日本海軍2


芙蓉部隊ってなんですか?

海軍の夜間戦闘機隊です。特攻を行わずに
彗星を主体とした効果的な攻撃を続けたことで知られています。

おっと、彗星というからには爆撃機隊というのが適当でしょう。
(48:648-649)

ネルソン提督と日本海軍とのゆかりはあるのでしょうか?

日英同盟時代の名残でしょうか?
ネルソン提督は1805年のトラファルガー沖海戦で戦死していますので、
言うまでもなく直接の関係はありません。
ただ、東郷平八郎提督は若かりしころ海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入校せず英国に7年間
留学しています。
また、兵学寮の開校と同時にイギリスから海軍顧問団を招いて教育を施しており、いわば生みの親といっていい
英国海軍の偉大なネルソン提督を尊敬する気持ちから遺髪を収めたものと思います。
(50:名無し軍曹)
その遺髪の出所はどこなの?
江田島にあるネルソンの遺髪は、東郷提督の日本海での勝利を祝して
英国のリー卿が提督に贈ったものだそうです。
提督はそれを海軍兵学校に寄贈し、提督の没後に教育参考館の東郷遺髪室に
提督の遺髪とともに収められたそうです。
(50:名無し軍曹)

連合艦隊には第七艦隊が無いようですが、何故でしょうか?

戦争末期の1945年4月に、関門海峡方面の護衛部隊として編成されています。

8が艦隊番号として優先された理由は「末広がりの八」だから優先したなどという
記述も見かけました
(52:541)

旧海軍の艦隊派と条約派の対立ってロンドン軍縮条約以降も続いたんですか?また、他にも派閥などはあったのでしょうか。

艦隊派と条約派の対立は、いわゆる大角人事で多くの条約派将官を追放できた時点で決着してます。
艦隊派の首領たる伏見宮元帥のお墨付きがないと海相に就任できない習慣も完成してますし。
もちろん条約派の壊滅にまでは発展せず、山本さんや井上さん、吉田さんら「小者」は対象外でした。
最後の砦となった米内さんについても、
在学時から米内さんを高く評価していた藤田尚徳さんと、艦隊派の重鎮だった高橋三吉さんという
同級生の出世頭が身を引いたおかげで残留ができたようなものです。
あんだけ軍令部を強化した三吉姐さんが自ら身を引いた、ということは
「艦隊派の思惑通りの制度は作ったけれど、実行は阻止してくれ。その役は米内しかいない」
というわけで、身を引いてからの姐さんの関心は、対米戦回避に移ってる状態です。

「派閥」の一つではありますが、
古賀さんや豊田さんに代表される旧来の大艦巨砲主義者と山本さん以下の航空優勢主義については
海軍を混乱させるほどの深刻なダメージは与えていません。

海軍を割る恐れがあった意見対立は
三国同盟を受け入れたがる多数派と、拒絶するトリオを頂点とする少数派による同盟問題。
開戦時は意外と混乱してません。
威勢よく開戦をぶち上げる課長級の突き上げに、できたら避けたい部長以上が押し切られて開戦に至ります。
(287:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

沈没の際に重い御真影を背負って海に飛び込んだ兵士達がいたそうですが、御真影は無事回収できたんでしょうか?

ボートが横付けできる状況であれば、御真影を無事に移せます。
ミッドウェーの4空母のうち、艦橋が炎上した蒼龍を除く3空母が回収に成功してます。
自沈した赤城・飛龍は当然のことながら、艦橋の幕僚が全員爆死した加賀も、炎上を免れてたので。
ただ、いったん飛び込んで…となると引き揚げは困難でしょう。
フィリピン沖海戦の囮空母は、撃沈されることを前提にして出撃したので、あらかじめ駆逐艦に預けてました。
(285:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

旧日本海軍の軍艦の動力が石炭から石油に変わったのはいつ頃ですか?

