招魂堂。」と笑いながら小声で言い添えた。
なかなか立派な建築物のように見えた。中畑さんは在郷軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れいの侠気を発揮して大いに奔走したに違いない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋の袂に立って、しばらく話をした。
「林檎はもう、間伐《かんばつ》というのか、少しずつ伐って、伐ったあとに馬鈴薯だか何だか植えるって話を聞いたけど。」
「土地によるのじゃないんですか。この辺では、まだ、そんな話は。」
大川の土手の陰に、林檎畑があって、白い粉っぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂いを感ずる。
「けいちゃんからも、ずいぶん林檎を送っていただいたね。こんど、おむこさんをもらうんだって?」
「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。
「いつ? もう近いの?」
「あさってよ。」
「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちゃんは、まるでひと事のように、けろりとしている。「帰ろう。いそがしいんだろう?」
「いいえ、ちっとも。」ひどく落ちついている。ひとり娘で、そうして養子を迎え、家系を嗣ごうとしているひとは、十九や二十の若さでも、やっぱりどこか違っている、と私はひそかに感心した。
「あした小泊へ行って、」引返して、また長い橋を渡りながら、私は他の事を言った。「たけに逢おうと思っているんだ。」
「たけ。あの、小説に出て来るたけですか。」
「うん。そう。」
「よろこぶでしょうねえ。」
「どうだか。逢えるといいけど。」
このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひとがいた。私はその人を、自分の母だと思っているのだ。三十年ちかくも逢わないでいるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依って確定されたといっていいかも知れない。以下は、自作「思い出」の中の文章である。
「六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。たけは私の教育に夢中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教えた。お寺へ屡々連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放《つ》けた人は赤い火のめらめら燃えている籠を背負わされ、めかけ持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。血の池や、針の山や、無間奈落という白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでいた。嘘を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。
そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のように立っていた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから廻して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその廻した人は極楽へ行き、一旦とまりそうになってから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、とたけは言った。たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻って、かならずひっそりと止るのだけれど、私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを廻して見ても皆言い合せたようにからんからんと逆廻りした日があったのである。私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十回となく執拗に廻しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去った。(中略)やがて私は故郷の小学校へ入ったが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかいなくなっていた。或漁村へ嫁に行ったのであるが、私がそのあとを追ふだろうという懸念からか、私には何も言わずに突然いなくなった。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしていた。私に学校の成績を聞いた。私は答えなかった。ほかの誰かが代って知らせたようだ。たけは、油断大敵でせえ、と言っただけで格別ほめもしなかった。」
私の母は病身だったので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになってふらふら立って歩けるようになった頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとわれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。そうして、或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はっと思った。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけいない、たけいない、と断腸の思いで泣いて、それから、二、三日、私はしゃくり上げてばかりいた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはいない。それから、一年ほど経って、ひょっくりたけと逢ったが、たけは、へんによそよそしくしているので、私にはひどく怨めしかった。それっきり、たけと逢っていない。四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を依頼されて、その時、あの「思い出」の中のたけの箇所を朗読した。故郷といえば、たけを思い出すのである。たけは、あの時の私の朗読放送を聞かなかったのであろう。何のたよりも無かった。そのまま今日に到っているのであるが、こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢いたいと切に念願をしていたのだ。いいところは後廻しという、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私はたけのいる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。いや、小泊へ行く前に、五所川原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いてそれから大鰐温泉へでも行って一泊して、そうして、それから最後に小泊へ行こうと思っていたのだが、東京からわずかしか持って来ない私の旅費も、そろそろ心細くなっていたし、それに、さすがに旅の疲れも出て来たのか、これからまたあちこち廻って歩くのも大儀になって来て、大鰐温泉はあきらめ、弘前市には、いよいよ東京へ帰る時に途中でちょっと立寄ろうという具合に予定を変更して、きょうは五所川原の叔母の家に一泊させてもらって、あす、五所川原からまっすぐに、小泊へ行ってしまおうと思い立ったのである。けいちゃんと一緒にハイカラ町の叔母の家へ行ってみると、叔母は不在であった。叔母のお孫さんが病気で弘前の病院に入院しているので、それの附添に行っているというのである。
「あなたが、こっちへ来ているという事を、母はもう知って、ぜひ逢いたいから弘前へ寄こしてくれって電話がありましたよ。」と従姉《いとこ》が笑いながら言った。叔母はこの従姉にお医者さんの養子をとって家を嗣がせているのである。
「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちょっと立ち寄ろうと思っていますから、病院にもきっと行きます。」
「あすは小泊の、たけに逢いに行くんだそうです。」けいちゃんは、何かとご自分の支度でいそがしいだろうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでいる。
「たけに。」従姉は、真面目な顔になり、「それは、いい事です。たけも、なんぼう、よろこぶか、わかりません。」従姉は、私がたけを、どんなにいままで慕っていたか知っているようであった。
「でも、逢えるかどうか。」私には、それが心配であった。もちろん打合せも何もしているわけではない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたずねて行くのである。
「小泊行きのバスは、一日に一回とか聞いていましたけど、」とけいちゃんは立って、台所に貼りつけられてある時間表を調べ、「あしたの一番の汽車でここをお立ちにならないと、中里からのバスに間に合いませんよ。大事な日に、朝寝坊をなさらないように。」ご自分の大事な日をまるで忘れているみたいであった。一番の八時の汽車で五所川原を立って、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗って約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ着けるという見込みがついた。日が暮れて、けいちゃんがやっとお家へ帰ったのと入違いに、先生(お医者さんの養子を、私たちは昔から固有名詞みたいに、そう呼んでいた)が病院を引上げて来られ、それからお酒を飲んで、私は何だかたわいない話ばかりして夜を更かした。
翌る朝、従姉に起こされ、大急ぎでごはんを食べて停車場に駈けつけ、やっと一番の汽車に間に合った。きょうもまた、よいお天気である。私の頭は朦朧としている。二日酔いの気味である。ハイカラ町の家には、こわい人もいないので、前夜、少し飲みすぎたのである。脂汗が、じっとりと額に涌いて出る。爽かな朝日が汽車の中に射込んで、私ひとりが濁って汚れて腐敗しているようで、どうにも、かなわない気持である。このような自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を断然廃す気持にはなれないのである。この酒飲みという弱点のゆえに、私はとかく人から軽んぜられる。世の中に、酒というものさえなかったら、私は或いは聖人にでもなれたのではなかろうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考えて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言われ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言い、駅員に三十分も調べさせ、とうとう芦野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥えたまま改札口に走って来て、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちっとも笑わぬ。当り前の事のように平然としている。少女が汽車に乗ったとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待っていたように思われた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もっと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思った。汽車は、落葉松の林の中を走る。この辺は、金木の公園になっている。沼が見える。芦の湖という名前である。この沼に兄は、むかし遊覧のボートを一艘寄贈した筈である。すぐに、中里に着く。人口、四千くらいの小邑である。この辺から津軽平野も狭小になり、この北の内潟《うちがた》、相内《あいうち》、脇元《わきもと》などの部落に到ると水田もめっきり少くなるので、まあ、ここは津軽平野の北門と言っていいかも知れない。私は幼年時代に、ここの金丸《かなまる》という親戚の呉服屋さんへ遊びに来た事があるが、四つくらいの時であろうか、村のはずれの滝の他には、何も記憶に残っていない。
「修っちゃあ。」と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑いながら立っている。私より一つ二つ年上だった筈であるが、あまり老けていない。
「久し振りだのう。どこへ。」
「いや、小泊だ。」私はもう、早くたけに逢いたくて、他の事はみな上の空である。「このバスで行くんだ。それじゃあ、失敬。」
「そう。帰りには、うちへも寄って下さいよ。こんどあの山の上に、あたらしい家を建てましたから。」
指差された方角を見ると、駅から右手の緑の小山の上に新しい家が一軒立っている。たけの事さえ無かったら、私はこの幼馴染との奇遇をよろこび、あの新宅にもきっと立寄らせていただき、ゆっくり中里の話でも伺ったのに違いないが、何せ一刻を争うみたいに意味も無く気がせいていたので、
「じゃ、また。」などと、いい加減なわかれかたをして、さっさとバスに乗ってしまった。バスは、かなり込んでいた。私は小泊まで約二時間、立ったままであった。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言われる安東氏一族は、この辺に住んでいて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在ったものらしい。バスは山路をのぼって北に進む。路が悪いと見えて、かなり激しくゆれる。私は網棚の横の棒にしっかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景を覗き見る。やっぱり、北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒い。人の肌の匂いが無いのである。山の樹木も、いばらも、笹も、人間と全く無関係に生きている。東海岸の竜飛などに較べると、ずっと優しいけれど、でも、この辺の草木も、やはり「風景」の一歩手前のもので、少しも旅人と会話をしない。やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬというような感じだ。十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、れいに依って以後は、こまかい描写を避けよう。お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の竜飛である。西海岸の部落は、ここでおしまいになっているのだ。つまり私は、五所川原あたりを中心にして、柱時計の振子のように、旧津軽領の西海岸南端の深浦港からふらりと舞いもどってこんどは一気に同じ海岸の北端の小泊港まで来てしまったというわけなのである。ここは人口二千五百くらいのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通いの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはいって仮泊する事になっていたという。江戸時代には、近くの十三港と共に米や木材の積出しがさかんに行われた事など、前にもしばしば書いて置いたつもりだ。いまでも、この村の築港だけは、村に不似合いなくらい立派である。水田は、村のはずれに、ほんの少しあるだけだが、水産物は相当豊富なようで、ソイ、アブラメ、イカ、イワシなどの魚類の他に、コンブ、ワカメの類の海草もたくさんとれるらしい。
「越野たけ、という人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いている人をつかまえ、すぐに聞いた。
「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなかろうかと思われるような中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野という苗字の家がたくさんあるので。」
「前に金木にいた事があるんです。そうして、いまは、五十くらいのひとなんです。」私は懸命である。
「ああ、わかりました。その人なら居ります。」
「いますか。どこにいます。家はどの辺です。」
私は教えられたとおりに歩いて、たけの家を見つけた。間口三間くらいの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思って入口のガラス戸に走り寄ったら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかっているのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いずれも固くしまっている。留守だ。私は途方にくれて、汗を拭った。引越した、なんて事は無かろう。どこかへ、ちょっと外出したのか。いや、東京と違って、田舎ではちょっとの外出に、店にカアテンをおろし、戸じまりをするなどという事は無い。二、三日あるいはもっと永い他出か。こいつあ、だめだ。たけは、どこか他の部落へ出かけたのだ。あり得る事だ。家さえわかったら、もう大丈夫と思っていた僕は馬鹿であった。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さん、と呼んでみたが、もとより返事のある筈は無かった。溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向いの煙草屋にはいり、越野さんの家には誰もいないようですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは、運動会へ行ったんだろう、と事もなげに答えた。私は勢い込んで、
「それで、その運動会は、どこでやっているのです。この近くですか、それとも。」
すぐそこだという。この路をまっすぐに行くと田圃に出て、それから学校があって、運動会はその学校の裏でやっているという。
「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。」
「そうですか。ありがとう。」
教えられたとおりに行くと、なるほど田圃があって、その畦道を伝って行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立っている。その学校の裏に廻ってみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るような気持というのであろう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行われているのだ。まず、万国旗。着飾った娘たち。あちこちに白昼の酔っぱらい。そうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎっしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなったと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵《むしろ》で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、そうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑っているのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思った。たしかに、日出ずる国だと思った。国運を賭しての大戦争のさいちゅうでも、本州の北端の寒村で、このように明るい不思議な大宴会が催されて居る。古代の神々の豪放な笑いと闊達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思いであった。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されていたというようなお伽噺の主人公に私はなったような気がした。さて、私は、この陽気なお神楽の群集の中から、私の育ての親を捜し出さなければならぬ。わかれてから、もはや三十年近くなるのである。眼の大きい頬ぺたの赤いひとであった。右か、左の眼蓋の上に、小さい赤いほくろがあった。私はそれだけしか覚えていないのである。逢えば、わかる。その自信はあったが、この群集の中から捜し出す事は、むずかしいなあ、と私は運動場を見廻してべそをかいた。どうにも、手の下しようが無いのである。私はただ、運動場のまわりを、うろうろ歩くばかりである。
「越野たけというひと、どこにいるか、ご存じじゃありませんか。」私は勇気を出して、ひとりの青年にたずねた。「五十くらいのひとで、金物屋の越野ですが。」それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。
「金物屋の越野。」青年は考えて、「あ、向うのあのへんの小屋にいたような気がするな。」
「そうですか。あのへんですか?」
「さあ、はっきりは、わからない。何だか、見かけたような気がするんだが、まあ、捜してごらん。」
その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りで云々と、青年にきざったらしく打明け話をするわけにも行かぬ。私は青年にお礼を言い、その漠然と指差された方角へ行ってまごまごしてみたが、そんな事でわかる筈は無かった。とうとう私は、昼食さいちゅうの団欒の掛小屋の中に、ぬっと顔を突き入れ、
「おそれいります。あの、失礼ですが、越野たけ、あの、金物屋の越野さんは、こちらじゃございませんか。」
「ちがいますよ。」ふとったおかみさんは不機嫌そうに眉をひそめて言う。
「そうですか。失礼しました。どこか、この辺で見かけなかったでしょうか。」
「さあ、わかりませんねえ。何せ、おおぜいの人ですから。」
私は更にまた別の小屋を覗いて聞いた。わからない。更にまた別の小屋。まるで何かに憑かれたみたいに、たけはいませんか、金物屋のたけはいませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまわったが、わからなかった。二日酔いの気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸へ行って水を飲み、それからまた運動場へ引返して、砂の上に腰をおろし、ジャンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福そうな賑わいを、ぼんやり眺めた。この中に、いるのだ。たしかに、いるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせているのであろう。いっそ、学校の先生にたのんで、メガホンで「越野たけさん、御面会。」とでも叫んでもらおうかしら、とも思ったが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだった。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事までして無理に自分の喜びをでっち上げるのはイヤだった。縁が無いのだ。神様が逢うなとおっしゃっているのだ。帰ろう。私は、ジャンパーを着て立ち上った。また畦道を伝って歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待っていたっていいじゃないか。そうも思ったが、その四時間、宿屋の汚い一室でしょんぼり待っているうちに、もう、たけなんかどうでもいいような、腹立たしい気持になりゃしないだろうか。私は、いまのこの気持のままでたけに逢いたいのだ。しかし、どうしても逢う事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたずねて来て、すぐそこに、いまいるという事がちゃんとわかっていながら、逢えずに帰るというのも、私のこれまでの要領の悪かった生涯にふさわしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのように、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰ろう。考えてみると、いかに育ての親とはいっても、露骨に言えば使用人だ。女中じゃないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕って、ひとめ逢いたいだのなんだの、それだからお前はだめだというのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思うのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違って、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだろう。しっかりせんかい。私はバスの発着所へ行き、バスの出発する時間を聞いた。一時三十分に中里行きが出る。もう、それっきりで、あとは無いという事であった。一時三十分のバスで帰る事にきめた。もう三十分くらいあいだがある。少しおなかもすいて来ている。私は発着所の近くの薄暗い宿屋へ這入って、「大急ぎでひるめしを食べたいのですが。」と言い、また内心は、やっぱり未練のようなものがあって、もしこの宿が感じがよかったら、ここで四時頃まで休ませてもらって、などと考えてもいたのであるが、断られた。きょうは内の者がみな運動会へ行っているので、何も出来ませんと病人らしいおかみさんが、奥の方からちらと顔をのぞかせて冷い返辞をしたのである。いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらい休んでまた立ち上り、ぶらぶらその辺を歩いて、それじゃあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行って、ひと知れず今生《こんじょう》のいとま乞いでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはずれている。そうして戸が二、三寸あいている。天のたすけ! と勇気百倍、グヮラリという品の悪い形容でも使わなければ間に合わないほど勢い込んでガラス戸を押しあげ、
「ごめん下さい、ごめん下さい。」
「はい。」と奥から返事があって、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によって、たけの顔をはっきり思い出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄って行って、
「金木の津島です。」と名乗った。
少女は、あ、と言って笑った。津島の子供を育てたという事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言って聞かせていたのかも知れない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀が無くなった。ありがたいものだと思った。私は、たけの子だ。女中の子だって何だってかまわない。私は大声で言える。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑されたっていい。私は、この少女ときょうだいだ。
「ああ、よかった。」私は思わずそう口走って、「たけは? まだ、運動会?」
「そう。」少女も私に対しては毫末の警戒も含羞もなく、落ちついて首肯き、「私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰ったの。」気の毒だが、その腹いたが、よかったのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまえたからには、もう安心。大丈夫たけに逢える。もう何が何でもこの子に縋って、離れなけれやいいのだ。
「ずいぶん運動場を捜し廻ったんだが、見つからなかった。」
「そう。」と言ってかすかに首肯き、おなかをおさえた。
「まだ痛いか。」
「すこし。」と言った。
「薬を飲んだか。」
黙って首肯く。
「ひどく痛いか。」
笑って、かぶりを振った。
「それじゃあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行ってくれよ。お前もおなかが痛いだろうが、僕だって、遠くから来たんだ。歩けるか。」
「うん。」と大きく首肯いた。
「偉い、偉い。じゃあ一つたのむよ。」
うん、うんと二度続けて首肯き、すぐ土間へ降りて下駄をつっかけ、おなかをおさえて、からだをくの字に曲げながら家を出た。
「運動会で走ったか。」
「走った。」
「賞品をもらったか。」
「もらわない。」
おなかをおさえながら、とっとと私の先に立って歩く。また畦道をとおり、砂丘に出て、学校の裏へまわり、運動場のまんなかを横切って、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはいり、すぐそれと入違いに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ。」私は笑って帽子をとった。
