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日本側」(2012/02/20 (月) 16:38:08) の最新版変更点

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#contents ---- **“打通”って何ですか? 太平洋戦争当時の日本は中国を相手にも戦争していたわけですが、 都市とその周辺の点と線を維持していたに過ぎませんでした。 ところが、B-29が重慶などに進出するに及び、日本本土、満州空襲の可能性が増し、 昭和19年に、中国南北の交通を確保し、重慶軍を撃滅、B-29が使う可能性のある基地の占領を目的として、 一つの作戦を立てます。 これが、一号作戦またの名を大陸打通作戦と呼ばれる作戦です。 参加兵力約41万、自動車12,000両、馬匹67,000頭、作戦距離約2,000キロという支那事変以来の大作戦で、 一号作戦(大陸打通作戦)の目的は達成されましたが、何ら戦局に寄与することの無かったものでした。 #right(){(23:眠い人 ◆ikaJHtf2)} 突破すること。普通は大陸規模の表現で使われる。 #right(){(23:282)} 大陸打通作戦の第1の目的は、 近未来的に 南方資源地帯と本土を結ぶ海上輸送路がカットされる、 もしくは多いに輸送が妨害される ことが予想されるので、 陸上輸送路を開通(打通)して (インドシナから韓国までえんえんと中国国内を通って続くわけですね) 海上輸送路の代わりとする と言う作戦。 補足して言うと、海上輸送と陸上輸送のコスト比較は、海上のがずっと有利。 (沈められなければ) 鉄道はかなり優秀だが、海上の比では無い。 自動車となると、ずいぶん高コストになって来る。 #right(){(41:574)} **日中戦争の日本の目的ってなんだったんですか? 1. 満州の先にある広大で肥沃な土地を日本の独占市場にして、少々の   不況に負けない国と言うか、蒙古~中国~朝鮮~日本~台湾を結ぶ、   円貨経済圏を作ること。 2. 人口の大半を占める貧農を中国大陸に移住させて、人口問題の解決を図ること。 大きくはこの二つだったかと。 #right(){(53:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日中戦争での日本軍側戦死者は?  厚生省のデータでは戦死者18~19万人ぐらい.  ただし,このデータは純粋な戦没者だけと思われる.  研究者の三野氏によると,戦死者,行方不明,戦病死者,二度と軍務に復帰できない重症者をカウントすると, 12年5,1万人 13年8,9万人 14年8,2万人 15年4,2万人 16年4,1万人 という数字.合計 30,5万人.  当時の日本の常備軍が70万人ぐらいだから半分に近い.  ちなみに,べトナム戦争のアメリカの死者はすべて合わせても5,7万人.  昭和12年ぐらいから戦費はうなぎのぼり.大変な国力の消耗であった.  それでいて大東亜戦争始めちゃう.  海戦が主であるのに,予算は半分こ.  東条なんかは 「太平洋は,海軍の担当」 などとほざく始末. (軍事板) **日ソ関係が悪化し始めたのは,いつ頃からか?   1920年代の日ソ関係は普通に安定していた。  当時のソ連内部では,東支鉄道を中心とする北満の勢力範囲を維持できるなら,日本の南満支配を認めるのもやむなし、という空気が強かった。  これが悪化するのは満州事変で反共を掲げる「満州国」が成立し、日ソが緩衝地帯を失って直接国境を接するようになってから。  要するに満州事変をやった結果,ソ連は極東地帯に初めて本格的に関心を寄せるようになった、ということ。  事変以後に急増するようになる極東赤軍の配備状況がそれを端的に現している。  第一この時期のソ連は干渉戦争や内戦からの復興問題もあって,あまり積極的な膨張主義的姿勢を取ることを避けており、それが膨張主義剥き出しの姿勢へ変化するようになるのはまだ先の40年代以降のこと。 (名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in コヴァ板) **中国のwikiを見ると日中戦争で日本の将官が沢山死んでいますが、これは本当なのでしょうか? http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%97%E6%97%A5%E6%88%98%E4%BA%89_%28%E4%B8%AD%E5%9B%BD%29 中国版Wikiの記述は戦死して昇進した大佐を少将としたり、病死、事故死、自決した将官を戦死としていたりと 記述に誤りが多くあります。 しかも一覧の最後に「以上戦闘による死亡のみで、病死や自殺は含まない」とわざわざ、但し書きが付いています。 おそらく戦果の水増しを狙った確信犯なのでしょう。 支那事変スレ5の472以降で詳しく検証されていたので、参考にしてみると良いでしょう。 http://kamisato2.hp.infoseek.co.jp/china/log/1156432384.html なお検証の結果、「戦死した将官」と断言できるのは9人ほどになります。 中国版wikiだと40人以上になっていますが(w しかし大戦中、病死、餓死を省くと支那戦線の死傷率が最も高いとされています。 生前が大佐となると大体、連隊長クラスとなりますが、その辺りの戦死者が非常に多いのは事実です。 動員兵力もここが最大であった為、それに比例して指揮官の死亡者も多くなるかと。 #right(){(325:ue ◆WomMV0C2P.)} **日本軍が重慶などに無差別爆撃しましたが爆撃の頻度はどれぐらいだったんでしょうか 1938年12月26日に、22機の陸軍爆撃機による重慶爆撃が開始され、以後、1939年1月7日、10日、15日に それぞれ約30機により重慶爆撃を実施。 しかし、悪天候により戦果が芳しくなかった為、陸軍は以後撤退し、蘭州への爆撃を担当する様になります。 代わって海軍が担当し、5月3日に45機の陸攻で第1回爆撃を実施し、4日に27機が第2回、以後、5月、6月に 各2回、7月4回、8月6回、9月4回の爆撃を行います。 年を改めて1940年5月からは、101号作戦で陸海軍共同作戦を実施し、陸軍は重爆54機、海軍は中攻132機 の戦力で、9月までの間、海軍は述べ32日、陸軍は9日の爆撃を行います。 1941年夏期にも同じ様に爆撃が行われますが、以後は実施されず、最後に行われたのは、1943年8月の 陸軍航空隊によるものだけです。 天候に恵まれれば週1~2回、恵まれなければ月1回程度のペースです。 #right{(533:680,眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日中戦争で、日本軍は延安に攻め込むことは出来なかったのでしょうか? >地図でみると日本軍の占領地域からわりと近いようですし(100kmくらい?) >重慶なんかよりこっちを先に叩けばよかったのに…と思うのですが。 率直に言うと舐めていたからです。 支那事変が始まるまで、中国共産党について知っているのは参謀本部でもごく僅かでした。 精々、馬賊、匪賊の類と言う認識でした。 更に国民党と連合した事も、現政権が軍閥との合衡連合によって出来ていた為、特に注視されていませんでした。 この認識が改められたのが1940年8月に始まった百団大戦による八路軍の大規模攻勢でした。 結果として八路軍を撃退しましたが、匪賊程度と思われた彼らが華北において深く浸透しており、 手強い相手であると認識を改め、これ以降、日本軍は八路軍に対する攻撃を強化していきました。 なお、この時期には農村への浸透を既に幅広く進めており、延安を落としたところでも、 国府軍同様に奥地に逃げ込まれるだけで、さほど効果がなかったと思われます。 追撃や包囲殲滅を行なえるほどの兵力を搾り出す余力も、日本にはありませんでしたし。 #right(){(345:ue ◆WomMV0C2P.)} **中国において、餓死した日本軍の将兵は、結構いたんですか? 中国戦線は人口地帯を巡る戦いであり、補給戦もつながっていたから 純粋な餓死はほとんど無いと思われる(最悪その辺の村から徴発して・・・)。 一方で20万以上の戦病死は栄養失調を原因とする餓死の一種と主張する する人もいる(戦争に戦病死はつき物なんだが・・・) 餓死が発生したのは主に南方の話で 島嶼において制海権を喪失して補給が絶たれたり ジャングルで転戦を繰り返すうちに野たれ死んだりした #right(){(558:モッティ ◆uSDglizB3o)} いたとしても特筆するほどではなかった。 