日本陸軍


日本軍の狙撃兵はすごかったのでしょうか?

日本の狙撃兵が特に凄かったかどうかは分かりませんが、南洋のジャングルという戦場であればスナイパーはかなり効果的であったのでしょう。
(4:404)

大戦中の陸軍の船舶について 伺いたいのです。

秋津丸 神州丸 弥彦丸など 船舶の利用がかなり盛んであるように見受けられます。
従来の図式では 陸は北進論 海は南進論でありシベリアや中国では 船舶はさほど使い勝手がよくないのではと思います。
陸で 船舶の利用を積極的に推進した方が居られるのか?それとも 島嶼での作戦や 上海など
沿岸部での作戦を想定しての装備ということで整備されたのか そこいら辺を御願いします。
「南船北馬」というように、中国の南部はクリークなど河川が多い。
しかも、長江、黄河、黒竜江といった大規模河川は駆逐艦くらいは平気で遡上できる。
(海軍の河川砲艦などが代表的だし、旧式駆逐艦すらそう言う大河には配備されていた。)

従って、必要は発明の母というように、陸軍ではまず平底船(小発、大発)が
実用化された。(一種の渡河・上陸機材ですね)
また、小河川、クリークでは戦車などの重火器が使えなかったので、上陸の
援護用に砲艇が実用化された。

しかし、それらを統括する船と、上陸戦という思想が海軍に無かった(そもそも
陸海軍の仲が悪かったのもあったのだが)ので、仕方なく秋津丸などの上陸用艦艇を開発した訳。

太平洋戦争が始まってからは、海軍は海軍の作戦(攻勢しか考えていなくて
防御的な側面はあまり重視されていなかった)を優先させたため、陸軍としては、守勢
に回った場合の上陸船団攻撃用の攻撃艇、島嶼守備隊の補給用の潜水艦を自力
で開発していかざるを得なかったのだと思うが…。
(8:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)

日本軍の近衛師団って他の師団とどう違うんですか。常設2個師団編成(?)だったそうですが皇居の警備にそんなに人数がいるんですか?

別に皇居の警備だけじゃなくて普通の師団同様の戦闘にも参加します
例:日露戦争の第一軍
(4:930)
戦時中に、近衛第1師団を新設したとき、旧来の近衛師団を近衛第2師団と改称した話を、
何か勘違いしているんじゃないのか?
(505:79)
昭和18年6月までは1個師団、20年5月までは2個師団だね。
でもって、5月以降は3個師団。
(505:81)
それは戦時に特設されたものであって、常設師団じゃないと思うけど?
(505:83)
そういう意味でいえば、常設は1個師団のみ。
ただ、日露戦争の記録を見ると3個旅団(第1、第2、後備)編成だったみたいですが。
(505:92)
「後備」というのは、予備役動員で戦時に臨時編成したものであって、これまた常設じゃないだろ
それに「旅団」だろ
(505:94)
日露戦争の頃は、1個師団は4個歩兵連隊基幹で、これを2個旅団に編制し、戦時には予備役主体の後備旅団を加える
近衛に限らず、他の師団も似たような編制
(505:97)

よく日本と戦った諸外国の兵士が口を揃えて言うのに、「日本兵は凄まじく強かった」って言いますが、強いと評判のナチスドイツ陸軍に勝てるでしょうか。

平均的兵士同士の素手の殺し合いなら、体格でドイツの勝ちでしょう。完全充足の同規模部隊の正面戦闘なら、装備でドイツの勝ちでしょう。
むしろ、どのような条件で比較すると日本が勝てるか、という話になると思います。
(7:352)
視界が悪く複雑な地形での遭遇戦ならば勝ち目があると思われ
日本軍 →委細構わず勢いに任せて全軍突撃
ドイツ軍→状況不明かつ不十分な態勢での交戦を嫌って戦術的後退
(7:360)

辻政信って人はどんな軍人だったんでしょうか?教えていただきたいのですが。

経歴は
  • 陸士36期恩賜、陸大43期恩賜
  • 士官学校教官
  士官学校事件に関与(士官候補生のスパイを用いて、皇道派を摘発)
  • 関東軍作戦班員
  「国境紛争処理要綱」要綱作成(ソ連領内への侵攻もやむなしとした、
                      強行的なドクトリンを決定、ノモンハンの引き金に)
  ノモンハン事件(敗北した部隊長に自決を強要)
  作戦失敗後、閑職に
  • 参謀本部兵站班長
  小冊子「これさえ読めば戦に勝てる」作成
  • 第25軍作戦主任
  マレー作戦参加
  在シンガポール華僑虐殺
  • 参謀本部作戦班長
  • 第17軍派遣参謀
  ガダルカナル作戦参加
  ポートモレスビー攻略を命令(大本営命令として、許可無く勝手に命令)
  • 支那派遣軍第3課長
  • 第33軍作戦主任参謀のち高級参謀
  • 第39軍高級参謀
  • 第18方面軍作戦課長
  • 最終階級大佐
  • 著書「ガダルカナル」「15対1」「潜行3000里」など
  • 衆議院議員のち参議院議員
  • 昭和36年、ラオスにて失踪

「下克上」の横行した昭和陸軍の暗部のような男です。一言で言い表せる人間ではありません、
参考になる書籍、サイト等は多々ありますので、これらのワードを元に
検索されることをおすすめします。
(8:98)

日本陸軍はなぜ兵士全員に自動車の運転技能を教えなかったのですか?

不要かつ高価だから。
陸軍で車両を運転する必要がある要員はそこまで多くなかったし、
取得させるには時間と金と機材が必要。
(29:678)

日本陸軍に戦車が登場したのはいつ頃

WWI終了直後の1918年に、英国から早速Mk.IVを一台輸入しています。
次いで、翌1919年には、同じく英国からホイペットA、仏国からはルノーFTを数台づつ輸入し、
部隊運用の研究を開始しています。
(33:663)

辻政信って官僚的な陸軍内でよく重大な事件に関わってたり行動したりしていますが、なんで重い左遷をされなかったんですか?

陸大の恩賜の軍刀組で出世が約束されてた。
そしてヒデキのお気に入りだったから。
統制派の人間にコビ売ってて、その辺の絡みから致命的な失策があっても助かっていた。
(334:690)

戦死後、階級が上がる特進制度は当時の日本陸軍にもあったのでしょうか?

戦死で2階級特進します。
終戦で特進するパターンって有りましたっけ?
(22:チェリーブロッサム ◆oGAFW6/A)
必ずしも2階級特進とは限りませんよ。
普通は昇進しても1つ。滅多にないことだからこそ特進と断っているのです。
もちろん昇進しないこともあります。
(22:590)

男爵 滋野 清武大尉について教えてください

文藝春秋から「バロン滋野の生涯」という本が出てました。(今でもあるかな)

滋野氏は長州出身の維新の元勲だったかで男爵を賜りました。

愛する妻に死なれて、自殺をしようと外国を彷徨ったとき、一番危ない
飛行機に乗れば事故で死ねると考えた滋野男爵は、フランスのブレリオ飛行学校で飛行免状をとります。
ところが、飛行機の魅力に取り憑かれ、自分で飛行機を製作したりしてます。

帰国後、陸軍に一時奉職しましたが、徳川好敏との確執で軍を辞め、
第一次大戦勃発直前、フランスに再度渡り、大戦勃発後フランス軍に志願入隊。
最初はボアザン装備の偵察爆撃中隊に配属されますが、そこで数度の空戦の後、
戦闘機を撃墜する勲功をあげ、後に「こうのとり中隊」と言うエース部隊に配属され、教官も務めました。

彼の機体にはコウノトリならぬ、丹頂鶴が描かれ、妻の名を取った「わか鳥」
と言う名称で呼ばれていました。
彼もエースですが何機撃墜したかは覚えてません。
大戦後、フランス人女性と結婚し、民間航空に命を捧げますが、43歳で不帰の客となってしまいます。
(29:眠い人 ◆ikaJHtf2)

八甲田山死の彷徨てどの程度正確なのでしょうか

大量遭難を出した青森歩兵第五連隊は弘前第八師団第四旅団に所属していました。
具体的な編成は第二大隊(山口鋠少佐)傘下の四個中隊から40~45名を選抜し、
第五中隊長神成文吉大尉が率いたものです。
ただし、編成外として山口少佐以下九名が同行し、少佐が指揮に干渉したのが
遭難の間接的な一因と言われています。
一方の福島隊は弘前第三十一連隊第一大隊第二中隊(福島泰蔵大尉)所属の37名です。

「八甲田山死の彷徨」ですが、登場人物の名前を仮名にするなど小説的な
脚色がされていると思って間違いないです。
「われ、八甲田より生還す」「八甲田より還ってきた男」高木勉著 などの
反論本もありますが、「雪の八甲田で何が起こったのか」川口泰英著 北方新社
がこの事件に関しては最も良い本だと思います。

四個中隊から各40~45名を選抜した四個小隊+他の大隊から抽出した特別小隊と
山口少佐以下九名を含めた210名が青森隊の編成内容です。

また、高木勉氏の一連の著書を挙げましたが、彼は福島泰蔵大尉の縁故だとかで、
福島隊に偏った内容になっているようです。
双方を比べるのも一興かと。
(40:名無し軍曹)

日本には関東軍が余ってましたよね?

昭和15年度の対ソ戦予定兵力は陸軍の師団総数49個の内
34個師団を必須としていた。
しかし現実には27個師団は中国で戦っている罠

独ソ戦に呼応した対ソ戦計画である関東軍特種演習では
南進用の師団が更に引き抜かれ、わずか25個師団で作戦が計画された。

参謀本部もこれだけの兵力では極東ソ連軍32個師団に対して兵力が少なく
目標を達成できないとして「師団数が41年9月までに半減すれば武力発動」と
したがソ連軍は動かず計画は流産

ここまでは計画の話ですが、仮に強行発動したとして何が得られるでしょうか。
自信過剰の陸軍ですら二の足を踏む兵力不足。ドイツがモスクワを落とすかも未知数ですし、
(参本ロシア課すらドイツによるソ連占領は不可能、ソ連の徹底抗戦は必至と判断していました)、
アメリカもいかに動くやら。

仮にシベリアを手に入れても、地下資源は豊富かもしれませんが
開発には絶望的な時間がかかるでしょう。
(41:537)

寺内正毅の勲章について教えて下さい。

ざっと調べると、これだけの勲章を受章しています。

  • 勲一等旭日大綬章  明治34年12月27日
  • 勲一等旭日桐花大綬章  明治39年4月1日
  • 功一級金鵄勲章 明治39年4月1日
  • 大勲位菊花大綬章  大正8年11月3日

また、防長尚武館の写真もみましたが、内閣総理大臣や外務大臣・朝鮮総督といった要職に
ついた関係か外国からも多くの勲章を受賞しているようです。
(45:名無し軍曹)

旧軍青森・弘前連隊の八甲田山行軍があった頃、もっと寒い北海道に駐屯する部隊の冬服は青森・弘前のものに比べてより防寒性の高い物が支給されていたのでしょうか?

旧軍青森・弘前連隊の八甲田山行軍での遭難の件ですが、原因は防寒装備
の不備だけでは無く、雪中行軍の為の事前準備や経験不足、地元民からの情報
の軽視と、行軍路に詳しい兵の不在、指揮官の経験不足と指揮系統の混乱、
当日の悪天候(記録的な寒波による)等、様々な要因が相俟って起きた事件です。

それに、平地の北海道よりも、冬の八甲田山系の方が環境としては遥かに
厳しいです。例えは少し違うかもしれませんが、南極に行ける時代にも関わらず
いまだに日本アルプスで遭難者が絶えない例も有ります。
余談ですが、皮肉にも、この行軍そのものよりも、遭難後の捜索活動の方が
旧日本軍に厳冬期の行動データーや装備の開発の役にたったそうです。
(63:25)

日本陸軍の大将って一人?