「あらあ。」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を。」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。先年なくなった私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議な安堵感を私に与えてはくれなかった。世の中の母というものは、皆、その子にこのような甘い放心の憩いを与えてやっているものなのだろうか。そうだったら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまっている。そんな有難い母というものがありながら、病気になったり、なまけたりしているやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。
たけの頬は、やっぱり赤くて、そうして、右の眼蓋の上には、小さい罌粟粒ほどの赤いほくろが、ちゃんとある。髪には白髪もまじっているが、でも、いま私のわきにきちんと坐っているたけは、私の幼い頃の思い出のたけと、少しも変っていない。あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶったのは、私が三つで、たけが十四の時だったという。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教えられたのであるが、けれども、私の思い出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがわない老成した人であった。これもあとで、たけから聞いた事だが、その日、たけの締めていたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公していた頃にも締めていたもので、また、薄い紫色の半襟も、やはり同じ頃、私の家からもらったものだという事である。そのせいもあったのかも知れないが、たけは、私の思い出とそっくり同じ匂いで坐っている。だぶん贔屓目であろうが、たけはこの漁村の他のアバ(アヤの Femme)たちとは、まるで違った気位を持っているように感ぜられた。着物は、縞の新しい手織木綿であるが、それと同じ布地のモンペをはき、その縞柄は、まさか、いきではないが、でも、選択がしっかりしている。おろかしくない。全体に、何か、強い雰囲気を持っている。私も、いつまでも黙っていたら、しばらく経ってたけは、まっすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかった。でも、やはり黙っていた。
たけは、ふと気がついたようにして、
「何か、たべないか。」と私に言った。
「要らない。」と答えた。本当に、何もたべたくなかった。
「餅があるよ。」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。
「いいんだ。食いたくないんだ。」
たけは軽く首肯いてそれ以上すすめようともせず、
「餅のほうでないんだものな。」と小声で言って微笑んだ。三十年ちかく互いに消息が無くても、私の酒飲みをちゃんと察しているようである。不思議なものだ。私がにやにやしていたら、たけは眉をひそめ、
「たばこも飲むのう。さっきから、立てつづけにふかしている。たけは、お前に本を読む事だば教えたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきゃのう。」と言った。油断大敵のれいである。私は笑いを収めた。
私が真面目な顔になってしまったら、こんどは、たけのほうで笑い、立ち上って、
「竜神様《りゅうじんさま》の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘った。
「ああ、行こう。」
私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登った。砂山には、スミレが咲いていた。背の低い藤の蔓も、這い拡がっている。たけは黙ってのぼって行く。私も何も言わず、ぶらぶら歩いてついて行った。砂山を登り切って、だらだら降りると竜神様の森があって、その森の小路のところどころに八重桜が咲いている。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取って、歩きながらその枝の花をむしって地べたに投げ捨て、それから立ちどまって、勢いよく私のほうに向き直り、にわかに、堰を切ったみたいに能弁になった。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。三十年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮していたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫《くら》の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺《むがしこ》語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手かずもかかったが、愛《め》ごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言うたびごとに、手にしている桜の小枝の花を夢中で、むしり取っては捨て、むしり取っては捨てている。
「子供は?」とうとうその小枝もへし折って捨て、両肘を張ってモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかって、ひとりだ、と答えた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのように強くて不遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。私は、これらの人と友である。
さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまずペンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽したようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。
底本:「太宰治全集第六巻」筑摩書房
1990(平成2)年4月27日初版第1刷発行
初出:「新風土記叢書7 津輕」小山書店
1944(昭和19)年11月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:八巻美惠
1999年5月21日公開
2018年7月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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2023-07-01T21:28:09+09:00
1688214489
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太宰治「お伽草紙」
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/628.html
青空文庫の「新字旧仮名」をもとに、新仮名に改めました。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card307.html
その際、講談社文庫を参照しました。
お伽草紙
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)間《ま》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)約百万|山《やま》くらい
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
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「あ、鳴った。」
と言って、父はペンを置いて立ち上る。警報くらいでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかえて防空壕にはいる。既に、母は二歳の男の子を背負って壕の奥にうずくまっている。
「近いようだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「そうかね。」と父は不満そうに、「しかし、これくらいで、ちょうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでしょう。」
「うむ、まあ、そうだが、いまは土が凍って固くなっているから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言って、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ましょう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまずしく、容貌も愚なるに似ているが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するというまことに奇異なる術を体得している男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間《ま》の抜けたような妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのずから別個の物語が醞醸せられているのである。
瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジャマッケナ
コブヲ モッテル オジイサン
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでいたのである。(というような気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発しているものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思う浦島さんの話でも、まず日本書紀にその事実がちゃんと記載せられているし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などというものに依っても、それらしいものが伝えられているようだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かったかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやったり、また売り払ったりする癖があるので、蔵書というようなものは昔から持った事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよって、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむずかしいだろう。私は、いま、壕の中にしゃがんでいるのである。そうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられているだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだろう。いや、かえってそのほうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たような自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みというものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらわれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていずれの掌が鳴ったかを決定しようとするような、キザな穿鑿に終るだけの事であろう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在っては、つねに浮かぬ顔をしているのである。と言っても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であったそうである。若い時から無口であって、ただ、まじめに家事にいそしんでいる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしゃいでも、
「そうですか。」と興の無いような返辞をして、「ちょっと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言う。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあって、もうすでに四十ちかくになっているが、これがまた世に珍しいくらいの品行方正、酒も飲まず煙草も吸わず、どころか、笑わず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑われるくらい、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言わざるを得ない種類のものであった。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。そうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないような気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いっそう浮かぬ気持になるばかりであった。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだって、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやっている傍で、黙ってごはんを食べている。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔って来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言い出す。「いよいよ、春になったね。燕も来た。」
言わなくたっていい事である。
お婆さんも息子も、黙っている。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言わなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向いうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
うちでお酒を飲むと、たいていそんな工合いである。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
ヤマヘ ユキマス シバカリニ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾い集める事である。いい加減、たきぎ拾いに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉そうに咳ばらいを一つして、
「よい眺めじゃのう。」
と言い、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しそうな顔をしている。うちにいる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらいのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなって、むずかゆく、そのうちに頬が少しずつふくらみ、撫でさすっていると、いよいよ大きくなって、お爺さんは淋しそうに笑い、
「こりゃ、いい孫が出来た。」と言ったが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言い、また、お婆さんも、
「いのちにかかわるものではないでしょうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かえって、近所の人が、同情して、どういうわけでそんな瘤が出来たのでしょうね、痛みませんか、さぞやジャマッケでしょうね、などとお見舞いの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑ってかぶりを振る。ジャマッケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のように思い、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗う時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗い清めているのである。きょうのように、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなわぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こわい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔うべしじゃ。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだってねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、そうして、えへん! と高く咳ばらいをするのである。
ニワカニ クラク ナリマシタ
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
アメモ ザアザア フリマシタ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このような天候の異変も、しばしばあると思わなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱっぱっと飛び立って矢のように早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言い、なおもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めていたが、雨はいよいよ強くなり、いっこうに止みそうにも見えないので、
「こりゃ、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなった。」と言って立ち上り、大きいくしゃみを一つして、それから拾い集めた柴を背負い、こそこそと林の中に這入って行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちょっと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚《うろ》になっているのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もいませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしゃいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまった。酒飲みというものは酔ってつまらぬ事も言うけれど、しかし、たいていは、このように罪の無いものである。
ユウダチ ヤムノヲ マツウチニ
ツカレガ デタカ オジイサン
イツカ グッスリ ネムリマス
オヤマハ ハレテ クモモナク
アカルイ ツキヨニ ナリマシタ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいうのか、水のような空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のように一ぱいこぼれ落ちている。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠っている。蝙蝠が、はたはたと木の虚《うろ》から飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になっているので驚き、
「これは、いけない。」
と言い、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になった、あの人たちは未だ私を叱った事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰ったのでは、どうも気まずい事になりそうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチャピチャという音がする。
「あるわい。」と、にわかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔い、「や、月が出ている。春宵一刻、——」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚《うろ》から這い出ると、
オヤ ナンデショウ サワグコエ
ミレバ フシギダ ユメデショカ
という事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思えぬ不可思議の光景が展開されているのである。鬼、というものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらいたくさんお目にかかって来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴していないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思っていると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などという文句が新聞の新刊書案内欄に出ていたりするので、まごついてしまう。まさか、その何某先生が鬼のような醜悪の才能を持っているという事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などという怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到っては、文学の鬼、などという、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしていて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだろうと思うと、また、そうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容しているらしいという噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑うばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、そうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持った鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考えられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのという難解な言葉は、あまり使用しないほうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案していた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であって、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちょっと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りというものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあろうが、生憎と私は壕の中にしゃがんで、そうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依って、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言うのか、十数匹と言うのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作って坐り、月下の宴のさいちゅうである。
お爺さん、はじめは、ぎょっとしたが、しかし、お酒飲みというものは、お酒を飲んでいない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔っている時には、かえって衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔いである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやというようなかなりの勇者になっているのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどという醜態を示す事は無かった。虚《うろ》から出た四つ這いの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よさそうに、酔っている。」とつぶやき、そうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みというものは、よそのものたちが酔っているのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであろう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるというような博愛心に似たものを持っているのかも知れない。自分も酔いたいが、隣人もまた、共に楽しく酔ってくれたら、そのよろこびは倍加するもののようである。お爺さんだって、知っている。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼というおそろしい種族のものであるという事は、直覚している。虎の皮のふんどし一つに依っても、それは間違いの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔っている。お爺さんも酔っている。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這いの形のままで、なおもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言っても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有している種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のようだ、とお爺さんは見てとった。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中していた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるっきり種族が違っているのである。だいいち、鉄棒などという物騒なものを持っていない。これすなわち、害心を有していない証拠と言ってよい。しかし、隠者とは言っても、かの竹林の賢者たちのように、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだというようなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙という字は山の人と書かれているから、何でもかまわぬ、山の奥に住んでいる人を仙人と称してよろしいという、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従うなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じているこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するほうが妥当のようなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言ったが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑い、または立ち上って矢鱈にはねまわり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがって行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいう言葉は、まるで無意味なものだということを証明できるように思われる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考えられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑い、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげましょうかい。」とつぶやく。
