旧日本軍全般2


日本軍に狙撃兵っていたんでしょうか?

分隊内で射撃の上手い兵を、狙撃兵と呼んでいました。
外国のような、特別に養成された狙撃兵は居ないようです。
狙撃銃は三八式ベースの九七式狙撃銃と、九九式ベースの九九式狙撃銃というのがありましたが、
これも特別に作られたものではなく、量産した三八式や九九式の中から精度の良い品を選んで、
それにスコープを付けた物を、上記の射撃優秀者に優先的に支給していたそうです。
ただ、米側の記録によると、木の上から撃ち落した日本軍狙撃兵が持っていたのは、
殆どが普通の三八式や九九式だったそうです。
(29:566)

乃木希典の評価って軍板的にはどうなんでしょうか?

不幸な人物、というのが共通した評価です。
部下に大被害を出すことが分かってた旅順攻略戦をやらせるのには、
ちょっと神経が繊細すぎる人物であった、ということでしょうか。

ちなみに軍事板一般の性質として、戦術より戦略に重きを置くという傾向があります。
旅順攻略戦は、極東の小国家が陸軍大国と喧嘩するということの戦略的な無理が集中した部分ですから
第三軍の被害を指弾するときにはまず最初に
そうした無理な戦場を設定してしまった大本営を批判するのがこの板での「物の道理」です。
(32:418)

何故「関東軍」というのでしょうか?名前の由来を教えてください。

万里の長城の東の果て、渤海にめんした地域は山海関といい
古代から中華防衛の要衝でした
この関の東、つまり遼東半島の租借地防衛の軍ですので関東軍だったはずです
日本の関東も箱根の関の東という意味です
(34:613)

旧日本軍に軍刑務所ってあったんですか?

もちろん軍刑務所は存在します。いわゆる軍法会議にかけられた上量刑を決定します。
量刑の内容は死刑・懲役・禁固などでその他に懲罰として
謹慎・譴責・礼遇停止・免官・営倉・降等などがあります。
日本には公式には懲罰部隊というものは存在しません。
(38:305)

日本軍の憲兵隊は陸海軍の一部だったのでしょうか?

日本軍では、平時は憲兵は陸軍大臣に属するということに
なっていて、海軍に憲兵はないです。
ですので海軍軍人も陸軍の憲兵に取り締まられるということになります。

ただ、第2次大戦中の戦時で海軍が軍政を布いていたところでは
「海軍特別警察隊」というものが置かれて憲兵のようなことをしていたようです。
(39:295)

海軍工廠とか陸軍造兵廠とかありますが、「工廠」と「廠」の違いってなんですか

「工廠」は旧陸海軍に直属し、武器・弾薬など軍需品を製造した工場です。
「廠」は主に公的機關の施設に使われる場合が殆どで、
とりわけ軍事関係の各種施設に多用されました。(作業場や倉庫にも廠を使う。)
造兵廠ってのはもともと管理組織で、たとえば陸軍造兵廠本部の下に東京工廠を置いて
陸軍造兵廠東京工廠とか言ってたようです。
昭和14年に兵器行政本部が設置され造兵廠が行なっていた業務を全て担当するようになったので、
各種工廠も「○○造兵廠」と呼ばれるようになったとの事です。
(40:246)

第2次大戦中、日本の陸軍と海軍の予算はどちらが多かったのですか?

予算額だけなら、1940~41年まで陸軍省と海軍省の予算はほぼ拮抗しています。
1940:陸軍省:1,192,469千円/海軍省:1,033,711千円
1941:陸軍省:1,515,250千円/海軍省:1,497,374千円

1942年は陸軍が逆転し、1943年は海軍が逆転しています。
1942:陸軍省:55,847千円/海軍省:22,736千円
1943:陸軍省:677千円/海軍省:1,152千円

とはいえ、ここには数字の絡繰りがありまして、一般歳出予算ではこの金額ですが、
陸海軍の打出の小槌として、臨時軍事費特別会計予算があり、これらは、際限なく
使用できるものです。
陸軍関係は部隊派遣維持、時局即応の兵備改善、作戦資材の応急整備、航空要員の
急速補充、造兵設備の増強、占領鉄道の管理改良経費として、海軍関係では、艦船部
隊の派遣維持、艦船航空兵力と軍需品の急速充実、工作通信補給、施設整備と、南方
物資補給費用として、公債収入と植民地金融機関からの借り入れで、1943年までに、
全体では569億9,464万7,000円に達しています。
これの使い道は軍機と言うことで政府にも報告されませんでした。
(43:眠い人 ◆ikaJHtf2)

憲兵隊による「督戦隊」とはなんですか?

督戦隊が必要なのは、士気が低い軍隊において、恐怖に駆られた兵士が
逃亡すると全戦線が崩壊する危険があった場合です。
特に嫌々兵士にされた場合には必要性があります。

日本軍の場合、徹底的な教育が功を奏して、督戦の必要はありませんでした。
また逃亡した場合は、親兄弟も村八分にされる世論が形成されていました。

二○三高地攻略も同じです。
特に、当時は国民皆兵と言うこともなかったはずなので、兵隊に選ばれるのは
地域や本人にとっても名誉でした。
そこで、敵前逃亡などしようものなら…。
(44:眠い人 ◆ikaJHtf2)
補足しますと日本軍にも「督戦する」という言い方はあったようです。
ただ、意味合いとしては「前線に赴いて現場の将兵に激をとばす」という感じのものです。
御存知の通り、督戦隊はありませんでした。

個人的な感想ですが、職業軍人はともかく、
徴兵された日本の兵士にとっての督戦隊は「銃後」だったのかも。
(44:509)

旧日本軍で敵に寝返った例はありますか?