陸軍の大将は一名ではなく、陸軍解体までに134名が任官しています。
(63:740)

終戦時、陸軍中将だった篠田鐐氏について

陸軍大尉のときに秘密戦資材研究室(別称、篠田研究室)の責任者で1939年8月(昭和14年)の
科学研究所登戸出張所(後の第九技術研究所 登戸研究所)を設立した
(66:28)

皇道派と統制派の争いを分かりやすく解説した本はあるでしょうか

まず、皇道派・統制派の対立に関しては、「日本を滅ぼした国防方針」(黒野耐、文春新書)あたりが手軽で、
記述も客観的でいいと思う。もっとも、日露戦争直後からの海軍と陸軍の方針の食い違いが主テーマであり、
皇道派・統制派の対立はその中の一部として取り上げられているくらいだけど。

永田に関して言えば、対米戦というのではなく、対ソ戦に対する危機感が非常に強い。
当時は、南進・主仮想敵国は米英と考えていたのは、むしろ海軍。
満州の防衛第1とすれば、南進策は不可。
しかも、近代化が進むソ連に脅威を感じていたわけだから、
満州の防備が再編されるまで、中国本土への拡大方針も論外。
満州事変後は中国への拡大は不可能と考えるようになった石原莞爾を参謀本部に呼び戻したのも、その表れの一つ。

永田斬殺後、彼の路線を継承した石原は、海軍を説得し、
対ソ軍備を最優先とするよう妥協を引き出すことに成功する。
もちろん、中国本土に対しても不拡大方針…ところが、日支事変が起こってしまい…

とまあ、そういう流れがある。
(66:566)

石原莞爾の世界最終戦論は日蓮宗や、天皇信仰が根幹だと聞いたのですが、本当ですか?

事実として、かなり信仰心の強い日蓮宗徒であったのは確かです。
最終戦争論の思想には、その影響があったとも言われます。

しかし、ある意味、強烈なカリスマですから、思想的な背景から、
彼を評価したり、行動を解釈したりしようとすると、
記述者の主観が相当に入らざるを得ないと思いますので、
下手にネットワーク上の情報に頼らない方がいい。

彼自身の著作にあたり、複数の伝記を読み、自分で解釈することが大切かと思われます。
本屋のサイトや図書館のデータベースに当たれば、
彼自身の著作も、伝記も出てきます。
例えば、アマゾンなら、「石原莞爾」でサーチすると40冊ほどの本が出てきます。
鬱なことに仮想戦記も含みますが、それらの中の何冊かを読むことです。
(67:771)

旧軍の行った八甲田山行軍の目的は日露戦争になった場合、冬の八甲田山系での陸軍の移動が可能か否かを確かめるものだったんですよね。

弘前連隊の成功、青森連隊の全滅と言う結果を受けて軍はどういう結論を出したのでしょうか?
事実上の棚上げ状態です。
軍は遭難の実態が明らかになってきたころから、現場の捜索隊などに緘口令を引き、
青森連隊の遭難の原因をあくまでも天災であるとして弘前連隊の成功を含めてすべてを
うやむやにしてしまいました。
そして遭難自体を美化して遭難者を軍神に祭り上げています。
八甲田山の雪中行軍演習が再び行なわれたのは昭和7年1月で、遭難30周年を記念してのことでした。
(70:名無し軍曹)

森鴎外の執筆活動は当時の陸軍に知られていたのでしょうか?

知られていたならば、陸軍は鴎外の副業を許していたのでしょうか?
それとも、お偉いさんだったので何も言われなかったのでしょうか?
森閣下は軍医総監だけでなく文学も軍務でこなしておられたよ。
樋口一葉の葬儀に「陸軍中将 森鴎外」(本名の林太郎ではなく)
で花環を手向け大礼服姿に騎乗して葬儀会場に表れて遺族を困惑させたとか。
だけど晩年の作品は文学的な価値はあまりないといわれているが。
(70:22)

旧日本陸軍の下士官は定年が40歳(憲兵だけ48歳)だったそうです。

何でこんなに早い定年にしたのでしょうか?
平均寿命、医療技術や栄養事情まで考えれば妥当だったと思われ。
当時の40は現在なら7、8割として50代相当だろう。
(76:572)
当時は形骸化していたとは言え徴兵制を敷いていて、かつ30年代中頃まで
常備兵力自体は今の陸上自衛隊とたいして変らない人数でしたので。
(76:574)

旧帝国陸軍の陸大っていうのは、かなりの難関だったのでしょうか?

陸大(陸軍大学校)は明治16年に設立された
「高等用兵に関する学術」を教育するための学校です。

陸士卒業後、最低2年間の隊附期間(実務経験)を経て
所属長の推薦をもらって受験します。
一期あたり4,50人ですから大体陸士卒業者の一割程度ですね。
生徒の平均受験回数が2回程度と聞いてますので、かなりの難関であったことは確かでしょう。
入学試験は口頭試問による、という話も聞いたことがありますがすべてそうかは分かりません。
(82:658)

「731部隊」の正式名称って、一体何になるんでしょう?

関東軍防疫給水第七三一部隊。
通称は東郷部隊。
(82:ニセ森村誠一)
先生、通称は「加茂部隊」では?
(82:726)
通称は石井部隊
石井四郎中将
(82:剣恒光@自衛隊板 ◆YR1Hskt.M)
それは違う部隊名の秘匿になってないぞ。
東郷部隊・加茂部隊両方正解。
(82:770)

731部隊の英語表記はUnit731であってますか?

あってますだ。
陸軍中野学校の英語表記は"(Japanese Army`s) Nakano School"でふ。
あるいは単に"Nakano Gakko"とそのままの表記もあるようでつ。
(83:56)

戦前の歩兵旅団は2個歩兵連隊で編制と聞いたのですが,

歩兵第百三旅団は歩兵第六十五連隊と山砲兵十九連隊で,編制されたというのは,
山砲兵連隊とあわせて2個連隊あるからオッケーってことでいいのでしょうか?
戦前の歩兵旅団は2個歩兵連隊で編制までは正しく、後段は誤りがあります。

山砲兵第19連隊は第103旅団他の諸部隊と共に第13師団隷下にありました。
歩兵第103旅団は歩兵第65連隊、歩兵第104連隊で編成されたものです。
これらの軍令に従った編制を「建制」といいます。

「山田支隊」の場合、歩103旅団長である山田栴二少将の指揮下に
第13師団から臨時に山砲19連隊が配属されたということです。
「山田支隊」は「軍隊区分」と言われる臨時編制となります。
(84:213)

旧陸軍の植民地出身者部隊について概説していただけないでしょうか。

詳しい方は夜に来られるでしょう。それまでに簡単な解説を。
台湾では昭和16年より志願兵制度が実施されており、徴兵制は昭和19年に始まっています。
その中でも特にマレー・ポリネシア系の「高砂族」と呼ばれる人々は数多く志願を行なっています。
彼らは「高砂義勇隊」という原住民志願兵として戦争に参加しました。
当初は輜重・軍夫としての従軍でしたが、彼等の能力・責任感の高さに目をつけた軍は
彼らの特性を活かし、南方のジャングルでゲリラ戦を展開する専門部隊として編成しました。
また、昭和19年11月26日に行なわれた空挺隊によるブラウエン飛行場制圧作戦に参加した
特別攻撃隊斬込隊「薫空挺隊」は将校・下士官以外はすべて高砂族の兵員より編成されていました。
高砂義勇隊は六千名とも八千名とも云われ、そのうち約三千名が戦死したそうです。
(85:496)
その高砂部隊への戦後賠償はどうなったんですか?
戦後それらの志願兵を含む台湾人は日本の国籍を失ったため、日本政府は
彼らには恩給などの補償や援護を行なっていませんでした。
紆余曲折を経て1987年に議員立法で戦没者遺族に一人につき200万円が支給されましたが、
十分な補償とはいえません。
(85:498)
恩給欠格者でググれ。
(85:501)

敵陣に突入する際、銃をもった兵士を従え、先頭の人は刀を振りかざして走ってました。

第二次世界大戦の日本軍の映像だったと思います。
この刀をもった人はその部隊ではどういう位の人なのでしょうか。
簡単に言えば、刀を持っているのは指揮官で、その背後にいる兵たちの隊長です。
刀は隊長であることの象徴です。
(87:310)
日本陸軍では、士官と准士官・曹長(大戦末期は伍長クラスまで)が軍刀を持つのが基本。
騎兵の場合は、全階級軍刀装備。

階級がある程度より上の者だけが軍刀を持つのは、幕末にヨーロッパの軍隊から輸入された制度。
ヨーロッパの陸軍では、一目で指揮官がわかるから、部下を率いるとき便利って理由があった。
あと、封建時代からの伝統で、指揮官は騎士階級、それ以外の兵隊は平民ってこともある。
騎兵が全員刀を持つのは、当時の銃は突撃中の馬の上での装填なんかできないから。

ヨーロッパでは第1次世界大戦の戦訓で、指揮官が目立つ格好をしていると真っ先に射たれるってことが判っていたから、
突撃時に軍刀を振り回すことは(多少の例外はあるが)していなかった。
(87:311)
米軍でもヘルメットの「I」や「#」マークを
狙われて「大尉」の大量損失があったらしいね
(87:317)

来栖大尉の顔写真を見ることのできるサイトはどこかにないでしょうか?

東京近辺に住んでるんなら靖国神社遊就館に行ったほうが早いよ
(87:748)
サイトじゃないけど、中公文庫「第二次大戦航空史話」下巻P.273に写真が載ってます。
イラストだけど、表紙も飾ってるし。
ISBN4-12-202739-X
(87:752)
未知の剣には335ページに写真が掲載されています。
小さいですけどね。
(87:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
※2017年6月時点で、ウィキペディアに掲載されています。

旧軍に山田って名の陸軍中将はいたのですか?

西南戦争で活躍した山田顕義中将は長門国だしな~。

もう少し情報がないと特定がむずかしいです。
候補としては 山田隆一中将 山田乙三中将(後大将)
(88:機甲自転車)
たぶん山田隆一中将です、校長が昔に朝会の時に言ってたのを思いだしました
この中将さんは学校の増築の時に来校して村人・生徒を集めて演説してたらしいです、
そして感動した村の人が記念碑を建てたらしいです(親父談)
あとその近くに祖父の立てたニノミヤキンジロウの像もあるんです
(88:422)

旧日本陸軍の「軍」と外国の陸「軍」は、英訳は同じですか?

どっちも"army"です。
(88:455)

外国の陸軍の師団長が普通少将なのに、旧日本陸軍の師団長が中将と1ランク高いのはなぜでしょうか。

師団長が中将なのは、各国では准将を当てている旅団長が、少将職だから。
旧軍の階級に准将がなかった理由はよく判りませんが、これも発足当時は
それほど多くの階級を必要としなかったと言うことの影響が大きいかと。
当初は大将も名前だけで実際には一人も存在しなかった時代もあるし。
(88:448)
軍隊の部隊規模というのは同じ名称であっても国や時期の違いによって様々ですので、
日本に限らず、編成の名称だけから戦力や規模を類推することは難しいといえると思います。

逆にいえば、専門家は名称から規模を誤解したりしないよう心がけているといえます。
(それでも誤解は生じるのですけれど)
(88:492)

旧日本陸軍の編成が、師団-軍-方面軍-総軍となっていて他の国の陸軍の師団-軍団-軍-軍集団と違うのはなぜですか。

メッケルさんが「日本は狭いから軍団必要ないね」と決めたからです
軍以上は規模が大きくなってから泥縄的に成立。
(88:444)
軍の編制については、明治陸軍発足当時の、こぢんまりとした組織を代々
受け継いでいった結果が大きいようです。
(88:448)
日本陸軍の師団は、平時の最大の軍単位。そして師団は「師団管区」という受け持ち区域を
持っていて、これが複数の県にまたがっている。ということは複数県に渡って活動することになり、
師団長は県知事より上の権限を持つことになる(地域軍政に関する責任者でもあるから)。
で、県知事というのは官職上、少将相当なので、その上になる師団長は中将でないとまずい。
という、組織上の都合だったりするんだな。
(88:556)

陸自少年工科学校って戦前で言えば一体どんな学校に分類されますか?

