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旧日本軍の戦艦・空母・巡洋艦の話題は、[[各種戦艦]]・[[大和型]]・[[日本の空母]]・[[重巡・軽巡]]をご覧下さい。 ---- #contents ---- **震洋やマルレは、木製のようですが、夜間に出撃したかどうかわかりませんが、連合軍のレーダーに引っ掛かる可能性があったのでしょうか? 海の上には波があり、シークラッターという複雑なエコーが常に流動しています。 これは潜水艦のシュノーケルや水上艦のステルス化が一定以上進まない原因なのですが、 逆に補足する側にとっても障害になります。 つまり、ある程度波のある海上に浮かんでいるだけで、隠れ蓑をまとっているのと 同じ効果があるのです。 そのため、対水上レーダによる小型木造船の遠距離補足には現代でもある程度の 限界があります。 マラッカ海峡付近の海賊はこの原理を利用し、パンチュンという小型高速の 動力付き木造船を駆使して気付かれる前に大型タンカー等の死角に入り込もうと する手口を使っています。 ただし、いってしまえばそれまでの事で、人員の少ない民間船ならともかく 警戒要因の多い警備や軍用艦船にとっては、闇夜に紛れて油断の合間を縫う 程度の効果しかなく、戦時下で警戒を厳にしていると厳しいものがあるでしょう。 なにせ、旧軍は夜間の対魚雷警戒すら目視で航跡を発見する方法で対処しています。 #right(){(657:378)} **戦標船改E型の「焼玉エンジン」ってなんでしょうか? 「焼玉エンジン」は、ピストンで圧縮されたガスを、バーナーで熱した鋳物の球に接触して爆発させる機関で、通常は重油を燃料とする。 戦時中、特に、終戦間近には、石油不足で、魚油などが使 われた。 浦安市郷土博物館に実演展示されています #right(){(5:834)} **かなり前の神戸新聞の投稿欄に祖父が呉海軍工廠で特殊潜航艇を作っていた(回天か?)という50代くらいの女性の投稿があったのですが、 >彼女の投稿によると祖父は設計の重要な立場に居たらしく家には資料があるとか。 >そして彼女は祖父のことを誇りに思い、特殊潜航艇の他にも「水陸両用魚雷」なる物も開発していたと証言。 >ソースは示せず、恐縮ですが、はたしてそんな兵器は存在するのでしょうか? 確証はありませんが、特4式内火艇のことではないでしょうか? 設計が呉工廠造船調査部で 製造が三菱重工、さらに改修が呉工廠で行われています。 設計は堀元美少佐一人で行われたそうなので(また堀氏は潜航艇建造には不参加) この改修の際に関わられたの工廠関係者の方ではないかと #right(){(10:名無し厨尉)} 単に第二次大戦前までの「海防艦」というのは、単に旧式、二線級となった 軍艦の総称で、海防戦艦的な用途に使われたというのは些か穿ちすぎの ような気がします。 単に「予備艦」という艦種であれば、そこに配属される将兵の士気にも関わ りますし、国民の視線も冷ややかでしょう。 多少なりとも、軍艦っぽいネーミングにしてイメージ向上を行ったのが真相 ではないでしょうか。 #right(){(10:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)} **旧日本海軍の給油艦知床型(一番艦能登呂)は軍艦でしょうか? 旧海軍で軍艦は以下のものだけです。(太平洋戦争末期) 戦艦 航空母艦 1等巡洋艦 2等巡洋艦 水上機母艦 潜水母艦 敷設艦 練習戦艦 練習巡洋艦 というわけなので日本海軍の中では給油艦である知床型は軍艦ではないです。 #right(){(18:バッチ3)} **「梨」→「わかば」の改装はどんなものだったのですか? 昭和20年屋代島沖で沈められました。 大蔵省が業者に売却して、昭和29年に引き上げられ、スクラップとして払い下げましたが、状態が良かったために、 その業者が防衛庁に売り込みを図り、紆余曲折の末、護衛艦となったものですね。 「梨」→「わかば」は、沈没していたために、多分船体内部の洗浄、機関修理は実施したでしょうが、 機関を撤去してまでするのであれば、貧乏所帯の海自は買わなかったでしょう。 あとは、武装を米式の対潜護衛艦並みに、更に電測兵装を追加しているだけのようです。 他にも枚挙に暇がありませんが、比較的有名なのが真珠湾で沈んだ戦艦の再生、 ツーロン港で自沈した駆逐艦の再生というのがあります。 #right(){(24:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **丹陽こと雪風が賠償艦として、国民党に貰われていったエピソードは有名ですが >丹陽は具体的に何年ごろから何年ごろまで、中華民国の旗艦だったのでしょうか? 丹陽について細かい話をこちらを見てください。 nttp://homepage1.nifty.com/HARPOON/UMAX15.html なお、文中に出てくるグリーヴス級駆逐艦とは DD421ベンソンとDD427ヒラリーPジョーンズで、54年に中華民国に引渡されております。 その他リヴァモア級駆逐艦2隻(DD431プランケット/DD456ロッドマン)も 59年と54年に引き渡されています。 #right(){(33:名無し軍曹)} **戦時中、帆船日本丸が輸送船として瀬戸内海を走ってたと聞いたのですが、知ってる方教えて下さい。 運輸省管轄で、石炭輸送を行っていたそうです。 #right(){(11:名無し厨尉)} **正規工作艦明石の歴史と性能について教えて 昭和9年度の軍縮条約下に於ける第二次補充計画によって建造が計画され、 1937年に佐世保工廠で起工、1939.7.31に竣工しています。 この艦は当時最新鋭だった、米海軍の工作艦メデューサ級をタイプシップとして 建造されており、艦内には日本でも最新鋭のドイツ、米国製の精密加工機械を装備していました。 1942年の改○5計画によって三菱横浜にて同型2隻を建造する計画でしたが、 資源不足、戦局の推移によって実現しませんでした。 実現したら、「三原」「桃取」になっていたようです。 太平洋戦争勃発時はフィリピン攻略部隊に属し、以後はトラック島に在泊し、 その陸上工作部と共同で損傷艦の修理に活躍しました。 1944.2.17~18に掛けての米軍のトラック空襲で大破し、3.30にパラオで空襲を受けて沈没しました。 排水量9000t、全長158.5×全幅20.5×喫水6.25m、機関タービン10,000shp、速力19.2kt、 武装として12.7cm連装高角砲2門を艦の前後に装備し、艦内に工作機械114台を設置、 工員433名が17の工場に分かれて、勤務していました。 #right(){(47:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **旧日本海軍の艦艇は大和級戦艦からバルバスバウが装備されていますが中身はバウソナーなのでしょうか? 詳細な資料が手元にないのですが、バルバスバウを装備しているのは大和型戦艦と翔鶴型空母 くらいです。 あとの艦はたいていスプーンバウかクリッパーバウのはず。 ソナーにしても装備している艦はそんなに多くなく、海防艦などがハルソナーを装備していて バウソナーは装備していません。 バウソナーを装備しだしたのは戦後の艦です。 それに、大和型戦艦のバルバスバウって今の商船みたいに大きくないです。 #right(){(51:名無し軍曹)} 大和の艦首には水中聴音器が装備されてます。 #right(){(51:437)} **日本の軍艦で、艦命符字で大和・JGAA、長門・JGIA、赤城・JQSAってありますが、何の略? 国際無線符合 現在のフネにもあるよ。 #right(){(53:8)} **防空駆逐艦「秋月」には射撃用のコンピュータが積まれていたのですか? そんな事実はありません。 #right(){(60:742)} 電波探信儀はレーダーです。コンピュータとは呼ばないほうがよいでしょう。 1.戦艦にも電探は積まれていました。 2.陸軍では電波警戒機という名でレーダーを使用していました。 #right(){(60:745)} えー秋月級に限らず、高射砲を装備している艦にはだいたい「高射装置」という 対空射撃用の照準装置が付いていました。これは機械式計算機を組み込んだもので (これについては高射装置以外の管制装置も同じですが)、様々な情報を入力すると 射撃諸元を示すようになっていました。 なお、このような射撃装置は海軍の一部の防空陣地にも設置されていたといいます。 陸軍については私の手元に資料がないもので・・・。 上のレスにもありますが機械式計算機ですのでコンピュータとは言い難いですね。 また、最近の調査で秋月級の初期の艦も装置自体は1基しか積んでいなかった という説がでてきたようです。 #right(){(60:747)} >普通の高射砲部隊には射撃指揮コンピュータ等配備されていたのでしょうか? 