捕虜になった後に積極的に情報提供を行った例なら有ります。
捕虜になること自体をありえない事としてしまったため、
いったん捕虜になってしまうと箍が外れたように米軍に協力することも
多かったそうな。
また、末期になると個人の判断で投降してくることもあったそうで。
(44:機甲自転車)

日本軍は敵前逃亡した恥ずかしい軍だったのですか?

虎頭要塞のように、ソ連軍の進撃を少しでも遅らせるため
最後の一人まで戦死した戦線もあります。
そして関東軍首脳部が尻尾まいて逃げたのも事実。

どちらも「日本軍」です。
(44:367)

日本軍は弾薬不足に悩まされたと良く聞きますが、”貧国強兵”を読んでいたら、1941年度の弾薬在庫が100会戦分、1945年度でも95会戦分とありました。

一番多かった年でも消費量が40会戦分程なので、裕に2年分は在庫があります。
使い切っていたならともかく、こんなに在庫を残して弾薬不足とはどういう事なのでしょう?
理由は2つ

1つは弾薬在庫があっても、それが戦場に存在するとは限らないこと
これは貧弱な補給線だとか、機械力の不足で迅速な輸送ができないなど

もう1つは、時代の流れ
WW2には1人殺すために必要な弾薬量が、それ以前に想定されていた
量を10倍、100倍の単位で上回ったため、規定の弾薬量ではまったく足りなかった

砲弾の場合、基数で計算してると思うけど、ハッキリ言えば想定の10倍く
らい使用してたんだよね。現実に日本軍は一年で全ての部隊が40会戦もする
ような作戦は実施してないでしょ。
(46:176,178)

近衛兵について教えて下さい。良家出身者しかなれないってのは本当ですか?

貴官が、どのようにしてその情報を入手したのかわからぬが、
微妙にずれている。(伝言ゲーム的な情報混乱であろうか?)
 確かに、近衛兵の場合、「家柄」等もみるが、それは、士族とか、平民といったもののことではない。
社会主義や、共産主義、無政府主義等の反皇室・反社会思想の持ち主が親戚や身近にいて、
影響を受けていないかをみる。

体格については、小官、よく知らぬのだが、甲種合格が、大前提であろう。
(46:315)

何で大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍で話し方が違うの?

日本史板で見た気がするが、陸軍は長州閥が中心になって創設されたので、
自分達の国の固い言葉使いを押し付けたためあんな口調になったそうですよ。
海軍で敬称をつけないのは階級自体が敬称だという考えからだそうです。
(48:907)
「○○であります」という口調も、もともと長州弁の言いまわし、という風に聞いたことがあるぞ。
(48:908)

首相・陸相・参謀総長で陸軍大将の東条英機と陸軍元帥であった杉山元、畑俊六らとは陸軍内においてはどちらが上だったのですか?

階級的には杉山元、畑俊六元帥の方が上。
でも陸軍内部での実権的には東条の方が上。
日本陸軍では元帥は「長老」扱いで会社で言うと「相談役」に近い。
ただ、下から上がってきた命令書に印を押すだけの存在。
(46:962)

旧日本軍じゃ普通の兵士の事を何というのですか?

兵卒。
(47:831)

大日本帝国では大戦末期少年将校とか言う子供が戦車乗ったり、飛行機乗ったり、潜水艦乗ったり通信兵したりしたって本当ですか?

陸軍少年飛行兵や海軍の海軍予科飛行練習生のことですかね?
卒業しても17~8才ですから少年って言えば少年ですが。
陸軍少年飛行兵は昭和9年、海軍の少年飛行兵は昭和5年(甲種予科練は昭和12年)ですから
昔からあった制度です。ただ、戦争末期には人材不足から若年でも戦場に投入されたのは事実。
あとは 昭和19年制定された特別甲種幹部候補生制度とか。
いずれにしても、15~6歳の少年が戦場へ出ることは日本ではなかったと思います。
(48:636)

祖父ですが、大正2-3年生まれで本職は警視庁の警察官、中国戦線に3回も出兵・・ってのは一体どういう状況でこういうことになったんでしょうか

多分、大陸に於て治安要員または公安要員としての手腕を期待されたのかも知れません。
また、例えば、警察でも何らかの技能を身に付けている(例えば、自動車の運転など)のであれば、
幾度も召集がかけられます。

最初は兵役の時に籤に当たったのかも知れませんし、充員召集(臨時召集ではない)の名簿に掲載
されたのかも知れません。
2度目は日華事変での要員不足ではないか、と。
3度目は治安師団を作る際の要員不足と言ったところでしょうか。
(599:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

賊軍側とされた藩で、明治維新前に生まれていて陸大もないような時代に陸軍大将や陸軍中将になるのは困難なのでしょうか?

