軍事板初心者質問スレまとめ(FAQ)

通商破壊

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匿名ユーザー

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第2次大戦中日本海への入り口は日本軍により機雷封鎖されていたとのことですが中立国(ソ連を含め)の船舶も通航出来なかったのでしょうか?

「海上護衛戦」によれば、海峡の機雷封鎖は米潜水艦対策であり、
ソ連の船舶はもちろん潜行しないので
「宗谷・津軽両海峡には深深度敷設した」とか。

ちなみに、両海峡を通って送られたアメリカからの対ソ援助物資はその総量の5割にあたる。

ドイツ人にこのあたりの話をすると、怒る人もいたりする。
(25:829)

太平洋戦争で日本海軍の潜水艦隊が通商破壊戦を行っていましたが、連合軍の戦略に何らかの影響を与えたのでしょうか?

また影響を与えなかったとすれば、何が日本軍の間違いだったのでしょうか?

開戦から1年弱ほど仮装巡洋艦まで投入してインド洋でそれなりの成果を上げている。
そんでもって、インド洋に1個潜水艦隊規模を投入しての大々的な通商破壊作戦を行おうとして
準備中にガタルカナルでの戦いが起こり潜水艦がほとんどソロモン海に投入されたがそれでも細々と
1個潜水戦隊規模で通商破壊を行ってたのだが、連合軍の戦略に影響を与える程度の損害を与える
ことが出来なかった。
結局のところ、通商破壊を行うにしろ、太平洋には通商路がほとんど存在せず、前線の兵站への攻撃が
関の山だが、日本軍の方針として、商船よりも軍艦、それも大物狙いを優先した戦略方針にまちがいが
あったとしか。
まあインド洋で大規模な通商破壊をやれればまた違った展開になるだろうけど、その際でも潜水艦の損害が
激増して、先細りになったであろうけどね。
(474:415)

アメリカ西海岸で日本潜水艦が行った通商破壊の成果は?

太平洋戦争開戦時の真珠湾近辺での哨戒後に
第6艦隊の一部伊9.10.15.17.19.21.23.25.26の9隻にて先遣支隊を編成
アメリカ西海岸沖で12/27まで通商破壊戦を実施
成果は撃沈または着底5隻 大破5隻 計6万4669トン
(533:627)

12月20日頃より作戦開始。

21日 『エミディオ』号撃沈(タンカー、6912総トン) 伊17 雷撃による
    『アグィワールド』号大破擱座(タンカー、6771総トン) 伊23 砲撃による
22日 『モンテベロ』号撃沈(タンカー、8272総トン) 伊21 雷撃による
23日 『H・M・ストーレイ』号撃破(タンカー、1万0763総トン) 伊19 魚雷1本命中
    『アイダホ』号撃破(タンカー、6418総トン) 伊21 雷撃による
24日 『ラリー・ドヘニイ』号撃破(タンカー、7038総トン) 伊17 魚雷1本と砲撃による
25日 『アブサロカ』号撃破(貨物船、5695総トン) 伊19 雷撃による
    『ドロシー・フィリップス』号撃破擱座(客船、2119総トン) 伊23 砲撃による
28日 『コネチカット』号撃沈(タンカー、8684総トン) 伊25 雷撃による

残燃料の関係で各艦共23~27日頃までに帰投行動に入っており、わずか10日足らずの作戦期間だった。
通商破壊戦においては1回の出撃1ヶ月前後の作戦期間(戦場に到着して以降帰投に移るまで)で
1隻の潜水艦が3隻も撃沈破すれば大戦果と評価される。
そんな中、9隻がわずか10日でこれだけの戦果を挙げたのは十分に作戦成功と判断された。

なお、作戦期間中に西海岸各地に砲撃を試みたが連合艦隊司令部より一旦命じられたものが撤回・延期された。
これは砲撃期間がクリスマスにかかるために避けられたとされる。