海に囲まれた島なら制海権を奪われれば餓死あるのみだが 大陸なら陸路で策源地に繋がっているから補給はできるし現地徴収で最低限の食料は手に入る。 例えばドイツは東部戦線全体の食糧供給のおよそ50%を現地徴収で賄っていて 最前線ではもっと酷い補給状況だったが、なんとかやっていけたのは中国戦線と同じ。 #right(){(558:775)} **中国戦線における陸軍将兵の食事はどのようなものだったのでしょうか? >太平洋戦線と異なり飢餓で苦しんだという話はあまり聞かないので。 中国戦線でも栄養失調による死者は多数出ています。 「一九三七年の日中戦争開始以来、中国戦線での死者はフィリピンに次いで多く四十五万五千七百である。 その中で、栄養失調に起因するマラリア、赤痢、脚気などによる病死者は死因の三~四割を占める。 とりわけ最も多くの犠牲者を出した一九四四年の大陸打通作戦では過半数が病死とされる。著者はこれらの例から、 中国戦線での全死者の約半数が栄養失調にもとづく病死であり、その数はしたがって二十二万以上としている。」 下記、「戦死者」の六割以上が餓死だったを参照ください。 http://www.jrcl.net/framek897.html #right(){(620:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)} **日中戦争開戦当初の日本の工業力でモーゼルミリタリー(C96/M712)を国内生産することは技術的に可能でしょうか? 大正14年には既に、マウザーピストルの閉鎖機構をコピーした プロップアップ式の自動拳銃を開発していました。 当時、最も強力な拳銃弾であった.30Mauser弾に対応したものは 取り敢えず製作可能ですが、加工技術も未熟であったので、 より弱装の弾薬を開発し、構造を大幅にアレンジして生産していたでしょう つまりそれが南部十四年式自動拳銃です 結論として、残念ながらC96は生産不可能だったと考えます。 #right(){(593:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)} **日本軍は中国では連戦連勝で、戦争継続していれば重慶を陥落させられるのは確実だったんですか? 確実なんてものはどこにもない。 それはさておきいくら正規戦闘で勝利を重ねても兵站が限界に達していて 中国奥地を制圧するのは困難だった #right(){(594:モッティ ◆uSDglizB3o)} 山がちな地形の問題もあって重慶までは補給が届かないため 陸路から攻略するのは諦められた。 #right(){(594:963)} **日中戦争で毒ガスを使用したのは、主にどんな部隊でしょうか? >師団つきの100名足らずの師団制毒隊が頑張って使っていたんでしょうか? >それとも、関東軍給水防疫本部(731部隊)の何割かがその編成のまま前線に出てきて使っていたわけでしょうか? 攻勢的な化学兵器使用は、野戦瓦斯(ガス)中隊と、迫撃大隊が主に担当。 前者は発煙筒式の化学兵器、後者は化学砲弾を撃つ迫撃砲部隊。 大規模な作戦時には、一般の砲兵部隊にも化学砲弾が支給された。 師団制毒隊は主に関東軍の師団に見られたもので、中国方面にはあんまりいない。 防疫給水部は生物兵器関係がメインで、化学戦とはあまり関係ない。 #right(){(610:299)} **じいちゃんが中国戦線に居た時、三八ではなくモーゼルを装備していたと言っていたのですが >日本軍が支給した事はあったのでしょうか? 中国軍(中華民国軍)はモーゼル拳銃を制式装備にして大量に導入していた ので、日本軍は捕獲兵器として大量に入手した。 戦利品を個人的に持ってる将兵もたくさんいたし、部隊によっては集めさせた 銃と弾薬を武器係に整備させたあと改めて部隊の将兵に配備して装備させたり している。 付け加えると中華民国の各軍閥はモーゼルミリタリーがいたくお気に入りで、 勝手に自前の兵器工場でコピー生産したりしている(当然、無パテントの 海賊版)。 