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#contents ---- **WWⅡでのソ連は何故歩兵師団の事を狙撃兵師団などど呼称していたのでしょうか? マスケット銃兵に対してライフル銃兵を狙撃兵(射撃兵の方が感覚としては近い)と呼んだ事の名残。 英訳ではライフル師団。 じっさい当時のロシアの歩兵に占めるスナイパー比は相当なもの 200人くらいぶっ殺した有名な女性スナイパーもいたな #right(){(8:257-258)} **第二次大戦後にイギリスやアメリカが貸していた艦はちゃんと返却されてたのでしょうか? で、英国、米国からの貸与品は紆余曲折有りましたが、損耗分を除いて、大型艦は返却されています。 主なものですが…。 (戦艦) アルハゲリンスク(英・ロイヤル・ソヴェリン級 ロイヤル・ソヴェリン) → 1949.4.2返還 (巡洋艦) ムルマンスク(米・オマハ級 ミルウォーキー) → 1949.8.3返還 (駆逐艦) Zh級4隻(米→英→ソ・平甲板型) → 1949.2.4~1952.8.23返還(英へ) (フリゲート) EK-1級28隻(米・タコマ級)  → 1948.11.17に座礁沈没したEK-3を除いて1949年に返還。     これが、後に日本、韓国、タイ、コロンビアに供与されたわけで…。 このほかの貸与小艦艇は、1956年までに米国の立ち会いの下で、解体されています。 #right(){(17:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **スターリンってば開戦前に軍の幹部を何千人も粛清しちゃったみたいですけど、何で? 開戦前は確かに緊迫した状態でした。スターリンは革命後に同胞の政敵を倒して政権の座につきました。 が、一方では軍の反乱を恐れていました。NKVDとか秘密警察が市民や軍を監視下においていました。 つまり独裁者とは常に被害妄想に捕らわれます。(スターリンもヒトラーも同じ) 軍の最高幹部トハチョフスキーは二番人気で、スターリンは新たな革命を恐れていたわけです。 1936/37年にSSの情報機関SDがソ連軍弱体化計画をします。 軍およびトハチョフスキー一派が軍事クーデターを計画していると情報操作を行い、 これが見事に成功しトハチョフスキーから順次逮捕されていきます。 逮捕イコール拷問で、密告が密告を生み無実な将校が死刑にされました。 この結果、ソ連軍の頭脳である参謀本部は作戦能力が低下し、38/39年の フィンランド戦争や41年バロバルッサでも作戦指揮に大きく問題が発生した。 #right(){(27:一等自営業 ◆kawD31MU)} **第2次世界大戦中の原爆開発といえば、アメリカ、ドイツとやっていて、日本でも研究してたのは知ってますが、ソビエトはどうだったのでしょう? 第2次大戦前は英米ソ日独の核開発研究はほぼ同じレベルでした だから、米国の科学者が流した情報ですみやかに原爆が製造できたのです 大戦前はどの国も理論的研究しかしていなかったんだよ あえて順番をつけるとすればイタリアが最先端、次がイギリスで後はどんぐりの背比べ マンハッタン計画は1941年12月6日にスタートしており、すでにどんぱちの真っ最中 アメリカはこの時点まで、「原爆開発予算」はゼロに等しい #right(){(32:481,532)} **第二次大戦後のソ連は、レンドリースの対価をちゃんと支払ったんでしょうか? 話半分かもしれないですが、1970年頃の米ソ首脳会談でこのようなやりとりがあったらしい。 ニクソン:「ブレジネフ君。頭に思い浮かべてくれ給え。極寒の戦線。そこで動いている、戦車は        我が国のM4、それにレンドリースのトラック、空にはP-63が飛んでいるではないか。        さて、今回、その兵器の代金xx億ドルの請求書を持ってきたのだが…。        これをきっちり払って貰えるだろうか。」 ブレジネフ:「はっはっは。酷い兵器ばかり、しかも二線級のものばかり送ってくれたじゃないか。         この請求書の10分の1くらいの金額にしかならないよ。」 と言うことで、物別れに終わったとか。 北欧空戦史の末尾に載っていたような…。 #right(){(38:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **ドイツがモスクワに迫ったとき、スターリンは以前投獄した将校を大勢連れ戻して戦わせたのですか? 「ドイツがモスクワに迫ったとき、スターリンは以前投獄した将校を大勢連れ戻して戦わせた」 という話は流布していますが、正確な話かは微妙です。 たとえば戦前に「ポーランドと日本のスパイ」容疑で逮捕されたロコソフスキーは実際には1940年に釈放され、開戦時には機械化軍団司令官でした。 他の人々の話にも似たようなものがあり、1939年の粛清「終了宣言」後、段階的に釈放されていたものと考えられます。 また開戦直後には収容所に残っていた者の銃殺が一時激化したようですが、秋ぐらいには釈放が大規模になったと考えられます。 以上は90年代前半までの公開文献を基にしているので、最新の研究ではもっと明確かもしれません。 #right(){(63:426)} **ソ連のレンドリースの代金はどうなったのでしょうか?  第二次大戦終結後すぐ米ソは冷戦に突入した為、レンドリース代は長い間未払いのままだったのですが、 米ソの関係修復が行われた72年にレンドリース代支払いについての交渉が始められ、 1990年の6月に返済について合意したそうです。丁度、ゴルバチョフ書記長のグラスノスチの頃ですね。  ただし、ソ連側は代金を「この兵器は役に立たなかった(M3中戦車か(w」とか、ゴネまくってかなり値切り、 支払ったのは米側が提示した金額の半分以下です。因みに今でも払っています。 なお、ソ連時代の未払い債務だけでなく、帝政ロシア時代の債務も不履行しているので、 1934年4月13日施行の、対米戦債不払い国への融資を禁止するジョンソン債務不履行法に基づき、 ロシアがアメリカ市場(事実上、国際市場)で起債を行うには、帝政時代の分まで返済する(若しくは外交で決着する)必要があります。 #right(){(256:ue ◆WomMV0C2P.)} **何故、赤軍はフィンランド軍も倒せないほど弱かったのに大戦後半から急に強くなったんですか? 冬戦争でソ連が勝利できなかった理由の一つに、 トハチェフスキー元帥を始めとする赤軍幹部をスターリンが1937年に粛清 (いわゆる「赤軍大粛清」)したために軍が弱体化していたことがあります。 また、自国の地形を熟知するフィンランド軍が、複雑な地形を利用して巧みに 軍を配置し、数の不利をカバーした事や 各国の世論が一様にフィンランド支持で物資の支援があったこともあります。 44年以降の攻勢はソ連軍が本来持つ力を発揮できたということでしょう。 #right(){(41:名無し軍曹)} **ソビエト軍の懲罰部隊について教えて下さい。 WW2当時です。空軍ではシュツルモビクの後部座席の射手が 空軍懲罰部隊の指定席と言われてます。死亡率が高かったようです。 陸軍では攻撃部隊の前を前進して、地雷を踏み潰すのが担当だったと記録されてます。 (スタボーロフの三部作だったかな?) #right(){(46:一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)} **ワルシャワ・パクト側に立った戦記(仮想・ドキュメンタリ問わず)作品はありませんか? Warsaw-Pact側からのは寡聞にして存じませんが、学研から「スターリンの 外人部隊」という本が出ています。 後、英語で良ければ、スコードロン・シグナル社から、Warsaw-Pact Air Force と言う本が出ていました。 後は仮想戦記もので、トム・クランシーの侵攻作戦レッド・フェニックス(文春文庫) くらいでは? #right(){(75:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソ連は捕虜になることを認めてなかったんだっけ? ノモンハン戦の初期に日本兵が塹壕から火炎瓶やら地雷を棒につけたヤシで攻撃 したらコレがけっこう有効だったとかで逃亡するソ連戦車兵が続出。んで 戦車兵が逃亡するのを防止するためにハッチを溶接したそうだ。 #right(){(84:37)} **独ソ戦のソ連で「銃は二人に1つ」なんて事があったそうですが開戦当時のソ連は物資が不足していたのでしょうか? >また、米英の援助はいつから始まったのでしょうか? 元々、食料品、日常生活必需品は不足気味でしたが。 独ソ開戦当初は、前線の壊乱により補給線の構築が出来ず、 また工場疎開もあったため、中には銃が行き渡らなかった部隊もあります。 なお、米英の援助は、1941年6月の独ソ戦開始と共に開始されています。 #right(){(85:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **独ソ戦の本にソ連軍の「第○梯団」という記述があるのですが、どのような集団なのでしょうか。 軍団師団は編制 梯団は編成 #right(){(106:381)} **ソ連兵の中には理性を持ったは居なかったのでしょうか? ソ連兵に食料や燃料を別けてもらったとか美談も多数あるのだが 横暴ぶりのほうが目立って評価されない。 #right(){(109:384)} なんでもいいから独ソ戦に関する本を一冊読んでみればいいんじゃないでしょうか。 #right(){(109:385)} ソ連兵との間の関係が「憎むべきファシストども」から「個人対個人」に なってしまえば面食らうぐらい親切とのこと。 あと、邦正美「ベルリン戦争」でのシベリアの片田舎から来たソ連兵の描写は興味深い。 #right(){(109:386)} 戦場ではどこの国の兵士でも、その緊張感と恐怖、非日常性に影響され、 蛮行におよぶことがあるそうです。これはロシア兵にかぎりません。 戦場での兵士の心理を分析した資料としては、 J.Glenn GrayのThe WarriorsやPaul FussellのWartimeなどがありますよ。 #right(){(109:406)} **高度1000メートル前後でパラシュートなしで飛び降りて助かったソ連兵の話って本当なんでしょうか? 「信じられないが本当だ」スレの過去ログを参照されよ。 ちなみに下は深い雪。 #right(){(110:110)} いや、奇跡的に助かったケースはソ連兵に限らず多々存在するが、ソ連軍が 組織的にパラシュート無しの降下訓練を行っていたというのはデマと思われる まぁスペツナズは夜間、高度50mから集団パラシュート降下するという訓練を行っていたらしいので、 それに尾ひれがついたか? #right(){(110:112)} **WW2でソビエト軍の兵士が武器ももたずに赤旗だけ持って突入してますがあれは何を意味するのでしょうか? 士気高揚の為です。 ンなバカな、と思われるでしょうが実際に士気は結構上がったらしいです。 フィンランド戦争の戦記でも、突撃して来るソビエト兵の先頭に、赤旗を掲げた兵が・・・と言う描写が あるのでソビエト軍はよくやっていたようです。 #right(){(113:607)} 革命の旗手となり、戦勝するという意味 #right(){(113:609)} さすが、というか日本でも同じような事をやってる。 銃剣突撃の際は指揮官(大抵は小隊長)が真っ先に切り込むため、 一番死傷率が高い。 他にも、将校だけ装備が違ったり、馬に乗っていたり等目立つので 狙撃される事もしばしばあったそうだ。 #right(){(113:612)} **(ソ連の)政治将校ですが、が部隊長として直接部隊を指揮するわけにはいかないのでしょうか? 政治将校は一般の部隊長が軍の命令(つまり党本部)の意向通りに 動かしているかを見るのが任務です。 