またなった人を十人程度ご教示願いたいです。よろしくお願いします。
中将、大将への昇進は難しかった。

立見尚文 桑名、石本新六 姫路、小泉正保 水戸、村岡惇 幕臣、一戸兵衛 弘前、大島久道
秋田、柴五郎 会津、梅沢道治 仙台、中村覚 彦根、大谷喜久蔵 小浜

奥羽越列藩では、無理だよ。
(600:オッチャン ◆UMCByHJxYk)

小倉の奥保鞏を追加ね。賊軍出身者の出世頭
元帥・参謀総長になって、華族にも列されて、
立見よりも出世した。
(601:21)

シンガポールを占領した日本軍の風紀はどうだったんですか?

中公新書の「思い出の昭南博物館」では、英国兵による略奪や地元民による略奪が多かった
様ですが、日本軍については、占領直後は兵士単位としての略奪などは無かった様です。
但し、海軍将校たちによる、南洋域やインド洋地域の海図の持ち出し、陸軍将校たちによる
南洋域や豪州本土の地誌などの持ち出しはあった様です。
(402:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

善通寺に師団があったのはなぜですか?

まず、善通寺は交通の要衝で、此処から四国各地に行くことが出来ます。
一朝事が有れば、即座に対応出来る位置にあります。
また、瀬戸内海に面しているため、外征を行う場合にも、船舶輸送が容易に行える土地になります。
更に、広島、姫路などの各師団との連携が容易に取れます。

また、牙が抜かれたとは言え、高松はかつての朝敵であり、其処に師団司令部を設置する訳にいきません。
徳島はあまりに大阪、姫路に近く、かつては高知に吸収されていました。
香川も同様に、最初は徳島に、次いで愛媛に吸収されていましたが、愛媛に関しては、広島の対岸にあり、
その影響下にあります。
ならば、高知は、と言うと、これも反政府運動の盛んな土地であり、かつては自前の軍事力で暴動を鎮圧した
ことがあり、政府としては疑問の目で見ているところがありました。

これらを勘案すると、いずれも県都に師団を設置するのは難しかった訳です。
善通寺の場合は、京極家自体が勤皇派ですし、地域的に比較的安定していた為、広島鎮台の分営が最初に
設置された流れもあり、次に師団を拡張する際に、この分営を師団に昇格させたと言う形になっています。
(326:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧軍では参謀本部の参謀ってどのくらい居たの?

大本営陸軍参謀部(昭和16年12月19日現在)の主要編制(戦史叢書 大本営陸軍部<1>昭和17年4月まで)
 ※ 「海」は海軍からの兼勤、「ケ」は部外からの兼勤、「兼」は大本営内相互又は参謀本部との兼勤
参謀総長 大将(1)、参謀次長(中将1)
総務部 (部長 少将)
 庶務課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(2、兼1)
 第1課 (課長 大佐) 少佐(1、ケ1)
第1部 部長(中将)
 第2課 (課長 大佐) 大佐(海1)、中佐(5、海2)、少佐(6、兼1、海1)、大尉(1)
 第3課 (課長 中佐) 中佐(2)、少佐(7)
 第4課 (課長 大佐) 中佐(海1)、少佐(3)、大尉(1)
第2部 (部長 少将) 部付(兼1)
 第5課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(1)
 第6課 (課長 大佐) 大佐(1)、中佐(2)、少佐(3)
 第7課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(1)
 第8課 (課長 大佐) 中佐(1、兼1)、少佐(1、兼1)
第3部 (部長 兼 少将)
 第9課 (課長 大佐) 中佐(兼1)、少佐(兼2)
 第10課 (課長 大佐) 中佐(兼2、海1)、少佐(1)
 第11課 (課長 大佐) 中佐(兼1、海1)、少佐(1)
第20班 (班長 大佐) 大佐(兼1)、中佐(1、兼1、海1)、少佐(1、兼1)
研究班 (班長 大佐) 中佐(1、兼1)、少佐(1、兼3)
第18班 (班長 兼 少将) 大佐(1)、中佐(1)
(325:746)

日本軍は、末端将兵が捕虜になることを禁じていたくせに、どうして海軍乙事件ではのうのうと敵の捕虜になった福留参謀長を不問としたんですか?

福留参謀長は捕虜になった際に暗号表を奪われるという失態を犯した。
そのため、「捕虜になった」ことを咎めると、
「本来遭難した時点で処分しなければならなかった暗号表を処分し忘れた上捕虜になって敵の手に渡してしまった」
ことが公になってしまうので、そもそも「捕虜になった」こと自体を「なかったこと」にしてしまったので。

「表向きはそれでもいいけど、責任は取らせるべきだ」という議論はあったが、
とにかく「暗号表を奪われた」ことだけは隠蔽しなければいけなかったため、
一切の処分ができなかった。
(607:904)

旧軍の小銃は一丁一丁手作りで量産に不向きだったといいますが、小銃弾の生産体制や品質はどうだったんでしょうか?

ほぼ、陸軍兵器廠の第一陸軍造兵廠第1製造所で一手に作られ、関東大震災後に
九州小倉に陸軍造兵廠の分工場が作られ、こちらでも銃弾が製造されています。
一般に造兵廠自体は、最先端の生産設備を導入し、その技術は高いものでしたが、
量産技術は余り高いものとは言えず(それでも、民間に比べれば遙かに高い)、
戦時中も、前線からの要求を満たすことはありませんでした。
(497:313,眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本帝国軍では、補給が完全に絶たれた戦線では人肉食もあったとよく聞きますが本当ですか?