以上『日本潜水艦戦史』(図書出版社)より
(533:700)

ちなみに、1942年1~4月の間に、ドイツ海軍のUボートは、アメリカ近海にて、『太鼓の響き(Paukenschlag)作戦』を決行、
115万tの戦果もおさめています。
これを割り算しますと、ほぼ1日1万トンになります。
しかも、撃沈のみです。

参考図書
『歴史群像』2005年6月号 記事、サブマリナー24H
下記、Der Alteを参照ください。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~PEIPER/page013.html
(533:634:霞ヶ浦の住人 ◆WdKJPq1xgk)

その1942年1~4月のUボート1隻・1日当たりの撃沈戦果ですが
1月 231トン/日・隻(洋上出撃42隻)
2月 296トン/日・隻(50隻)
3月 341トン/日・隻(48隻)
4月 284トン/日・隻(49隻)
にしかなりません。

その1日1万トンという数字は、50隻近いUボートが総がかりでようやく挙げた戦果なのですよ。
(533:978:ゆうか ◆9a1boPv5wk)
上記の(洋上出撃42隻)とは、どこへ出撃した数か教えて頂けましたら幸いです。
ゆうか氏の出した資料によると、その延べ42隻は、前線に移動中もしくは帰投中で作戦を行っってたのは
91隻だね。
        在籍 前線 後方 出撃 戦果
1942/01  262隻 91隻 171隻 42隻 231t/隻・日 (56隻 301,224t)
http://mltr.ganriki.net/unc0533.html#16559
(621:637)
その91隻ですが、

23隻が地中海配備(地中海にいる、という意味で、作戦海域に向かっているものと作戦海域より帰投中のものを含みます)
3隻が母港より地中海に向け出撃中
6隻がジブラルタル西方つまり大西洋側で哨戒中
4隻がノルウェーで作戦行動中
22隻が大西洋で行動中(出撃中並びに帰投中を含む)
33隻は母港で整備中

となります。
「22隻が大西洋で行動中(出撃中並びに帰投中を含む)」の内の、何隻かが、アメリカ近海で、太鼓の響き作戦を実施していたのですね?
この時点でアメリカに向かっていたのは第一グループ5隻です。
概ねアメリカ海域には13~15隻前後が常時作戦行動を行っています。
別に出撃・帰投分を考えれば、洋上出撃50隻前後の内の少なくとも20隻以上はこの海域に投入した計算ですね。

なお、4月以降は「乳牛」が投入される一方で連合軍側の対潜哨戒が遅まきながら強化されたため
アメリカ海域での作戦は様相を変えていくことになります。
「概ねアメリカ海域には13~15隻前後が常時作戦行動を行ってい」たのですね!
勘違いしてますが、あなたがティンパニーの響きと思っている一連の作戦の大半はその管轄外です。
アメリカ東海岸を荒らしまわった「ティンパニー」は5隻+増援で10隻前後が割かれています。

残りはカリブ海からバミューダ諸島に至る海域で、ここには「ティンパニー」以上のUボート群が投入されます。
ドイツ長距離潜水艦Ⅸ型の主たる戦場がここです。

総括しますが、パウケンシュラーク参加の5隻のUボートはざっと50日かけて27隻を撃沈します。
Uボート1隻が、ほぼ10日に1隻のペースで商船を撃沈していたということです。

これと日本が西海岸で挙げた戦果を比較しますと、
9隻が8日で4隻撃沈2隻擱座で6隻の戦果を挙げます。
つまり、伊号が挙げた戦果はパウケンシュラークのUボートに全く引けをとらない撃沈ペースだったのです。
大西洋と太平洋の差はあまりに大きく、日本が対米通商破壊戦を行えたのはこの一度きりだったのですが、
戦果そのものは最盛期のUボートとほぼ同等のものでした。
(621:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)

日本海軍は海上通商路の重要性を認識していませんでしたか?