元々政治将校は軍人じゃないはずだし。 #right(){(120:655)} 政治将校というのはロシア革命直後の反革命派との内戦時に、 旧軍から採用した軍人が寝返らないように付けたお目付け役が起源です。 主に若手の党員が採用されるもので、軍人ではありません。 また、原則的に軍内の政治教育と戦意高揚が任務ですので、 用兵面は現場の指揮官に任せて口を出さないのが普通ですよ。 #right(){(120:658)} ただパウル・カレルの著作によれば、赤軍大粛清の影響で独ソ戦初期は指揮官の人材が払底していた。 そのため教育水準が高く、士気も高い政治将校が無能な野戦指揮官に代わって指揮をとったケースも多かったそうだ。 また政治将校の職務として一般の兵士に対する思想教育、 アジテーションによる士気の向上や兵士の身の上相談に乗るといったものもあった。 兵士たちが政治将校のほうを信頼する場合もあったとのこと。 #right(){(120:659)} 政治将校の位置付けは時期によって変わるので注意すること。 >658は主として内戦期、>659は大戦初期 内戦終結後、党員である軍人が増え、政治委員の必要性は低下、配置されない部隊も増加。 粛清期において政治委員は増加し、大戦初期において>659のような状況も見られた。 ただしこの時、「政治委員」は通常、軍籍をもつ政治担当副指揮官であった(例外有り)。 戦後は完全に軍の一部で、政治担当副指揮官 #right(){(120:681)} **太平洋戦争時のソ連極東艦隊(太平洋艦隊?)の規模はどのぐらいだったのでしょうか? 「太平洋艦隊」でOK (「Тихоокеанский Флот」を訳しても「極東艦隊」にはなりません) 太平洋戦争時と言っても、1941年と1945年ではかなり差が有るので、 1945年初頭の時点のおおよその艦艇数 巡洋艦2隻(18センチ砲9門) 駆逐艦10隻程度(嚮導駆逐艦1隻、中型駆逐艦9隻程度) 海防艦6隻 潜水艦60隻弱(ほとんど沿岸用小型潜水艦) 巡洋艦2隻は、1942年末と1944年末にアムールで竣工した艦であり 太平洋戦争開始時には無かった。 この他、太平洋艦隊から北洋艦隊に転属した駆逐艦や潜水艦もあり 1945年初頭では、これくらいの規模になっていた。 #right(){(343:831)} **第二次世界大戦で,ソ連軍の死傷者数は1000万超と群を抜いて多いわけですが,どうしてでしょうか?  日本の死傷者数が,終戦間際の無謀な作戦に比べると少ないように感じるのは,もともと外地で戦ってて,守備隊が全滅した時点で終わるからです.  沖縄戦を本土でやったらどうなるかを考えてみてください.ソ連と大差無いレベルまで死傷者は増えるでしょう.  人口が違うので1000万は超えないと思いますが.  膨大な餓死者や病死者が発生したというのもあります.  独ソ戦の初期には十万単位でソ連兵が捕虜になったが,鉄条網で囲んだだけの野っ原に閉じ込めてまともに食糧を与えなかった.  あまりにも多くの捕虜がいて,ドイツ軍の補給・管理能力を超えていたのと,どうせスラブの劣等人種だからと捕虜の待遇はほとんど考慮されませんでした. そのため人肉食が起きるほど,捕虜の食糧事情は悪化しました.  医療活動もまともに行われず,衛生状態も最悪だったので,疫病などが発生し,それによる死者も多量に出ました.  さらに戦場となったのがロシアの農村地帯なので食糧供給が極度に悪化し,独ソ双方がとった焦土戦術が追い討ちをかけて民間人も大量に死にました.  さらにまた,開戦前の大粛清で優秀な指揮官がソ連軍には不足してたことと,開戦後の大敗北とで,兵士が大量に失われました.  開戦当初のキエフやヴィヤジマ・ブリヤンスクの包囲では数十万人が一度に捕虜になっています.  開戦から数ヶ月で100万以上の戦力が失われ,12月にはモスクワ直前までドイツ軍が迫るって状況.  初期のキルレシオは20:1を超えていたと言われます.捕虜も死傷者に含めたら比率はかなり増加するでしょう.ソ連がドイツを押し返してベルリンに迫っていく頃になって,やっと同じくらいになりました.  後半は多少マシになったとはいえ,前半はとにかく数でドイツ軍の進撃を食い止めるしかありませんでした.  そこで根こそぎに近い動員を行い,新兵をろくに訓練もせずに戦場に投入しました. (そうでもしないと質的に優れたドイツ軍に対抗できなかったという事情もありますが)  田舎の村から成年男子を「志願」させ,前線近くまで連れてきてから銃の撃ち方だけを教えてそのまま突撃→機関銃の餌食なんてのは日常茶飯事でした.  この傾向は終戦まで続き,ソ連軍の損耗率はドイツ軍と比べて段違いに多かったのです.  例えばノルマンディ上陸作戦の時,ドイツの軍服を着たアジア人が一人捕虜となっています.  最初は日本兵かと思われましたが,調べたところ中国国境近くのチベット系遊牧民と判明.  東の果てでソ連軍の兵士として引っ張られてモスクワ前面で捕虜となり,その後ドイツ軍に志願してノルマンディで勤務してたことが明らかになっています.  それくらいてんぱった状況だったわけですね.  日本軍のほうは,大戦末期で大変だ大変だといわれながら,訓練はできる範囲でしていたようですね. **シベリヤに抑留された枢軸国捕虜が強制された無償労働は、ソ連にどれぐらいの経済効果を与えたのでしょうか? とりあえずドイツ人捕虜は6億8600万労働日の労働をこなし、その収入は111億ルーブル。 但し、食事、宿泊などの経費が133億ルーブルかかっており、差し引き22億ルーブルの赤字 と言うことになっています。 また、このほか、100の科学・技術上の新案を獲得しました。 #right(){(365:393,眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソ連が、占領した国の国民の大半を追放か殺した事があると聞きましたが、本当ですか? バルト三国では、元々多数派だった彼らを辺境に追放したり、粛清したりして、 代わりにロシア人を入植させた為、人口比がほぼ拮抗する状況になっていたりしています。 今は、自国民の優越を巡って、ロシアと緊張関係にあったりします。 #right{(358:292:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソ連軍がパラシュート部隊にパラシュートなしで降下させたことがある,というのは本当か?  本当です.  この話は,高橋慶史著『ラスト・オブ・カンプフグルッペ 続』(大日本絵画)で詳細が判明しました.  これは1942年2月のモスクワ南西200kmのユーフノフ付近でのソ連軍降下兵の話.  湿地帯の雪の上に高度約10mで低空飛行した輸送機から約千人の降下兵が飛び降りて,半数が骨折もしくは負傷.  残りの兵士も湿地帯で動きが取れず,作戦は失敗したとの事です. (名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE) **WW2時のソ連が火砲や戦車などの分野においてドイツ以上の基礎技術力を確保できていた理由は何なんでしょうか? そもそも、ロシア帝国の時代からロシアの技術力はそんなに低くはない。 ただ、農業主体の経済剤構造だったロシア帝國ではそれを活かす先が余りなかった、と言うだけ。 それと、主に貴族と皇族の装飾品を作るための技術から、金属の加工技術に関しては欧州の国の 中でも高いレベルにあった。 それを工業生産技術の方面に活かすには需要も産業もなかったと言うだけ。 ということで革命起こす前の国家のレベルがそれなりに高い訳だから、革命の混乱による人材の 流出や革命干渉戦争による国土の荒廃はあっても、ソビエトとしての体制が確立した時点で それなりのレベルを保っている。 #right(){(555:420)} **ソ連はイギリスのために何かしたんですか? >英ソ相互援助協定とかいって。イギリスがソ連に物を送ったのは知ってますが 小麦やら肉やらを送ってる 援助とはいいながら実体はバーター貿易に近い でもって英国に食料を送る必要からソ連国内では深刻な配給不足が起き100万人単位の餓死者が出た #right(){(570:53)} **ソ連は何であんなに兵士が多かったんでしょうか >1950年ごろのロシア(ソ連全体ではなく)人口が1億人強、日本の人口が8千万人強なんですがなんであんなに兵士数が違うんでしょう 今の北朝鮮と同じで、ある種の戦時体制だから。 ただ、ソビエトの場合(ソビエト以外の社会主義国家でも同じようなものだが)、 最新鋭の装備を与えられてフルタイムで勤務している「軍人」は総兵力の3分の1 程度(いくつかのカテゴリーに分けられてた)で、残りの3分の1は一世代前の 装備を与えられていて、編成も後方支援や後方治安維持に軽度化された二線部隊、 残りの3分の1は編成上だけ存在してる予備部隊で、基幹要員の他はトラックさえ 定数が配備されてなかった(戦時には民間のトラックを徴用して装備する)。 将校下士官も予備役の人が動員されることになっていて、「師団長代理」一人と 事務要員が数人いるだけ、武器は大戦時のデッドストック・・・というのがほとんど だったり。 なので実際の「軍事力」としての部隊は全体の三割ぐらいで、これでも相当な数だが ソビエト政府の公式発表ほどには兵力はなかった。 #right(){(339:638)} **WW2でアメリカやイギリスの援助がなければ、ソ連はドイツに負けていたのですか? 米ソの出会いが、エルベ川で無く、オーデル、ナイセ線になるくらいだな。 独ソ戦が始まってからしばらくして、伍長閣下曰く 「ソ連に戦車がこれほどあると知っていれば、私は戦争など始めなかった」 戦争初期でこれだから、後はお察し下さいとか。 #right(){(創作質問スレ50:369-370)} **ジューコフとかそういう将軍が出てくるまでのソ連軍の戦術は >その辺の農民等を連れてくる→武器を持たせて突撃(逃げる奴は督戦隊の政治将校が射殺) >だったという話を聞いたのですが本当なのでしょうか。 ほぼうそ、トロツキーがロシア革命とその後の内戦の中で 赤軍(ソ連軍)を作り上げている。 また、トロツキー失脚後もトハチェスキーが 赤軍を再編し機械化された近代的な軍にしている。 ただ、スターリンの大粛清によって軍に有能な人材がなくなり 一時期は突撃以外の戦術が指揮官によってはほとんど使えなかった時期もある。 具体的には1937~8年の大粛清から大祖国戦争のスターリングラード開放ぐらいの時期になる。 #right(){(585:526)} **ソ連軍てドイツ相手になんで途中からあんなに強くなったんですか 緒戦の大損害を受けた時の生き残りが再編成で各師団の中核として配置されたり、 2年目以降、ソビエト軍指導部が、むちゃな死守命令をださず、後退を認めてたりす るように融通が利いてくるようになったから。 また、レンドリースが届いたり、ウラルの奥に疎開した兵器生産工場がフル稼働を始め、 兵器が潤沢に供給されるようになったから。 2年目以降は毎週のように編成される戦車旅団の情報を伝えられたヒットラーがこれは欺瞞情報だと 判断するくらい兵器生産が軌道に乗っている。 #right(){(596:981)} **スターリンは軍事的な専門教育を受けていないのにもかかわらず、専門者が設計した多砲塔戦車や多砲身戦車の限界を見抜いていたのですから、軍事的な天才だったのですか? 彼についてはガチガチの質素倹約を良しとすると言う考え方を戦車にも当てはめたらしく それが戦車の設計をシンプルにする考えに辿り着いたとされている。 他方、T34の試作段階で転輪で走行する構造を廃止することも容認しており、主砲強化と 装甲強化こそが重要と言う発想があった可能性もある。 また、当時のソ連には、なぜか戦車開発に干渉する砲兵総監がおり、新型戦車の初期トラブル を改設計しなければならない時期に主砲の強化を要求することが慣例化しており、新型戦車は 不具合が多いかわりに早期に初期バージョンより主砲が強化されている。 