網迫の電子テキスト乞校正@Wiki
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ja
2023-07-04T14:36:54+09:00
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嵯峨の屋おむろ「くされたまご」
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/631.html
くされたまご(上)
一輛の鉄道馬車京朧の辺にて止りぬ、見れば狭き昇降口に乗る人下る人入まじりて悶着せり、最少しお詰なされて、と罵るは御者の声。しばしば込合《こみあ》ふ様子なりしが、やう〳〵にして静りしは}同よきほどに居並びしなるべし。最後に入来るは若さ女。黒縮緬のおこそ頭巾に顔は半かく糺て見えねど、色の白さうっくしさ、頭巾の蔭よりさし覗くしめりを帯びし目の清しさ、いづれか見る人の心を惹ざらん。いづこに坐るべきかと躊躇ふ様にて、すツきりとして佇立か姿、朝日口背く女郎花のくねらで立てる風情あり誠に心の銷こそ人の目口止まらずらめ、姿の花の引力の強弓、車上の人の夥多の目はたゞ、この花口集りぬ。彼方の一隅に腰を掛で、たyゝ外の方を見詰ゐたる、十六、七の少年ありしが、それだに傍のけはひに誘はれ覚えずこなたを見かへりし、その顔だちの愛らし、目を見合はせし件の女はつか〳〵と歩み寄り、その傍に腰を掛けぬ。腰を掛けつゝ小声にて、「あ窮屈な」と呟きながら眉を顰めて、うツとしさうに被ぶれる頭巾を脱ぎ棄て、初て見するその顔は十人並より美しがるべし。しだらなく合せたその襟附はともすれば洩《も》らすべし胸の羽二重《はぶたえ》、みだらがはしき下前《したまえ》は歩かば蹴出《けだ》さん白き脛《はぎ》、いきなりの束髪結に、見得を棄たる羽織の着こなし、黒人にしては不粋に過ぎ、娘にしてはみだらな粧姿。でもいかなる身分の女か、世なれて見ゆる七不思議なり。少年はまがひなき書生風、ごむ靴に朱糸の靴足袋、短き小倉の袴を穿き、活溌らしか扮装なり。まだをさなげの失かねし無心の風も憎からず。清しき目、朱き唇、翠の眉は桃色の頬に映じ、」層見まさる愛らしさ、飾らぬ粧はなかくに包める玉の光をますべ女は脱いだる頭巾をいぢり、折々その目に情を含み、少年の方を見かへれど、彼方はとんと気かっかず、た・ゝぽんち絵の広告に目を注ぎっヽ余念なし。その中に日本橋、と叫ぶは馬車のすてエしよん、またこゝにても幾人か、或は下り、或は乗り、以前に増りて込合ひたり。この雑沓と諸共に女はやをら腰を移し、少年の方へすり寄りたり、されば二人の間にはたゞ衣一重の垣あるのみ。車の物に打触れて傾くごとに、この女の懐にせる香水は馥郁たるその香を少年の鼻に送るなるべく、また少年のつく息は女の息と混ずるなるべし。とかくする聞に車は進みて万世橋に着くとそのま
2023-07-04T14:36:54+09:00
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太宰治「津軽」四五(新仮名)
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/630.html
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/629.html
(から、つづき)
[#5字下げ][#中見出し]四 津軽平野[#中見出し終わり]
「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越《コシ》の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田《アキタ》(今の秋田)渟代《ヌシロ》(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連|石布《イワシキ》、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳《ユキノムラジハカトコ》、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのずから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の将軍藤原保則、乱を平げて津軽より渡島《ワタリジマ》に至り、雑種の夷人前代未だ嘗て帰附せざるもの、悉く内属すとあり。渡島は今の北海道なり。津軽の陸奥に属せしは、源頼朝奥羽を定め、陸奥の守護の下に附せし以来の事なるべし。
「青森県沿革」本県の地は、明治の初年に到るまで岩手・宮城・福島諸県の地と共に一個国を成し、陸奥といい、明治の初年には此地に弘前・黒石・八戸・七戸《シチノヘ》および斗南《トナミ》の五藩ありしが、明治四年七月列藩を廃して悉く県となし、同年九月府県廃合の事あり。一時みな弘前県に合併せしが、同年十一月弘前県を廃し、青森県を置き、前記の各藩を以て其管下とせしも、後|二戸《ニノヘ》郡を岩手県に附し、以て今日に到れり。
「津軽氏」藤原氏より出でたる氏。鎮守府将軍秀郷より八世秀栄、康和の頃陸奥津軽郡の地を領し、後に津軽十三の湊に城きて居り、津軽を氏とす。明応年中、近衛尚通の子政信、家を継ぐ。政信の孫為信に到りて大に著わる。其子孫わかれて弘前・黒石の旧藩主たりし諸家等となる。
「津軽為信」戦国時代の武将。父は大浦甚三郎守信、母は堀越城主武田重信の女なり。天文十九年正月生る。幼名扇。永禄十年三月、十八歳の時、伯父津軽為則の養子となり、近衛前久の猶子となれり。妻は為則の女なり。元亀二年五月、南部高信と戦いこれを斬り、天正六年七月二十七日、波岡城主北畠顕村を伐ち其領を併せ、尋で近傍の諸邑
2023-07-01T21:28:09+09:00
1688214489