『戦史叢書 海上護衛戦』では、
戦前に海軍が戦時下のシーレーン防衛にどの程度の戦力が必要か
研究班を編成して分析していたことが記載されていますよ。

その研究結果によると台湾海峡以北の海上護衛だけで
膨大な護衛艦隊に航空隊が必要で
日本の戦力ではとても捻出不可能だったとか。

同書では海上護衛に史実以上に戦力を傾注しても
十分な効果が望めたとは考え難いことと
日本の状況では正面戦力による主作戦で成功を続け
シーレンに対する攻撃を直接抑制するしか
通商破壊に対抗する手段が無かったという分析と合わせ
海軍の主作戦重視の判断はそれなりに妥当性があったと結論されいます。
(620:390)

日本はなぜ通商破壊戦に力を注がなかったのか?

ドイツやアメリカは大量の潜水艦を使って通商破壊戦を繰り広げ
イギリスの海上輸送を一時的に不可能にさせ、日本軍の輸送船を撃沈し物資輸送を半分ほど麻痺させました
一方日本軍の潜水艦は敵の主力艦隊に出来るだけ痛手を負わさせる事が主任務ということになっていたので
通商破壊戦には少し関心がなかったようで、大量の潜水艦をアメリカ艦船を沈めるために使われてしまいました
潜水艦の使い方とその予防をおろそかにしたがために太平洋戦線の慢性的な物資不足が発生し
決定的な物量の差が出てしまったのではないでしょうか?
アメリカの通商路は北米大陸沿岸と西海岸~、ハワイにしかなく日本から
通商破壊を仕掛けるには距離がありすぎて、非常に効率が悪い。
日本が見習うのは、ドイツの通商破壊でなく同じ島国であるイギリスの対潜作戦のほう。
(542:274)
付け加えると第一次大戦後早い段階で通商破壊の是非は検討されてますが
そういう「攻撃する通商路ねーじゃん」でさっさと諦められてます。

しかし艦隊襲撃の困難さは海大型が完成型に達した昭和14年頃には皮肉にもすでに認識されており、
潜水艦戦略の抜本的見直しが行われてはじめたところで開戦を迎えたタイミングです。

つまり日本潜水艦陣は旧来の戦略が効率的ではないことを認識しつつも
新たな戦略を未だ構築しきれない、非常に中途半端な状態で戦争に突入したのです。
(542:ゆうか ◆9a1boPv5wk)
学研ムック「日米潜水艦」に書かれていることと矛盾すると思われますが、
どのようなところから「中途半端な状態」と評価されるのでしょうか?
昭和15年の段階で軍令部は艦隊決戦への投入を断念し、その運用方針をロンドン条約以前のものに回帰した、と記述されており、
これを中途半端と呼んでいいのか疑問を覚えます。また、開戦直前に着手した○追計画の眼目が
「積極的に通商破壊戦を展開、潜水艦搭載機による要地爆撃で米国世論を刺激し 決戦を誘引する」
とはっきりと示されているにもかかわらず、これを「中途半端」というのでしょうか?
日本海軍は旧来の戦略の過ちを認め、新戦略を構築した上でそれに適した戦力整備に着手した途上で開戦を迎えたように思われるのですが、
中途半端と判断された資料など示していただけないでしょうか?
潜水艦史とか海軍軍戦備とか日本海軍潜水艦史とか、その辺を読み込めば。
後は防衛研究所の史料(訓練所見とか潜水艦隊の戦技研究とか)もありますが。

もっとも事実に対する解釈の相違というのもあるでしょう。
昭和14年時点で潜水艦側の見解は一言でいって「敵艦隊発見でさえ運まかせ、まして攻撃など」とボロクソです。
一方で軍令部の運用方針には未だに潜水艦の決戦投入がうたわれてるんですねこれが。
てかそれしかなかったというか・・・「困難だがやらねばならぬ」が偽らざるところですか。