またこれは殺しあって共食いという感じだったのでしょうか?それとも死体の肉を漁っていたのでしょうか?
友軍の屍肉は食べちゃいけませんという命令が出た地域があるので
あったのか無かったのかといえばあったのでしょう。
屍肉が基本らしいですが、応用的にどういうことがあったのかは・・・まあ真相は闇の中ですよ。
(360:514)
真っ先になくなるのは尻かももの肉だったようです
グアム島では人肉食によりアメリカの裁判で処刑されていますが、その人の証言では肝臓が旨いとか…
人肉を食った人は動物蛋白を急に採ったせいか肌に艶が出てくるので、何となく食ったのが分かったそうです
ガダルカナルやフィリピンなどて特に報告されています
(360:515)

戦前の軍人や警官の階級って、どんな法律や勅令で規定されてたんですか?

海軍について言えば、1868年に制定された海軍武官官階と言うのが最初に来て、次いで
1872年の海軍武官官階で全階級を設定し、1878年以降は海軍武官官階及海軍卒職階
となっています。
陸軍は、陸軍武官官等表と言うのが、1868年に制定され、1874年に改訂されていっています。
(614:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

統帥権干犯ってどういう意味?

統帥権という用語は、大日本帝国憲法で用いられている言葉。
形式的には、天皇が最高司令官であり、軍隊を統率する権能を持っていることを表した言葉です。
軍人たちが使った「統帥権干犯」というのは、
「神聖なる天皇のみが持つ統帥権を侵害するのか!」てーことですよ。
軍部に批判的な文官や政治家なんかが、軍部の意思決定を覆そうとしたり、批難したりすると、
「お前、それは統帥権干犯だ」という風に言って、それらを封じ込めて来たわけです。
(613:128)

戦前の日本の制度で上官を殴るとどの程度の罰則ですか?

陸軍刑務所行きだろ。立派に前科者の仲間入りです。

陸軍刑法第60条
上官ヲ傷害シ又ハ之ニ対シテ暴行若ハ脅迫ヲ為シタル者ハ左ノ区別二従テ処断ス
1 敵前ナルトキハ1年以上ノ有期懲役又ハ禁錮二処ス
2 其ノ他ノ場合ナルトキハ10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処スル
(創作質問55:471)

戦前の日本には国防省や統合参謀本部を作るべきだという動きは無かったのでしょうか?

軍政組織は1872年に陸軍省と海軍省が設置されるまで、兵部省がいわゆる国防省的な組織と言えたかもしれないぞ。
先の大戦の大本営は、陸軍参謀本部と海軍軍令部を隷下に置く、統合参謀本部的な組織だとも。

まあ、ネタ発言だと取ってくれても構わないけどな。
結局、組織なんてもんは分化と統合を繰り返すもんだし、看板だけっていうのなら、
戦前にも、陸海軍の統合組織はあったぞ…てー話。

なかなか一度できた垣根を取っ払うって難しい。
イギリスだって、1923年に3軍統合の参謀本部委員会を作っちゃいるが、
器作って酒入れずの状態が長いこと続いた。
陸海空軍の各省の上に立つ国防省だって、1940年に西方戦役が勃発して、
チェンバレン内閣が倒れた後に、チャーチルが作るまでなかった。
それさえも当初は、とにかく国防省は作ったが、職掌も決まらずチャーチルが首相兼任で、
内実が伴うのは戦後になってからと言ってもいいくらいだ。

アメリカだって、統合参謀本部の設立が1946年。国防省(国防総省)の発足は47年。

大本営の設置で軍令組織を建前だけ、表面だけにせよ一本化した日本は、先駆的だったかもしれないw
(620:479)

旧日本軍では偵察用のオートバイにハーレーダビッドソンのライセンス生産版の陸王が採用されていたそうですが、国産のキャブトンやメグロは使われていなかったんですか?

メグロ号は、1941年に陸軍の試験に提出しましたが採用となりませんでした。
キャプトン号も同様、宮田製作所のアサヒ号は1940年に早くも見切りを付けて自転車製作に
転業しました。
他に、広島でSSD号というのが試作され、軍用試験に供されましたが、経営的に不成功。

まともに軍で採用されたのは、陸王の他、日本内燃機のくろがね号、岡本工業の能りつ号の
三種類で、後に、97式自動二輪車が、日本内燃機や東洋工業で製作されています。
(622:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次世界大戦で日本軍が集団投降した戦いってあったんですか?

表だって公表されているものとしては東部ニューギニア。

有名なものとしては、昭和20年5月3日に第41師団歩兵第239聯隊第2大隊(大隊長中佐以下将校4名、下士官兵37名)
がアポレンガ付近で豪州軍に投降(なお、この大隊長は元山砲兵第41聯隊の大隊長。砲兵聯隊は火砲を全部失ったた
め、昭和19年9月に解体され人員は各歩兵聯隊に編入されていた)。

そのほか、豪陸軍公刊戦史によれば、昭和20年8月10日に大尉以下12名が、同11日に大尉以下16名が投降したとの
記録がある。
(306:49)

戦闘詳報って、どの部隊でも書くんですか?