陸軍幼年学校
(88:511)

陸上自衛隊で「第○特科団」とか「第○高射特科団」とかありますが、どの程度の規模の物なのでしょうか。

群は編制部隊ではない編成部隊で、数個の大隊・中隊等の集まった
連隊相当の部隊。

特科群、施設群、通信群などがある
部隊長は1佐が多く、連隊に準ずるランクの部隊とされる。
400~800人程度で構成される場合が多い。
(88:605)
編制部隊じゃない編成部隊ってどういう意味でしょうか?
編制部隊は建制の部隊で恒久的。編成部隊は臨時的なニュアンス。
自衛隊の場合、団は複数の群or群+α
(88:624)

ドイツではヒトラーの命令には「総督云々第何号」と番号が付けられていたと聞いていましたが、旧陸軍の「通達」にも番号が付けられていたのでしょうか?

大陸命じゃなくて「通達」?
付いてないんじゃないかな
大陸命には通しナンバーがついてるけど
(88:661)
正規の通達なら下書きから通信文までちゃんと保存してあるはずだよ(戦火での散逸分除く)
通しナンバーがあるかないか、漏れは知らないだけ
(88:663)
通達だったら、陸軍公報に掲載されるよ。
でも、出された日時が分からないと、探すの大変。
単独の綴り冊子が現存する場合もあり。
(88:665)

台湾営林所の陸軍歩兵少尉正八位って身分高いんですか?

正八位とかの位は位階といいます。
位階は戦前は国家に勲功がある者、有爵者(華族は相応の位階を与えられる特権がある)、
襲爵予定者(爵位を継ぐ予定の華族)、官吏などに与えられました。
戦後は、戦没者などの故人にのみ与えられています。

ちなみに正八位は十六階がある中の下から二番目です。
(90:126)
正八位は士官としてはデフォルトの身分のようですね。

(90:system)

旧日本軍の徴兵検査では肛門に指突っ込んで痔の検査をしたとの事ですが、痔の有無ってそんなに重要だったのでしょうか?

痔は治りにくいしひどくなると歩くこともできないくらいの苦痛になる。
兵隊は歩くのが仕事だし、戦場は痔持ちに優しい環境ではない。
戦場で行軍も戦闘もできなくなるような爆弾を抱えている人間はとらないってことだね。

ぐぐってみたら徳川の家臣の榊原康勝が、大阪夏の陣の直後に痔で死んでるそうだ。
戦場で痔が破れて鞍が血まみれになるまで馬に乗り続けたのが原因らしい。
(376:57)

砲工学校と陸軍野戦砲兵学校の違いについて


陸軍砲工学校の学生は砲科、工兵科の少尉で、砲工兵各科の勤務に必要な学術を教授する学校となります。
但し、時には中、大尉クラスを学生とすることがあります。
普通科の修学期間は1年ですが、このうち、各兵科毎に3分の1以内を選抜し、更に在学期間1年の高等科に進ませ、
更に枢要な学術を修めさせる様になります。
また、高等科卒業者或は憲兵科を除く尉官中、技術将校に適任な者を選び、員外学生として必須な学科を研究させ
ています。
その修業期間は高等科卒業者の場合、3年3ヶ月、歩・騎・航空・輜重兵科尉官の場合は、5年3ヶ月が通常になります。

員外学生は砲工学校で約3ヶ月乃至2年3ヶ月修学の後、帝国大学に派遣し、学術を更に研鑽させます。
また、幾人かは海外駐在員として外国留学させることがあります。

一方の陸軍野戦砲兵学校は、学生に射撃、戦術、観測通信、馭法並びに照空などを教授して、之を各隊に普及し、且つ
これら諸学術の研究を行う学校です。
学生は5種あります。

甲種学生は、砲兵科大尉が資格者で、主に射撃と戦術を学び、期間は7ヶ月。
乙種学生は、砲兵科大、中尉が資格者で、主に射撃法を学び、期間は5ヶ月。
観測通信学生は、砲兵科中、少尉が資格者で、主に通信観測術を学び、期間は6ヶ月。
馭法学生は、砲兵科中、少尉が有資格者で、主に馬術と馭法を学び、期間は11ヶ月。
高射砲学生は、砲兵科中、少尉が有資格者で、主に高射法に関する学術を学び、期間は5ヶ月。

即ち、前者は高等研究機関で、ほぼ全兵科から学生を募り、技術の検討を行う場。
後者は、砲兵の専門教育機関で、砲兵がその技術を磨く為の場になります。
(456:180)

旧陸軍の、背嚢・雑嚢の中身について、知りたいのですが、

武器や弾薬ではなく、一兵士・一軍人がそれぞれ国から支給された装備品です。

1941年9月の中国戦線でのある歩兵部隊の装備品の例

携行口糧 甲 4日分
携行口糧 乙 1日分
缶詰       3
食塩       1日分
干魚       1日分
梅干       1日分
被服・日用品
弾薬盒    前2、後1
弾薬実包    120発
鉄帽(ヘルメット)
防毒面
円匙(スコップ)
飯盒
水筒
地下足袋

その他に携帯天幕や外套を持つことも。

日用品は洗面具(歯ブラシ、かみそりなど)、裁縫道具、包帯包など。
(494:717)

太平洋戦争中の日本軍は弾は何発持てたんでしょうか?

歩兵は、腹と背中の弾薬盒に、銃弾を入れました。

それとは別に、背嚢に銃弾を入れました。
こちらは、そのときの作戦の都合によって変わりました。

「歩兵銃用の「弾薬盒」には「前盒(ぜんごう)」と「後盒(こうごう)」があります。
完全軍装の「歩兵」は、腰の「革帯」に「前盒」を2個と「後盒」を1個の計3個の「弾薬盒」を装着しました。
「弾薬盒」は、盒の裏側に付いている「革帯通し」に「革帯」を通して装着をします。
2個の「前盒」は「革帯」の尾錠の左右へ振り分けて装着し、「後盒」は後ろ側へ装着をしました。」

下記、弾薬盒(歩兵銃用)を参照ください。
http://kon-tan.hp.infoseek.co.jp/equip/japarmy_navy/danyakugo.html
(616:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)

日本陸軍の「留守師団」というのはどの程度の(出征していった野戦師団の何分の1ぐらいの)戦力を持っていたのでしょうか?

動員下令の場合は、留守師団長以下、スタッフのごく僅かな要員のみで編成され、教育訓練とか戦地に出動した師団の人員補充を
担当するだけです。
臨時編成下令の場合は、師団兵力の3分の1が残留し、師団長が師団留守司令官を任命、これを指揮して留守隊の教育訓練や人員
補充を行います。
(但し、これは留守師団ではなく留守隊と呼ばれています)

太平洋戦争時に動員が為されると、留守師団を基幹に新たな師団を興しますが、その補充と従来の留守師団が担っていた人員補充
の為に、留守師団が編成されます。
これは歩兵連隊4個の4単位師団もしくは3個の3単位師団で編成され、編成はほぼ前線の師団と同じです。
但し、人員は平時編制当時の1万人で構成されています。
(360:268:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧日本陸軍における、「隷下」と「指揮下」の違いって何ですか?

「第十飛行師団は第一航空軍司令官の隷下、防衛総司令官の指揮下にあって・・・・・」と
戦史叢書で言われても、結局指揮官が誰なのかわかりません。
戦史叢書102「陸海軍年表 付 兵語・用語の解」から引用

指揮下・隷下
:指揮下とは一般的に指揮関係下にあることをいい、隷下とは固有の隷属関係にあることをいう。

指揮
:上級官庁が職権または要求により、下級官庁にその職務上の事項につき下す命令で、当該官庁内だけで効力を有するもの。
 軍隊において上級者がその職権により任務遂行に際し、所要事項を命令し実行させ、また時々変化する情況に対処して任務遂行を可能容易にするため、下級者に対して指図する等上級者が行う一連の行為をいう。

隷属
:他の上級者に従いつくことで指揮監督の下に入ること。例えば軍令部総長に隷属する海軍諸機関、陸軍大臣に隷属する陸軍諸機関のように使用する。
(508:942)

私の祖父は戦争中河北省で独立警備大隊と言う部隊に所属していたそうなんですが、警備大隊と言うのは具体的に何をしていたんでしょうか?

基本的に現地の治安維持目的の軽装備な歩兵部隊と思っていれば問題ない。
正規軍相手でなく、馬賊や武装ゲリラを主に相手をするのが主目的。
(557:249)
文字通り占領地の警備をするための部隊で後方の拠点や鉄道などをゲリラ等から守ってました
治安師団(華北なら第114師団や第118師団 )から特設治安大隊までいろいろあるけど砲兵など敵の軍隊と殴りあうための部隊が
付属してないことが特徴。
二線級の部隊で人員も戦争が始まってから急遽動員された人たちが多かった。
たびたび正規戦闘に駆り出されることもあったので砲兵がつくこともありました。
第一線の部隊に比べてという意味で
(557:モッティ ◆uSDglizB3o)

独立警備隊とは昭和20年に中国で現地編成された部隊です(2月に7個、4月に6個)。
占領地の警備にあたっていた師団が米軍の上陸などに備えて転用された後を警備するために新設されました。
編成は司令部・独立警備歩兵大隊×6・独立警備作業隊×1
各独立警備歩兵大隊は大隊本部・中隊(250名、軽機関銃6・重擲弾筒6)×5・銃砲隊(110名、馬10頭、重機関銃2、大隊砲2)×1
独立警備作業隊は235名で軽機関銃1・重擲弾筒1
なお、大隊本部に通信班があります(12名、電話機20、五号無線機8)
現地部隊から差し出された人員で編成されたため、人員や装備の充足は悪かった模様。
たとえば、第3独立警備隊は編成完結時(3月30日)将校50%、下士官兵65%

河北省ということなら、第3、第5、第6、第7、第10、第13、第14あたりなか?

部隊名、通称号、終戦時所属、終戦地、編成の順

第1独立警備隊(矢石)第13軍 南京 司令部・独立警備歩兵第1~第6大隊・第1独立警備作業隊
第2独立警備隊(至威)第20軍 長沙 司令部・独立警備歩兵第7~第12大隊・第2独立警備作業隊
第3独立警備隊(伸張)北支那方面軍 北京 司令部・独立警備歩兵第13~第18大隊・第3独立警備作業隊
第4独立警備隊(至誠)駐蒙軍 大同 司令部・独立警備歩兵第19~第24大隊・第4独立警備作業隊
第5独立警備隊(至隆)第1軍 運城 司令部・独立警備歩兵第25~第30大隊・第5独立警備作業隊
第6独立警備隊(至毅)第12軍 新郷 司令部・独立警備歩兵第31~第36大隊・第6独立警備作業隊
第7独立警備隊(至武)北支那方面軍 保定 司令部・独立警備歩兵第37~第42大隊・第7独立警備作業隊
第9独立警備隊(至剛)第43軍 済南 司令部・独立警備歩兵第43~第48大隊・第9独立警備作業隊
第10独立警備隊(至敏)第12軍 鄭州 司令部・独立警備歩兵第50~第54大隊・第10独立警備作業隊
第11独立警備隊(至鋭)第43軍 兌州 司令部・独立警備歩兵第55~第60大隊・第11独立警備作業隊
第12独立警備隊(至厳)第43軍 青島 司令部・独立警備歩兵第61~第66大隊・第12独立警備作業隊
第13独立警備隊(疾風)第12軍 鄧城 司令部・独立警備歩兵第67~第72大隊・第13独立警備作業隊
第14独立警備隊(紫電)第12軍 *州 司令部・独立警備歩兵第73~第78大隊・第14独立警備作業隊
(557:263,264)

ガダルカナルに投入された「独立工兵第六連隊」の詳細を知っている人はいますか?