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太宰治「津軽」一二三(新仮名)
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/629.html
青空文庫の「新字旧仮名」のものをもとに、新仮名にしようとしています。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2282.html
津軽
太宰治
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)業《わざ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)白髪|逓《たがい》
-------------------------------------------------------
[#ページの左右中央]
[#ここから8字下げ]
津軽の雪
こな雪
つぶ雪
わた雪
みず雪
かた雪
ざらめ雪
こおり雪
(東奥年鑑より)
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
[#大見出し]序編[#大見出し終わり]
或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであった。私は津軽に生れ、そうして二十年間、津軽に於いて育ちながら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かったのである。
金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。それから三里ほど南下し、岩木川に沿うて五所川原という町が在る。この地方の産物の集散地で人口も一万以上あるようだ。青森、弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺には他に無い。善く言えば、活気のある町であり、悪く言えば、さわがしい町である。農村の匂いは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらいの小さい町にも既に幽かに忍びいっている模様である。大袈裟な譬喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といったようなところでもあろうか。ここには、私の叔母
2023-07-01T21:29:47+09:00
1688214587
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太宰治「お伽草紙」
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/628.html
青空文庫の「新字旧仮名」をもとに、新仮名に改めました。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card307.html
その際、講談社文庫を参照しました。
お伽草紙
太宰治
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)間《ま》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)約百万|山《やま》くらい
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
-------------------------------------------------------
「あ、鳴った。」
と言って、父はペンを置いて立ち上る。警報くらいでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかえて防空壕にはいる。既に、母は二歳の男の子を背負って壕の奥にうずくまっている。
「近いようだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「そうかね。」と父は不満そうに、「しかし、これくらいで、ちょうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでしょう。」
「うむ、まあ、そうだが、いまは土が凍って固くなっているから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言って、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ましょう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまずしく、容貌も愚なるに似ているが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するというまことに奇異なる術を体得している男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間《ま》の抜けたような妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのずから別個の物語が醞醸せられているのである。
瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジャマッケナ
コブヲ モッテル オジイサン
このお爺さんは、四国
2023-07-01T16:39:46+09:00
1688197186
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谷崎潤一郎「「少年世界」への論文」