特に元祖のモーゼルC96をスペインのアストラ社がコピー生産してフルオート 機能を追加したものが好まれて、これを各軍閥が自前の工場で大量に作って 使用していた。 で、海賊版がガンガン作られてるのが気に食わない(というか、大損害だよな) モーゼル社は自社オリジナルでフルオート版を開発、中国市場に送りこ込んだ。 モーゼル製の正規品だけでもセミオート型が10万丁以上(20万丁とも30万丁とも)、 フルオート型が11万丁余り中国に販売されていて、これに海賊版を含めるとそれこそ 天文学的な数のモーゼルミリタリーが中国大陸で使用されていたと見られる。 #right(){(322:582-584)} **日中戦争で日本軍が台湾の対岸の福建省をほとんど占領しなかったのは、なぜですか? 1894年以来、福建省は日本の勢力範囲下にありました。 厦門には租界設置権限もありましたし。 従って、占領しなかった訳ではなく、既に占領したも同然の土地だった訳です。 #right{(362:315 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **南京大虐殺を行ったとされる部隊の総兵力は何人くらいですか? 南京攻略を行った日本軍は、松井石根陸軍大将を軍司令官とする中支那方面軍ですが、 その麾下に上海派遣軍と第10軍がありました。  上海派遣軍(軍司令官 朝香宮中将) 第16師団(京都)、第9師団(金沢)、第11師団 天谷支隊(善通寺)、 第13師団(高田)山田支隊、第3師団(名古屋)の一部、第101師団(東京)の一部  第10軍(軍司令官 柳川中将) 第6師団(熊本)、第114師団(宇都宮)、第18師団の一部(国崎支隊) 実際に南京戦に参加した兵力は7~8万程度とみられているそうです。 #right(){(33:762)} **南京陥落前後の時期にあったパネー号事件について詳細求む! 海軍航空隊が撤退する国民党部隊をのせた船舶と誤って 米軍砲艦を撃沈した事件 個人的には光人社NF文庫から出ている「海軍魂」、 あるいは朝日ソノラマから出ている「さらば海軍航空隊」が 当事者らの伝記、回想なのでお勧めしてきます。 追記 「海軍魂」は当時の艦攻隊長村田重治大佐の伝記 「さらば海軍航空隊」は艦爆隊長の奥宮正武中佐の回想 「さらば~」は戦後の奥宮氏とパネー号艦長の事件に関する 手紙のやりとりが掲載されてます。 #right(){(34:198-199)} **日本軍の重爆も中国では都市に対する戦略爆撃に使ってた事ですか? 戦略爆撃の思想はドゥーエというイタリアの将軍が唱えた説ですが、 それを具現化したのはドイツのゲルニカ爆撃と日本の渡洋爆撃だと言われています。 重慶、南京など日本も各都市を爆撃していますよ。 #right(){(44:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **日中戦争中、日本軍将兵が休日に基地駐屯地から出かけて中国の街中を散策したり、買い物したりする余裕はあったでしょうか? 戦場に極端に近い場所でない限り、休みはあります。 後方の休養地であれば、散策も可能ですし、買物したり、外食する余裕もあります。 ずっと、働いている訳ではありません。 兵士も一種の労働者ですから、休みを与えないと、ちゃんと戦うことができません。 但し、占領地に於ける外出については、余程安定している土地でない限り、単独行動は 慎む様に指導されています。 #right(){(295:眠い人@まだまだ規制中)} **日本軍の対中爆撃は、重慶爆撃以外に何がありますか? >また重慶での中国側の死者はどれぐらいでしょう? 青島(第一次大戦) 杭州(上海事変) 蘭州、成都、漢口(日中戦争)など 第四回爆撃で、死者119名、負傷者116名。 1939年5月3日で、死者673名、負傷者1,023名、翌4日で死者1,973名、負傷者3,318名。 1940年全体を通して、死者4,232名、負傷者5,411名 1941年の死者は、前年の6割、なお、6月5日の爆撃では、992名の死者を出した窒息事件が起きている。 1945年までの重慶爆撃の死者は、最終的に11,800名。 そう言う意味では、1939年5月4日の空襲が最も被害が大きい。 #right(){(227:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} ----