独立工兵第6聯隊は昭和12年7月27日に広島で編成された「乙工兵」(船舶工兵)で
工兵第6聯隊とは別の部隊。
大発などの舟艇を装備し、舟艇機動部隊の輸送を担当。
ちなみに舟艇機動部隊に所属する独立工兵第28聯隊の1中隊(2小隊欠)も同じ。
ただし、駆逐艦乗船部隊の独立工兵第15聯隊は「甲工兵」だから普通の野戦工兵。
(341:397)

宮崎繁三郎って具体的にどのあたりがすごいの?

簡単にいえば、情に厚い上に戦では決して負けない指揮官だったことだと思います。

「不敗の名将」という言葉が彼には付いて回ります。
かのノモンハンで第十六連隊を率いてソ連軍を相手に一歩も引かずにこれを撃退、
おそらく唯一と言っていい歩兵部隊での勝利を収めたこと、
また、ビルマでの牟田口軍司令官の無謀な作戦とそれに対する第三十一師団の
佐藤中将の抗命など混乱しきった最前線で長期戦の持久戦を戦い抜き
後退の際も兵の損失を最小限に抑えるなど常に「負けない戦争」を戦ったからです。
その作戦は周到で理詰めであり、なおかつ大胆で果敢な突撃を躊躇うことはありませんでした。
また、彼は仁慈に厚く、部下に対して常に情をもって接したことや上官の批判を
決して行わないなど万人に慕われる人間でした。

「参謀、敵中突破で、分離した部隊を間違いなく掌握したか?」

これが死を目前にした宮崎繁三郎の最後の言葉でした。この一言に彼の人間性が
現われていると思います。
(572:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

明治時代の陸軍兵士の背嚢にはどんなものが入っているんですか?

主に着替え用の下着・軍足・雨具・テント。
冬場は防寒衣料が追加される。携帯口糧の乾パンなど。
当時はフランス軍が軍事顧問なので影響してるね。
大日本絵画・中西立太先生の日本軍の軍装などが参考資料
として充実してます。
(336:一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)

陸軍が機械化を推し進めなかった理由は?

仮想敵国がアメリカで仮想戦場が島嶼であれば理解できるのですが、広い荒野の中国や
ソビエトを仮想戦場と考えていた陸軍が機械化を推し進めなかった理由が検討つきません
まずもって、機械化陸軍作りたくてもそんな金がどこにも無い、というのがある。

日本の軍事予算はみんな海軍が持っていってたので、と言われるが、それ以上に
頭数の多い陸軍は全員に銃を持たせて訓練して飯食わせるだけで膨大な予算を
必要とするので、日本のように列強の中では一番経済規模の低い国ではどうしようも
なかった。

構想はされているんだけどもね>機械化陸軍

それと、日中戦争の推移や「関東軍特別演習」だけ見てると誤解するが、基本的に
日本の大陸での戦略は「権益防護」「国境(勢力圏)線守備」の、守りのドクトリン
だから、「侵攻」を念頭に置いた兵力の機械化整備は考えられていない。
そういう意味では本来の任務とは全然別の戦争を陸軍は大陸でしていたと言える。
(334:486)

関東軍の司令部は東京にあったんでしょうか?

野中広務がそう言ってましたが
満鉄警備が目的の守備隊として発足、このときの司令部は旅順。
その後、新京(満州国首都)へ移転という流れ。
そもそも満鉄警備のための守備隊が前身なので、東京に司令部を
置く意味が無い。
(330:612)

かつて、帝国陸軍には普通の歩兵連隊とは別に機動連隊というものが3つありましたが、この連隊はどのような兵器や車両を装備をしていて、どのように運用されたのでしょうか?

機動連隊はコマンド部隊。
ソ連領内に密かに潜入して、司令部や鉄道などの重要施設を襲撃する目的のもの。

武装は一般歩兵用の軽火器とほぼ同じ。
短機関銃や爆薬なんかも持ってたようだ。
重装備はほとんどなく、迫撃砲若干程度。
移動手段も徒歩。迫撃砲や重機関銃は駄馬で運んだようだ。
特殊な機材として、経空侵入用の小型気球も研究されてたという。

光人社NF文庫から、「関東軍特殊部隊 闇に屠られた対ソ精鋭部隊」という本が出てるから、
詳細はそれを買って読むとよろしいかと。

なお、名前は似ているが、「機動歩兵連隊」「機動砲兵連隊」というのは別物。
こっちは戦車師団隷下の機械化歩兵部隊と機械化砲兵部隊のこと。
(607:258)

帝国陸軍の機動歩兵連隊とはどのようなものだったの?

これは失礼。機動歩兵連隊は、戦車随伴歩兵として活動する機械化歩兵です。
各戦車師団に1個連隊ずつありました。ただし、戦車第4師団にはありません。

装備は基本的に一般の歩兵部隊と同じです。
ただし、対戦車砲として、一般歩兵の37mm速射砲より強力な、47mm速射砲を多数持っていました。

移動手段としては、装軌式・半装軌式の装甲兵車に全員乗車する計画でしたが、
実際には装甲兵車の生産が間に合わず、自動貨車(トラック)で代用していたようです。
若干の戦車・装甲車も持っていました。

戦車第1師団の機動歩兵第1連隊の定数として装軌車両222両、装輪車両87両と言います。
実際の終戦直前の機動歩兵第1連隊では、
装甲兵車39両、装軌貨車3両、自動貨車21両、軽装甲車15両、乗用車8両、指揮車1両。
大戦後期の機動歩兵第3連隊(戦車第3師団)では、
自動貨車250両以上と軽戦車10両、装甲兵車2両。
機動歩兵第2連隊(戦車第2師団)は、フィリピン進出時に車両の大半を残置し、
兵員の1/3が乗車、1/3が戦車に跨乗(タンクデサント)、1/3が徒歩。
(607:284)

帝国陸軍の戦車や装甲車には、いつごろから無線が搭載されるようになったのでしょうか?

装甲車両用の車載無線機は、昭和8年(1933年)頃に本格的研究が始まり、
九四式四号乙無線機として最初に制式化されました。
九二式重装甲車に搭載されたようです。
同じころに開発された九四式四号丙無線機は、八九式中戦車などに搭載されました。
いずれも車体レイアウトができてしまった後に、無理やり詰め込めるように設計したもので、
性能的にはあまり良くなかったようです。

その後、九五式装甲軌道車用に九六式二号戊無線機、
装甲作業機・九七式中戦車用に九六式四号戊無線機などが制式。
これらは九四式四号丙に空間的余裕を持たせて再設計したもの。
アンテナの形状も例の鉢巻きアンテナなど試行錯誤されてた様です。

指揮戦車用の高性能通信機としては、三式車両無線機甲がありました。

詳しくは「日本無線史」(電波監理委員会、1951年)の9巻をご覧ください。
(607:416)

師団制毒隊について、教えて下さい。

制毒隊とは、旧陸軍の化学戦部隊のようですが、主に防疫の為の部隊なんでしょうか。
化学兵器で敵を攻撃する能力はあったのでしょうか。
制毒隊は化学戦について、攻防両方の機能を一応は備えています。

攻撃面では、マスタードガスを背負い式の噴霧器や装甲車牽引式の撒布車両で撒き、
嘔吐剤を発煙筒式の発生装置で展張するほか、一般戦闘支援用の煙幕も運用します。
化学砲弾を飛ばすような火砲までは持っていません。

防衛面では、化学汚染地帯の突破用に、汚染を中和する晒し粉の撒布をする(制毒)ほか、
化学剤が付着した衣服などの洗浄(除毒)能力も持っていました。

ただ、充実した方でも200名強、小さくは80名程度の人員しかなく、作戦能力はささやかなもの。
一部師団では制毒隊ではなく制毒訓練所というのを持ってますが、これはもっと小規模なもの。

なお、「防疫」は化学戦ではなく生物戦の領域で、
担当するのは制毒隊ではなく、防疫給水部などになります。飲用水の殺菌とか。

去年復刻版が出たグランドパワー別冊「日本陸軍の特種部隊」が、化学戦部隊についてまとまってます。
(609:317)

日本陸軍の師団司令部の構成について、

師団長の補佐、秘書のようなことをする役職は副師団長と幕僚長のどちらなのでしょうか。
また、師団長と幕僚長では職務内容はどう違うのか、
階級が同じであった場合副師団長と幕僚長ではどちらが偉いのか、教えていただきたいです。
日本陸軍の師団本部の構成は、師団長の下に、
参謀の肩書きを持つ士官が3名(大佐、中ないし少佐、大尉)。
副官の肩書きを持つ士官が4名(少佐、大尉、中ないし少尉2名)。
参謀や副官のサポートを行う曹長ないし軍曹が9名。
計官が3名(主計官=中ないし少尉1名、曹長ないし軍曹2名)

副師団長という肩書きはない。
師団長に何らかの支障があれば、師団隷下の最先任の旅団長(少将)が代理することになる。
参謀の中の大佐が、参謀長=あんたの言う幕僚長ということになるが、あくまでも参謀。
師団長の役割が意思決定して命令を下すことにあるとすれば、
参謀の役割は、師団長の軍事に関する意思決定のサポートをすることにある。
つまりは作戦計画や補給計画の案を作たり、師団内の各部署と調整し、その執行を円滑にすることにある。
一方で、師団長の秘書的な事務的なサポートをこなすことが副官の役割になる。
で、雑用やら小間使いやらは、彼ら士官の指示によって、曹たちがこなす。
ついでに、計官というのは師団の経理をやってる人たち。
(614:152)

日本軍の機械化師団は、どのような輸送車両を使っていたのでしょうか?

国産車と外車がごっちゃになっていたりしたのですか?
主に馬匹(ry。

という冗談はさておき、国産車(豊田、日産、いすゞ(スミダ、ちよだ))と、外国車(組立シボレーと組立フォードが主)
の両方が使われています。
とりあえず、数的には初期は外国車が多く、後に国産車が多くなってきますが、外国車を宛がわれた兵士は、
それがどんなに古いものでも喜んで受け取り、国産車が宛がわれた兵士は、水杯を交わしたくらいだったりします。
ちなみに、それらの車両の中で一番嫌われたのは、日産80型トラックでした。
(321:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

なんで旧陸軍には兵種に獣医科があるの?

旧軍の資料はなくても申し訳ないけど、ドイツ軍の歩兵師団で5000頭強の馬がいました。

旧軍も6000頭程度だったかと。
(320:675,678)
日本陸軍では、獣医部は、軍馬病毒の予防、傷病馬の治療など馬事衛生に関することを
所掌するのが主な業務で、また、食用獣の検査と蹄鉄に関する部分を取り扱います。

1930年代には日本に馬が150万頭おり、そのうち、労役に耐えうる6~17歳までの馬は、雄60万、
雌40万頭です。
平時で陸軍全体の馬匹は36000頭ですが、戦時には70~80万頭の馬を管理しなければならなく
なります。
ちなみに、陸軍の軍馬については民間から購入する場合、購入価格は400~500円程度になります。

兵士の人件費よりは高く、維持費が年間1000円程度になりますので、大切にされることが多かった
訳です。
(320:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧日本陸軍が、師団の上の部隊単位の名称に「軍団」ではなく、「軍」の名称をつけたのは何故でしょうか?

明治維新後、日本陸軍を編成した際に軍と師団の間に軍団を設ける必要性も師団の数も無かったから。

 軍団は普通は常設部隊だってのが分からんと、意味が通らんかも知らんな。
軍団を作らなきゃ成らんほど、平時編制の師団数が無いって話

もともと軍団という部隊単位を創設したのは、仏大陸軍であり、ナポレオンのアイディア。
師団という編成単位が一般化し、国民皆兵の徴兵制の導入によって師団数が急増。
野戦軍(軍)の下に師団が直結する編成方式だと、軍司令官の指揮統制能力を超える
部隊単位が軍の下にアタッチされることになることになる。
伝統的な組織理論だと、一般的に1人の上司が3~5人の部下になるように
組織を分節化して編成するのが良いとされるが、そういった経験則に基づいた処置だよね。

しかしながら、常設師団数が少なく、軍司令官が統率しなければならない師団級部隊の数が少なければ、
敢えて軍と師団の間の中間的な組織は必要はない。
(618:371-392)

陸軍で連合艦隊司令長官に相当する役職は何ですか?