後○追計画の眼目ですが、正直言って当の海軍があまりあてにしてません。
というより、決戦時期を主導できないことこそが漸減戦略最大の弱点であることは
策定当初からの大問題でして、結局開戦まで海軍はその「決め手」を持つに至らなかったんです。

ま、中途半端と判断してるのは昭和16年度時点に至ってなお潜水艦隊の想定任務について
アレはダメ、コレもダメ・・・と、有効性を否定しまくってる(つまり有効と認めうる段階まで戦略を構築しきってない)のが
上記戦技研究なんかから読み取れるからです。
通商破壊は前述の通り攻撃場所がない、要地偵察は敵戦闘機に食われる、
艦隊攻撃は敵に振り切られるし警戒厳重・・・
利点より欠点を強調する描写がやたらと目立ちます。
(542:ゆうか ◆9a1boPv5wk)

インド洋での通商破壊は日本海軍がすべき任務だったけど、熱心では無いので仕方なしに、ドイツ海軍がやって来て戦闘をしていたの?

インド洋の作戦海域は最初の作戦協定を締結時から、日独で等分されており、必要性があれば、協議によって
作戦海域を融通していました。
インド洋が日本の担当作戦海域と言うのは、間違いです。
だから、連合軍のマダガスカル攻略戦のときに日本の潜水艦で襲撃するために事前に協議を行い
作戦海域の融通を認めさせてます。
しかしマレーシアのペナン島で、日本海軍に居候しながらは異常です。
米海軍はイギリスの基地に居候しながら欧州で戦っているし、
オーバーロード作戦でもグレートブリテン島を根拠地にしているし、
ドイツの地中海や北アフリカ戦線にしたところでイタリア軍の世話になってるんだが?
(620:518,532)

日本はなぜ『海上護衛戦』に書かれているように敵の通商破壊に対する対策を怠ったのでしょうか?

戦史叢書の『海上護衛戦』では

「イギリスはドイツの水上戦力を完全に無力化した後に戦力を海上護衛だけに集中することができたが、
帝国海軍は強大なアメリカの正面戦力と対峙しつつ海上護衛に戦力を抽出する必要があった点に大きな差があり、
海上護衛が万全でも正面戦力同士の主作戦で敗北すればシーレーンは封鎖されることになるし
そして史実以上の戦力を海上護衛に割いても十分な効果が望めたかは疑わしく
平時から海上護衛を達成できるほどの強大な戦力を持てる国力があったのはアメリカのみであり、
イギリスはその支援の元に海上護衛を行なったもので、事実上日本はイギリスより大規模で困難な海上護衛を行なっていた状況だった」

というような結論が述べられている。
大井篤氏の『海上護衛戦』については、どちらかというと全体的な状況分析より
現場の声を重視した書き方をしているから、その差が戦史叢書との違いに現れているんだと思われる。
(603:556)

アメリカの存立に関わる通商路が太平洋にあったの?

貿易ってのは出す側と受け取る側、双方があってはじめて成立するものです。
つまりアメリカは輸出する側として巨大な通商路を有する大海運国家でもあるわけで、
よってアメリカが相手であっても通商破壊戦は立派に大きな効果を発揮します。

でもね、アメリカが太平洋に持つ通商路って、
本土~ハワイ~グァム~フィリピンの細い一本だけなんですよね。
大戦によってこれが途切れ、替わりに行き先をオーストラリアに変更した、やはり細い一本。

それ以外でアメリカに大ダメージを与えうる航路が太平洋にあるか?
実はあります。
ただし日本の手の届かないはるか遠方に。
大西洋と太平洋をパナマ乃至マゼラン海峡で繋ぐ東西交流路。
これは行き交う船腹量も多く、大戦果が期待できる海域です。
部隊を展開できさえすれば。

日本は開戦直後のただ一回きり、この航路で通商破壊戦を仕掛け、大きな戦果を持ち帰っています
(620:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)

日本海軍が米潜水艦による通商破壊を極めて深刻な物と認識したのはいつ頃のことでしょうか?