また、石油だとほとんど煙は出ないということですが、遠目では分からないということになるのでしょうか。
手間だろうけど、wikiで日本の戦艦を1隻づつみてその機関を調べることを薦める。
そうすれば、いつ石炭から重油になったかが一番よく分かる。
石炭>重油と石炭の混焼>重油とかわってるから。
(283:737)

戦艦だけでなく戦艦から駆逐艦まで網羅すると、もっと見えてきます。
石炭を燃やすと、煙もさることながら盛大に火の粉が上がります。
夜襲を仕掛けても簡単に発見されてしまう…ということで、
楢型駆逐艦が初めて完全重油ボイラーを採用しました。

今ではソナーでエンジン音が聞こえ、レーダーで船が見えるので
煙を出してるかどうかは問題なりませんが、姿を隠して肉薄する手段としての側面がありました。

逆に、石油でも不完全燃焼させれば煙幕がはれますし。
(283:携帯鷂 ◆exxupUqotM)

旧海軍横須賀鎮守府付近の詳しい地図、建物の案内図などが紹介されている、書籍等をご存知の方は教えて頂けないでしょうか?

例えば、横須賀地方隊の田戸台分庁舎は、1913年の横鎮施設部長の桜井小太郎(英国公認建築士で後に丸の内ビルヂングを設計)が
設計した旧横須賀鎮守府長官官舎ですし、第七艦隊司令部の建物は、1924年建築の旧横須賀鎮守府庁舎、横須賀製鉄所創設当時の
船渠が三基残っていました。
ちなみに、幕末にフランスから輸入されたスチームハンマーは、1997年まで艦船修理部で使われ、ヴェルニー記念館に移設展示
されています。

詳しくは、若干の記述に目をつむる必要があるかもしれませんが、神奈川県歴史教育者協議会編「神奈川県の戦争遺跡」
(1996/大月書店)が資料としては整備されているのではないでしょうか。
(279:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

帝国海軍の八八艦隊計画艦は、長門-陸奥 加賀-土佐 天城-赤城 以下の12隻の艦名は正式に決まっていたのでしょうか?

架空戦記等を読むと、長門-陸奥、加賀-土佐、天城-赤城-高雄-愛宕、紀伊-尾張-駿河-近江、というのがよく出てくる艦名ですが
高雄は起工されていましたから、当然候補艦名はありました。
候補艦名は二つあって、もう一つは愛鷹でした。
また、愛宕も既に起工されていたので候補艦名とされていました。

紀伊、尾張も候補艦名として命名されていたのでこれも確定しています。
駿河、近江については、起工すらしていませんでしたから、予定名、あるいは
仮称艦名でしかなく、数多の命名候補の一つと言えるでしょう。
(106:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ドイツや英国、米国の船は救命ボートをあっちこっちにくっつけて積んでいたのに、日本艦にはあまりそういったものが見当たりません

これは、日本艦乗員はもし船が沈んだら泳ぎなさい、ってことなんでしょうか?
短艇とかの数が足りなかったのは確かなようです。
それでも、海軍艦艇は未だマシな方で、商船だと(ry。

足りない分は、竹で編んだ筏を搭載して、沈没したら救命胴衣を付けて、
この筏につかまれと言う状況もあったらしいです。
(106:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

金剛や三景艦を外国に注文した際、日本が支払った代金の額はいくらなのか教えてください

残念ながら三景艦の代金は幾らなのかは分らなかったのですが、畝傍の
保険金額が邦貨換算129万5000円でしたので、そのくらいの金額より上ではないか
と思います。

ちなみに、1903年竣工の英国戦艦Swiftsureが邦貨換算932万円、日露戦争時代の
日進、春日は、2艦で153万ポンド(1隻当り邦貨換算746万8695円)となっています。
うち、3万ポンドは仲介手数料ですので、実質2隻で150万ポンドとなります。

金剛は、大正2年竣工の方だと仮定しますが、契約価格236万7,100ポンド(後に追加費用
5万ポンド(新式甲鉄の使用)と、148ポンド(アートメタル費用)が追加)となっています。

うち、Vickersから三井物産に当初契約金額の5%(118,355ポンド19シリング11ペンス)が仲介手数料として
支払われ、三井からはその3分の1が艦政本部長に支払われました。
また、Vickersの代理人にVickersから31,195ポンド5シリングが支払われ、これが海軍高官にリベートとして
渡っています。
更にVickersからは他に当初契約金額の2.5%にあたる59,177ポンド10シリングが日本製鋼所に支払われて
います。