#contents ---- **“打通”って何ですか? 太平洋戦争当時の日本は中国を相手にも戦争していたわけですが、 都市とその周辺の点と線を維持していたに過ぎませんでした。 ところが、B-29が重慶などに進出するに及び、日本本土、満州空襲の可能性が増し、 昭和19年に、中国南北の交通を確保し、重慶軍を撃滅、B-29が使う可能性のある基地の占領を目的として、 一つの作戦を立てます。 これが、一号作戦またの名を大陸打通作戦と呼ばれる作戦です。 参加兵力約41万、自動車12,000両、馬匹67,000頭、作戦距離約2,000キロという支那事変以来の大作戦で、 一号作戦(大陸打通作戦)の目的は達成されましたが、何ら戦局に寄与することの無かったものでした。 #right(){(23:眠い人 ◆ikaJHtf2)} 突破すること。普通は大陸規模の表現で使われる。 #right(){(23:282)} 大陸打通作戦の第1の目的は、 近未来的に 南方資源地帯と本土を結ぶ海上輸送路がカットされる、 もしくは多いに輸送が妨害される ことが予想されるので、 陸上輸送路を開通(打通)して (インドシナから韓国までえんえんと中国国内を通って続くわけですね) 海上輸送路の代わりとする と言う作戦。 補足して言うと、海上輸送と陸上輸送のコスト比較は、海上のがずっと有利。 (沈められなければ) 鉄道はかなり優秀だが、海上の比では無い。 自動車となると、ずいぶん高コストになって来る。 #right(){(41:574)} **日中戦争の日本の目的ってなんだったんですか? 1. 満州の先にある広大で肥沃な土地を日本の独占市場にして、少々の   不況に負けない国と言うか、蒙古~中国~朝鮮~日本~台湾を結ぶ、   円貨経済圏を作ること。 2. 人口の大半を占める貧農を中国大陸に移住させて、人口問題の解決を図ること。 大きくはこの二つだったかと。 #right(){(53:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日中戦争での日本軍側戦死者は?  厚生省のデータでは戦死者18~19万人ぐらい.  ただし,このデータは純粋な戦没者だけと思われる.  研究者の三野氏によると,戦死者,行方不明,戦病死者,二度と軍務に復帰できない重症者をカウントすると, 12年5.1万人 13年8.9万人 14年8.2万人 15年4.2万人 16年4.1万人 という数字.合計 30.5万人.  当時の日本の常備軍が70万人ぐらいだから半分に近い.  ちなみに,べトナム戦争のアメリカの死者はすべて合わせても5.7万人.  昭和12年ぐらいから戦費はうなぎのぼり.大変な国力の消耗であった.  それでいて大東亜戦争始めちゃう.  海戦が主であるのに,予算は半分こ.  東条なんかは 「太平洋は,海軍の担当」 などとほざく始末. (軍事板) **日ソ関係が悪化し始めたのは,いつ頃からか?   1920年代の日ソ関係は普通に安定していた。  当時のソ連内部では,東支鉄道を中心とする北満の勢力範囲を維持できるなら,日本の南満支配を認めるのもやむなし、という空気が強かった。  これが悪化するのは満州事変で反共を掲げる「満州国」が成立し、日ソが緩衝地帯を失って直接国境を接するようになってから。  要するに満州事変をやった結果,ソ連は極東地帯に初めて本格的に関心を寄せるようになった、ということ。  事変以後に急増するようになる極東赤軍の配備状況がそれを端的に現している。  第一この時期のソ連は干渉戦争や内戦からの復興問題もあって,あまり積極的な膨張主義的姿勢を取ることを避けており、それが膨張主義剥き出しの姿勢へ変化するようになるのはまだ先の40年代以降のこと。 (名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in コヴァ板) **中国のwikipediaを見ると日中戦争で日本の将官が沢山死んでいますが、これは本当なのでしょうか? http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%97%E6%97%A5%E6%88%98%E4%BA%89_%28%E4%B8%AD%E5%9B%BD%29 中国版Wikipediaの記述は戦死して昇進した大佐を少将としたり、病死、事故死、自決した将官を戦死としていたりと 記述に誤りが多くあります。 