書きます  戦闘詳報というのは各種情報 人事・情報・訓練(運用)
兵站の部隊情報をまとめたものです。 一日1回程度上級部隊に提出をします。

毎日書くのは「戦闘要報」(海軍では「戦闘概報」)で、「戦闘詳報」は戦闘が終了したときに書くものです。

○戦闘要報
 : 一部の戦闘が終わったとき(又は当日その局を結ぶに至らなかったとき)、日没後速やかに
  各部隊隊長が当面の戦闘経過概要、彼我の態勢、敵情判断及びこれに対する自己の企図、
  彼我の損害概数、弾薬燃料の残余と消費量概数などを報告するもの

○戦闘詳報
 : 一方面の戦闘終了後、各級指揮官が、戦闘の詳細を記録して提出する報告文書
  主要記載事項は、戦闘前の彼我態勢の概要、各時期における戦闘経過、関係部隊の動作。
  彼我の交戦兵力、敵の団隊号・将帥の氏名・編制・装備・戦法、戦闘後における彼我の形勢
  概要、戦訓など

(304:18-39)

日本では統帥の一元化を試みる人物はいなかったのでしょうか?

天皇で一元化してるやん
実際の作戦指導のレベルで、補弼機関としては「大本営」で一元化してないか?
明治28年、日清戦争を控えて戦時大本営条例が制定公布されたが、この制度をめぐ
って陸軍が参謀総長を幕僚長として陸海軍の統一的運用を行うことを主張したことか
ら、海軍との激しい対立が起こった。
その時は陸軍の主張は通ったものの、海軍は海軍軍令部条例を制定、海軍の作戦
については海軍軍令部長の専管事項とすることと定めることで妥協が成立した。
しかし、戦争が終わった後、再び改正をめぐって統帥の一元化を主張する陸軍と陸軍
出身の参謀総長に異質な海軍作戦をゆだねることは出来ないとした海軍の対立が再
燃し、結果、明治38年に陸海軍の両幕僚長を並立することとして改正された。
そのためには陸海軍の対立を調整する機関が必要なため、明治31年、その目的で元
帥府が設置され、同日、元帥府設置の詔が出され、小松宮彰仁親王、山県有朋、
大山巌両陸軍大将、西郷従道海軍大将らが元帥府に列せられた。
しかし、明治35年に西郷従道が亡くなると元帥府に意見調整機能はなくなっていまい、
元帥府は重要軍務について天皇の諮詢に応じる機関となった。
その後、陸海軍の対立は形を変えたが、太平洋戦争終戦まで続いた。
(303:507-614)

大日本帝国が日露戦争以降、国力に見合わない拡大政策を取ったのは何故でしょうか?

内政的には、大国ロシアを打ち破った栄光の軍隊を、戦争が終わったからと言って縮小するなどできなかった。
また日露戦争の辛勝を政府が隠した事が、戦後処理に対する民衆の不満を徒に大きくした。
日清戦争の勝利で莫大な賠償金を得たのに、日露戦争ではそれがなかった、これはおかしい、
「本来戦争ってのはもっと儲かるはずだ。」こんな考えが世間的に広まってきていた。

外政的には、未だロシアの脅威が消えない状況で軍縮などできるはずもなかった。
また世界恐慌に対し他の列強諸国は植民地内で財を循環させるブロック経済方式を取ったが、
植民地らしい植民地を持たなかった日本は新たに財を循環させるべき地を獲得する必要があった。

これら内政的・外政的要因が組み合わさり、拡大政策がとられた。
(戦争板初質スレ3:496)

日本はドイツにならって、機甲部隊の整備に特に力を入れたのですか?

1940年にドイツ、イタリアへ軍事視察団を派遣して、ポーランド戦や、フランス戦での
戦車戦の実情や戦訓を情報収集していますが
戦車の整備に力を入れました。
ドイツの活躍を見て以来、それまでの冷淡な態度がうって変わって「戦車サマ、サマ」になったのです。
なんだかんだで97式中戦車は2000輌以上生産され、ピーク時には年産1000輌に迫りました。
これで戦車師団を編成し、陸軍の決戦兵力にしようとしたのです。
(659:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)
「ドイツの電撃戦に影響を受け戦車の有用性は認識され、
1941年(昭和16年)2月には陸軍機甲本部が新設されて機甲部隊に関する教育・編制・技術開発の諸業務の統括調整が図られた。
(中略)
部隊は編成されたものの肝腎の戦車や自動車・砲は揃わないといった状態がほとんどで、
その上一部の戦車連隊が抽出されてしまうなどして、
その編制すら満足になることはなかった。

下記、ウィキペディアの機甲師団の大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷を参照ください。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E7%94%B2%E9%83%A8%E9%9A%8A
(659:霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg)

日華事変以前と比べて帝国陸軍の
航空機の生産量は約5倍、戦車の生産量は約20倍。

ついでに昭和17年度に策定された需給計画では

       航空機 戦車
昭和17年  6,400  1,500
昭和18年  8,000  2,000

もうひとつ隠れたカラクリがあります。
昭和17年度の航空関連に配当された鋼材7.4万トン、予算13億円に対して
戦車・自動車は鋼材7.6万トン、予算5億6千万。
資材の配当量では航空機より上だったりします。

日本は昭和18年度までは、戦車を航空機の次に序列して優先生産を計画してます。
昭和19年に入ると一転してほとんど顧みられなくなり、その落差が日本の戦車軽視を錯覚させているのです。
(659:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)

旧日本軍の場合、人種差別反対を掲げてアジア開放を謳っていたから、軍隊内部でも身分や人種による差別はなかったのですか?