ない。
日本陸軍における最大の単位は総軍だが、
人数的な面は総軍のほうが大きいが、ほぼ日本海軍全部といっていい連合艦隊と比べると
総軍でも陸軍の一部。
(314:17)

書籍スレで石原莞爾が基地外呼ばわりされていたのですが、どうしてでしょうか?

石原莞爾が「独断先行」で満州国を作り上げたことは知っているよな?

そのせいで日本陸軍では「独断先行」が常套手段になっちゃって、マトモな
軍隊ではなくなっていったわけだが、石原莞爾は現役を引退した(させられた)
後、どんどん中国大陸で無制限に戦線を拡大する現地司令部を批判した。

それに対して、「あんたと同じことをやっているだけだろう?」と反論されて、
石原は絶句したとか。

つまり彼は自分がやったことがどう言う影響を及ぼすのかを全く解ってなかった
わけで、批判されてしかるべき人間。
(313:390)
石原莞爾は日蓮宗に傾倒していて、その影響が彼の行動、著作に如実に現れているから。
日蓮宗は終末思想バリバリの宗派。これを現実に反映させようとした時点で基地外と言われても仕方ない。
(313:394)

大東亜戦争中の海軍のラジオ放送は、バックで流れる音楽が『軍艦行進曲』ならいいニュース、『海行かば』なら悪いニュースとなっていたそうですが、陸軍はそういうのなかったの?

陸軍の場合は、「抜刀隊」がそれに当たります。
但し、広報については海軍ほど洗練されていませんでしたので、それ一辺倒だった様です。
(308:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本陸軍は何故、独自に空母や潜水艦をつくったのですか?

そんなに海軍が信用できなかったのでしょうか。
信用がないと言うか、必要に迫られた訳です。

そもそも、日本海軍は、艦隊決戦に特化した歪な艦隊(上まぁこれは言い過ぎかも知れないが)なので、
陸軍が必要とする揚陸支援とか、そう言ったものに本腰を入れてくれません。
また、部隊の輸送についても、海軍輸送船の護衛が中心で、陸軍は余り考慮されていません。

従って、陸軍と雖も、戦闘機を搭載した揚陸支援用の空母が必要となりますし、物資を安全に前線まで
運搬する輸送用潜水艦が必要になった訳で。
(306:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本は陸上兵器(特に戦車)の運用思想が遅れてましたが、やはり島国だから陸で戦うことはあまり重要視してないんでしょうか?

戦車の運用に関しては、1931年の満州事変勃発以降中国大陸で本格的な戦車の
実戦使用を経ており、さらには1934年に独立混成第一旅団が編制されるなど、
機械化部隊の運用としてはむしろドイツやソ連より早いくらいです。

問題であったのは、わが国の乏しい開発力と工業力では機械化部隊を維持発展させることが
出来なかったことです。
独立混成第一旅団は1937年11月に解隊されますが、その理由として
  • 攻撃力の不足
  • 燃料弾薬の補給が大量に必要
などが上げられています。これは裏返せばわが国の乏しい開発力と工業力を如実にあらわしています。
さらに1939年のノモンハン事件で出動した第一戦車団が大量の損害を出して、戦車による
対戦車戦闘の重要性がクローズアップされたにもかかわらずその戦訓を隠蔽してしまい、
高価である戦車の改良や大量生産は後回しにされてしまいました。
(302:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

太平洋戦争時の日本陸軍兵士の数はどれくらいですか?

太平洋戦争勃発時の動員兵力は全体で60個師団220万人(糧食250万人分)、このうち南方作戦に投入したのは、
僅か13個師団30万人(糧食40万人分)。
残りは、満州に24個師団120万人、中国に30個師団65万人に張り付いていた。
以降は以下の通り。

           内地    中国    満州    南方
1942年度末    50万人   68万人   70万人   50万人
1943年度末    70万人   68万人   60万人   92万人
1944年度末   121万人   80万人   46万人   163万人
1945年度末   278万人  120万人   78万人   164万人
(110:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍の戦術で優れていた部分はありますか?

日本軍はソビエトの準備砲撃の後の浸透戦術において、逆に戦訓を与える程の
自動火器による支援射撃の下敵陣に浸透する戦術に優れていました。
(662:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)

陸軍はレーダー連動射撃装置完成して実戦投入したって聞きましたが本当ですか?

ドイツのヴュルツブルグレーダーをコピーした物を開発していましたが、
実用にはならなかったはずです。
(58:474)

松井岩根や杉山元、畑俊六ら大先輩の陸軍大将を抑えて何故、師団長もやってない中将の東条がデカイ顔してリーダーになれたのですか?

東条英機はいわゆる統制派に属し、永田鉄山の暗殺や2・26事件を経て統制派の筆頭として
軍の主導権を握っていたからです。
政財界とも繋がりがあったようですし。
(58:624)

大日本帝国陸軍の輸送の主力は何だったのでしょうか?

馬匹です。ドイにもまして自動車化された部隊は少数でした。
輜重部隊の悪戦苦闘振りは光人社NF文庫の「インパール兵隊戦記」なども
参考になると思います。

遊就館に陳列されているのは八九式15センチ加農砲、九六式15センチ榴弾砲のようですが
これら15センチ重砲には専用のトラクターが開発されています。
主に独立重砲兵連隊で運用されていました。

それより軽量な7.5センチ・10センチ級野砲を運用する野砲兵連隊は馬匹を用いています。
当時の野砲兵連隊では野砲48門に対し馬匹2269頭で編制されています。
(58:689)

帝国陸軍では中将の陸軍大臣と大将の軍司令官はどちらが偉いんですか?

大将。しかし、陸軍大臣は軍令ではなく軍政の責任者だから、軍司令官とは
命令されたり、命令したりする関係じゃない。
(61:386)

旧陸軍は機械化の必要性を重々承知しながらも財政的な制約から断念したのでしょうか?

それとも決定的な破局を迎えるその時まで白兵主義の優位を確信していたのですか。
元々、日露戦争までの日本陸軍は、メッケルらドイツ陸軍の影響を受けて、ドイツ式火力主義、
つまり、迅速に機動する小銃・砲兵火力集中によって相手を圧倒する考えを持っており、歩兵の
白兵(銃剣)突撃に頼ることなく火力(銃砲弾の物量)で勝敗を決しようとする戦術思想が主流
でした。
その萌芽は、既に西南戦争後半の小銃火力の集中使用で見られています。

ちなみに、1891年版歩兵操典は1888年のドイツ帝国陸軍のそれをコピーしたもので、1898年に
日清戦争を受けて改訂されたものも、ほぼそれに沿っていました。

で、日露戦争で欧米列強陸軍が得た戦訓としては、
 1. 重機関銃を陣地防御の要とする。
 2. 敵陣突破の決め手は榴弾砲、とくに15cm以上の榴弾砲、10cm以上の加濃砲といった重砲の集中使用にある
 3. 有刺鉄線の防御効果は絶大である。
と言うもので、各国は重機関銃、重砲の開発、大量配備に躍起となり、陸戦力の主力兵科となりました。

ところが、当事者の日本陸軍が白兵主義、砲兵軽視になるのは、
 1. 砲弾、小銃弾の欠乏により火力主義が貫徹出来なかった。
   開戦前の1903年から東京・大阪の両砲兵工廠で銃弾、砲弾の大量生産・備蓄と、開戦後の民間工場の
   動員による銃砲弾の大量生産をしたが、それでも追いつかない状態(南山の戦闘では2日で3万発の砲弾
   を使用したが、これは開戦前の半年分の消費量、砲弾生産量の三ヶ月分であり、旅順第一次総攻撃、遼陽
   攻略で完全に欠乏、得利寺の戦闘では小銃弾が底を尽く状態)であったこと。
 2. 砲兵運用の根本的誤りで、平坦地の会戦でも要塞戦でも砲弾は榴散弾を多用したこと。
   消費された野山砲弾の弾種比率は、榴弾1に対し、榴散弾6であり、戦場からは榴弾補給を養成されていたが、
   陸軍中央はこれを黙殺し、前線は効果のない砲撃を行なわざるを得ず、結果として歩兵の大量犠牲を必要と
   したため、歩兵からの砲兵に対する不信感を決定的なものにした。
 3. ロシア陸軍は、フランスの影響を受けており、仏式白兵主義(強固な築城によって相手の火力をかわし、機を見て
   火力支援を得て相手に接近し、歩兵の白兵突撃で勝敗を決する)を用兵の基本理念としていて、屡々白兵戦を挑
   んできたこと、それに対する味方からの支援砲撃が、前述の通り効果が無く、ロシア兵の負傷率が比較的低い
   (ロシア側の砲弾による死傷率は14%程度だった)ことで、首脳部中に打撃力が予想外に低い砲兵への評価低下が
   植え付けられたこと。
以上の三点があり、火力主義への不信感が芽生え、加えて白兵突撃で日露戦争を「勝利」してしまったことで、「日本式
戦法」が模索され始めました。

そして、1909年の歩兵操典改訂、翌年の野砲兵操典、輜重兵操典、12年の騎兵操典へと進みます。
1898年の歩兵操典では、「歩兵戦闘は火力を以て結晶することを常とす」と書かれ、更に、「多くの場合
に於て、近距離より優勢なる射撃を決勝点に聚注する時は、突撃は敵兵既に去りたるか、若しくは僅に
防支する陣地に向て行ふに過ぎさるものとす」と規定しているのに対し、1909年の歩兵操典改正理由書
では、「歩兵の戦闘主義は白兵にして射撃は此の白兵を使用する為に敵に近接するの一手段なりとの
主義を改正操典にて明確に指示せられたり。我国古来の戦闘法は…白兵主義にして白兵使用は我国人
独特の妙技なり。
故に益々此の長所を発揮して白兵戦闘の熟達を図ることは我国民の性格に適し、将来の戦闘に対する
妙決なれは…此の点に大いに力を作ること肝要なり」
としています。

その後、第一次大戦の戦訓と軍縮の狭間で、一定の近代化を行ないますが、これは、日本固有の地理的条件により、
ロシア帝国崩壊後は、純軍事的に見て欧米の第一級陸軍部隊との大規模戦闘は生起し得ないこと。
従って、欧米軍と同質の火力重視の武装を行なう切迫性に乏しく、陸軍内で対立が起きています。

近代化路線派は、宇垣一成を頂点とする省部中枢の長州系軍政家と永田鉄山ら、日露戦争後に出てきた陸大出の
エリート幕僚、但し、これらは装備の更新を漠然としか考えていない層から、欧米流国家総力戦を志向する層まで
様々な層の寄せ集めで、平時の少数精鋭・戦時の大動員、ある程度の機械化のみ一致しているだけでした。

現状維持派は、歩兵中心・白兵主義を徹底的に突き詰めるもので、常時多兵、速戦即決、白兵突撃万能を説く保守派
でした。
彼らは上原勇作、福田雅太郎ら旧薩摩閥の作戦家を糾合しつつ、長州閥優先の派閥人事で左遷された大陸出先軍
の軍人、参謀本部第二部、隊付下級将校を中心に支持を集め、「貧乏所帯の日本が欧米流「長期消耗戦」を行なうこと
は出来ないと説き、近代化路線を「器械主義」、欧米模倣の「弊風」、「皇国の独自性の放棄」、「攻撃精神の衰退」、
「国軍を顛覆せむと企図する」ものと非難していました。