しかも一覧の最後に「以上戦闘による死亡のみで、病死や自殺は含まない」とわざわざ、但し書きが付いています。 おそらく戦果の水増しを狙った確信犯なのでしょう。 支那事変スレ5の472以降で詳しく検証されていたので、参考にしてみると良いでしょう。 http://kamisato2.hp.infoseek.co.jp/china/log/1156432384.html なお検証の結果、「戦死した将官」と断言できるのは9人ほどになります。 中国版wikipediaだと40人以上になっていますが(w しかし大戦中、病死、餓死を省くと支那戦線の死傷率が最も高いとされています。 生前が大佐となると大体、連隊長クラスとなりますが、その辺りの戦死者が非常に多いのは事実です。 動員兵力もここが最大であった為、それに比例して指揮官の死亡者も多くなるかと。 #right(){(325:ue ◆WomMV0C2P.)} **日本軍が重慶などに無差別爆撃しましたが爆撃の頻度はどれぐらいだったんでしょうか 1938年12月26日に、22機の陸軍爆撃機による重慶爆撃が開始され、以後、1939年1月7日、10日、15日に それぞれ約30機により重慶爆撃を実施。 しかし、悪天候により戦果が芳しくなかった為、陸軍は以後撤退し、蘭州への爆撃を担当する様になります。 代わって海軍が担当し、5月3日に45機の陸攻で第1回爆撃を実施し、4日に27機が第2回、以後、5月、6月に 各2回、7月4回、8月6回、9月4回の爆撃を行います。 年を改めて1940年5月からは、101号作戦で陸海軍共同作戦を実施し、陸軍は重爆54機、海軍は中攻132機 の戦力で、9月までの間、海軍は述べ32日、陸軍は9日の爆撃を行います。 1941年夏期にも同じ様に爆撃が行われますが、以後は実施されず、最後に行われたのは、1943年8月の 陸軍航空隊によるものだけです。 天候に恵まれれば週1~2回、恵まれなければ月1回程度のペースです。 #right{(533:680,眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日中戦争で、日本軍は延安に攻め込むことは出来なかったのでしょうか? >地図でみると日本軍の占領地域からわりと近いようですし(100kmくらい?) >重慶なんかよりこっちを先に叩けばよかったのに…と思うのですが。 率直に言うと舐めていたからです。 支那事変が始まるまで、中国共産党について知っているのは参謀本部でもごく僅かでした。 精々、馬賊、匪賊の類と言う認識でした。 更に国民党と連合した事も、現政権が軍閥との合衡連合によって出来ていた為、特に注視されていませんでした。 この認識が改められたのが1940年8月に始まった百団大戦による八路軍の大規模攻勢でした。 結果として八路軍を撃退しましたが、匪賊程度と思われた彼らが華北において深く浸透しており、 手強い相手であると認識を改め、これ以降、日本軍は八路軍に対する攻撃を強化していきました。 なお、この時期には農村への浸透を既に幅広く進めており、延安を落としたところでも、 国府軍同様に奥地に逃げ込まれるだけで、さほど効果がなかったと思われます。 追撃や包囲殲滅を行なえるほどの兵力を搾り出す余力も、日本にはありませんでしたし。 #right(){(345:ue ◆WomMV0C2P.)} **中国において、餓死した日本軍の将兵は、結構いたんですか? 中国戦線は人口地帯を巡る戦いであり、補給戦もつながっていたから 純粋な餓死はほとんど無いと思われる(最悪その辺の村から徴発して…)。 一方で20万以上の戦病死は栄養失調を原因とする餓死の一種と主張する する人もいる(戦争に戦病死はつき物なんだが…) 餓死が発生したのは主に南方の話で 島嶼において制海権を喪失して補給が絶たれたり ジャングルで転戦を繰り返すうちに野たれ死んだりした #right(){(558:モッティ ◆uSDglizB3o)} いたとしても特筆するほどではなかった。 