佐貫マタオ氏の書いた本にドイツの高射砲部隊には単純なアナログコンピュータと いうべきものが装備されていたとか書いていたような気がします。 #right(){(60:748)} **大戦中の日本の大型艦っていくどと蒸気タービンを機関としてるのに燃料がねえから作戦行動がとれないっておかしくないですか? >蒸気機関って石炭と水で動くはずなんで、石炭は日本で取れるんで問題ないんじゃないですか? それは石炭燃焼缶の場合だろ。海軍のフネは重油燃焼缶だったので、大規模な改造が必要。 石炭を動力源にするか、重油を動力源にするかで、同じ蒸気タービンと言えど、出力や特性が全然違ってくる。 フェラーリ持ってきて、アルコールでも動くんじゃね?って言うのと一緒。 石油は液体なのでポンプで圧力を掛ければボイラー内に入っていくが、石炭は固体なので人が投げ込まねばならない。 また、石油はバーナーを奥まで伸ばせるのでボイラーの厚みを大きく出来るが、石炭だと人の投げ込める距離以上は 無意味なので厚く出来ない。 その分大型化できず数を揃えなければならなくなる。 このため石油が世界中の港の多くて入手できるようになると石炭専焼ボイラーや混焼ボイラーは廃れ、重油専焼ボイラーが主流となる。 また、日本国内で取れる石炭はあまり質が良くない。 蒸気機関だって、確かに燃料は選ばないがそれは構造が単純だから、釜に入れればとりあえず燃えるだけであって 蒸気を発生させるのに必要な燃料を投入しなければ、燃費の問題で逆に非効率になったり、出力不足で動きません なんてことも普通だ。 極端な話、石炭の代わりに木炭とか紙とかで蒸気機関動力船を動かせなんて、どれだけ燃料積むんだよってことになるし #right{(507:290-315)} **標的艦となった摂津に積まれた遠隔無線誘導装置の製造国・メーカーを教えてください 海軍の技術研究本部電気部が昭和三年に開発しました。 システムは速力管制装置と針路管制装置を組み合わせた物です。 動力の電動機と電池を使用して無線操縦をします。 但し、ボイラーの自動噴燃装置はドイツのアスカニア社が開発した物を輸入して機関の遠隔管制に使用しました。 参照図書はなんと! 歴史群像2001年12月号のp12です。 我ながら歴群を見直しましたね。 追記、 システムの予算化は昭和9年に認められました。 摂津の標的艦としての完成は昭和12年です。 操作関係に関してはWikiの標的艦摂津に記載されています。 #right(){(601:不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk)} **旧日本海軍の艦艇の艦首には、フレアはあってもナックルは一部の駆逐艦にしかない、という印象なのですが、実際はどうだったのでしょうか。 当時の日本の軍艦はより良好な凌波性や高い速力を追求しまくっていたので、より自然なライン を追求した当然の結果と思われる。艦首/艦尾形状、舵など、あらゆる部分について、熱心な トライ&エラーが繰り返されていた。 ところが戦時になり、テクがどうこう言う前に「数」が足りなくなったので、「松」型駆逐艦に至って ようやく簡素化されナックルになった。性能低下が心配されたが、予想に反して大したデメリット は出なかったという。それまでが"凝りすぎ"だったというわけ。 #right(){(299:105)} **日本軍の輸送艦で最大搭載量の艦ってなに?またどれくらい積めるの 二次大戦の輸送船は枢軸・連合とも一般商船を徴用したものがほとんどで、専用の輸送艦は開戦後に建造されている。 連合軍側最大の輸送船は豪華客船として有名なクイーン・メリーで8万1237総トン。 日本で最大は日本水産の捕鯨母船第3図南丸が1万9206総トンで、タンカーとして使った。 タンカー以外の特設運送艦では、日本郵船の浅間丸型1万6947総トンが最大かな。 まあ単純に排水量で言うと、戦艦や正規空母でさえ輸送任務についてるけど。 日本ではそもそも1万総トン超える商船自体数える程しかないし、新田丸型とか氷川丸型とかほとんどが豪華客船だな。 #right(){(俺初質スレ431:689)} **帝国海軍で「内火艇」を「うちびてい」と呼んでいたらしいけど、これって一体どこから出た呼び方なんじゃろか。 http://www.warbirds.jp/ansq/21/B2001408.html >以上から見て、明治大正期には「うちびてい」と言っていたものが、昭和に入って遅くとも昭和10年までには「ないかてい」と呼称が変更されたものと考えます。 #right(){(684:370)} **第二次大戦時に艦船の探照灯は、どれぐらい使用されたんでしょうか? 日本海軍の戦術では、夜襲に於て探照灯を使用した射撃と言うのがデフォでした。 従って、夜襲を行う場合は、探照灯を結構使用しています…としか回答出来ないなぁ。 但し、連合国の電探精度が上がると逆に目標にされて悲惨な目に遭うわけですが。 #right(){(286:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **帝国陸軍の河川用装甲砲艇は、日本軍の武装解除後に国共内戦やベトナム独立戦争で使用されたんでしょうか? 残念ながら、陸戦兵器の整備に手一杯で、(中国共産党の場合は)次いで空軍の整備、 水上兵力は後回しとなり、結局使用されていません。 尤も、利用する場所がありませんし。 #right(){(278:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **大発って何ですか?ダイハツという車の会社と関係があるのでしょうか? 大発(大発動艇)は陸軍運輸部が開発した戦車・重量兵器用陸用舟艇です。 大正13年の訓令事項により ・武装兵約60名を搭載しえること ・馬匹・野砲・軍需品を搭載しえること ・重量六トンを限度とすること などを条件として開発されました。、 大正14年に試作型であるA型(LB-A)が完成し、さらに改良型として船首の一部を 歩板にしたB型・船底肋骨を2本にしたC型・大型化して戦車の揚陸を可能としたD型が 製造されました。 D型は全長14.88メートル、自重9.5トンで八九式中戦車が搭載可能でした。 さらに戦車の重量増に対応して97式中戦車(13.5トン)搭載可能な15トン型特大発動艇 「〇セ(丸の中にセ)-LB」や26トン戦車搭載可能な30トン型大発動艇を 超大発動艇(S-N-LB)として試作しています。これは大型発動艇とも呼ばれました。 この他にも木製大発動艇・折畳式大発動艇などが開発されました。 また、兵員揚陸用として小発動艇が存在し、A~C型が製造されました。これは C型で自重3.5トン、武装兵20名または物資3トンが搭載可能でした。 #right(){(124:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **大戦中、日本ではコンクリート製の輸送船が作られ、これが結構優れものだったと言いますが、 >コンクリートで軍艦(砲雷撃艦は無理でしょうが、空母・護衛艦など)を作るのは無理でしょうか? コンクリ船建造時の担当官の考え方としては、  (1) 本格的な量産は考えない。コンクリ船は鋼船の補助的な存在程度のものであって、これにより     幾分の補いは付くが、これだけに頼る訳にはいかない。  (2) 鋼材の供給力が十分に成った時には廃止されるべきものであって、戦時中と雖も、便法とされる     べきものである。 と言うものであり、期待はしていません。 逆に、  (1) 船価は、鋼船の二倍になるので、特別の措置を必要とする。  (2) 建造地には、冬期でもコンクリート工事施工可能な温暖な地を必要とすること。  (3) 線材として、甲造船の際に余る鋼材を充てることになっていたが、甲造船そのものが少なくなったので、     線材が利用出来なくなったこと。  (4) コンクリートも良質のものが必要であること。  (5) 鋼材の使用量は確かに少なくなるが、逆に型枠に使用する木材の使用量が二倍以上必要となること。 と言うデメリットが発生しており、また、普通のコンクリートでは、耐水性の問題で、没水部を薄板鋼板で覆っています。 耐水性コンクリートとして硫酸銅セメントを用いることが考えられ、小型船が進水間際まで行きました。 このほか、マグネシヤセメント船も研究されましたが、これとて、  (1) 一隻当り所要資材のうち鋼材の使用量は余り減らないし、木材も従来の木造船の半分を消費する。  (2) マグネシヤの原料は朝鮮あるいは関東州であり、内地にはない。  (3) 構造から鑑みても、木造船に比べて工数と建造機関が掛かりすぎる。 と言う理由で、研究はされたものの、実用は見送られています。 #right(){(128:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **対潜兵器の「捕獲網」は、どのように使うのでしょうか? >日本の正規捕獲網艇は燕と鴎の2隻なので、2艘曳きトローリングと同じ要領と思っていましたが >特設捕獲網艇の場合、特設駆潜艇2隻と特設捕獲網艇1隻で1個駆潜隊を編制すると最近知りました。 >1隻でどうやって曳くのでしょうか? 一四式一型あるいは二型が用いられています。 これは、長さ100m、幅35mの鋼索製の網で、五枚を一組とし、網の上方には浮子を、 下方には海底に達する索を取付け、重錘を以て海上に沈着させるものです。 特設捕獲網艇は、最大500~1000総トンの貨客船、客船、貨物船で、改造要領は、 船尾楼甲板上に鉄骨木製の捕獲網敷設台を設けます。 これは、大きく外舷から張り出した矩形平面のもので、両側には網を掛ける柵が 立っています。 後部船倉を網庫として、捕獲網は網庫内に四組搭載し、二組を敷設台上に組立て てから敷設します。 敷設台後方には網用錨ダビッドがあり、網は台の後端から滑り落ちる仕掛けです。 要は曳航するのではなく、落っことして、置いておく様な感じでしょうか。 #right(){(143:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本の戦時標準船の「改E」系列は、きわめて評判が悪いようですが、 >やはり改Eの大量産と言う方針は誤りだったのでしょうか? 1941年秋の状況で無限と言うほどの船腹量が必要になってきますが、 D型以上の建造は施設的にも材料的にも行き詰まってきたことで、その 改善が見込めず、全くの応急用としてのE型船量産という着眼点はそれ なりに良かった訳でして。 その特徴として、 (1)小型であるため建造技術が簡単で必ずしも専門家、熟練工を多数必要としない、 (2)建造施設を簡易、かつ、急速に設備しうる。 (3)量産思想に依って、工作し得る程度の大きさである (4)主要材料である厚板は、造船材を作成していない中小製鉄所の設備、技術でも量産可能。 と、誠に以て、良いことずくめで、特に軍備と競合しないので、海軍としては魅力的に写ったのだと 思いますが、量産したは良いものの…。 (1)冬季北方、日本海での使用は困難(航行できないと言うが、こんな所を走らせるために作ったんじゃない、   と設計者は切って捨てていますが。) (2)低速である(軽荷状態で強風を船首方向から受けると操舵、保針に困難が生じる、というのは認めましょう。) (3)居住性不良(思想と観点の問題と、設計者は切って捨てていますが) (4)工事粗漏(造船所の責任と、設計者は切って捨てていますが) (5)機関故障(焼玉機関は焼玉としては出力過大だけど、これは油と発動機工場の質低下に帰する、と設計者は切って捨てていますが) (6)焼玉揚貨機の不調(工作不良と運航者の問題と、設計者は切って捨てていますが) と例によって、基礎技術の伴わない状況が出てきています。 また、船型の改善が難しく、播磨造船所では、貨物船を油槽船に切り替えるために、月間10隻の竣工予定が、7隻に落ち込んだりして います。 #right(){(143:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本の駆逐艦で主砲塔を一基下ろして、機銃を載せるという改装をした艦があったと思うのですが 樅級は1943年頃から3番砲を撤去して代償に対空火器と電探を装備。 神風級は1943~44年に掛けて4番12cm砲を撤去してその跡と艦橋前部に25mm連装機銃2基づつを装備。 若竹級も12cm砲を2基降ろして対空機銃を増備。 睦月級は12cm砲1~2門を降ろして対空機銃を増備。 吹雪級は1943年後期頃から12.7cm3番砲塔を降ろして25mm三連装機銃2基と換装し、艦橋前面に25mm連装 機銃1基と2,3番魚雷発射管中間に25mm三連装機銃2基を追加。 初春級は1944年に入って、単装砲塔を撤去し、25mm三連装機銃1基と換装。 白露級も初春級と同様。 朝潮級は1944年頃に12.7cm2番砲塔を撤去して吹雪級と同様の改装を実施。 夕雲級は1944年以降に12.7cm2番砲塔を撤去して25mm三連装機銃2基と換装。 但し、最後期に建造されたものは、砲塔撤去が無かったです。 ついでに、千鳥級は後部主砲を撤去し、25mm連装機銃2基、単装4基を増強、 鴻級も同様ですが、25mm単装機銃の門数が5基になっています。 #right(){(155:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **特設航空機運搬艦に飛行艇は積めますか? 飛行艇は搭載できません。 大艇の補充は基本的には空輸になっていた筈。 空運乙は、若干機(2~3機)の水偵を後部上甲板上に露天格納するほか、主翼、胴体を分解して船倉内に10機が搭載 出来るようになっています。 また、前後部の船倉、甲板間貨物倉の大部分がドラム缶入りのガソリン、爆弾、魚雷の格納所であり、前部は人員と各種 雑物件の収容所となっていました。 りおん丸の場合は、前部中甲板区画は航空隊兵員、飛行場設営隊員など500名分の居住区画、船橋楼内の上甲板区画 が船固有の兵員室、船尾楼は准士官以上の居住区で、40名収容。 貨物倉内の一部には機械工場、木工工場、鍛冶、熔接工場が設置され、石炭庫と真水タンクを増設しています。 なお、名古屋丸は潜水母艦からの改造であり、船倉内に解体機を搭載しませんでした。 #right(){(156:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本海軍は機動部隊防空のための秋月型を多数製造しましたが、秋月型以外に防空目的の駆逐艦を設計したのでしょうか? 駆逐艦と言うより、当初は巡洋艦を志向しています。 英国の旧式軽巡洋艦改造の防空巡洋艦を手本に、旧式化した天龍型とか5500t型軽巡洋艦の主砲を 高角砲に換装し、高射装置を完備、雷装を全廃して直衛艦とするのが一番最初。 ところが、これは予算が可成り掛かる上に、防空性能不十分、しかも、旧式と言えど、未だ十分に水雷 戦隊旗艦として役に立つこともあり、又、これらは艦隊決戦に際し、重雷装艦とすることが考えられまし たので、防空巡洋艦構想は後に多摩が改造されただけでした。 で、その替わりに新型の防空巡洋艦を設計します。 これは大淀型とほぼ同じ9000tで、10cm高角砲の連装砲塔を12基搭載、高射装置は4基搭載という立派 なものでしたが、これは威力十分な替わりに船価が高く、実現の見込み無く、一艦で対応する巡洋艦よりも、 数隻で対応する駆逐艦の大型化という方向に進んでいきます。 当初は、駆逐艦ではなく、直衛艦という種別でこの艦は呼ばれました。 これで設計されたのが、W-115計画案で、原案は魚雷発射管無し、第二案で、魚雷発射管1基を搭載し、 第三案はそれが二基に増えました。 結局第三案は過大に過ぎ、第二案を元に計画が進められています。 なお、○5計画では、島風型のボイラーと主機を採用し、速力を33ktsから37ktsに向上、基準排水量を300t 増して3000tとし、魚雷発射管には新設計の6連装を1基搭載し、機器配置は缶-機-缶-機の交互配置を 日本の駆逐艦では初めて採用する予定でした。 #right(){(238:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本軍の特設工作船ってどんな船かわかります? 「特設」と言うのは、民間の船を徴用して、海軍の籍に入れたものです。 特設工作艦(工作船でなく)なら、民間の6,000総トンの貨物船に工作施設を備え、 損傷応急修理を目的とし、工作施設は戦況の最後まで機能を果たさなければ ならず、しかも、この艦を失えば、味方の修理能力が落ちることから、敵からも執拗に ねらわれたため、損耗の最も多い艦種です。 その施設は、例えば、上甲板に作業場、飛行機工場、電気・航海・光学・無線工場を 持ち、第二甲板には各科倉庫、機械工場、工具室、魚雷工場、木工場を、船艙内に新設 した甲板には索具および塗具倉庫、救難要具および鋼材などの材料庫、造兵・造機材料庫、 補機室、鍛冶工場、溶接工場、造船・造兵材料庫、そして、船艙には弾薬庫、救難関係倉庫、 糧食庫、修理材料庫、鍛冶工場、鋳物工場を備えています。 専門の工作艦には、明石、そして旧式戦艦の改造である朝日がありましたが、1941年の松栄丸を 皮切りに、山彦丸、八海丸、山霜丸、白沙、そして、2TM改造の慶昭丸が改造されています。 これら特設艦は全部撃沈されています。 #right(){(162:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **大戦初期の日本の揚陸艦って神州丸くらいしか聞きませんが、当然他にもありますよね? 1935年に神州丸が播磨造船で建造されました。 