この路線・派閥対立の最中の1928年、統帥綱領が改定されます。
これには、「統帥の本旨は常に戦力を充実し巧に之を敵軍に指向して其の実勢就中其無形的威力を最高度に発揚
するにあり、蓋輓近の物質的進歩著大なるものあるか故に妄に其威力を軽視すへからずと雖「勝敗の主因は依然と
して精神的要素に存すること古来渝る所なけれはなり」況や帝国軍にありては、寡少の兵数不足資材を以て尚能く
叙上各般の要求を充足せしむへき場合尠少らさるに於いてをや」と有り、更に、1928年以降の歩兵操典などの改定
に於て、その改正理由書には、「我が将兵は陸軍の比類無き歴史と伝統とに思いを致し、益々忠君愛国の至誠を
磨き、訓練の実行を重ね、上下互いに信頼し合って一体となり、かくて生ずべき必勝の信念を常に確保して、如何なる
強敵に会しても恐るること無く勝利の一途に邁進しなければならぬ」

と段々、精神主義が強調されていくようになります。
(149:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍の士官学校の予科とは何なのでしょうか。

陸軍士官学校予科は大正九年(1920年)に設けられたもので、従来あった
陸軍中央幼年学校を改称したものです。
それ以前の士官への道は
  • 陸軍地方幼年学校(予科)→陸軍中央幼年学校(本科)→士官候補生→陸軍士官学校
  • 中学校(旧制)→士官候補生→陸軍士官学校
の二つがありました。
しかし、この二つは互いに派閥を形成して幼年学校出が中学校出を差別し、また
幼年学校出のほうが優遇される傾向が強くなりました。
このため、これら二つのコースを統合するために中央幼年学校本科を廃止して
陸軍士官学校予科として幼年学校・中学校出身双方を入校させました。
これにより
  • 陸軍幼年学校/中学校4年修了→陸軍士官学校予科→士官候補生→陸軍士官学校本科
というコースが出来上がりました。
残念ながら、幼年学校と中学校出身者の対立はその後も続いたようです。

なお、昭和十三年には入校者の増加に伴い陸軍士官学校予科を陸軍予科士官学校として
陸軍士官学校から分離させています。
(292:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

旧軍が6.5mmだった小銃弾を7.7mmにしたのはなぜでしょうか?

6.5mm弾は、他国の小銃と比較して、弱威力で有る事が目立った他は、
戦闘距離内での威力は必要にして充分、人馬への殺傷能力を保持していました。

7.7mm弾に移行した理由としては、上記の威力不足の他、自動火器への不適合から来る、
限定的な将来性しか無く、いずれにせよ新しい弾薬への移行が急がれたのです。
それについては賛否両論ありますが、理想的なのは、6、5mm弾の小銃、軽機関銃と、
7.7mm弾の中機関銃・汎用機関銃、13mm以上の重機関銃・車輌塔載機関銃と、
用途に拠って三種類程度に弾種を集約する事でした。

実際にはそれらの整備の最中に大東亜戦争の戦端が開いてしまい、結局何種類もの小銃弾薬、
機関銃弾薬をただでさえ乏しい兵站能力を酷使して補給せねばならず、
その混乱は、前線の火器が「補給を受けたのに不適合な弾薬が来たので」戦闘継続が不可能、
と言う、近代軍としては非常に恥ずかしい状況へと追い込まれたのです。
(676:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)

陸軍が土決戦用に編制した迫撃砲の部隊について教えて下さい。

本土決戦師団に於ては、師団砲兵隊の代りに迫撃連隊が編成されています。
また、各歩兵連隊の編成中、歩兵砲中隊の装備に迫撃砲がありますし、各大隊の歩兵砲隊の
代りに迫撃砲中隊が配備されていました。

迫撃連隊は、連隊本部と段列、迫撃砲3個中隊と大隊本部、段列から成る大隊で編成されています。
これには、二式12糎迫撃砲が一個中隊8門充て装備されています。
これで合計24門となります。
また、歩兵砲中隊には同じく二式12糎迫撃砲が4門、迫撃砲中隊には4門それぞれ配備されていました。
(但し、末期になればなるほど、編成が様々なので、定数がこれであるとはっきりは言えません)

装備された迫撃砲は二式12糎迫撃砲のみです。
九六式中迫撃砲は1941年6月から翌年7月までに僅か90門しか生産されていませんし、九七式中迫撃砲
は1941年に40門、42年に40門、43年に30門しか生産されていませんから到底戦力になり得ませんでした。

配備部隊としては、201、202、206、205、214、209、212、216の各師団がそう言った編成を取っています。
他にも配備された部隊があったかも知れませんが、記録は定かではありません。
戦史叢書辺りに掲載されているかもしれませんので、調べられては如何でしょうか。

ちなみに、二式12糎迫撃砲については、1945年に必要数が5500門、九九式軽迫撃砲が600門という数字が
出ていますが、生産予定数ですから、実際に生産されたのかは不明です。
(284:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本陸軍師団に関して、四単位制から三単位制へ移行した後の歩兵団及び歩兵団長職ってどのくらい必要性があったんでしょうか?

歩兵団長は平時には閑職だが、戦時には必要。
歩兵団という結節があると、例えば2個連隊に砲兵大隊を付属させて歩兵団長の指揮下で
戦闘に投入し、残り1個連隊は師団長が把握して予備とするとか柔軟な編成が可能。
つうか、そのための三単位師団だし。
(276:60)

日本軍は機関銃の実弾をどれぐらい携帯していたのでしょう

例えば99式
九九式よりも古い十一年式の場合、歩兵で鉄板製の弾薬匣に小銃弾120発、
それが無い場合は、麻布製の弾薬嚢(本来は弾薬匣を包んで運搬するもの)に
小銃弾150発。
これらは弾薬手が運搬していました。

自分で携行する場合は麻布製の弾薬盒に小銃弾60発を入れます。

騎兵の場合は、木製の弾薬箱に360発の小銃弾を収容します。
馬一頭につき、これを4箱駄載します。

射撃に関しては、あくまでも突撃時の支援火器として使用するもので、歩兵に随伴して
火力支援を行ないます。
但し、ドイツのものとは考え方が異なり、面制圧ではなく、拠点制圧として使用していました。
目標手前400~500mで5発点射、300mなら3発点射が標準になっていました。
そんなに、少なくて、機関銃としての十分な威力が発揮できたんでしょうか。
何か弾をケチケチ使うような印象があるのですが。
上でも書いたように、MG34の様な機関銃とは使い方が違います。

日本に於いての軽機関銃の使用は、歩兵と共に機関銃手も突撃し、歩兵の突撃に
邪魔になる目標を狙い撃ちする為のものです。

従って、機関銃手が多量の弾薬を携行していたら、歩兵の突撃について行けず、
有効な支援が出来ません。(一応、手持ち弾薬は弾薬盒のうち、30発入り前盒を2個
ぶら下げ、背部に60発入後盒を持っているので、携帯弾薬定数は120発。これに、
軽機関銃弾薬手が金属製の弾薬箱(120~150発)を抱えると言う形ですが)

一回の突撃で、数回5発ずつ発砲するとしても半分くらいは手持ち弾薬が残るという
計算でしょうか。

実弾に関してはその生産量が急激に増えた訳でもなく、出来るだけ節約する方向に
ありました。
つまり同時期の米軍で言うところのBARのような物だった、と理解した方がいいのでしょうか?
う~ん、位置付けはBARも同じなんですけど、自動小銃と機関銃の二兎を追う
性格が災いして、重く、反動が大きくて命中率が悪く、銃に装備できる弾薬数が
さほどでもないという意味では、日本以上にあまり評価できないと思います。

結局はその穴埋めをしたのがM1Rifleだと思いますが。
(107:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧日本陸軍では上等兵から兵長になる為の条件はどんなものでしょうか?

また、兵長から伍曹になる為の条件はどんなものでしょうか?
平時に於いて下士官になるには、徴兵による現役兵期間満了時に志願する形が一般的です。
しかしながら、現役兵期間の成績が参考にされますので、余り悪いと選抜されません。
(とは言え、平時に於いては、軍で必要とする下士官の数と、志願者の数はほぼ同数だったりしますが)

1927~38年に掛けては、歩兵、砲兵科の下士官候補者は、各地の陸軍教導学校で一年間、更に軍教育隊で
教育しています。(それ以外の兵科は各種学校で教育)

もう一つ、徴収期間が満了して上等兵として除隊する時、下士官適任証を受けていますと、再招集された場合に
下士官として任官されます。

また、幹部候補生になって将校にならない場合は、予備役下士官に任ぜられます。
六週間現役制の場合、修了者は国民兵役に編入されますが、国民軍幹部適任証書が交付され、国民軍が編成
された場合は、彼らを以て幹部(下士官以上)に充当します。

下士官が足りなくなった1938年以降は、高等小学校卒業程度の者を陸軍航空学校、戦車学校生徒として二年間
教育し、一年で伍長にする少年飛行兵、少年戦車兵の制度が誕生しました。
この制度は、通信、砲兵、防空でも採用され、陸軍通信学校で教育する少年通信兵、陸軍野戦砲兵学校、陸軍
重砲兵学校、陸軍防空学校で教育する少年砲兵、少年防空兵がありました。

1943年より、特別幹部候補生制度が出来、15~20歳の者に一年半の教育を施して現役下士官とし、二年後に予備
役とすることになり、飛行、船舶、兵技、通信、航技について募集しています。
このほか、技術下士官は陸軍兵器学校生徒から、経理部下士官は経理部少年委託生徒から、憲兵下士官は憲兵
上等兵(後に兵長)から昇進させることで対応しています。

戦時には、在隊期間が長くなって、伍長が兵長の昇進先となり、志願に拠らない下士官も多数生まれ、1938年に召
集中の予備役軍曹、伍長で志願する者を現役とする措置が執られています。
なお、下士官の進級の実役停年は、曹長二年、軍曹三年、伍長半年でしたが、1941年以降、曹長四年、軍曹二年、
伍長一年となっています。
(110:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本陸軍の自動車化された歩兵部隊や捜索連隊の乗車中隊に配備された自動貨車と、部隊あたりの配備数などをどうか教えてください。

小隊や中隊を何両で運んだかとかが知りたいんです。
基本的に自動貨車の配備数は余り多くありません。
例えば、第23師団の捜索連隊には自動貨車30台という数字が残っていますが、中隊毎にどれくらいの
数を配分したかはよく判らない状況です。
輜重兵中隊の場合は、自動貨車40両基幹になっています。

自動貨車には完全武装の兵士15名、または荷物500貫を載せることが出来ましたので、例えば、歩兵
分隊を輸送する場合、単純計算では自動貨車1台があれば足ります。
1個小隊は4個分隊ですから、単純計算で、5台程度の自動貨車が必要になるでしょう。
1個中隊は4個小隊と指揮班、弾薬小隊が付きますから、大体輜重兵中隊の自動貨車分が必要になり
ますね。
(275:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

方面軍直轄の大隊の大隊長が野戦昇進か何かで連隊長になるようなケースはあったのでしょうか。

聯隊長には一般的に少将が親補されます。
一方、大隊長は一般的に佐官が任命されます。
但し、戦争末期の聯隊乱造状況では、少将が足りなくなり、大佐でもそれなりに軍歴のある人
であれば、聯隊長への昇進が可能でした。
(274:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

幼年学校、陸軍士官学校の入試科目、教育内容がどういうものだったか調べたいのですが

陸軍幼年学校は3年課程です。
入学資格は、13歳以上15歳未満という年齢上の制限だけで、学歴上の制限はありません。
但し、その試験は(当時の)中学校1年程度の学力試験、即ち、国語、漢文、外国語、歴史、地理、数学、
理科(地学・生物学)から出題されたみたいです。
外国語試験は英語、フランス語、ドイツ語から選択されます。
このため、高等小学校卒業程度の学力で幼年学校に入学するのは難しかった様です。
(辻ーんの様な例外は居ますが)

教育内容は、基礎素養教育(普通の中学校教育に相当)が主であり、これに外国語の習得が加わります。
外国語は、フランス語、ドイツ語、ロシア語のいずれかを選択するもので、英語はありませんでした。
(昭和期にやっと英語と中国語が加わりますが)
ちなみに、軍事知識の教育は、同年代の中学生が学校教練で学ぶものの方が豊富だったと言われています。

幼年学校卒業、または中学校卒業した者は、その後、陸軍予科士官学校にて2年間教育を受けます。

入学資格は幼年学校卒業生もしくは、中学校卒業程度の学力を有するもので、16~20歳の者です。
この試験内容は、中学校4年程度の学力試験で、国語、漢文、外国語、歴史、地理、数学、理科、公民から
出題されたようです。
ちなみに、東北の中学校の例では、200名中、1935年までは、成績上位30番以内が入学出来、1936年には
上位5、60番以内、1937年には更に増え、100番~120番でも合格出来たそうです。

陸軍予科士官学校では、国語及び漢文、外国語(英独仏露中のうちから一つ)、歴史、数学、理科(物理、
化学)、地理及び地質、心理及び論理、公民(法制及び経済)、図画の様な、高等学校高等科の科目と、
教練、陣中勤務、射撃、剣術体操、柔道馬術、訓話、内務班指導及び検査などがありました。

この過程を修了後、半年間の士官候補生勤務を経て、本科に進みます。
陸軍士官学校では、戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、
衛生学、教育学、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術、体操、馬術、典範令、服務提要
などのカリキュラムがあります。

なお、教育学を履修するのは、軍隊教育の教育者として、彼等を養成する必要がある為であり、これは
必須科目として、陸士から、東大教育学科に派遣される場合もありました。
(122:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

東條を始めとする日本陸軍の対米開戦支持派ってアメリカに留学経験とか行った経験ないのでしょうか?