海に囲まれた島なら制海権を奪われれば餓死あるのみだが 大陸なら陸路で策源地に繋がっているから補給はできるし現地徴収で最低限の食料は手に入る。 例えばドイツは東部戦線全体の食糧供給のおよそ50%を現地徴収で賄っていて 最前線ではもっと酷い補給状況だったが、なんとかやっていけたのは中国戦線と同じ。 #right(){(558:775)} **中国戦線における陸軍将兵の食事はどのようなものだったのでしょうか? >太平洋戦線と異なり飢餓で苦しんだという話はあまり聞かないので。 中国戦線でも栄養失調による死者は多数出ています。 「一九三七年の日中戦争開始以来、中国戦線での死者はフィリピンに次いで多く四十五万五千七百である。 その中で、栄養失調に起因するマラリア、赤痢、脚気などによる病死者は死因の三~四割を占める。 とりわけ最も多くの犠牲者を出した一九四四年の大陸打通作戦では過半数が病死とされる。著者はこれらの例から、 中国戦線での全死者の約半数が栄養失調にもとづく病死であり、その数はしたがって二十二万以上としている。」 下記、「戦死者」の六割以上が餓死だったを参照ください。 http://www.jrcl.net/framek897.html #right(){(620:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)} **日中戦争開戦当初の日本の工業力でモーゼルミリタリー(C96/M712)を国内生産することは技術的に可能でしょうか? 大正14年には既に、マウザーピストルの閉鎖機構をコピーした プロップアップ式の自動拳銃を開発していました。 当時、最も強力な拳銃弾であった.30Mauser弾に対応したものは 取り敢えず製作可能ですが、加工技術も未熟であったので、 より弱装の弾薬を開発し、構造を大幅にアレンジして生産していたでしょう つまりそれが南部十四年式自動拳銃です 結論として、残念ながらC96は生産不可能だったと考えます。 #right(){(593:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)} **日本軍は中国では連戦連勝で、戦争継続していれば重慶を陥落させられるのは確実だったんですか? 確実なんてものはどこにもない。 それはさておきいくら正規戦闘で勝利を重ねても兵站が限界に達していて 中国奥地を制圧するのは困難だった #right(){(594:モッティ ◆uSDglizB3o)} 山がちな地形の問題もあって重慶までは補給が届かないため 陸路から攻略するのは諦められた。 #right(){(594:963)} **日中戦争で毒ガスを使用したのは、主にどんな部隊でしょうか? >師団つきの100名足らずの師団制毒隊が頑張って使っていたんでしょうか? >それとも、関東軍給水防疫本部(731部隊)の何割かがその編成のまま前線に出てきて使っていたわけでしょうか? 攻勢的な化学兵器使用は、野戦瓦斯(ガス)中隊と、迫撃大隊が主に担当。 前者は発煙筒式の化学兵器、後者は化学砲弾を撃つ迫撃砲部隊。 大規模な作戦時には、一般の砲兵部隊にも化学砲弾が支給された。 師団制毒隊は主に関東軍の師団に見られたもので、中国方面にはあんまりいない。 防疫給水部は生物兵器関係がメインで、化学戦とはあまり関係ない。 #right(){(610:299)} **じいちゃんが中国戦線に居た時、三八ではなくモーゼルを装備していたと言っていたのですが >日本軍が支給した事はあったのでしょうか? 中国軍(中華民国軍)はモーゼル拳銃を制式装備にして大量に導入していた ので、日本軍は捕獲兵器として大量に入手した。 戦利品を個人的に持ってる将兵もたくさんいたし、部隊によっては集めさせた 銃と弾薬を武器係に整備させたあと改めて部隊の将兵に配備して装備させたり している。 付け加えると中華民国の各軍閥はモーゼルミリタリーがいたくお気に入りで、 勝手に自前の兵器工場でコピー生産したりしている(当然、無パテントの 海賊版)。 特に元祖のモーゼルC96をスペインのアストラ社がコピー生産してフルオート 機能を追加したものが好まれて、これを各軍閥が自前の工場で大量に作って 使用していた。 