オドリノ スキナ オジイサン
スグニ トビダシ オドッタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
トテモ オカシイ オモシロイ
お爺さんには、ほろ酔いの勇気がある。なおその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いているのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊って、
むすめ島田で年寄りゃかつら[#「かつら」に傍点]じゃ
赤い襷に迷うも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいう阿波の俗謡をいい声で歌う。鬼ども、喜んだのなんの、キャッキャッケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑いころげる。お爺さんは調子に乗って、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌いつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
オニドモ タイソウ ヨロコンデ
ツキヨニャ カナラズ ヤッテキテ
オドリ オドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
ダイジナ モノヲ アズカロウ
と言い出し、鬼たち互いにひそひそ小声で相談し合い、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光って、なみなみならぬ宝物のように見えるではないか、あれをあずかって置いたら、きっとまたやって来るに違いない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでいるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでいたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取った。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言えば、鬼たち、得意そうにわっと歓声を挙げる。
アサデス ツユノ ヒカルミチ
コブヲ トラレタ オジイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとって、唯一の話相手だったのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなった頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短というようなところか、久しぶりで思うぞんぶん歌ったり踊ったりしただけが得《とく》、という事になるかな? など、のんきな事を考えながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばったり出逢う。
「おはようござります。」と聖人は、頬被りをとって荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついている。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失しているのを見てとって、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言うのは、聖人の道にそむくと思い、気附かぬ振りして黙って別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言い、昨夜はどうしましたとか何とかいう事はいっさい問わず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひっからまって何も言えない。うつむいて、わびしくごはんを食べている。
「瘤が、しなびたようですね。」お婆さんは、ぽつんと言った。
「うむ。」もう何も言いたくなかった。
「破れて、水が出たのでしょう。」とお婆さんは事も無げに言って、澄ましている。
「うむ。」
「また、水がたまって腫れるんでしょうね。」
「そうだろう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかったわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジャマッケな瘤を持ってるお爺さんがいたのである。そうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジャマッケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまおうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のようにあざやかにあらわれ、かえって天下の奇観を呈するようになったのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だって、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるそうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらいどっさりあるとかいう話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目《いちもく》置いて、「旦那」あるいは「先生」などという尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあったが、どうもその左の頬のジャマッケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに美人でもないが色白くぽっちゃりして、少し蓮葉なくらいいつも陽気に笑ってはしゃいでいる。十二、三の娘がひとりあって、これはなかなかの美少女であるが、性質はいくらか生意気の傾向がある。でも、この母と娘は気が合って、いつも何かと笑い騒ぎ、そのために、この家庭は、お旦那の苦虫を噛みつぶしたような表情にもかかはらず、まず明るい印象を人に与える。
「お母さん。お父さんの瘤は、どうしてそんなに赤いのかしら。蛸の頭みたいね。」と生意気な娘は、無遠慮に率直な感想を述べる。母は叱りもせず、ほほほと笑い、
「そうね、でも、木魚《もくぎょ》を頬ぺたに吊しているようにも見えるわね。」
「うるさい!」と旦那は怒り、ぎょろりと妻子を睨んですっくと立ち上り、奥の薄暗い部屋に退却して、そっと鏡を覗き、がっかりして、
「これは、駄目だ。」と呟く。
いっそもう、小刀で切って落そうか、死んだっていい、とまで思いつめた時に、近所のあの酒飲みのお爺さんの瘤が、このごろふっと無くなったという噂を小耳にはさむ。暮夜ひそかに、お旦那は、酒飲み爺さんの草屋を訪れ、そうしてあの、月下の不思議な宴の話を明かしてもらった。
キイテ タイソウ ヨロコンデ
「ヨシヨシ ワタシモ コノコブヲ
ゼヒトモ トッテ モライマショウ」
と勇み立つ。さいわいその夜も月が出ていた。お旦那は、出陣の武士の如く、眼光炯々、口をへの字型にぎゅっと引き結び、いかにしても今宵は、天晴れの舞いを一さし舞い、その鬼どもを感服せしめ、もし万一、感服せずば、この鉄扇にて皆殺しにしてやろう、たかが酒くらいの愚かな鬼ども、何程の事があろうや、と鬼に踊りを見せに行くのだか、鬼退治に行くのだか、何が何やら、ひどい意気込みで鉄扇右手に、肩いからして剣山の奥深く踏み入る。このように、所謂「傑作意識」にこりかたまった人の行う芸事は、とかくまずく出来上るものである。このお爺さんの踊りも、あまりにどうも意気込みがひどすぎて、遂に完全の失敗に終った。お爺さんは、鬼どもの酒宴の円陣のまんなかに恭々粛々と歩を運び、
「ふつつかながら。」と会釈し、鉄扇はらりと開き、屹っと月を見上げて、大樹の如く凝然と動かず。しばらく経って、とんと軽く足踏みして、おもむろに呻き出すは、
「是は阿波の鳴門に一夏《いちげ》を送る僧にて候。さても此浦は平家の一門果て給いたる所なれば痛わしく存じ、毎夜此磯辺に出でて御経を読み奉り候。磯山に、暫し岩根のまつ程に、暫し岩根のまつ程に、誰が夜舟とは白波に、楫音ばかり鳴門の、浦静かなる今宵かな、浦静かなる今宵かな。きのう過ぎ、きょうと暮れ、明日またかくこそ有るべけれ。」そろりとわずかに動いて、またも屹っと月を見上げて端凝たり。
オニドモ ヘイコウ
ジュンジュンニ タッテ ニゲマス
ヤマオクヘ
「待って下さい!」とお旦那は悲痛の声を挙げて鬼の後を追い、「いま逃げられては、たまりません。」
「逃げろ、逃げろ。鍾馗かも知れねえ。」
「いいえ、鍾馗ではございません。」とお旦那も、ここは必死で追いすがり、「お願いがございます。この瘤を、どうか、どうかとって下さいまし。」
「何、瘤?」鬼はうろたえているので聞き違い、「なんだ、そうか、あれは、こないだの爺さんからあずかっている大事の品だが、しかし、お前さんがそんなに欲しいならやってもいい。とにかく、あの踊りは勘弁してくれ。せっかくの酔いが醒める。たのむ。放してくれ。これからまた、別なところへ行って飲み直さなくちゃいけねえ。たのむ。たのむから放せ。おい、誰か、この変な人に、こないだの瘤をかえしてやってくれ。欲しいんだそうだ。」
オニハ コナイダ アズカッタ
コブヲ ツケマス ミギノホホ
オヤオヤ トウトウ コブ フタツ
ブランブラント オモタイナ
ハズカシソウニ オジイサン
ムラヘ カヘッテ ユキマシタ
実に、気の毒な結果になったものだ。お伽噺に於いては、たいてい、悪い事をした人が悪い報いを受けるという結末になるものだが、しかし、このお爺さんは別に悪事を働いたというわけではない。緊張のあまり、踊りがへんてこな形になったというだけの事ではないか。それかと言って、このお爺さんの家庭にも、これという悪人はいなかった。また、あのお酒飲みのお爺さんも、また、その家族も、または、剣山に住む鬼どもだって、少しも悪い事はしていない。つまり、この物語には所謂「不正」の事件は、一つも無かったのに、それでも不幸な人が出てしまったのである。それゆえ、この瘤取り物語から、日常倫理の教訓を抽出しようとすると、たいへんややこしい事になって来るのである。それでは一体、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰寄って質問したなら、私はそれに対してこうでも答えて置くより他はなかろう。
性格の悲喜劇というものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れています。
浦島さん
浦島太郎という人は、丹後の水江《みづのえ》とかいうところに実在していたようである。丹後といえば、いまの京都府の北部である。あの北海岸の某寒村に、いまもなお、太郎をまつった神社があるとかいう話を聞いた事がある。私はその辺に行ってみた事が無いけれども、人の話に依ると、何だかひどく荒涼たる海浜らしい。そこにわが浦島太郎が住んでいた。もちろん、ひとり暮しをしていたわけではない。父も母もある。弟も妹もある。また、おおぜいの召使いもいる。つまり、この海岸で有名な、旧家の長男であったわけである。旧家の長男というものには、昔も今も一貫した或る特徴があるようだ。趣味性、すなわち、之である。善く言えば、風流。悪く言えば、道楽。しかし、道楽とは言っても、女狂いや酒びたりの所謂、放蕩とは大いに趣きを異にしている。下品にがぶがぶ大酒を飲んで素性の悪い女にひっかかり、親兄弟の顔に泥を塗るというような荒《すさ》んだ放蕩者は、次男、三男に多く見掛けられるようである。長男にはそんな野蛮性が無い。先祖伝来の所謂恒産があるものだから、おのずから恒心も生じて、なかなか礼儀正しいものである。つまり、長男の道楽は、次男三男の酒乱の如くムキなものではなく、ほんの片手間の遊びである。そうして、その遊びに依って、旧家の長男にふさわしいゆかしさを人に認めてもらい、みずからもその生活の品位にうっとりする事が出来たら、それでもうすべて満足なのである。
「兄さんには冒険心が無いから、駄目ね。」とことし十六のお転婆の妹が言う。「ケチだわ。」
「いや、そうじゃない。」と十八の乱暴者の弟が反対して、「男振りがよすぎるんだよ。」
この弟は、色が黒くて、ぶおとこである。
浦島太郎は、弟妹たちのそんな無遠慮な批評を聞いても、別に怒りもせず、ただ苦笑して、
「好奇心を爆発させるのも冒険、また、好奇心を抑制するのも、やっぱり冒険、どちらも危険さ。人には、宿命というものがあるんだよ。」と何の事やら、わけのわからんような事を悟り澄ましたみたいな口調で言い、両腕をうしろに組み、ひとり家を出て、あちらこちら海岸を逍遙し、
苅薦《かりごも》の
乱れ出づ
見ゆ
海人《あま》の釣船
などと、れいの風流めいた詩句の断片を口ずさみ、
「人は、なぜお互い批評し合わなければ、生きて行けないのだろう。」という素朴の疑問に就いて鷹揚に首を振って考え、「砂浜の萩の花も、這い寄る小蟹も、入江に休む鴈も、何もこの私を批評しない。人間も、須くかくあるべきだ。人おのおの、生きる流儀を持っている。その流儀を、お互い尊敬し合って行く事が出来ぬものか。誰にも迷惑をかけないように努めて上品な暮しをしているのに、それでも人は、何のかのと言う。うるさいものだ。」と幽かな溜息をつく。
「もし、もし、浦島さん。」とその時、足許で小さい声。
これが、れいの問題の亀である。別段、物識り振るわけではないが、亀にもいろいろの種類がある。淡水に住むものと、鹹水に住むものとは、おのずからその形状も異っているようだ。弁天様の池畔などで、ぐったり寝そべって甲羅を干しているのは、あれは、いしがめとでもいうのであろうか、絵本には時々、浦島さんが、あの石亀の背に乗って小手をかざし、はるか竜宮を眺めている絵があるようだが、あんな亀は、海へ這入ったとたんに鹹水にむせて頓死するだろう。しかし、お祝言の時などの島台の、れいの蓬莱山、尉姥の身辺に鶴と一緒に侍って、鶴は千年、亀は万年とか言われて目出度がられているのは、どうやらこの石亀のようで、すっぽん、たいまいなどのいる島台はあまり見かけられない。それゆえ、絵本の画伯もつい、(蓬莱も竜宮も、同じ様な場所なんだから)浦島さんの案内役も、この石亀に違いないと思い込むのも無理のない事である。しかしどうも、あの爪の生えたぶざいくな手で水を掻き、海底深くもぐって行くのは、不自然のように思われる。ここはどうしても、たいまいの手のような広い鰭状の手で悠々と水を掻きわけてもらはなくてはならぬところだ。しかしまた、いや決して物識り振るわけではないが、ここにもう一つ困った問題がある。たいまいの産地は、本邦では、小笠原、琉球、台湾などの南の諸地方だという話を聞いている。丹後の北海岸、すなわち日本海のあの辺の浜には、たいまいは、遺憾ながら這い上って来そうも無い。それでは、いっそ浦島さんを小笠原か、琉球のひとにしようかとも思ったが、しかし、浦島さんは昔から丹後の水江の人ときまっているらしく、その上、丹後の北海岸には浦島神社が現存しているようだから、いかにお伽噺は絵空事《えそらごと》ときまっているとは言え、日本の歴史を尊重するという理由からでも、そんなあまりの軽々しい出鱈目は許されない。どうしても、これは、小笠原か琉球のたいまいに、日本海までおいでになってもらはなければならぬ。しかしまた、それは困る、と生物学者のほうから抗議が出て、とかく文学者というものには科学精神が欠如している、などと軽蔑せられるのも不本意である。そこで、私は考えた。たいまいの他に、掌の鰭状を為している鹹水産の亀は、無いものか。赤海亀、とかいうものが無かったか。十年ほど前、(私も、としをとったものだ)沼津の海浜の宿で一夏を送った事があったけれども、あの時、あの浜に、甲羅の直径五尺ちかい海亀があがったといって、漁師たちが騒いで、私もたしかにこの眼で見た。赤海亀、という名前だったと記憶する。あれだ。あれにしよう。沼津の浜にあがったのならば、まあ、ぐるりと日本海のほうにまわって、丹後の浜においでになってもらっても、そんなに生物学界の大騒ぎにはなるまいだろうと思われる。それでも潮流がどうのこうのとか言って騒ぐのだったら、もう、私は知らぬ。その、おいでになるわけのない場所に出現したのが、不思議さ、ただの海亀ではあるまい、と言って澄ます事にしよう。科学精神とかいうものも、あんまり、あてになるものじゃないんだ。定理、公理も仮説じゃないか。威張っちゃいけねえ。ところで、その赤海亀は、(赤海亀という名は、ながったらしくて舌にもつれるから、以下、単に亀と呼称する)頸を伸ばして浦島さんを見上げ、
「もし、もし。」と呼び、「無理もねえよ。わかるさ。」と言った。浦島は驚き、
「なんだ、お前。こないだ助けてやった亀ではないか。まだ、こんなところに、うろついていたのか。」
これがつまり、子供のなぶる亀を見て、浦島さんは可哀想にと言って買いとり海へ放してやったという、あの亀なのである。
「うろついていたのか、とは情無い。恨むぜ、若旦那。私は、こう見えても、あなたに御恩がえしをしたくて、あれから毎日毎晩、この浜へ来て若旦那のおいでを待っていたのだ。」
「それは、浅慮というものだ。或いは、無謀とも言えるかも知れない。また子供たちに見つかったら、どうする。こんどは、生きては帰られまい。」
「気取っていやがる。また捕まえられたら、また若旦那に買ってもらうつもりさ。浅慮で悪うござんしたね。私は、どうしたって若旦那に、もう一度お目にかかりたかったんだから仕様がねえ。この仕様がねえ、というところが惚れた弱味よ。心意気を買ってくんな。」
浦島は苦笑して、
「身勝手な奴だ。」と呟く。亀は聞きとがめて、
「なあんだ、若旦那。自家撞着していますぜ。さっきご自分で批評がきらいだなんておっしゃってた癖に、ご自分では、私の事を浅慮だの無謀だの、こんどは身勝手だの、さかんに批評してやがるじゃないか。若旦那こそ身勝手だ。私には私の生きる流儀があるんですからね。ちっとは、みとめて下さいよ。」と見事に逆襲した。
浦島は赤面し、
「私のは批評ではない、これは、訓戒というものだ。諷諫、といってもよかろう。諷諫、耳に逆うもその行を利す、というわけのものだ。」ともっともらしい事を言ってごまかした。
「気取らなけれあ、いい人なんだが。」と亀は小声で言い、「いや、もう私は、何も言わん。私のこの甲羅の上に腰かけて下さい。」
浦島は呆れ、
「お前は、まあ、何を言い出すのです。私はそんな野蛮な事はきらいです。亀の甲羅に腰かけるなどは、それは狂態と言ってよかろう。決して風流の仕草ではない。」
「どうだっていいじゃないか、そんな事は。こっちは、先日のお礼として、これから竜宮城へ御案内しようとしているだけだ。さあ早く私の甲羅に乗って下さい。」
「何、竜宮?」と言って噴き出し、「おふざけでない。お前はお酒でも飲んで酔っているのだろう。とんでもない事を言い出す。竜宮というのは昔から、歌に詠まれ、また神仙譚として伝えられていますが、あれはこの世には無いもの、ね、わかりますか? あれは、古来、私たち風流人の美しい夢、あこがれ、と言ってもいいでしょう。」上品すぎて、少しきざな口調になった。
こんどは亀のほうで噴き出して、
「たまらねえ。風流の講釈は、あとでゆっくり伺いますから、まあ、私の言う事を信じてとにかく私の甲羅に乗って下さい。あなたはどうも冒険の味を知らないからいけない。」
「おや、お前もやっぱり、うちの妹と同じ様な失礼な事を言うね。いかにも私は、冒険というものはあまり好きでない。たとえば、あれは、曲芸のようなものだ。派手なようでも、やはり下品《げぼん》だ。邪道、と言っていいかも知れない。宿命に対する諦観が無い。伝統に就いての教養が無い。めくら蛇におじず、とでもいうような形だ。私ども正統の風流の士のいたく顰蹙するところのものだ。軽蔑している、と言っていいかも知れない。私は先人のおだやかな道を、まっすぐに歩いて行きたい。」
「ぷ!」と亀はまた噴き出し、「その先人の道こそ、冒険の道じゃありませんか。いや、冒険なんて下手な言葉を使うから何か血なまぐさくて不衛生な無頼漢みたいな感じがして来るけれども、信じる力とでも言い直したらどうでしょう。あの谷の向う側にたしかに美しい花が咲いていると信じ得た人だけが、何の躊躇もなく藤蔓にすがって向う側に渡って行きます。それを人は曲芸かと思って、或いは喝采し、或いは何の人気取りめがと顰蹙します。しかし、それは絶対に曲芸師の綱渡りとは違っているのです。藤蔓にすがって谷を渡っている人は、ただ向う側の花を見たいだけなのです。自分がいま冒険をしているなんて、そんな卑俗な見栄みたいなものは持ってやしないんです。なんの冒険が自慢になるものですか。ばかばかしい。信じているのです。花のある事を信じ切っているのです。そんな姿を、まあ、仮に冒険と呼んでいるだけです。あなたに冒険心が無いというのは、あなたには信じる能力が無いという事です。信じる事は、下品《げぼん》ですか。信じる事は、邪道ですか。どうも、あなたがた紳士は、信じない事を誇りにして生きているのだから、しまつが悪いや。それはね、頭のよさじゃないんですよ。もっと卑しいものなのですよ。吝嗇というものです。損をしたくないという事ばかり考えている証拠ですよ。御安心なさい。誰も、あなたに、ものをねだりゃしませんよ。人の深切をさえ、あなたたちは素直に受取る事を知らないんだからなあ。あとのお返しが大変だ、なんてね。いや、どうも、風流の士なんてのは、ケチなもんだ。」
「ひどい事を言う。妹や弟にさんざん言われて、浜へ出ると、こんどは助けてやった亀にまで同じ様な失敬な批評を加えられる。どうも、われとわが身に伝統の誇りを自覚していない奴は、好き勝手な事を言うものだ。一種のヤケと言ってよかろう。私には何でもよくわかっているのだ。私の口から言うべき事では無いが、お前たちの宿命と私の宿命には、たいへんな階級の差がある。生れた時から、もう違っているのだ。私のせいではない。それは天から与えられたものだ。しかし、お前たちには、それがよっぽど口惜《くや》しいらしい。何のかのと言って、私の宿命をお前たちの宿命にまで引下そうとしているが、しかし、天の配剤、人事の及ばざるところさ。お前は私を竜宮へ連れて行くなどと大法螺を吹いて、私と対等の附合いをしようとたくらんでいるらしいが、もういい、私には何もかもよくわかっているのだから、あまり悪あがきしないでさっさと海の底のお前の住居へ帰れ。なんだ、せっかく私が助けてやったのに、また子供たちに捕まったら何にもならぬ。お前たちこそ、人の深切を素直に受け取る法を知らぬ。」
「えへへ、」と亀は不敵に笑い、「せっかく助けてやったは恐れいる。紳士は、これだから、いやさ。自分がひとに深切を施すのは、たいへんの美徳で、そうして内心いささか報恩などを期待しているくせに、ひとの深切には、いやもうひどい警戒で、あいつと対等の附合いになってはかなわぬなどと考えているんだから、げっそりしますよ。それじゃ私だって言いますが、あなたが私を助けてくれたのは、私が亀で、そうして、いじめている相手は子供だったからでしょう。亀と子供じゃあ、その間にはいって仲裁しても、あとくされがありませんからね。それに、子供たちには、五文のお金でも大金ですからね。しかし、まあ、五文とは値切ったものだ。私は、も少し出すかと思った。あなたのケチには、呆れましたよ。私のからだの値段が、たった五文かと思ったら、私は情無かったね。それにしてもあの時、相手が亀と子供だったから、あなたは五文でも出して仲裁したんだ。まあ、気まぐれだね。しかし、あの時の相手が亀と子供でなく、まあ、たとえば荒くれた漁師が病気の乞食をいじめていたのだったら、あなたは五文はおろか、一文だって出さず、いや、ただ顔をしかめて急ぎ足で通り過ぎたに違いないんだ。あなたたちは、人生の切実の姿を見せつけられるのを、とても、いやがるからね。それこそ御自身の高級な宿命に、糞尿を浴びせられたような気がするらしい。あなたたちの深切は、遊びだ。享楽だ。亀だから助けたんだ。子供だからお金をやったんだ。荒くれた漁師と病気の乞食の場合は、まつぴらなんだ。実生活の生臭い風にお顔を撫でられるのが、とてもとても、いやなんだ。お手を、よごすのがいやなのさ。なんてね、こんなのを、聞いたふうの事、と言うんですよ、浦島さん。あなたは怒りやしませんね。だって、私はあなたを好きなんだもの、いや、怒るかな? あなたのように上流の宿命を持っているお方たちは、私たち下賤のものに好かれる事をさえ不名誉だと思っているらしいのだから始末がわるい。殊に私は亀なんだからな。亀に好かれたんじゃあ気味がわるいか、しかし、まあ勘弁して下さいよ、好き嫌いは理窟じゃ無いんだ。あなたに助けられたから好きというわけでも無いし、あなたが風流人だから好きというのでも無い。ただ、ふっと好きなんだ。好きだから、あなたの悪口を言って、あなたをからかってみたくなるんだ。これがつまり私たち爬虫類の愛情の表現の仕方なのさ。どうもね、爬虫類だからね、蛇の親類なんだからね、信用のないのも無理がねえよ。しかし私は、エデンの園の蛇じゃない、はばかりながら日本の亀だ。あなたに竜宮行きをそそのかして堕落させようなんて、たくらんでいるんじゃねえのだ。心意気を買ってくんな。私はただ、あなたと一緒に遊びたいのだ。竜宮へ行って遊びたいのだ。あの国には、うるさい批評なんか無いのだ。みんな、のんびり暮しているよ。だから、遊ぶにはもって来いのところなんだ。私は陸にもこうして上って来れるし、また海の底へも、もぐって行けるから、両方の暮しを比較して眺める事が出来るのだが、どうも、陸上の生活は騒がしい。お互い批評が多すぎるよ。陸上生活の会話の全部が、人の悪口か、でなければ自分の広告だ。うんざりするよ。私もちょいちょいこうして陸に上って来たお蔭で、陸上生活に少しかぶれて、それこそ聞いたふうの批評なんかを口にするようになって、どうもこれはとんでもない悪影響を受けたものだと思いながらも、この批評癖にも、やめられぬ味がありまして、批評の無い竜宮城の暮しにもちょっと退屈を感ずるようになったのです。どうも、悪い癖を覚えたものです。文明病の一種ですかね。いまでは私は、自分が海の魚だか陸の虫だか、わからなくなりましたよ。たとえばあの、鳥だか獣だかわからぬ蝙蝠のようなものですね。悲しき性《さが》になりました。まあ海底の異端者とでもいつたようなところですかね。だんだん故郷の竜宮城にも居にくくなりましてね、しかし、あそこは遊ぶには、いいところだ、それだけは保証します。信じて下さい。歌と舞いと、美食と酒の国です。あなたたち風流人には、もって来いの国です。あなたは、さっき批評はいやだとつくづく慨歎していたではありませんか、竜宮には批評はありませんよ。」
浦島は亀の驚くべき饒舌に閉口し切っていたが、しかし、その最後の一言に、ふと心をひかれた。
「本当になあ、そんな国があったらなあ。」
「あれ、まだ疑っていやがる。私は嘘をついているのじゃありません。なぜ私を信じないんです。怒りますよ。実行しないで、ただ、あこがれて溜息をついているのが風流人ですか。いやらしいものだ。」
性温厚の浦島も、そんなにまでひどく罵倒されては、このまま引下るわけにも行かなくなった。
「それじゃまあ仕方が無い。」と苦笑しながら、「仰せに随って、お前の甲羅に腰かけてみるか。」
「言う事すべて気にいらん。」と亀は本気にふくれて、「腰かけてみる[#「みる」に傍点]か、とは何事です。腰かけてみる[#「みる」に傍点]のも、腰かけるのも、結果に於いては同じじゃないか。疑いながら、ためしに右へ曲るのも、信じて断乎として右へ曲るのも、その運命は同じ事です。どっちにしたって引返すことは出来ないんだ。試みたとたんに、あなたの運命がちゃんときめられてしまうのだ。人生には試みなんて、存在しないんだ。やってみる[#「みる」に傍点]のは、やったのと同じだ。実にあなたたちは、往生際が悪い。引返す事が出来るものだと思っている。」
「わかったよ、わかったよ。それでは信じて乗せてもらおう!」
「よし来た。」
亀の甲羅に浦島が腰をおろしたとみるみる亀の背中はひろがって畳二枚くらい敷けるくらいの大きさになり、ゆらりと動いて海にはいる。汀から一丁ほど泳いで、それから亀は、
「ちょっと眼をつぶって。」ときびしい口調で命令し、浦島は素直に眼をつぶると夕立ちの如き音がして、身辺ほのあたたかく、春風に似て春風よりも少し重たい風が耳朶をなぶる。
「水深千尋。」と亀が言う。
浦島は船酔いに似た胸苦しさを覚えた。
「吐いてもいいか。」と眼をつぶったまま亀に尋ねる。
「なんだ、へどを吐くのか。」と亀は以前の剽軽な口調にかえって、「きたねえ船客だな。おや、馬鹿正直に、まだ眼をつぶっていやがる。これだから私は、太郎さんが好きさ。もう眼をあいてもよござんすよ。眼をあいて、よもの景色をごらんになったら、胸の悪いのなんかすぐになおってしまいます。」
眼をひらけば冥茫模糊、薄みどり色の奇妙な明るさで、そうしてどこにも影が無く、ただ茫々たるものである。
「竜宮か。」と浦島は寝呆けているような間《ま》伸びた口調で言った。
「何を言ってるんだ。まだやっと水深千尋じゃないか。竜宮は海底一万尋だ。」
「へええ。」浦島は妙な声を出した。「海ってものは、広いもんだねえ。」
「浜育ちのくせに、山奥の猿みたいな事を言うなよ。あなたの家の泉水よりは少し広いさ。」
前後左右どちらを見ても、ただ杳々茫々、脚下を覗いてもやはり際限なく薄みどり色のほの明るさが続いているばかりで、上を仰いでも、これまた蒼穹に非ざる洸洋たる大洞、ふたりの話声の他には、物音一つ無く、春風に似て春風よりも少しねばっこいような風が浦島の耳朶をくすぐっているだけである。
浦島はやがて遥か右上方に幽かな、一握りの灰を撒いたくらいの汚点を認めて、
「あれは何だ。雲かね?」と亀に尋ねる。
「冗談言っちゃいけねえ。海の中に雲なんか流れていやしねえ。」
「それじゃ何だ。墨汁一滴を落したような感じだ。単なる塵芥かね。」
「間抜けだね、あなたは。見たらわかりそうなものだ。あれは、鯛の大群じゃないか。」
「へえ? 微々たるものだね。あれでも二、三百匹はいるんだろうね。」
