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日露戦争」(2023/09/27 (水) 00:03:15) の最新版変更点

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#CONTENTS ---- **日本海海戦の時ってどんな感じだったのですか? 日本海海戦の時は、重油でなく石炭焚きですから、煙で敵の接近を知りました。 その煤煙を目標にして、水平線上に艦影に映ってから照準を行いました。 #right(){(11:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)} **日本海海戦のときに連合艦隊がバルチック艦隊の艦船に日本語の当て字を使ってたと思うのですが。 旗艦クニャージ・スウォーロフ 国親爺坐ろう アレクサンドル3世 呆れ三太 ボロヂノ ボロ出る アリヨール 蟻寄る オスラービヤ 押すとピシャ シソイウェリーキー 薄いブリキ アブラクシン 油布巾 ドミトリー・ドンスコイ ごみ取り権助 イズムルード 水漏るぞ 手許に本がないのでうろ覚えですが、こんな感じだったと思います。 この話は、日本側から日本海海戦を取り上げた本にはたいてい出ているかと。 #right(){(13:868)} **日露戦争で南米のどこかの国の軍艦を要らなくなったから日本が2隻ぐらいもらったから、海戦に勝てたと聞きましたが アルゼンチンです。 巡洋艦「モレノ」「リヴァダヴィア」をそれぞれ買い取り装甲巡洋艦「日進」「春日」と命名しました。 正確には要らなくなったのではなく、イギリスが手を回して建造中の船を日本に買い取らせたのです。 #right(){(29:名無し軍曹)} **日露戦争のルーズベルトの調停は将来の日米の対立に備えて、日本に不利な内容にしたのでしょうか? んなこたぁ無いです。 継戦能力が限界にきててルーズベルトに頼るしか打つ手が無かった日本、 相次ぐ敗北で国際金融資本に見捨てられかけてたロシア、 こんな状況でどちらか一方のみにだだ甘の条件で手打ちなんか出来ませんって。 戦略的には痛みわけ、戦術的には日本の勝利ということで 戦前の日露交渉を日本有利の形で決着させる、ってのは妥当な線です。 日本が奉天・ウラジオも一気呵成に占領、 満州全域を支配下に収めロシアは極東の拠点をすべて失った……とかいう戦況であの条件なら、 そりゃああなたの言うような側面もあったかもしれませんが。 #right(){(33:373)} **日露戦争時のロシア艦隊の編成について教えて下さい。 戦艦 Imperator Nikolai I(1891年竣工→1905年敗残艦隊を率いて降伏し、二等戦艦「壱岐」になり         後一等海防艦に艦種変更 → 1918年廃艦除籍・金剛/比叡の主砲射撃標的となる) Navarin(1896竣工→1905.5.28水雷艇からの魚雷で撃沈。) Sissoi Velki(1896竣工→1905.5.25砲雷撃で撃沈) Petropavrovsk(1899竣工→1904.4.13触雷、爆沈) Poltava(1899竣工→1904.8.10黄海海戦で大破→旅順からの28センチ砲により      爆沈→1906浮揚し、一等戦艦「丹後」となる→1912一等海防艦となり、      1916ロシア海軍に売却し、Tchesmaと改名→白海艦隊に配備されるも、      1923スクラップ) Sevastopol(1899竣工→1904.6.24と8.23に触雷小破→1905.1.2旅順からの         28センチ砲により大破、更に被雷し、着底、放棄 Peresviet(1901竣工→1904黄海海戦で大破→12.6旅順からの砲撃で着底→        1906浮揚し、一等戦艦「相模」となる→1913一等海防艦に変更→        1916.5.4ロシアに寄贈→1917.1.4回航中にポートサイドにて触雷沈没) Osliabia(1901竣工→1905.5.27対馬で撃沈) Pobieda(1901竣工→1904.4.13触雷→12.6旅順への28でセンチ砲砲撃で着底→       1906浮揚し、一等戦艦「周防」となる→1913一等海防艦に変更し、第二       艦隊旗艦となる→1922除籍雑役船となり、呉工廠で解体中に浸水転覆       三つ子島の護岸用に船体は沈められる。) Retvisan(1901竣工→1904.2.9旅順港第一次攻撃で被雷、避難中に擱座→8.10        黄海海戦に出撃→12.6旅順港への砲撃で大破着底→1906浮揚し、一等        戦艦「肥前」となる。→第一次大戦では遣米支隊で米国沿岸に出動、        後にウラジオに派遣。→1922一等海防艦に変更→1923除籍→1924実艦的        として連合艦隊の前に沈没) Tsessarevitch(1903竣工→1904.2.9旅順で被雷→8.10Virgeft提督の旗艦として黄海海戦           に出撃するも中破、提督死亡。→清に逃亡し抑留→1914黒海艦隊に配備           される→1917.10.17ドイツ戦艦と戦闘するも逃亡に成功→1922廃艦) Bolodino(1904竣工→1905.5.27対馬で弾薬庫の爆発により撃沈) Imperator AlexanderIII(1903竣工→1905.5.27対馬にて大破口からの浸水で沈没) Orel(1904竣工→1905.5.27対馬にて中破→翌日捕獲し、一等戦艦「石見」となり、1910完成    →1913一等海防艦に変更し第一次大戦では青島に出動→シベリア出兵でウラジオに    派遣→1922除籍雑役船(標的船)となり、1924横須賀航空隊の爆撃標的で沈没) Kniaz Suvarov(1904竣工→1905.5.27対馬にて水雷艇の魚雷により沈没) 海防戦艦 Admiral Ushakov(1895竣工→1905.5.28撃沈) Admiral Seniavin(1896竣工→1905捕獲→二等海防艦「見島」→第一次大戦で青島に派遣。             →1920砕氷艦兼用に改造し、ウラジオ、シベリアに出兵。             →1924特務艇潜水艦母艇となる。→1935除籍→1936廃艦第七号として実艦的となる。 General Admiral Graf Apraskin(1899竣工→1905捕獲→二等海防艦「沖島」→第一次大戦で             青島に派遣→1923除籍雑役船(練習船)→1926廃船→ある財団法人に払い下げ→             宗像郡津屋崎に回航、繋留し記念艦となるが、荒天で座礁したため、1939解体。 装甲巡洋艦 Vladimir Monomakh(1885竣工→1897改装→1905.5.28対馬にて撃沈) Dmitri Donskoi(1885竣工→1895改装→1905.5.29対馬から逃亡中、駆逐艦による夜襲を受け、自沈。) Admiral Nakhimov(1888竣工→1899機関換装→905.5.28自沈) Rurik(1895竣工→1904.8.14蔚山沖で日本巡洋艦隊と交戦し、撃沈。) Bayan(I)(1903竣工→1904.7..27触雷→1904.12.8旅順港への28センチ砲により着底。       →1906一等巡洋艦「阿蘇」となり、候補生練習艦として使用→1922敷設艦に改造、1931除籍       廃艦→1932艦砲射撃の実艦標的として撃沈) など。 #right(){(39:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **日露戦争の日本海海戦で「敵艦見ユ」の信号打電をロシア艦はECM使って妨害したんじゃなかったんでしたっけ? ロシア艦隊は無電の妨害はしなかった聞いています。 信濃丸がバルチック艦隊に接触したとき、ロシア艦隊も信濃丸を発見しています。 そこで、ロシア艦の1隻が無電妨害をするか旗艦に問い合わせたところ(当時は 火花式送信機のため、妨害は容易でした)、ロジェストウェンスキー司令長官は 「日本船の無電を妨害するな」という命令を出したそうです。 #right(){(40:598)} **バルチック艦隊はアフリカ周りで来たのですか?スエズ運河はイギリスの嫌がらせで使えなかったのですか? スエズ運河の渡航限界の都合で、艦隊を二分し、 一方はスエズ、他方は喜望峰周りで、マダガスカルで合流。 このマダガスカルでの待機期間が、東行行程のロスにもなった。 #right(){(45:340)} まあそういうわけでスエズ不使用はイギリスの妨害工作……ってわけじゃないですが、 ロシアの同盟国であるフランスの港をなるべく使わせないよう、イギリス政府がフランス政府に圧力かけてたのは事実です。 結果、バルチック艦隊は航路の各地においておちついて休みをとることが出来ず 日本近海まで来たときには艦隊のコンディションは劣悪な状況でした。 「海路一万五千余浬(り) 万苦(ばんく)を忍び東洋に 最後の勝敗決せんと 寄せこし敵こそ健気(けなげ)なれ」 #right(){(45:342)} **水師営会見でステッセル将軍が乃木大将に送ったアラビア馬は、ちゃんと乃木大将の手に渡ったんでしょうか? ステッセル将軍から送られたアラビア馬ですが、乃木邸の横に設けられた 馬小屋で飼われていたそうですよ。 ステッセル将軍のその後ですが、1906年8月に旅順開城の責任を問われて裁判に かけられています。1908年2月に財産没収のうえ銃殺刑と言う有罪判決が下りましたが 裁判所から皇帝に対し減刑(懲役10年)の請願があり、皇帝はそれを承認して 禁固10年に減刑され、彼はペトロパブロフスク要塞に収監されました。 1909年特赦により釈放、 1915年没。 乃木大将のその後は有名なので、調べてみてください。 #right(){(52:名無し軍曹)} **日本とロシアの動員兵力と、両国の戦死者・捕虜の数教えてください 手元の資料に被害だけが載っていたので転載してみます。 日本側損害 (1)人員  死亡及び服役免除者 118000名        その他 2000名 (2)軍馬 38050頭 日本人捕虜については資料無し 露国側損害 人員 約115000名 日本側が捕獲した捕虜 79454名           捕獲馬 3983頭           軍旗   3 動員兵力は少しわかりませんでした。 #right(){(55:431)} **バルチック艦隊は最初20ノットぐらい出せたのが航海中にフジツボが付いて速力が二桁切ったと聞きました。 >これはホントのことですか?また、本当ならロシアはなぜ掃除をしなかったんですか? 艦底の掃除はドック行かないと出来ない。 #right(){(68:258)} 258でも答えが出ていますが、フジツボなどを落とす場合は、ドック入りをする必要があります。 しかし、英国と日本は日英同盟を結んでおり、明らかに日本に荷担していましたし、 ロシアと伝統的な同盟国であるフランスは、英国からの圧力が強く、 ドック提供を行えませんでした。 これは他国に於いても同様で、結果としてドックに入渠してのメンテナンスが出来ず、 マダガスカル島とインドシナでの簡単なメンテナンスしか行っていません。 #right(){(68:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日露戦争のときにアメリカ軍は朝鮮に上陸しましたか? 確かに開戦当初の仁川沖海戦の際には米軍艦が入港してたと思いますが。 居留民保護のために上陸したことはあっても戦闘のために上陸したことは無いでしょうね。 #right(){(68:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日露戦争は1904年2月に日本より開戦したと聞いております。 >開戦の年を先延ばしにして、日本の軍事力・経済力の向上を待ってゆとりを持って開戦とか、 >ロシアから宣戦布告してくるのを待って迎え撃つとかは現実的ではなかったのでしょうか? ゆとりを持って開戦 その間当然ロシア側も戦力を強化(旅順や奉天の守備隊を強化するとか それこそバルチック艦隊をウラジオに派遣するとか)する事ができ余計不利になるのでは? #right(){(69:465)} **日露戦争において、日本軍は充分な冬季装備を持っていたでしょうか? >凍傷・凍死による被害はどうでしたか。 