ちなみに、紀伊級1隻の予算要求額は3,725万円、赤城級1隻の予算要求額は3,742万円になっています。

なお、英国軍艦の日本向け基準価格は、1910年当時で、

 装甲板:95ポンド/t
 砲、砲架、砲弾:日本、英国海軍の通常価格
 砲塔天蓋の垂直装甲の価格、防御甲板価格:Herculesと同じ
 機関価格:パーソンズ式/7ポンド/hp
        カーチス式/7ポンド15シリング/hp
 船体及び艤装価格:26ポンド5シリング/t

となっています。
(114:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

栗田は海軍内の評判は悪かったと聞きますが、何故重要なレイテ沖海戦で、勝利の鍵を握る第一遊撃部隊を任されたんでしょうか?

海軍兵学校/海軍大学時代の成績に基づいた人事。

日本海軍は人事の柔軟性がほとんどなく、戦時でも平時と同じ基準で
人事を決めてた。
栗田提督はわりと席次の高い方なので、地位の持ち回りであの位置に。
(274:546)

というか、栗田氏は席次は高い方じゃなく、海軍大学校も出ていないし
中将への昇進も、海兵同期(38期)では遅い方(昭和17年5月、ちなみに早い人は昭和15年11月に昇進)だし
どう見ても、艦隊司令長官まで行ける人じゃなかったよね。

当の本人も、戦後に語ったところによると、2F長官を拝命して
「自分でも驚きました。冗談じゃない、こんな野武士なんか駄目じゃないか、そう思いましたね」
などと言っている。

ちなみに、レイテ沖海戦で利根艦長を勤めた黛治夫氏は
「中央から見れば、水雷屋で頼りになる人に見えたんだろうけど、酒飲んでフネで突っ走っているだけじゃ、
アタマは出来ないよ。高等教育(海軍大学校)を受けさせるべきだった」
と語っている。

栗田氏が、近藤信竹氏(ちなみに、この人は海兵35期クラスヘッドで、栗田氏とは正反対にバリバリの海軍エリート)
の後任の2F長官に選ばれたのは、3F長官・小澤治三郎(海兵37期)よりも後任の中将で、適当な人(水雷屋)を探して
中央の目に付いたのが栗田氏だった、という事も有るらしいね。

2Fと3Fが共同作戦を行う場合、やはり、空母部隊である3F長官が総指揮を執るのが望ましいし
いちいちGFシチが陣頭指揮というのも「時代錯誤」だし。
というわけで、極端な事を言えば「小澤氏よりもエリートじゃない人」という理由で選ばれたわけだ。

でも捷一号作戦では、小澤氏は「裏方」で、栗田氏が「主役」になっちゃった。
昭和18年初頭に上記のような理由で2F長官を決めた時には「想定外」の事態だったんだね。
(274:571)

漫画ジパングの世界では、通信将校が海軍のエリートとして幅を利かせておりますが、実際の旧海軍の社会でもそんなことがあったのでしょうか?

海軍に於いては、主流なのは、兵科将校です。
兵科将校と言うのは、直接戦闘兵種で、航海、砲術、水雷、無線電信、信号、操縦、航空機に
関するものを扱う職種です。
この兵科将校の中での順位付けは、余り意味を持ちませんが、強いて付けるならば、
砲術>水雷=航空=操縦≧航海>無線電信=信号くらいにはなります。

機関科は1943年まで分かれていましたが、後に兵科に含められています。
但し、主流ではありません。

他に将校担当官として、軍医科、薬剤科、歯科医科、看護科、主計科、造船科、造機科、
造兵科(造船、造機、造兵、水路は1943年に技術科に統一)、法務科、水路科、軍楽科
(1943年に独立)がありました。
これらは厳密には将校ではなく(将校というのは兵科の人を言う)、傍流です。

兵科現役将校への正当コースは、海軍兵学校(海兵)卒業後、少尉候補生になり、遠洋航海を
経て在役軍艦の勤務を経て少尉に任官することです。
その後、大尉任官後1年を経た者(大抵は海兵卒後10年程度経過した者)で、海軍大学校に甲種
学生として入学を許された者に対して原則としてエリートとして遇されます。

海軍大学校には他に航海学生、機関学生、専科学生などがありますが、戦闘関係の部署(砲術、
水雷、航空)以外の兵科の人々はこちらになります。
(115:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

海軍艦艇の部隊ではそれぞれの艦艇の乗員とは別に旗艦に司令官が乗ってるんでしょうか?