これは極秘に建造されたもので龍城とかMT船という名称で呼ばれました。 船内に上陸用舟艇を20隻収容し、上陸地に近づくと、船尾のドアを開けて、後部に舟艇を出すLSD的用法を 想定していたほか、九一式戦闘機と九七式軽爆撃機を20機装備し、カタパルトで発進させ、上空援護に当たる 様になっていました(これは実際には遣われていませんが)。 日中戦争では、杭州湾上陸戦などで用いられました。 太平洋戦争では、ジャワ上陸作戦に投入されましたが、味方巡洋艦の魚雷が命中して撃沈、後引き揚げられて、 再使用され、1945年1月にフィリピンで撃沈されています。 この同型船として、民間船として陸軍が資金を出す形で、建造されたのが、あきつ丸、にぎつ丸、熊野丸、ときつ丸 の4隻です。 但し、ときつ丸は建造中止になりました。 あきつ丸、にぎつ丸は、日本海運の客船として建造され、途中で、上甲板上面全部に飛行甲板を取付け、空母兼 上陸用舟艇母艦となりました。 これらは主に、対潜用空母として、三式連絡機、カ号観測機を搭載することになっており、空母的な外観が 色濃くなっています(1944年には更に飛行甲板を延長する予定でした)。 あきつ丸は1944年11月15日に撃沈、にぎつ丸は1944年1月12日に撃沈されています。 熊野丸は川崎汽船の持ち船として建造されましたが、こちらも、船橋構造物は撤去した空母的外観になって います。 但し、完成が1945年3月になったので、使用されず、敗戦後、引揚げ船となって、1947~51年まで、川崎汽船 の貨物船として使用されました。 航空機設備を持たないものとしては、同じく民間船として陸軍が資金を出す形で、摩耶山丸、吉備津丸、玉津丸、 高津丸、日向丸、摂津丸の6隻です。 これらは、後部に上陸用舟艇20~25隻程度を搭載しています。 摩耶山丸、玉津丸はいずれも、三井造船で建造され、前者は三井商船、後者は大阪商船で使用予定でした。 しかし、1942~44年に完成と同時に陸軍に引き渡され、前者は1944年11月17日に撃沈、後者も1944年8月19日に撃沈 されました。 高津丸は浦賀船渠で建造され、1944年完成、こちらは山下汽船の持ち船でした。 1944年11月のオルモック湾上陸を果たしましたが、二度目の上陸戦で撃沈。 吉備津丸、日向丸、摂津丸は日立因島で建造された戦時標準船1Aの改造で、吉備津丸は1943 年完成、1945年8月7日に触雷沈没、日向丸は1945年完成で、3月30日に触雷沈没、摂津丸は 1945年完成で、実戦に参加せずに終わりました。 戦後、摂津丸は引き揚げ業務に従事後、日本水産に引き渡されて捕鯨船団の冷凍船となりまし たが、南氷洋で事故によって沈んでいます。 なお、ときつ丸は、1944年10月に進水しましたが、1945年3月に工事中止、戦後に工事再開し、 1946年3月2日に日本海運の商船として引き渡されました。 >戦争中に建造されたのは何隻でしょう? 21隻が「太平洋戦争中に」建造されました。 22号については、1945年4月25日に呉工廠で進水しましたが、6月23日に90%完成状態で、 工事中止となっています。 なので、太平洋戦争中には21隻竣工。 しかし、22号は戦後工事を再開し、完成させていますので、輸送艦1号型としては、22隻建造 されています。 蛇足ですが、残りの23~46号は1945年3月に全部キャンセルされ、解体、鋼材は他に転用され ました。 #right(){(219:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本の防空駆逐艦は米国と比較して低性能だったのでしょうか? 一応、秋月を想定しているとして…。 日本の駆逐艦の場合は、対空機関砲としては25mm機関砲しかなく、それも、複葉機全盛の 時代に導入された代物でした。 その上は10cm高角砲であり、中口径の機関砲が無かった(毘式は無いに等しい)ので、 弾幕がどうしても薄くなりがちでした。 対空射撃完成機構については、九四式高射装置であり、これは優秀なものと言えるでしょう。 砲側の高射装置は、当初は複雑な構造の方位板測的装置と射撃盤を装備する予定でしたが、 結果的に簡便な照準器になっていますので、高射装置が破壊された後の戦闘力は落ちます。 末期には、九四式高射装置が供給不足となったので、2基取り付けるべきものを1基にしたりして いますし…。 また、米国に比べると電子機器の性能が少し劣っていたため、夜間の対空戦闘は困難でした。 更に個艦戦闘ではなく、集団的な戦闘となると米側の方が上を行きます。 運用とかについては、米軍の方に一日の長があります。 #right(){(201:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} 秋月型 12隻 フレッチャー型 175隻 アレン・M・サムナー型 70隻 43年後半辺りの米海軍の場合だと レーダーで捕捉→待機していた戦闘機が向かい迎撃→余ったのを各艦迎撃って流れが出来てる 一方日本海軍でもそういった考えは有ったけど態々数を増やした戦闘機に爆装させて 米艦隊に突入させたりレーダーや航空機の誘導がお粗末だったり #right(){(201:738)} **秋月級は防空駆逐艦であるのに初期は対空機銃装備が少ないのは、どうしてなんでしょうか? 秋月型設計時は、まだ本格的な対空戦闘なんて経験してないし。 訓練でさえ駆逐艦が本格的な対空訓練したのは昭和15年以降。 その後機銃は需要ばかり増えるけど、生産供給能力は全く不充分で、昭和19年のマリアナ戦あたりで漸く安定してくる。 軍縮明けで新造艦が増えただけでなく、開戦後は特設艦艇や徴用商船まで武装しなくちゃならん。 供給能力が足りないから、小艦艇は後回しで戦後や空母が優先になる。 #right(){(俺初質スレ710:591)} **「艦」と「艇」はどう違うのですか? 「艦」と「艇」を分ける明確な基準はありません。 最小の「艦」は佐久間艇長で有名な第6潜水艦。全長22m強・排水量60t弱。 最大の「艇」は元セニャーウィンの見島。全長79m、排水量5000t弱。 日露戦争後に量産した駆逐「艦」を大正末にそのまま掃海「艇」に流用したこともあり、 サイズは基準ではないです。 任務が同じで「艦」と「艇」が対応して違いが見られるのは ・駆逐艦と水雷艇(境界は600t) ・敷設艦と敷設艇(とはいえ規定なし。最小敷設艦八重山は1100t、最大敷設艇神島は770tで大きく違う) ・潜水母艦と潜水艦母艇(これも規定なし。潜水艦母艇の運用は近海に限定された巡洋艦崩れの老朽艦) 大正8年に潜水艇はすべて潜水艦に改称され、潜水艇に留め置かれたものは1隻もなく、 明確な区別があるとはいえません。 砲艦と砲艇、海防艦と海防艇は任務そのものが明確に違うので、同列には扱えません。 戦闘に用いる「艦」と「艇」に明確な区別はないと書きましたが 「特務艦」と「特務艇」は明確に違いがあります。 特務艦は実戦には参加せず、後方支援を行うもので、戦闘時は沈まないよう逃げるか祈るか…。 特務艇は沿岸部や軍港に限定されますが、戦闘となれば射撃に機雷敷設に爆雷投射に突撃していく戦闘用の船です。 「砲艇」は日華事変時には実在しました。 「砲艦」では進入できないクリークや池でパトロールや機銃掃射などを行うもので、 類別表には記載されない「雑役船」扱いです。 「海防艇」は終戦に間に合わなかった幻の類別で 「海防艦」が船団護衛をするのとまったく違い、こちらは回天運搬船でした。 #right(){(207:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)} **日本では漁船を改造した特設掃海艇や特設駆潜艇を数多く作りましたが、これらには爆雷や掃海具は当然として、砲や機銃は装備されたのでしょうか? ソースが大昔の丸スペ(49号)で申し訳ないが 開戦前から特設駆潜艇は徴用が進められていたが 当初の砲装備は艇首に8cm砲・短8cm砲などで機銃類は装備されていなかった その後特設艇にも対空火力の必要性が言われるようになり 18年以降は7.7mm機銃や13mm機銃を増備するようになった 特設監視艇についてはこの本では分からないが、 その後建造された哨戒特務艇が25mm機銃4挺と爆雷のみ、駆潜特務艇は機銃1挺と爆雷のみであることを考えると 特設監視艇の装備も精々が機銃1挺程度と推察される 余談だがこの丸スペの44P上に第7昭南丸(355総トン)のほぼ真横から見た写真が載っていて キャプションでは「前檣と船檣の間に94式爆雷投射機を装備」と書いてあるが どう見ても大型の迫撃砲があるようにしか見えない 蛇足だが。 大内健二氏の光文社文庫本シリーズを読むと答が書いてあるよ。 戦う日本漁船とか特設艦艇入門とか。 #right(){(721:657-659)} ----