「馬鹿だな。」と亀はせせら笑い、「本気で云っているのか?」
「それじゃあ、二、三千か。」
「しっかりしてくれ。まず、ざっと五、六百万。」
「五、六百万? おどかしちゃいけない。」
亀はにやにや笑って、
「あれは、鯛じゃないんだ。海の火事だ。ひどい煙だ。あれだけの煙だと、そうさね、日本の国を二十ほど寄せ集めたくらいの広大の場所が燃えている。」
「嘘をつけ。海の中で火が燃えるもんか。」
「浅慮、浅慮。水の中だって酸素があるんですからね。火の燃えないわけはない。」
「ごまかすな。それは無智な詭弁だ。冗談はさて置いて、いったいあの、ゴミのようなものは何だ。やっぱり、鯛かね? まさか、火事じゃあるまい。」
「いや、火事だ。いったい、あなた、陸の世界の無数の河川が昼夜をわかたず、海にそそぎ込んでも、それでも海の水が増しもせず減りもせず、いつも同じ量をちゃんと保って居られるのは、どういうわけか、考えてみた事がありますか。海のほうだって困りますよ。あんなにじゃんじゃん水を注ぎ込まれちゃ、処置に窮しますよ。それでまあ時々、あんな工合いにして不用な水を焼き捨てるのですな。やあ、燃える、燃える、大火事だ。」
「なに、ちっとも煙が広がりゃしない。いったい、あれは、何さ。さっきから、少しも動かないところを見ると、さかなの大群でもなさそうだ。意地わるな冗談なんか云わないで、教えておくれ。」
「それじゃ教えてあげましょう。あれはね、月の影法師です。」
「また、かつぐんじゃないか?」
「いいえ、海の底には、陸の影法師は何も写りませんが、天体の影法師は、やはり真上から落ちて来ますから写るのです。月の影法師だけでなく、星辰の影法師も皆、写ります。だから、竜宮では、その影法師をたよりに暦を作り、四季を定めます。あの月の影法師は、まんまるより少し欠けていますから、きょうは十三夜かな?」
真面目な口調でそういうので、浦島も、或いはそうかも知れぬとも思ったが、しかし、何だかへんだとも思った。でもまた、見渡す限り、ただ薄みどり色の茫洋乎たる大空洞の片隅に、幽かな黒一点をとどめているものが、たといそれは嘘にしても月の影法師だと云われて見ると、鯛の大群や火事だと思って眺めるよりは、風流人の浦島にとって、はるかに趣きがあり、郷愁をそそるに足るものがあった。
そのうちに、あたりは異様に暗くなり、ごうという凄じい音と共に烈風の如きものが押し寄せて来て、浦島はもう少しで亀の背中からころげ落ちるところであった。
「ちょっとまた眼をつぶって。」と亀は厳粛な口調で言い、「ここはちょうど、竜宮の入口になっているのです。人間が海の底を探険しても、たいていここが海底のどんづまりだと見極めて引上げて行くのです。ここを越えて行くのは、人間では、あなたが最初で、また最後かも知れません。」
くるりと亀はひっくりかえったように、浦島には思われた。ひっくりかえったまま、つまり、腹を上にしたまま泳いで、そうして浦島は亀の甲羅にくっついて、宙返りを半分しかけたような形で、けれどもこぼれ落ちる事もなく、さかさにすっと亀と共に上の方へ進行するような、まことに妙な錯覚を感じたのである。
「眼をあいて、ごらん。」と亀に言われた時には、しかし、もうそんな、さかさの感じは無く、当り前に亀の甲羅の上に坐って、そうして、亀は下へ下へと泳いでいる。
あたりは、あけぼのの如き薄明で、脚下にぼんやり白いものが見える。どうも、何だか、山のようだ。塔が連立しているようにも見えるが、塔にしては洪大すぎる。
「あれは何だ。山か。」
「そうです。」
「竜宮の山か。」興奮のため声が嗄れていた。
「そうです。」亀は、せっせと泳ぐ。
「まっ白じゃないか。雪が降っているのかしら。」
「どうも、高級な宿命を持っている人は、考える事も違いますね。立派なものだ。海の底にも雪が降ると思っているんだからね。」
「しかし、海の底にも火事があるそうだし、」と浦島は、さっきの仕返しをするつもりで、「雪だって降るだろうさ。何せ、酸素があるんだから。」
「雪と酸素じゃ縁が遠いや。縁があっても、まず、風と桶屋くらいの関係じゃないか。ばかばかしい。そんな事で私をおさえようたって駄目さ。どうも、お上品なお方たちは、洒落が下手だ。雪はよいよい帰りはこわいってのはどんなもんだい。あんまり、うまくもねえか。それでも酸素よりはいいだろう。さんそネッと来るか。はくそみたいだ。酸素はどうも、助からねえ。」やはり、口では亀にかなわない。
浦島は苦笑しながら、
「ところで、あの山は、」と云いかけると、亀はまたあざ笑い、
「ところで、とは大きく出たじゃないか。ところであの山は、雪が降っているのではないのです。あれは真珠の山です。」
「真珠?」と浦島は驚き、「いや、嘘だろう。たとい真珠を十万粒二十万粒積み重ねたって、あれくらいの高い山にはなるまい。」
「十万粒、二十万粒とは、ケチな勘定の仕方だ。竜宮では真珠を一粒二粒なんて、そんなこまかい算え方はしませんよ。一山《ひとやま》、二山《ふたやま》、とやるね。一山は約三百億粒だとかいう話だが、誰もそれをいちいち算えた事も無い。それを約百万|山《やま》くらい積み重ねると、まずざっとあれくらいの峰が出来る。真珠の捨場には困っているんだ。もとをただせば、さかなの糞だからね。」
とかくして竜宮の正門に着く。案外に小さい。真珠の山の裾に蛍光を発してちょこんと立っている。浦島は亀の甲羅から降りて、亀に案内をせられ、小腰をかがめてその正門をくぐる。あたりは薄明である。そうして森閑としている。
「静かだね。おそろしいくらいだ。地獄じゃあるまいね。」
「しっかりしてくれ、若旦那。」と亀は鰭でもって浦島の背中を叩き、「王宮というものは皆このように静かなものだよ。丹後の浜の大漁踊りみたいな馬鹿騒ぎを年中やっているのが竜宮だなんて陳腐な空想をしていたんじゃねえのか。あわれなものだ。簡素幽邃というのが、あなたたちの風流の極致だろうじゃないか。地獄とは、あさましい。馴れてくると、この薄暗いのが、何とも言えずやわらかく心を休めてくれる。足許に気をつけて下さいよ。滑ってころんだりしては醜態だ。あれ、あなたはまだ草履をはいているね。脱ぎなさいよ、失礼な。」
浦島は赤面して草履を脱いだ。はだしで歩くと、足の裏がいやにぬらぬらする。
「何だこの道は。気持が悪い。」
「道じゃない。ここは廊下ですよ。あなたは、もう竜宮城へはいっているのです。」
「そうかね。」と驚いてあたりを見廻したが、壁も柱も何も無い。薄闇が、ただ漾々と身辺に動いている。
「竜宮には雨も降らなければ、雪も降りません。」と亀はへんに慈愛深げな口調で教える。「だから、陸上の家のようにあんな窮屈な屋根や壁を作る必要は無いのです。」
「でも、門には屋根があったじゃないか。」
「あれは、目じるしです。門だけではなく、乙姫のお部屋にも、屋根や壁はあります。しかし、それもまた乙姫の尊厳を維持するために作られたもので、雨露を防ぐためのものではありません。」
「そんなものかね。」と浦島はなおもけげんな顔つきで、「その乙姫の部屋というのは、どこにあるの? 見渡したところ冥途もかくや、蕭寂たる幽境、一木一草も見当らんじゃないか。」
「どうも田舎者には困るね。でつかい建物《たてもの》や、ごてごてした装飾には口をあけておったまげても、こんな幽邃の美には一向に感心しない。浦島さん、あなたの上品《じょうぼん》もあてにならんね。もっとも丹後の荒磯の風流人じゃ無理もないがね。伝統の教養とやらも、聞いて冷汗が出るよ。正統の風流人とはよくも言った。こうして実地に臨んでみると、田舎者まる出しなんだから恐れいる。人真似こまねの風流ごっこは、まあ、これからは、やめるんだね。」
亀の毒舌は竜宮に着いたら、何だかまた一段と凄くなって来た。
浦島は心細さ限り無く、
「だって、何も見えやしないんだもの。」とほとんど泣き声で言った。
「だから、足許に気をつけなさいって、云ってるじゃありませんか。この廊下は、ただの廊下じゃないんですよ。魚の掛橋ですよ。よく気をつけてごらんなさい。幾億という魚がひしとかたまって、廊下の床《ゆか》みたいな工合いになっているのですよ。」
浦島はぎょっとして爪先き立った。どうりで、さっきから足の裏がぬらぬらすると思っていた。見ると、なるほど、大小無数の魚どもがすきまもなく背中を並べて、身動きもせず凝っとしている。
「これは、ひどい。」と浦島は、にわかにおっかなびっくりの歩調になって、「悪い趣味だ。これがすなわち簡素幽邃の美かね。さかなの背中を踏んづけて歩くなんて、野蛮きわまる事じゃないか。だいいちこのさかなたちに気の毒だ。こんな奇妙な風流は、私のような田舎者にはわかりませんねえ。」とさっき田舎者と言われた鬱憤をここに於いてはらして、ちょっと溜飲がさがった。
「いいえ、」とその時、足許で細い声がして、「私たちはここに毎日集って、乙姫さまの琴の音《ね》に聞き惚れているのです。魚の掛橋は風流のために作っているのではありません。かまわず、どうかお通り下さい。」
「そうですか。」と浦島はひそかに苦笑して、「私はまた、これも竜宮の装飾の一つかと思って。」
「それだけじゃあるまい。」亀はすかさず口をはさんで、「ひょっとしたら、この掛橋も浦島の若旦那を歓迎のために、乙姫さまが特にさかなたちに命じて、」
「あ、これ、」と浦島は狼狽し、赤面し、「まさか、それほど私は自惚れてはいません。でも、ね、お前はこれを廊下の床《ゆか》のかわりだなんていい加減を言うものだから、私も、つい、その、さかなたちが踏まれて痛いかと思ってね。」
「さかなの世界には、床《ゆか》なんてものは必要がありません。これがまあ、陸上の家にたとえたならば、廊下の床《ゆか》にでも当るかと思って私はあんな説明をしてあげたので、決していい加減を言ったんじゃない。なに、さかなたちは痛いなんて思うもんですか。海の底では、あなたのからだだって紙一枚の重さくらいしか無いのですよ。何だか、ご自分のからだが、ふわふわ浮くような気がするでしょう?」
そう言われてみると、ふわふわするような感じがしないでもない。浦島は、重ね重ね、亀から無用の嘲弄を受けているような気がして、いまいましくてならぬ。
「私はもう何も信じる気がしなくなった。これだから私は、冒険というものはいやなんだ。だまされたって、それを看破する法が無いんだからね。ただもう、道案内者の言う事に従っていなければいけない。これはこんなものだと言われたら、それっきりなんだからね。実に、冒険は人を欺く。琴の音《ね》も何も、ちっとも聞えやしないじゃないか。」とついに八つ当りの論法に変じた。
亀は落ちついて、
「あなたはどうも陸上の平面の生活ばかりしているから、目標は東西南北のいずれかにあるとばかり思っていらっしゃる。しかし、海にはもう二元の方向がある。すなわち、上と下です。あなたはさっきから、乙姫の居所を前方にばかり求めていらっしゃる。ここにあなたの重大なる誤謬が存在していたわけだ。なぜ、あなたは頭上を見ないのです。また、脚下を見ないのです。海の世界は浮いて漂っているものです。さっきの正門も、また、あの真珠の山だって、みんな少し浮いて動いているのです。あなた自身がまた上下左右にゆられているので、他の物の動いているのが、わからないだけなのです。あなたは、さっきからずいぶん前方にお進みになったように思っていらっしゃるかも知れないけれど、まあ、同じ位置ですね。かえって後退しているかも知れない。いまは潮の関係で、ずんずんうしろに流されています。そうして、さっきから見ると、百尋くらいみんな一緒に上方に浮きました。まあ、とにかくこの魚の掛橋をもう少し渡ってみましょう。ほうら、魚の背中もだんだんまばらになって来たでしょう。足を踏みはずさないように気をつけて下さいよ。なに、踏みはずしたって、すとんと落下する気づかいはありませんがね、何せ、あなたも紙一枚の重さなんだから。つまり、この橋は断橋なのです。この廊下を渡っても前方には何も無い。しかし、脚下を見よです。おい、さかなども、少しどけ、若旦那が乙姫さまに逢いに行くのだ。こいつらは、こうして竜宮城の本丸の天蓋をなしているようなものです。海月《くらげ》なす漂える天蓋、とでも言ったら、あなたたち風流人は喜びますかね。」
さかなたちは、静かに無言で左右に散る。かすかに、琴の音が脚下に聞える。日本の琴の音によく似ているが、しかし、あれほど強くはなく、もっと柔かで、はかなく、そうしてへんに嫋々たる余韻がある。菊の露。薄ごろも。夕空。きぬた。浮寝。きぎす。どれでもない。風流人の浦島にも、何だか見当のつかぬ可憐な、たよりない、けれども陸上では聞く事の出来ぬ気高い凄《きび》しさが、その底に流れている。
「不思議な曲ですね。あれは、何という曲ですか。」
亀もちょっと耳をすまして聞いて、
「聖諦。」と一言、答えた。
「せいてい?」
「神聖の聖の字に、あきらめ。」
「ああ、そう、聖諦。」と呟いて浦島は、はじめて海の底の竜宮の生活に、自分たちの趣味と段違いの崇高なものを感得した。いかにも自分の上品《じょうぼん》などは、あてにならぬ。伝統の教養だの、正統の風流だのと自分が云うのを聞いて亀が冷汗をかくのも無理がない。自分の風流は人真似こまねだ。田舎の山猿にちがいない。
「これからは、お前の言う事は何でも信じるよ。聖諦。なるほどなあ。」浦島は呆然とつっ立ったまま、なおもその不思議な聖諦の曲に耳を傾けた。
「さあ、ここから飛び降りますよ。あぶない事はありません。こうして両腕をひろげて一歩足を踏み出すと、ゆらゆらと気持よく落下します。この魚の掛橋の尽きたところから真っすぐに降りて行くと、ちょうど竜宮の正殿の階段の前に着くのです。さあ、何をぼんやりしているのです。飛び降りますよ、いいですか。」
亀はゆらゆら沈下する。浦島も気をとり直して、両腕をひろげ、魚の掛橋の外に一歩、足を踏み出すと、すっと下に気持よく吸い込まれ、頬が微風に吹かれているように涼しく、やがてあたりが、緑の樹陰のような色合いになり、琴の音もいよいよ近くに聞えて来たと思ううちに、亀と並んで正殿の階段の前に立っていた。階段とは言っても、段々が一つずつ分明になっているわけではなく、灰色の鈍く光る小さい珠の敷きつめられたゆるい傾斜の坂のようなものである。
「これも真珠かね、」と浦島は小声で尋ねる。
亀は、あわれむような眼で浦島の顔を見て、
「珠を見れば、何でも真珠だ。真珠は、捨てられて、あんなに高い山になっているじゃありませんか。まあ、ちょっとその珠を手で掬ってごらんなさい。」
浦島は言われたとおりに両手で珠を掬おうとすると、ひやりと冷たい。
「あ、霰《あられ》だ!」
「冗談じゃない。ついでにそれを口の中に入れてごらん。」
浦島は素直に、その氷のように冷たい珠を、五つ六つ頬張った。
「うまい。」
「そうでしょう? これは、海の桜桃です。これを食べると三百年間、老いる事が無いのです。」
「そうか、いくつ食べても同じ事か。」と風流人の浦島も、ついたしなみを忘れて、もっと掬って食べようという気勢を示した。「私はどうも、老醜というものがきらいでね。死ぬのは、そんなにこわくもないけれど、どうも老醜だけは私の趣味に合わない。もっと、食べて見ようかしら。」
「笑っていますよ。上をごらんなさい。乙姫さまがお迎えに出ています。やあ、きょうはまた一段とお綺麗。」
桜桃の坂の尽きるところに、青い薄布を身にまとった小柄の女性が幽かに笑いながら立っている。薄布をとおして真白い肌が見える。浦島はあわてて眼をそらし、
「乙姫か。」と亀に囁く。浦島の顔は真赤である。
「きまっているじゃありませんか。何をへどもどしているのです。さあ、早く御挨拶をなさい。」
浦島はいよいよまごつき、
「でも、何と言ったらいいんだい。私のようなものが名乗りを挙げてみたって、どうにもならんし、どだいどうも、私たちの訪問は唐突だよ。意味が無いよ。帰らうよ。」と上級の宿命の筈の浦島も、乙姫の前では、すっかり卑屈になって逃支度をはじめた。
「乙姫さまは、あなたの事なんか、もうとうにご存じですよ。階前万里というじゃありませんか。観念して、ただていねいにお辞儀しておけばいいのです。また、たとい乙姫さまが、あなたの事を何もご存じ無くったって、乙姫さまは警戒なんてケチくさい事はてんで知らないお方ですから、何も斟酌には及びません。遊びに来ましたよ、と言えばいい。」
「まさか、そんな失礼な。ああ、笑っていらっしゃる。とにかく、お辞儀をしよう。」
浦島は、両手が自分の足の爪先にとどくほどのていねいなお辞儀をした。
亀は、はらはらして、
「ていねいすぎる。いやになるね。あなたは私の恩人じゃないか。も少し威厳のある態度を示して下さいよ。へたへたと最敬礼なんかして、上品《じょうぼん》もくそもあったものじゃない。それ、乙姫さまのお招きだ。行きましょう。さあ、ちゃんと胸を張って、おれは日本一の好男子で、そうして、最上級の風流人だというような顔をして威張って歩くのですよ。あなたは私たちに対してはひどく高慢な乙な構え方をするけれども、女には、からきし意気地が無いんですね。」
「いやいや、高貴なお方には、それ相当の礼を尽さなければ。」と緊張のあまり声がしゃがれて、足がもつれ、よろよろと千鳥足で階段を昇り、見渡すと、そこは万畳敷とでも云っていいくらいの広い座敷になっている。いや、座敷というよりは、庭園と言った方が適切かも知れない。どこから射して来るのか樹陰のような緑色の光線を受けて、模糊と霞んでいるその万畳敷とでも言うべき広場には、やはり霰のような小粒の珠が敷きつめられ、ところどころに黒い岩が秩序無くころがっていて、そうしてそれっきりである。屋根はもちろん、柱一本も無く、見渡す限り廃墟と言っていいくらいの荒涼たる大広場である。気をつけて見ると、それでも小粒の珠のすきまから、ちょいちょい紫色の小さい花が顔を出しているのが見えて、それがまた、かえって淋しさを添え、これが幽邃の極というのかも知れないが、しかし、よくもまあ、こんな心細いような場所で生活が出来るものだ、と感歎の溜息に似たものがふうと出て、さらにまた思いをあらたにして乙姫の顔をそっと盗み見た。
乙姫は無言で、くるりとうしろを向き、そろそろと歩き出す。その時はじめて気がついたのであるが、乙姫の背後には、めだかよりも、もっと小さい金色の魚が無数にかたまってぴらぴら泳いで、乙姫が歩けばそのとおりに従って移動し、そのさまは金色の雨がたえず乙姫の身辺に降り注いでいるようにも見えて、さすがにこの世のものならぬ貴い気配が感ぜられた。
乙姫は身にまとっている薄布をなびかせ裸足で歩いているが、よく見ると、その青白い小さい足は、下の小粒の珠を踏んではいない。足の裏と珠との間がほんのわずか隙《す》いている。あの足の裏は、いまだいちども、ものを踏んだ事が無いのかも知れぬ。生れたばかりの赤ん坊の足の裏と同じようにやわらかくて綺麗なのに違いない、と思えば、これという目立った粉飾一つも施していない乙姫のからだが、いよいよ真の気品を有しているものの如く、奥ゆかしく思われて来た。竜宮に来てみてよかった、と次第にこのたびの冒険に感謝したいような気持が起って来て、うっとり乙姫のあとについて歩いていると、
「どうです、悪くないでしょう。」と亀は、低く浦島の耳元に囁き、鰭でもって浦島の横腹をちょこちょことくすぐつた。
「ああ、なに、」と浦島は狼狽して、「この花は、この紫の花は綺麗だね。」と別の事を言った。
「これですか。」と亀はつまらなさそうに、「これは海の桜桃の花です。ちょっと菫に似ていますね。この花びらを食べると、それは気持よく酔いますよ。竜宮のお酒です。それから、あの岩のようなもの、あれは藻です。何万年も経っているので、こんな岩みたいにかたまっていますが、でも、羊羹よりも柔いくらいのものです。あれは、陸上のどんなごちそうよりもおいしいですよ。岩によって一つずつみんな味わいが違います。竜宮ではこの藻を食べて、花びらで酔い、のどが乾けば桜桃を含み、乙姫さまの琴の音に聞き惚れ、生きている花吹雪のような小魚たちの舞いを眺めて暮しているのです。どうですか、竜宮は歌と舞いと、美食と酒の国だと私はお誘いする時にあなたに申し上げた筈ですが、どうですか、御想像と違いましたか?」
浦島は答えず、深刻な苦笑をした。
「わかっていますよ。あなたの御想像は、まあドンチャンドンチャンの大騒ぎで、大きなお皿に鯛のさしみやら鮪のさしみ、赤い着物を着た娘っ子の手踊り、そうしてやたらに金銀珊瑚綾錦のたぐいが、——」
「まさか、」と浦島もさすがに少し不愉快そうな顔になり、「私はそれほど卑俗な男ではありません。しかし、私は自分を孤独な男だと思ってみた事などありましたが、ここへ来て真に孤独なお方にお目にかかり、私のいままでの気取った生活が恥かしくてならないのです。」
「あのかたの事ですか?」と亀は小声で言って無作法に乙姫のほうを顎でしゃくり、「あのかたは、何も孤独じゃありませんよ。平気なものです。野心があるから、孤独なんて事を気に病むので、他の世界の事なんかてんで問題にしてなかったら、百年千年ひとりでいたって楽なものです。それこそ、れいの批評が気にならない者にとってはね。ところで、あなたは、どこへ行こうてんですか?」
「いや、なに、べつに、」と浦島は、意外の問に驚き、「だって、お前、あのお方が、——」
「乙姫はべつにあなたを、どこかへ案内しようとしているわけじゃありません。あのかたは、もう、あなたの事なんか忘れていますよ。あのかたは、これからご自分のお部屋に帰るのでしょう。しっかりして下さい。ここが竜宮なんです、この場所が。ほかにどこも、ご案内したいようなところもありません。まあ、ここで、お好きなようにして遊んでいるのですね。これだけじゃ、不足なんですか。」
「いじめないでくれよ。私は、いったいどうしたらいいんだ。」と浦島はべそをかいて、「だって、あのお方がお迎えに出て下さっていたので、べつに私は自惚れたわけじゃないけど、あのお方のあとについて行くのが礼儀だと思ったんだよ。べつに不足だなんて考えてやしないよ。それだのに私に何か、別ないやらしい下心でもあるみたいなへんな言い方をするんだもの。お前は、じっさい意地が悪いよ。ひどいじゃないか。私は生れてから、こんなに体裁《ていさい》の悪い思いをした事は無いよ。本当にひどいよ。」
「そんなに気にしちゃいけない。乙姫は、おっとりしたものです。そりゃ、陸上からはるばるたずねて来た珍客ですもの、それにあなたは、私の恩人ですからね、お出迎えするのは当り前ですよ。さらにまた、あなたは、気持はさっぱりしているし、男っぷりは佳し、と来ているから。いや、これは冗談ですよ、へんにまた自惚れられちゃかなわない。とにかく、乙姫はご自分の家へやって来た珍客を階段まで出迎えて、そうして安心して、あとはあなたのお気の向くままに勝手に幾日でもここで遊んでいらっしゃるようにと、素知らぬ振りしてああしてご自分のお部屋に引上げて行くというわけのものじゃないんですかね。実は私たちにも、乙姫の考えている事はあまりよく判らないのです。何せ、どうにも、おっとりしていますから。」
「いや、そう言われてみると、私には、少し判りそうな気がして来たよ。お前の推察も、だいたいに於いて間違いはなさそうだ。つまり、こんなのが、真の貴人の接待法なのかも知れない。客を迎えて客を忘れる。しかも客の身辺には美酒珍味が全く無雑作に並べ置かれてある。歌舞音曲も別段客をもてなそうという露骨な意図でもって行われるのではない。乙姫は誰に聞かせようという心も無くて琴をひく。魚どもは誰に見せようという衒いも無く自由に嬉々として舞い遊ぶ。客の讃辞をあてにしない。客もまた、それにことさらに留意して感服したような顔つきをする必要も無い。寝ころんで知らん振りしていたって構わないわけです。主人はもう客の事なんか忘れているのだ。しかも、自由に振舞ってよいという許可は与えられているのだ。食いたければ食うし、食いたくなければ食わなくていいんだ。酔って夢うつつに琴の音を聞いていたって、敢えて失礼には当らぬわけだ。ああ、客を接待するには、すべからくこのようにありたい。何のかのと、ろくでも無い料理をうるさくすすめて、くだらないお世辞を交換し、おかしくもないのに、矢鱈におほほと笑い、まあ! なんて珍らしくもない話に大仰に驚いて見せたり、一から十まで嘘ばかりの社交を行い、天晴れ上流の客あしらいをしているつもりのケチくさい小利口の大馬鹿野郎どもに、この竜宮の鷹揚なもてなし振りを見せてやりたい。あいつらはただ、自分の品位を落しゃしないか、それだけを気にしてわくわくして、そうして妙に客を警戒して、ひとりでからまわりして、実意なんてものは爪の垢ほども持ってやしないんだ。なんだい、ありゃ。お酒一ぱいにも、飲ませてやったぞ、いただきましたぞ、というような証文を取かわしていたんじゃ、かなわない。」
「そう、その調子。」と亀は大喜びで、「しかし、あまりそんなに興奮して心臓痲痺なんか起されても困る。ま、この藻の岩に腰をおろして、桜桃の酒でも飲むさ。桜桃の花びらだけでは、はじめての人には少し匂いが強すぎるかも知れないから、桜桃五、六粒と一緒に舌の上に載せると、しゅっと溶けて適当に爽涼のお酒になります。まぜ合せの仕方一つで、いろんな味に変化しますからまあ、ご自分で工夫して、お好きなようなお酒を作ってお飲みなさい。」
浦島はいま、ちょっと強いお酒を飲みたかった。花びら三枚に、桜桃二粒を添えて舌端に載せるとたちまち口の中一ぱいの美酒、含んでいるだけでも、うっとりする。軽快に喉をくすぐりながら通過して、体内にぽっと灯《あか》りがともったような嬉しい気持になる。
「これはいい。まさに、憂いの玉帚だ。」
「憂い?」と亀はさっそく聞きとがめ、「何か憂鬱な事でもあるのですか?」
「いや、べつに、そんなわけではないが、あははは、」とてれ隠しに無理に笑い、それから、ほっと小さな溜息をつき、ちらと乙姫のうしろ姿を眺める。
乙姫は、ひとりで黙って歩いている。薄みどり色の光線を浴び、すきとおるようなかぐわしい海草のようにも見え、ゆらゆら揺蕩しながらたったひとりで歩いている。
「どこへ行くんだろう。」と思わず呟く。
「お部屋でしょう。」亀は、きまりきっているというような顔つきで、澄まして答える。
「さっきから、お前はお部屋お部屋と言っているが、そのお部屋はいったい、どこにあるの? 何も、どこにも、見えやしないじゃないか。」
見渡すかぎり平坦の、曠野と言っていいくらいの鈍く光る大広間で、御殿《ごてん》らしいものの影は、どこにも無い。
「ずっと向う、乙姫の歩いて行く方角の、ずっと向うに、何か見えませんか。」と亀に言われて、浦島は、眉をひそめてその方向を凝視し、
「ああ、そう云われて見ると、何かあるようだね。」
ほとんど一里も先と思われるほどの遠方、幽潭の底を覗いた時のような何やら朦朧と姻ってたゆとうているあたりに、小さな純白の水中花みたいなものが見える。
「あれか。小さいものだね。」
「乙姫がひとりおやすみになるのに、大きい御殿なんか要らないじゃありませんか。」
「そう言えば、まあ、そうだが、」と浦島はさらに桜桃の酒を調合して飲み、「あのお方は、何かね、いつもあんなに無口なのかね。」
「ええ、そうです。言葉というものは、生きている事の不安から、芽ばえて来たものじゃないですかね。腐った土から赤い毒きのこが生えて出るように、生命の不安が言葉を醗酵させているのじゃないのですか。よろこびの言葉もあるにはありますが、それにさえなお、いやらしい工夫がほどこされているじゃありませんか。人間は、よろこびの中にさえ、不安を感じているのでしょうかね。人間の言葉はみんな工夫です。気取ったものです。不安の無いところには、何もそんな、いやらしい工夫など必要ないでしょう。私は乙姫が、ものを言ったのを聞いた事が無い。しかし、また、黙っている人によくありがちの、皮裏の陽秋というんですか、そんな胸中ひそかに辛辣の観察を行うなんて事も、乙姫は決してなさらない。何も考えてやしないんです。ただああして幽かに笑って琴をかき鳴らしたり、またこの広間をふらふら歩きまわって、桜桃の花びらを口に含んだりして遊んでいます。実に、のんびりしたものです。」
「そうかね。あのお方も、やっぱりこの桜桃の酒を飲むかね。まったく、これは、いいからなあ。これさえあれば、何も要らない。もっといただいてもいいかしら。」
「ええ、どうぞ。ここへ来て遠慮なんかするのは馬鹿げています。あなたは無限に許されているのです。ついでに何か食べてみたらどうです。目に見える岩すべて珍味です。油っこいのがいいですか。軽くちょっと酸っぱいようなのがいいですか。どんな味のものでもありますよ。」
「ああ、琴の音が聞える。寝ころんで聞いてもいいんだろうね。」無限に許されているという思想は、実のところ生れてはじめてのものであった。浦島は、風流の身だしなみも何も忘れて、仰向にながながと寝そべり、「ああ、あ、酔って寝ころぶのは、いい気持だ。ついでに何か、食べてみようかな。雉の焼肉みたいな味の藻があるかね。」
「あります。」
「それと、それから、桑の実のような味の藻は?」
「あるでしょう。しかし、あなたも、妙に野蛮なものを食べるのですね。」
「本性暴露さ。私は田舎者だよ。」と言葉つきさえ、どこやら変って来て、「これが風流の極致だってさ。」
眼を挙げて見ると、はるか上方に、魚の天蓋がのどかに浮び漂っているのが、青く霞んで見える。とたちまち、その天蓋から一群の魚がむらむらとわかれて、おのおの銀鱗を光らせて満天に雪の降り乱れるように舞い遊ぶ。
竜宮には夜も昼も無い。いつも五月の朝の如く爽やかで、樹陰のような緑の光線で一ぱいで、浦島は幾日をここで過したか、見当もつかぬ。その間、浦島は、それこそ無限に許されていた。浦島は、乙姫のお部屋にも、はいった。乙姫は何の嫌悪も示さなかった。ただ、幽かに笑っている。
そうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が恋しくなった。お互い他人の批評を気にして、泣いたり怒ったり、ケチにこそこそ暮している陸上の人たちが、たまらなく可憐で、そうして、何だか美しいもののようにさえ思われて来た。
浦島は乙姫に向って、さようなら、と言った。この突然の暇乞いもまた、無言の微笑でもって許された。つまり、何でも許された。始めから終りまで、許された。乙姫は、竜宮の階段まで見送りに出て、黙って小さい貝殻を差し出す。まばゆい五彩の光を放っているきっちり合った二枚貝である。これが所謂、竜宮のお土産の玉手箱であった。