例外はあるかもしれないが、おおむね平等に扱われる。
というのも、下手に差別したりすると、戦闘中に後ろから弾が飛んでくるから。
朝鮮出身者も、正規軍人であれば平等に扱われたようだ。
(ただ、反乱の可能性があるとして、労働力として軍属で連れて行った朝鮮人労働者をひとまとめにして隔離した事例はある。)

ただ、これらは軍隊と言う組織の性格上のことであって、人種差別反対を掲げてアジア開放を謳っていたことは無関係。
(296:578)

日本軍の参謀や幕僚の組織編成


戦史叢書「本土決戦準備<1>-関東の防衛-」によれば、

第1・第2総軍司令部
 参謀長(大将・中将)1名,参謀副長(中将・少将)1名,参謀(大佐)2名,参謀(中佐・少佐)6名,参謀(少佐・大尉)4名

方面軍司令部(第5,第10~第13,第15~第17) ケは軍管区司令部との兼勤
 参謀長(中将・少将)1名,参謀副長(中将~大佐)ケ1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名]

軍管区司令部(北部・台湾・東北・東部・東海・中部・西部・朝鮮) ケは方面軍司令部との兼勤
 参謀長(中将・少将)ケ1名,参謀副長(中将~大佐)1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名]

軍司令部(第50~第58)
 参謀長(中将・少将)1名,参謀(大佐~大尉)5名

師団司令部(近衛第3,第44,第72,第73,第81,第84,第93)
 参謀長(大佐)1名 参謀(中佐~大尉)3名

師団司令部(第140,第142,第143,第151,第152,第157)
 参謀長(1名),参謀(3名)

師団司令部(第201,第202,第209,第214)
 参謀長(中佐)1名 参謀(少佐・大尉)2名

師団司令部(第221,第222,第224,第229,第234,第308,第316,第321,第322,第354,第355)
 参謀長(大佐・中佐)1名 参謀2名
(294:259)

陸海軍は同じ20mmでも弾薬の規格が異なっていたのですか?

陸軍内だけでも20mm機関砲弾だけで以下の6種類あるんだが。

20*80
20*142
20*125
20*94
20*113
20*99RB

海軍と統一する前に陸軍内部で統一するのが先だろ。
(676:717)

満州事変前後で陸大閥の一夕会や二葉会などが陸軍内の実権を握るのですが、彼らの出てくる前に中枢にあった薩摩閥(上原勇作派の系統)と長州閥(田中義一派の系統)はその後、いったいどうしていたんでしょうか?

薩摩閥は陸軍内では元々そんなに大きくないし、
長州閥は山縣の死んだのと長州閥の専横を嫌った若手将校が
一夕会を結成してこれに対抗しようとした為、、その後は急速に衰えてしまいました。
一夕会結成の中心となったのが小畑敏四郎、岡村寧次、永田鉄山の三人です。
ですが、小畑と永田の方針の違いからこの会は二つに分裂してしまいます。
これが永田を旗頭とする統制派と、小畑を旗頭とする皇道派です。
(288:431)

皇軍は皇居の方を向いて遥拝してたんでしょうか?

皇居遥拝は植民地(最初は朝鮮半島)向けに“発明”された儀式だが
戦中じゃ本土の日本人にも広まっていたんだぜ
おれの親父は船乗りだったが、毎朝船長の主導で皇居遥拝をやったと話していた
昭和40年代ぐらいまでに作られた戦争映画には皇居遥拝のシーンがわりとよくでてくる
(287:46)

予科練卒は最速で20歳と聞きました。そのときの階級は何なんですか?

それと卒業後は毎年大尉までは自動的に昇進するというのは本当ですか?
甲飛は、16歳(1943年以降は15歳、1944年には中学二年修了程度)で入隊し、二等飛行兵から進んで、
2年半の教育終了後に上等飛行兵曹、更に練習航空隊撰修学生として1年教育の後、23歳で少尉となる
ことが予定されています。
前述の通り、最初の入隊年齢が下がっているので、少尉任官が20歳というのはあり得る話ではあります。
乙飛は、15歳(1941年以降は14歳)で入隊し、二等航空兵から開始して、19歳で二等航空兵曹、25歳で
飛行兵曹長、29歳で少尉となることが予定されていました。

そこまでは自動的な昇進ですが、それ以後は人事考課に従って昇進が決められます。
(287:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本はガタルカナルなど南の島に基地を作りましたが、物資を運ぶ輸送船は陸軍が海軍に借りると言う形で船を貸してもらったんですか?