旧日本軍の戦艦・空母・巡洋艦の話題は、[[各種戦艦]]・[[大和型]]・[[日本の空母]]・[[重巡・軽巡]]をご覧下さい。 ---- #contents ---- **震洋やマルレは、木製のようですが、夜間に出撃したかどうかわかりませんが、連合軍のレーダーに引っ掛かる可能性があったのでしょうか? 海の上には波があり、シークラッターという複雑なエコーが常に流動しています。 これは潜水艦のシュノーケルや水上艦のステルス化が一定以上進まない原因なのですが、 逆に補足する側にとっても障害になります。 つまり、ある程度波のある海上に浮かんでいるだけで、隠れ蓑をまとっているのと 同じ効果があるのです。 そのため、対水上レーダによる小型木造船の遠距離補足には現代でもある程度の 限界があります。 マラッカ海峡付近の海賊はこの原理を利用し、パンチュンという小型高速の 動力付き木造船を駆使して気付かれる前に大型タンカー等の死角に入り込もうと する手口を使っています。 ただし、いってしまえばそれまでの事で、人員の少ない民間船ならともかく 警戒要因の多い警備や軍用艦船にとっては、闇夜に紛れて油断の合間を縫う 程度の効果しかなく、戦時下で警戒を厳にしていると厳しいものがあるでしょう。 なにせ、旧軍は夜間の対魚雷警戒すら目視で航跡を発見する方法で対処しています。 #right(){(657:378)} **戦標船改E型の「焼玉エンジン」ってなんでしょうか? 「焼玉エンジン」は、ピストンで圧縮されたガスを、バーナーで熱した鋳物の球に接触して爆発させる機関で、通常は重油を燃料とする。 戦時中、特に、終戦間近には、石油不足で、魚油などが使 われた。 浦安市郷土博物館に実演展示されています #right(){(5:834)} **かなり前の神戸新聞の投稿欄に祖父が呉海軍工廠で特殊潜航艇を作っていた(回天か?)という50代くらいの女性の投稿があったのですが、 >彼女の投稿によると祖父は設計の重要な立場に居たらしく家には資料があるとか。 >そして彼女は祖父のことを誇りに思い、特殊潜航艇の他にも「水陸両用魚雷」なる物も開発していたと証言。 >ソースは示せず、恐縮ですが、はたしてそんな兵器は存在するのでしょうか? 確証はありませんが、特4式内火艇のことではないでしょうか? 設計が呉工廠造船調査部で 製造が三菱重工、さらに改修が呉工廠で行われています。 設計は堀元美少佐一人で行われたそうなので(また堀氏は潜航艇建造には不参加) この改修の際に関わられたの工廠関係者の方ではないかと #right(){(10:名無し厨尉)} 単に第二次大戦前までの「海防艦」というのは、単に旧式、二線級となった 軍艦の総称で、海防戦艦的な用途に使われたというのは些か穿ちすぎの ような気がします。 単に「予備艦」という艦種であれば、そこに配属される将兵の士気にも関わ りますし、国民の視線も冷ややかでしょう。 多少なりとも、軍艦っぽいネーミングにしてイメージ向上を行ったのが真相 ではないでしょうか。 #right(){(10:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)} **旧日本海軍の給油艦知床型(一番艦能登呂)は軍艦でしょうか? 旧海軍で軍艦は以下のものだけです。(太平洋戦争末期) 戦艦 航空母艦 1等巡洋艦 2等巡洋艦 水上機母艦 潜水母艦 敷設艦 練習戦艦 練習巡洋艦 というわけなので日本海軍の中では給油艦である知床型は軍艦ではないです。 #right(){(18:バッチ3)} **「梨」→「わかば」の改装はどんなものだったのですか? 昭和20年屋代島沖で沈められました。 大蔵省が業者に売却して、昭和29年に引き上げられ、スクラップとして払い下げましたが、状態が良かったために、 その業者が防衛庁に売り込みを図り、紆余曲折の末、護衛艦となったものですね。 「梨」→「わかば」は、沈没していたために、多分船体内部の洗浄、機関修理は実施したでしょうが、 機関を撤去してまでするのであれば、貧乏所帯の海自は買わなかったでしょう。 あとは、武装を米式の対潜護衛艦並みに、更に電測兵装を追加しているだけのようです。 他にも枚挙に暇がありませんが、比較的有名なのが真珠湾で沈んだ戦艦の再生、 ツーロン港で自沈した駆逐艦の再生というのがあります。 #right(){(24:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **丹陽こと雪風が賠償艦として、国民党に貰われていったエピソードは有名ですが >丹陽は具体的に何年ごろから何年ごろまで、中華民国の旗艦だったのでしょうか? 丹陽について細かい話をこちらを見てください。 nttp://homepage1.nifty.com/HARPOON/UMAX15.html なお、文中に出てくるグリーヴス級駆逐艦とは DD421ベンソンとDD427ヒラリーPジョーンズで、54年に中華民国に引渡されております。 その他リヴァモア級駆逐艦2隻(DD431プランケット/DD456ロッドマン)も 59年と54年に引き渡されています。 #right(){(33:名無し軍曹)} **戦時中、帆船日本丸が輸送船として瀬戸内海を走ってたと聞いたのですが、知ってる方教えて下さい。 運輸省管轄で、石炭輸送を行っていたそうです。 #right(){(11:名無し厨尉)} **正規工作艦明石の歴史と性能について教えて 昭和9年度の軍縮条約下に於ける第二次補充計画によって建造が計画され、 1937年に佐世保工廠で起工、1939.7.31に竣工しています。 この艦は当時最新鋭だった、米海軍の工作艦メデューサ級をタイプシップとして 建造されており、艦内には日本でも最新鋭のドイツ、米国製の精密加工機械を装備していました。 1942年の改○5計画によって三菱横浜にて同型2隻を建造する計画でしたが、 資源不足、戦局の推移によって実現しませんでした。 実現したら、「三原」「桃取」になっていたようです。 太平洋戦争勃発時はフィリピン攻略部隊に属し、以後はトラック島に在泊し、 その陸上工作部と共同で損傷艦の修理に活躍しました。 1944.2.17~18に掛けての米軍のトラック空襲で大破し、3.30にパラオで空襲を受けて沈没しました。 排水量9000t、全長158.5×全幅20.5×喫水6.25m、機関タービン10,000shp、速力19.2kt、 武装として12.7cm連装高角砲2門を艦の前後に装備し、艦内に工作機械114台を設置、 工員433名が17の工場に分かれて、勤務していました。 #right(){(47:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **旧日本海軍の艦艇は大和級戦艦からバルバスバウが装備されていますが中身はバウソナーなのでしょうか? 詳細な資料が手元にないのですが、バルバスバウを装備しているのは大和型戦艦と翔鶴型空母 くらいです。 あとの艦はたいていスプーンバウかクリッパーバウのはず。 ソナーにしても装備している艦はそんなに多くなく、海防艦などがハルソナーを装備していて バウソナーは装備していません。 バウソナーを装備しだしたのは戦後の艦です。 それに、大和型戦艦のバルバスバウって今の商船みたいに大きくないです。 #right(){(51:名無し軍曹)} 大和の艦首には水中聴音器が装備されてます。 #right(){(51:437)} **日本の軍艦で、艦命符字で大和・JGAA、長門・JGIA、赤城・JQSAってありますが、何の略? 国際無線符合 現在のフネにもあるよ。 #right(){(53:8)} **防空駆逐艦「秋月」には射撃用のコンピュータが積まれていたのですか? そんな事実はありません。 #right(){(60:742)} 電波探信儀はレーダーです。コンピュータとは呼ばないほうがよいでしょう。 1.戦艦にも電探は積まれていました。 2.陸軍では電波警戒機という名でレーダーを使用していました。 #right(){(60:745)} えー秋月級に限らず、高射砲を装備している艦にはだいたい「高射装置」という 対空射撃用の照準装置が付いていました。これは機械式計算機を組み込んだもので (これについては高射装置以外の管制装置も同じですが)、様々な情報を入力すると 射撃諸元を示すようになっていました。 なお、このような射撃装置は海軍の一部の防空陣地にも設置されていたといいます。 陸軍については私の手元に資料がないもので・・・。 上のレスにもありますが機械式計算機ですのでコンピュータとは言い難いですね。 また、最近の調査で秋月級の初期の艦も装置自体は1基しか積んでいなかった という説がでてきたようです。 #right(){(60:747)} >普通の高射砲部隊には射撃指揮コンピュータ等配備されていたのでしょうか? 佐貫マタオ氏の書いた本にドイツの高射砲部隊には単純なアナログコンピュータと いうべきものが装備されていたとか書いていたような気がします。 #right(){(60:748)} **内火艇の火はどういう意味ですか? 大辞林第二版より [内火艇]ないかてい 内燃機関で走る小艇。 #right(){(61:822)} **大戦中の日本の大型艦っていくどと蒸気タービンを機関としてるのに燃料がねえから作戦行動がとれないっておかしくないですか? >蒸気機関って石炭と水で動くはずなんで、石炭は日本で取れるんで問題ないんじゃないですか? それは石炭燃焼缶の場合だろ。海軍のフネは重油燃焼缶だったので、大規模な改造が必要。 石炭を動力源にするか、重油を動力源にするかで、同じ蒸気タービンと言えど、出力や特性が全然違ってくる。 フェラーリ持ってきて、アルコールでも動くんじゃね?って言うのと一緒。 石油は液体なのでポンプで圧力を掛ければボイラー内に入っていくが、石炭は固体なので人が投げ込まねばならない。 また、石油はバーナーを奥まで伸ばせるのでボイラーの厚みを大きく出来るが、石炭だと人の投げ込める距離以上は 無意味なので厚く出来ない。 その分大型化できず数を揃えなければならなくなる。 このため石油が世界中の港の多くて入手できるようになると石炭専焼ボイラーや混焼ボイラーは廃れ、重油専焼ボイラーが主流となる。 また、日本国内で取れる石炭はあまり質が良くない。 蒸気機関だって、確かに燃料は選ばないがそれは構造が単純だから、釜に入れればとりあえず燃えるだけであって 蒸気を発生させるのに必要な燃料を投入しなければ、燃費の問題で逆に非効率になったり、出力不足で動きません なんてことも普通だ。 極端な話、石炭の代わりに木炭とか紙とかで蒸気機関動力船を動かせなんて、どれだけ燃料積むんだよってことになるし #right{(507:290-315)} **標的艦となった摂津に積まれた遠隔無線誘導装置の製造国・メーカーを教えてください 海軍の技術研究本部電気部が昭和三年に開発しました。 システムは速力管制装置と針路管制装置を組み合わせた物です。 動力の電動機と電池を使用して無線操縦をします。 但し、ボイラーの自動噴燃装置はドイツのアスカニア社が開発した物を輸入して機関の遠隔管制に使用しました。 参照図書はなんと! 歴史群像2001年12月号のp12です。 我ながら歴群を見直しましたね。 追記、 システムの予算化は昭和9年に認められました。 摂津の標的艦としての完成は昭和12年です。 操作関係に関してはWikiの標的艦摂津に記載されています。 #right(){(601:不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk)} **旧日本海軍の艦艇の艦首には、フレアはあってもナックルは一部の駆逐艦にしかない、という印象なのですが、実際はどうだったのでしょうか。 当時の日本の軍艦はより良好な凌波性や高い速力を追求しまくっていたので、より自然なライン を追求した当然の結果と思われる。艦首/艦尾形状、舵など、あらゆる部分について、熱心な トライ&エラーが繰り返されていた。 ところが戦時になり、テクがどうこう言う前に「数」が足りなくなったので、「松」型駆逐艦に至って ようやく簡素化されナックルになった。性能低下が心配されたが、予想に反して大したデメリット は出なかったという。それまでが"凝りすぎ"だったというわけ。 #right(){(299:105)} **日本軍の輸送艦で最大搭載量の艦ってなに?またどれくらい積めるの 二次大戦の輸送船は枢軸・連合とも一般商船を徴用したものがほとんどで、専用の輸送艦は開戦後に建造されている。 連合軍側最大の輸送船は豪華客船として有名なクイーン・メリーで8万1237総トン。 日本で最大は日本水産の捕鯨母船第3図南丸が1万9206総トンで、タンカーとして使った。 タンカー以外の特設運送艦では、日本郵船の浅間丸型1万6947総トンが最大かな。 まあ単純に排水量で言うと、戦艦や正規空母でさえ輸送任務についてるけど。 日本ではそもそも1万総トン超える商船自体数える程しかないし、新田丸型とか氷川丸型とかほとんどが豪華客船だな。 #right(){(俺初質スレ431:689)} **帝国海軍で「内火艇」を「うちびてい」と呼んでいたらしいけど、これって一体どこから出た呼び方なんじゃろか。 http://www.warbirds.jp/ansq/21/B2001408.html >以上から見て、明治大正期には「うちびてい」と言っていたものが、昭和に入って遅くとも昭和10年までには「ないかてい」と呼称が変更されたものと考えます。 #right(){(684:370)} **第二次大戦時に艦船の探照灯は、どれぐらい使用されたんでしょうか? 日本海軍の戦術では、夜襲に於て探照灯を使用した射撃と言うのがデフォでした。 従って、夜襲を行う場合は、探照灯を結構使用しています…としか回答出来ないなぁ。 但し、連合国の電探精度が上がると逆に目標にされて悲惨な目に遭うわけですが。 #right(){(286:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **帝国陸軍の河川用装甲砲艇は、日本軍の武装解除後に国共内戦やベトナム独立戦争で使用されたんでしょうか? 残念ながら、陸戦兵器の整備に手一杯で、(中国共産党の場合は)次いで空軍の整備、 水上兵力は後回しとなり、結局使用されていません。 尤も、利用する場所がありませんし。 #right(){(278:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **大発って何ですか?ダイハツという車の会社と関係があるのでしょうか? 大発(大発動艇)は陸軍運輸部が開発した戦車・重量兵器用陸用舟艇です。 大正13年の訓令事項により ・武装兵約60名を搭載しえること ・馬匹・野砲・軍需品を搭載しえること ・重量六トンを限度とすること などを条件として開発されました。、 大正14年に試作型であるA型(LB-A)が完成し、さらに改良型として船首の一部を 歩板にしたB型・船底肋骨を2本にしたC型・大型化して戦車の揚陸を可能としたD型が 製造されました。 D型は全長14.88メートル、自重9.5トンで八九式中戦車が搭載可能でした。 さらに戦車の重量増に対応して97式中戦車(13.5トン)搭載可能な15トン型特大発動艇 「〇セ(丸の中にセ)-LB」や26トン戦車搭載可能な30トン型大発動艇を 超大発動艇(S-N-LB)として試作しています。これは大型発動艇とも呼ばれました。 この他にも木製大発動艇・折畳式大発動艇などが開発されました。 また、兵員揚陸用として小発動艇が存在し、A~C型が製造されました。これは C型で自重3.5トン、武装兵20名または物資3トンが搭載可能でした。 #right(){(124:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **大戦中、日本ではコンクリート製の輸送船が作られ、これが結構優れものだったと言いますが、 >コンクリートで軍艦(砲雷撃艦は無理でしょうが、空母・護衛艦など)を作るのは無理でしょうか? コンクリ船建造時の担当官の考え方としては、  (1) 本格的な量産は考えない。コンクリ船は鋼船の補助的な存在程度のものであって、これにより     幾分の補いは付くが、これだけに頼る訳にはいかない。  (2) 鋼材の供給力が十分に成った時には廃止されるべきものであって、戦時中と雖も、便法とされる     べきものである。 と言うものであり、期待はしていません。 逆に、  (1) 船価は、鋼船の二倍になるので、特別の措置を必要とする。  (2) 建造地には、冬期でもコンクリート工事施工可能な温暖な地を必要とすること。  (3) 線材として、甲造船の際に余る鋼材を充てることになっていたが、甲造船そのものが少なくなったので、     線材が利用出来なくなったこと。  (4) コンクリートも良質のものが必要であること。  (5) 鋼材の使用量は確かに少なくなるが、逆に型枠に使用する木材の使用量が二倍以上必要となること。 と言うデメリットが発生しており、また、普通のコンクリートでは、耐水性の問題で、没水部を薄板鋼板で覆っています。 耐水性コンクリートとして硫酸銅セメントを用いることが考えられ、小型船が進水間際まで行きました。 このほか、マグネシヤセメント船も研究されましたが、これとて、  (1) 一隻当り所要資材のうち鋼材の使用量は余り減らないし、木材も従来の木造船の半分を消費する。  (2) マグネシヤの原料は朝鮮あるいは関東州であり、内地にはない。  (3) 構造から鑑みても、木造船に比べて工数と建造機関が掛かりすぎる。 と言う理由で、研究はされたものの、実用は見送られています。 #right(){(128:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **対潜兵器の「捕獲網」は、どのように使うのでしょうか? >日本の正規捕獲網艇は燕と鴎の2隻なので、2艘曳きトローリングと同じ要領と思っていましたが >特設捕獲網艇の場合、特設駆潜艇2隻と特設捕獲網艇1隻で1個駆潜隊を編制すると最近知りました。 >1隻でどうやって曳くのでしょうか? 一四式一型あるいは二型が用いられています。 これは、長さ100m、幅35mの鋼索製の網で、五枚を一組とし、網の上方には浮子を、 下方には海底に達する索を取付け、重錘を以て海上に沈着させるものです。 特設捕獲網艇は、最大500~1000総トンの貨客船、客船、貨物船で、改造要領は、 船尾楼甲板上に鉄骨木製の捕獲網敷設台を設けます。 これは、大きく外舷から張り出した矩形平面のもので、両側には網を掛ける柵が 立っています。 後部船倉を網庫として、捕獲網は網庫内に四組搭載し、二組を敷設台上に組立て てから敷設します。 敷設台後方には網用錨ダビッドがあり、網は台の後端から滑り落ちる仕掛けです。 要は曳航するのではなく、落っことして、置いておく様な感じでしょうか。 #right(){(143:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本の戦時標準船の「改E」系列は、きわめて評判が悪いようですが、 >やはり改Eの大量産と言う方針は誤りだったのでしょうか? 1941年秋の状況で無限と言うほどの船腹量が必要になってきますが、 D型以上の建造は施設的にも材料的にも行き詰まってきたことで、その 改善が見込めず、全くの応急用としてのE型船量産という着眼点はそれ なりに良かった訳でして。 その特徴として、 (1)小型であるため建造技術が簡単で必ずしも専門家、熟練工を多数必要としない、 (2)建造施設を簡易、かつ、急速に設備しうる。 (3)量産思想に依って、工作し得る程度の大きさである (4)主要材料である厚板は、造船材を作成していない中小製鉄所の設備、技術でも量産可能。 と、誠に以て、良いことずくめで、特に軍備と競合しないので、海軍としては魅力的に写ったのだと 思いますが、量産したは良いものの…。 (1)冬季北方、日本海での使用は困難(航行できないと言うが、こんな所を走らせるために作ったんじゃない、   と設計者は切って捨てていますが。) (2)低速である(軽荷状態で強風を船首方向から受けると操舵、保針に困難が生じる、というのは認めましょう。) (3)居住性不良(思想と観点の問題と、設計者は切って捨てていますが) (4)工事粗漏(造船所の責任と、設計者は切って捨てていますが) (5)機関故障(焼玉機関は焼玉としては出力過大だけど、これは油と発動機工場の質低下に帰する、と設計者は切って捨てていますが) (6)焼玉揚貨機の不調(工作不良と運航者の問題と、設計者は切って捨てていますが) と例によって、基礎技術の伴わない状況が出てきています。 また、船型の改善が難しく、播磨造船所では、貨物船を油槽船に切り替えるために、月間10隻の竣工予定が、7隻に落ち込んだりして います。 #right(){(143:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本の駆逐艦で主砲塔を一基下ろして、機銃を載せるという改装をした艦があったと思うのですが 樅級は1943年頃から3番砲を撤去して代償に対空火器と電探を装備。 神風級は1943~44年に掛けて4番12cm砲を撤去してその跡と艦橋前部に25mm連装機銃2基づつを装備。 若竹級も12cm砲を2基降ろして対空機銃を増備。 睦月級は12cm砲1~2門を降ろして対空機銃を増備。 吹雪級は1943年後期頃から12.7cm3番砲塔を降ろして25mm三連装機銃2基と換装し、艦橋前面に25mm連装 機銃1基と2,3番魚雷発射管中間に25mm三連装機銃2基を追加。 初春級は1944年に入って、単装砲塔を撤去し、25mm三連装機銃1基と換装。 白露級も初春級と同様。 朝潮級は1944年頃に12.7cm2番砲塔を撤去して吹雪級と同様の改装を実施。 夕雲級は1944年以降に12.7cm2番砲塔を撤去して25mm三連装機銃2基と換装。 但し、最後期に建造されたものは、砲塔撤去が無かったです。 ついでに、千鳥級は後部主砲を撤去し、25mm連装機銃2基、単装4基を増強、 鴻級も同様ですが、25mm単装機銃の門数が5基になっています。 #right(){(155:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **特設航空機運搬艦に飛行艇は積めますか? 飛行艇は搭載できません。 大艇の補充は基本的には空輸になっていた筈。 空運乙は、若干機(2~3機)の水偵を後部上甲板上に露天格納するほか、主翼、胴体を分解して船倉内に10機が搭載 出来るようになっています。 また、前後部の船倉、甲板間貨物倉の大部分がドラム缶入りのガソリン、爆弾、魚雷の格納所であり、前部は人員と各種 雑物件の収容所となっていました。 りおん丸の場合は、前部中甲板区画は航空隊兵員、飛行場設営隊員など500名分の居住区画、船橋楼内の上甲板区画 が船固有の兵員室、船尾楼は准士官以上の居住区で、40名収容。 貨物倉内の一部には機械工場、木工工場、鍛冶、熔接工場が設置され、石炭庫と真水タンクを増設しています。 なお、名古屋丸は潜水母艦からの改造であり、船倉内に解体機を搭載しませんでした。 #right(){(156:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本海軍は機動部隊防空のための秋月型を多数製造しましたが、秋月型以外に防空目的の駆逐艦を設計したのでしょうか? 駆逐艦と言うより、当初は巡洋艦を志向しています。 英国の旧式軽巡洋艦改造の防空巡洋艦を手本に、旧式化した天龍型とか5500t型軽巡洋艦の主砲を 高角砲に換装し、高射装置を完備、雷装を全廃して直衛艦とするのが一番最初。 ところが、これは予算が可成り掛かる上に、防空性能不十分、しかも、旧式と言えど、未だ十分に水雷 戦隊旗艦として役に立つこともあり、又、これらは艦隊決戦に際し、重雷装艦とすることが考えられまし たので、防空巡洋艦構想は後に多摩が改造されただけでした。 で、その替わりに新型の防空巡洋艦を設計します。 これは大淀型とほぼ同じ9000tで、10cm高角砲の連装砲塔を12基搭載、高射装置は4基搭載という立派 なものでしたが、これは威力十分な替わりに船価が高く、実現の見込み無く、一艦で対応する巡洋艦よりも、 数隻で対応する駆逐艦の大型化という方向に進んでいきます。 当初は、駆逐艦ではなく、直衛艦という種別でこの艦は呼ばれました。 これで設計されたのが、W-115計画案で、原案は魚雷発射管無し、第二案で、魚雷発射管1基を搭載し、 第三案はそれが二基に増えました。 結局第三案は過大に過ぎ、第二案を元に計画が進められています。 なお、○5計画では、島風型のボイラーと主機を採用し、速力を33ktsから37ktsに向上、基準排水量を300t 増して3000tとし、魚雷発射管には新設計の6連装を1基搭載し、機器配置は缶-機-缶-機の交互配置を 日本の駆逐艦では初めて採用する予定でした。 #right(){(238:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本軍の特設工作船ってどんな船かわかります? 「特設」と言うのは、民間の船を徴用して、海軍の籍に入れたものです。 特設工作艦(工作船でなく)なら、民間の6,000総トンの貨物船に工作施設を備え、 損傷応急修理を目的とし、工作施設は戦況の最後まで機能を果たさなければ ならず、しかも、この艦を失えば、味方の修理能力が落ちることから、敵からも執拗に ねらわれたため、損耗の最も多い艦種です。 その施設は、例えば、上甲板に作業場、飛行機工場、電気・航海・光学・無線工場を 持ち、第二甲板には各科倉庫、機械工場、工具室、魚雷工場、木工場を、船艙内に新設 した甲板には索具および塗具倉庫、救難要具および鋼材などの材料庫、造兵・造機材料庫、 補機室、鍛冶工場、溶接工場、造船・造兵材料庫、そして、船艙には弾薬庫、救難関係倉庫、 糧食庫、修理材料庫、鍛冶工場、鋳物工場を備えています。 専門の工作艦には、明石、そして旧式戦艦の改造である朝日がありましたが、1941年の松栄丸を 皮切りに、山彦丸、八海丸、山霜丸、白沙、そして、2TM改造の慶昭丸が改造されています。 これら特設艦は全部撃沈されています。 #right(){(162:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **大戦初期の日本の揚陸艦って神州丸くらいしか聞きませんが、当然他にもありますよね? 1935年に神州丸が播磨造船で建造されました。 