なお、独ソ戦の緒戦については、彼の意識は縦深防御で固まっていたのに、前線の指揮官が 国境付近で押し返してポーランドで決戦する気になっていたので、総崩れになったと言うのが 最新の研究だったりする。 まあドイツ側もスモンレスク決戦の意図を理解せずイェリニア村の全滅とかやらかしてるので 前線指揮官の無理解は仕方が無い。 #right(){(617:854)} **ソ連の第二次大戦での戦死者が時代を経るごとに増えているのは何故? 資料の公開がソ連崩壊後に進んだから。 単純に何人死んだか確認取れなかったから。 戦線が流動的に動いているし、初期の劣勢時は戦闘要員とも言えない様な子供や老人を片っ端から動員している。 更に戦況が優勢に傾くと今度はドイツに付いたり、協力した反動分子の抹殺をしたり。 こんな状況では正確な戦死者数を数える事など不可能。 だから時間の経過で情報が整理されていくにつれて、どんどん増えていった。 #right(){(312:86,87)} **独ソ戦の時のロシアマフィアの活動について教えてください >前線で祖国の為に戦っていたりしたのでしょうか? ttp://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Mafia#History ttp://en.wikipedia.org/wiki/Thief_in_law ttp://en.wikipedia.org/wiki/The_Bitch_Wars 独ソ戦中に刑務所や矯正収容所に収監されていたマフィアの一部は、刑期の短縮と引換えに兵士として従軍した。 戦後彼らは元いた収容所に戻されたが、政府に従わないという掟を破った裏切り者「スーカ(雌犬)」として残った マフィアの囚人達から虐待された。 スーカ達も収容所の管理に協力することで生き残りを図り、収容所内でマフィアと激しい内部抗争「雌犬の戦い」を行った。 #right(){(641:950)} **ソ連軍は、なぜ人海戦術をとったんですか? ソ連軍の作戦で人海戦術と呼べるような物が行われたのは、第一次ソフィン戦争(いわゆる冬戦争)と 独ソ戦の序盤のみです。 この頃の赤軍は、粛清によって士官が不足していました。 第二次大戦期の軍隊は(現代もそうですが)30~40人程度の小隊を分隊支援火器を中核とした10名 以下の分隊と軽機関銃によって火力支援を行うグループに分け、機関銃掃射や榴弾砲で一掃される事 が無いように分散して行動する事が常識化していましたが、当時のソ連軍は士官の不足からこのような 戦術を採る事ができず、中隊(200人規模)が一丸となって突撃するという、19世紀のような戦い方しか とれないような状態になっていました。 独ソ戦以降、この状態は改善され、ソ連軍は物量を生かした火力主義・包囲殲滅主義に基づくドクトリン を完成させた事もあって、このような稚拙な戦術を取るような事はなくなりました。 なお、人海戦術とは本来は、毛沢東の提唱したゲリラ戦術であり、敵の拠点を自軍シンパの住民で取り 囲み、孤立させる事を「人民の海に敵を埋葬する」と表現した事に由来します。 これが数に物を言わせた無策な突撃戦術の代名詞となったのは、ソフィン戦争当時のソ連軍のように、 20世紀型の軍隊を組織できていなかった朝鮮戦争時の共産党軍の様相が広く知られるようになった ためです。 #right(){(647:188)} **モスクワが堕ちてもロシアはまだ抵抗を続けてましたか? 続けました。 1943年夏まで、臨時首都に移転していました。 「独ソ戦時、クイビシェフはモスクワがドイツ軍に占領された場合のソ連の臨時首都候補に選ばれた。 1941年10月にはソ連共産党幹部、政府機関、各国からの外交官、文化人などがスタッフとともにクイビシェフへ避難した。 (中略) 1943年夏までクイビシェフはソ連の臨時首都となっていたが、モスクワへのドイツ軍の脅威がなくなったため、 同年首都機能はすべてモスクワへ戻されている」 下記、ウィキペディアのサマーラのソビエト時代 を参照ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9 #right(){(648:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)} **ソ連軍の第一線は軍規が良好だったって本当ですか? 良好でした。理由は政治委員が配属されていたからです。 彼らは裁判などの手続きなしで軍将校をも射殺できる権限がありました。 よく話題になる略奪などは政治委員の配属されていない後方部隊やパルチザン のしわざのようです ドイツ軍の捕虜を殴り殺そうとする兵士たちを政治委員が制止して助かったと いう事例は多そうだな。パウル・カレルの本にも記述がある。 もっともその後に尋問やらシベリア送りが待ってるわけだが 軍規の塊みたいな政治委員だが、それが恨みを買ったりしてるよな ソ連歩兵が部隊ごとドイツに降伏するときに真っ先にしたことは政治委員を 全員射殺することだった。政治委員は投降など絶対に許さないからな 政治委員自体捕虜になれないから死ぬまで戦う #right(){(662:379-392)} **ソ連兵の「銃は二人で1挺」突撃は史実なのでしょうか? その映画はちゃんと見ていないが、WW2時のソビエトに関して言うなら事実だろう。 酷いのになると、スコップや木の棒を持って突撃させられる。なんて実話もあった。 独ソ戦前半の師団どころか軍単位で部隊が壊滅した状況で、なりふりかまわぬ動員で急遽編成された部隊においてはそんな感じ。 大戦後半ではアメリカからの大量の物資供与や兵器の大増産で装備は充実していった。 ただし兵員の損耗率が非常に高かった為、終戦まで定員を充足していた部隊は少なかった。 むしろ大戦末期のドイツ軍において、空襲による工場の壊滅や鉄道・道路の破壊による輸送の混乱で装備が足りない部隊が続出していた。 #right(){(294:101-102)} **第二次世界大戦時のソ連は銃を2,3人に一挺だったっていうエピソードが,映画「スターリングラード」にありますが,これは独ソ戦全体を通してのことだったのですか?  独ソ戦初期の戦闘態勢が整わなかった時は,ソ連軍ではどこもそんなものだったらしい.  独ソ戦後半にはウラルの東に移転した工場が生産を増強し,さらにアメリカからの支援物資の輸送が順調になってきたので兵器不足は解消されている. 「ロシア兵はアメリカ製の生地で作られた軍服を着て,アメリカ製の靴を履き,アメリカ製のコンビーフを食べて,アメリカ製のトラックに乗って戦う」 なんて言われたくらい.  前半の損害について言えば,大量の兵員を損失したことの方が響いていて,戦争終結まで多くの部隊は定員を充足していない状態で戦っている.  戦争末期にはドイツ軍の方の兵員及び武器弾薬の不足の方が深刻で,国民突撃隊などはそれこそ三人に一丁の銃で,それもイタリア軍からの鹵獲品.  しかも,しばしば補給された銃と弾薬の規格が合わないなどという状況もおきている.  ダンケルク撤退後の英軍も火器不足が深刻で,急造型短機関銃を作って(それがステン・ガン)みたり,槍で武装したり. **ソ連兵は文盲が多かったて本当? 当時のソ連は全体からすれば、小学校すら設置されてない 遅れた地方ってのが多く、多数を占める農村の子弟らも 学校に行く生活的余裕もなかったために、教育を受けられず 文盲が多かった時代ではあったのは事実 今の中国みたいな状態 アメリカの場合も一部貧困層は(今でもだが)経済的な理由で学校に行けない あるいは行かないので、米軍兵士には文字が書けないってのはいた だが、これは移民の子供という背景も多く、親の母国語の読み書きは親から習ってできるけど アメリカ国内公用語の英語ができないっていう複雑な状態の人も結構居たりする ソ連も同様で、多民族国家なので共通語を習得してないって人の割合も多く、 これが識字率の低さにも一応繋がってはいる とりあえず識字率のデータ http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/46/shiokawa/hyo1.html 表2 民族別の識字率の変遷を参照 ちょうど1939年のがある 民族にもよるが、70%ちょっと… 全体の平均では89%… 「意外にも高い」とみるべきか「3割から2割も文字が読めないということ」と見るべきか #right(){(664:148-162)} **WW2でソ連は人海戦術で勝ったんですよね? ソ連軍のは人海戦術じゃない。 人海戦術ってのは、毛沢東の造語で、「人民の海に敵軍を埋葬する」戦略のこと。 ソ連軍の攻撃ドクトリンは、トハチェフスキーの縦深攻撃をベースにしたもので、 広範囲かつ数段にわたって攻撃を継続することで防衛側を拘束し続け、 ほころびが見えた箇所から一気に突破するというもの。 攻撃が阻止されても攻撃し続ける必要が出てくることから、一見無理押しに見えるし事実そうなんだけど、 全体から見るとそれも必要なのね。 タンクデサントについても、戦車・歩兵直協ってのはWW2の課題で、 結局大戦中に結論は出ていないと見る。 結局、ソ連は大の虫を生かすのに小の虫を殺すことをためらわなかった、ということではないかな。 #right(){(672:334)} **ソ連の対独先制攻撃計画について教えて下さい ソ連の対独先制攻撃計画は、80年代に当時の西ドイツで騒がれ始めた説ですが、証言者や物証がありません 当時の参謀次長の個人文書の中から、スターリンに提出するつもりの「対独攻撃計画意見具申書」の、 草稿が見つかったのみで、実際に提出されたのか、またそれに対してソ連政府(スターリン)が どうしたか等の公式文書なりは見つかっていません また、ドイツ側の対ソ戦決定に関連する公文書は多数残されていますが、 「ソ連が対独先制を決意しており、ドイツはそれを知っていた」を記録した物も見つかっていません ソ連の対独侵攻計画について詳細に触れた本は「砕氷船」という本だと思われます。 著者がソ連からの亡命将校(GRU所属の佐官)であることもあって、ドイツ系の書籍では大きく扱われることが多いようです。 「砕氷船」は未見なので明確に言えませんが、「知られざるスターリン」等、ロシアでは否定的に扱われているようです。 「対独攻撃計画意見具申書」(独及びその同盟国に対する戦争の為の戦略開進計画)によれば ・支攻撃をジードルチェ、デンブリン方面に加え、ワルシャワ近郊に独軍を拘置する ・スロヴァキア国境に近いボーランド南部をクラカウ方面に進み、ドイツと同盟国を分断した後北上し、ポーランドに展開している敵軍を包囲 ・フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、東プロイセンに対しては防御 ・作戦には303個師団、砲兵74個連隊、218個飛行連隊を使用 と、なっていて開戦時期は記載無し ソ連が41年7月に対独開戦を予定していた、いや43年だった等の説が出ています が、それを肯定・否定する確証は出ていません また西部に防衛するだけにしては多すぎると思われる部隊を配備していましたが、 それが侵攻用だったという事を肯定・否定する確証も出ていません 結果、「そうだったかも知れないけど、証拠は無い」という状態です #right(){(117:33-71)} >なんでもルーマニア方面からヨーロッパに侵攻するつもりだったとか。 ポーランド戦より前の独ソ不可侵条約締結前、英国とフランスはポーランドに ソ連軍を引き入れて、ドイツ軍と戦わせようとしていました。 結局、ポーランドの反対で流れましたが、その辺の事情もあったのではない かと…。 #right(){(117:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **カチューシャ等、zisトラックを改造して作ったソ連の戦闘車両は、終戦までにどれほどの数が作られたのでしょうか? 