行きはよいよい帰りはこわい。また亀の背に乗って、浦島はぼんやり竜宮から離れた。へんな憂愁が浦島の胸中に湧いて出る。ああ、お礼を言うのを忘れた。あんないいところは、他に無いのだ。ああ、いつまでも、あそこにいたほうがよかった。しかし、私は陸上の人間だ。どんなに安楽な暮しをしていても、自分の家が、自分の里が、自分の頭の片隅にこびりついて離れぬ。美酒に酔って眠っても、夢は、故郷の夢なんだからなあ。げっそりするよ。私には、あんないいところで遊ぶ資格は無かった。
「わあ、どうも、いかん。淋しいわい。」と浦島はやけくそに似た大きい声で叫んだ。「なんのわけだかわからないが、どうも、いかん。おい、亀。何とか、また景気のいい悪口でも言ってくれ。お前は、さっきから、何も一ことも、ものを言わんじゃないか。」
亀は先刻から、ただ黙々と鰭を動かしているばかり。
「怒っているのかね。私が竜宮から食い逃げ同様で帰るのを、お前は、怒っているのかね。」
「ひがんじゃいけねえ。陸上の人はこれだからいやさ。婦りたくなったら帰るさ。どうでも、あなたの気の向いたように、とはじめから何度も言ってるじゃないか。」
「でも、何だかお前、元気が無いじゃないか。」
「そう言うあなたこそ、妙にしょんぼりしているぜ。私や、どうも、お迎えはいいけれど、このお見送りってやつは苦手だ。」
「行きはよいよい、かね。」
「洒落どころじゃありません。どうも、このお見送りってやつは、気のはずまねえものだ。溜息ばかり出て、何を言ってもしらじらしく、いっそもう、この辺でお別れしてしまいたいようなものだ。」
「やっぱり、お前も淋しいのかね。」浦島は、ほろりとして、「こんどはずいぶん、お前のお世話にもなったね。お礼を言います。」
亀は返事をせず、なんだそんなこと、と言わぬばかりにちょっと甲羅をゆすって、そうしてただ、せっせと泳ぐ。
「あのお方は、やっぱりあそこで、たったひとりで遊んでいるのだろうね。」浦島は、いかにもやるせないような溜息をついて、「私にこんな綺麗な貝をくれたが、これはまさか、食べるものじゃないだろうな。」
亀はくすくす笑い出し、
「ちょっと竜宮にいるうちに、あなたも、ばかに食い意地が張って来ましたね。それだけは、食べるものでは無いようです。私にもよくわかりませんが、その貝の中に何かはいっているのじゃないんですか?」と亀は、ここに於いて、かのエデンの園の蛇の如く、何やら人の好奇心をそそるような妙な事を、ふいと言った。やはりこれも、爬虫類共通の宿命なのであろうか。いやいや、そうきめてしまうのは、この善良の亀に対して気の毒だ。亀自身も以前、浦島に向って、「しかし、私は、エデンの園の蛇ではない、はばかりながら日本の亀だ。」と豪語している。信じてやらなけりゃ可哀想だ。それにまた、この亀のこれまでの浦島に対する態度から判断しても、決してかのエデンの園の蛇の如く、佞奸邪智にして、恐ろしい破滅の誘惑を囁くような性質のものでは無いように思われる。それどころか、所謂さっきの鯉の吹流しの、愛すべき多弁家に過ぎないのではないかと思われる。つまり、何の悪気も無かったのだ。私は、そのように解したい。亀は、さらにまた言葉をつづけて、「でも、その貝は、あけて見ないほうがいいかも知れません。きっとその中には竜宮の精気みたいなものがこもっているのでしょうから。それを陸上であけたら、奇怪な蜃気楼が立ち昇り、あなたを発狂させたり何かするかも知れないし、或いはまた、海の潮が噴出して大洪水を起す事なども無いとは限らないし、とにかく海底の酸素を陸上に放散させては、どうせ、ろくな事が起らないような気がしますよ。」と真面目に言う。
浦島は亀の深切を信じた。
「そうかも知れないね。あんな高貴な竜宮の雰囲気が、もしこの貝の中にひめられてあるとしたら、陸上の俗悪な空気にふれた時には、戸惑いして、大爆発でも起すかも知れない。まあ、これはこうして、いつまでも大事に、家の宝として保存して置くことにしよう。」
既に海上に浮ぶ。太陽の光がまぶしい。ふるさとの浜が見える。浦島はいまは一刻も早く、わが家に駈け込み、父母弟妹、また大勢の使用人たちを集めて、つぶさに竜宮の模様を物語り、冒険とは信じる力だ、この世の風流なんてものはケチくさい猿真似だ、正統というのは、あれは通俗の別称さ、わかるかね、真の上品《じょうぼん》というのは聖諦の境地さ、ただのあきらめじゃ無いぜ、わかるかね、批評なんてうるさいものは無いんだ、無限に許されているんだ、そうしてただ微笑があるだけだ、わかるかね、客を忘れているのだ、わかるまい、などとそれこそ、たったいま聞いて来たふうの新知識を、めちゃ苦茶に振りまわして、そうしてあの現実主義の弟のやつが、もし少しでも疑うような顔つきを見せた時には、すなわちこの竜宮の美しいお土産をあいつの鼻先につきつけて、ぎゃふんと参らせてやろう、と意気込み、亀に別離の挨拶するのも忘れて汀に飛び降り、あたふたと生家に向って急けば、
ドウシタンデショウ モトノサト
ドウシタンデショウ モトノイエ
ミワタスカギリ アレノハラ
ヒトノカゲナク ミチモナク
マツフクカゼノ オトバカリ
という段どりになるのである。浦島は、さんざん迷った末に、とうとうかの竜宮のお土産の貝殻をあけて見るという事になるのであるが、これに就いて、あの亀が責任を負う必要はないように思われる。「あけてはならぬ」と言われると、なお、あけて見たい誘惑を感ずると云う人間の弱点は、この浦島の物語に限らず、ギリシャ神話のパンドラの箱の物語に於いても、それと同様の心理が取りあつかわれているようだ。しかし、あのパンドラの箱の場合は、はじめから神々の復讐が企図せられていたのである。「あけてはならぬ」という一言が、パンドラの好奇心を刺戟して、必ずや後日パンドラが、その箱をあけて見るにちがいないという意地悪い予想のもとに「あけるな」という禁制を宣告したのである。それに引きかへ、われわれの善良な亀は、まったくの深切から浦島にそれを言ったのだ。あの時の亀の、余念なさそうな言い方に依っても、それは信じていいと思う。あの亀は正直者だ。あの亀には責任が無い。それは私も確信をもって証言できるのであるが、さて、もう一つ、ここに妙な腑に落ちない問題が残っている。浦島は、その竜宮のお土産をあけて見ると、中から白い煙が立ち昇り、たちまち彼は三百歳だかのお爺さんになって、だから、あけなきゃよかったのに、つまらない事になった、お気の毒に、などというところでおしまいになるのが、一般に伝えられている「浦島さん」物語であるが、私はそれに就いて深い疑念にとらわれている。するとこの竜宮のお土産も、あの人間のもろもろの禍《わざわい》の種の充満したパンドラの箱の如く、乙姫の深刻な復讐、或いは懲罰の意を秘めた贈り物であったのか。あのように何も言わず、ただ微笑して無限に許しているような素振りを見せながらも、皮裏にひそかに峻酷の陽秋を蔵していて、浦島のわがままを一つも許さず、厳罰を課する意味であの貝殻を与えたのか。いや、それほど極端の悲観論を称えずとも、或いは、貴人というものは、しばしば、むごい嘲弄を平気でするものであるから、乙姫もまったく無邪気の悪戯のつもりで、こんなひとのわるい冗談をやらかしたのか。いずれにしても、あの真の上品《じょうぼん》の筈の乙姫が、こんな始末の悪いお土産を与えたとは、不可解きわまる事である。パンドラの箱の中には、疾病、恐怖、怨恨、哀愁、疑惑、嫉妬、憤怒、憎悪、呪咀、焦慮、後悔、卑屈、貪慾、虚偽、怠惰、暴行などのあらゆる不吉の妖魔がはいっていて、パンドラがその箱をそっとあけると同時に、羽蟻の大群の如く一斉に飛び出し、この世の隅から隅まで残るくまなくはびこるに到ったという事になっているが、しかし、呆然たるパンドラが、うなだれて、そのからっぽの箱の底を眺めた時、その底の闇に一点の星のように輝いている小さな宝石を見つけたというではないか。そうして、その宝石には、なんと、「希望」という字がしたためられていたという。これに依って、パンドラの蒼白の頬にも、幽かに血の色がのぼったという。それ以来、人間は、いかなる苦痛の妖魔に襲われても、この「希望」に依って、勇気を得、困難に堪え忍ぶ事が出来るようになったという。それに較べて、この竜宮のお土産は、愛嬌も何もない。ただ、煙だ。そうして、たちまち三百歳のお爺さんである。よしんば、その「希望」の星が貝殻の底に残っていたとしたところで、浦島さんは既に三百歳である。三百歳のお爺さんに「希望」を与えたって、それは悪ふざけに似ている。どだい、無理だ。それでは、ここで一つ、れいの「聖諦」を与えてみたらどうか。しかし、相手は三百歳である。いまさら、そんな気取ったきざったらしいものを与えなくたって、人間三百歳にもなりゃ、いい加減、諦めているよ。結局、何もかも駄目である。救済の手の差伸べようが無い。どうにも、これはひどいお土産をもらって来たものだ。しかし、ここで匙を投げたら、或いは、日本のお伽噺はギリシャ神話よりも残酷である。などと外国人に言われるかも知れない。それはいかにも無念な事だ。また、あのなつかしい竜宮の名誉にかけても、何とかして、この不可解のお土産に、貴い意義を発見したいものである。いかに竜宮の数日が陸上の数百年に当るとは言え、何もその歳月を、ややこしいお土産などにして浦島に持たせてよこさなくてもよさそうなものだ。浦島が竜宮から海の上に浮かび出たとたんに、白髪の三百歳に変化したというのなら、まだ話がわかる。また、乙姫のお情で、浦島をいつまでも青年にして置くつもりだったのならば、そんな危険な「あけてはならぬ」品物を、わざわざ浦島に持たせてよこす必要は無い。竜宮のどこかの隅に捨てて置いたっていいじゃないか。それとも、お前のたれた糞尿は、お前が持って帰ったらいいだろう、という意味なのだろうか。それでは、何だかひどく下等な「面当《つらあ》て」みたいだ。まさかあの聖諦の乙姫が、そんな長屋の夫婦喧嘩みたいな事をたくらむとは考えられない。どうも、わからぬ。私は、それに就いて永い間、思案した。そうして、このごろに到って、ようやく少しわかって来たような気がして来たのである。
つまり、私たちは、浦島の三百歳が、浦島にとって不幸であったという先入感に依って誤られて来たのである。絵本にも、浦島は三百歳になって、それから、「実に、悲惨な身の上になったものさ。気の毒だ。」などというような事は書かれていない。
タチマチ シラガノ オジイサン
それでおしまいである。気の毒だ、馬鹿だ、などというのは、私たち俗人の勝手な盲断に過ぎない。三百歳になったのは、浦島にとって、決して不幸ではなかった[#なかった」に傍点]のだ。
貝殻の底に、「希望」の星があって、それで救われたなんてのは、考えてみるとちょっと少女趣味で、こしらえものの感じが無くもないような気もするが、浦島は、立ち昇る煙それ自体で救われているのである。貝殻の底には、何も残っていなくたっていい。そんなものは問題でないのだ。曰く、
年月は、人間の救いである。
忘却は、人間の救いである。
竜宮の高貴なもてなしも、この素張らしいお土産に依って、まさに最高潮に達した観がある。思い出は、遠くへだたるほど美しいというではないか。しかも、その三百年の招来をさえ、浦島自身の気分にゆだねた。ここに到っても、浦島は、乙姫から無限の許可を得ていたのである。淋しくなかったら、浦島は、貝殻をあけて見るような事はしないだろう。どう仕様も無く、この貝殻一つに救いを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。これ以上の説明はよそう。日本のお伽噺には、このような深い慈悲がある。
浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたという。
カチカチ山
カチカチ山の物語に於ける兎は少女、そうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋している醜男。これはもう疑いを容れぬ儼然たる事実のように私には思われる。これは甲州、富士五湖の一つの河口湖畔、いまの船津の裏山あたりで行われた事件であるという。甲州の人情は、荒っぽい。そのせいか、この物語も、他のお伽噺に較べて、いくぶん荒っぽく出来ている。だいいち、どうも、物語の発端からして酷だ。婆汁なんてのは、ひどい。お道化にも洒落にもなってやしない。狸も、つまらない悪戯をしたものである。縁の下に婆さんの骨が散らばっていたなんて段に到ると、まさに陰惨の極度であって、所謂児童読物としては、遺憾ながら発売禁止の憂目に遭わざるを得ないところであろう。現今発行せられているカチカチ山の絵本は、それゆえ、狸が婆さんに怪我をさせて逃げたなんて工合に、賢明にごまかしているようである。それはまあ、発売禁止も避けられるし、大いによろしい事であろうが、しかし、たったそれだけの悪戯に対する懲罰としてはどうも、兎の仕打は、執拗すぎる。一撃のもとに倒すというような颯爽たる仇討ちではない。生殺しにして、なぶって、なぶって、そうして最後は泥舟でぶくぶくである。その手段は、一から十まで詭計である。これは日本の武士道の作法ではない。しかし、狸が婆汁などという悪どい欺術を行ったのならば、その返報として、それくらいの執拗のいたぶりを受けるのは致し方の無いところでもあろうと合点のいかない事もないのであるが、童心に与える影響ならびに発売禁止のおそれを顧慮して、狸が単に婆さんに怪我をさせて逃げた罰として兎からあのようなかずかずの恥辱と苦痛と、やがてぶていさい極まる溺死とを与えられるのは、いささか不当のようにも思われる。もともとこの狸は、何の罪とがも無く、山でのんびり遊んでいたのを、爺さんに捕えられ、そうして狸汁にされるという絶望的な運命に到達し、それでも何とかして一条の血路を切りひらきたく、もがき苦しみ、窮余の策として婆さんを欺き、九死に一生を得たのである。婆汁なんかをたくらんだのは大いに悪いが、しかし、このごろの絵本のように、逃げるついでに婆さんを引掻いて怪我させたくらいの事は、狸もその時は必死の努力で、謂わば正当防衛のために無我夢中であがいて、意識せずに婆さんに怪我を与えたのかも知れないし、それはそんなに憎むべき罪でも無いように思われる。私の家の五歳の娘は、器量も父に似て頗るまずいが、頭脳もまた不幸にも父に似て、へんなところがあるようだ。私が防空壕の中で、このカチカチ山の絵本を読んでやったら、
「狸さん、可哀想ね。」
と意外な事を口走った。もっとも、この娘の「可哀想」は、このごろの彼女の一つ覚えで、何を見ても「可哀想」を連発し、以て子に甘い母の称讃を得ようという下心が露骨に見え透いているのであるから、格別おどろくには当らない。或いは、この子は、父に連れられて近所の井の頭動物園に行った時、檻の中を絶えずチョコチョコ歩きまわっている狸の一群を眺め、愛すべき動物であると思い込み、それゆえ、このカチカチ山の物語に於いても、理由の如何を問わず、狸に贔屓していたのかも知れない。いずれにしても、わが家の小さい同情者の言は、あまりあてにならない。思想の根拠が、薄弱である。同情の理由が、朦朧としている。どだい、何も、問題にする価値が無い。しかし私は、その娘の無責任きわまる放言を聞いて、或る暗示を与えられた。この子は、何も知らずにただ、このごろ覚えた言葉を出鱈目に呟いただけの事であるが、しかし、父はその言葉に依って、なるほど、これでは少し兎の仕打がひどすぎる、こんな小さい子供たちなら、まあ何とか言ってごまかせるけれども、もっと大きい子供で、武士道とか正々堂々とかの観念を既に教育せられている者には、この兎の懲罰は所謂「やりかたが汚い」と思われはせぬか、これは問題だ、と愚かな父は眉をひそめたというわけである。
このごろの絵本のように、狸が婆さんに単なる引掻き傷を与えたくらいで、このように兎に意地悪く飜弄せられ、背中は焼かれ、その焼かれた個所には唐辛子《とうがらし》を塗られ、あげくの果には泥舟に乗せられて殺されるという悲惨の運命に立ち到るという筋書では、国民学校にかよっているほどの子供ならば、すぐに不審を抱くであろう事は勿論、よしんば狸が、不埒な婆汁などを試みたとしても、なぜ正々堂々と名乗りを挙げて彼に膺懲の一太刀を加えなかったか。兎が非力であるから、などはこの場合、弁解にならない。仇討ちは須く正々堂々たるべきである。神は正義に味方する。かなわぬまでも、天誅! と一声叫んで真正面からおどりかかって行くべきである。あまりにも腕前の差がひどかったならば、その時には臥薪嘗胆、鞍馬山にでもはいって一心に剣術の修行をする事だ。昔から日本の偉い人たちは、たいていそれをやっている。いかなる事情があろうと、詭計を用いて、しかもなぶり殺しにするなどという仇討物語は、日本に未だ無いようだ。それをこのカチカチ山ばかりは、どうも、その仇討の仕方が芳しくない。どだい、男らしくないじゃないか、と子供でも、また大人でも、いやしくも正義にあこがれている人間ならば、誰でもこれに就いてはいささか不快の情を覚えるのではあるまいか。
安心し給え。私もそれに就いて、考えた。そうして、兎のやり方が男らしくないのは、それは当然だという事がわかった。この兎は男じゃないんだ。それは、たしかだ。この兎は十六歳の処女だ。いまだ何も、色気は無いが、しかし、美人だ。そうして、人間のうちで最も残酷なのは、えてして、このたちの女性である。ギリシャ神話には美しい女神がたくさん出て来るが、その中でも、ヴィナスを除いては、アルテミスという処女神が最も魅力ある女神とせられているようだ。ご承知のように、アルテミスは月の女神で、額には青白い三日月が輝き、そうして敏捷できかぬ気で、一口で言えばアポロンをそのまま女にしたような神である。そうして下界のおそろしい猛獣は全部この女神の家来である。けれども、その姿態は決して荒くれて岩乗な大女ではない。むしろ小柄で、ほっそりとして、手足も華奢で可愛く、ぞっとするほどあやしく美しい顔をしているが、しかし、ヴィナスのような「女らしさ」が無く、乳房も小さい。気にいらぬ者には平気で残酷な事をする。自分の水浴しているところを覗き見した男に、颯っと水をぶっかけて鹿にしてしまった事さえある。水浴の姿をちらと見ただけでも、そんなに怒るのである。手なんか握られたら、どんなにひどい仕返しをするかわからない。こんな女に惚れたら、男は惨憺たる大恥辱を受けるにきまっている。けれども、男は、それも愚鈍の男ほど、こんな危険な女性に惚れ込み易いものである。そうして、その結果は、たいていきまっているのである。
疑うものは、この気の毒な狸を見るがよい。狸は、そのようなアルテミス型の兎の少女に、かねてひそかに思慕の情を寄せていたのだ。兎が、このアルテミス型の少女だったと規定すると、あの狸が婆汁か引掻き傷かいずれの罪を犯した場合でも、その懲罰が、へんに意地くね悪く、そうして「男らしく」ないのが当然だと、溜息と共に首肯せられなければならぬわけである。しかも、この狸たるや、アルテミス型の少女に惚れる男のごたぶんにもれず、狸仲間でも風采あがらず、ただ団々として、愚鈍大食の野暮天であったというに於いては、その悲惨のなり行きは推するに余りがある。
狸は爺さんに捕えられ、もう少しのところで狸汁にされるところであったが、あの兎の少女にひとめまた逢いたくて、大いにあがいて、やっと逃れて山へ帰り、ぶつぶつ何か言いながら、うろうろ兎を捜し歩き、やっと見つけて、
「よろこんでくれ! おれは命拾いをしたぞ。爺さんの留守をねらって、あの婆さんを、えい、とばかりにやっつけて逃げて来た。おれは運の強い男さ。」と得意満面、このたびの大厄難突破の次第を、唾を飛ばし散らしながら物語る。
兎はぴょんと飛びしりぞいて唾を避け、ふん、といったような顔つきで話を聞き、
「何も私が、よろこぶわけは無いじゃないの。きたないわよ、そんなに唾を飛ばして。それに、あの爺さん婆さんは、私のお友達よ。知らなかったの?」
「そうか、」と狸は愕然として、「知らなかった。かんべんしてくれ。そうと知っていたら、おれは、狸汁にでも何にでも、なってやったのに。」と、しょんぼりする。
「いまさら、そんな事を言ったって、もうおそいわ。あのお家の庭先に私が時々あそびに行って、そうして、おいしいやわらかな豆なんかごちそうになったのを、あなただって知ってたじゃないの。それだのに、知らなかったなんて嘘ついて、ひどいわ。あなたは、私の敵よ。」とむごい宣告をする。兎にはもうこの時すでに、狸に対して或る種の復讐を加えてやろうという心が動いている。処女の怒りは辛辣である。殊にも醜悪な魯鈍なものに対しては容赦が無い。
「ゆるしてくれよ。おれは、ほんとに、知らなかったのだ。嘘なんかつかない。信じてくれよ。」と、いやにねばっこい口調で歎願して、頸を長くのばしてうなだれて見せて、傍に木の実が一つ落ちているのを見つけ、ひょいと拾って食べて、もっと無いかとあたりをきょろきょろ見廻しながら、「本当にもう、お前にそんなに怒られると、おれはもう、死にたくなるんだ。」
「何を言ってるの。食べる事ばかり考えてるくせに。」兎は軽蔑し果てたというように、つんとわきを向いてしまって、「助平の上に、また、食い意地がきたないったらありゃしない。」
「見のがしてくれよ。おれは、腹がへっているんだ。」となおもその辺を、うろうろ捜し廻りながら、「まったく、いまのおれのこの心苦しさが、お前にわかってもらえたらなあ。」
「傍へ寄って来ちゃ駄目だって言ったら。くさいじゃないの。もっとあっちへ離れてよ。あなたは、とかげを食べたんだってね。私は聞いたわよ。それから、ああ可笑しい、ウンコも食べたんだってね。」
「まさか。」と狸は力弱く苦笑した。それでも、なぜだか、強く否定する事の能わざる様子で、さらにまた力弱く、「まさかねえ。」と口を曲げて言うだけであった。
「上品ぶったって駄目よ。あなたのそのにおいは、ただの臭《くさ》みじゃないんだから。」と兎は平然と手きびしい引導を渡して、それから、ふいと別の何か素晴らしい事でも思いついたらしく急に眼を輝かせ、笑いを噛み殺しているような顔つきで狸のほうに向き直り、「それじゃあね、こんど一ぺんだけ、ゆるしてあげる。あれ、寄って来ちゃ駄目だって言うのに。油断もすきもなりゃしない。よだれを拭いたらどう? 下顎がべろべろしてるじゃないの。落ついて、よくお聞き。こんど一ぺんだけは特別にゆるしてあげるけれど、でも、条件があるのよ。あの爺さんは、いまごろはきっとひどく落胆して、山に柴刈りに行く気力も何も無くなっているでしょうから、私たちはその代りに柴刈りに行ってあげましょうよ。」
「一緒に? お前も一緒に行くのか?」狸の小さい濁った眼は歓喜に燃えた。
「おいや?」
「いやなものか。きょうこれから、すぐに行こうよ。」よろこびの余り、声がしゃがれた。
「あしたにしましょう、ね、あしたの朝早く。きょうはあなたもお疲れでしょうし、それに、おなかも空《す》いているでしょうから。」といやに優しい。
「ありがたい! おれは、あしたお弁当をたくさん作って持って行って、一心不乱に働いて十貫目の柴を刈って、そうして爺さんの家へとどけてあげる。そうしたら、お前は、おれをきっと許してくれるだろうな。仲よくしてくれるだろうな。」
「くどいわね。その時のあなたの成績次第でね。もしかしたら、仲よくしてあげるかも知れないわ。」
「えへへ、」と狸は急にいやらしく笑い、「その口が憎いや。苦労させるぜ、こんちきしゃう。おれは、もう、」と言いかけて、這い寄って来た大きい蜘蛛を素早くぺろりと食べ、「おれは、もう、どんなに嬉しいか、いっそ、男泣きに泣いてみたいくらいだ。」と鼻をすすり、嘘泣きをした。
夏の朝は、すがすがしい。河口湖の湖面は朝霧に覆われ、白く眼下に烟っている。山頂では狸と兎が朝露を全身に浴びながら、せっせと柴を刈っている。
狸の働き振りを見るに、一心不乱どころか、ほとんど半狂乱に近いあさましい有様である。ううむ、ううむ、と大袈裟に捻りながら、めちゃ苦茶に鎌を振りまわして、時々、あいたたたた、などと聞えよがしの悲鳴を挙げ、ただもう自分がこのように苦心惨憺しているというところを兎に見てもらいたげの様子で、縦横無尽に荒れ狂う。ひとしきり、そのように凄じくあばれて、さすがにもうだめだ、というような疲れ切った顔つきをして鎌を投げ捨て、
「これ、見ろ。手にこんなに豆が出来た。ああ、手がひりひりする。のどが乾く。おなかも空《す》いた。とにかく、大労働だったからなあ。ちょっと休息という事にしようじゃないか。お弁当でも開きましょうかね。うふふ」とてれ隠しみたいに妙に笑って、大きいお弁当箱を開く。ぐいとその石油鑵ぐらいの大きさのお弁当箱に鼻先を突込んで、むしゃむしゃ、がつがつ、ぺっぺっ、という騒々しい音を立てながら、それこそ一心不乱に食べている。兎はあっけにとられたような顔をして、柴刈りの手を休め、ちょっとそのお弁当箱の中を覗いて、あ! と小さい叫びを挙げ、両手で顔を覆った。何だか知れぬが、そのお弁当箱には、すごいものがはいっていたようである。けれども、きょうの兎は、何か内証の思惑でもあるのか、いつものように狸に向って侮辱の言葉も吐かず、先刻から無言で、ただ技巧的な微笑を口辺に漂わせてせっせと柴を刈っているばかりで、お調子に乗った狸のいろいろな狂態をも、知らん振りして見のがしてやっているのである。狸の大きいお弁当箱の中を覗いて、ぎょっとしたけれども、やはり何も言わず、肩をきゅっとすくめて、またもや柴刈りに取かかる。狸は兎にきょうはひどく寛大に扱われるので、ただもうほくほくして、とうとうやっこさんも、おれのさかんな柴刈姿には惚れ直したかな? おれの、この、男らしさには、まいらぬ女もあるまいて、ああ、食った、眠くなった、どれ一眠り、などと全く気をゆるしてわがままいっぱいに振舞い、ぐうぐう大鼾を掻いて寝てしまった。眠りながらも、何のたわけた夢を見ているのか、惚れ薬ってのは、あれは駄目だぜ、きかねえや、などわけのわからぬ寝言を言い、眼をさましたのは、お昼ちかく。
「ずいぶん眠ったのね。」と兎は、やはりやさしく、「もう私も、柴を一束こしらえたから、これから背負って爺さんの庭先まで持って行ってあげましょうよ。」
「ああ、そうしよう。」と狸は大あくびしながら腕をぽりぽり掻いて、「やけにおなかが空《す》いた。こうおなかが空くと、もうとても、眠って居られるものじゃない。おれは敏感なんだ。」ともっともらしい顔で言い、「どれ、それではおれも刈った柴を大急ぎで集めて、下山としようか。お弁当も、もう、からになったし、この仕事を早く片づけて、それからすぐに食べ物を捜さなくちゃいけない。」
二人はそれぞれ刈った柴を背負って、帰途につく。
「あなた、さきに歩いてよ。この辺には、蛇がいるんで、私こわくて。」
「蛇? 蛇なんてこわいもんか。見つけ次第おれがとって、」食べる、と言いかけて、口ごもり、「おれがとって、殺してやる。さあ、おれのあとについて来い。」
「やっぱり、男のひとって、こんな時にはたのもしいものねえ。」
「おだてるなよ。」とやにさがり、「きょうはお前、ばかにしおらしいじゃないか。気味がわるいくらいだぜ。まさか、おれをこれから爺さんのところに連れて行って、狸汁にするわけじゃあるまいな。あははは。そいつばかりは、ごめんだぜ。」
「あら、そんなにへんに疑うなら、もういいわよ。私がひとりで行くわよ。」
「いや、そんなわけじゃない。一緒に行くがね、おれは蛇だって何だってこの世の中にこわいものなんかありゃしないが、どうもあの爺さんだけは苦手だ。狸汁にするなんて言いやがるから、いやだよ。どだい、下品じゃないか。少くとも、いい趣味じゃないと思うよ。おれは、あの爺さんの庭先の手前の一本榎のところまで、この柴を背負って行くから、あとはお前が運んでくれよ。おれは、あそこで失敬しようと思うんだ。どうもあの爺さんの顔を見ると、おれは何とも言えず不愉快になる。おや? 何だい、あれは。へんな音がするね。なんだろう。お前にも、聞えないか? 何だか、カチ、カチ、と音がする。」
「当り前じゃないの? ここは、カチカチ山だもの。」
「カチカチ山? ここがかい?」
「ええ、知らなかったの?」
「うん。知らなかった。この山に、そんな名前があるとは今日まで知らなかったね。しかし、へんな名前だ。嘘じゃないか?」
「あら、だって、山にはみんな名前があるものでしょう? あれが富士山だし、あれが長尾山だし、あれが大室山だし、みんなに名前があるじゃないの。だから、この山はカチカチ山っていう名前なのよ。ね、ほら、カチ、カチって音が聞える。」
「うん、聞える。しかし、へんだな。いままで、おれはいちども、この山でこんな音を聞いた事が無い。この山で生れて、三十何年かになるけれども、こんな、——」
「まあ! あなたは、もうそんな年なの? こないだ私に十七だなんて教えたくせに、ひどいじゃないの。顔が皺くちゃで、腰も少し曲っているのに、十七とは、へんだと思っていたんだけど、それにしても、二十も年《とし》をかくしているとは思わなかったわ。それじゃあなたは、四十ちかいんでしょう、まあ、ずいぶんね。」
「いや十七だ、十七。十七なんだ。おれがこう腰をかがめて歩くのは、決してとしのせいじゃないんだ。おなかが空《す》いているから、自然にこんな恰好になるんだ、三十何年、というのは、あれは、おれの兄の事だよ。兄がいつも口癖のようにそう言うので、つい、おれも、うっかり、あんな事を口走ってしまったんだ。つまり、ちょっと伝染したってわけさ。そんなわけなんだよ、君。」狼狽のあまり、君という言葉を使った。
「そうですか。」と兎は冷静に、「でも、あなたにお兄さんがあるなんて、はじめて聞いたわ。あなたはいつか私に、おれは淋しいんだ、孤独なんだよ、親も兄弟も無い、この孤独の淋しさが、お前、わからんかね、なんておっしゃってたじゃないの。あれは、どういうわけなの?」
「そう、そう、」と狸は、自分でも何を言っているのか、わからなくなり、「まったく世の中は、これでなかなか複雑なものだからねえ、そんなに一概には行かないよ。兄があったり無かったり。」
「まるで、意味が無いじゃないの。」と兎もさすがに呆れ果て、「めちゃ苦茶ね。」
「うん、実はね、兄はひとりあるんだ。これは言うのもつらいが、飲んだくれのならず者でね、おれはもう恥づかしくて、面目なくて、生れて三十何年間、いや、兄がだよ、兄が生れて三十何年間というもの、このおれに、迷惑のかけどほしさ。」
「それも、へんね。十七のひとが、三十何年間も迷惑をかけられたなんて。」
狸は、もう聞えぬ振りして、
「世の中には、一口で言えない事が多いよ。いまじゃもう、おれのほうから、あれは無いものと思って、勘当して、おや? へんだね、キナくさい。お前、なんともないか?」
「いいえ。」
「そうかね。」狸は、いつも臭いものを食べつけているので、鼻には自信が無い。けげんな面持で頸《くび》をひねり、「気のせいかなあ、あれあれ、何だか火が燃えているような、パチパチボウボウって音がするじゃないか。」