そして旗艦に艦艇とは別の乗員が乗るのは駆逐艦隊や駆逐艦郡みたいなわりと小規模な部隊でもなんでしょうか?
艦艇の乗員は艦長までで、その上に司令部が旗艦に乗り込みます。

旧軍の駆逐艦を例にとると、
駆逐艦x3~4隻で駆逐隊を編成し、駆逐隊指令(キャプテン)がつきます。
で、駆逐隊数個で水雷戦隊を編成し、旗艦に将旗をあげます。
(271:フェチ ◆kK77XB6/ug)

海軍兵学校は卒業後、席次順に昇進するそうですが主席や次席の場合、佐官まで昇進するのにどのくらいかかるんでしょうか?

ハンモックナンバーに関係なく、大尉まではクラスメイトは一斉に進級します。
で、質問の佐官昇進ですが、ハンモックナンバーと現場での働きを考慮して、大尉どまりの士官を足切りして、残りが一斉に少佐に上がります。
ハンモックナンバーで出世のスピードが変わるのは、少佐から中佐に上がる時からです。
ハンモックナンバーをひっくり返す手としては、海大や術科学校で好成績を上げることや、
現場で上官に気に入られて後ろ盾になってもらう手があります。
(269:鷂 ◆exxupUqotM)
少佐から影響してくるんですね。因みに期間はどのくらいかかるんですか?
例えば、海兵45期生(1917年卒業)の場合、こんな感じです。

(海兵を優等で卒業した人) (普通の成績で海大に進学した人) (海兵後航空畑に進んだ人) (海兵の成績が良くなかった人)
 1918年 少尉任官        少尉任官                 少尉任官              少尉任官
 1920年 中尉任官        中尉任官                 中尉任官              中尉任官
 1923年 大尉任官        大尉任官                 航空術学生卒 大尉任官
 1924年               砲術学校高等科卒                               大尉任官
 1927年 海大(甲種)入学
 1929年 同卒業 少佐任官  海大(甲種)入学 少佐任官      少佐任官
 1930年                                                          少佐任官
 1931年               同卒業
 1933年 中佐任官
 1935年               中佐任官                 中佐任官              待命・予備役編入
 1938年 大佐任官
 1939年                                      大佐任官
 1940年               大佐任官
 1941年                                                          召集
 1943年 少将任官                                                   中佐任官

補足
海軍に於ては進級の際、「考課表」というものがあり、佐官~一等兵まで、一人一葉の甲表と部下全員の比較をする乙表がありました。
これは年一回書かなければならないもので、将校のものは調整官の手を経て最終的に海軍大臣まで進達されます。

准士官以上の主な記入項目はは、
 本人告白(家庭事情、自己研鑽の内容、体力(身体の状態)、職務上の希望、特に告白するべき事象(断酒など))

 対上所見(家庭事情の考察、自己研鑽の所見、体力評価、職務上の希望についての所見、
        学術技能の所見(他人に比較して明らかに優位にある場合に記述)
        本人の長所、研究心努力素質将来見込、褒賞、外国語の力量、気質、欲望(飲食欲、性欲、休憩欲、
        労働欲、生命欲、智識欲、所有欲、幸福欲、社交欲、名誉欲、秩序欲)、趣味及び感情、操行(道徳的
        理想、行為)、態度動作及び言語、注意力、記憶力、想像力、判断力、作業力、最適の職)

 調整官及閲歴諸官所見

と、対上所見については、大体この様なことを書くと言うことで、あくまでも目安に過ぎません。
調整官の所見も同様で、被考課者の総てについて知悉し、しかも豊富な表現力、語彙力がないと作成出来ません。
ちなみに、調整官は、艦船では士官以上と候補生が副長、下士官兵は分隊長で高等官以外所見を書くことは許されていません。
(269:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧海軍で聯合艦隊司令長官って上から何番目の地位なんですか