当時の日本軍の寒冷装備は、八甲田山であれほどの被害を出したにもかかわらず 非常にお粗末なものでした。 防寒具の調達は明治37年2月から始まり55万着を調達しました。 主に羊毛を使った胴衣を着用しましたが、生産能力が低かったため色や形がバラバラなうえ 前線に十分行き渡らずわら靴まで支給して寒さをしのがせたとのことです。 #right(){(79:名無し軍曹)} **日露戦争のことを書いた本で読んどいたほうが良い本はありますか? 「ツシマ」 これ以外は資源の無駄、と断言しても良い #right(){(80:232)} 「機密日露戦史」を忘れちゃいかんがね。 #right(){(80:ミリ屋哲 ◆qmwryStCos)} **ポーツマス条約についてのことなんですけど >日本がロシアから賠償金を取るのを諦め、代わりに >・カムチャッカ半島 >・樺太 >・ウラジオストック近辺を除いた、樺太北端のアムール川河口から上流までの南部 を領土として要求できなかったのでしょうか? 身の丈を弁えない主張ですね。 まるで、当時のマスコミの論調です。 既に日本には戦闘を行えるだけの国力が無く、ロシア本土への浸食は 間違いなく列強の干渉を招きます。 また、縦しんば、占領地を得たとしても、シベリア出兵のように、労多くして 益少なしと言う状況には代わりありません。 第一、インフラ整備だけで相当の国力を費やすと思いますけど。 #right(){(85:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} というか,ロシアがそんな提案に乗ると思う? 極東のロシア軍が完全に壊滅状態だったり,あるいは日本陸軍が圧倒的な数的優位に有るような 仮想世界なら話しはまた別だが。 ロシア側も早いところ戦争を切り上げたいと思っていたのは確かだが,日本側は ポーツマス会議が決裂したらもう後が無いぽ。 #right(){(85:716)} >逆に賠償金を取り、代わりに旅順を返還するといったことは出来なかったのでしょうか? 当時の国民感情からすると、あれだけの兵士の血(とは言え、乃木の拙劣な指揮が原因ではあるが)で 贖った遼東半島とか旅順を取らないと言うのなら、国内的に大暴動が起きます。 (既に、賠償を取らないと決めた時点で、某新聞などの扇動で暴動が起きています) そもそも、日本の戦争目的は、日清戦争で遼東半島を獲得したのに、 それをロシアを始めとする三国干渉で取られたことに起因します。 旅順を放棄しても、清国、ロシアによって軍港設備が整備されている訳ですから、 何処か(ドイツ、フランスなど)が其処に進出してくるのは目に見えており、その周辺 海域の制海権を維持するためには、進出国にとって、日本の勢力圏たる朝鮮半島 が目障りになるので、同じ展開になる可能性が高くなります。 また、日露戦争の戦費については、英国で起債して調達した訳ですが、 その償還に問題が生じます。 賠償金だけでは、戦費償還が出来ません。 また、不安定な支配地域では、 他国からの投資を呼び込もうにもなかなかままならない所があるでしょうね。 満州を押さえても、その産品の積出港及びその近辺を他国に抑えられているとしたら、 容易に経済制裁が行えますし、積出港を新たに設けるとしたら、 インフラ整備などに多大な投資を必要とします。 #right(){(85:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **「日本海海戦の東郷の戦法は、李舜臣の戦法から真似た」って話、聞いたことありますか? 司馬遼太郎の創作だったと思われ。 「坂の上の雲」じゃなかったかな #right(){(86:436)} **日露戦争の旅順港において、かの28サンチ榴弾砲にて港内の旅順艦隊を砲撃、そのほとんどを沈めたわけですが、 >「なぜ、榴弾で戦艦を撃沈することが出来たのでしょうか?」 28サンチ砲は、もともと沿岸砲台として使用されていました。 それを取り外し、旅順まで持って行った。 つまり、最初から艦船を砲撃するための砲だったわけです。 また、旅順のベトン製要塞を砲撃した際も、分厚いベトンを貫徹することが 求められ、期待に応えた。 このことからも28サンチ砲が相当な貫通能力を有することが解ると思います。 また、指摘の通り当時の艦船は大落下角の砲弾への防御が十分でなかったことも 事実ですし、全般に防御力は貧弱でした。走攻守そろった戦艦の登場は、 ドレッドノートを待たねばなりません。 #right(){(92:859} **天気晴朗なれども って一文は意味があってかかれたものですか 天気晴朗なれど波高し 天気は晴れていても、波が高いから、船体の上下運動が激しく、 主砲の狙いが付け難いから注意しなさいよ・・・って意味。 #right(){(94:35)} 今日は天気が良いので敵を発見し損なう事は無い、砲戦になれば波の為に 照準が困難になるが、こちらの方が錬度が高いので負けることは無い。 という、ロシア艦隊に対する必勝の想いが込められている、 と聞いた事があります。 #right(){(94:75)} 当時暗号電文を打つ時には解読を困難にするため末尾に意味の無い文を付け足したとの事。 この文の前には「敵艦見ゆとの警報に~」という本文があり、 前述の「天気晴朗~」が付け足しとして付けられたので、意味が無いと言えば無いともいえます。 #right(){(94:76)} 35の捕捉・・・というか蛇足 その日の天気予報が「天気晴朗なれど波高し」だった 本格的な気象観測ははじまったばかりで 天気予報の的中率など高が知れていた時代だ 大してアテにならない筈の天気予報どおりの気象だったの 「こりゃ幸先がいい」 と、士気向上のために電文に盛り込まれた という話がある #right(){(94:87)} **日露戦争の時、同盟国のイギリスとアメリカ・ドイツ・フランスといった国々はどちらが勝つと思っていたんでしょうか そりゃ、当時の世界の下馬評ではロシア有利だったわな。 日本海海戦の戦訓の一つは「軍艦は砲撃で破壊できる」だった。 英ドレッドノートに端を発するド級艦・超ド級艦の登場と、列強によるそれらの建造競争。 そういった大艦巨砲主義の時代の端緒となった面もなくはない。 実際WW2の日本は日本海海戦の勝利再びといったつもりで戦艦を建造していたわけだし。 #right(){(98:105)} **日露戦争で、杉野兵曹長はどうなったのでしょうか? 明治37年3月27日の第二回旅順口閉塞作戦において、広瀬中佐は戦死し 杉野兵曹長は行方不明とされています。(いずれも死後昇進) しかし、杉野兵曹長に関しては日露戦争の後から生存説が囁かれていました。 大戦終結後には中国で生存している云々の報道が新聞に掲載されたようです。 今となっては真偽はわかりかねますが・・・。 #right(){(103:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} 杉野兵曹長生存説については、 「杉野はいずこ」 林 えいだい 著 新評論 刊 定価 1800円+税(1998年)が詳しいかと。 #right(){(103:700)} **日露戦争で大活躍をした時、明石元二郎の階級は何ですか? 1907年に陸軍少将に昇進するまでは大佐です. #right(){(105:消印所沢@FAQ保守員)} **日露戦争は英語で言うとなんですか? Russo-Japanese War #right(){(105:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} Russo-Japan War, もしくはRusso-Japanese War #right(){(105:114)} **日露戦争の開戦日等がどのサイトもまちまちで分かりません。 >日露国交断絶通告、日本の宣戦布告、それぞれ何月何日ですか? 先ほど自分も確認にぐぐりましたが、「日露戦争」でも十分な情報が手に入りますが・・・ 2月6日に国交断絶 2月8日に旅順港奇襲 2月10日に宣戦布告です。 宣戦布告は遡って軍事行動開始後の8日から有効とされています。 蛇足としてはこの日本の宣戦布告が一つの動機となり、 1907年のハーグ陸戦協定で宣戦前の軍事行動は禁じられました。 #right(){(111:430)} **今「坂の上の雲」を読んでるのですがあの本に書かれている日露戦争の経過は正確なものなんですか? 少なくともスパイ工作の評価の点では史実と大幅に異なります #right(){(115:306)} **日露戦争時の、日本陸軍の装備は諸外国に遅れをとっていた? そうでもないよ。 #right(){(121:61)} 日露戦争当時だと殆ど変わらんと思いますが。 #right(){(121:62)} 1904年ごろは欧米の軍も日本の軍も その装備について大きな差はありません。 少なくとも「時代遅れ」なんて断言できるほどの差はなし。 #right(){(121:66)} **日露戦争におけるロシア側の勝利条件は何だったのでしょうか? ロシアとしては、時代によって異なるのですが、戦争前の段階では、日本は朝鮮半島を、 ロシアは、満州地域を、それぞれ互いに権益や経済特権を認めると言うものでした。 朝鮮半島全体の領有については、ロシアは費用対効果の面から無意味と思っていたようです。 但し、開戦直前の状況では、更に進んで、満州地域全体の領有を目的とし、その地域の安全を得るために、 朝鮮半島の一部を勢力圏に納める、あるいは、最低限、朝鮮半島を中立化すると言うものでした。 #right(){(201:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **もしも日露戦争で、満州で陸軍が完敗したり、日本海海戦で連合艦隊が壊滅してたらロシアは日本上陸作戦を行う予定や余裕は当時あったんでしょうか? 無理ですね。補給的に最良でも朝鮮半島まで取って終了でしょう。 ロシアとしては日本が大陸に手を出さなければOKなので、制海権握ればあとは問題なし。 わざわざ日本を占領しようって気はまるでなかったと思う。 #right{(363:139,140)} **森鴎外と脚気…って,いったい戦争に何の関係があるんですか? 第二軍軍医部長(のち,1907年10月に陸軍軍医総監)だった鴎外が脚気病原菌説に拘泥し,兵に白米を食わせ続けたため,脚気を蔓延させたという一種の薬害事件 in 日露戦争  日露戦争中,兵士の脚気が深刻な問題となった.  原因は主食が白米で,ビタミンB1が不足していたからだ.  その事態に,軍は古くからの経験則より玄米食を制式採用しようとした.  しかし,ドイツ医学を学び,脚気細菌原因説をとなえる森鴎外はその案に猛反対.  結果日本軍は露西亜でいらぬ犠牲を増やすことになったとさ. 「日露戦争中,森鴎外はどんなロシアの将軍よりたくさんの日本兵を殺している」 という話すらある.  もっとも,脚気は鴎外だけに罪があるわけではなく,白米を基本的糧食とすることを望んだ兵隊にも,多少の責任があると思う.  確か,江戸時代の一人扶持を精米したものが,陸軍の一日の支給量と一致していたと思う.  白米が腹いっぱい食えることが軍のウリの一つだったしな.  もちろん鴎外が,脚気の話のみで評価してしまうには惜しい人物であることに変わりはない. (軍事板) **脚気の治療法は麦飯で確定してたけど、森鴎外やその他が騒いで妨害したんですよね? 違います。 たしかに脚気は、経験上「江戸患い」といって、古来より白米を多く摂取する江戸に多く発生する風土病? のように受け取られていたのは事実。 だけど、明治時代の、しかも日露戦争の時点じゃ科学的な根拠はなーんもなかった。 もし、海軍軍医総監高木兼寛の実験を根拠にして言っているんなら、あんたは科学を知らない。 {高木軍医の実験} ①1883年、練習艦龍驤が訓練航海で脚気患者169名、死亡者25名を出した。 ②1884年、洋食に変更した改善食で、全く同じコースを訓練航海した練習艦筑波脚気患者14名、死亡者0名。 ただ、この実験は、①と②で全く同じ条件の航海だったという保証がないから、医学の実験としては不適切なの。 本当に比較試験したかったら、②の航海のときに、兵隊を2つの集団に分けて、片方の集団に従来食を、 もう片方の集団に洋食を与えなくてはいけない。 ですから、この実験が示された段階では、「脚気の治療法が麦飯である」とは断言できない。 「経験的に脚気の治療法が麦飯であろうと思われる」とならいえると思う。 ただし、この結果を示されながら、何も動かなかった森林太郎は外道だという評価は、言うまでもないと思いますが。 #right(){(644:耳鼻科医 ◆8SInHkpG2A*一部加筆修正)} 軍隊での医者の仕事は戦力の維持。その観点からすれば「原因がわからなくても 対策ができる」のであれば採用する。実際、海軍は採用した。無根拠だのデータが 無いだのという話も「原因を医学的に証明する」論文やデータが無い、という話であ って、脚気対策としては高木の海軍病院でのデータがあって、それを踏まえての筑 波での洋食の実施になる。机上の空論であれば、予算も人員も装備も時間も必要 な上に、死者の出る可能性のある実験を行う理由が無い。 >兵隊を2つの集団に分けて、片方の集団に従来食を、もう片方の集団に洋食を与えなくてはいけない。 これもおかしい。 海軍は脚気対策に成功し、その過程は陸軍に伝えている。細菌原因説に固執する がゆえに「納得がいかない」のは陸軍の軍医たちの都合。納得がいかないからと兵 を脚気で殺す理由にはならない。 データが用意できないのが悪い、というのは責任転嫁だ。脚気対策についてはドイ ツ留学組よりも臨床医学のイギリス留学組が早期に対策に辿り着いたために、面 子からそれを認めず、延々と非難を続けた。「到底受け入れられるはずも無い」とい うのであれば、ドイツ式の臨床医学で検証すればよいだけだ。 #right(){(667:ふみ ◆Y.QUKJBduY)} **東郷提督が連合艦隊長官に推挙された時に「東郷は運がいいから」,と言われたそうですが,そんなに運が良かったんですか?  東郷提督の強運を示す例として黄海海戦の時を挙げるが ・ウラジオに逃げようとする旅順艦隊の戦艦レトウィザンが浸水,艦隊の速度が低下し,連合艦隊が砲戦を仕掛ける時間が増えた. ・海戦で乗艦の三笠は被弾20発以上の損傷を受けるが,露天艦橋にいた提督はかすり傷一つ無し.(周囲は怪我人続出) ・三笠から放たれた砲弾が敵旗艦ツェザレウィッチの艦橋に2発も命中.  これにより旅順艦隊の首脳陣が全滅し,その混乱で艦隊は大打撃を受けた. と言った例がある.  まあ,「運」だけが推挙理由ではないようだが. **加藤徹「西太后」という本にはロシアと清は日本に当たる秘密条約があったと書いてたんですが、それは考慮されなかったんでしょうか? 清は表向きは局外中立。 ロシアと清との協議はあくまで中立の内容についての交渉。 ただし戦時には中国の地方官憲から日本への献金が相次いだり 戦後日本は袁世凱や中国官憲に多くの勲章を進呈しているから 好意的中立で密かに協力してくれていたことに日本も感謝しているわけだ。 #right(){(365:461)} 露清秘密協定が締結されたのは、三国干渉によって遼東半島を日本が返還した頃。 この三国干渉を見た清国は、これを利用して日本を抑えることができるんじゃないか?と考え、 ロシアと連携して日本を抑える「連露抑日論」が主流意見となったことが、 この秘密協定締結にまで至った原因。 ところがその後の義和団の乱では、ロシア軍は自国の権益のため、 協定をたびたび違反してやりたい放題で、清国では今度は逆に 日英同盟を利用してロシアを抑えようとした。 これは清国をして、第2次露清密約(旅順協定)の破棄に成功することとなる。 このように清国は、日本が進出しすぎていると思えばロシアと結び、 ロシアが進出しすぎていると思えば日本と結ぶという、 よく言えば臨機応変、悪く言えば長期戦略に欠けた、ふらついた行動をとっていたわけ。 で、日露戦争の頃はちょうど、抑露の側に立っていたということ。 #right(){(初心者スレ491:465)} **日露戦争当時の日本の状況を教えてください >太平洋戦争では空襲により工業力が激減しましたが一応兵士は三食ちゃんと食えていたとききます >しかしよもやま物語(どれかは忘れましたが)によれば日露戦争当時、内地では昼飯が饅頭一個という状況と書いてありました >もしかすると太平洋戦争より日露戦争のほうがもっとヤバイ状況だったんじゃないでしょうか? 日露戦争(1904開戦)当時ったら、ついこの間まで江戸時代 八幡製鉄所の操業開始(1901年)したのが一昨々年で 東京に電灯が設置されてから15年 一般庶民の暮らしは「野麦峠」の世界だから、戦争なんかしなくたって国民のほとんどが極貧 昼飯に饅頭食うような贅沢は都市部の恵まれた住人で、田舎の貧農は娘売って一日一食の食事を浮かすありさま #right{(363:241)} 太平洋戦争末期の日本は、饅頭すら満足に作れなかったんだが… (砂糖が無い、餡子が無い、小麦粉が無い…) #right{(363:242)} 饅頭は贅沢品だから(小豆はともかく砂糖が高価)あんまり食べられないけれども, 雑穀飯が3度3度食えないほどには貧窮してないと思うぞ.今古い資料を見てみたけど, 1909年当時でひとりあたま一日2000kcalちょっとは消費してる.老人や女子供込みで. だから成年男子だったら2500以上は食ってるだろう. >田舎の貧農は娘売って一日一食の食事を浮かすありさま これは昭和恐慌のときの話.それ以前にはありえないほどひどい有様だったから 青年将校を含む多くの人間の憤激を買ったわけで.もちろんそれ以前にも 何らかの不幸により売られた娘はたくさんいただろうけど,社会現象という ほどじゃない. >太平洋戦争末期の日本は、饅頭すら満足に作れなかったんだが・・・・ だが実は最悪だったのは戦争末期よりは戦後すぐだったりする.45年に入ると 実は政府は既に戦争に勝利することをあきらめて,軍需物資よりも消費財の生産を 増やしてたりする.しかし戦争が終わると統制の緩みや配給制度の崩壊などで 状況が更に悪化してるんだよな.引き揚げてきた連中にも食わす必要があったし. #right{(363:344)} **日露戦争の時の三笠って当時はイギリス本国のものと比較しても最新鋭の戦艦だったんですよね。最新鋭の艦を売るようなまねを何でしたんでしょうか? 一つは、日英同盟による売却です。 もう一つは単純に商売としてのもの。 最新鋭戦艦を数隻保有していても、英国の方が数的に勝っているので、然程影響 が無いとの判断でしたし、自国で建造したものであれば、弱点は全て分かっていますから 対策も採りやすい。 最後が、新装備のテストとしてのもの。 自社開発したものが、自国の海軍で制式配備されるかどうか、使えるものであるか どうかをテストする為もありました。 #right(){(553:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **三笠は日本海海戦時に多くの敵弾を受け100人以上の士官、水兵の犠牲を出しましたが、その際の三笠の被害状態はどの程度のものだったのでしょうか? 日本海海戦の際に「三笠」は敵艦隊の砲撃の的となって 30.5センチ砲弾10発、15.2センチ砲弾21発を被弾しています。 このうちの30.5センチ砲弾1発によって後部マストが切断されました。 その他煙突なども穴だらけになったものの、外見上よく分かる致命的な破損は受けていません。 #right(){(580:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **日露戦争でロシア軍はまだまだ戦えたといいますけど、ならなんで朝鮮半島を諦めたのですか? >ポーランドの内乱ぐらいで大国ロシアの戦争継続能力がゆらぐとは思えないのですが 血の日曜日事件を調べましょう。 これを契機に国内いたるところで暴動が発生して、とても戦争を継続できる状況じゃなくなったから。 #right(){(587:697)} 最終的に日本を屈服させなければ朝鮮だけ取ったところで意味がないから。 ロシアが朝鮮を欲しがったのは貿易に必要な不凍港を欲したからだが、 朝鮮半島から太平洋に出ようにもそれを塞ぐ形で日本列島が立ちふさがってる。 (当時の日本は日本列島を千島から台湾までの領有していた) これじゃあトルコにダーダネス海峡を塞がれた黒海と同じじゃないか。 もちろん、朝鮮を足がかりにして日本を攻撃してもいい(日本はそれを懸念して日露戦争に踏み切ったわけだ)。 しかし、日本海を渡ろうにもロシアのバルチック艦隊と極東艦隊が壊滅してしまって、日本海軍は健在。 しかも後ろには米英がついてる。英は黒海を塞ぐクリミア半島で何度も何度もロシアの南下を阻止してきた。 これじゃあ、無理じゃねって思うよ。 #right(){(587:モッティ ◆uSDglizB3o)} **なんで日露戦争にロシア側として動員された兵士はポーランドやフィンランド出身のものばかりなんですか? >わざわざ地球を半周させなくても、中央アジアあたりから徴用したほうが輸送コストがかからないんじゃないですか? ロシア語がわかんないと命令を聞かせられない。 わざわざ教育するのは面倒だし。 それに彼らは「辺境の現地民」であって、徴兵するような「国民」では なかったから。 #right(){(333:921)} **日露戦役で挺身部隊への補給はどうのように行ったのでしょうか? 書籍やネット上では活動内容の情報は得られましたが、補給について詳しく記載された資料は見当たりませんね。 所持する日露戦役のDVDの中で部隊が敵後方の村で宿営するシーンが有りました。 現地人に変装した日本の軍人が部隊を出迎えて宿と食糧の手配をしています。 そこからの推定になりますが、事前に敵後方に複数の人員を派遣して挺身隊の支援活動をしていた思われます。 本来の彼らの任務は情報収集でしたが、これらの活動もしたのでしょうね。 DVDの題名は「敵中横断300里」です。同名の小説も有ります。詳しく知りたいのなら入手されてはいかがですか。 #right(){(602:不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk)} **日露戦争で、日本海軍に津軽海峡を機雷封鎖する意思と能力はあったのでしょうか >バルチック艦隊が対馬海峡を通ってウラジオストックに向かった理由の一つに、 >津軽海峡は日本海軍が機雷封鎖している可能性が高い為だと聞きました。 津軽海峡で機雷戦…て日本はやる気満々でした。 運送船韓崎や駆逐艦山彦など、敵前強行敷設を担当する船も手配済みの状態で待ち伏せてました。 #right(){(325:携帯鷂 ◆exxupUqotM)} **下馬戦闘しかしていない秋山好古の部隊はとうてい騎兵とは言えないのではないでしょうか? 日本陸軍の騎兵は偵察捜索が重要任務で、秋山支隊は偵察捜索隊も出し、 さらに撹乱の為に中隊規模の挺身隊まで出しています。 司馬氏の騎兵に対する捉え方はわかりませんが、 騎兵の強襲戦は南北戦争や普仏戦争で失敗か、大損害を受けて成功した例しかありません。 それを陸大で学び、フランス留学した秋山少将が分からない筈がないでしょう。 騎兵が可能な事は捜索、ごくまれに機会があれば強襲、機動に勝れば奇襲。 ただ、日本陸軍は兵力不足でしたから、黒溝台では左翼貼り付け配置になり、 結果的に陣地戦になったのでしょうね。  奉天戦では機動力を生かしてロシア軍背後の脅威になっています。 #right(){(607:57)} **橘中佐は何が偉くて軍神になったのでしょうか。先頭に立って突撃したからですか? 遼陽会戦に於いて、敵堡塁に突撃、自ら塹壕に飛び込んで敵兵を斬り伏せ、血刀掲げて部下を叱咤激励した。 しかし、兵力差、火力差は如何ともしがたく、兵士の大半を喪い、少佐自ら左腕に敵弾が命中したが、怯まずに軍刀を尚振りかざし、 部下を励まして、遂に目的の高地を奪取し、頂上に国旗を掲げた。 これを回復せんと、ロシア軍が攻め込み、脇にいた内田軍曹が撤退を薦めるが、これを聴かず、「一旦占領した堡塁を敵手に渡すな」 と、大声で叫ぶと、敵の攻撃を二度、三度退けた。 その三度目に、少佐は肩に弾丸を受け、昏倒。 内田軍曹は慌てて塹壕に彼を引き込んだが、更に軍刀を杖にして立ち上がろうとした。 そこで、軍曹は少佐を背負って険しい道を駆け下ったが、激しい銃撃で、双方共弾丸を受け、その場に昏倒。 しかし、敵兵の突撃が迫る。 少佐は、「多くの兵を喪いながら、占領した陣地を取り返したのは残念だ」と述べ、「今日は皇太子殿下の誕生日。 このめでたい日に戦死するのは軍人の面目だ」と譫言を繰り返したという。 瀕死の軍曹であったが、少佐を背負ってなお自陣に戻ろうとして少佐の馬丁に出会い、遂に帰還を果たすも、 同日、両方とも死亡。 その少佐の勇敢無比な行動と壮絶無比な最後が、広瀬中佐と並び称せられ、軍神と言われるようになった。 #right(){(318:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日露戦争で日本海軍に使われた艦艇は全部、日本で作ったものではなくて外国産なんでしょうか? いいえ。 例えば対馬級防護巡洋艦は国内で建造されました。 つhttp://homepage2.nifty.com/nishidah/stc0316.htm 埋めがてら補足すると日露戦争期には小型巡洋艦が国産化され 明治末期から主力艦の国産が始まってます。 #right(){(317:991,996)} **日露戦争において、世界の政治家や軍人達が得ることの出来た教訓のようなものはあるのですか? 「日露戦争で欧米列強陸軍が得た戦訓としては,  1. 重機関銃を陣地防御の要とする.  2. 敵陣突破の決め手は榴弾砲,とくに15cm以上の榴弾砲,10cm以上の加濃砲といった重砲の集中使用にある  3. 有刺鉄線の防御効果は絶大である. と言うもので,各国は重機関銃,重砲の開発,大量配備に躍起となり,陸戦力の主力兵科となりました.」 「戦訓としては日露戦争の日本海海戦(対馬海戦)が各国海軍に決定的影響を与えた。 最大の戦訓として採り入れられたのは、前半の主力艦同士の決戦だった。 ここから生じた結論は海戦では戦艦が決定的な役割を果たし、 その他は主要な砲戦に参加することができないというものだった。 そしてその他の艦は一括して補助艦艇と呼ばれるようになった。」 下記を参照ください。 http://www6.atwiki.jp/army2ch/pages/285.html 下記、海の戦いを参照ください。 http://ww1.m78.com/honbun-2/naval%20warfare.html #right(){(663:霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg*一部修正)} **山本五十六長官が日露戦争当時に中指と人差し指を失う重傷を負ったのに、除隊にならなかったのはなぜでしょうか? ぎりぎり、除隊基準まで行かなかった。もう一本失ってたら、除隊だった。 #right(){(292:546)} **日露戦争の旅順要塞戦で、日本軍の野砲は効果があったんでしょうか? 殆ど、効果はありませんでした。 この原因として挙げられるのが、砲弾です。 日露戦争では榴弾1発につき、榴散弾6発の割合で補給されました。 現場では、「榴弾寄越せ、ヽ(*`Д´)ノゴルァ(意訳)」だったのですが、陸軍中央では、その実態を把握せず、 平坦地であろうが要塞であろうが、榴散弾偏重で、生産が行われていました。 榴散弾は時限信管で前方に中の子弾を飛散させるもので、榴弾が着発または時限信管で弾体そのものを 破裂させてその破片による殺傷効果を全周に渡って及ぼすのに比べ、調定に失敗すると子弾の飛散範囲 が小さくなったり、威力が落ちたりします。 また、地上に落ちて起爆すると、前方にしか子弾が飛ばないので、意味がありません。 こうしたことから、野砲の砲撃は、余りにも効果がありませんでした。 しかも、1904年5月の南山の戦闘で消費した砲弾は2日で3万発。 これは、開戦前に見積もった数値の半年分、砲弾生産量の3ヶ月分で、9月には備蓄砲弾が底を突いて いますから、砲撃もおいそれと行われなかったので…。 (小銃弾の補給も追いつかず、石つぶてを投げたと言う話もあったりしますが) #right(){(255:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本海海戦は、丁字戦法で勝利したのでは無いって言われたんですけど、本当ですか? 丁字戦法をとった場合、艦隊の末尾方向に進路を取られると、 頭を押さえられなくて逃げられるということが黄海海戦で何度かあった。 当時の日本艦隊は、バルチック艦隊がウラジオストックに 逃げこむことを一番おそれていたし、バルチック艦隊もそれを 目指していた。 だから、綺麗な丁字型を描かず、艦隊の末尾方向に逃げられないような 進路をまずとってからターンをした。 その動きを丁字戦法と解釈するか、それとも絶対にウラジオ方面に 逃げられないように敵艦隊の頭を押さえる動きと解釈するかは、 解釈する人次第。 こんな動き。 http://www.z-flag.jp/suigun/naval/tsushima_war.html だいたいの戦闘は同航戦なのは確か。 #right(){(246:32)} **日露戦争の旅順攻略戦で日本軍は機関銃に苦しめられたとのことですが、これは後の軍に影響を与えましたか? その戦闘を観戦した武官の報告により、英国以外の欧州各国は、その導入に邁進しました。 それには、日本も例外ではありません。 例外が米国と英国で、米国は1916年に至るまで、ルイス機関銃の試射さえ拒み続けましたし、 英国は、1914年段階で、歩兵大隊に2丁の機関銃が割り当てられていたに過ぎませんでした。 詳しくは、「機関銃の社会史」というそのものずばりの本が、平凡社から出ていますので、ご参照 いただければ宜しいかと思いますよ。 #right(){(236:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ポーツマス講和条約が締結されなかった場合、日露両軍はどんな作戦を採るつもりだったんでしょうか ロシアについては、長春、哈爾浜方向に日本軍を誘導し、補給線を切断、更に、 補給が途絶えたところで一気に攻勢を掛け、日本軍を追い落とすと言う、朝鮮 戦争の状況を考えていたみたいです。 日本については、満州方面では持久戦を何とか行い、優勢な海軍力を利用して、 樺太を占領後、浦塩を占領すべく、兵力を動かすと言う感じだったか、と。 どちらにしても、これ以上の攻勢は掛けられませんでしたが。 #right(){(235:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日露戦争(とそれ以前の戦争)では兵士達が夜には酒を飲み交わしたというのは本当なんでしょうか? 日露戦争で日本が国力をぎりぎりまで注いだのは正しいが 総力戦といわれるとそれは違う #right(){(俺初質スレ436:331)} ロシアは革命が起こりそうだったんで(国力の)全力は出せてないし 日本は経済がヤバくなるんで(国力の)全力は費やしていない #right(){(俺初質スレ436:333)} >日露間だけの出来事とはいえ総力戦の様相を呈した初めての戦争だったわけですが第一次世界大戦から何故そういったことが無くなったのですか? 戦闘の合間に両軍が戦死者の遺体を収容する時間があって、その時は戦闘も停止して酒を酌み交わしたと言われてる 一次大戦でも最初は互いの偵察機が挨拶したり、ほのぼのしてたが途中から拳銃で撃ち合いやレンガの投げ合いになり、後半は飛行機に機銃積んで撃ち合った 潜水艦の通商破壊も、当初は攻撃前に警告して船員を避難させてから攻撃した 日露戦争や南北戦争は、一応総力戦の萌芽とは言われる だが本格的な総力戦になると、そんな余裕はなくなり殺伐としたものになる #right(){(俺初質スレ436:334)} 総力戦かどうかの違いは、国民の戦争参加の度合いだ 従来の戦争は政府と軍だけで戦争して国民は無関係だったが、総力戦では国民も無関係ではない 戦時動員で平時の数倍の生産力を求められ、産業動員で軍需工場で働いたり、都市が空襲されたり 徴兵で訓練済みの兵だけでなく、根こそぎ動員で未訓練の兵まで短期訓練で戦地に行く 統制経済によって、産業は軍需一辺倒になり、物流や資源は戦争遂行に最優先で投入される 国家全体国民全体が軍事最優先になるのが総力戦だ #right(){(俺初質スレ436:337)} **日露戦争の黄海海戦のロシア艦隊は燃料不足になっていて、ウラジオストックまでたどり着く見込みは絶無だったというのは本当なのでしょうか。 明確に嘘 「ツシマ」も「もうひとつのツシマ」も邦訳出版されているから 読んでおくべきだと思うぞ(邦題は違うが検索すれば多分ヒットする) #right(){(俺初質スレ436:482)} そんな話は信頼できる資料には出てこないな。 大体、ロクに活動してない旅順艦隊がなんで 石炭不足になると思うのかが良く分からん。 #right(){(俺初質スレ436:483)} 仏印で補給してるし、上海に給炭艦回して買い込んでるぞ。 #right(){(俺初質スレ436:484)} お前ら、黄海海戦と日本海海戦を勘違いするなよ? 日本海海戦の話なら石炭不足で津軽海峡や宗谷海峡 のルートが取れなかったのは事実なんだからな? #right(){(俺初質スレ436:485)} 482はバルチック艦隊と旅順艦隊とを混同していませんか? 黄海海戦で戦ったのは旅順艦隊です。 「ツシマ」、「もうひとつのツシマ」はバルチック艦隊の話で、 旅順艦隊の詳しい話が載っていた覚えはないのですが、私の記憶違いでしょうか。 旅順艦隊に所属している多くの軍艦の航続距離では戦闘を行って旅順からウラジオまで たどり着くのは難しいと聞いたのですが。 実際に「ノーウィック」は燃料切れで補給のためにコルサコフに立ち寄り、そこで撃破の憂き目を見たそうですが。 間違いでしょうか。 484によると旅順艦隊は仏印で補給を受けたとのことですが、どうやって受けたのでしょうか? まさか旅順から遥々仏印まで行き、それからウラジオへ? #right(){(俺初質スレ436:486)} 旅順艦隊の動向はバルチック艦隊の面々の関心の的でもあったので 各所に分散して折に触れ記述があるよ #right(){(俺初質スレ436:487)} 旅順からウラジオストックまでの海路は1100マイル ぐらいしかないので航続距離は十分足りる。 ノーウィックが石炭切れになったのは 単艦では対馬海峡が突破できないから 東シナ海から太平洋に出て宗谷海峡経由で帰る というとんでもない遠回りを強いられたから。 #right(){(俺初質スレ436:488)} **日露戦争において日英同盟は役に立ったのですか? 立った #right(){(俺初質スレ436:913)} >具体的には? >戦ってたのは日本だけでイギリスは何もしてないのでは 別に直接戦う必要はない 戦争中はイギリスがロシアに協力しないというだけで影響は出てくる 例えば石炭などをイギリスやイギリス植民地から輸入できないとか、イギリス植民地に艦隊が寄港できないとか 日本の国債を買ってもらったり、日本の戦艦をイギリスで建造購入したりなど 逆にロシアはイギリスから軍艦の購入はできない #right(){(俺初質スレ436:918)} イギリスがロシアと軍事衝突すると、フランスとの戦争にまで繋がりかねないので。 これが交戦状態になってたら、日本が返済できる金利での日本国債の購入やバルチック艦隊 回航に見られるような、中立国へのえげつない外交圧力が出来なくなったかと。 あとバルチック艦隊が日本艦隊と誤認してイギリス漁船を砲撃したりはしてますけど。 #right(){(俺初質スレ436:919)} 有名な「坂ノ上の雲」もバルチック艦隊に関する記述は、ほぼ「ロシア海軍残酷物語」だしな。 #right(){(俺初質スレ436:920)} ・外債募集のチャンスはロンドンで与えてる、日露戦争の戦費の大半はここで調達した外債頼み ・アルゼンチンが手放した巡洋艦2隻をロシアが買う前に買わないかと通報、日本が競り勝ち  この2隻は日本海海戦でも重要な役割を果たす ・バルチック艦隊を出港から英海軍がちくいち見張ってる、  しかも出港直後、確認ミスで英漁船をさせ英国世論、ひいては国際世論をロシア不利に誘導 ・航路においてもフランス他に石炭補給やめろの圧力、これが日本海海戦の帰趨にかなり大きく影響したのはご存知 ・あまり出回ってない情報だがバルチック艦隊のコース逐一日本海軍に通報の援護 最終的には自国の国益のためとはいえ、ぶっちゃけ日英同盟本文や通例の同盟国の範疇を超えて協力してる、それが大英帝国 ボーア戦争以後栄光ある孤立を捨てて最初に選んだ同盟国・日本への義理堅さもあったかもしれない #right(){(俺初質スレ436:921)} もっとも日本海海戦以後は英国も当時の例外ではなく 黄禍論的な沈鬱なムードに染まっていくけどな、 日本海海戦勝報にさぞ同盟国のロンドンっ子は喜んでるだろうと街に繰り出した孫文が見て残した日記が有名 風刺画だけで上下巻の本になってるから読んでみ、その量に圧倒されるから #right(){(俺初質スレ436:922)} ----