意外に少なくて、カチューシャとしては500輛程度。 82mmのものを含めると1000輛くらいはいくかもしれませんが。 カチューシャトラックのベースは米国製のスチュードベーカーが多かったりします。 #right(){(271:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ポーランドに侵攻したドイツは英仏から宣戦されてますが、何故ソ連は宣戦されなかったのでしょうか >大戦の初頭でソ連はポーランド東部を攻撃し分割併合してますが、当時英仏とポーランドは同盟してますよね? フランスは宣戦するつもりだった。 だがその作戦というのがフィンランドと同盟し、北からフィンランド軍が、南からは中東経由で英仏軍がソ連に侵攻。 モスクワを攻略してフィンランドと握手、という仮想戦記も真っ青な内容だったためイギリスが載らなかった。 さすがにソ連まで相手する余裕もないし。 #right(){(268:878)} **独ソ戦の際に、ソ連に徴用されていたコサックなど少数民族がドイツ軍へ寝返ったようなケースがあるらしいと聞いたのですが、 >これは組織的に行われていたのでしょうか? あと、これらコサック兵の戦後はどのようなものだったのでしょうか? 基本的にはケースバイケース。 しかし共産主義体制下で抑圧されていたイスラム系や、一旦独立後に再併合されたバルト三国などでは当初はドイツ軍を 解放者として歓迎したものも多かった。 またロシア人やウクライナ人のなかにもドイツ軍を歓迎した者もおり、独ソ戦当初には政治士官を殺害して部隊ごと投降する 場合も多かった。 これらの人々がドイツに解放者としての期待を抱き、それが裏切られていく過程はJ・トールヴァルトの「幻影」(絶版)に詳しい。 これら対独協力者の運命だが、ほとんどが処刑もしくは流刑された。 西側に投降した人々も米英がソ連と結んだ協定により引き渡され、ソ連に送られるよりはと部隊単位で焼身自殺したケースもあった。 イスラム系民族ではチェチェン人やイングーシュ人、クリミアタタール人などはその多くがシベリアや中央アジアに流刑されている。 その後にロシア人が入植し、これがソ連崩壊後大きな問題となっている。 チェチェン紛争もその原因の一つがこれである。 #right(){(129:172)} **第二次大戦中のソ連軍の歩兵師団の構成ってどんな感じだったか教えてくださいまし ソ連軍は三単位編成を取ろうとしていましたが、それまでは四単位編成を取っていました。 このため、数的には19,000名で編成されていました。 三単位編成を取り入れたのは、1941年4月からでこの時の定員は14,483名になります。 しかし、再編成完了前に、独ソ戦が勃発。 独ソ戦初期の人的損害の大きさから、1942~43年頃には10,000名前後になってしまって います。 これが、19,000名に戻るのは大戦末期になります。 ソ連の1941年4月現在の歩兵師団(狙撃兵師団と一般には呼ばれていました)の編成は、3個狙撃兵連隊 と2個砲兵連隊、1個対戦車大隊、1個対空大隊になっていましたが、人的損害多数の結果、そう言った編成 を取らず、3個狙撃兵連隊はそのままで、1個砲兵連隊、1個対戦車大隊、1個偵察中隊、1個工兵中隊、1個 通信中隊とした編成になっていました。 狙撃兵連隊は、連隊本部の下に3個大隊の狙撃兵大隊があり、支援中隊として、対戦車砲中隊、対戦車ライ フル中隊、榴弾砲中隊、迫撃砲中隊がありました。 この連隊の編成定数は、2,474名と他国よりも少ないですが、これは補給部門を軽視していたからと言えます。 狙撃兵大隊は4個中隊で編成され、3個中隊が狙撃兵、1個中隊は、支援のための迫撃砲、機関銃中隊でした。 #right(){(262:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソビエトは大戦中にM1バズーカやパンツーファウストのような対戦車ロケット兵器の開発・生産は行っていたのでしょうか? ロケットの開発は行なっていましたが、対地ロケット、航空機用ロケットの開発が主で、 歩兵用対戦車兵器としての開発には余り重点を置いていません。 パンツァーファウスト60を鹵獲し、それを研究した後、コピー品をRPG-1、改良して、RPG-2 として生産し、最終的にRPG-7に至っています。 #right(){(144:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **二次大戦時のソ連のパイロットですが、軍に入隊する以前からパイロット職についていた人間がそれほど多い国とも思えません。 ソ連の空軍の基礎は、1920年代、ヴェルサイユ条約によって軍備を制限された ドイツ軍との秘密協定により、お互いのノウハウを提供しあって誕生したものです。 民間航空部門であるアエロフロートもその前身が1923年に誕生し、1932年には正式に国営会社になりました。 ですので、各国と比較しても、英仏米は別格として、軍民共に航空分野における人的資源の養成に それほど立ち遅れたわけではないと言えるでしょう。 もちろん、パイロットには、そうなるための適正が必要であり、その選抜にも恐らく抜かりはなかったでしょう。 ところが、赤色空軍がダメダメになってしまう一大事件が起きます。 そう…スターリンによる粛清の嵐です。 当然、幹部クラスの空軍軍人も多数が粛清の嵐に巻き込まれますし、 事故が起こったり、設計のミスが見つかれば、事故を起こした当事者や 設計者など関係者が反政府分子に祭り上げられ、強制収容所送り…。 ま、そうした体質を話半分と見ても、パイロット養成やら、新鋭機の開発、 航空戦術の発展にブレーキが掛かったのは否めないでしょう。 ちなみに、国営企業時代のアエロフロートは戦時には、空軍の輸送部門に組み込まれました。 戦闘機など小型機のパイロットはなかなかつぶしが利かないでしょうが、 大型機の取り回しに慣れたパイロットなら、アエロフロートで採用された可能性が高かったと聞いています。 #right(){(235:566)} 民間には多数の飛行クラブがあり、また、農業の機械化という形で、農業機パイロットも 多かった訳で、軍人以外にも多数の操縦経験者がいます。 大体、Po-2だけで、1941年6月22日までに13,500機生産されているわけで。 戦後、彼等のうち、生き残った者は軍用機パイロットとしてそのまま留まったものも 居ますし、民間に戻っても、飛行クラブの教官とか、農業機のパイロットとか、職は 色々ありました。 #right(){(235:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソ連参謀次長の個人文書の中にあった「対独先制攻撃計画の草稿」以外に何か、ジューコフがスターリンに計画を提出した証拠は出たんでしょうか? 「ソビエト国軍の戦略的展開に関する意見書、人民委員会議議長宛、一九四一年五月付」 というジューコフの手書きになる文書が人民委員会議議長=スターリンに提出されています。 ティモシェンコ元帥の連署になるジューコフの手書き文書で、 152師団による即時攻撃(ただし即時といっても7月)を提案していました。 まあ、これに対して、スターリンが無視したのか、 それとも秘密裏にその計画に沿った準備を進めていたのかってのが、 前スレでの議論ということになります。 学研の『独ソ開戦』や『詳解 独ソ戦全史』を参照。 #right(){(178:201)} **独ソ不可侵条約はドイツはニ方面からの攻撃を避けるためなのでしょうが、ソ連はどういうメリットのためでしょうか? 領土的問題(ポーランド、バルト三国、フィンランド)というものもありましたが。 それよりも、ソ連から見て、西側諸国が一致団結して、ソ連に侵攻するのが一番避けたい事態 でした。 1918~20年代初頭に掛けての干渉戦争に対する恐怖が首脳陣に根強くありましたし。 従って、西欧諸国の一角であるドイツがソ連と不可侵条約を締結してくれると言うことは、 英仏と合わせて自国を侵攻する懸念が払拭出来ると考えた訳です。 とは言え、第二次大戦が勃発して英仏との間にファニー・ウォーの状態だった時、ソ連 首脳は英仏独三国が共同してソ連に侵攻するのではないか、と考えていましたけどね。 #right(){(180:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソ連は、モロトフ=リッベントロップ協定以前からバルト三国に対して具体的な計画を持っていたのでしょうか。 元々、1919年の時点で、各国ともBolshevikによる革命政府と白衛軍との内戦を経験しています。 もし、ドイツ軍、英国軍、フィンランド義勇軍などの援軍がなければ、カフカス諸国の様に併合されて いた可能性が高いと言えるでしょう。 #right(){(199:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **アメリカからソ連にレンドリースされた兵器って何があるんですか?  有名なのは ベルPー39 エアラコブラとその改良型P-63 キンブコブラ。  アメリカでは日本にボロボロ落とされまくった駄作機扱いだが、ソビエトに送られた ものは大口径機関砲を生かして対地支援に活躍した。  他にもB-25やC-47、陸ではM4A2シャーマン(シャーマンのディーゼルエンジン型)、 M2/3スカウトカー等。 JEEPもいくらかは供与された筈。 ソビエトは勝手にコピーして自国仕様を生産して、そっちが大量に使用されてるけど。 他に有名なものではM3リー戦車かな。 もっともこれはロシアの平原地帯で使うには背が高過ぎてドイツ軍対戦車砲のいい的で、 「7人兄弟収容自走鉄製棺桶」 というイヤーンな仇名をつけられたとか。 #right(){(199:864-867)} 艦船ではタコマ級フリゲイトやリバティ輸送船など。 余談ですが、ソ連から返還されたタコマ級フリゲイトは再整備の上日本に借与されて "くす"型PFとして創設間もない海上自衛隊で使用されました。 #right(){(199:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} 米国は、1941年から1945年6月にかけて、16,651,000tの資材、貨幣換算で、9,119,204,000ドル分のものをソ連に 送っています。 陸軍装備の場合は、トラック400,000台、野砲牽引用トラクタ(インターナショナル・ハーベスタTD-14が代表的)、 タンクポーター、偵察車、ハーフトラック、戦車などありとあらゆるものが含まれています。 なお、トラックの1/4以上は2 1/2t積6×4または6×6のスチュードベーカーで、これは有名なカチューシャ用の 車台としても用いられています。 スチュードベーカーは他に5t積6×4(セミトレーラ付きのトレーラトラックとして)が供給されてます。 残りは、ジープ、ダッヂのウェポンキャリア、シボレーとダッヂの1 1/2t積4×4トラック、GMCの6×6、MAC、 マーモンハリントンのダンプとレッカー用6×6などでした。 一時期の東部戦線の一部では、実に赤軍補給車の半分以上が武器貸与トラックでした。 ちなみに、ジープは1942~43年に掛けて、20,000台以上のバンタムまたはウィリスが供給されたほか、フォード GPA、所謂、水陸両用ジープも大量に供給されています。 これらの車輌は、部品状態のまま、ペルシャ湾経由でイランに運ばれ、コーラムシャールで陸揚げされて組立て、 そこからイランを北上してソ連に入っています。 後、戦闘兵器ではありませんが、1942年10月に遊休化していたフォードのタイヤ工場を買収してその工場設備を ソ連に運び、其処に設備を設置して、年間100万本の軍用車のタイヤを生産したりもしています。 