五十六のようにアメリカの強大な工業力を知っていれば対米開戦という愚考を犯すことはなかったのでは?
いわゆる「バーデンバーデンの密約」に代表されるように、当時の陸軍では
ドイツに留学したメンバーが派閥として非常に大きな勢力を持っていました。
当時の陸軍では、陸大を卒業した将校の多くが一度は専修語学の国を対照とした
外国出張の機会を与えられていました。
帰国後も彼らは派閥を形成し、陸軍内部で大きな勢力を形成していきます。

なお、英語専修の場合は英国が出張先に選ばれたようで、今村均大将と本間雅晴大将は
大正7年に英国に出張しています。
(267:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

戦前の日本陸軍が大型の火砲の実弾演習をするところは、どこだったんでしょう?

渥美半島の先端に、陸軍技術研究所伊良湖試験場と言うのがあり、此処で大阪砲兵工廠にて
試作した大砲、砲弾、信管の試験データの採取、鹵獲砲の試験を行っています。
1901年11月30日に開設、敷地面積285万坪の広大な試験場です。

後、赤城山北面山麓一帯では、迫撃砲の演習場ですが、実際は化学戦部隊、
つまり、毒ガス弾専用の射場でした。

後、15糎高射砲弾道試験用には浜松試験場を有しており、他に1920年、海岸砲兵用の
41糎榴弾砲試射の為に、射程が大きすぎて伊良湖試験場では対応出来ないため、今の千葉県富津岬に、
富津試験場が整備されています。

此処では、41糎榴弾砲の他、24糎加農砲の試験も行われています。

これは東京湾元洲砲台の跡地に建設され、射線は房総半島に平行して、上総湊方面に1万メートル、館山
方面に向けて3万5千メートルでした。

伊良湖試験場、富津試験場ともいくらかの遺構は残っているようです。
(266:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍は大陸などに展開する師団の中に自活班を置いて糧食やらを自弁していたようですが

この自活班の編成にさいして、どんな用意がされてたのでしょうか?
情報に関しては、大本営陸軍部で編纂された所謂「戦訓報」、「戦訓速報」によって、
各部隊の有効な経験を各方面の部隊に展開するようにしています。
例えば、「戦訓速報」第二号には、南方第一線から南方への転用部隊に対する教育
訓練についての提言で、大まかな情報が寄せられていますし、戦訓報第十四号では、
無煙竈の作り方について満州の部隊で研究した結果を公開しています。

また、「現地自活(衣糧)の勝利」と言うマニュアルが陸軍省経理局衣糧課で編纂されて
各部隊に配布されました。
これは、随時追加、改訂が成されています。
これをベースに南方軍は独自に「南方地域現地自活教本」を編纂し主要部隊に配布して
います。

但し、兵要地誌については、陸軍の研究は後手に回っており(本格研究は1943年以降)、
現地に行って初めて、これが必要とされるケースが多いわけで。
(261:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

当初陸軍は各地に鎮台を置き、後にそれを師団に改めましたが、鎮台制と師団制はどのような違いがあるのでしょうか。

1871年に発足した鎮台は、地方の治安維持を担う為、藩兵の整理、再編成を行なって
編成されました。
当時の模範兵制はフランス式でしたが、これでは、ロシアの脅威に対抗出来ないことから、
山県有朋、川村純義、西郷従道を中心に外征軍への転換に関する意見書を同年に早くも
提出し、その後の普仏戦争でのFranceの敗退で、1886年にドイツ兵制に移行し、1888年に
六鎮台(東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台)、名古屋、広島)を廃止して、師団が編成
されています。

師団は、それ自体が一個の戦闘単位となるような編成であり、工兵大隊、大小架橋縦列、
輜重兵大隊、弾薬大隊、衛生隊、野戦病院と言った後方部隊も含めたものになっています。
鎮台の場合は、歩・騎・砲は揃っていますが、工兵、輜重兵は小部隊でしかなく、なおかつ、
衛生関係の部隊はありません。

これは当初、ドイツの山砲兵師団の編制をそっくりそのまま移植したものですが、日清戦争
に至るまでに、輸送部隊関係(弾薬縦列大隊、輜重兵大隊)はやや簡素化されています。
(135:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本陸軍の戦車連隊の編成について教えて下さい。

1942年当時の戦車第一聯隊の定数は、
 連隊本部:九七式中戦車×2、九五式軽戦車×1
 第一中隊中隊本部:九五式軽戦車×1
   第一小隊~第三小隊:九五式軽戦車×各3
 第二中隊中隊本部:九七式中戦車×1、九五式軽戦車×2
   第一小隊~第三小隊:九七式中戦車×各3
 第三中隊、第四中隊は第二中隊と同じ
合計して、九五式軽戦車×約20、九七式中戦車×32くらいでしょうか。
これが時代が下ると、更に砲戦車中隊が1個増え、戦車の定数は77両となります。

戦車師団の編成表上では、装軌車1,579両、装輪車875両。
 師団司令部:装軌車×35、装輪車×31
 旅団司令部:装軌車×10
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
 旅団司令部:装軌車×10
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
 機動歩兵連隊:装軌車×222、装輪車×87
   歩兵大隊×3、歩兵砲中隊×1、整備中隊×1
 師団速射砲隊:装軌車×45、装輪車×87、機動47mm砲×18
   速射砲中隊×3、整備中隊×1
 師団捜索隊:装軌車×91、装輪車×12
   歩兵中隊×1、砲戦車中隊×1、整備中隊×1
 機動砲兵聯隊:装軌車×89、装輪車×73、九○式野砲×12、九一式重榴弾砲×24
   野砲大隊×1、榴弾砲大隊×2、整備中隊×1
 師団防空隊:装軌車×105、装輪車×63、八八式高射砲×8、九八式対空機関砲×24
   高射砲中隊×2、機関砲中隊×4、整備中隊×1
 師団工兵隊:装軌車×122、装輪車×50
 師団整備隊:装軌車×15、装輪車×152
 師団輜重隊:装軌車×100、装輪車×216
(139:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍経理学校について教えて。

陸軍経理学校は、明治19年(1886年)に開校した陸軍軍吏学舎が元になっています。
当初は初級経理部士官を養成するため、下士官から選抜された生徒を採用していましたが、
明治23年(1890年)に陸軍経理学校と改称されてから高級経理官の養成を行うようになりました。

陸軍経理学校の生徒は上記の通り、下士官や兵科の尉官から選抜されていました。
しかし、明治36年~大正11年までの19年間と、昭和11年以降敗戦までの10年間は
一般から生徒(主計候補生)を募集しています。
(250:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

日本陸軍の獣医将校の待遇などについて教えてください。

獣医部では陸軍で使用す主に軍馬の医療(稀に軍犬の医療も)を担当します。
その任務は軍馬病毒予防、傷病馬の治療、馬事衛生一般に関する業務と、
合わせて、食用獣の検査、蹄鉄に関する業務を取り扱います。
1930年代、平時の陸軍では36,000頭、戦時になると70~80万頭の馬が必要に
なるので、この任務は重要です。

獣医部の将校担当官は、大学・専門学校獣医科卒業生を見習獣医として採用し、
陸軍獣医学校で教育した後、二等または三等獣医に任命します。

もう一つのスキルパスとして、上等蹄鉄工長(後、獣医務准尉)を実業学校令に
基づく獣医学校に派遣し、卒業と共に、獣医師免許を得ることで三等獣医となる
ケースもありましたが、実業学校での獣医師免許取得が不可能になったので、
少尉候補者は、陸軍獣医学校で教育した後、獣医務准尉の上の階級としての
獣医務少尉から獣医務大尉までの階級が出来ました。
但し、彼等は、獣医師免許は持っていません。

最高位は獣医中将で以下、獣医少将、同大佐、同中佐、同少佐、同大尉、同
中尉、同少尉が獣医師免許を持っている者で、獣医師免許のない者は、獣医務
少尉、同中尉、同大尉までとなっています。
以下、獣医師免許のない獣医務准尉、獣医務曹長、獣医務軍曹、獣医務伍長と続きます。
(246:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍幼年学校は、陸軍士官学校に入るための学校だったのですよね?

陸軍幼年学校は、1897年から1918年に掛けては、3年制の陸軍地方幼年学校(東京、仙台、
名古屋、大阪、広島、熊本、後、1903年に東京は陸軍幼年学校予科となる)と、1年8ヶ月制の
陸軍中央幼年学校がありました。
これは中学校4年修了(修了年の9月から)で地方校に入り、次いで中央校に進学すると言う
スキルパスを経ます。
1920年に中央幼年学校は陸軍士官学校予科となり、軍縮の影響で、一旦東京以外の地方校
は廃止となります。
しかし、1936~39年に地方校は復活し、三年制4月入学となりました。

年齢的には、12歳は入学資格がありますが、直接尋常小学校卒業生は入学させず、実際には、
13歳以上15歳未満という年齢制限を課しています。

幼年学校を卒業すると、運が良ければ、陸軍士官学校予科進学となります。
しかし、中学校→陸軍士官学校→陸軍大学校のスキルパスが優位にあったりします。

幼年学校的なものは米国にもあります。
映画にも何回かなっていると思いますので、探してみては如何でしょう。
(243:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍では将校の拳銃は自前だったようですが、 どの拳銃が持たれる事が多かったのでしょうか?

一応、将校が購入する拳銃としては、南部式、14年式といった国産自動拳銃が主だった
ようですが、前者は威力が足りず、価格が高くて品切れ状態、後者は大型で重すぎ、
しかも価格が高いと言ったモノでしたので、モーゼル、ブローニング、コルト、ベルグマン、
パラベリューム、エキスプレス、ハーリントン、アストラ、ユニオン、ローヤル、スター、
シムソン、ダントン、ベラー、コンチネンタル、レジナ、ベアード、ビッカース、デモン、
ジュピター、ウェブリー、マンリッヘル、グリセンチ、レキザーなど、東西の拳銃なら何でも
購入し、装備していましたので、兵器部や野戦兵器廠は大変だったそうです。
(有名どころは兎も角、それ以外のものは使用に耐えうるか、現品を見て、実包を装填し、
 検査しないといけなかったりするので)

基本的には、国産以外なら、ブローニング、コルト、モーゼルが好まれたみたいで、特に
大陸ではモーゼルが生産されていたことで、部品の供給も容易で、しかも威力があるため、
これが結構好まれたりしています。
前二者に関しては、航空兵が好んで装備していたようです。
また、蘭印占領時にルガーが3000丁没収されています。
(162:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

参謀本部の独立とは具体的にどういうことですか?