「それやその筈よ。ここは、パチパチのボウボウ山だもの。」
「嘘つけ。お前は、ついさっき、ここはカチカチ山だって言った癖に。」
「そうよ、同じ山でも、場所に依って名前が違うのよ。富士山の中腹にも小富士という山があるし、それから大室山だって長尾山だって、みんな富士山と続いている山じゃないの。知らなかったの?」
「うん、知らなかった。そうかなあ、ここがパチパチのボウボウ山とは、おれが三十何年間、いや、兄の話に依れば、ここはただの裏山だったが、いや、これは、ばかに暖くなって来た。地震でも起るんじゃねえだろうか。何だかきょうは薄気味の悪い日だ。やあ、これは、ひどく暑い。きゃあつ! あちちちち、ひでえ、あちちちち、助けてくれ、柴が燃えてる。あちちちち。」
その翌る日、狸は自分の穴の奥にこもって捻り、
「ああ、くるしい。いよいよ、おれも死ぬかも知れねえ。思えば、おれほど不仕合せな男は無い。なまなかに男振りが少し佳く生れて来たばかりに、女どもが、かえって遠慮しておれに近寄らない。いったいに、どうも、上品に見える男は損だ。おれを女ぎらいかと思っているのかも知れねえ。なあに、おれだって決して聖人じゃない。女は好きさ。それだのに、女はおれを高邁な理想主義者だと思っているらしく、なかなか誘惑してくれない。こうなればいっそ、大声で叫んで走り狂いたい。おれは女が好きなんだ! あ、いてえ、いてえ。どうも、この火傷《やけど》というものは始末がわるい。ずきずき痛む。やっと狸汁から逃れたかと思うと、こんどは、わけのわからねえボウボウ山とかいうのに足を踏み込んだのが、運のつきだ。あの山は、つまらねえ山であった。柴がボウボウ燃え上るんだから、ひどい。三十何年、」と言いかけて、あたりをぎょろりと見廻し、「何を隠そう、おれあことし三十七さ、へへん、わるいか、もう三年経てば四十だ、わかり切った事だ、理の当然というものだ、見ればわかるじゃないか。あいたたた、それにしても、おれが生れてから三十七年間、あの裏山で遊んで育って来たのだが、ついぞいちども、あんなへんな目に遭った事が無い。カチカチ山だの、ボウボウ山だの、名前からして妙に出来てる。はて、不思議だ。」とわれとわが頭を殴りつけて思案にくれた。
その時、表で行商の呼売りの声がする。
「仙金膏はいかが。やけど、切傷、色黒に悩むかたはいないか。」
狸は、やけど切傷よりも、色黒と聞いてはっとした。
「おうい、仙金膏。」
「へえ、どちらさまで。」
「こっちだ、穴の奥だよ。色黒にもきくかね。」
「それはもう、一日で。」
「ほほう、」とよろこび、穴の奥からいざり出て、「や! お前は、兎。」
「ええ、兎には違いありませんが、私は男の薬売りです。ええ、もう三十何年間、この辺をこうして売り歩いています。」
「ふう、」と狸は溜息をついて首をかしげ、「しかし、似た兎もあるものだ。三十何年間、そうか、お前がねえ。いや、歳月の話はよそう。糞面白くもない。しつっこいじゃないか。まあ、そんなわけのものさ。」としどろもどろのごまかし方をして、「ところで、おれにその薬を少しゆずってくれないか。実はちょっと悩みのある身なのでな。」
「おや、ひどい火傷ですねえ。これは、いけない。ほって置いたら、死にますよ。」
「いや、おれはいっそ死にてえ。こんな火傷なんかどうだっていいんだ。それよりも、おれは、いま、その、容貌の、——」
「何を言っていらっしゃるんです。生死の境じゃありませんか。やあ、背中が一ばんひどいですね。いったい、これはどうしたのです。」
「それがねえ、」と狸は口をゆがめて、「パチパチのボウボウ山とかいうきざな名前の山に踏み込んだばっかりにねえ、いやもう、とんだ事になってねえ、おどろきましたよ。」
兎は思わず、くすくす笑ってしまった。狸は、兎がなぜ笑ったのかわからなかったが、とにかく自分も一緒に、あははと笑い、
「まったくねえ。ばかばかしいったらありゃしないのさ。お前にも忠告して置きますがね、あの山へだけは行っちゃいけないぜ。はじめ、カチカチ山というのがあって、それからいよいよパチパチのボウボウ山という事になるんだが、あいつあいけない。ひでえ事になっちゃう。まあ、いい加減に、カチカチ山あたりでごめんこうむって来るんですな。へたにボウボウ山などに踏み込んだが最期、かくの如き始末だ。あいててて。いいですか。忠告しますよ。お前はまだ若いようだから、おれのような年寄りの言は、いや、年寄りでもないが、とにかく、ばかにしないで、この友人の言だけは尊重して下さいよ。何せ、体験者の言なのだから。あいてててて。」
「ありがとうございます。気をつけましょう。ところで、どうしましょう、お薬は。御深切な忠告を聞かしていただいたお礼として、お薬代は頂戴いたしません。とにかく、その背中の火傷に塗ってあげましょう。ちょうど折よく私が来合せたから、よかったようなものの、そうでもなかったら、あなたはもう命を落すような事になったかも知れないのです。これも何かのお導きでしょう。縁ですね。」
「縁かも知れねえ。」と狸は低く呻くように言い、「ただなら塗ってもらおうか。おれもこのごろは貧乏でな、どうも、女に惚れると金がかかっていけねえ。ついでにその膏薬を一滴おれの手のひらに載せて見せてくれねえか。」
「どうなさるのです。」兎は、不安そうな顔になった。
「いや、はあ、なんでもねえ。ただ、ちょっと見たいんだよ。どんな色合いのものだかな。」
「色は別に他の膏薬とかわってもいませんよ。こんなものですが。」とほんの少量を、狸の差出す手のひらに載せてやる。狸は素早くそれを顔に塗らうとしたので兎は驚き、そんな事でこの薬の正体が暴露してはかなわぬと、狸の手を遮り、
「あ、それはいけません。顔に塗るには、その薬は少し強すぎます。とんでもない。」
「いや、放してくれ。」狸はいまは破れかぶれになり、「後生だから手を放せ。お前にはおれの気持がわからないんだ。おれはこの色黒のため生れて三十何年間、どのように味気ない思いをして来たかわからない。放せ。手を放せ。後生だから塗らせてくれ。」
ついに狸は足を挙げて兎を蹴飛ばし、眼にもとまらぬ早さで薬をぬたくり、
「少くともおれの顔は、目鼻立ちは決して悪くないと思うんだ。ただ、この色黒のために気がひけていたんだ。もう大丈夫だ。うわっ! これは、ひどい。どうもひりひりする。強い薬だ。しかし、これくらいの強い薬でなければ、おれの色黒はなおらないような気もする。わあ、ひどい。しかし、我慢するんだ。ちきしょうめ、こんどあいつが、おれと逢った時、うっとりおれの顔に見とれて、うふふ、おれはもう、あいつが、恋わずらいしたって知らないぞ。おれの責任じゃないからな。ああ、ひりひりする。この薬は、たしかに効《き》く。さあ、もうこうなったら、背中にでもどこにでも、からだ一面に塗ってくれ。おれは死んだってかまわん。色白にさえなったら死んだってかまわんのだ。さあ塗ってくれ。遠慮なくべたべたと威勢よくやってくれ。」まことに悲壮な光景になって来た。
けれども、美しく高ぶった処女の残忍性には限りが無い。ほとんどそれは、悪魔に似ている。平然と立ち上って、狸の火傷にれいの唐辛子《とうがらし》をねったものをこってりと塗る。狸はたちまち七転八倒して、
「ううむ、何ともない。この薬は、たしかに効く。わああ、ひどい。水をくれ。ここはどこだ。地獄か。かんにんしてくれ。おれは地獄へ落ちる覚えは無えんだ。おれは狸汁にされるのがいやだったから、それで婆さんをやっつけたんだ。おれに、とがは無えのだ。おれは生れて三十何年間、色が黒いばっかりに、女にいちども、もてやしなかったんだ。それから、おれは、食慾が、ああ、そのために、おれはどんなにきまりの悪い思いをして来たか。誰も知りやしないのだ。おれは孤独だ。おれは善人だ。眼鼻立ちは悪くないと思うんだ。」と苦しみのあまり哀れな譫言を口走り、やがてぐったり失神の有様となる。
しかし、狸の不幸は、まだ終らぬ。作者の私でさえ、書きながら溜息が出るくらいだ。おそらく、日本の歴史に於いても、これほど不振の後半生を送った者は、あまり例が無いように思われる。狸汁の運命から逃れて、やれ嬉しやと思う間もなく、ボウボウ山で意味も無い大火傷をして九死に一生を得、這うようにしてどうやらわが巣にたどりつき、口をゆがめて呻吟していると、こんどはその大火傷に唐辛子をべたべた塗られ、苦痛のあまり失神し、さて、それからいよいよ泥舟に乗せられ、河口湖底に沈むのである。実に、何のいいところも無い。これもまた一種の女難にちがい無かろうが、しかし、それにしても、あまりに野暮な女難である。粋《いき》なところが、ひとつも無い。彼は穴の奥で三日間は虫の息で、生きているのだか死んでいるのだか、それこそ全く幽明の境をさまよい、四日目に、猛烈の空腹感に襲われ、杖をついて穴からよろばい出て、何やらぶつぶつ言いながら、かなたこなた食い捜して歩いているその姿の気の毒さと来たら比類が無かった。しかし、根が骨太《ほねぶと》の岩乗なからだであったから、十日も経たぬうちに全快し、食慾は旧の如く旺盛で、色慾などもちょっと出て来て、よせばよいのに、またもや兎の庵にのこのこ出かける。
「遊びに来ましたよ。うふふ。」と、てれて、いやらしく笑う。
「あら!」と兎は言い、ひどく露骨にいやな顔をした。なあんだ、あなたなの? という気持、いや、それよりもひどい。なんだってまたやって来たの、図々しいじゃないの、という気持、いや、それよりもなおひどい。ああ、たまらない! 厄病神が来た! という気持、いや、それよりも、もっとひどい。きたない! くさい! 死んじまえ! というような極度の嫌悪が、その時の兎の顔にありありと見えているのに、しかし、とかく招かれざる客というものは、その訪問先の主人の、こんな憎悪感に気附く事はなはだ疎いものである。これは実に不思議な心理だ。読者諸君も気をつけるがよい。あそこの家へ行くのは、どうも大儀だ、窮屈だ、と思いながら渋々出かけて行く時には、案外その家で君たちの来訪をしんから喜んでいるものである。それに反して、ああ、あの家はなんて気持のよい家だろう、ほとんどわが家同然だ、いや、わが家以上に居心地がよい、我輩の唯一の憩《いこ》いの巣だ、なんともあの家へ行くのは楽しみだ、などといい気分で出かける家に於いては、諸君は、まずたいてい迷惑がられ、きたながられ、恐怖せられ、襖の陰に箒など立てられているものである。他人の家に、憩いの巣を期待するのが、そもそも馬鹿者の証拠なのかも知れないが、とかくこの訪問という事に於いては、吾人は驚くべき思い違いをしているものである。格別の用事でも無い限り、どんな親しい身内の家にでも、矢鱈に訪問などすべきものでは無いかも知れない。作者のこの忠告を疑う者は、狸を見よ。狸はいま明らかに、このおそるべき錯誤を犯しているのだ。兎が、あら! と言い、そうして、いやな顔をしても、狸には一向に気がつかない。狸には、その、あら! という叫びも、狸の不意の訪問に驚き、かつは喜悦して、おのずから発せられた処女の無邪気な声の如くに思われ、ぞくぞく嬉しく、また兎の眉をひそめた表情をも、これは自分の先日のボウボウ山の災難に、心を痛めているのに違い無いと解し、
「や、ありがとう。」とお見舞いも何も言われぬくせに、こちらから御礼を述べ、「心配無用だよ。もう大丈夫だ。おれには神さまがついているんだ。運がいいのだ。あんなボウボウ山なんて屁の河童さ。河童の肉は、うまいそうで。何とかして、そのうち食べてみようと思っているんだがね。それは余談だが、しかし、あの時は、驚いたよ。何せどうも、たいへんな火勢だったからね。お前のほうは、どうだったね。べつに怪我も無い様子だが、よくあの火の中を無事で逃げて来られたね。」
「無事でもないわよ。」と兎はつんとすねて見せて、「あなたったら、ひどいじゃないの。あのたいへんな火事場に、私ひとりを置いてどんどん逃げて行ってしまうんだもの。私は煙にむせて、もう少しで死ぬところだったのよ。私は、あなたを恨んだわ。やっぱりあんな時に、つい本心というものがあらわれるものらしいのね。私には、もう、あなたの本心というものが、こんど、はっきりわかったわ。」
「すまねえ。かんにんしてくれ。実はおれも、ひどい火傷をして、おれには、ひょっとしたら神さまも何もついていねえのかも知れない、さんざんの目に遭っちゃったんだ。お前はどうなったか、決してそれを忘れていたわけじゃなかったんだが、何せどうも、たちまちおれの背中が熱くなって、お前を助けに行くひまも何も無かったんだよ。わかってくれねえかなあ。おれは決して不実な男じゃねえのだ。火傷ってやつも、なかなか馬鹿にできねえものだぜ。それに、あの、仙金膏とか、疝気膏とか、あいつあ、いけない。いやもう、ひどい薬だ。色黒にも何もききゃしない。」
「色黒?」
「いや、何。どろりとした黒い薬でね、こいつあ、強い薬なんだ。お前によく似た、小さい、奇妙な野郎が薬代は要らねえ、と言うから、おれもつい、ものはためしだと思って、塗ってもらう事にしたのだが、いやはやどうも、ただの薬ってのも、あれはお前、気をつけたほうがいいぜ、油断も何もなりゃしねえ、おれはもう頭のてっぺんからキリキリと小さい竜巻が立ち昇ったような気がして、どうとばかりに倒れたんだ。」
「ふん、」と兎は軽蔑し、「自業自得じゃないの。ケチンボだから罰が当ったんだわ。ただの薬だから、ためしてみたなんて、よくもまあそんな下品な事を、恥ずかしくもなく言えたものねえ。」
「ひでえ事を言う。」と狸は低い声で言い、けれども、別段何も感じないらしく、ただもう好きなひとの傍にいるという幸福感にぬくぬくとあたたまっている様子で、どっしりと腰を落ちつけ、死魚のように濁った眼であたりを見廻し、小虫を拾って食べたりしながら、「しかし、おれは運のいい男だなあ。どんな目に遭っても、死にやしない。神さまがついているのかも知れねえ。お前も無事でよかったが、おれも何という事もなく火傷がなおって、こうしてまた二人でのんびり話が出来るんだものなあ。ああ、まるで夢のようだ。」
兎はもうさっきから、早く帰ってもらいたくてたまらなかった。いやでいやで、死にそうな気持。何とかしてこの自分の庵の附近から去ってもらいたくて、またもや悪魔的の一計を案出する。
「ね、あなたはこの河口湖に、そりゃおいしい鮒がうようよいる事をご存じ?」
「知らねえ。ほんとかね。」と狸は、たちまち眼をかがやかして、「おれが三つの時、おふくろが鮒を一匹捕って来ておれに食べさせてくれた事があったけれども、あれはおいしい。おれはどうも、不器用というわけではないが、決してそういうわけではないが、鮒なんて水の中のものを捕える事が出来ねえので、どうも、あいつはおいしいという事だけは知っていながら、それ以来三十何年間、いや、はははは、つい兄の口真似をしちゃった。兄も鮒は好きでなあ。」
「そうですかね。」と兎は上の空で合槌を打ち、「私はどうも、鮒など食べたくもないけれど、でも、あなたがそんなにお好きなのならば、これから一緒に捕りに行ってあげてもいいわよ。」
「そうかい。」と狸はほくほくして、「でも、あの鮒ってやつは、素早いもんでなあ、おれはあいつを捕えようとして、も少しで土左衛門になりかけた事があるけれども、」とつい自分の過去の失態を告白し、「お前に何かいい方法があるのかね。」
「網で掬ったら、わけは無いわ。あの鸕鷀島《うがしま》の岸にこのごろとても大きい鮒が集っているのよ。ね、行きましょう。あなた、舟は? 漕げるの?」
「うむ、」幽かな溜息をついて、「漕げないことも無いがね。その気になりゃ、なあに。」と苦しい法螺を吹いた。
「漕げるの?」と兎は、それが法螺だという事を知っていながら、わざと信じた振りをして、「じゃ、ちょうどいいわ。私にはね、小さい舟が一艘あるけど、あんまり小さすぎて私たちふたりは乗れないの。それに何せ薄い板切れでいい加減に作った舟だから、水がしみ込んで来て危いのよ。でも、私なんかどうなったって、あなたの身にもしもの事があってはいけないから、あなたの舟をこれから、ふたりで一緒に力を合せて作りましょうよ。板切れの舟は危いから、もっと岩乗に、泥をこねて作りましょうよ。」
「すまねえなあ。おれはもう、泣くぜ。泣かしてくれ。おれはどうしてこんなに涙もろいか。」と言って嘘泣きをしながら、「ついでにお前ひとりで、その岩乗ないい舟を作ってくれないか。な、たのむよ。」と抜からず横着な申し出をして、「おれは恩に着るぜ。お前がそのおれの岩乗な舟を作ってくれている間に、おれは、ちょっとお弁当をこさえよう。おれはきっと立派な炊事係りになれるだろうと思うんだ。」
「そうね。」と兎は、この狸の勝手な意見をも信じた振りして素直に首肯く。そうして狸は、ああ世の中なんて甘いもんだとほくそ笑む。この間一髪に於いて、狸の悲運は決定せられた。自分の出鱈目を何でも信じてくれる者の胸中には、しばしば何かのおそるべき悪計が蔵せられているものだと云う事を、迂愚の狸は知らなかった。調子がいいぞ、とにやにやしている。
ふたりはそろって湖畔に出る。白い河口湖には波ひとつ無い。兎はさっそく泥をこねて、所謂岩乗な、いい舟の製作にとりかかり、狸は、すまねえ、すまねえ、と言いながらあちこち飛び廻って専ら自分のお弁当の内容調合に腐心し、夕風が微かに吹き起って湖面一ぱいに小さい波が立って来た頃、粘土の小さい舟が、つやつやと鋼鉄色に輝いて進水した。
「ふむ、悪くない。」と狸は、はしゃいで、石油鑵ぐらいの大きさの、れいのお弁当箱をまず舟に積み込み、「お前は、しかし、ずいぶん器用な娘だねえ。またたく間にこんな綺麗な舟一艘つくり上げてしまうのだからねえ。神技だ。」と歯の浮くような見え透いたお世辞を言い、このように器用な働き者を女房にしたら、或いはおれは、女房の働きに依って遊んでいながら贅沢ができるかも知れないなどと、色気のほかにいまはむらむら慾気さえ出て来て、いよいよこれは何としてもこの女にくっついて一生はなれぬ事だ、とひそかに覚悟のほぞを固めて、よいしょと泥の舟に乗り、「お前はきっと舟を漕ぐのも上手だろうねえ。おれだって、舟の漕ぎ方くらい知らないわけでは、まさか、そんな、知らないと云うわけでは決して無いんだが、きょうはひとつ、わが女房のお手並を拝見したい。」いやに言葉遣いが図々しくなって来た。「おれも昔は、舟の漕ぎ方にかけては名人とか、または達者とか言われたものだが、きょうはまあ寝転んで拝見という事にしようかな。かまわないから、おれの舟の舳を、お前の舟の艫《とも》にゆわえ附けておくれ。舟も仲良くぴったりくっついて、死なばもろとも、見捨てちゃいやよ。」などといやらしく、きざったらしい事を言ってぐったり泥舟の底に寝そべる。
兎は、舟をゆわえ附けよと言われて、さてはこの馬鹿も何か感づいたかな? とぎょっとして狸の顔つきを盗み見たが、何の事は無い、狸は鼻の下を長くしてにやにや笑いながら、もはや夢路をたどっている。鮒がとれたら起してくれ。あいつあ、うめえからなあ。おれは三十七だよ。などと馬鹿な寝言を言っている。兎は、ふんと笑って狸の泥舟を兎の舟につないで、それから、櫂でぱちゃと水の面を撃つ。するすると二艘の舟は岸を離れる。
鸕鷀島《うがしま》の松林は夕陽を浴びて火事のようだ。ここでちょっと作者は物識り振るが、この島の松林を写生して図案化したのが、煙草の「敷島」の箱に描かれてある、あれだという話だ。たしかな人から聞いたのだから、読者も信じて損は無かろう。もっとも、いまはもう「敷島」なんて煙草は無くなっているから、若い読者には何の興味も無い話である。つまらない知識を振りまわしたものだ。とかく識ったかぶりは、このような馬鹿らしい結果に終る。まあ、生れて三十何年以上にもなる読者だけが、ああ、あの松か、と芸者遊びの記憶なんかと一緒にぼんやり思い出して、つまらなそうな顔をするくらいが関の山であろうか。
さて兎は、その鸕鷀島の夕景をうっとり望見して、
「おお、いい景色。」と呟く。これは如何にも奇怪である。どんな極悪人でも、自分がこれから残虐の犯罪を行おうというその直前に於いて、山水の美にうっとり見とれるほどの余裕なんて無いように思われるが、しかし、この十六歳の美しい処女は、眼を細めて島の夕景を観賞している。まことに無邪気と悪魔とは紙一重である。苦労を知らぬわがままな処女の、へどが出るような気障ったらしい姿態に対して、ああ青春は純真だ、なんて言って垂涎している男たちは、気をつけるがよい。その人たちの所謂「青春の純真」とかいうものは、しばしばこの兎の例に於けるが如く、その胸中に殺意と陶酔が隣合せて住んでいても平然たる、何が何やらわからぬ官能のごちゃまぜの乱舞である。危険この上ないビールの泡だ。皮膚感覚が倫理を覆っている状態、これを低能あるいは悪魔という。ひところ世界中に流行したアメリカ映画、あれには、こんな所謂「純真」な雄や雌がたくさん出て来て、皮膚感触をもてあまして擽ったげにちょこまか、バネ仕掛けの如く動きまわっていた。別にこじつけるわけではないが、所謂「青春の純真」というものの元祖は、或いは、アメリカあたりにあったのではなかろうかと思われるくらいだ。スキイでランラン、とかいうたぐいである。そうしてその裏で、ひどく愚劣な犯罪を平気で行っている。低能でなければ悪魔である。いや、悪魔というものは元来、低能なのかも知れない。小柄でほっそりして手足が華奢で、かの月の女神アルテミスにも比較せられた十六歳の処女の兎も、ここに於いて一挙に頗る興味索然たるつまらぬものになってしまった、低能かい。それじゃあ仕様が無いねえ。
「ひゃあ!」と脚下に奇妙な声が起る。わが親愛なる而して甚だ純真ならざる三十七歳の男性、狸君の悲鳴である。「水だ、水だ。これはいかん。」
「うるさいわね。泥の舟だもの、どうせ沈むわ。わからなかったの?」
「わからん。理解に苦しむ。筋道が立たぬ。それは御無理というものだ。お前はまさかこのおれを、いや、まさか、そんな鬼のような、いや、まるでわからん。お前はおれの女房じゃないか。やあ、沈む。少くとも沈むという事だけは眼前の真実だ。冗談にしたって、あくどすぎる。これはほとんど暴力だ。やあ、沈む。おい、お前どうしてくれるんだ。お弁当がむだになるじゃないか、このお弁当箱には鼬の糞《ふん》でまぶした蚯蚓のマカロニなんか入っているのだ。惜しいじゃないか。あっぷ! ああ、とうとう水を飲んじゃった、おい、たのむ、ひとの悪い冗談はいい加減によせ。おいおい、その綱を切っちゃいかん。死なばもろとも、夫婦は二世、切っても切れねえ縁《えにし》の艫綱《ともづな》、あ、いけねえ、切っちゃった。助けてくれ! おれは泳ぎが出来ねえのだ。白状する。昔は少し泳げたのだが、狸も三十七になると、あちこちの筋《すじ》が固くなって、とても泳げやしないのだ。白状する。おれは三十七なんだ。お前とは実際、としが違いすぎるのだ。年寄りを大事にしろ! 敬老の心掛けを忘れるな! あっぷ! ああ、お前はいい子だ、な、いい子だから、そのお前の持っている櫂をこっちへ差しのべておくれ、おれはそれにつかまって、あいたたた、何をするんだ、痛いじゃないか、櫂でおれの頭を殴りやがって、よし、そうか、わかった! お前はおれを殺す気だな、それでわかった。」と狸もその死の直前に到って、はじめて兎の悪計を見抜いたが、既におそかった。
ぽかん、ぽかん、と無慈悲の櫂が頭上に降る。狸は夕陽にきらきら輝く湖面に浮きつ沈みつ、
「あいたたた、あいたたた、ひどいじゃないか。おれは、お前にどんな悪い事をしたのだ。惚れたが悪いか。」と言って、ぐっと沈んでそれっきり。
兎は顔を拭いて、
「おお、ひどい汗。」と言った。
ところでこれは、好色の戒めとでもいうものであろうか。十六歳の美しい処女には近寄るなという深切な忠告を匂わせた滑稽物語でもあろうか。或いはまた、気にいったからとて、あまりしつこくお伺いしては、ついには極度に嫌悪せられ、殺害せられるほどのひどいめに遭うから節度を守れ、という礼儀作法の教科書でもあろうか。
或いはまた、道徳の善悪よりも、感覚の好き嫌いに依って世の中の人たちはその日常生活に於いて互いに罵り、または罰し、または賞し、または服しているものだという事を暗示している笑話であろうか。
いやいや、そのように評論家的な結論に焦躁せずとも、狸の死ぬるいまわの際の一言にだけ留意して置いたら、いいのではあるまいか。
曰く、惚れたが悪いか。
古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかっていると言っても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでいるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかってあがいている。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であった。おそらくは、また、君に於いても。後略。
舌切雀
私はこの「お伽草紙」という本を、日本の国難打開のために敢闘している人々の寸暇に於ける慰労のささやかな玩具として恰好のものたらしむべく、このごろ常に微熱を発している不完全のからだながら、命ぜられては奉公の用事に出勤したり、また自分の家の罹災の後始末やら何やらしながら、とにかく、そのひまに少しずつ書きすすめて来たのである。瘤取り、浦島さん、カチカチ山、その次に、桃太郎と、舌切雀を書いて、一応この「お伽草紙」を完結させようと私は思っていたのであるが、桃太郎のお話は、あれはもう、ぎりぎりに単純化せられて、日本男児の象徴のようになっていて、物語というよりは詩や歌の趣きさえ呈している。もちろん私も当初に於いては、この桃太郎をも、私の物語に鋳造し直すつもりでいた。すなわち私は、あの鬼ケ島の鬼というものに、或る種の憎むべき性格を附与してやろうと思っていた。どうしてもあれは、征伐せずには置けぬ醜怪極悪無類の人間として、描写するつもりであった。それに依って桃太郎の鬼征伐も大いに読者諸君の共鳴を呼び起し、而してその戦闘も読む者の手に汗を握らせるほどの真に危機一髪のものたらしめようとたくらんでいた。(未だ書かぬ自分の作品の計画を語る場合に於いては、作者はたいていこのようにあどけない法螺を吹くものである。そんなに、うまくは行きませぬて。)まあさ、とにかく、まあ、聞き給え。どうせ、気焔だがね。とにかく、ひやかさずに聞いてくれ給え。ギリシャ神話に於いて、最も佞悪醜穢の魔物は、やはりあの万蛇頭のメデウサであろう。眉間には狐疑の深い皺がきざみ込まれ、小さい灰色の眼には浅間しい殺意が燃え、真蒼な頬は威嚇の怒りに震えて、黒ずんだ薄い唇は嫌悪と侮蔑にひきつったようにゆがんでいる。そうして長い頭髪の一本一本がことごとく腹の赤い毒蛇である。敵に対してこの無数の毒蛇は、素早く一様に鎌首をもたげ、しゅっしゅっと気味悪い音を立てて手向う。このメデウサの姿をひとめ見た者は、何とも知れずいやな気持になって、そうして、心臓が凍り、からだ全体つめたい石になったという。恐怖というよりは、不快感である。人の肉体よりも、人の心に害を加える。このような魔物は、最も憎むべきものであり、かつまたすみやかに退治しなければならぬものである。それに較べると、日本の化物は単純で、そうして愛嬌がある。古寺の大入道や一本足の傘の化物などは、たいてい酒飲みの豪傑のために無邪気な舞いをごらんに入れて以て豪傑の乙夜丑満の無聊を慰めてくれるだけのものである。また、絵本の鬼ケ島の鬼たちも、図体ばかり大きくて、猿に鼻など引掻かれ、あっ! と言ってひっくりかえって降参したりしている。一向におそろしくも何とも無い。善良な性格のもののようにさえ思われる。それでは折角の鬼退治も、甚だ気抜けのした物語になるだろう。ここは、どうしてもメデウサの首以上の凄い、不愉快きわまる魔物を登場させなければならぬところだ。それでなければ読者の手に汗を握らせるわけにはいかぬ。また、征服者の桃太郎が、あまりに強くては、読者はかえって鬼のほうを気の毒に思ったりなどして、その物語に危機一髪の醍醐味は湧いて出ない。ジイグフリイドほどの不死身《ふじみ》の大勇者でも、その肩先に一箇所の弱点を持っていたではないか。弁慶にも泣きどころがあったというし、とにかく、完璧の絶対の強者は、どうも物語には向かない。それに私は、自身が非力のせいか、弱者の心理にはいささか通じているつもりだが、どうも、強者の心理は、あまりつまびらかに知っていない。殊にも、誰にも絶対に負けぬ完璧の強者なんてのには、いま迄いちども逢った事が無いし、また噂にさえ聞いた事が無い。私は多少でも自分で実際に経験した事で無ければ、一行も一字も書けない甚だ空想が貧弱の物語作家である。それで、この桃太郎物語を書くに当っても、そんな見た事も無い絶対不敗の豪傑を登場させるのは何としても不可能なのである。やはり、私の桃太郎は、小さい時から泣虫で、からだが弱くて、はにかみ屋で、さっぱり駄目な男だったのだが、人の心情を破壊し、永遠の絶望と戦慄と怨嗟の地獄にたたき込む悪辣無類にして醜怪の妖鬼たちに接して、われ非力なりと雖もいまは黙視し得ずと敢然立って、黍団子を腰に、かの妖鬼たちの巣窟に向って発足する、とでもいうような事になりそうである。またあの、犬、猿、雉の三匹の家来も、決して模範的な助力者ではなく、それぞれに困った癖があって、たまには喧嘩もはじめるであろうし、ほとんどかの西遊記の悟空、八戒、悟浄の如きもののように書くかも知れない。しかし、私は、カチカチ山の次に、いよいよこの、「私の桃太郎」に取りかかろうとして、突然、ひどく物憂い気持に襲われたのである。せめて、桃太郎の物語一つだけは、このままの単純な形で残して置きたい。これは、もう物語ではない。昔から日本人全部に歌い継がれて来た日本の詩である。物語の筋にどんな矛盾があったって、かまわぬ。この詩の平明闊達の気分を、いまさら、いじくり廻すのは、日本に対してすまぬ。いやしくも桃太郎は、日本一という旗を持っている男である。日本一はおろか日本二も三も経験せぬ作者が、そんな日本一の快男子を描写できる筈が無い。私は桃太郎のあの「日本一」の旗を思い浮べるに及んで、潔く「私の桃太郎物語」の計画を放棄したのである。