それとも陸軍の要請で海軍がそこまで船を動かしたんですか?
上海事変が起きたときに、陸軍は輸送船を確保できなかったために出動できず
海軍の上海特別陸戦隊が予想外の勝利を重ねてしまい、陸軍の威信と活動計画が潰れてしまいました。
そこで、事変解決後に、陸海軍がそれぞれどの民間船を借りて運用するかを明確化した計画が立ちます。

日華事変はあまりにも突発的に発生したので、この民間船運用計画は使えず、
増援部隊を海軍艦船で派遣する羽目になってます。
そこで、さらに民間船運用計画を具体化する一方、陸軍独自の揚陸艦計画も立ちました。

太平洋戦争は、1年半以上の時間をかけて陸海軍の担当部署を分けた上で開戦に臨みました。
民間の輸送船を借りる際も、陸軍がこの船を徴用・海軍がこの船を徴用…と事前に話し合ってます。
この協議によって、たとえば日本郵船りま丸・りすぼん丸は陸軍が借り、りおん丸は海軍が借りると決まり
これによって、りま丸は兵員輸送用の「蚕棚」、りおん丸は飛行機修理工具をセッティングできるわけです。
陸軍は20万トン分の輸送船を維持する契約ができ、護衛はもちろん海軍艦船が付きました。

しかし当然ながら、補給任務を続けているうちに撃沈される船も増えてくるので、
新造船の取り合いや陸海軍間での契約差し替えが必要になりました。
陸軍はとにかく輸送に必要な輸送船を欲しがり続けてますが、海軍もそれは同じことです。
閣議で陸軍18万トン減少案が突き出されて、逆に37万トン増加を主張する参謀本部と大きく見解が分かれ
佐藤賢了軍務局長と田中新一1部長が殴り合ったのは余談…。
(278:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

旧日本軍の職業軍人の戦死率と、一般召集兵の戦死率ってどっちが高かったんですか?

士官でも後方勤務と前線勤務がありますし、士官と兵でもまた違いますし、一般召集兵についても
二種類有るので、一概には言えませんが…。

指揮官先頭などの伝統があるので、前線勤務の士官の戦死率は高いです。
太平洋戦争開始前には既に前線勤務の士官は払底しており、そのために大学生の様な高等教育を
受けた人間で充当する構想が進んでいます(これは俗に言う学徒動員)。

兵士の中では、充員召集を受けた者と、臨時召集を受けた者では、前者の方が大事にされます。
極端な話、臨時召集を受けたものを先に立たせて、後から充員召集を受けた者が付いていくと言う
状況もあったようです。

これは、充員召集が、元々の計画に従って宛われた将兵であるのに対し、臨時召集は単に該当師団に
欠員が出た者を召集で補う為に起きたりしています。
(107:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍士官学校、海軍兵学校の定員は何人なんでしょうか?

また、陸大、海大の定員は?
入学者数のデータは入手できなかった。逆に卒業者数から類推してほしい。
まあ定員はないに等しいように見受けられる。

陸士の場合(ソース:「日本陸軍がよくわかる事典」PHP)
士官生徒時代(明10~22)、1期117名。最少6期(明16)59名・最多11期(明22)207名。
士官候補生時代
1期(明23)147名、5期(明27)200人突破、
9期(明30)650人に急増、以後600~700人で推移。
18・19期(明38・40)それぞれ920名、1068名とピーク。翌年は反動で276名に激減。
22期(明43)以後700人前半で推移、29期(大6)536名に激減、以後200~400人で推移。
53期(昭15)1719名に激増、以後2200名程度で推移。57期(昭19)2413名。

海兵の場合(ソース:参拾壱頁)
1期(明6)2名、以後、平均的に30名未満で推移。
27期(明32)113名、初めて100人突破。
30期(明35)188名に急増。32期(明37)192名、ピーク。以後100名前後で推移。
50期(大12)255名・51期(大3)236名と例外的に突出、翌年反動で60名強。
55期(昭2)以後120名強で推移。
66期(昭13)200人突破、以後激増、73期(昭19)898名。

陸大・海大はデータなし
(107:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

補足。
海軍大学校は明治21年に甲号生徒9名を送り出し、25年までは平均9名(23年のみ2名)、
27年に将校科となって、5~8名、明治31年以降は甲種となって33年まで一桁台となり、
日露戦争時は一時途絶えますが、35年に一挙に44名が卒業し、再び39年まで卒業が途絶え、
以降は20名~30名で推移します。
以後昭和13年に30名、15年に27名となり、最後が18年の25名です。

一方の陸軍大学校は、明治18年に10名を卒業させ、以後は明治31年まで10~20名で推移します。
明治32年に一挙に40名前後に拡充し、同じく日露戦争の2年間は卒業生を輩出せず、明治42年に55名
に拡充されます。
以後、50~70名前後で推移し、昭和に入ると50名前後となります。
昭和13年、16年は年に2回卒業生を輩出し、昭和16年以後は毎回70名以上が卒業していきます。
更に昭和19年には年3回卒業生を輩出し、毎回100名近くが卒業しています。
最後が昭和20年8月卒業の120名でした。
(107:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

明治期の軍人恩給って大体いくら位ですか?