海軍には、Tacoma級フリゲートの他、Omaha級軽巡洋艦Milwaukeeが1944年に貸与され、 1949年まで用いられています。 同じ時期に、平甲板型駆逐艦(英国に貸与された50隻のお下がり)が9隻、1944年に貸与され、 これらは1952年まで用いられた上で返還されました。 このほか、YMS級掃海艇31隻、70ft級PTボートが140隻、78ft級PTボートが53隻、80ft級PT ボートが60隻、SCクラスの駆潜艇138隻が引き渡され、SC級の一部は1955年に漸く返還され ました。 航空機では、P-39各型が4,924機、P-63各型が2,421機、PBY各型が189機(他にLicense生産 もあります)、B-24Dが1機、O-52が19機、P-40Bが24機、P-40Cが195機、P-40E以降各型が 2,097機、C-46が1機、C-47が709機(License生産が他にあります)、A-20Bが665機、A-20C が48機、A-20G以後の各型が3,125機、B-25B/D/G/Jが862機、P-47Bが203機、P-47Dが 203機が引き渡されています。 #right(){(199:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ヒトラーは「そのうち人材が尽きる」と言っていたようですが、終戦時の赤軍の主な兵力を教えて下さい。 1945年の年平均(1~5月)戦力が633万人。最大約1,000万人まで動員可能。 終戦時の戦車・自走砲の前線配備数が8,100輌(後方配備を含む総合計が3万5,200輌) 大砲・迫撃砲の前線配備数が9万4,400門(同32万9,600門) 軍用機の前線配備数が2万2,300機(同4万7,300機) ベルリン攻略戦だけでも3個正面軍250万人が参加…。 #right(){(212:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **ソ連の対日宣戦はどのような手続きで行われたのでしょうか? 駐ソ大使佐藤尚武がクレムリンに呼びつけられたのがモスクワ時間八月八日午後五時すぎ。 (日本時間午後十一時過ぎ) 面会したソ連大使モロトフはその場で対日宣戦布告文を朗読して佐藤大使に手渡してます。 内容的には 「日本がポツダム宣言受諾を拒否したことでソ連の和平仲介は意味を失った。 ソ連政府は連合軍諸国の要請するところに従い、無条件降伏を拒否したことで ドイツ国民が味わった危険と破壊から日本国民を回避させるために日本と戦争状態に入る」 と言った主旨のものです。 佐藤大使は即この内容を東京に打電しようとしますが、大使館の電話回線はすべて切断されて 折、無線機すらGPUに没収されていました。 このため、通常の国際電報を使用して東京に打電することになってしましました。 総指揮官ワシレフスキー元帥が全軍に命令を出したのは(日本時間)八月九日午前零時過ぎでした。 #right(){(206:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **ソ連は何故WW2で砲兵を大量に運用したんでしょうか? 自軍の損害を減らすには火力支援が最も効果的だが 他国が航空隊の地上支援で砲兵を代替できると考えたのに対して、 冬将軍や春の泥濘で常に航空隊に頼れる訳でないソ連では、砲兵が最も頼れる火力支援だったから #right(){(俺初質スレ436:601)} ----
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Warsaw-Pact側からのは寡聞にして存じませんが、学研から「スターリンの 外人部隊」という本が出ています。 後、英語で良ければ、スコードロン・シグナル社から、Warsaw-Pact Air Force と言う本が出ていました。 後は仮想戦記もので、トム・クランシーの侵攻作戦レッド・フェニックス(文春文庫) くらいでは? #right(){(75:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソ連は捕虜になることを認めてなかったんだっけ? ノモンハン戦の初期に日本兵が塹壕から火炎瓶やら地雷を棒につけたヤシで攻撃 したらコレがけっこう有効だったとかで逃亡するソ連戦車兵が続出。んで 戦車兵が逃亡するのを防止するためにハッチを溶接したそうだ。 #right(){(84:37)} **独ソ戦のソ連で「銃は二人に1つ」なんて事があったそうですが開戦当時のソ連は物資が不足していたのでしょうか? >また、米英の援助はいつから始まったのでしょうか? 元々、食料品、日常生活必需品は不足気味でしたが。 独ソ開戦当初は、前線の壊乱により補給線の構築が出来ず、 また工場疎開もあったため、中には銃が行き渡らなかった部隊もあります。 なお、米英の援助は、1941年6月の独ソ戦開始と共に開始されています。 #right(){(85:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **独ソ戦の本にソ連軍の「第○梯団」という記述があるのですが、どのような集団なのでしょうか。 軍団師団は編制 梯団は編成 #right(){(106:381)} **ソ連兵の中には理性を持ったは居なかったのでしょうか? ソ連兵に食料や燃料を別けてもらったとか美談も多数あるのだが 横暴ぶりのほうが目立って評価されない。 #right(){(109:384)} なんでもいいから独ソ戦に関する本を一冊読んでみればいいんじゃないでしょうか。 #right(){(109:385)} ソ連兵との間の関係が「憎むべきファシストども」から「個人対個人」に なってしまえば面食らうぐらい親切とのこと。 あと、邦正美「ベルリン戦争」でのシベリアの片田舎から来たソ連兵の描写は興味深い。 #right(){(109:386)} 戦場ではどこの国の兵士でも、その緊張感と恐怖、非日常性に影響され、 蛮行におよぶことがあるそうです。これはロシア兵にかぎりません。 戦場での兵士の心理を分析した資料としては、 J.Glenn GrayのThe WarriorsやPaul FussellのWartimeなどがありますよ。 #right(){(109:406)} **高度1000メートル前後でパラシュートなしで飛び降りて助かったソ連兵の話って本当なんでしょうか? 「信じられないが本当だ」スレの過去ログを参照されよ。 ちなみに下は深い雪。 #right(){(110:110)} いや、奇跡的に助かったケースはソ連兵に限らず多々存在するが、ソ連軍が 組織的にパラシュート無しの降下訓練を行っていたというのはデマと思われる まぁスペツナズは夜間、高度50mから集団パラシュート降下するという訓練を行っていたらしいので、 それに尾ひれがついたか? #right(){(110:112)} **WW2でソビエト軍の兵士が武器ももたずに赤旗だけ持って突入してますがあれは何を意味するのでしょうか? 士気高揚の為です。 ンなバカな、と思われるでしょうが実際に士気は結構上がったらしいです。 フィンランド戦争の戦記でも、突撃して来るソビエト兵の先頭に、赤旗を掲げた兵が・・・と言う描写が あるのでソビエト軍はよくやっていたようです。 #right(){(113:607)} 革命の旗手となり、戦勝するという意味 #right(){(113:609)} さすが、というか日本でも同じような事をやってる。 銃剣突撃の際は指揮官(大抵は小隊長)が真っ先に切り込むため、 一番死傷率が高い。 他にも、将校だけ装備が違ったり、馬に乗っていたり等目立つので 狙撃される事もしばしばあったそうだ。 #right(){(113:612)} **(ソ連の)政治将校ですが、が部隊長として直接部隊を指揮するわけにはいかないのでしょうか? 政治将校は一般の部隊長が軍の命令(つまり党本部)の意向通りに 動かしているかを見るのが任務です。 元々政治将校は軍人じゃないはずだし。 #right(){(120:655)} 政治将校というのはロシア革命直後の反革命派との内戦時に、 旧軍から採用した軍人が寝返らないように付けたお目付け役が起源です。 主に若手の党員が採用されるもので、軍人ではありません。 また、原則的に軍内の政治教育と戦意高揚が任務ですので、 用兵面は現場の指揮官に任せて口を出さないのが普通ですよ。 #right(){(120:658)} ただパウル・カレルの著作によれば、赤軍大粛清の影響で独ソ戦初期は指揮官の人材が払底していた。 そのため教育水準が高く、士気も高い政治将校が無能な野戦指揮官に代わって指揮をとったケースも多かったそうだ。 また政治将校の職務として一般の兵士に対する思想教育、 アジテーションによる士気の向上や兵士の身の上相談に乗るといったものもあった。 兵士たちが政治将校のほうを信頼する場合もあったとのこと。 #right(){(120:659)} 政治将校の位置付けは時期によって変わるので注意すること。 >658は主として内戦期、>659は大戦初期 内戦終結後、党員である軍人が増え、政治委員の必要性は低下、配置されない部隊も増加。 粛清期において政治委員は増加し、大戦初期において>659のような状況も見られた。 ただしこの時、「政治委員」は通常、軍籍をもつ政治担当副指揮官であった(例外有り)。 戦後は完全に軍の一部で、政治担当副指揮官 #right(){(120:681)} 1942年度後半においては、政治委員の役割は、 政治的な役割のみに限定するとの命令が出されている。 現実の運用において、政治委員が軍事面においても 大きな力を持った場合はあったにせよ、 それまでの独ソ戦の経験から軍を信頼した方が好結果につながることを 共産党指導部も学んだことによる。 #right(){(120:682)} **太平洋戦争時のソ連極東艦隊(太平洋艦隊?)の規模はどのぐらいだったのでしょうか? 「太平洋艦隊」でOK (「Тихоокеанский Флот」を訳しても「極東艦隊」にはなりません) 太平洋戦争時と言っても、1941年と1945年ではかなり差が有るので、 1945年初頭の時点のおおよその艦艇数 巡洋艦2隻(18センチ砲9門) 駆逐艦10隻程度(嚮導駆逐艦1隻、中型駆逐艦9隻程度) 海防艦6隻 潜水艦60隻弱(ほとんど沿岸用小型潜水艦) 巡洋艦2隻は、1942年末と1944年末にアムールで竣工した艦であり 太平洋戦争開始時には無かった。 この他、太平洋艦隊から北洋艦隊に転属した駆逐艦や潜水艦もあり 1945年初頭では、これくらいの規模になっていた。 #right(){(343:831)} **第二次世界大戦で,ソ連軍の死傷者数は1000万超と群を抜いて多いわけですが,どうしてでしょうか?  日本の死傷者数が,終戦間際の無謀な作戦に比べると少ないように感じるのは,もともと外地で戦ってて,守備隊が全滅した時点で終わるからです.  沖縄戦を本土でやったらどうなるかを考えてみてください.ソ連と大差無いレベルまで死傷者は増えるでしょう.  人口が違うので1000万は超えないと思いますが.  膨大な餓死者や病死者が発生したというのもあります.  独ソ戦の初期には十万単位でソ連兵が捕虜になったが,鉄条網で囲んだだけの野っ原に閉じ込めてまともに食糧を与えなかった.  あまりにも多くの捕虜がいて,ドイツ軍の補給・管理能力を超えていたのと,どうせスラブの劣等人種だからと捕虜の待遇はほとんど考慮されませんでした. そのため人肉食が起きるほど,捕虜の食糧事情は悪化しました.  医療活動もまともに行われず,衛生状態も最悪だったので,疫病などが発生し,それによる死者も多量に出ました.  さらに戦場となったのがロシアの農村地帯なので食糧供給が極度に悪化し,独ソ双方がとった焦土戦術が追い討ちをかけて民間人も大量に死にました.  