そうして、すぐつぎに舌切雀の物語を書き、それだけで一応、この「お伽草紙」を結びたいと思い直したわけである。この舌切雀にせよ、また前の瘤取り、浦島さん、カチカチ山、いずれも「日本一」の登場は無いので、私の責任も軽く、自由に書く事を得たのであるが、どうも、日本一と言う事になると、かりそめにもこの貴い国で第一と言う事になると、いくらお伽噺だからと言っても、出鱈目な書き方は許されまい。外国の人が見て、なんだ、これが日本一か、などと言ったら、その口惜しさはどんなだろう。だから、私はここにくどいくらいに念を押して置きたいのだ。瘤取りの二老人も浦島さんも、またカチカチ山の狸さんも、決して日本一ではないんだぞ、桃太郎だけが日本一なんだぞ、そうしておれはその桃太郎を書かなかったんだぞ、だから、この「お伽草紙」には、日本一なんか、もしお前の眼前に現われたら、お前の両眼はまぶしさのためにつぶれるかも知れない。いいか、わかったか。この私の「お伽草紙」に出て来る者は、日本一でも二でも三でも無いし、また、所謂「代表的人物」でも無い。これはただ、太宰という作家がその愚かな経験と貧弱な空想を以て創造した極めて凡庸の人物たちばかりである。これらの諸人物を以て、ただちに日本人の軽重を推計せんとするのは、それこそ刻舟求剣のしたり顔なる穿鑿に近い。私は日本を大事にしている。それは言うまでも無い事だが、それゆえ、私は日本一の桃太郎を描写する事は避け、また、他の諸人物の決して日本一ではない所以をもくどくどと述べて来たのだ。読者もまた、私のこんなへんなこだわり方に大いに賛意を表して下さるのではあるまいか、と思われる。
さて、この舌切雀の主人公は、日本一どころか、逆に、日本で一ばん駄目な男と言ってよいかも知れぬ。だいいち、からだが弱い。からだの弱い男というものは、足の悪い馬よりも、もっと世間的の価値が低いようである。いつも力無い咳をして、そうして顔色も悪く、朝起きて部屋の障子にはたきを掛け、箒で塵を掃き出すと、もう、ぐったりして、あとは、一日一ぱい机の傍で寝たり起きたり何やら蠢動して、夕食をすますと、すぐ自分でさっさと蒲団を引いて寝てしまう。この男は、既に十数年来こんな情無い生活を続けている。未だ四十歳にもならぬのだが、しかし、よほど前から自分の事を翁と署名し、また自分の家の者にも「お爺さん」と呼べと命令している。まあ、世捨人とでも言うべきものであろうか。しかし、世捨人だって、お金が少しでもあるから、世を捨てられるので、一文無しのその日暮しだったら、世を捨てようと思ったって、世の中のほうから追いかけて来て、とても捨て切れるものでない。この「お爺さん」も、いまはこんなささやかな草の庵を結んでいるが、もとをただせば大金持の三男坊で、父母の期待にそむいて、これという職業も持たず、ぼんやり晴耕雨読などという生活をしているうちに病気になったりして、このごろは、父母をはじめ親戚一同も、これを病弱の馬鹿の困り者と称してあきらめ、月々の暮しに困らぬ小額の金を仕送りしているというような状態なのである。さればこそ、こんな世捨人みたいな生活も可能なのである。いかに、草の庵とはいへ、まあ、結構な身分と申さざるを得ないであろう。そうして、そんな結構な身分の者に限って、あまりひとの役に立たぬものである。からだが弱いのは事実のようであるが、しかし、寝ているほどの病人では無いのだから、何か一つくらい積極的仕事の出来ぬわけはない筈である。けれども、このお爺さんは何もしない。本だけは、ずいぶんたくさん読んでいるようだが、読み次第わすれて行くのか、自分の読んだ事を人に語って知らせるというわけでもない。ただ、ぼんやりしている。これだけでも、既に世間的価値がゼロに近いのに、さらにこのお爺さんには子供が無い。結婚してもう十年以上にもなるのだが、未だ世継が無いのである。これでもう完全に彼は、世間人としての義務を何一つ果していない、という事になる。こんな張合の無い亭主に、よくもまあ十何年も連添うて来た細君というのは、どんな女か、多少の興をそそられる。しかし、その草庵の垣根越しに、そっと覗いてみた者は、なあんだ、とがっかりさせられる。実に何とも、つまらない女だ。色がまっくろで、眼はぎょろりとして、手は皺だらけで大きく、その手をだらりと前にさげて少し腰をかがめていそがしげに庭を歩いているさまを見ると、「お爺さん」よりも年上ではないかと思われるくらいである。しかし、今年三十三の厄年だという。このひとは、もと「お爺さん」の生家に召使われていたのであるが、病弱のお爺さんの世話を受持たされて、いつしかその生涯を受持つようになってしまったのである。無学である。
「さあ、下着類を皆、脱いでここへ出して下さい。洗います。」と強く命令するように言う。
「この次。」お爺さんは、机に頬杖をついて低く答える。お爺さんは、いつも、ひどく低い声で言う。しかも、言葉の後半は、口の中で澱んで、ああ、とか、うう、とかいうようにしか聞えない。連添うて十何年になるお婆さんにさえ、このお爺さんの言う事がよく聞きとれない。いわんや、他人に於いてをや。どうせ世捨人同然のひとなのだから、自分の言う事が他人にわかったって、わからなくたってどうだっていいようなものかも知れないが、定職にも就かず、読書はしても別段その知識でもって著述などしようとする気配も見えず、そうして結婚後十数年経過しているのに一人の子供ももうけず、そうして、その上、日常の会話に於いてさえ、はっきり言う手数を省いて、後半を口の中でむにゃむにゃ言ってすますとは、その骨惜しみと言おうか何と言おうか、とにかくその消極性は言語に絶するものがあるように思われる。
「早く出して下さいよ。ほら、襦袢の襟なんか、油光りしているじゃありませんか。」
「この次。」やはり半分は口の中で、ぼそりと言う。
「え? 何ですって? わかるように言って下さい。」
「この次。」と頬杖をついたまま、にこりともせずお婆さんの顔を、まじまじと見つめながら、こんどはやや明瞭に言う。「きょうは寒い。」
「もう冬ですもの。きょうだけじゃなく、あしたもあさっても寒いにきまっています。」と子供を叱るような口調で言い、「そんな工合いに家の中で、じっと炉傍に坐っている人と、井戸端へ出て洗濯している人と、どっちが寒いか知っていますか。」
「わからない。」と幽かに笑って答える。「お前の井戸端は習慣になっているから。」
「冗談じゃありません。」とお婆さんは顔をしかめて、「私だって何も、洗濯をしに、この世に生れて来たわけじゃないんですよ。」
「そうかい。」と言って、すましている。
「さあ、早く脱いで寄こして下さいよ。代りの下着類はいっさいその押入の中にはいっていますから。」
「風邪をひく。」
「じゃあ、よござんす。」いまいましそうに言い切ってお婆さんは退却する。
ここは東北の仙台郊外、愛宕山の麓、広瀬川の急流に臨んだ大竹藪の中である。仙台地方には昔から、雀が多かったのか、仙台笹とかいう紋所には、雀が二羽図案化されているし、また、芝居の先代萩には雀が千両役者以上の重要な役として登場するのは誰しもご存じの事と思う。また、昨年、私が仙台地方を旅行した時にも、その土地の一友人から仙台地方の古い童謡として次のような歌を紹介せられた。
カゴメ カゴメ
カゴノナカノ スズメ
イツ イツ デハル
この歌は、しかし、仙台地方に限らず、日本全国の子供の遊び歌になっているようであるが、
カゴノナカノ スズメ
と言って、ことさらに籠の小鳥を雀と限定しているところ、また、デハルという東北の方言が何の不自然な感じも無く挿入せられている点など、やはりこれは仙台地方の民謡と称しても大過ないのではなかろうかと私には思われた。
このお爺さんの草庵の周囲の大竹藪にも、無数の雀が住んでいて、朝夕、耳を聾せんばかりに騒ぎ立てる。この年の秋の終り、大竹藪に霰が爽やかな音を立てて走っている朝、庭の土の上に、脚をくじいて仰向にあがいている小雀をお爺さんは見つけ、黙って拾って、部屋の炉傍に置いて餌を与え、雀は脚の怪我がなおっても、お爺さんの部屋で遊んで、たまに庭先へ飛び降りてみる事もあるが、またすぐ縁にあがって来て、お爺さんの投げ与える餌を啄み、糞をたれると、お婆さんは、
「あれ汚い。」と言って追い、お爺さんは無言で立って懐紙でその縁側の糞をていねいに拭き取る。日数の経つにつれて雀にも、甘えていい人と、そうでない人との見わけがついて来た様子で、家にお婆さんひとりしかいない時には、庭先や軒下に避難し、そうしてお爺さんがあらはれると、すぐ飛んで来て、お爺さんの頭の上にちょんと停ったり、またお爺さんの机の上をはねまわり、硯の水をのどを幽かに鳴らして飲んだり、筆立の中に隠れたり、いろいろに戯れてお爺さんの勉強の邪魔をする。けれども、お爺さんはたいてい知らぬ振りをしている。世にある愛禽家のように、わが愛禽にへんな気障ったらしい名前を附けて、
「ルミや、お前も淋しいかい。」などという事は言わない。雀がどこで何をしようと、全然無関心の様子を示している。そうして時々、黙ってお勝手から餌を一握り持って来て、ばらりと縁側に撒いてやる。
その雀が、いまお婆さんの退場後に、はたはたと軒下から飛んで来て、お爺さんの頬杖ついている机の端にちょんと停る。お爺さんは少しも表情を変えず、黙って雀を見ている。このへんから、そろそろこの小雀の身の上に悲劇がはじまる。
お爺さんは、しばらく経ってから一言、「そうか。」と言った。それから深い溜息をついて、机上に本をひろげた。その書物のペエジを一、二枚繰って、それからまた、頬杖をついてぼんやり前方を見ながら、「洗濯をするために生れて来たのではないと言いやがる。あれでも、まだ、色気があると見える。」と呟いて、幽かに苦笑する。
この時、突然、机上の小雀が人語を発した。
「あなたは、どうなの?」
お爺さんは格別おどろかず、
「おれか、おれは、そうさな、本当の事を言うために生れて来た。」
「でも、あなたは何も言いやしないじゃないの。」
「世の中の人は皆、嘘つきだから、話を交すのがいやになったのさ。みんな、嘘ばっかりついている。そうしてさらに恐ろしい事は、その自分の嘘にご自身お気附きになっていない。」
「それは怠け者の言いのがれよ。ちょっと学問なんかすると、誰でもそんな工合に横着な気取り方をしてみたくなるものらしいのね。あなたは、なんにもしてやしないじゃないの。寝ていて人を起こすなかれ、という諺があったわよ。人の事など言えるがらじゃ無いわ。」
「それもそうだが、」とお爺さんはあわてず、「しかし、おれのような男もあっていいのだ。おれは何もしていないように見えるだろうが、まんざら、そうでもない。おれでなくちゃ出来ない事もある。おれの生きている間、おれの真価の発揮できる時機が来るかどうかわからぬが、しかし、その時が来たら、おれだって大いに働く。その時までは、まあ、沈黙して、読書だ。」
「どうだか。」と雀は小首を傾け、「意気地無しの陰弁慶に限って、よくそんな負け惜しみの気焔を挙げるものだわ。廃残の御隠居、とでもいうのかしら、あなたのようなよぼよぼの御老体は、かえらぬ昔の夢を、未来の希望と置きかえて、そうしてご自身を慰めているんだわ。お気の毒みたいなものよ。そんなのは気焔にさえなってやしない。変態の愚痴よ。だって、あなたは、何もいい事をしてやしないんだもの。」
「そう言えば、まあ、そんなものかも知れないが、」と老人はいよいよ落ちついて、「しかし、おれだって、いま立派に実行している事が一つある。それは何かって言えば、無慾という事だ。言うは易くして、行うは難いものだよ。うちのお婆さんなど、おれみたいな者ともう十何年も連添うて来たのだから、いい加減に世間の慾を捨てているかと思っていたら、どうもそうでもないらしい。まだあれで、何か色気があるらしいんだね。それが可笑しくて、ついひとりで噴き出したような次第だ。」
そこへ、ぬっとお婆さんが顔を出す。
「色気なんかありませんよ。おや? あなたは、誰と話をしていたのです。誰か、若い娘さんの声がしていましたがね。あのお客さんは、どこへいらっしゃいました。」
「お客さんか。」お爺さんは、れいに依って言葉を濁す。
「いいえ、あなたは今たしかに誰かと話をしていましたよ。それも私の悪口をね。まあ、どうでしょう、私にものを言う時には、いつも口ごもって聞きとれないような大儀そうな言い方ばかりする癖に、あの娘さんには、まるで人が変ったみたいにあんな若やいだ声を出して、たいへんごきげんそうに、おしゃべりしていらしたじゃないの。あなたこそ、まだ色気がありますよ。ありすぎて、べたべたです。」
「そうかな。」とお爺さんは、ぼんやり答えて、「しかし、誰もいやしない。」
「からかはないで下さい。」とお婆さんは本気に怒ってしまった様子で、どさんと縁先に腰をおろし、「あなたはいったいこの私を、何だと思っていらっしゃるのです。私はずいぶん今までこらえて来ました。あなたはもう、てんで私を馬鹿にしてしまっているのですもの。そりゃもう私は、育ちもよくないし学問も無いし、あなたのお話相手が出来ないかも知れませんが、でも、あんまりですわ。私だって、若い時からあなたのお家へ奉公にあがってあなたのお世話をさせてもらって、それがまあ、こんな事になって、あなたの親御さんも、あれならばなかなかしっかり者だし、せがれと一緒にさせても、——」
「嘘ばかり。」
「おや、どこが嘘なのです。私が、どんな嘘をつきました。だって、そうじゃありませんか。あの頃、あなたの気心を一ばんよく知っていたのは私じゃありませんか。私でなくちゃ駄目だったんです。だから私が、一生あなたのめんどうを見てあげる事になったんじゃありませんか。どこが、どんな工合いに嘘なのです。それを聞かして下さい。」と顔色を変えてつめ寄る。
「みんな嘘さ。あの頃の、お前の色気ったら無かったぜ。それだけさ。」
「それは、いったい、どんな意味です。私には、わかりゃしません。馬鹿にしないで下さい。私はあなたの為を思って、あなたと一緒になったのですよ。色気も何もありゃしません。あなたもずいぶん下品な事を言いますね。ぜんたい私が、あなたのような人と一緒になったばかりに、朝夕どんなに淋しい思いをしているか、あなたはご存じ無いのです。たまには、優しい言葉の一つも掛けてくれるものです。他の夫婦をごらんなさい。どんなに貧乏をしていても、夕食の時などには楽しそうに世間話をして笑い合っているじゃありませんか。私は決して慾張り女ではないんです。あなたのためなら、どんな事でも忍んで見せます。ただ、時たま、あなたから優しい言葉の一つも掛けてもらえたら、私はそれで満足なのですよ。」
「つまらない事を言う。そらぞらしい。もういい加減あきらめているかと思ったら、まだ、そんなきまりきった泣き言を並べて、局面転換を計らうとしている。だめですよ。お前の言う事なんざ、みんなごまかしだ。その時々の安易な気分本位だ。おれをこんな無口な男にさせたのは、お前です。夕食の時の世間話なんて、たいていは近所の人の品評じゃないか。悪口じゃないか。それも、れいの安易な気分本位で、やたらと人の陰口をきく。おれはいままで、お前が人をほめたのを聞いた事がない。おれだって、弱い心を持っている。お前にまきこまれて、つい人の品評をしたくなる。おれには、それがこわいのだ。だから、もう誰とも口をきくまいと思った。お前たちには、ひとの悪いところばかり眼について、自分自身のおそろしさにまるで気がついていないのだからな。おれは、ひとがこわい。」
「わかりました。あなたは、私にあきたのでしょう。こんな婆が、鼻について来たのでしょう。私には、わかっていますよ。さっきのお客さんは、どうしました。どこに隠れているのです。たしかに若い女の声でしたわね。あんな若いのが出来たら、私のような婆さんと話をするのがいやになるのも、もっともです。なんだい、無慾だの何だのと悟り顔なんかしていても、相手が若い女だと、すぐもうわくわくして、声まで変って、ぺちゃくちゃとお喋りをはじめるのだからいやになります。」
「それなら、それでよい。」
「よかありませんよ。あのお客さんは、どこにいるのです。私だって、挨拶を申さなければ、お客さんに失礼ですよ。こう見えても、私はこの家の主婦ですからね、挨拶をさせて下さいよ。あんまり私を蹈みつけにしては、だめです。」
「これだ。」とお爺さんは、机上で遊んでいる雀のほうを顎でしゃくって見せる。
「え? 冗談じゃない。雀がものを言いますか。」
「言う。しかも、なかなか気のきいた事を言う。」
「どこまでも、そんなに意地悪く私をからかうのですね。じゃあ、よござんす。」矢庭に腕をのばして、机上の小雀をむずと掴み、「そんな気のきいた事を言わせないように、舌をむしり取ってしまいましょう。あなたは、ふだんからどうもこの雀を可愛がりすぎます。私には、それがいやらしくて仕様が無かったんですよ。ちょうどいい案配だ。あなたが、あの若い女のお客さんを逃がしてしまったのなら、身代りにこの雀の舌を抜きます。いい気味だ。」掌中の雀の嘴をこじあけて、小さい菜の花びらほどの舌をきゅっとむしり取った。
雀は、はたはたと空高く飛び去る。
お爺さんは、無言で雀の行方を眺めている。
そうして、その翌日から、お爺さんの大竹藪探索がはじまるわけである。
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
毎日毎日、雪が降り続ける。それでもお爺さんは何かに憑かれたみたいに、深い大竹藪の中を捜しまはる。藪の中には、雀は千も万もいる。その中から、舌を抜かれた小雀を捜し出すのは、至難の事のように思われるが、しかし、お爺さんは異様な熱心さを以て、毎日毎日探索する。
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
お爺さんにとって、こんな、がむしゃらな情熱を以て行動するのは、その生涯に於いて、いちども無かったように見受けられた。お爺さんの胸中に眠らされていた何物かが、この時はじめて頭をもたげたようにも見えるが、しかし、それは何であるか、筆者(太宰)にもわからない。自分の家にいながら、他人の家にいるような浮かない気分になっているひとが、ふっと自分の一ばん気楽な性格に遭い、之を追い求める、恋、と言ってしまえば、それっきりであるが、しかし、一般にあっさり言われている心、恋、という言葉に依ってあらわされる心理よりは、このお爺さんの気持は、はるかに侘しいものであるかも知れない。お爺さんは夢中で探した。生れてはじめての執拗な積極性である。
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
まさか、これを口に出して歌いながら捜し歩いていたわけではない。しかし、風が自分の耳元にそのようにひそひそ囁き、そうして、いつのまにやら自分の胸中に於いても、その変てこな歌ともお念仏ともつかぬ文句が一歩一歩竹藪の下の雪を踏みわけて行くのと同時に湧いて出て、耳元の風の囁きと合致する、というような工合いなのである。
或る夜、この仙台地方でも珍らしいほどの大雪があり、次の日はからりと晴れて、まぶしいくらいの銀世界が現出し、お爺さんは、この朝早く、藁靴をはいて、相も変らず竹藪をさまよい歩き、
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
シタキリ スズメ
オヤドハ ドコダ
竹に積った大きい雪のかたまりが、突然、どさりとお爺さんの頭上に落下し、打ちどころが悪かったのかお爺さんは失神して雪の上に倒れる。夢幻の境のうちに、さまざまの声の囁きが聞えて来る。
「可愛そうに、とうとう死んでしまったじゃないの。」
「なに、死にやしない。気が遠くなっただけだよ。」
「でも、こうしていつまでも雪の上に倒れていると、こごえて死んでしまうわよ。」
「それはそうだ。どうにかしなくちゃいけない。困った事になった。こんな事にならないうちに、あの子が早く出て行ってやればよかったのに。いったい、あの子は、どうしたのだ。」
「お照さん?」
「そう、誰かにいたずらされて口に怪我をしたようだが、あれから、さっぱりこのへんに姿を見せんじゃないか。」
「寝ているのよ。舌を抜かれてしまったので、なんにも言えず、ただ、ぽろぽろ涙を流して泣いているわよ。」
「そうか、舌を抜かれてしまったのか。ひどい悪戯をするやつもあったものだなあ。」
「ええ、それはね、このひとのおかみさんよ。悪いおかみさんではないんだけれど、あの日は虫のいどころがへんだったのでしょう、いきなり、お照さんの舌をひきむしってしまったの。」
「お前、見てたのかい?」
「ええ、おそろしかったわ。人間って、あんな工合いに出し抜けにむごい事をするものなのね。」
「やきもちだろう。おれもこのひとの家の事はよく知っているけれど、どうもこのひとは、おかみさんを馬鹿にしすぎていたよ。おかみさんを可愛がりすぎるのも見ちゃおられないものだが、あんなに無愛想なのもよろしくない。それをまたお照さんはいいことにして、いやにこの旦那といちゃついていたからね。まあ、みんな悪い。ほって置け。」
「あら、あなたこそ、やきもちを焼いているんじゃない? あなたは、お照さんを好きだったのでしょう? 隠したってだめよ。この大竹藪で一ばんの美声家はお照さんだって、いつか溜息をついて言ってたじゃないの。」
「やきもちを焼くなんてそんな下品な事をするおれではない。が、しかし、少くともお前よりはお照のほうが声が佳くて、しかも美人だ。」
「ひどいわ。」
「喧嘩はおよし、つまらない。それよりも、このひとを、いったいどうするの? ほって置いたら死にますよ。可哀想に。どんなにお照さんに逢いたいのか、毎日毎日この竹藪を捜して歩いて、そうしてとうとうこんな有様になってしまって、気の毒じゃないの。このひとは、きっと、実《じつ》のあるひとだわ。」
「なに、ばかだよ。いいとしをして雀の子のあとを追い廻すなんて、呆れたばかだよ。」
「そんな事を言わないで、ね、逢わしてあげましょうよ。お照さんだって、このひとに逢いたがっているらしいわ。でも、もう舌を抜かれて口がきけないのだからねえ、このひとがお照さんを捜しているという事を言って聞かせてあげても、藪のあの奥で寝たまま、ぽろぽろ涙を流しているばかりなのよ。このひとも可哀想だけれども、お照さんだって、そりゃ可哀想よ。ね、あたしたちの力で何とかしてあげましょうよ。」
「おれは、いやだ。おれはどうも色恋の沙汰には同情を持てないたちでねえ。」
「色恋じゃないわ。あなたには、わからない。ね、みなさん、何とかして逢わせてあげたいものだわねえ。こんな事は、理窟じゃないんですもの。」
「そうとも、そうとも。おれが引受けた。なに、わけはない。神さまにたのむんだ。理窟抜きで、なんとかして他の者のために尽してやりたいと思った時には、神さまにたのむのが一ばんいいのだ。おれのおやじがいつかそう言って教えてくれた。そんな時には神さまは、どんな事でも叶えて下さるそうだ。まあ、みんな、ちょっとここで待っていてくれ。おれはこれから、鎮守の森の神さまにたのんで来るから。」
お爺さんが、ふっと眼の覚めたところは、竹の柱の小綺麗な座敷である。起き上ってあたりを見廻していると、すっと襖があいて、身長二尺くらいのお人形さんが出て来て、
「あら、おめざめ?」
「ああ、」とお爺さんは鷹揚に笑い、「ここはどこだろう。」
「すずめのお宿。」とそのお人形さんみたいな可愛い女の子が、お爺さんの前にお行儀よく坐り、まんまるい眼をぱちくりさせて答える。
「そう。」とお爺さんは落ちついて首肯き、「お前は、それでは、あの、舌切雀?」
「いいえ、お照さんは奥の間で寝ています。私は、お鈴。お照さんとは一ばんの仲良し。」
「そうか。それでは、あの、舌を抜かれた小雀の名は、お照というの?」
「ええ、とても優しい、いいかたよ。早く逢っておあげなさい。可哀想に口がきけなくなって、毎日ぽろぽろ涙を流して泣いています。」
「逢いましょう。」とお爺さんは立ち上り、「どこに寝ているのですか。」
「ご案内します。」お鈴さんは、はらりと長い袖を振って立ち、縁側に出る。
お爺さんは、青竹の狭い縁を滑らぬように、用心しながらそっと渡る。
「ここです、おはいり下さい。」
お鈴さんに連れられて、奥の一間にはいる。あかるい部屋だ。庭には小さい笹が一めんに生え繁り、その笹の間を浅い清水が素早く流れている。
お照さんは小さい赤い絹布団を掛けて寝ていた。お鈴さんよりも、さらに上品な美しいお人形さんで、少し顔色が青かった。大きい眼でお爺さんの顔をじっと見つめて、そうして、ぽろぽろと涙を流した。
お爺さんはその枕元にあぐらをかいて坐って、何も言わず、庭を走り流れる清水を見ている。お鈴さんは、そっと席をはずした。
何も言わなくてもよかった。お爺さんは、幽かに溜息をついた。憂鬱の溜息ではなかった。お爺さんは、生れてはじめて心の平安を経験したのだ。そのよろこびが、幽かな溜息となってあらわれたのである。
お鈴さんは静かにお酒とお肴を持ち運んで来て、
「ごゆっくり。」と言って立ち去る。
お爺さんはお酒をひとつ手酌で飲んで、また庭の清水を眺める。お爺さんは、所謂お酒飲みではない。一杯だけで、陶然と酔う。箸を持って、お膳のたけのこを一つだけつまんで食べる。素敵においしい。しかし、お爺さんは、大食いではない。それだけで箸を置く。
襖があいて、お鈴さんがお酒のおかわりと、別な肴を持って来る。お爺さんの前に坐って、
「いかが?」とお酒をすすめる。
「いや、もうたくさん。しかし、これは、よいお酒だ。」お世辞を言ったのではない。思わず、それが口に出たのだ。
「お気に召しましたか。笹の露です。」
「よすぎる。」
「え?」
「よすぎる。」
お爺さんとお鈴さんの会話を寝ながら聞いていて、お照さんは微笑んだ。
「あら、お照さんが笑っているわ。何か言いたいのでしょうけれど。」
お照さんは首を振った。
「言えなくたって、いいのさ。そうだね?」とお爺さんは、はじめてお照さんのほうを向いて話かける。
お照さんは、眼をぱちぱちさせて、嬉しそうに二三度うなずく。
「さ、それでは失礼しよう。また来る。」
お鈴さんは、このあっさりしすぎる訪問客には呆れた様子で、
「まあ、もうお帰りになるの? こごえて死にそうになるまで、竹藪の中を捜し歩いていらして、やっときょう逢へたくせに、優しいお見舞いの言葉一つかけるではなし、——」
「優しい言葉だけは、ごめんだ。」とお爺さんは苦笑して、もう立ち上る。
「お照さん、いいの? おかえししても。」とお鈴さんはあわててお照さんに尋ねる。
お照さんは笑って首肯く。
「どっちも、どっちだわね。」とお鈴さんも笑い出して、「それじゃあ、またどうぞいらして下さいね。」
「来ます。」とまじめに答え、座敷から出ようとして、ふと立ちどまり、「ここは、どこだね。」
「竹藪の中です。」
「はて? 竹籔の中に、こんな妙な家があったかしら。」
「あるんです。」と言ってお鈴さんは、お照さんと顔を見合せて微笑み、「でも、普通のひとには見えないんです。竹藪のあの入口のところで、けさのように雪の上に俯伏していらしたら、私たちは、いつでもここへご案内いたしますわ。」
「それは、ありがたい。」と思わずお世辞で無く言い、青竹の縁側に出る。
そうしてまた、お鈴さんに連れられて、もとの小綺麗な茶の間にかへると、そこには、大小さまざまの葛籠《つづら》が並べられてある。
「せっかくおいで下さっても、おもてなしも出来なくて恥かしゅう存じます。」とお鈴さんは口調を改めて言い、「せめて、雀の里のお土産のおしるしに、この葛籠のうちどれでもお気に召したものをお邪魔でございましょうが、お持ち帰り下さいまし。」
「要らないよ、そんなもの。」とお爺さんは不機嫌そうに呟き、そのたくさんの葛籠には目もくれず、「おれの履物はどこにあります。」
「困りますわ。どれか一つ持って帰って下さいよ。」とお鈴さんは泣き声になり、「あとで私は、お照さんに怒られます。」
「怒りゃしない。あの子は、決して怒りゃしない。おれは知っている。ところで、履物はどこにあります。きたない藁靴をはいて来た筈だが。」
「捨てちゃいました。はだしでお帰りになるといいわ。」
「それは、ひどい。」
「それじゃ、何か一つお土産を持ってお帰りになってよ。後生、お願い。」と小さい手を合せる。
お爺さんは苦笑して、座敷に並べられてある葛籠をちらと見て、
「みんな大きい。大きすぎる。おれは荷物を持って歩くのは、きらいです。ふところにはいるくらいの小さいお土産はありませんか。」
「そんなご無理をおっしゃったって、——」
「そんなら帰る。はだしでもかまはない。荷物はごめんだ。」と言ってお爺さんは、本当にはだしのままで、縁の外に飛び出そうとする気配を示した。
「ちょっと待って、ね、ちょっと。お照さんに聞いて来るわ。」
はたはたとお鈴さんは奥の間に飛んで行き、そうして、間もなく、稲の穂を口にくわえて帰って来た。
「はい、これは、お照さんの簪《かんざし》。お照さんを忘れないでね。またいらっしゃい。」
ふと、われにかえる。お爺さんは、竹藪の入口に俯伏して寝ていた。なんだ、夢か。しかし、右手には稲の穂が握られてある。真冬の稲の穂は珍らしい。そうして、薔薇の花のような、とてもよい薫りがする。お爺さんはそれを大事そうに家へ持って帰って、自分の机上の筆立に挿す。
「おや、それは何です。」お婆さんは、家で針仕事をしていたが、眼ざとくそれを見つけて問いただす。
「稲の穂。」とれいの口ごもったような調子で言う。
「稲の穂? いまどき珍らしいじゃありませんか。どこから拾って来たのです。」
「拾って来たのじゃない。」と低く言って、お爺さんは書物を開いて黙読をはじめる。
「おかしいじゃありませんか。このごろ毎日、竹藪の中をうろついて、ぼんやり帰って来て、きょうはまた何だか、いやに嬉しそうな顔をしてそんなものを持ち帰り、もったい振って筆立に挿したりなんかして、あなたは、何か私に隠していますね。拾ったのでなければ、どうしたのです。ちゃんと教えて下さったっていいじゃありませんか。」
「雀の里から、もらって来た。」お爺さんは、うるさそうに、ぷつんと言う。
けれども、そんな事で、現実主義のお婆さんを満足させることはとても出来ない。お婆さんは、なおもしつっこく次から次へと詰問する。嘘を言う事の出来ないお爺さんは、仕方なく自分の不思議な経験をありのままに答える。
「まあ、そんな事、本気であなたは言っているのですか。」とお婆さんは、最後に呆れて笑い出した。
お爺さんは、もう答えない。頬杖ついて、ぼんやり書物に眼をそそいでいる。
「そんな出鱈目を、この私が信じると思っておいでなのですか。嘘にきまっていますさ。私は知っていますよ。こないだから、そう、こないだ、ほら、あの、若い娘のお客さんが来た頃から、あなたはまるで違う人になってしまいました。妙にそわそわして、そうして溜息ばかりついて、まるでそれこそ恋のやっこみたいです。みつともない。いいとしをしてさ。隠したって駄目ですよ。私にはわかっているのですから。いったい、その娘は、どこに住んでいるのです。まさか、藪の中ではないでしょう。私はだまされませんよ。藪の中に、小さいお家があって、そこにお人形みたいな可愛い娘さんがいて、うっふ、そんな子供だましのような事を言って、ごまかそうたって駄目ですよ。もしそれが本当ならば、こんどいらした時にそのお土産の葛籠とかいうものでも一つ持って来て見せて下さいな。出来ないでしょう。どうせ、作りごとなんだから。その不思議な宿の大きい葛籠でも背負って来て下さったら、それを証拠に、私だって本当にしないものでもないが、そんな稲の穂などを持って来て、そのお人形さんの簪だなんて、よくもまあそのような、ばからしい出鱈目が言えたもんだ。男らしく、あっさり白状なさいよ。私だって、わけのわからぬ女ではないつもりです。なんのお妾さんの一人や二人。」