あと、独立してるなら中の人は陸軍省から出向扱いみたいにして参謀になるのですか?
参謀本部の仕事は軍令…つまりすべての陸軍の作戦・行動を計画実行する機関であり、
統帥権を持つ天皇の手足となって働くことが建前上の存在意義です。
いわば、政府や議会から横槍を入れられることなく、建前上は天皇の意のままに陸軍作戦を考え実行できます。
これが参謀本部の独立性。
参謀本部は、永遠に「極東からロシア人を追放する」方法を考え続け、いつでも実行できるよう備える権利があります。
そこで政府に対して「ここと同盟組め」「この装備をそろえる金をよこせ」「ここに基地を造らせろ」と
憲法にこだわらないで実現化の努力を続けることができます。

これに対し、陸軍省は政府の一部であり、
「金がないんです。シベリアから撤兵します。ついでに師団も減らします」とか
「イギリスと約束してるんです。ドイツと戦ってください」とか、政府を代表して参謀本部と直談判できる立場にあります。
参謀本部が陣取り合戦の夢を見られるのに対して、
陸軍省は日本政府の陸軍担当として、予算や条約を第一にして日本という国家の利益と地位を守る責務があります。
陸軍省が従うのは参謀本部のわがままではなく、
第一に憲法、外務省が主導して他国と結んだ条約、そして国家予算の配分を守る義務を負っています。
(229:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

連隊長と連隊区司令官との違いは何でしょうか?

聯隊は一般に独立団体と言い、一つの兵営を構え、陸軍部隊組織のうち最も重要なものとされています。
聯隊長は、一つの兵営の長として、その統率に当たり、日夜将校以下を訓練して精鋭な軍隊を教育し、
聯隊の戦力を充実し、動員計画を完備する役職にある人のことを指し、歩兵聯隊長は概ね大佐、騎兵聯隊
長は概ね中佐でありました。

聯隊区司令部というのは、徴兵、動員、召集、在郷軍人の指導などを掌る機関として、大正12年勅令第267号
聯隊区司令部令に基づき、全国各地に置かれていました。
平時は師管(各師団の管轄範囲)を四つに分け、ほぼ歩兵聯隊の所在地または近接市に聯隊区司令部を
設置しました。
聯隊区司令部は、長を聯隊区司令官と言い、大佐クラスがなり、他に副官1名、部員数名、下士官2~3名、
属10数名で構成されていました。

1941年に、北海道を除く1府県1聯隊区に再編成され、平時編制の聯隊区司令部は閉鎖し、臨時編制になる
聯隊区司令部と、地区司令官が設置されました。
聯隊区司令官と地区司令官は兼職として、六大都府県は中将、他は中少将が就きました。
地区司令官は、師管区司令官に隷属し、隷下部隊を統率して地区の防衛にあたるものになります。

なお、外地の在留邦人、在留軍人の服役関係事務については、関東軍、朝鮮軍、台湾軍司令官の下、各地に
陸軍兵事部を置いてこれが聯隊区司令部と同様の任務に就いています。
(229:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

鎮台制が廃れたのはなぜですか?

鎮台制は、基本的に歩兵、砲兵、騎兵と言った第一線装備だけで編制されており、
治安維持を目的としていました。
補給段列も小規模で、長期的な外征には向きません。
一方、師団はその第一線を支えるための各種段列が充実しており、それだけで
一つの独立した戦闘単位となります。

但し、鎮台制に比べると必要とする規模は必然的に大きくなるので、軍事費の
割合、募兵する人数が大きくなり、軍備拡張は経済を圧迫する形となります。
(188:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本陸軍の「勤務隊(中隊)」と「輸卒隊」の違いは何なのですか?

勤務隊と言うと、師団にある兵器勤務隊と、大戦時に編成された臨時勤務隊があります。

前者は、師団内に於ける兵器修理の為の組織で、それには兵士が所属していました。
後者であれば、補給の望めない地区に派遣される師団や独立中隊などの自活の為に、
鋤や鍬を持って、農地を切り開いたりする軍属の集団で、徴用された人が多かったみたい
です。

輸卒隊は、輜重兵部隊に配備され、駄馬や輓馬の馬の口を取る役割を持つ、輜重輸卒
(1931年に輜重特務兵と改称)の集団のことです。
その教育期間は2ヶ月で、その中身は徒歩、輓駄馬、梱包積載、陣中勤務からなってい
ました。
彼らは戦時召集されて任務に就きますが、長期にわたることを想定せず、万年二等兵で
したが、板垣征四郎が陸軍大臣に就任した1937年に一等兵への進級が認められ、1939年に
やっと輜重兵と改称されました。

但し、正規の輜重兵とは武士と足軽のような関係で、輜重兵は長靴、長剣を帯びて馬に乗り、
二等兵でも一個班15名の輸卒を統率するのに対し、輸卒はゲートルにゴボウ剣で馬の口を
取る仕事をしていました。
余談ながら、輸卒を統率する必要があるため、輜重兵は二等兵であっても、軍曹並みの指導力
を必要としたそうです。
(190:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍に「自動車連隊」という部隊は編成されていたんでしょうか?

自動車連隊とは、関東軍自動車隊を昭和11年に改変して自動車第一連隊を
編成したのが始まりで、六個の連隊が編成されましたが、16年の関特演で
これらは独立自動車大隊に改変されました。

同様に中国戦線でも兵站自動車中隊を改変して19個の自動車連隊が編成されました。
その編成は自動車4個中隊と材料廠からなり、傘下には連隊長以下人員700名、
自動車300両を装備しました。

お尋ねの自動車34連隊とは自動車第三十四連隊として昭和16年5月に沙洋鎮で
編成された部隊です。
編成以来十一軍に所属し、湘桂作戦(大陸打通作戦)中の編成表でも軍直轄部隊に
含まれています。
終戦時の所在地は中支。
(198:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

日本の空挺部隊は41年実戦配備ということですが、空挺部隊員になる道のりを教えて下さい

また米軍の場合どういう扱いだったのですか?
米軍の空挺部隊は、確か1940年9月に一個大隊を編成していたかと記憶しています。
なので、日本軍よりも早くに編成していますね。

日本陸軍に於いての空挺部隊は、軍極秘扱いであり、編成の際には、陸軍の場合、「機動部隊要員」
と言う名目で各部隊から優秀者を集めています。
海軍に関しては秘匿は特に進められていません。

米軍に関しては、特に極秘扱いではないでしょうね。
これも各部隊から選抜されて、空挺部隊に入隊していますので、エリート扱いではあります。

空挺部隊の隊員になる訓練ですが、陸軍の場合、まず、陸軍の体操学校である、陸軍戸山学校に隊員が集められ、1ヶ月間
地上での基礎訓練が行われました。
ここでは関節の柔軟性を高め、筋肉を強靱にするなど、降下に必要な体力作り、運動神経の向上に主眼が置かれています。
翌月に、所沢の陸軍航空整備学校に移り、降下訓練を行い、実機を用いての降下も行っています。
このほか、読売遊園地落下傘塔で、降下訓練も実施しています。

基礎訓練終了後は、三方ヶ原に開設されていた、陸軍飛行学校付属挺進練習部に移り、本格的な降下訓練を開始。
次いで、訓練の秘匿のために、満州の白城子に移駐しますが、最終的には新田原に移って降下訓練を続け、9月に
編成を完了しています。

ちなみに、海軍の方は館山で似たような訓練を行っていました。
(210:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧軍の兵営生活とはどんなものだったの?

1. 真夜中に突然点呼ラッパが鳴ることがある。これを臨時点呼という。その方法は日常の点呼と同じである。
2. 起床から夕食時間までの間は、寝台上に横たわらないことになっている。これは放縦に流れないためである。
  しかし一般休日と、特に許されたときは、朝から寝台につくことができる。
3. 平常室内では上着の釦を外し、またこれを脱いでもいいが、検閲、検査、巡視の際は許されない。
4. 世論、政治に関することに携わってはならない。学術技芸に関する事なれば、中隊長の許可を受け、これに出席
  または参加することが出来る。
5. 軍隊に関する書物以外の書物を見たい場合は、内務班長を経て、中隊長に願い出る。
6. 官給品と金銭は決して貸借してはならぬ。また金銭物品を賭けて勝負事等するのは厳禁である。
7. 柱・梁、羽目板、器具などに妄りに釘を打ってはいけない。
8. 用がないのに工場や倉庫、炊事場などに立ち寄ってはならぬ。
9. 許可のない品物を営内に持ち込んだり、官給品を営外に持ち出してはならぬ。
(しょうもない知識を披露するスレ11:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

明治陸軍は初期に師団ではなく鎮台という単位を持っていたそうですが、この鎮台の長はなんという役職なのでしょう?

確か司令長官だったかと記憶しています。

これは後の師団に当たるものですが、国内治安対策用の編成で地方軍と
言う性格でした。
東京、大阪、鎮西(熊本後に小倉)、東北(仙台後に石巻)に設置され、
主に各藩(後に県)から士族を募り(壮兵)、近衛と併せて常備軍になっています。
その後、壮兵だけでは反乱が勃発した際に、寝返る可能性があるため、山県
によって徴兵令が施行され、各鎮台に徴兵が入ることになりました。
明治6年、名古屋、広島にも設置されています。
明治21年に国内情勢が一段落し、外征を考慮する様になると師団と改称されました。

鎮台の下には連隊が来ます。

編成としては、各軍管区に分かれ、
第一軍管区=鎮台(東京) 第一歩兵連隊(東京) 第二(佐倉) 第三(新潟)
第二軍管区=鎮台(仙台) 第四(仙台) 第五(青森)
第三軍管区=鎮台(名古屋) 第六(名古屋) 第七(金沢)
第四軍管区=鎮台(大阪) 第八(大阪) 第九(大津) 第十(姫路)
第五軍管区=鎮台(広島) 第十一(広島) 第十二(丸亀)
第六軍管区=鎮台(熊本) 第十三(熊本) 第十四(小倉) 

となっています。

各連隊は初期には二個大隊で編成され、西南戦争直前に三個大隊に拡張しています。
なお、各鎮台には分営と称するものがあり、各道府県に設置されています。
(62:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍士官学校は、現在の市ヶ谷駐屯地の辺りにあったのだと思ってたんですけど、間違ってます?

陸軍士官学校は元々は市ヶ谷にあったのだが、昭和12年に陸軍予科士官学校が分離独立した際に、
それまでの陸士本科が座間に移転した(予科士官学校は市ヶ谷のまま)
(俺初質スレ2050:23)
だとすると、陸士というのは一般的に本科を指しますから、陸軍士官学校=座間という事でいいんですか?
(海兵=江田島というような意味合いで)
昭和12年以降はそうだな
期間で言えば市ヶ谷にあった時代の方が長いが
(俺初質スレ2050:25)
その当時は座間市はなかったので、相武台と言われてたけどな。
(俺初質スレ2050:27)

八甲田山の遭難部隊のビバークをみますと、ただ地面に掘っただけで、吹きさらしの悲惨な状況になってしまっています。

傾斜地に雪洞を掘れば、かなりマシになるはずですが
http://b-spot.seesaa.net/article/21734396.html
右も左もわからんからだろ
(俺初質スレ50505:31)
雪洞を掘れるような適当な傾斜地があったかどうかは別としても、
雪洞なら一人乃至二人程度に分散してしまって部隊としての 
統制が取れなくなるという危惧はあったんじゃないかな。

リンク先の画像が史実に基づいているなら、分隊から小隊規模で
雪壕を掘ったものと思われ
(俺初質スレ50505:32)




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