さらにまた,開戦前の大粛清で優秀な指揮官がソ連軍には不足してたことと,開戦後の大敗北とで,兵士が大量に失われました.  開戦当初のキエフやヴィヤジマ・ブリヤンスクの包囲では数十万人が一度に捕虜になっています.  開戦から数ヶ月で100万以上の戦力が失われ,12月にはモスクワ直前までドイツ軍が迫るって状況.  初期のキルレシオは20:1を超えていたと言われます.捕虜も死傷者に含めたら比率はかなり増加するでしょう.ソ連がドイツを押し返してベルリンに迫っていく頃になって,やっと同じくらいになりました.  後半は多少マシになったとはいえ,前半はとにかく数でドイツ軍の進撃を食い止めるしかありませんでした.  そこで根こそぎに近い動員を行い,新兵をろくに訓練もせずに戦場に投入しました. (そうでもしないと質的に優れたドイツ軍に対抗できなかったという事情もありますが)  田舎の村から成年男子を「志願」させ,前線近くまで連れてきてから銃の撃ち方だけを教えてそのまま突撃→機関銃の餌食なんてのは日常茶飯事でした.  この傾向は終戦まで続き,ソ連軍の損耗率はドイツ軍と比べて段違いに多かったのです.  例えばノルマンディ上陸作戦の時,ドイツの軍服を着たアジア人が一人捕虜となっています.  最初は日本兵かと思われましたが,調べたところ中国国境近くのチベット系遊牧民と判明.  東の果てでソ連軍の兵士として引っ張られてモスクワ前面で捕虜となり,その後ドイツ軍に志願してノルマンディで勤務してたことが明らかになっています.  それくらいてんぱった状況だったわけですね.  日本軍のほうは,大戦末期で大変だ大変だといわれながら,訓練はできる範囲でしていたようですね. **シベリヤに抑留された枢軸国捕虜が強制された無償労働は、ソ連にどれぐらいの経済効果を与えたのでしょうか? とりあえずドイツ人捕虜は6億8600万労働日の労働をこなし、その収入は111億ルーブル。 但し、食事、宿泊などの経費が133億ルーブルかかっており、差し引き22億ルーブルの赤字 と言うことになっています。 また、このほか、100の科学・技術上の新案を獲得しました。 #right(){(365:393,眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソ連が、占領した国の国民の大半を追放か殺した事があると聞きましたが、本当ですか? バルト三国では、元々多数派だった彼らを辺境に追放したり、粛清したりして、 代わりにロシア人を入植させた為、人口比がほぼ拮抗する状況になっていたりしています。 今は、自国民の優越を巡って、ロシアと緊張関係にあったりします。 #right{(358:292:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソ連軍がパラシュート部隊にパラシュートなしで降下させたことがある,というのは本当か?  本当です.  この話は,高橋慶史著『ラスト・オブ・カンプフグルッペ 続』(大日本絵画)で詳細が判明しました.  これは1942年2月のモスクワ南西200kmのユーフノフ付近でのソ連軍降下兵の話.  湿地帯の雪の上に高度約10mで低空飛行した輸送機から約千人の降下兵が飛び降りて,半数が骨折もしくは負傷.  残りの兵士も湿地帯で動きが取れず,作戦は失敗したとの事です. (名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE) **WW2時のソ連が火砲や戦車などの分野においてドイツ以上の基礎技術力を確保できていた理由は何なんでしょうか? そもそも、ロシア帝国の時代からロシアの技術力はそんなに低くはない。 ただ、農業主体の経済剤構造だったロシア帝國ではそれを活かす先が余りなかった、と言うだけ。 それと、主に貴族と皇族の装飾品を作るための技術から、金属の加工技術に関しては欧州の国の 中でも高いレベルにあった。 それを工業生産技術の方面に活かすには需要も産業もなかったと言うだけ。 ということで革命起こす前の国家のレベルがそれなりに高い訳だから、革命の混乱による人材の 流出や革命干渉戦争による国土の荒廃はあっても、ソビエトとしての体制が確立した時点で それなりのレベルを保っている。 #right(){(555:420)} **ソ連はイギリスのために何かしたんですか? >英ソ相互援助協定とかいって。イギリスがソ連に物を送ったのは知ってますが 小麦やら肉やらを送ってる 援助とはいいながら実体はバーター貿易に近い でもって英国に食料を送る必要からソ連国内では深刻な配給不足が起き100万人単位の餓死者が出た #right(){(570:53)} **ソ連は何であんなに兵士が多かったんでしょうか >1950年ごろのロシア(ソ連全体ではなく)人口が1億人強、日本の人口が8千万人強なんですがなんであんなに兵士数が違うんでしょう 今の北朝鮮と同じで、ある種の戦時体制だから。 ただ、ソビエトの場合(ソビエト以外の社会主義国家でも同じようなものだが)、 最新鋭の装備を与えられてフルタイムで勤務している「軍人」は総兵力の3分の1 程度(いくつかのカテゴリーに分けられてた)で、残りの3分の1は一世代前の 装備を与えられていて、編成も後方支援や後方治安維持に軽度化された二線部隊、 残りの3分の1は編成上だけ存在してる予備部隊で、基幹要員の他はトラックさえ 定数が配備されてなかった(戦時には民間のトラックを徴用して装備する)。 将校下士官も予備役の人が動員されることになっていて、「師団長代理」一人と 事務要員が数人いるだけ、武器は大戦時のデッドストック・・・というのがほとんど だったり。 なので実際の「軍事力」としての部隊は全体の三割ぐらいで、これでも相当な数だが ソビエト政府の公式発表ほどには兵力はなかった。 #right(){(339:638)} **WW2でアメリカやイギリスの援助がなければ、ソ連はドイツに負けていたのですか? 米ソの出会いが、エルベ川で無く、オーデル、ナイセ線になるくらいだな。 独ソ戦が始まってからしばらくして、伍長閣下曰く 「ソ連に戦車がこれほどあると知っていれば、私は戦争など始めなかった」 戦争初期でこれだから、後はお察し下さいとか。 #right(){(創作質問スレ50:369-370)} **ジューコフとかそういう将軍が出てくるまでのソ連軍の戦術は >その辺の農民等を連れてくる→武器を持たせて突撃(逃げる奴は督戦隊の政治将校が射殺) >だったという話を聞いたのですが本当なのでしょうか。 ほぼうそ、トロツキーがロシア革命とその後の内戦の中で 赤軍(ソ連軍)を作り上げている。 また、トロツキー失脚後もトハチェスキーが 赤軍を再編し機械化された近代的な軍にしている。 ただ、スターリンの大粛清によって軍に有能な人材がなくなり 一時期は突撃以外の戦術が指揮官によってはほとんど使えなかった時期もある。 具体的には1937~8年の大粛清から大祖国戦争のスターリングラード開放ぐらいの時期になる。 #right(){(585:526)} **ソ連軍てドイツ相手になんで途中からあんなに強くなったんですか 緒戦の大損害を受けた時の生き残りが再編成で各師団の中核として配置されたり、 2年目以降、ソビエト軍指導部が、むちゃな死守命令をださず、後退を認めてたりす るように融通が利いてくるようになったから。 また、レンドリースが届いたり、ウラルの奥に疎開した兵器生産工場がフル稼働を始め、 兵器が潤沢に供給されるようになったから。 2年目以降は毎週のように編成される戦車旅団の情報を伝えられたヒットラーがこれは欺瞞情報だと 判断するくらい兵器生産が軌道に乗っている。 #right(){(596:981)} **スターリンは軍事的な専門教育を受けていないのにもかかわらず、専門者が設計した多砲塔戦車や多砲身戦車の限界を見抜いていたのですから、軍事的な天才だったのですか? 彼についてはガチガチの質素倹約を良しとすると言う考え方を戦車にも当てはめたらしく それが戦車の設計をシンプルにする考えに辿り着いたとされている。 他方、T34の試作段階で転輪で走行する構造を廃止することも容認しており、主砲強化と 装甲強化こそが重要と言う発想があった可能性もある。 また、当時のソ連には、なぜか戦車開発に干渉する砲兵総監がおり、新型戦車の初期トラブル を改設計しなければならない時期に主砲の強化を要求することが慣例化しており、新型戦車は 不具合が多いかわりに早期に初期バージョンより主砲が強化されている。 なお、独ソ戦の緒戦については、彼の意識は縦深防御で固まっていたのに、前線の指揮官が 国境付近で押し返してポーランドで決戦する気になっていたので、総崩れになったと言うのが 最新の研究だったりする。 まあドイツ側もスモンレスク決戦の意図を理解せずイェリニア村の全滅とかやらかしてるので 前線指揮官の無理解は仕方が無い。 #right(){(617:854)} **ソ連の第二次大戦での戦死者が時代を経るごとに増えているのは何故? 資料の公開がソ連崩壊後に進んだから。 単純に何人死んだか確認取れなかったから。 戦線が流動的に動いているし、初期の劣勢時は戦闘要員とも言えない様な子供や老人を片っ端から動員している。 更に戦況が優勢に傾くと今度はドイツに付いたり、協力した反動分子の抹殺をしたり。 こんな状況では正確な戦死者数を数える事など不可能。 だから時間の経過で情報が整理されていくにつれて、どんどん増えていった。 #right(){(312:86,87)} **独ソ戦の時のロシアマフィアの活動について教えてください >前線で祖国の為に戦っていたりしたのでしょうか? ttp://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Mafia#History ttp://en.wikipedia.org/wiki/Thief_in_law ttp://en.wikipedia.org/wiki/The_Bitch_Wars 独ソ戦中に刑務所や矯正収容所に収監されていたマフィアの一部は、刑期の短縮と引換えに兵士として従軍した。 戦後彼らは元いた収容所に戻されたが、政府に従わないという掟を破った裏切り者「スーカ(雌犬)」として残った マフィアの囚人達から虐待された。 スーカ達も収容所の管理に協力することで生き残りを図り、収容所内でマフィアと激しい内部抗争「雌犬の戦い」を行った。 #right(){(641:950)} **ソ連軍は、なぜ人海戦術をとったんですか? ソ連軍の作戦で人海戦術と呼べるような物が行われたのは、第一次ソフィン戦争(いわゆる冬戦争)と 独ソ戦の序盤のみです。 この頃の赤軍は、粛清によって士官が不足していました。 第二次大戦期の軍隊は(現代もそうですが)30~40人程度の小隊を分隊支援火器を中核とした10名 以下の分隊と軽機関銃によって火力支援を行うグループに分け、機関銃掃射や榴弾砲で一掃される事 が無いように分散して行動する事が常識化していましたが、当時のソ連軍は士官の不足からこのような 戦術を採る事ができず、中隊(200人規模)が一丸となって突撃するという、19世紀のような戦い方しか とれないような状態になっていました。 独ソ戦以降、この状態は改善され、ソ連軍は物量を生かした火力主義・包囲殲滅主義に基づくドクトリン を完成させた事もあって、このような稚拙な戦術を取るような事はなくなりました。 なお、人海戦術とは本来は、毛沢東の提唱したゲリラ戦術であり、敵の拠点を自軍シンパの住民で取り 囲み、孤立させる事を「人民の海に敵を埋葬する」と表現した事に由来します。 これが数に物を言わせた無策な突撃戦術の代名詞となったのは、ソフィン戦争当時のソ連軍のように、 20世紀型の軍隊を組織できていなかった朝鮮戦争時の共産党軍の様相が広く知られるようになった ためです。 #right(){(647:188)} **モスクワが堕ちてもロシアはまだ抵抗を続けてましたか? 続けました。 