「おれは、荷物はいやだ。」
「おや、そうですか。それでは、私が代りにまいりましょうか。どうですか。竹藪の入口で俯伏して居ればいいのでしょう? 私がまいりましょう。それでも、いいのですか。あなたは困りませんか。」
「行くがいい。」
「まあ、図々しい。嘘にきまっているのに、行くがいいなんて。それでは、本当に私は、やってみますよ。いいのですか。」と言って、お婆さんは意地悪そうに微笑む。
「どうやら、葛籠がほしいようだね。」
「ええ、そうですとも、そうですとも、私はどうせ、慾張りですからね。そのお土産がほしいのですよ。それではこれからちょっと出掛けて、お土産の葛籠の中でも一ばん重い大きいやつを貰って来ましょう。おほほ。ばからしいが、行って来ましょう。私はあなたのその取り澄したみたいな顔つきが憎らしくて仕様が無いんです。いまにその贋聖者のつらの皮をひんむいてごらんにいれます。雪の上に俯伏して居れば雀のお宿に行けるなんて、あははは、馬鹿な事だが、でも、どれ、それではひとつお言葉に従って、ちょっと行ってまいりましょうか。あとで、あれは嘘だなどと言っても、ききませんよ。」
お婆さんは、乗りかかった舟、お針の道具を片づけて庭へ下り、積雪を踏みわけて竹藪の中へはいる。
それから、どのようなことになったか、筆者も知らない。
たそがれ時、重い大きい葛籠を背負い、雪の上に俯伏したまま、お婆さんは冷たくなっていた。葛箱が重くて起き上れず、そのまま凍死したものと見える。そうして、葛籠の中には、燦然たる金貨が一ぱいつまっていたという。
この金貨のおかげかどうか、お爺さんは、のち間もなく仕官して、やがて一国の宰相の地位にまで昇ったという。世人はこれを、雀大臣と呼んで、この出世も、かれの往年の雀に対する愛情の結実であるという工合いに取沙汰したが、しかし、お爺さんは、そのようなお世辞を聞く度毎に、幽かに苦笑して、「いや、女房のおかげです。あれには、苦労をかけました。」と言ったそうだ。
元データ
(入力:八巻美惠
校正:高橋じゅんや
2000年1月13日公開
2000年12月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。)
2023-07-01T16:39:46+09:00
1688197186
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谷崎潤一郎「「少年世界」への論文」
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[[谷崎潤一郎]]
「少年世界」への論文
大正六年五月號「文章倶樂部」(文壇諸家立志の動機)
私は日本橋の小學校、府立の第一中學校、それから司高の英法科を經て大學の國文科へ入つたのであるが、いよ〳〵文筆で立たうと思ひ定めたのは、一高を出て大學へ入つた時である。
小學校にゐる時、漢學塾へ通つてゐたので、漢文のクラシックは大概その頃に讀み、和文の方も大抵讀んだ。中學では、私と黒田鵬心君と土岐哀果君とが文藝部委員をやつてゐた。そして私は中々の勉強家であつた。多分三年位までは首席でゐた。私の上級に故恒川陽一郎君がゐたが、一級飛び越したので一緒になつた。眞面目な勉強が主で、學校の雜誌にも論文のやうなものばかり書いてゐた。投書時代といふやうなものもなかつた。たつた一度「少年世界」へ論文めいたものを出して、三等賞を得たことがあつた。
高等學校でも成績は可成りよくて、入學した次學期には二番になつてゐた。その頃三年に安倍能成氏や故魚住影雄氏がゐた。安倍氏の事はそれまで知らなかつたが、一度學校で「クオブヂス」の演説をしたのを聽いて感心してしまひ、それから氏の名が記憶に殘るやうになつた。そして演説を聽いて歸つてから、學校の書物はそつち除けにして、一週間ばかりといふもの、「クオヷヂス」に讀み耽つてゐた。
二年になると、次へ入つて來たのが和辻哲郎君や故大貫晶川君であつた。大貫君とは中學時代から一緒でもあり、又一番の親友であつた。よく喧嘩をしたが、死ぬまで仲よしであつた。
私は一高でも文藝部の委員になつた。二年の時初めて小説のやうなものを書いた。それは子規の寫生文を模倣したやうなものであつたが、今見てもそんなに拙いものではないと思ふ。讀んだものは、矢張りその頃流行したイプセンやモウパツサンなどであつた。モウパツサンの短篇集を買つて來て机の上に並べて置くと、友達が面白がつて順々に借りて行つて囘讀した。
その頃戀をした。そんな事が原因になつて、二年から三年にかけて怠け出した。そして種々な遊びを覺えた。
高等學校を出る時の成績は、中から二三番下だつたと思ふ。
大學へ入つて、廿五の時に和辻君、大貫君、後藤末雄君、小泉鐵君、木村莊太君等と一緒に「新思潮」を始めた。初號が發賣禁止を食つて、隨分手痛い目に會つた。それでもお互に自分達の作物を、悉く傑作の積りで自慢し合つた。その時の私の處女作は脚本の「誕生」であつた。それは帝國文學へ出さうと思つて書いたものであつたが、帝國文學で握りつぶされたので、恰度「新思潮」の創刊號に、.他に何も間に合はない爲めに責ふさぎに出したのであつた。所が發賣禁止の傍杖を喰つたので、途に世に出ないでしまつた。次いで「刺青」を「新思潮」の第三號へ出した。發費禁止が怖しさに、原作と違へて大分削り取つた。
その後「信西」を「スバル」に出した。これが原稿料をとつた最初であつた。この頃に、授業料未納の廉で大學へ出られなくなつた。「新思潮」は七八月つゞいて倒れてしまつたが、もう其の頃は、創作家として立たうと云ふ私の決心も定まつて居た。それで大學の方も、その儘構はずに置いた。
2023-02-05T14:18:14+09:00
1675574294
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谷崎潤一郎「詩と文字と」
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[[谷崎潤一郎]]
詩と文字と
大正六年四月號「中央文學」
詩人が、幽玄なる空想を彩《いろど》らんが爲めに、美しき文字を搜し求むるは、恰も美女が妖冶《えうや》なる肢體を飾らんが爲めに、珍しき寶玉を肌に附けんと欲するが如し。詩人に取りて、文字はまことに寶玉なり。寶玉に光あるが如く、文字にも亦光あり、色あり、匂あり。金剛石の燦爛《さんらん》たる、土耳古石《とるこいし》の艶麗なる、アレキサンドリアの不思議なる、ルビーの愛らしき、アクアマリンの清々しき、──此れを文字の内に索めて獲ざることなし。故に世人が、地に埋れたる寶石を發掘して喜ぶが如く、詩人は人に知られざる文字を見出して驚喜せんとす。
人あり、予が作物の交章を難じて曰く、新時代の日本語として許容し難き漢文の熟語を頻々と挿入するは目障りなりと。予も此の批難には一應同意せざるを得ず。されど若し、文字の職能をして或る一定の思想を代表し、縷述するに止まらしめば則ち已む。苟くも其れに依つて、或は其れ等の結合に依つて、思想以外の音樂的効果を所期せんと欲せぱ、誰か純日本語の語彙の貧弱なるに失望せざる者あらんや。
日本語以外の漢語と云ふも、何處迄が日本語的漢語にして、何處迄が外國語的漢語なりや明瞭ならず。平安朝時代の邦語の標準を以てせば、あらゆる漢語は外國語なり。既に一旦、鎌倉時代の日本人が、漢語を容れて邦文の缺を補ひ、一種の和漢混交體を創始したる以上、吾人は自由に大膽に、更に洽《あまね》く漢語の海を渉獵して、水底に秘められたる奇種珍寶を探集するに、何の憚る所あらんや。此れ實に貧弱なる日本語を豐富ならしむる捷徑ならずや。
こゝに ”bizarre” と云ふ言葉あり、その發音のみを單に片假名にて「ビザアル」と書き記さば、佛語或は英語を解する者に取りて、少くとも此の語の含有する妙味の一半は消失すべし。若し然らずとせば、彼等は恐らく片假名を讀むと同時に、 ”bizarre” の文字を腦底に描きたるに相違なし。音標文字たるアルフアベツトに於いてすら、猶且字體の組み合はせ其の者より生ずる幻影あり。形象文字たる漢字に於いて、其の傾向の顯著なること論を俟たず。漢字の音韻の豐饒なる、敢て歐洲の國語に劣らずして、而も眼に訴ふる所の多き、到底後者の比にあらず。漢字に多種多樣なる字劃あるは、恰も寶石に千態萬妝の結晶あるが如し。斷ち知るべし、實用的に最も不便なる漢字は、藝術的に最も便利なる事を。
吾人は實に漢字を愛惜す。その音響の妙なることピアノの如く、その形態の美しきこと錦繍《きんしう》の如き漢字を愛惜す。漢字はあらゆる文字中、最も官能的なるものなり。將來は兎もあれ、現在漢字を使用しつ製ある吾人は、斯かる貴重なる形象文字の特質を、何故に飽く迄も利用し活用せんとはせざるぞ。漢字の裝飾的、繪畫的方途を閑却するは、寶石を棄てゝ瓦礫に就くに等しと云ふべし。
云ふまでもなく、國語は此れを使用する國民と共に、絶えず成長し變遷するが故に、吾人は漢字の運命に關して、容易に將來をトする能はず。されど漢字は早晩滅亡すべきを以て、今より制限するに如かずと云ふ者あらば、少くとも藝術の上に於いては愚論なり。二千年の昔に今日のラテン語の運命を憂へたらんには、ヴエルギリユウスは詩を作ること能はざりしならん。ラテン語が Dead Language となりても、ヴエルギリユウスの藝術の死せざるが如く、漢字の葬らるゝ事ありとも、李太白の詩は永遠に生きん。詩人は文字の靈魂を把握せるが故に、彼等に使用せられたる文字は、國語の内に跡を絶ちながら、不朽に其の壽を伸ぶるを得べし。吾人何すれぞ、漢字の齢《よはひ》を數ふる事を須《もちひ》んや。
2023-02-05T14:16:24+09:00
1675574184
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谷崎潤一郎「「カリガリ博士」を見る」
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[[谷崎潤一郎]]
「カリガリ博士」を見る
大正十年八月號「活動雜誌」
上
淺草のキネマ倶樂部でやつて居る「ドクトル・カリガリのキヤビネツト」を見た。評判が餘りえらかつたので多少期待に外れた感もしないではないが、確かに此の數年來見たものゝうちでは傑出した寫眞であつた、純藝術的とか高級映畫とか云ふ近頃流行の言葉が、何等の割引なく當て篏まるのは恐らくあの映畫位なものであらう。
第一に話の筋がいゝ。狂人の幻想をあゝ云ふ風に取り扱ふと云ふこと、それは私なども始終考へて居たことであるが、單なる一場の思ひつきでなくあれまでに纒めるには多大の努力を要したであらう、さうして幻想の世界と現實の世界との關係が大變面白く出來て居る。
作者は先づ物語りの始めにフランシスと云ふ狂人の收容されて居る癲狂院を置き、それからそのフランシスの妄想の世界に移つて奇怪なる事件の發展を描き、最後に再び癲狂院の光景を見せて終つて居る。その終りめが殊にいゝ。狂人の腦裡に存在する幻想の中に生きて居た人々、ドクトルカリガリや、夢遊病者のツエザーレや愛人のジエーンやそれらの人々が現實の世界に戻つた後にも猶殘つて居て、フランシスの周圍を彷徨して居る。即ち妄想の中のカリガリ博士は實はその病院の院長でありツエザーレやジエーン等は矢張りフランシスと同じく其處に收容されて居た狂人の仲間であつて、フランシスはいつの間にか彼等に自己の空想を加へて勝手な人物を作り上げて居たのである。彼の幻想の原となつた所の人物が現實にも生きて居る人々であり、而もそれらの多くが等しく狂人である所に、此の物語りは一層の餘韻と含蓄とを持つて居る。なぜなら、觀客はあの不思議なフランシスの夢が終りを告げて場面が再び病院の庭へ戻つて來た時さうしてそこに夢の中の種々なる人物が狂人として徘徊するのを見せられた時、その一つ一つの狂人の頭の中にも亦フランシスのそれのやうな幾つもの奇怪なる世界があるであらうことを連想せずには居られないからである。觀客の見たのは或る一人の狂人の幻覺であるが、同時に無數の狂人の幻覺を考へさせられる。たとへばジエーンは自分を女王だと信じて居る狂人である。彼女が終りの場面で、「朕、女王たる者は戀愛の爲めに結婚すべきにあらず」と勿體ぶつた樣子でフランシスを斥けるところなど、此の一語に依つて此の妙齢の狂婦人の腦裡に、如何に荒唐にして絢爛なる天國があるかを想はざるを得ない。人は此の寫眞を見て現實の世の息苦しさを感じ同時に人間の魂の生き得る世界が無限に廣いものであるのを感ずる。さすがに、物質的な亞米利加人などの思ひも及ぼぬプロツトである。アマデウス、ホフマン等の流れを汲む獨逸浪漫派の藝術が、こゝに血筋を引いて居ることがそれとなく看取される。
中
次ぎに此の映畫は、文學的價値を充分に持つて居るが、しかしどうしても映畫でなければ表はせない所を掴まへて居る、惡く云へば所謂表現派の繪畫を展開した一幅の繪卷物に過ぎないと云へるけれども、矢張り繪だけではあれ程に表はせないに違ひない。恐らく此の種類の物語ほど映書に適したものはなく、他により以上効果のある表現の形式はあるまいと思ふ。そこに着眼したのは偉いには偉いが日本の如き現状ならば知らぬこと、西洋に於て今迄誰も此の方面を開拓しなかつたのが不思議のやうに思はれる。新しき試みとしては已むを得ないことだけれども、まだーあれでは突っ込み方が足りない、所謂表現派の主張が、果して遺憾なく大膽に發揮されて居るかどうかは大いに疑問である。
舞臺裝置は大體に於て成功して居る。作者の表さんとする感情があの不規則な直線や曲線の組み立てに依つて可なりよく出て居る。が、茲に一考すべき事はあの不自然な背景の世界に出演する俳優の動作である。私にはどうも、あの裝置とあの俳優等の演技との問には、或る不調和があるやうに思はれる。どうせ彼處まで行くのなら俳優の動作をもつとあの裝置と一致するやうに即ち其の演技をもつと不自然に、もつと繪畫的にさせた方がいゝ。背景の方では影を描いたり遠近法を用ひたりして相當の距離を見せてあるのに、そこを人間が通り過ぎる爲めに折角のイリユウジヨンが破れてしまふなどは、何とかして救ふ方法はないものだらうか、たとへば町の祭りの雜沓の場面、カリガリ博士の逃げて行く山路、病院の中庭などそこへ人間が出て來ると、何となくせせこましい感じがする。あれなどは構圖の上でも今一と工夫して欲しいし、俳優のしぐさにも大いに研究の餘地がある。
下
私の考へでは、俳優がもつと大膽に實演劇の要領を離れて象徴的の演出を試みなければいけないと思ふ。第一に服裝などもあの舞臺裝置のデザインと調和するやうな、もつと現代離れのした人工的な樣式を選ぶ必要があつたらうし顏の作りなどももつと單純に、毒々しくやつた方がいゝ。さうして凡ての俳優が人間としてでなく傀儡として動いて居るやうな感じを起させなければいけない。一つ一つの俳優の動作をもつと機械的にして、それに伴ふ姿態の曲線が、悉くあの背景の中に融け込むやうにして欲しい。でなければあの背景とあの人物とは、全く流派を異にする二人の畫工に依つて描かれた畫面のやうな感じを與へる。兎に角俳優があまり在來の芝居をし過ぎて居る。あまり動き過ぎる。此の意味で私は舞臺監督のやり方に最も多くの不滿を感ずる。全體としての俳優の動きの少い場面の方が、より強い効果を見せて居る。カリガリ博士がキヤビネツトの側に侍して、馬車の中で靜かに眠つて居るところなど非常にいゝ。私には彼處が一番印象が深かつた。
それから、撮影や現像の技術の方面にも、もつと新機軸を出し幻想を豐かにする手段があつたらうと思ふ。不規則なアイリスくらゐではまだ飽き足りない。もつとクツキリした拔けのいゝ場面だの、もつとボンヤリした不鮮明な場面だのが、亂雜に入り交つて居る方がよくはなかつたか。最初にフランシスの生れた町が現はれた所など、もつと度強くあつて欲しかつた。
2023-02-04T23:44:25+09:00
1675521865
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谷崎潤一郎
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/624.html
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2023-02-04T23:41:11+09:00
1675521671
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谷崎潤一郎「「門」を評す」
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[[谷崎潤一郎]]
[[「門」>夏目漱石「門」]]を評す
明治四十三年九月「新思潮」第一號
僕は漱石先生を以て、當代にズバ拔けたる頭腦と技倆とを持つた作家だと思つて居る。多くの缺點と、多くの批難とを有しつゝ猶先生は、其の大たるに於いて容易に他の企及す可からざる作家だと信じて居る。紅葉なく一葉なく二葉亭なき今日に於いて、僕は誰に遠慮もなく先生を文壇の第一人と認めて居る。然も從來先生の評到は、其の實力と相件はざる恨があつた。それだけ僕は、先生に就いて多くの云ひたい事論じたい事を持って居る。「門」を評するに方りて、先づこれだけの斷り書きをして置かないと、安心して筆を執ることが出來ない。
「それから」は代助と三千代とが姦通する小説であつた。「門」は姦通して夫婦となつた宗助とお米との小説である。此の二篇はいろいろの點から見て、切り放して讀む事の出來ない理由を持つて居る。勿論先生は其の後の代助三千代を書く積で、「門」を作られたのであらう。そこで僕も始終「それから」と比較して、自分の考を云はうと思ふ。
誰やらが「漱石は自然主義に近くなつた。」と云つたと覺えて居る。若し「門」を讀んで尚此の言を爲す人があれば、其れは大なる謬りと云はねばなるまい。
「門」は「それから」よりも一層露骨に多くのうそを描いて居る。其のうそは、一方に於いては作者の抱懐する上品なる───然し我々には縁の遠い理想である。一方に於ては先生の老獪なる技巧である。以下僕は逐一其のうそを指摘して見たい。
宗助とお米とは姦通によつて出來上つた夫婦である。「宗助は當時を憶ひ出す毎に、自然の進行が其處ではたりと留まつて、自分もお米も忽ち化石して了つたら、却つて苦はなかつたらうと思った。事は冬の下から春が頭を擡《もた》げる時分に始まつて、散り盡した櫻の花が若葉に色を易へる頃に終つた。凡てが生死の戰ひであつた、青竹を灸つて油を絞る程の苦しみであつた。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上つた時分は何處も既に砂だらけであつたのである。彼等は砂だらけになつた自分逹を認めた。けれども何時吹き倒されたかを知らなかつた。」さうして氣が付いて見たら、いつの間にか徳義上許す可からざる大罪を犯して居たのである。
即ち二人の罪は、戀と云ふ大風───自然の不可抗力に駈られた結果で、決して放埓な淫奔な性質の然らしめた所でない事を、作者は辯明して居る。此のいきさつは「それから」を讀めば能く解る事である。かくて二人は當然の制裁として、社會から繼子扱ひにされつつ、淋しい所帶を持つた。制裁は種々の形で二人に迫つた。貧と云ふ奴が第一に來た。それから病氣がお米のかよわい體を襲つた。
第三には、「貴方は人に對して濟まない事をした覺えがある。其の罪が祟つてゐるから、子供は決して育たない」と云つた賣卜者の豫言が中つて、三度迄妊娠した胎兒が悉く闇から闇へ葬られて了つた。夫婦は前後六年の問、「世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪へかねて、抱き合つて暖を取るやうな工合に、お互仝志を頼りとして暮して居」るのである。
「宗さんは何《ど》うも悉皆《すつかり》變つちまいましたね」と叔母が叔父に話す事があつた。すると叔父は、
「左うよなあ。矢つ張り、あゝ云ふ事があると、永く迄後へ響くものだからな」と答へて、因果は恐ろしいと云ふ風をする。
かう宗助は人にも云はれる迄に、みじめな月日を送つて居るのである。「彼等が毎日同じ判を同じ胸に押して長の月日を倦まず渡つて來たのは、彼等が始めから一般の社會に興味を失つてゐた」のでなく「社會の方で彼等二人限に切り詰めて、其二人に冷かな背を向けた結果に外ならない」としてある。然し現今の社會は此の二人のやうな罪人に對してかほど迄に嚴肅な制裁を與へる程鋭敏な良心を持つて居るだらうか。世の中の因果應報と云ふものは、案外もつとルーズな、ふしだらなものではなからうか。少くとも其の富を奪ひ、其の健康を奪ひ、其の三人の子を奪ふ程慘酷なものであらうか。僕は此の點に關して疑なきを得ない。世間はもつと複雜な、アイロニカルな事實に富むで居る筈である。甚不遜な申分ながら、若し先生が眞に世間は斯う云ふものだと解して居られるなら、其は極めて甘い見方だと云はねばならぬ。たまたま先生の作物が、讀者の胸に痛切な響を與へないと云はるゝ點は此處にあるのであらう。
更に考ふ可きは、此の状態に於ける夫婦の愛情である。「彼等は六年の問世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を舉げて、互の胸を掘り出した。彼等の命はいつの間にか互の底に喰ひ入った。………二人の精神を組み立てる神經系は、最後の纎維に至る迄、互に抱き合って出來上つて居た。」
「彼等は此の抱合の中に、尋常の夫婦に見出し難い親切と飽滿と、それに件ふ倦怠とを兼具へてゐた。さうして其の倦怠の傭い氣分に支配されながら自己の幸福を評價する事丈は忘れなかつた。」
「彼等は自然が彼等の前にもたらした恐るべき復讐の下に戰きながら跪づいた。同時に此の復讐を受ける爲めに得た互の幸福に封して、愛の神に一瓣の香を焚く事を忘れなかつた。彼等は鞭たれつゝ死に赴くものであつた。たゞ其の鞭の先に、凡てを癒す甘い蜜の着いて居る事を覺つたのである。」之に依つて見れば、宗助とお米とは當節に珍しいロマンチツクな生活を送って居ると云はねばならぬ。新しき教育を受けた代助が「それから」のやうな戀をするのは無理ならぬ事である。然し新しき思潮に觸れた宗助が、如何に大いなる犠牲を拂ってかち得たる戀であるとは云へ、ヒステリーの病妻を抱いて、子なく金なき詫びしい家庭に、前後六年の間、青年時代の甘い戀の夢から覺めずに居たと云ふ事實は、一寸受け取り難い話である。「蒲團」の作者に云はしたなら、頭から「拵へ物だ」と評するかも知れぬ。イムポツシブルでない迄も宗助の境遇と性格とは、甞て先生御自身が獨歩の「酒中日記」を批評せられた如く、「千萬人中の一人にして有り得べき事實」であらう。
「門」を「それから」の續篇と見て、特種の性格をもつた代助の戀は、「門」に描かれたるが如く發展するのが自然の成行であらうかどうか。斯う云ふ點からも考へて見る必要がある。代助の道徳から云へば、斯く發展す可きが正當であるかも知れぬ。代助の道徳は是非とも代助に「永劫變らざる愛情あるべし。」と教へなければならぬ。然し實際の愛情は之に反する事が多くはあるまいか。さうして自己を僞らざらむが爲めにあらゆる物を犧牲にして、眞の戀に生きむとして峻嚴なる代助の性格は、戀のさめたる女を抱いて、再びもとのやうな、或はそれよりも更に絶望なヂレンマに陷る事がありはすまいか。其の時々にこそ二人の姦通者は眞の報復を受く可きである。若し「それから」が「門」に描かれたやうな發展の徑路を取つたとしたならば其れは作者に取つても代助に取つても甚好都合な次第であると云はねばならぬ。
以上は全篇の骨子に横つて居る大いなるうそである。先生の作物が、如何に自然主義作家のそれと異つて居るかは、これだけで既に明瞭であらう。先生は「戀は斯くあり」と云ふ事を示さないで「戀は斯くあるべし」と云ふ事を教へて居られる。先生に依つて教へられたる戀は、僕の考へて居るものよりも遙に眞面目で遙に貴いものである。
僕は先に宗助とお米とは、ロマンチツクな生活を送つて居ると云つた。けれども二人の戀は決して芝居や淨瑠璃に現れるやうな淺薄な派手なものではなく、深く生命の底に根ざした嚴肅な質實なものとして描かれて居る。信仰の對象なく、道徳の根底なく、荒れすさんだ現實の中に住する今日の我々が幸福に生きる唯一の道は、まことの戀によつて永劫に結合した夫婦間の愛情の中に第一義の生活を營むにある、これが「門」の作者の我々に教ふる所である。其の戀は單なる性慾滿足の戀でもなければ、徒に美しきものに憧るゝ戀でもない。相當の分別ある人が、姦通の大罪を犯して迄も之を得なければ生きて居られない程、必要な戀である。之を得た宗助とお米とは我々から見ると遙に幸福な羨しい身の上と云はなければならぬ。人生の落ち付き場所は此の戀である。「それから」の戀は破壞的であつたが、「門」の戀は建設的であると云ふ事が出來る。
作者の暢逹な筆力は、此の戀を可なり讀者に會得させる迄に書いてある。二人を貧乏な境遇に置き、お米を病身にさせ、三人の子を死亡させたのも、又彼等の間に小六と云ふ第三者を配したのも畢竟は此の戀をヱムファサイズせんが爲めの細工であつたのだ。作者が其の狙つた目標を、充分に射中てゝ居る事だけは確である。我々もならう事なら宗助のやうな戀に依つて、落ち付きのある一生を邊りたいと思ふ。けれども其れは今日の青年に取つては到底空想にすぎないであらう。
等しく拵へ物としても、「それから」は事實の土臺の上に立つて居たが、「門」は空想の上に築かれて居る。いろ〳〵の方面から見て、「門」は「それから」に劣つて居ると云はねばなるまい。若し事實に立脚して、宗助とお米との戀の破綻を種材に捉へたならば、「門」は「それから」よりも更に大きい問題と、深い意味とをもたらす事が出來たであらうと思はれる。僕は返す返すも「それから」に依つて提供された大きな問題が、「門」に於いて、なまじひな解決を與へられた事を殘念に思ふ。
「門」は眞實を語つて居ない。然し「門」にあらはれたる局部々々の描寫は極めて自然で、眞實を捕捉して居る。日曜におもてを散歩する時の宗助の氣持、殊に電車へ乘つて天井の廣告を見て居るあたり。年越の夜の一家の有樣。其の他到る所の光景が自然主義の作家と雖容易に企て及び難いほど鋭敏な觀察眼を以て仔細に描けて居る。篇中に出て來る人物の性格も可なりに躍動して居る。家主の坂井、(これは「野分」の中野君に似て居る。作者はかう云ふ人物の性格を表すのが大分得意と見える)佐伯の叔母などは、一寸顏を現すだけだが、一と通り其の人物の輪廓を髣髴せしめて居る。慾を云へば小六だけがはつきりとしないやうである。さうして會話をうつす事に於いては、先生は今の作家中に群を拔いて居るやうである。「虞美人草」「草枕」時代の會話は、少々お芝居がかつて居たが、宗助やお米の言葉は、如何にも自然とたくまずして眞に迫つて居る。僕の最感心した一節を左に引いてみようと思ふ。
寐る時、着物を睨いで、寐卷の上に、絞りの兵兒帶をぐる〳〵卷つけながら、
「今夜は久し振に論語を讀んだ」と云つた。
「論語に何かあつて」とお米が聞き返したら、宗助は、
「いや何もない」と答へた。それから、「おい、己の齒は矢張り年の所爲《せゐ》だとさ。ぐら〳〵するのは到底《とても》癒らないさうだ」と云ひつゝ、黒い頭を枕の上に着けた。
かう讀んで行くと、何となく二人の聲が聞えるやうな氣がする。殊に全篇の終りを、二人の會話で何となく結んだのは趣が深い。
御米は障子の硝子に映る麗な日影をすかして見て、
「本當に有難いわね。漸くの事春になって」と云つて、晴れ〴〵しい眉を張つた。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
「うん、然し又ぢき冬になるよ」と答へて、下を向いたまゝ鋏を動かして居た。
こゝで全體がポツリと切れて居る。長い、長い二人の生涯の一部分を、無雜作に切り放したやうな終り方である。餘韻がある。
先生は常に一般讀者の興味と云ふ事に充分注意して、筆を執られるかと思ふ。兎も角も先生の小説は多くの階級の人に、面白く讀まれるだけは事實であらうと思はれる。鮪船に石油ヱンヂンを取り付ける事や、電氣で文字を印刷する發明や、先生の小説は比較的廣い範圍で今日の實社會と何等かの交渉を有して居るやうである。さうして、坂井の盜難だの、抱一の屏風だの、風船玉の事件だの論語の話だの、いろ〳〵と讀者を面白がらせるやうな出來事が現れて來る。これは讀者を單に紺がすりのニキビ黨にのみ求めず、普く一般の社會の大人を對手にしようと云ふ抱負のある作者としては、必要な心掛けである。僕は先生の此の大きな態度を頼もしく思ふ。然しなるべく卑俗に或は不自然に陷らない範圍に於て願ひたいものである。宗助が鎌倉へ參禪に行く所は、如何に見ても突飛であらうと考へる。「三四郎」「それから」「門」と順を追うて先生の筆には著しくさびが出て來た。僕の友人に「八百藏の聲を聞くだけでも、歌舞伎座は他の芝居よりは有難い。」と云つた者がある。僕もそれと全じやうに、「先生の文章を見るだけでも『門』は他の小説よりも有難い。」と云ひたい。
思ふ事をくど〳〵と順序もなく書立てたが、大變長くなつて了つた。まだ云ひたい事は澤山あるのだが、冗漫になるから此の位にして置く。最後に僕はこれだけの事を明言しておきたい。
先生の小説は拵へ物である。然し小なる眞實よりも大いなる意味のうその方が價値がある。「それから」はこの意味に於いて成功した作である。「門」はこの意味に於いて失敗である。
僕等の先生である人に對して、不遜な論評を敢てした事は重々お詫びをする。
2023-02-04T23:40:37+09:00
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佐藤春夫
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2023-02-04T20:31:47+09:00
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