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[[谷崎潤一郎]]
「少年世界」への論文
大正六年五月號「文章倶樂部」(文壇諸家立志の動機)
私は日本橋の小學校、府立の第一中學校、それから司高の英法科を經て大學の國文科へ入つたのであるが、いよ〳〵文筆で立たうと思ひ定めたのは、一高を出て大學へ入つた時である。
小學校にゐる時、漢學塾へ通つてゐたので、漢文のクラシックは大概その頃に讀み、和文の方も大抵讀んだ。中學では、私と黒田鵬心君と土岐哀果君とが文藝部委員をやつてゐた。そして私は中々の勉強家であつた。多分三年位までは首席でゐた。私の上級に故恒川陽一郎君がゐたが、一級飛び越したので一緒になつた。眞面目な勉強が主で、學校の雜誌にも論文のやうなものばかり書いてゐた。投書時代といふやうなものもなかつた。たつた一度「少年世界」へ論文めいたものを出して、三等賞を得たことがあつた。
高等學校でも成績は可成りよくて、入學した次學期には二番になつてゐた。その頃三年に安倍能成氏や故魚住影雄氏がゐた。安倍氏の事はそれまで知らなかつたが、一度學校で「クオブヂス」の演説をしたのを聽いて感心してしまひ、それから氏の名が記憶に殘るやうになつた。そして演説を聽いて歸つてから、學校の書物はそつち除けにして、一週間ばかりといふもの、「クオヷヂス」に讀み耽つてゐた。
二年になると、次へ入つて來たのが和辻哲郎君や故大貫晶川君であつた。大貫君とは中學時代から一緒でもあり、又一番の親友であつた。よく喧嘩をしたが、死ぬまで仲よしであつた。
私は一高でも文藝部の委員になつた。二年の時初めて小説のやうなものを書いた。それは子規の寫生文を模倣したやうなものであつたが、今見てもそんなに拙いものではないと思ふ。讀んだものは、矢張りその頃流行したイプセンやモウパツサンなどであつた。モウパツサンの短篇集を買つて來て机の上に並べて置くと、友達が面白がつて順々に借りて行つて囘讀した。
その頃戀をした。そんな事が原因になつて、二年から三年にかけて怠け出した。そして種々な遊びを覺えた。
高等學校を出る時の成績は、中から二三番下だつたと思ふ。
大學へ入つて、廿五の時に和辻君、大貫君、後藤末雄君、小泉鐵君、木村莊太君等と一緒に「新思潮」を始めた。初號が發賣禁止を食つて、隨分手痛い目に會つた。それでもお互に自分達の作物を、悉く傑作の積りで自慢し合つた。その時の私の
2023-02-05T14:18:14+09:00
1675574294
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谷崎潤一郎「詩と文字と」
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[[谷崎潤一郎]]
詩と文字と
大正六年四月號「中央文學」
詩人が、幽玄なる空想を彩《いろど》らんが爲めに、美しき文字を搜し求むるは、恰も美女が妖冶《えうや》なる肢體を飾らんが爲めに、珍しき寶玉を肌に附けんと欲するが如し。詩人に取りて、文字はまことに寶玉なり。寶玉に光あるが如く、文字にも亦光あり、色あり、匂あり。金剛石の燦爛《さんらん》たる、土耳古石《とるこいし》の艶麗なる、アレキサンドリアの不思議なる、ルビーの愛らしき、アクアマリンの清々しき、──此れを文字の内に索めて獲ざることなし。故に世人が、地に埋れたる寶石を發掘して喜ぶが如く、詩人は人に知られざる文字を見出して驚喜せんとす。
人あり、予が作物の交章を難じて曰く、新時代の日本語として許容し難き漢文の熟語を頻々と挿入するは目障りなりと。予も此の批難には一應同意せざるを得ず。されど若し、文字の職能をして或る一定の思想を代表し、縷述するに止まらしめば則ち已む。苟くも其れに依つて、或は其れ等の結合に依つて、思想以外の音樂的効果を所期せんと欲せぱ、誰か純日本語の語彙の貧弱なるに失望せざる者あらんや。
日本語以外の漢語と云ふも、何處迄が日本語的漢語にして、何處迄が外國語的漢語なりや明瞭ならず。平安朝時代の邦語の標準を以てせば、あらゆる漢語は外國語なり。既に一旦、鎌倉時代の日本人が、漢語を容れて邦文の缺を補ひ、一種の和漢混交體を創始したる以上、吾人は自由に大膽に、更に洽《あまね》く漢語の海を渉獵して、水底に秘められたる奇種珍寶を探集するに、何の憚る所あらんや。此れ實に貧弱なる日本語を豐富ならしむる捷徑ならずや。
こゝに ”bizarre” と云ふ言葉あり、その發音のみを單に片假名にて「ビザアル」と書き記さば、佛語或は英語を解する者に取りて、少くとも此の語の含有する妙味の一半は消失すべし。若し然らずとせば、彼等は恐らく片假名を讀むと同時に、 ”bizarre” の文字を腦底に描きたるに相違なし。音標文字たるアルフアベツトに於いてすら、猶且字體の組み合はせ其の者より生ずる幻影あり。形象文字たる漢字に於いて、其の傾向の顯著なること論を俟たず。漢字の音韻の豐饒なる、敢て歐洲の國語に劣らずして、而も眼に訴ふる所の多き、到底後者の比にあらず。漢字に多種多樣なる字劃あるは、恰も寶石に千態萬妝の結晶あるが如し。斷ち知るべし
2023-02-05T14:16:24+09:00
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谷崎潤一郎「「カリガリ博士」を見る」
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[[谷崎潤一郎]]
「カリガリ博士」を見る
大正十年八月號「活動雜誌」
上
淺草のキネマ倶樂部でやつて居る「ドクトル・カリガリのキヤビネツト」を見た。評判が餘りえらかつたので多少期待に外れた感もしないではないが、確かに此の數年來見たものゝうちでは傑出した寫眞であつた、純藝術的とか高級映畫とか云ふ近頃流行の言葉が、何等の割引なく當て篏まるのは恐らくあの映畫位なものであらう。