1943年夏まで、臨時首都に移転していました。 「独ソ戦時、クイビシェフはモスクワがドイツ軍に占領された場合のソ連の臨時首都候補に選ばれた。 1941年10月にはソ連共産党幹部、政府機関、各国からの外交官、文化人などがスタッフとともにクイビシェフへ避難した。 (中略) 1943年夏までクイビシェフはソ連の臨時首都となっていたが、モスクワへのドイツ軍の脅威がなくなったため、 同年首都機能はすべてモスクワへ戻されている」 下記、ウィキペディアのサマーラのソビエト時代 を参照ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9 #right(){(648:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)} **ソ連軍の第一線は軍規が良好だったって本当ですか? 良好でした。理由は政治委員が配属されていたからです。 彼らは裁判などの手続きなしで軍将校をも射殺できる権限がありました。 よく話題になる略奪などは政治委員の配属されていない後方部隊やパルチザン のしわざのようです ドイツ軍の捕虜を殴り殺そうとする兵士たちを政治委員が制止して助かったと いう事例は多そうだな。パウル・カレルの本にも記述がある。 もっともその後に尋問やらシベリア送りが待ってるわけだが 軍規の塊みたいな政治委員だが、それが恨みを買ったりしてるよな ソ連歩兵が部隊ごとドイツに降伏するときに真っ先にしたことは政治委員を 全員射殺することだった。政治委員は投降など絶対に許さないからな 政治委員自体捕虜になれないから死ぬまで戦う #right(){(662:379-392)} **ソ連兵の「銃は二人で1挺」突撃は史実なのでしょうか? その映画はちゃんと見ていないが、WW2時のソビエトに関して言うなら事実だろう。 酷いのになると、スコップや木の棒を持って突撃させられる。なんて実話もあった。 独ソ戦前半の師団どころか軍単位で部隊が壊滅した状況で、なりふりかまわぬ動員で急遽編成された部隊においてはそんな感じ。 大戦後半ではアメリカからの大量の物資供与や兵器の大増産で装備は充実していった。 ただし兵員の損耗率が非常に高かった為、終戦まで定員を充足していた部隊は少なかった。 むしろ大戦末期のドイツ軍において、空襲による工場の壊滅や鉄道・道路の破壊による輸送の混乱で装備が足りない部隊が続出していた。 #right(){(294:101-102)} **第二次世界大戦時のソ連は銃を2,3人に一挺だったっていうエピソードが,映画「スターリングラード」にありますが,これは独ソ戦全体を通してのことだったのですか?  独ソ戦初期の戦闘態勢が整わなかった時は,ソ連軍ではどこもそんなものだったらしい.  独ソ戦後半にはウラルの東に移転した工場が生産を増強し,さらにアメリカからの支援物資の輸送が順調になってきたので兵器不足は解消されている. 「ロシア兵はアメリカ製の生地で作られた軍服を着て,アメリカ製の靴を履き,アメリカ製のコンビーフを食べて,アメリカ製のトラックに乗って戦う」 なんて言われたくらい.  前半の損害について言えば,大量の兵員を損失したことの方が響いていて,戦争終結まで多くの部隊は定員を充足していない状態で戦っている.  戦争末期にはドイツ軍の方の兵員及び武器弾薬の不足の方が深刻で,国民突撃隊などはそれこそ三人に一丁の銃で,それもイタリア軍からの鹵獲品.  しかも,しばしば補給された銃と弾薬の規格が合わないなどという状況もおきている.  ダンケルク撤退後の英軍も火器不足が深刻で,急造型短機関銃を作って(それがステン・ガン)みたり,槍で武装したり. **ソ連兵は文盲が多かったて本当? 当時のソ連は全体からすれば、小学校すら設置されてない 遅れた地方ってのが多く、多数を占める農村の子弟らも 学校に行く生活的余裕もなかったために、教育を受けられず 文盲が多かった時代ではあったのは事実 今の中国みたいな状態 アメリカの場合も一部貧困層は(今でもだが)経済的な理由で学校に行けない あるいは行かないので、米軍兵士には文字が書けないってのはいた だが、これは移民の子供という背景も多く、親の母国語の読み書きは親から習ってできるけど アメリカ国内公用語の英語ができないっていう複雑な状態の人も結構居たりする ソ連も同様で、多民族国家なので共通語を習得してないって人の割合も多く、 これが識字率の低さにも一応繋がってはいる とりあえず識字率のデータ http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/46/shiokawa/hyo1.html 表2 民族別の識字率の変遷を参照 ちょうど1939年のがある 民族にもよるが、70%ちょっと… 全体の平均では89%… 「意外にも高い」とみるべきか「3割から2割も文字が読めないということ」と見るべきか #right(){(664:148-162)} **WW2でソ連は人海戦術で勝ったんですよね? ソ連軍のは人海戦術じゃない。 人海戦術ってのは、毛沢東の造語で、「人民の海に敵軍を埋葬する」戦略のこと。 ソ連軍の攻撃ドクトリンは、トハチェフスキーの縦深攻撃をベースにしたもので、 広範囲かつ数段にわたって攻撃を継続することで防衛側を拘束し続け、 ほころびが見えた箇所から一気に突破するというもの。 攻撃が阻止されても攻撃し続ける必要が出てくることから、一見無理押しに見えるし事実そうなんだけど、 全体から見るとそれも必要なのね。 タンクデサントについても、戦車・歩兵直協ってのはWW2の課題で、 結局大戦中に結論は出ていないと見る。 結局、ソ連は大の虫を生かすのに小の虫を殺すことをためらわなかった、ということではないかな。 #right(){(672:334)} **ソ連の対独先制攻撃計画について教えて下さい ソ連の対独先制攻撃計画は、80年代に当時の西ドイツで騒がれ始めた説ですが、証言者や物証がありません 当時の参謀次長の個人文書の中から、スターリンに提出するつもりの「対独攻撃計画意見具申書」の、 草稿が見つかったのみで、実際に提出されたのか、またそれに対してソ連政府(スターリン)が どうしたか等の公式文書なりは見つかっていません また、ドイツ側の対ソ戦決定に関連する公文書は多数残されていますが、 「ソ連が対独先制を決意しており、ドイツはそれを知っていた」を記録した物も見つかっていません ソ連の対独侵攻計画について詳細に触れた本は「砕氷船」という本だと思われます。 著者がソ連からの亡命将校(GRU所属の佐官)であることもあって、ドイツ系の書籍では大きく扱われることが多いようです。 「砕氷船」は未見なので明確に言えませんが、「知られざるスターリン」等、ロシアでは否定的に扱われているようです。 「対独攻撃計画意見具申書」(独及びその同盟国に対する戦争の為の戦略開進計画)によれば ・支攻撃をジードルチェ、デンブリン方面に加え、ワルシャワ近郊に独軍を拘置する ・スロヴァキア国境に近いボーランド南部をクラカウ方面に進み、ドイツと同盟国を分断した後北上し、ポーランドに展開している敵軍を包囲 ・フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、東プロイセンに対しては防御 ・作戦には303個師団、砲兵74個連隊、218個飛行連隊を使用 と、なっていて開戦時期は記載無し ソ連が41年7月に対独開戦を予定していた、いや43年だった等の説が出ています が、それを肯定・否定する確証は出ていません また西部に防衛するだけにしては多すぎると思われる部隊を配備していましたが、 それが侵攻用だったという事を肯定・否定する確証も出ていません 結果、「そうだったかも知れないけど、証拠は無い」という状態です #right(){(117:33-71)} >なんでもルーマニア方面からヨーロッパに侵攻するつもりだったとか。 ポーランド戦より前の独ソ不可侵条約締結前、英国とフランスはポーランドに ソ連軍を引き入れて、ドイツ軍と戦わせようとしていました。 結局、ポーランドの反対で流れましたが、その辺の事情もあったのではない かと…。 #right(){(117:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **カチューシャ等、zisトラックを改造して作ったソ連の戦闘車両は、終戦までにどれほどの数が作られたのでしょうか? 意外に少なくて、カチューシャとしては500輛程度。 82mmのものを含めると1000輛くらいはいくかもしれませんが。 カチューシャトラックのベースは米国製のスチュードベーカーが多かったりします。 #right(){(271:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ポーランドに侵攻したドイツは英仏から宣戦されてますが、何故ソ連は宣戦されなかったのでしょうか >大戦の初頭でソ連はポーランド東部を攻撃し分割併合してますが、当時英仏とポーランドは同盟してますよね? フランスは宣戦するつもりだった。 だがその作戦というのがフィンランドと同盟し、北からフィンランド軍が、南からは中東経由で英仏軍がソ連に侵攻。 モスクワを攻略してフィンランドと握手、という仮想戦記も真っ青な内容だったためイギリスが載らなかった。 さすがにソ連まで相手する余裕もないし。 #right(){(268:878)} **独ソ戦の際に、ソ連に徴用されていたコサックなど少数民族がドイツ軍へ寝返ったようなケースがあるらしいと聞いたのですが、 >これは組織的に行われていたのでしょうか? あと、これらコサック兵の戦後はどのようなものだったのでしょうか? 基本的にはケースバイケース。 しかし共産主義体制下で抑圧されていたイスラム系や、一旦独立後に再併合されたバルト三国などでは当初はドイツ軍を 解放者として歓迎したものも多かった。 またロシア人やウクライナ人のなかにもドイツ軍を歓迎した者もおり、独ソ戦当初には政治士官を殺害して部隊ごと投降する 場合も多かった。 これらの人々がドイツに解放者としての期待を抱き、それが裏切られていく過程はJ・トールヴァルトの「幻影」(絶版)に詳しい。 これら対独協力者の運命だが、ほとんどが処刑もしくは流刑された。 西側に投降した人々も米英がソ連と結んだ協定により引き渡され、ソ連に送られるよりはと部隊単位で焼身自殺したケースもあった。 イスラム系民族ではチェチェン人やイングーシュ人、クリミアタタール人などはその多くがシベリアや中央アジアに流刑されている。 その後にロシア人が入植し、これがソ連崩壊後大きな問題となっている。 チェチェン紛争もその原因の一つがこれである。 #right(){(129:172)} **第二次大戦中のソ連軍の歩兵師団の構成ってどんな感じだったか教えてくださいまし ソ連軍は三単位編成を取ろうとしていましたが、それまでは四単位編成を取っていました。 このため、数的には19,000名で編成されていました。 三単位編成を取り入れたのは、1941年4月からでこの時の定員は14,483名になります。 しかし、再編成完了前に、独ソ戦が勃発。 独ソ戦初期の人的損害の大きさから、1942~43年頃には10,000名前後になってしまって います。 これが、19,000名に戻るのは大戦末期になります。 ソ連の1941年4月現在の歩兵師団(狙撃兵師団と一般には呼ばれていました)の編成は、3個狙撃兵連隊 と2個砲兵連隊、1個対戦車大隊、1個対空大隊になっていましたが、人的損害多数の結果、そう言った編成 を取らず、3個狙撃兵連隊はそのままで、1個砲兵連隊、1個対戦車大隊、1個偵察中隊、1個工兵中隊、1個 通信中隊とした編成になっていました。 狙撃兵連隊は、連隊本部の下に3個大隊の狙撃兵大隊があり、支援中隊として、対戦車砲中隊、対戦車ライ フル中隊、榴弾砲中隊、迫撃砲中隊がありました。 