#CONTENTS ---- **日本海海戦の時ってどんな感じだったのですか? 日本海海戦の時は、重油でなく石炭焚きですから、煙で敵の接近を知りました。 その煤煙を目標にして、水平線上に艦影に映ってから照準を行いました。 #right(){(11:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)} **日本海海戦のときに連合艦隊がバルチック艦隊の艦船に日本語の当て字を使ってたと思うのですが。 旗艦クニャージ・スウォーロフ 国親爺坐ろう アレクサンドル3世 呆れ三太 ボロヂノ ボロ出る アリヨール 蟻寄る オスラービヤ 押すとピシャ シソイウェリーキー 薄いブリキ アブラクシン 油布巾 ドミトリー・ドンスコイ ごみ取り権助 イズムルード 水漏るぞ 手許に本がないのでうろ覚えですが、こんな感じだったと思います。 この話は、日本側から日本海海戦を取り上げた本にはたいてい出ているかと。 #right(){(13:868)} **日露戦争で南米のどこかの国の軍艦を要らなくなったから日本が2隻ぐらいもらったから、海戦に勝てたと聞きましたが アルゼンチンです。 巡洋艦「モレノ」「リヴァダヴィア」をそれぞれ買い取り装甲巡洋艦「日進」「春日」と命名しました。 正確には要らなくなったのではなく、イギリスが手を回して建造中の船を日本に買い取らせたのです。 #right(){(29:名無し軍曹)} **日露戦争のルーズベルトの調停は将来の日米の対立に備えて、日本に不利な内容にしたのでしょうか? んなこたぁ無いです。 継戦能力が限界にきててルーズベルトに頼るしか打つ手が無かった日本、 相次ぐ敗北で国際金融資本に見捨てられかけてたロシア、 こんな状況でどちらか一方のみにだだ甘の条件で手打ちなんか出来ませんって。 戦略的には痛みわけ、戦術的には日本の勝利ということで 戦前の日露交渉を日本有利の形で決着させる、ってのは妥当な線です。 日本が奉天・ウラジオも一気呵成に占領、 満州全域を支配下に収めロシアは極東の拠点をすべて失った……とかいう戦況であの条件なら、 そりゃああなたの言うような側面もあったかもしれませんが。 #right(){(33:373)} **日露戦争時のロシア艦隊の編成について教えて下さい。 戦艦 Imperator Nikolai I(1891年竣工→1905年敗残艦隊を率いて降伏し、二等戦艦「壱岐」になり         後一等海防艦に艦種変更 → 1918年廃艦除籍・金剛/比叡の主砲射撃標的となる) Navarin(1896竣工→1905.5.28水雷艇からの魚雷で撃沈。) Sissoi Velki(1896竣工→1905.5.25砲雷撃で撃沈) Petropavrovsk(1899竣工→1904.4.13触雷、爆沈) Poltava(1899竣工→1904.8.10黄海海戦で大破→旅順からの28センチ砲により      爆沈→1906浮揚し、一等戦艦「丹後」となる→1912一等海防艦となり、      1916ロシア海軍に売却し、Tchesmaと改名→白海艦隊に配備されるも、      1923スクラップ) Sevastopol(1899竣工→1904.6.24と8.23に触雷小破→1905.1.2旅順からの         28センチ砲により大破、更に被雷し、着底、放棄 Peresviet(1901竣工→1904黄海海戦で大破→12.6旅順からの砲撃で着底→        1906浮揚し、一等戦艦「相模」となる→1913一等海防艦に変更→        1916.5.4ロシアに寄贈→1917.1.4回航中にポートサイドにて触雷沈没) Osliabia(1901竣工→1905.5.27対馬で撃沈) Pobieda(1901竣工→1904.4.13触雷→12.6旅順への28でセンチ砲砲撃で着底→       1906浮揚し、一等戦艦「周防」となる→1913一等海防艦に変更し、第二       艦隊旗艦となる→1922除籍雑役船となり、呉工廠で解体中に浸水転覆       三つ子島の護岸用に船体は沈められる。) Retvisan(1901竣工→1904.2.9旅順港第一次攻撃で被雷、避難中に擱座→8.10        黄海海戦に出撃→12.6旅順港への砲撃で大破着底→1906浮揚し、一等        戦艦「肥前」となる。→第一次大戦では遣米支隊で米国沿岸に出動、        後にウラジオに派遣。→1922一等海防艦に変更→1923除籍→1924実艦的        として連合艦隊の前に沈没) Tsessarevitch(1903竣工→1904.2.9旅順で被雷→8.10Virgeft提督の旗艦として黄海海戦           に出撃するも中破、提督死亡。→清に逃亡し抑留→1914黒海艦隊に配備           される→1917.10.17ドイツ戦艦と戦闘するも逃亡に成功→1922廃艦) Bolodino(1904竣工→1905.5.27対馬で弾薬庫の爆発により撃沈) Imperator AlexanderIII(1903竣工→1905.5.27対馬にて大破口からの浸水で沈没) Orel(1904竣工→1905.5.27対馬にて中破→翌日捕獲し、一等戦艦「石見」となり、1910完成    →1913一等海防艦に変更し第一次大戦では青島に出動→シベリア出兵でウラジオに    派遣→1922除籍雑役船(標的船)となり、1924横須賀航空隊の爆撃標的で沈没) Kniaz Suvarov(1904竣工→1905.5.27対馬にて水雷艇の魚雷により沈没) 海防戦艦 Admiral Ushakov(1895竣工→1905.5.28撃沈) Admiral Seniavin(1896竣工→1905捕獲→二等海防艦「見島」→第一次大戦で青島に派遣。             →1920砕氷艦兼用に改造し、ウラジオ、シベリアに出兵。             →1924特務艇潜水艦母艇となる。→1935除籍→1936廃艦第七号として実艦的となる。 General Admiral Graf Apraskin(1899竣工→1905捕獲→二等海防艦「沖島」→第一次大戦で             青島に派遣→1923除籍雑役船(練習船)→1926廃船→ある財団法人に払い下げ→             宗像郡津屋崎に回航、繋留し記念艦となるが、荒天で座礁したため、1939解体。 装甲巡洋艦 Vladimir Monomakh(1885竣工→1897改装→1905.5.28対馬にて撃沈) Dmitri Donskoi(1885竣工→1895改装→1905.5.29対馬から逃亡中、駆逐艦による夜襲を受け、自沈。) Admiral Nakhimov(1888竣工→1899機関換装→905.5.28自沈) Rurik(1895竣工→1904.8.14蔚山沖で日本巡洋艦隊と交戦し、撃沈。) Bayan(I)(1903竣工→1904.7..27触雷→1904.12.8旅順港への28センチ砲により着底。       →1906一等巡洋艦「阿蘇」となり、候補生練習艦として使用→1922敷設艦に改造、1931除籍       廃艦→1932艦砲射撃の実艦標的として撃沈) など。 #right(){(39:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **日露戦争の日本海海戦で「敵艦見ユ」の信号打電をロシア艦はECM使って妨害したんじゃなかったんでしたっけ? ロシア艦隊は無電の妨害はしなかった聞いています。 信濃丸がバルチック艦隊に接触したとき、ロシア艦隊も信濃丸を発見しています。 そこで、ロシア艦の1隻が無電妨害をするか旗艦に問い合わせたところ(当時は 火花式送信機のため、妨害は容易でした)、ロジェストウェンスキー司令長官は 「日本船の無電を妨害するな」という命令を出したそうです。 #right(){(40:598)} **バルチック艦隊はアフリカ周りで来たのですか?スエズ運河はイギリスの嫌がらせで使えなかったのですか? スエズ運河の渡航限界の都合で、艦隊を二分し、 一方はスエズ、他方は喜望峰周りで、マダガスカルで合流。 このマダガスカルでの待機期間が、東行行程のロスにもなった。 #right(){(45:340)} まあそういうわけでスエズ不使用はイギリスの妨害工作……ってわけじゃないですが、 ロシアの同盟国であるフランスの港をなるべく使わせないよう、イギリス政府がフランス政府に圧力かけてたのは事実です。 結果、バルチック艦隊は航路の各地においておちついて休みをとることが出来ず 日本近海まで来たときには艦隊のコンディションは劣悪な状況でした。 「海路一万五千余浬(り) 万苦(ばんく)を忍び東洋に 最後の勝敗決せんと 寄せこし敵こそ健気(けなげ)なれ」 #right(){(45:342)} **水師営会見でステッセル将軍が乃木大将に送ったアラビア馬は、ちゃんと乃木大将の手に渡ったんでしょうか? ステッセル将軍から送られたアラビア馬ですが、乃木邸の横に設けられた 馬小屋で飼われていたそうですよ。 ステッセル将軍のその後ですが、1906年8月に旅順開城の責任を問われて裁判に かけられています。1908年2月に財産没収のうえ銃殺刑と言う有罪判決が下りましたが 裁判所から皇帝に対し減刑(懲役10年)の請願があり、皇帝はそれを承認して 禁固10年に減刑され、彼はペトロパブロフスク要塞に収監されました。 1909年特赦により釈放、 1915年没。 乃木大将のその後は有名なので、調べてみてください。 #right(){(52:名無し軍曹)} **日本とロシアの動員兵力と、両国の戦死者・捕虜の数教えてください 手元の資料に被害だけが載っていたので転載してみます。 日本側損害 (1)人員  死亡及び服役免除者 118000名        その他 2000名 (2)軍馬 38050頭 日本人捕虜については資料無し 露国側損害 人員 約115000名 日本側が捕獲した捕虜 79454名           捕獲馬 3983頭           軍旗   3 動員兵力は少しわかりませんでした。 #right(){(55:431)} **バルチック艦隊は最初20ノットぐらい出せたのが航海中にフジツボが付いて速力が二桁切ったと聞きました。 >これはホントのことですか?また、本当ならロシアはなぜ掃除をしなかったんですか? 艦底の掃除はドック行かないと出来ない。 #right(){(68:258)} 258でも答えが出ていますが、フジツボなどを落とす場合は、ドック入りをする必要があります。 しかし、英国と日本は日英同盟を結んでおり、明らかに日本に荷担していましたし、 ロシアと伝統的な同盟国であるフランスは、英国からの圧力が強く、 ドック提供を行えませんでした。 これは他国に於いても同様で、結果としてドックに入渠してのメンテナンスが出来ず、 マダガスカル島とインドシナでの簡単なメンテナンスしか行っていません。 #right(){(68:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日露戦争のときにアメリカ軍は朝鮮に上陸しましたか? 確かに開戦当初の仁川沖海戦の際には米軍艦が入港してたと思いますが。 居留民保護のために上陸したことはあっても戦闘のために上陸したことは無いでしょうね。 #right(){(68:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日露戦争は1904年2月に日本より開戦したと聞いております。 >開戦の年を先延ばしにして、日本の軍事力・経済力の向上を待ってゆとりを持って開戦とか、 >ロシアから宣戦布告してくるのを待って迎え撃つとかは現実的ではなかったのでしょうか? ゆとりを持って開戦 その間当然ロシア側も戦力を強化(旅順や奉天の守備隊を強化するとか それこそバルチック艦隊をウラジオに派遣するとか)する事ができ余計不利になるのでは? #right(){(69:465)} **日露戦争において、日本軍は充分な冬季装備を持っていたでしょうか? >凍傷・凍死による被害はどうでしたか。 当時の日本軍の寒冷装備は、八甲田山であれほどの被害を出したにもかかわらず 非常にお粗末なものでした。 防寒具の調達は明治37年2月から始まり55万着を調達しました。 主に羊毛を使った胴衣を着用しましたが、生産能力が低かったため色や形がバラバラなうえ 前線に十分行き渡らずわら靴まで支給して寒さをしのがせたとのことです。 #right(){(79:名無し軍曹)} **日露戦争のことを書いた本で読んどいたほうが良い本はありますか? 