第一に話の筋がいゝ。狂人の幻想をあゝ云ふ風に取り扱ふと云ふこと、それは私なども始終考へて居たことであるが、單なる一場の思ひつきでなくあれまでに纒めるには多大の努力を要したであらう、さうして幻想の世界と現實の世界との關係が大變面白く出來て居る。
作者は先づ物語りの始めにフランシスと云ふ狂人の收容されて居る癲狂院を置き、それからそのフランシスの妄想の世界に移つて奇怪なる事件の發展を描き、最後に再び癲狂院の光景を見せて終つて居る。その終りめが殊にいゝ。狂人の腦裡に存在する幻想の中に生きて居た人々、ドクトルカリガリや、夢遊病者のツエザーレや愛人のジエーンやそれらの人々が現實の世界に戻つた後にも猶殘つて居て、フランシスの周圍を彷徨して居る。即ち妄想の中のカリガリ博士は實はその病院の院長でありツエザーレやジエーン等は矢張りフランシスと同じく其處に收容されて居た狂人の仲間であつて、フランシスはいつの間にか彼等に自己の空想を加へて勝手な人物を作り上げて居たのである。彼の幻想の原となつた所の人物が現實にも生きて居る人々であり、而もそれらの多くが等しく狂人である所に、此の物語りは一層の餘韻と含蓄とを持つて居る。なぜなら、觀客はあの不思議なフランシスの夢が終りを告げて場面が再び病院の庭へ戻つて來た時さうしてそこに夢の中の種々なる人物が狂人として徘徊するのを見せられた時、その一つ一つの狂人の頭の中にも亦フランシスのそれのやうな幾つもの奇怪なる世界があるであらうことを連想せずには居られないからである。觀客の見たのは或る一人の狂人の幻覺であるが、同時に無數の狂人の幻覺を考へさせられる。たとへばジエーンは自分を女王だと信じて居る狂人である。彼女が終りの場面で、「朕、女王たる者は戀愛の爲めに結婚すべきにあらず」と勿體ぶつた樣子でフランシスを斥けるところなど、此の一語に依つて此の妙齢の狂婦人の腦裡に、如何に
2023-02-04T23:44:25+09:00
1675521865
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谷崎潤一郎
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https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1383.html
2023-02-04T23:41:11+09:00
1675521671
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佐藤春夫
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/623.html
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1763.html
2023-02-04T20:31:47+09:00
1675510307
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佐藤春夫「改作田園の憂鬱の後に」
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/622.html
改作田園の憂鬱の後に
[[「田園の憂鬱」>佐藤春夫「田園の憂鬱」]]の作者自身が、それの改作を凡そ了つた晩に、それの終に、自分と讀者との爲めに書く。
本書冒頭以下の五章は、今からちやうど三年前の五月の作で、同じ六月、雜誌「黒潮」に『病める薔薇』の題で掲載された。この部分は同年十二月に全く改作した。
別に同年九月の作である『續病める薔薇』約五十枚がある。それは兼ねての約束であつたにもかかはらず、雜誌「黒潮」の編輯者かち、それの採録を拒絶された。その原稿を自分は遣棄してしまつた。それ故本書のなかにはそれは收められて居ない。それは勿論、惜しむに足るほどの値はない。第六節以下、即ち本書の大部分は、去年の二月三月の作である。それには發表されなかつた原稿『續病める董微』に書かれた同一の材も雜つて居る。併し、全部改めて書かれたものである。同じ去年九月、雜誌「中外」に『田園の憂鬱』として掲載されたものがそれである。その不充分な作品である理由で、自分はその時までそれの發表を躊躇したのである。
當時、書肆天佑社が自分の第一著作集を出版する計畫があつて、それの頁數の都合からこれを同集のなかに收録したいと言つた。その著作集『病める薔薇』には、改作された『病める薔薇』が『田園の憂鬱』と一つに連續して『「病める蕎薇」或は「田園の憂鬱」』といふ二つの題を持つて、未定稿と斷つたままで收録した。今茲、三月四月、自分は同書に憑つて、先づ可なり多くの誤字脱字を改訂する傍、別に約二萬二千字の字數を加へた。二つの新らしい斷章をも設けた。それは殆んど各頁に行き渉つての増捕で、或は單に字句の創正であり、併しより多くの場所は更に的確精細な描寫と、内容的なリズムの整調とを期し努めたつもりである。
而も、もともと今日から見て落筆を誤つたものがあつたが爲めに、一度不完全に表現されてしまつたものは、今更これをどうすることも出來なかつた。書き足りない部分にでは無くて、反つて書かれて居る部分で、作者をして全く堪へ難いやうな氣持を起させるやうな箇所は、自分をただ徒らに愧ぢしめるのみであつた。冒頭からの五十頁ほどは、(前述の如く最も舊く書かれた
部分であるが、)その最も著るしい例である。そんな部分を私は唯そのままにして置いた。それを改めることは全くの無意味だから。それは、不完全ながら、をかしいながらにも、それ自身
2023-02-04T20:25:29+09:00
1675509929