これは極秘に建造されたもので龍城とかMT船という名称で呼ばれました。 船内に上陸用舟艇を20隻収容し、上陸地に近づくと、船尾のドアを開けて、後部に舟艇を出すLSD的用法を 想定していたほか、九一式戦闘機と九七式軽爆撃機を20機装備し、カタパルトで発進させ、上空援護に当たる 様になっていました(これは実際には遣われていませんが)。 日中戦争では、杭州湾上陸戦などで用いられました。 太平洋戦争では、ジャワ上陸作戦に投入されましたが、味方巡洋艦の魚雷が命中して撃沈、後引き揚げられて、 再使用され、1945年1月にフィリピンで撃沈されています。 この同型船として、民間船として陸軍が資金を出す形で、建造されたのが、あきつ丸、にぎつ丸、熊野丸、ときつ丸 の4隻です。 但し、ときつ丸は建造中止になりました。 あきつ丸、にぎつ丸は、日本海運の客船として建造され、途中で、上甲板上面全部に飛行甲板を取付け、空母兼 上陸用舟艇母艦となりました。 これらは主に、対潜用空母として、三式連絡機、カ号観測機を搭載することになっており、空母的な外観が 色濃くなっています(1944年には更に飛行甲板を延長する予定でした)。 あきつ丸は1944年11月15日に撃沈、にぎつ丸は1944年1月12日に撃沈されています。 熊野丸は川崎汽船の持ち船として建造されましたが、こちらも、船橋構造物は撤去した空母的外観になって います。 但し、完成が1945年3月になったので、使用されず、敗戦後、引揚げ船となって、1947~51年まで、川崎汽船 の貨物船として使用されました。 航空機設備を持たないものとしては、同じく民間船として陸軍が資金を出す形で、摩耶山丸、吉備津丸、玉津丸、 高津丸、日向丸、摂津丸の6隻です。 これらは、後部に上陸用舟艇20~25隻程度を搭載しています。 摩耶山丸、玉津丸はいずれも、三井造船で建造され、前者は三井商船、後者は大阪商船で使用予定でした。 しかし、1942~44年に完成と同時に陸軍に引き渡され、前者は1944年11月17日に撃沈、後者も1944年8月19日に撃沈 されました。 高津丸は浦賀船渠で建造され、1944年完成、こちらは山下汽船の持ち船でした。 1944年11月のオルモック湾上陸を果たしましたが、二度目の上陸戦で撃沈。 吉備津丸、日向丸、摂津丸は日立因島で建造された戦時標準船1Aの改造で、吉備津丸は1943 年完成、1945年8月7日に触雷沈没、日向丸は1945年完成で、3月30日に触雷沈没、摂津丸は 1945年完成で、実戦に参加せずに終わりました。 戦後、摂津丸は引き揚げ業務に従事後、日本水産に引き渡されて捕鯨船団の冷凍船となりまし たが、南氷洋で事故によって沈んでいます。 なお、ときつ丸は、1944年10月に進水しましたが、1945年3月に工事中止、戦後に工事再開し、 1946年3月2日に日本海運の商船として引き渡されました。 >戦争中に建造されたのは何隻でしょう? 21隻が「太平洋戦争中に」建造されました。 22号については、1945年4月25日に呉工廠で進水しましたが、6月23日に90%完成状態で、 工事中止となっています。 なので、太平洋戦争中には21隻竣工。 しかし、22号は戦後工事を再開し、完成させていますので、輸送艦1号型としては、22隻建造 されています。 蛇足ですが、残りの23~46号は1945年3月に全部キャンセルされ、解体、鋼材は他に転用され ました。 #right(){(219:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本の防空駆逐艦は米国と比較して低性能だったのでしょうか? 一応、秋月を想定しているとして…。 日本の駆逐艦の場合は、対空機関砲としては25mm機関砲しかなく、それも、複葉機全盛の 時代に導入された代物でした。 その上は10cm高角砲であり、中口径の機関砲が無かった(毘式は無いに等しい)ので、 弾幕がどうしても薄くなりがちでした。 対空射撃完成機構については、九四式高射装置であり、これは優秀なものと言えるでしょう。 砲側の高射装置は、当初は複雑な構造の方位板測的装置と射撃盤を装備する予定でしたが、 結果的に簡便な照準器になっていますので、高射装置が破壊された後の戦闘力は落ちます。 末期には、九四式高射装置が供給不足となったので、2基取り付けるべきものを1基にしたりして いますし…。 また、米国に比べると電子機器の性能が少し劣っていたため、夜間の対空戦闘は困難でした。 更に個艦戦闘ではなく、集団的な戦闘となると米側の方が上を行きます。 運用とかについては、米軍の方に一日の長があります。 #right(){(201:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} 秋月型 12隻 フレッチャー型 175隻 アレン・M・サムナー型 70隻 43年後半辺りの米海軍の場合だと レーダーで捕捉→待機していた戦闘機が向かい迎撃→余ったのを各艦迎撃って流れが出来てる 一方日本海軍でもそういった考えは有ったけど態々数を増やした戦闘機に爆装させて 米艦隊に突入させたりレーダーや航空機の誘導がお粗末だったり #right(){(201:738)} **秋月級は防空駆逐艦であるのに初期は対空機銃装備が少ないのは、どうしてなんでしょうか? 秋月型設計時は、まだ本格的な対空戦闘なんて経験してないし。 訓練でさえ駆逐艦が本格的な対空訓練したのは昭和15年以降。 その後機銃は需要ばかり増えるけど、生産供給能力は全く不充分で、昭和19年のマリアナ戦あたりで漸く安定してくる。 軍縮明けで新造艦が増えただけでなく、開戦後は特設艦艇や徴用商船まで武装しなくちゃならん。 供給能力が足りないから、小艦艇は後回しで戦後や空母が優先になる。 #right(){(俺初質スレ710:591)} **「艦」と「艇」はどう違うのですか? 「艦」と「艇」を分ける明確な基準はありません。 最小の「艦」は佐久間艇長で有名な第6潜水艦。全長22m強・排水量60t弱。 最大の「艇」は元セニャーウィンの見島。全長79m、排水量5000t弱。 日露戦争後に量産した駆逐「艦」を大正末にそのまま掃海「艇」に流用したこともあり、 サイズは基準ではないです。 任務が同じで「艦」と「艇」が対応して違いが見られるのは ・駆逐艦と水雷艇(境界は600t) ・敷設艦と敷設艇(とはいえ規定なし。最小敷設艦八重山は1100t、最大敷設艇神島は770tで大きく違う) ・潜水母艦と潜水艦母艇(これも規定なし。潜水艦母艇の運用は近海に限定された巡洋艦崩れの老朽艦) 大正8年に潜水艇はすべて潜水艦に改称され、潜水艇に留め置かれたものは1隻もなく、 明確な区別があるとはいえません。 砲艦と砲艇、海防艦と海防艇は任務そのものが明確に違うので、同列には扱えません。 戦闘に用いる「艦」と「艇」に明確な区別はないと書きましたが 「特務艦」と「特務艇」は明確に違いがあります。 特務艦は実戦には参加せず、後方支援を行うもので、戦闘時は沈まないよう逃げるか祈るか…。 特務艇は沿岸部や軍港に限定されますが、戦闘となれば射撃に機雷敷設に爆雷投射に突撃していく戦闘用の船です。 「砲艇」は日華事変時には実在しました。 「砲艦」では進入できないクリークや池でパトロールや機銃掃射などを行うもので、 類別表には記載されない「雑役船」扱いです。 「海防艇」は終戦に間に合わなかった幻の類別で 「海防艦」が船団護衛をするのとまったく違い、こちらは回天運搬船でした。 #right(){(207:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)} **日本では漁船を改造した特設掃海艇や特設駆潜艇を数多く作りましたが、これらには爆雷や掃海具は当然として、砲や機銃は装備されたのでしょうか? ソースが大昔の丸スペ(49号)で申し訳ないが 開戦前から特設駆潜艇は徴用が進められていたが 当初の砲装備は艇首に8cm砲・短8cm砲などで機銃類は装備されていなかった その後特設艇にも対空火力の必要性が言われるようになり 18年以降は7.7mm機銃や13mm機銃を増備するようになった 特設監視艇についてはこの本では分からないが、 その後建造された哨戒特務艇が25mm機銃4挺と爆雷のみ、駆潜特務艇は機銃1挺と爆雷のみであることを考えると 特設監視艇の装備も精々が機銃1挺程度と推察される 余談だがこの丸スペの44P上に第7昭南丸(355総トン)のほぼ真横から見た写真が載っていて キャプションでは「前檣と船檣の間に94式爆雷投射機を装備」と書いてあるが どう見ても大型の迫撃砲があるようにしか見えない 蛇足だが。 大内健二氏の光文社文庫本シリーズを読むと答が書いてあるよ。 戦う日本漁船とか特設艦艇入門とか。 #right(){(721:657-659)} ----

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