この連隊の編成定数は、2,474名と他国よりも少ないですが、これは補給部門を軽視していたからと言えます。 狙撃兵大隊は4個中隊で編成され、3個中隊が狙撃兵、1個中隊は、支援のための迫撃砲、機関銃中隊でした。 #right(){(262:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソビエトは大戦中にM1バズーカやパンツーファウストのような対戦車ロケット兵器の開発・生産は行っていたのでしょうか? ロケットの開発は行なっていましたが、対地ロケット、航空機用ロケットの開発が主で、 歩兵用対戦車兵器としての開発には余り重点を置いていません。 パンツァーファウスト60を鹵獲し、それを研究した後、コピー品をRPG-1、改良して、RPG-2 として生産し、最終的にRPG-7に至っています。 #right(){(144:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **二次大戦時のソ連のパイロットですが、軍に入隊する以前からパイロット職についていた人間がそれほど多い国とも思えません。 ソ連の空軍の基礎は、1920年代、ヴェルサイユ条約によって軍備を制限された ドイツ軍との秘密協定により、お互いのノウハウを提供しあって誕生したものです。 民間航空部門であるアエロフロートもその前身が1923年に誕生し、1932年には正式に国営会社になりました。 ですので、各国と比較しても、英仏米は別格として、軍民共に航空分野における人的資源の養成に それほど立ち遅れたわけではないと言えるでしょう。 もちろん、パイロットには、そうなるための適正が必要であり、その選抜にも恐らく抜かりはなかったでしょう。 ところが、赤色空軍がダメダメになってしまう一大事件が起きます。 そう…スターリンによる粛清の嵐です。 当然、幹部クラスの空軍軍人も多数が粛清の嵐に巻き込まれますし、 事故が起こったり、設計のミスが見つかれば、事故を起こした当事者や 設計者など関係者が反政府分子に祭り上げられ、強制収容所送り…。 ま、そうした体質を話半分と見ても、パイロット養成やら、新鋭機の開発、 航空戦術の発展にブレーキが掛かったのは否めないでしょう。 ちなみに、国営企業時代のアエロフロートは戦時には、空軍の輸送部門に組み込まれました。 戦闘機など小型機のパイロットはなかなかつぶしが利かないでしょうが、 大型機の取り回しに慣れたパイロットなら、アエロフロートで採用された可能性が高かったと聞いています。 #right(){(235:566)} 民間には多数の飛行クラブがあり、また、農業の機械化という形で、農業機パイロットも 多かった訳で、軍人以外にも多数の操縦経験者がいます。 大体、Po-2だけで、1941年6月22日までに13,500機生産されているわけで。 戦後、彼等のうち、生き残った者は軍用機パイロットとしてそのまま留まったものも 居ますし、民間に戻っても、飛行クラブの教官とか、農業機のパイロットとか、職は 色々ありました。 #right(){(235:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソ連参謀次長の個人文書の中にあった「対独先制攻撃計画の草稿」以外に何か、ジューコフがスターリンに計画を提出した証拠は出たんでしょうか? 「ソビエト国軍の戦略的展開に関する意見書、人民委員会議議長宛、一九四一年五月付」 というジューコフの手書きになる文書が人民委員会議議長=スターリンに提出されています。 ティモシェンコ元帥の連署になるジューコフの手書き文書で、 152師団による即時攻撃(ただし即時といっても7月)を提案していました。 まあ、これに対して、スターリンが無視したのか、 それとも秘密裏にその計画に沿った準備を進めていたのかってのが、 前スレでの議論ということになります。 学研の『独ソ開戦』や『詳解 独ソ戦全史』を参照。 #right(){(178:201)} **独ソ不可侵条約はドイツはニ方面からの攻撃を避けるためなのでしょうが、ソ連はどういうメリットのためでしょうか? 領土的問題(ポーランド、バルト三国、フィンランド)というものもありましたが。 それよりも、ソ連から見て、西側諸国が一致団結して、ソ連に侵攻するのが一番避けたい事態 でした。 1918~20年代初頭に掛けての干渉戦争に対する恐怖が首脳陣に根強くありましたし。 従って、西欧諸国の一角であるドイツがソ連と不可侵条約を締結してくれると言うことは、 英仏と合わせて自国を侵攻する懸念が払拭出来ると考えた訳です。 とは言え、第二次大戦が勃発して英仏との間にファニー・ウォーの状態だった時、ソ連 首脳は英仏独三国が共同してソ連に侵攻するのではないか、と考えていましたけどね。 #right(){(180:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ソ連は、モロトフ=リッベントロップ協定以前からバルト三国に対して具体的な計画を持っていたのでしょうか。 元々、1919年の時点で、各国ともBolshevikによる革命政府と白衛軍との内戦を経験しています。 もし、ドイツ軍、英国軍、フィンランド義勇軍などの援軍がなければ、カフカス諸国の様に併合されて いた可能性が高いと言えるでしょう。 #right(){(199:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **アメリカからソ連にレンドリースされた兵器って何があるんですか?  有名なのは ベルPー39 エアラコブラとその改良型P-63 キンブコブラ。  アメリカでは日本にボロボロ落とされまくった駄作機扱いだが、ソビエトに送られた ものは大口径機関砲を生かして対地支援に活躍した。  他にもB-25やC-47、陸ではM4A2シャーマン(シャーマンのディーゼルエンジン型)、 M2/3スカウトカー等。 JEEPもいくらかは供与された筈。 ソビエトは勝手にコピーして自国仕様を生産して、そっちが大量に使用されてるけど。 他に有名なものではM3リー戦車かな。 もっともこれはロシアの平原地帯で使うには背が高過ぎてドイツ軍対戦車砲のいい的で、 「7人兄弟収容自走鉄製棺桶」 というイヤーンな仇名をつけられたとか。 #right(){(199:864-867)} 艦船ではタコマ級フリゲイトやリバティ輸送船など。 余談ですが、ソ連から返還されたタコマ級フリゲイトは再整備の上日本に借与されて "くす"型PFとして創設間もない海上自衛隊で使用されました。 #right(){(199:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} 米国は、1941年から1945年6月にかけて、16,651,000tの資材、貨幣換算で、9,119,204,000ドル分のものをソ連に 送っています。 陸軍装備の場合は、トラック400,000台、野砲牽引用トラクタ(インターナショナル・ハーベスタTD-14が代表的)、 タンクポーター、偵察車、ハーフトラック、戦車などありとあらゆるものが含まれています。 なお、トラックの1/4以上は2 1/2t積6×4または6×6のスチュードベーカーで、これは有名なカチューシャ用の 車台としても用いられています。 スチュードベーカーは他に5t積6×4(セミトレーラ付きのトレーラトラックとして)が供給されてます。 残りは、ジープ、ダッヂのウェポンキャリア、シボレーとダッヂの1 1/2t積4×4トラック、GMCの6×6、MAC、 マーモンハリントンのダンプとレッカー用6×6などでした。 一時期の東部戦線の一部では、実に赤軍補給車の半分以上が武器貸与トラックでした。 ちなみに、ジープは1942~43年に掛けて、20,000台以上のバンタムまたはウィリスが供給されたほか、フォード GPA、所謂、水陸両用ジープも大量に供給されています。 これらの車輌は、部品状態のまま、ペルシャ湾経由でイランに運ばれ、コーラムシャールで陸揚げされて組立て、 そこからイランを北上してソ連に入っています。 後、戦闘兵器ではありませんが、1942年10月に遊休化していたフォードのタイヤ工場を買収してその工場設備を ソ連に運び、其処に設備を設置して、年間100万本の軍用車のタイヤを生産したりもしています。 海軍には、Tacoma級フリゲートの他、Omaha級軽巡洋艦Milwaukeeが1944年に貸与され、 1949年まで用いられています。 同じ時期に、平甲板型駆逐艦(英国に貸与された50隻のお下がり)が9隻、1944年に貸与され、 これらは1952年まで用いられた上で返還されました。 このほか、YMS級掃海艇31隻、70ft級PTボートが140隻、78ft級PTボートが53隻、80ft級PT ボートが60隻、SCクラスの駆潜艇138隻が引き渡され、SC級の一部は1955年に漸く返還され ました。 航空機では、P-39各型が4,924機、P-63各型が2,421機、PBY各型が189機(他にLicense生産 もあります)、B-24Dが1機、O-52が19機、P-40Bが24機、P-40Cが195機、P-40E以降各型が 2,097機、C-46が1機、C-47が709機(License生産が他にあります)、A-20Bが665機、A-20C が48機、A-20G以後の各型が3,125機、B-25B/D/G/Jが862機、P-47Bが203機、P-47Dが 203機が引き渡されています。 #right(){(199:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ヒトラーは「そのうち人材が尽きる」と言っていたようですが、終戦時の赤軍の主な兵力を教えて下さい。 1945年の年平均(1~5月)戦力が633万人。最大約1,000万人まで動員可能。 終戦時の戦車・自走砲の前線配備数が8,100輌(後方配備を含む総合計が3万5,200輌) 大砲・迫撃砲の前線配備数が9万4,400門(同32万9,600門) 軍用機の前線配備数が2万2,300機(同4万7,300機) ベルリン攻略戦だけでも3個正面軍250万人が参加…。 #right(){(212:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **ソ連の対日宣戦はどのような手続きで行われたのでしょうか? 駐ソ大使佐藤尚武がクレムリンに呼びつけられたのがモスクワ時間八月八日午後五時すぎ。 (日本時間午後十一時過ぎ) 面会したソ連大使モロトフはその場で対日宣戦布告文を朗読して佐藤大使に手渡してます。 内容的には 「日本がポツダム宣言受諾を拒否したことでソ連の和平仲介は意味を失った。 ソ連政府は連合軍諸国の要請するところに従い、無条件降伏を拒否したことで ドイツ国民が味わった危険と破壊から日本国民を回避させるために日本と戦争状態に入る」 と言った主旨のものです。 佐藤大使は即この内容を東京に打電しようとしますが、大使館の電話回線はすべて切断されて 折、無線機すらGPUに没収されていました。 このため、通常の国際電報を使用して東京に打電することになってしましました。 総指揮官ワシレフスキー元帥が全軍に命令を出したのは(日本時間)八月九日午前零時過ぎでした。 #right(){(206:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **ソ連は何故WW2で砲兵を大量に運用したんでしょうか? 自軍の損害を減らすには火力支援が最も効果的だが 他国が航空隊の地上支援で砲兵を代替できると考えたのに対して、 冬将軍や春の泥濘で常に航空隊に頼れる訳でないソ連では、砲兵が最も頼れる火力支援だったから #right(){(俺初質スレ436:601)} ----

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