で、海賊版がガンガン作られてるのが気に食わない(というか、大損害だよな) モーゼル社は自社オリジナルでフルオート版を開発、中国市場に送りこ込んだ。 モーゼル製の正規品だけでもセミオート型が10万丁以上(20万丁とも30万丁とも)、 フルオート型が11万丁余り中国に販売されていて、これに海賊版を含めるとそれこそ 天文学的な数のモーゼルミリタリーが中国大陸で使用されていたと見られる。 #right(){(322:582-584)} **日中戦争で日本軍が台湾の対岸の福建省をほとんど占領しなかったのは、なぜですか? 1894年以来、福建省は日本の勢力範囲下にありました。 厦門には租界設置権限もありましたし。 従って、占領しなかった訳ではなく、既に占領したも同然の土地だった訳です。 #right{(362:315 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **南京大虐殺を行ったとされる部隊の総兵力は何人くらいですか? 南京攻略を行った日本軍は、松井石根陸軍大将を軍司令官とする中支那方面軍ですが、 その麾下に上海派遣軍と第10軍がありました。  上海派遣軍(軍司令官 朝香宮中将) 第16師団(京都)、第9師団(金沢)、第11師団 天谷支隊(善通寺)、 第13師団(高田)山田支隊、第3師団(名古屋)の一部、第101師団(東京)の一部  第10軍(軍司令官 柳川中将) 第6師団(熊本)、第114師団(宇都宮)、第18師団の一部(国崎支隊) 実際に南京戦に参加した兵力は7~8万程度とみられているそうです。 #right(){(33:762)} **南京陥落前後の時期にあったパネー号事件について詳細求む! 海軍航空隊が撤退する国民党部隊を乗せた船舶と誤って 米軍砲艦を撃沈した事件 個人的には光人社NF文庫から出ている「海軍魂」、 あるいは朝日ソノラマから出ている「さらば海軍航空隊」が 当事者らの伝記、回想なのでお勧めしてきます。 追記 「海軍魂」は当時の艦攻隊長村田重治大佐の伝記 「さらば海軍航空隊」は艦爆隊長の奥宮正武中佐の回想 「さらば~」は戦後の奥宮氏とパネー号艦長の事件に関する 手紙のやりとりが掲載されてます。 #right(){(34:198-199)} **日本軍の重爆も中国では都市に対する戦略爆撃に使ってた事ですか? 戦略爆撃の思想はドゥーエというイタリアの将軍が唱えた説ですが、 それを具現化したのはドイツのゲルニカ爆撃と日本の渡洋爆撃だと言われています。 重慶、南京など日本も各都市を爆撃していますよ。 #right(){(44:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **日中戦争中、日本軍将兵が休日に基地駐屯地から出かけて中国の街中を散策したり、買い物したりする余裕はあったでしょうか? 戦場に極端に近い場所でない限り、休みはあります。 後方の休養地であれば、散策も可能ですし、買物したり、外食する余裕もあります。 ずっと、働いている訳ではありません。 兵士も一種の労働者ですから、休みを与えないと、ちゃんと戦うことができません。 但し、占領地に於ける外出については、余程安定している土地でない限り、単独行動は 慎む様に指導されています。 #right(){(295:眠い人@まだまだ規制中)} **日本軍の対中爆撃は、重慶爆撃以外に何がありますか? >また重慶での中国側の死者はどれぐらいでしょう? 青島(第一次大戦) 杭州(上海事変) 蘭州、成都、漢口(日中戦争)など 第四回爆撃で、死者119名、負傷者116名。 1939年5月3日で、死者673名、負傷者1,023名、翌4日で死者1,973名、負傷者3,318名。 1940年全体を通して、死者4,232名、負傷者5,411名 1941年の死者は、前年の6割、なお、6月5日の爆撃では、992名の死者を出した窒息事件が起きている。 1945年までの重慶爆撃の死者は、最終的に11,800名。 そう言う意味では、1939年5月4日の空襲が最も被害が大きい。 #right(){(227:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} ----

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