開戦前は船舶の損失を1年目は100万総トン、2年目は80万総トン、3年目は60万総トンと
年毎に減少すると予想していた
実際には年を経るごとに損失は増加していった

開戦前は日米共に潜水艦の役割は艦隊決戦のうらかたという存在でした。
潜水艦は予め敵の艦隊が通過するだろう場所に待ち伏せし敵艦隊の通過を自軍の艦隊へ連絡する。
偵察の役割を主に担うものでした。
しかし太平洋戦争開戦前に欧州ではアメリカとイギリスを海路で結ぶ商船が次々とUボートの餌食になり、
アメリカは自身の身を持って潜水艦の新たな使い方を学びました。
その結果、アメリカ海軍では潜水艦の使い方を通商破壊に使うための研究をし、その後太平洋戦争に突入しました。

逆に日本海軍にはそのような経験がなく、また開戦前に商船被害は開戦直後から開戦二年後にかけて逓減して
いくと見積もっており。むしろあそこまで被害が拡大するとは考えていなった。
それに作戦に使える駆逐艦の数を減らしたくなかった連合艦隊の反対もあり商船護衛に回せる駆逐艦があまり
なかったことが原因で商船を保護しきれませんでした。

一部の人間を除き、海軍全体的には商船護衛の必要性は結局終戦まで認められませんでした。

最初の兆候は1942年10~11月にかけて
ガタルカナルを巡る戦いの中で空襲等で17万7千トン16万8千トンの損害を出した時だが
日本海軍内では、これはあくまで一時的な損害という認識だった。
日本海軍内では月平均7万トンの損害があり、ガタルカナルさえなければ
損害は月平均内なので問題がないという認識だった

米軍は1942年6月からは潜水艦に水上レーダーを装備させ
1943年4月からは潜水艦戦術を大西洋のドイツ海軍を見習い改善
米軍の潜水艦より発射する魚雷には欠陥があり命中しても不発だったのが
1943年の6月以降に改善された魚雷が米潜水艦に配備され
9月には不発の多い磁気信管の使用が禁止された。

日本軍側は1943年に入ってからの月平均7万トンを超える商船の損害と
損害トン数の増加に対して、護衛艦の増産を予算請求することを決定したのが1943年の6月
その護衛艦が出来上がる1944年ころには、米軍は潜水艦の数が増え、魚雷の欠陥はなくなり
電子装備は優れ、という状態になっていた。

開戦前なら、日本軍は米軍の潜水艦は、日本の潜水艦の戦術と同じように日本の軍艦を標的にするだろう
後方の商船への攻撃はあまりないだろうという認識だった。
(167-183)

日米の潜水艦は、それぞれどれぐらいの戦果を挙げたのか?

  • 日米潜水艦の撃沈戦果比較
     艦艇撃沈 船舶撃沈
日本   15隻   171隻(84.9万トン)
アメリカ 189隻  1150隻(486万トン)

  • 日本潜水艦の艦艇撃沈戦果内訳
撃沈数  艦名
空母 2 ヨークタウン・ワスプ
護衛空母 1 リスカムベイ
重巡 1 インディアナポリス
軽巡 1 ジュノー
油槽艦 1 ミシンネワ
駆逐艦 3
潜水艦 3

  • 日本潜水艦の通商破壊による戦果(太平洋
年度 参加隻数 撃沈
1941 12 11
1942 13 19
1943 15 23
1944 0 1
合計 40 54

  • 日本潜水艦の通商破壊による戦果(インド洋
年度 参加隻数 撃沈
1941 0 0
1942 24 77
1943 8 22
1944 6 16
合計 38 115

日本の通商破壊戦は1944年11月で終了

下記、日本の通商破壊戦 を参照ください。
http://www.geocities.co.jp/eiji96301045/Jsubmarine.htm
(673:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I*一部修正)

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