「ツシマ」 これ以外は資源の無駄、と断言しても良い #right(){(80:232)} 「機密日露戦史」を忘れちゃいかんがね。 #right(){(80:ミリ屋哲 ◆qmwryStCos)} **ポーツマス条約についてのことなんですけど >日本がロシアから賠償金を取るのを諦め、代わりに >・カムチャッカ半島 >・樺太 >・ウラジオストック近辺を除いた、樺太北端のアムール川河口から上流までの南部 を領土として要求できなかったのでしょうか? 身の丈を弁えない主張ですね。 まるで、当時のマスコミの論調です。 既に日本には戦闘を行えるだけの国力が無く、ロシア本土への浸食は 間違いなく列強の干渉を招きます。 また、縦しんば、占領地を得たとしても、シベリア出兵のように、労多くして 益少なしと言う状況には代わりありません。 第一、インフラ整備だけで相当の国力を費やすと思いますけど。 #right(){(85:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} というか,ロシアがそんな提案に乗ると思う? 極東のロシア軍が完全に壊滅状態だったり,あるいは日本陸軍が圧倒的な数的優位に有るような 仮想世界なら話しはまた別だが。 ロシア側も早いところ戦争を切り上げたいと思っていたのは確かだが,日本側は ポーツマス会議が決裂したらもう後が無いぽ。 #right(){(85:716)} >逆に賠償金を取り、代わりに旅順を返還するといったことは出来なかったのでしょうか? 当時の国民感情からすると、あれだけの兵士の血(とは言え、乃木の拙劣な指揮が原因ではあるが)で 贖った遼東半島とか旅順を取らないと言うのなら、国内的に大暴動が起きます。 (既に、賠償を取らないと決めた時点で、某新聞などの扇動で暴動が起きています) そもそも、日本の戦争目的は、日清戦争で遼東半島を獲得したのに、 それをロシアを始めとする三国干渉で取られたことに起因します。 旅順を放棄しても、清国、ロシアによって軍港設備が整備されている訳ですから、 何処か(ドイツ、フランスなど)が其処に進出してくるのは目に見えており、その周辺 海域の制海権を維持するためには、進出国にとって、日本の勢力圏たる朝鮮半島 が目障りになるので、同じ展開になる可能性が高くなります。 また、日露戦争の戦費については、英国で起債して調達した訳ですが、 その償還に問題が生じます。 賠償金だけでは、戦費償還が出来ません。 また、不安定な支配地域では、 他国からの投資を呼び込もうにもなかなかままならない所があるでしょうね。 満州を押さえても、その産品の積出港及びその近辺を他国に抑えられているとしたら、 容易に経済制裁が行えますし、積出港を新たに設けるとしたら、 インフラ整備などに多大な投資を必要とします。 #right(){(85:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **「日本海海戦の東郷の戦法は、李舜臣の戦法から真似た」って話、聞いたことありますか? 司馬遼太郎の創作だったと思われ。 「坂の上の雲」じゃなかったかな #right(){(86:436)} **日露戦争の旅順港において、かの28サンチ榴弾砲にて港内の旅順艦隊を砲撃、そのほとんどを沈めたわけですが、 >「なぜ、榴弾で戦艦を撃沈することが出来たのでしょうか?」 28サンチ砲は、もともと沿岸砲台として使用されていました。 それを取り外し、旅順まで持って行った。 つまり、最初から艦船を砲撃するための砲だったわけです。 また、旅順のベトン製要塞を砲撃した際も、分厚いベトンを貫徹することが 求められ、期待に応えた。 このことからも28サンチ砲が相当な貫通能力を有することが解ると思います。 また、指摘の通り当時の艦船は大落下角の砲弾への防御が十分でなかったことも 事実ですし、全般に防御力は貧弱でした。走攻守そろった戦艦の登場は、 ドレッドノートを待たねばなりません。 #right(){(92:859} **天気晴朗なれども って一文は意味があってかかれたものですか 天気晴朗なれど波高し 天気は晴れていても、波が高いから、船体の上下運動が激しく、 主砲の狙いが付け難いから注意しなさいよ・・・って意味。 #right(){(94:35)} 今日は天気が良いので敵を発見し損なう事は無い、砲戦になれば波の為に 照準が困難になるが、こちらの方が錬度が高いので負けることは無い。 という、ロシア艦隊に対する必勝の想いが込められている、 と聞いた事があります。 #right(){(94:75)} 当時暗号電文を打つ時には解読を困難にするため末尾に意味の無い文を付け足したとの事。 この文の前には「敵艦見ゆとの警報に~」という本文があり、 前述の「天気晴朗~」が付け足しとして付けられたので、意味が無いと言えば無いともいえます。 #right(){(94:76)} 35の捕捉・・・というか蛇足 その日の天気予報が「天気晴朗なれど波高し」だった 本格的な気象観測ははじまったばかりで 天気予報の的中率など高が知れていた時代だ 大してアテにならない筈の天気予報どおりの気象だったの 「こりゃ幸先がいい」 と、士気向上のために電文に盛り込まれた という話がある #right(){(94:87)} **日露戦争の時、同盟国のイギリスとアメリカ・ドイツ・フランスといった国々はどちらが勝つと思っていたんでしょうか そりゃ、当時の世界の下馬評ではロシア有利だったわな。 日本海海戦の戦訓の一つは「軍艦は砲撃で破壊できる」だった。 英ドレッドノートに端を発するド級艦・超ド級艦の登場と、列強によるそれらの建造競争。 そういった大艦巨砲主義の時代の端緒となった面もなくはない。 実際WW2の日本は日本海海戦の勝利再びといったつもりで戦艦を建造していたわけだし。 #right(){(98:105)} **日露戦争で、杉野兵曹長はどうなったのでしょうか? 明治37年3月27日の第二回旅順口閉塞作戦において、広瀬中佐は戦死し 杉野兵曹長は行方不明とされています。(いずれも死後昇進) しかし、杉野兵曹長に関しては日露戦争の後から生存説が囁かれていました。 大戦終結後には中国で生存している云々の報道が新聞に掲載されたようです。 今となっては真偽はわかりかねますが・・・。 #right(){(103:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} 杉野兵曹長生存説については、 「杉野はいずこ」 林 えいだい 著 新評論 刊 定価 1800円+税(1998年)が詳しいかと。 #right(){(103:700)} **日露戦争で大活躍をした時、明石元二郎の階級は何ですか? 1907年に陸軍少将に昇進するまでは大佐です. #right(){(105:消印所沢@FAQ保守員)} **日露戦争は英語で言うとなんですか? Russo-Japanese War #right(){(105:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} Russo-Japan War, もしくはRusso-Japanese War #right(){(105:114)} **日露戦争の開戦日等がどのサイトもまちまちで分かりません。 >日露国交断絶通告、日本の宣戦布告、それぞれ何月何日ですか? 先ほど自分も確認にぐぐりましたが、「日露戦争」でも十分な情報が手に入りますが・・・ 2月6日に国交断絶 2月8日に旅順港奇襲 2月10日に宣戦布告です。 宣戦布告は遡って軍事行動開始後の8日から有効とされています。 蛇足としてはこの日本の宣戦布告が一つの動機となり、 1907年のハーグ陸戦協定で宣戦前の軍事行動は禁じられました。 #right(){(111:430)} **今「坂の上の雲」を読んでるのですがあの本に書かれている日露戦争の経過は正確なものなんですか? 少なくともスパイ工作の評価の点では史実と大幅に異なります #right(){(115:306)} **日露戦争時の、日本陸軍の装備は諸外国に遅れをとっていた? そうでもないよ。 #right(){(121:61)} 日露戦争当時だと殆ど変わらんと思いますが。 #right(){(121:62)} 1904年ごろは欧米の軍も日本の軍も その装備について大きな差はありません。 少なくとも「時代遅れ」なんて断言できるほどの差はなし。 #right(){(121:66)} 当時、日本陸軍が装備していた三十年式歩兵小銃や、三一年式山砲は、性能的にも列強の物 と比べ劣る物では無かったし、機関銃の装備数とて、対峙した極東ロシア軍より多数装備していた。 海軍の装備も、敷島級戦艦などは、当時の世界最大、最強級の戦艦だった訳で、質の面で大きく 遅れていた訳ではない。しかし、まあ、当然新興国なので欧州列強より貧乏な訳で、弾薬等の 備蓄、生産がままならず、あっと言う間に底をついてしまったのは仕方の無い事ですが。 #right(){(121:69)} **日露戦争におけるロシア側の勝利条件は何だったのでしょうか? ロシアとしては、時代によって異なるのですが、戦争前の段階では、日本は朝鮮半島を、 ロシアは、満州地域を、それぞれ互いに権益や経済特権を認めると言うものでした。 朝鮮半島全体の領有については、ロシアは費用対効果の面から無意味と思っていたようです。 但し、開戦直前の状況では、更に進んで、満州地域全体の領有を目的とし、その地域の安全を得るために、 朝鮮半島の一部を勢力圏に納める、あるいは、最低限、朝鮮半島を中立化すると言うものでした。 #right(){(201:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **もしも日露戦争で、満州で陸軍が完敗したり、日本海海戦で連合艦隊が壊滅してたらロシアは日本上陸作戦を行う予定や余裕は当時あったんでしょうか? 無理ですね。補給的に最良でも朝鮮半島まで取って終了でしょう。 ロシアとしては日本が大陸に手を出さなければOKなので、制海権握ればあとは問題なし。 わざわざ日本を占領しようって気はまるでなかったと思う。 #right{(363:139,140)} **森鴎外と脚気…って,いったい戦争に何の関係があるんですか? 第二軍軍医部長(のち,1907年10月に陸軍軍医総監)だった鴎外が脚気病原菌説に拘泥し,兵に白米を食わせ続けたため,脚気を蔓延させたという一種の薬害事件 in 日露戦争  日露戦争中,兵士の脚気が深刻な問題となった.  原因は主食が白米で,ビタミンB1が不足していたからだ.  その事態に,軍は古くからの経験則より玄米食を制式採用しようとした.  しかし,ドイツ医学を学び,脚気細菌原因説をとなえる森鴎外はその案に猛反対.  結果日本軍は露西亜でいらぬ犠牲を増やすことになったとさ. 「日露戦争中,森鴎外はどんなロシアの将軍よりたくさんの日本兵を殺している」 という話すらある.  もっとも,脚気は鴎外だけに罪があるわけではなく,白米を基本的糧食とすることを望んだ兵隊にも,多少の責任があると思う.  確か,江戸時代の一人扶持を精米したものが,陸軍の一日の支給量と一致していたと思う.  白米が腹いっぱい食えることが軍のウリの一つだったしな.  もちろん鴎外が,脚気の話のみで評価してしまうには惜しい人物であることに変わりはない. (軍事板) **脚気の治療法は麦飯で確定してたけど、森鴎外やその他が騒いで妨害したんですよね? 違います。 たしかに脚気は、経験上「江戸患い」といって、古来より白米を多く摂取する江戸に多く発生する風土病? のように受け取られていたのは事実。 だけど、明治時代の、しかも日露戦争の時点じゃ科学的な根拠はなーんもなかった。 もし、海軍軍医総監高木兼寛の実験を根拠にして言っているんなら、あんたは科学を知らない。 {高木軍医の実験} ①1883年、練習艦龍驤が訓練航海で脚気患者169名、死亡者25名を出した。 ②1884年、洋食に変更した改善食で、全く同じコースを訓練航海した練習艦筑波脚気患者14名、死亡者0名。 ただ、この実験は、①と②で全く同じ条件の航海だったという保証がないから、医学の実験としては不適切なの。 本当に比較試験したかったら、②の航海のときに、兵隊を2つの集団に分けて、片方の集団に従来食を、 もう片方の集団に洋食を与えなくてはいけない。 ですから、この実験が示された段階では、「脚気の治療法が麦飯である」とは断言できない。 「経験的に脚気の治療法が麦飯であろうと思われる」とならいえると思う。 ただし、この結果を示されながら、何も動かなかった森林太郎は外道だという評価は、言うまでもないと思いますが。 #right(){(644:耳鼻科医 ◆8SInHkpG2A*一部加筆修正)} 軍隊での医者の仕事は戦力の維持。その観点からすれば「原因がわからなくても 対策ができる」のであれば採用する。実際、海軍は採用した。無根拠だのデータが 無いだのという話も「原因を医学的に証明する」論文やデータが無い、という話であ って、脚気対策としては高木の海軍病院でのデータがあって、それを踏まえての筑 波での洋食の実施になる。机上の空論であれば、予算も人員も装備も時間も必要 な上に、死者の出る可能性のある実験を行う理由が無い。 >兵隊を2つの集団に分けて、片方の集団に従来食を、もう片方の集団に洋食を与えなくてはいけない。 これもおかしい。 海軍は脚気対策に成功し、その過程は陸軍に伝えている。細菌原因説に固執する がゆえに「納得がいかない」のは陸軍の軍医たちの都合。納得がいかないからと兵 を脚気で殺す理由にはならない。 データが用意できないのが悪い、というのは責任転嫁だ。脚気対策についてはドイ ツ留学組よりも臨床医学のイギリス留学組が早期に対策に辿り着いたために、面 子からそれを認めず、延々と非難を続けた。「到底受け入れられるはずも無い」とい うのであれば、ドイツ式の臨床医学で検証すればよいだけだ。 #right(){(667:ふみ ◆Y.QUKJBduY)} **東郷提督が連合艦隊長官に推挙された時に「東郷は運がいいから」,と言われたそうですが,そんなに運が良かったんですか?  東郷提督の強運を示す例として黄海海戦の時を挙げるが ・ウラジオに逃げようとする旅順艦隊の戦艦レトウィザンが浸水,艦隊の速度が低下し,連合艦隊が砲戦を仕掛ける時間が増えた. ・海戦で乗艦の三笠は被弾20発以上の損傷を受けるが,露天艦橋にいた提督はかすり傷一つ無し.(周囲は怪我人続出) ・三笠から放たれた砲弾が敵旗艦ツェザレウィッチの艦橋に2発も命中.  これにより旅順艦隊の首脳陣が全滅し,その混乱で艦隊は大打撃を受けた. と言った例がある.  まあ,「運」だけが推挙理由ではないようだが. **加藤徹「西太后」という本にはロシアと清は日本に当たる秘密条約があったと書いてたんですが、それは考慮されなかったんでしょうか? 清は表向きは局外中立。 ロシアと清との協議はあくまで中立の内容についての交渉。 ただし戦時には中国の地方官憲から日本への献金が相次いだり 戦後日本は袁世凱や中国官憲に多くの勲章を進呈しているから 好意的中立で密かに協力してくれていたことに日本も感謝しているわけだ。 #right(){(365:461)} 露清秘密協定が締結されたのは、三国干渉によって遼東半島を日本が返還した頃。 この三国干渉を見た清国は、これを利用して日本を抑えることができるんじゃないか?と考え、 ロシアと連携して日本を抑える「連露抑日論」が主流意見となったことが、 この秘密協定締結にまで至った原因。 ところがその後の義和団の乱では、ロシア軍は自国の権益のため、 協定をたびたび違反してやりたい放題で、清国では今度は逆に 日英同盟を利用してロシアを抑えようとした。 これは清国をして、第2次露清密約(旅順協定)の破棄に成功することとなる。 このように清国は、日本が進出しすぎていると思えばロシアと結び、 ロシアが進出しすぎていると思えば日本と結ぶという、 よく言えば臨機応変、悪く言えば長期戦略に欠けた、ふらついた行動をとっていたわけ。 で、日露戦争の頃はちょうど、抑露の側に立っていたということ。 #right(){(初心者スレ491:465)} **日露戦争当時の日本の状況を教えてください >太平洋戦争では空襲により工業力が激減しましたが一応兵士は三食ちゃんと食えていたとききます >しかしよもやま物語(どれかは忘れましたが)によれば日露戦争当時、内地では昼飯が饅頭一個という状況と書いてありました >もしかすると太平洋戦争より日露戦争のほうがもっとヤバイ状況だったんじゃないでしょうか? 日露戦争(1904開戦)当時ったら、ついこの間まで江戸時代 八幡製鉄所の操業開始(1901年)したのが一昨々年で 東京に電灯が設置されてから15年 一般庶民の暮らしは「野麦峠」の世界だから、戦争なんかしなくたって国民のほとんどが極貧 昼飯に饅頭食うような贅沢は都市部の恵まれた住人で、田舎の貧農は娘売って一日一食の食事を浮かすありさま #right{(363:241)} 太平洋戦争末期の日本は、饅頭すら満足に作れなかったんだが… (砂糖が無い、餡子が無い、小麦粉が無い…) #right{(363:242)} 饅頭は贅沢品だから(小豆はともかく砂糖が高価)あんまり食べられないけれども, 雑穀飯が3度3度食えないほどには貧窮してないと思うぞ.今古い資料を見てみたけど, 1909年当時でひとりあたま一日2000kcalちょっとは消費してる.老人や女子供込みで. だから成年男子だったら2500以上は食ってるだろう. >田舎の貧農は娘売って一日一食の食事を浮かすありさま これは昭和恐慌のときの話.それ以前にはありえないほどひどい有様だったから 青年将校を含む多くの人間の憤激を買ったわけで.もちろんそれ以前にも 何らかの不幸により売られた娘はたくさんいただろうけど,社会現象という ほどじゃない. >太平洋戦争末期の日本は、饅頭すら満足に作れなかったんだが・・・・ だが実は最悪だったのは戦争末期よりは戦後すぐだったりする.45年に入ると 実は政府は既に戦争に勝利することをあきらめて,軍需物資よりも消費財の生産を 増やしてたりする.しかし戦争が終わると統制の緩みや配給制度の崩壊などで 状況が更に悪化してるんだよな.引き揚げてきた連中にも食わす必要があったし. #right{(363:344)} **日露戦争の時の三笠って当時はイギリス本国のものと比較しても最新鋭の戦艦だったんですよね。最新鋭の艦を売るようなまねを何でしたんでしょうか? 一つは、日英同盟による売却です。 もう一つは単純に商売としてのもの。 最新鋭戦艦を数隻保有していても、英国の方が数的に勝っているので、然程影響 が無いとの判断でしたし、自国で建造したものであれば、弱点は全て分かっていますから 対策も採りやすい。 最後が、新装備のテストとしてのもの。 自社開発したものが、自国の海軍で制式配備されるかどうか、使えるものであるか どうかをテストする為もありました。 #right(){(553:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **三笠は日本海海戦時に多くの敵弾を受け100人以上の士官、水兵の犠牲を出しましたが、その際の三笠の被害状態はどの程度のものだったのでしょうか? 日本海海戦の際に「三笠」は敵艦隊の砲撃の的となって 30.5センチ砲弾10発、15.2センチ砲弾21発を被弾しています。 このうちの30.5センチ砲弾1発によって後部マストが切断されました。 その他煙突なども穴だらけになったものの、外見上よく分かる致命的な破損は受けていません。 #right(){(580:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **日露戦争でロシア軍はまだまだ戦えたといいますけど、ならなんで朝鮮半島を諦めたのですか? >ポーランドの内乱ぐらいで大国ロシアの戦争継続能力がゆらぐとは思えないのですが 血の日曜日事件を調べましょう。 これを契機に国内いたるところで暴動が発生して、とても戦争を継続できる状況じゃなくなったから。 #right(){(587:697)} 最終的に日本を屈服させなければ朝鮮だけ取ったところで意味がないから。 ロシアが朝鮮を欲しがったのは貿易に必要な不凍港を欲したからだが、 朝鮮半島から太平洋に出ようにもそれを塞ぐ形で日本列島が立ちふさがってる。 (当時の日本は日本列島を千島から台湾までの領有していた) これじゃあトルコにダーダネス海峡を塞がれた黒海と同じじゃないか。 もちろん、朝鮮を足がかりにして日本を攻撃してもいい(日本はそれを懸念して日露戦争に踏み切ったわけだ)。 しかし、日本海を渡ろうにもロシアのバルチック艦隊と極東艦隊が壊滅してしまって、日本海軍は健在。 しかも後ろには米英がついてる。英は黒海を塞ぐクリミア半島で何度も何度もロシアの南下を阻止してきた。 これじゃあ、無理じゃねって思うよ。 #right(){(587:モッティ ◆uSDglizB3o)} **なんで日露戦争にロシア側として動員された兵士はポーランドやフィンランド出身のものばかりなんですか? >わざわざ地球を半周させなくても、中央アジアあたりから徴用したほうが輸送コストがかからないんじゃないですか? ロシア語がわかんないと命令を聞かせられない。 わざわざ教育するのは面倒だし。 それに彼らは「辺境の現地民」であって、徴兵するような「国民」では なかったから。 #right(){(333:921)} **日露戦役で挺身部隊への補給はどうのように行ったのでしょうか? 書籍やネット上では活動内容の情報は得られましたが、補給について詳しく記載された資料は見当たりませんね。 所持する日露戦役のDVDの中で部隊が敵後方の村で宿営するシーンが有りました。 現地人に変装した日本の軍人が部隊を出迎えて宿と食糧の手配をしています。 そこからの推定になりますが、事前に敵後方に複数の人員を派遣して挺身隊の支援活動をしていた思われます。 本来の彼らの任務は情報収集でしたが、これらの活動もしたのでしょうね。 DVDの題名は「敵中横断300里」です。同名の小説も有ります。詳しく知りたいのなら入手されてはいかがですか。 #right(){(602:不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk)} **日露戦争で、日本海軍に津軽海峡を機雷封鎖する意思と能力はあったのでしょうか >バルチック艦隊が対馬海峡を通ってウラジオストックに向かった理由の一つに、 >津軽海峡は日本海軍が機雷封鎖している可能性が高い為だと聞きました。 津軽海峡で機雷戦…て日本はやる気満々でした。 運送船韓崎や駆逐艦山彦など、敵前強行敷設を担当する船も手配済みの状態で待ち伏せてました。 #right(){(325:携帯鷂 ◆exxupUqotM)} **下馬戦闘しかしていない秋山好古の部隊はとうてい騎兵とは言えないのではないでしょうか? 日本陸軍の騎兵は偵察捜索が重要任務で、秋山支隊は偵察捜索隊も出し、 さらに撹乱の為に中隊規模の挺身隊まで出しています。 司馬氏の騎兵に対する捉え方はわかりませんが、 騎兵の強襲戦は南北戦争や普仏戦争で失敗か、大損害を受けて成功した例しかありません。 それを陸大で学び、フランス留学した秋山少将が分からない筈がないでしょう。 騎兵が可能な事は捜索、ごくまれに機会があれば強襲、機動に勝れば奇襲。 ただ、日本陸軍は兵力不足でしたから、黒溝台では左翼貼り付け配置になり、 結果的に陣地戦になったのでしょうね。  奉天戦では機動力を生かしてロシア軍背後の脅威になっています。 #right(){(607:57)} **橘中佐は何が偉くて軍神になったのでしょうか。先頭に立って突撃したからですか? 遼陽会戦に於いて、敵堡塁に突撃、自ら塹壕に飛び込んで敵兵を斬り伏せ、血刀掲げて部下を叱咤激励した。 しかし、兵力差、火力差は如何ともしがたく、兵士の大半を喪い、少佐自ら左腕に敵弾が命中したが、怯まずに軍刀を尚振りかざし、 部下を励まして、遂に目的の高地を奪取し、頂上に国旗を掲げた。 これを回復せんと、ロシア軍が攻め込み、脇にいた内田軍曹が撤退を薦めるが、これを聴かず、「一旦占領した堡塁を敵手に渡すな」 と、大声で叫ぶと、敵の攻撃を二度、三度退けた。 その三度目に、少佐は肩に弾丸を受け、昏倒。 内田軍曹は慌てて塹壕に彼を引き込んだが、更に軍刀を杖にして立ち上がろうとした。 そこで、軍曹は少佐を背負って険しい道を駆け下ったが、激しい銃撃で、双方共弾丸を受け、その場に昏倒。 しかし、敵兵の突撃が迫る。 少佐は、「多くの兵を喪いながら、占領した陣地を取り返したのは残念だ」と述べ、「今日は皇太子殿下の誕生日。 このめでたい日に戦死するのは軍人の面目だ」と譫言を繰り返したという。 瀕死の軍曹であったが、少佐を背負ってなお自陣に戻ろうとして少佐の馬丁に出会い、遂に帰還を果たすも、 同日、両方とも死亡。 その少佐の勇敢無比な行動と壮絶無比な最後が、広瀬中佐と並び称せられ、軍神と言われるようになった。 #right(){(318:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日露戦争で日本海軍に使われた艦艇は全部、日本で作ったものではなくて外国産なんでしょうか? いいえ。 例えば対馬級防護巡洋艦は国内で建造されました。 つhttp://homepage2.nifty.com/nishidah/stc0316.htm 埋めがてら補足すると日露戦争期には小型巡洋艦が国産化され 明治末期から主力艦の国産が始まってます。 #right(){(317:991,996)} **日露戦争において、世界の政治家や軍人達が得ることの出来た教訓のようなものはあるのですか? 「日露戦争で欧米列強陸軍が得た戦訓としては,  1. 重機関銃を陣地防御の要とする.  2. 敵陣突破の決め手は榴弾砲,とくに15cm以上の榴弾砲,10cm以上の加濃砲といった重砲の集中使用にある  3. 有刺鉄線の防御効果は絶大である. と言うもので,各国は重機関銃,重砲の開発,大量配備に躍起となり,陸戦力の主力兵科となりました.」 「戦訓としては日露戦争の日本海海戦(対馬海戦)が各国海軍に決定的影響を与えた。 最大の戦訓として採り入れられたのは、前半の主力艦同士の決戦だった。 ここから生じた結論は海戦では戦艦が決定的な役割を果たし、 その他は主要な砲戦に参加することができないというものだった。 そしてその他の艦は一括して補助艦艇と呼ばれるようになった。」 下記を参照ください。 http://www6.atwiki.jp/army2ch/pages/285.html 下記、海の戦いを参照ください。 http://ww1.m78.com/honbun-2/naval%20warfare.html #right(){(663:霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg*一部修正)} **山本五十六長官が日露戦争当時に中指と人差し指を失う重傷を負ったのに、除隊にならなかったのはなぜでしょうか? ぎりぎり、除隊基準まで行かなかった。もう一本失ってたら、除隊だった。 #right(){(292:546)} **日露戦争の旅順要塞戦で、日本軍の野砲は効果があったんでしょうか? 殆ど、効果はありませんでした。 この原因として挙げられるのが、砲弾です。 日露戦争では榴弾1発につき、榴散弾6発の割合で補給されました。 現場では、「榴弾寄越せ、ヽ(*`Д´)ノゴルァ(意訳)」だったのですが、陸軍中央では、その実態を把握せず、 平坦地であろうが要塞であろうが、榴散弾偏重で、生産が行われていました。 榴散弾は時限信管で前方に中の子弾を飛散させるもので、榴弾が着発または時限信管で弾体そのものを 破裂させてその破片による殺傷効果を全周に渡って及ぼすのに比べ、調定に失敗すると子弾の飛散範囲 が小さくなったり、威力が落ちたりします。 また、地上に落ちて起爆すると、前方にしか子弾が飛ばないので、意味がありません。 こうしたことから、野砲の砲撃は、余りにも効果がありませんでした。 しかも、1904年5月の南山の戦闘で消費した砲弾は2日で3万発。 これは、開戦前に見積もった数値の半年分、砲弾生産量の3ヶ月分で、9月には備蓄砲弾が底を突いて いますから、砲撃もおいそれと行われなかったので…。 (小銃弾の補給も追いつかず、石つぶてを投げたと言う話もあったりしますが) #right(){(255:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本海海戦は、丁字戦法で勝利したのでは無いって言われたんですけど、本当ですか? 丁字戦法をとった場合、艦隊の末尾方向に進路を取られると、 頭を押さえられなくて逃げられるということが黄海海戦で何度かあった。 当時の日本艦隊は、バルチック艦隊がウラジオストックに 逃げこむことを一番おそれていたし、バルチック艦隊もそれを 目指していた。 だから、綺麗な丁字型を描かず、艦隊の末尾方向に逃げられないような 進路をまずとってからターンをした。 その動きを丁字戦法と解釈するか、それとも絶対にウラジオ方面に 逃げられないように敵艦隊の頭を押さえる動きと解釈するかは、 解釈する人次第。 こんな動き。 http://www.z-flag.jp/suigun/naval/tsushima_war.html だいたいの戦闘は同航戦なのは確か。 #right(){(246:32)} **日露戦争の旅順攻略戦で日本軍は機関銃に苦しめられたとのことですが、これは後の軍に影響を与えましたか? その戦闘を観戦した武官の報告により、英国以外の欧州各国は、その導入に邁進しました。 それには、日本も例外ではありません。 例外が米国と英国で、米国は1916年に至るまで、ルイス機関銃の試射さえ拒み続けましたし、 英国は、1914年段階で、歩兵大隊に2丁の機関銃が割り当てられていたに過ぎませんでした。 詳しくは、「機関銃の社会史」というそのものずばりの本が、平凡社から出ていますので、ご参照 いただければ宜しいかと思いますよ。 #right(){(236:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **ポーツマス講和条約が締結されなかった場合、日露両軍はどんな作戦を採るつもりだったんでしょうか ロシアについては、長春、哈爾浜方向に日本軍を誘導し、補給線を切断、更に、 補給が途絶えたところで一気に攻勢を掛け、日本軍を追い落とすと言う、朝鮮 戦争の状況を考えていたみたいです。 日本については、満州方面では持久戦を何とか行い、優勢な海軍力を利用して、 樺太を占領後、浦塩を占領すべく、兵力を動かすと言う感じだったか、と。 どちらにしても、これ以上の攻勢は掛けられませんでしたが。 #right(){(235:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日露戦争(とそれ以前の戦争)では兵士達が夜には酒を飲み交わしたというのは本当なんでしょうか? 日露戦争で日本が国力をぎりぎりまで注いだのは正しいが 総力戦といわれるとそれは違う #right(){(俺初質スレ436:331)} ロシアは革命が起こりそうだったんで(国力の)全力は出せてないし 日本は経済がヤバくなるんで(国力の)全力は費やしていない #right(){(俺初質スレ436:333)} >日露間だけの出来事とはいえ総力戦の様相を呈した初めての戦争だったわけですが第一次世界大戦から何故そういったことが無くなったのですか? 戦闘の合間に両軍が戦死者の遺体を収容する時間があって、その時は戦闘も停止して酒を酌み交わしたと言われてる 一次大戦でも最初は互いの偵察機が挨拶したり、ほのぼのしてたが途中から拳銃で撃ち合いやレンガの投げ合いになり、後半は飛行機に機銃積んで撃ち合った 潜水艦の通商破壊も、当初は攻撃前に警告して船員を避難させてから攻撃した 日露戦争や南北戦争は、一応総力戦の萌芽とは言われる だが本格的な総力戦になると、そんな余裕はなくなり殺伐としたものになる #right(){(俺初質スレ436:334)} 総力戦かどうかの違いは、国民の戦争参加の度合いだ 従来の戦争は政府と軍だけで戦争して国民は無関係だったが、総力戦では国民も無関係ではない 戦時動員で平時の数倍の生産力を求められ、産業動員で軍需工場で働いたり、都市が空襲されたり 徴兵で訓練済みの兵だけでなく、根こそぎ動員で未訓練の兵まで短期訓練で戦地に行く 統制経済によって、産業は軍需一辺倒になり、物流や資源は戦争遂行に最優先で投入される 国家全体国民全体が軍事最優先になるのが総力戦だ #right(){(俺初質スレ436:337)} **日露戦争の黄海海戦のロシア艦隊は燃料不足になっていて、ウラジオストックまでたどり着く見込みは絶無だったというのは本当なのでしょうか。 明確に嘘 「ツシマ」も「もうひとつのツシマ」も邦訳出版されているから 読んでおくべきだと思うぞ(邦題は違うが検索すれば多分ヒットする) #right(){(俺初質スレ436:482)} そんな話は信頼できる資料には出てこないな。 大体、ロクに活動してない旅順艦隊がなんで 石炭不足になると思うのかが良く分からん。 #right(){(俺初質スレ436:483)} 仏印で補給してるし、上海に給炭艦回して買い込んでるぞ。 #right(){(俺初質スレ436:484)} お前ら、黄海海戦と日本海海戦を勘違いするなよ? 日本海海戦の話なら石炭不足で津軽海峡や宗谷海峡 のルートが取れなかったのは事実なんだからな? #right(){(俺初質スレ436:485)} 482はバルチック艦隊と旅順艦隊とを混同していませんか? 黄海海戦で戦ったのは旅順艦隊です。 「ツシマ」、「もうひとつのツシマ」はバルチック艦隊の話で、 旅順艦隊の詳しい話が載っていた覚えはないのですが、私の記憶違いでしょうか。 旅順艦隊に所属している多くの軍艦の航続距離では戦闘を行って旅順からウラジオまで たどり着くのは難しいと聞いたのですが。 実際に「ノーウィック」は燃料切れで補給のためにコルサコフに立ち寄り、そこで撃破の憂き目を見たそうですが。 間違いでしょうか。 484によると旅順艦隊は仏印で補給を受けたとのことですが、どうやって受けたのでしょうか? まさか旅順から遥々仏印まで行き、それからウラジオへ? #right(){(俺初質スレ436:486)} 旅順艦隊の動向はバルチック艦隊の面々の関心の的でもあったので 各所に分散して折に触れ記述があるよ #right(){(俺初質スレ436:487)} 旅順からウラジオストックまでの海路は1100マイル ぐらいしかないので航続距離は十分足りる。 ノーウィックが石炭切れになったのは 単艦では対馬海峡が突破できないから 東シナ海から太平洋に出て宗谷海峡経由で帰る というとんでもない遠回りを強いられたから。 #right(){(俺初質スレ436:488)} **日露戦争において日英同盟は役に立ったのですか? 立った #right(){(俺初質スレ436:913)} >具体的には? >戦ってたのは日本だけでイギリスは何もしてないのでは 別に直接戦う必要はない 戦争中はイギリスがロシアに協力しないというだけで影響は出てくる 例えば石炭などをイギリスやイギリス植民地から輸入できないとか、イギリス植民地に艦隊が寄港できないとか 日本の国債を買ってもらったり、日本の戦艦をイギリスで建造購入したりなど 逆にロシアはイギリスから軍艦の購入はできない #right(){(俺初質スレ436:918)} イギリスがロシアと軍事衝突すると、フランスとの戦争にまで繋がりかねないので。 これが交戦状態になってたら、日本が返済できる金利での日本国債の購入やバルチック艦隊 回航に見られるような、中立国へのえげつない外交圧力が出来なくなったかと。 あとバルチック艦隊が日本艦隊と誤認してイギリス漁船を砲撃したりはしてますけど。 #right(){(俺初質スレ436:919)} 有名な「坂ノ上の雲」もバルチック艦隊に関する記述は、ほぼ「ロシア海軍残酷物語」だしな。 #right(){(俺初質スレ436:920)} ・外債募集のチャンスはロンドンで与えてる、日露戦争の戦費の大半はここで調達した外債頼み ・アルゼンチンが手放した巡洋艦2隻をロシアが買う前に買わないかと通報、日本が競り勝ち  この2隻は日本海海戦でも重要な役割を果たす ・バルチック艦隊を出港から英海軍がちくいち見張ってる、  しかも出港直後、確認ミスで英漁船をさせ英国世論、ひいては国際世論をロシア不利に誘導 ・航路においてもフランス他に石炭補給やめろの圧力、これが日本海海戦の帰趨にかなり大きく影響したのはご存知 ・あまり出回ってない情報だがバルチック艦隊のコース逐一日本海軍に通報の援護 最終的には自国の国益のためとはいえ、ぶっちゃけ日英同盟本文や通例の同盟国の範疇を超えて協力してる、それが大英帝国 ボーア戦争以後栄光ある孤立を捨てて最初に選んだ同盟国・日本への義理堅さもあったかもしれない #right(){(俺初質スレ436:921)} もっとも日本海海戦以後は英国も当時の例外ではなく 黄禍論的な沈鬱なムードに染まっていくけどな、 日本海海戦勝報にさぞ同盟国のロンドンっ子は喜んでるだろうと街に繰り出した孫文が見て残した日記が有名 風刺画だけで上下巻の本になってるから読んでみ、その量に圧倒されるから #right(){(俺初質スレ436:922)} ----

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