明治三十年あたりの。
う~ん、資料を探したのですが、昭和期のものしか見つからず。

△普通恩給
  … 一定年限に達して退職した軍人と准軍人に賜る一般的な恩給。
    准士官以上は在職13年以上14年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。
    14年以上は、1年増す毎に退職前の棒給年額の150分の1に相当する金額を加算。
    下士官以下は、在職12年以上13年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。
    13年以上は、1年増す毎に下士官は7円、兵は6円を加算。
△増加恩給
  … 公務中に傷病を受け、不具廃疾となった場合に軍人、准軍人に加算。
    なお、准軍人とは、陸軍の見習士官、海軍の海軍候補生など。
△傷病年金
  … 公務中に永続性の傷痍、疾病罹患により、不具廃疾に至らなくとも、これが原因で3年以内に退職
    した者、または下士官以下退職後3年以内にこれがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。
△傷病賜金
  … 下士官以下公傷、病にて傷病年金を受ける程度でなくても、これが為退職、または退職後1年以内に
    これがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。
    支給額は最大660円、最低120円で16項目に区分される。
△一時恩給
  … 在職准士官以下3年、下士官2年以上で恩給を受ける年限に達せずして退職した者に支給され、金額
    は退職当時の棒給月額に在職数を乗じた額。
△扶助料
  … 戦闘または戦闘に準ずべき公務で死亡した者の遺族には、普通恩給の金額、普通公務にて死亡した者
    の遺族には、普通恩給の10分の8、その他は10分の5を支給。
△一時扶助料
  … 在職3年以上で恩給を受ける年限に達せずして在職中死亡した者の遺族に支給され、支給基準は一時
    恩給と同様。

ちなみに1943年当時の士官、准士官の年棒は以下の通り。

大将:6600円、中将:5800円、少将5000円
大佐:4150円、中佐:3220円、少佐:2330円
大尉:一等(海軍は一級以下同じ):1900円、二等:1650円、三等1470円
陸軍軍楽大尉:一等:2150円、二等:1900円、三等:1750円
海軍特務大尉:一級:2070円、二級:1191円
中尉:一等(海軍は一級以下同じ)1130円、二等:1020円
陸軍軍楽中尉:一等:1540円、二等:1390円
海軍特務中尉:一級:1740円、二級:1630円
少尉:850円
陸軍軍楽少尉:一等:1240円、二等:1130円
海軍特務少尉:一級:1470円、二級:1368円
海軍各科少尉候補生:670
准士官(陸軍):一等960円、二等:900円
准士官(海軍):一級:1220円、二級:1150円、三級:1043円、四級:930円
(109:眠い人 ◆gQikaJHtf2 )

何故日本軍は突撃や戦闘に臨んでは軍旗を処分し、自沈や沈没間際になった艦艇は旭日旗を撤収するのですか?

ちょっと勘違いがあるようなので。
陸軍が軍旗を処分する、というのは、これから全滅します、という意思表示の一種です。
だれも軍旗を持ち帰らない、だが敵の手には渡せない、だから処分する。

全滅覚悟の攻撃でない限りは、軍旗はきちんと持っていきます。
記憶によれば、軍旗を神聖視する習慣は西南戦争から始まったようです。
根拠・伝統があるわけではなく、元々は軍旗は単なる旗以上のものではなかったのです。

海軍の軍艦旗は陸軍の場合と異なり、フネの備品の一つにすぎず、
消耗品です。神聖視はされていません。
吹きさらしのなか、掲げっぱなしですから当然破れてきます。補修が追いつかなくなったら交換。

フネが沈む、というときに軍艦旗をおろす暇がある場合は限られます。
非常時には気がついた者がおろすという程度ですが、
自沈は若干時間に余裕があることが多いので、軍艦の生涯の幕引きとして下ろすのです。
(109:924)

日本海軍の軍艦は世界でもトップ・クラスなのに、何で陸軍の装備は、世界のトップと較べると見劣りするんですか?

陸海の予算分配に偏りがあったのですか?
アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告書に書かれていたので書いておきまする。

1940~45年度に於ける陸海軍臨時軍事費特別会計、軍需省の歳出決算額で、日本銀行支払小切手によるもの。
これを原資料に、陸軍省、海軍省がそれぞれ地域別(海軍は無し)、費目別に算出しています。
1945年は4月~10月の上半期のみで単位は100万円です。

      1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省  4,191  6,383  10,368  15,764  45,511  20,808
海軍省  1,532  3,104   8,385 13,779  19,069  17,553
軍需省                   1,244  10,472   8,993
合 計   5,723  9,487  18,753  30,787  75,052  47,412
陸:海   7:3   7:3    5:5   5:5    6:3    4:3

即ち、初期は概ね陸軍優位に推移していますが、中期~末期は対等になってきています。

次いで、上の表をこのうち費目別に編集し、うち兵器燃料費を抽出すると、
(若干インフレ率など会計処理的な推計が入っていますが)

      1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省  1,625  1,797   3,267  4,558   3,085  3,725
海軍省   978  1,814   5,629  9,114   8,022  5,619
合 計   2,603  3,611   8,896  13,672  11,607  9,344
陸:海   6:4   5:5    4:6   3:7    3:7   4:6

となります。
(115:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦争中、日本では化学兵器やレーダー関連の開発等で、理系大学の研究室と軍の研究所との共同研究はしていたんでしょうか?

しています。
化学兵器に関しては、既存技術の応用だったために、大学との共同研究はしていません。
医学的研究という面ならありましたが。
電波兵器については、日本学術会議電波研究委員会と東北大学の共同研究から出発しています。
他にも原子爆弾の研究にも大学との共同研究が為されています。
(270:眠い人 ◆gQikaJHtf2)


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