日本海軍では、敗戦直前の時期を除いて、明確に各々の序列が決まっていた訳ではありません。
1933~1945までは、図にすれば、こんな感じです。

天皇----+----海軍省
      |
      +----軍令部
      |
      +----鎮守府(佐世保、横須賀、舞鶴、呉)
      |
      +----警備府(1941年以降、それ以前は要港部として鎮守府の下部組織)
      |
      +----聯合艦隊--+--第一艦隊(時期によって変遷していますが)
      |           |
      |           +--第二艦隊
      +----支那方面艦隊

と言うことで、天皇から見れば、序列的には海軍大臣、軍令部総長、鎮守府長官、警備府長官、聯合艦隊司令長官、
支那方面艦隊司令長官は全くの同格です。

但し、実際の権限は、海軍大臣は軍政を所管し、海軍軍人を統督し、鎮守府、艦隊は所管の軍政に於いて海軍大臣の
指揮を承けるとされ、海軍大臣が他の幹部よりも優越します。
海軍大臣と軍令部総長は、国防用兵に関することを総長から大臣に発議することになっており、海軍大臣は平時の海軍
軍備、経費、艦隊、鎮守府の建制を担当していました。
鎮守府長官、警備府長官は、軍政は海軍大臣、作戦計画は軍令部総長の指示を受けることになっていました。
聯合艦隊司令長官も、これは同様で、軍政は海軍大臣、作戦計画は軍令部総長の指示を受けることになっていました。
(130:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍の海防艦や水雷艇や哨戒艇は何隻ぐらいで行動してたんでしょう?

  • 駆逐隊…おおむね駆逐艦4隻で1個駆逐隊。吹雪型は3隻で組んだことがあります。
  • 潜水隊…潜水艦3隻で1個潜水隊。
  • 水雷隊…水雷艇4隻で1個水雷隊ですが、17年春には3個水雷隊を全部解散してます。
  • 掃海隊…掃海艇(または特設掃海艇)3~6隻で1個掃海隊。
  • 駆潜隊…駆潜艇3隻、または特設駆潜艇2隻+特設捕獲網艇1隻で1個駆潜隊。
  • 砲艦隊…19年に砲艦を軍艦から艦艇に格下げして編制しました。2隻で1個砲艦隊。
       特設砲艦3~4隻で組む砲艦隊は日華事変から編制されてます。
  • 海防隊…19年7月に初めて結成し、3~4隻で1個海防隊。終戦まで8個海防隊しか編制してません。

哨戒艇で組んだ哨戒隊、てのは当初なかった気がします。
太平洋戦争開戦に備えて、三陸沖海上に「特設監視艇」を並べて敵襲を調べる部隊を
「第1哨戒隊」と称しましたが、17年には「監視艇隊」に改称していますし
徴用漁船が減った末期に、海軍が自前で調達した特設哨戒艇をその任務に当てはしましたが
その時も「監視艇隊」のままでした。
(263:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

日本海軍が陸軍戦車を使用する事ってあった?

海軍陸戦隊の警備用に、八九式戦車数両を陸軍から分けて貰って装備していますし、
教育部隊には九五式軽戦車を装備していますし、大戦末期に海軍が試作した自走砲は、
九七式中戦車の車体が基になっています。

ちなみに、熱河作戦の際、日本陸軍が八九式戦車で長躯疾駆したのですが、その整備
には上海の海軍航空部隊の非公式協力があったらしいです。
(264:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍幼年学校は結構検索にかかるのに、海軍幼年学校はあまり検索できません

古い本ですが、景山昇「海軍兵学校の教育」(1978年 第一法規出版)辺りが詳しい資料か、と。

で、海軍には、1945年に設立された、海軍兵学校予科がそれに充たるかと思います。
それ以前は、15歳から19歳の間に行なう、海軍兵学校での教育が海軍の教育キャリアパスの最初で、
これには入学試験があり、中学校四年一学期修了程度で行ないます。
入学定員は大正期~昭和初期までは130名程度、以後増加して、戦争末期には4000名まで拡大しています。

修了年限は明治期に2年10ヶ月~4年1ヶ月、大正期は2年9ヶ月~3年3ヶ月、昭和6年入学までは3年8ヶ月、
昭和9年までは4年、以後、3年6ヶ月~2年1ヶ月となっています。

創設は明治9年海軍操練所として設立され、海軍兵学寮を経て、明治9年に海軍兵学校となり、22年に
広島県江田島に移転、昭和18年生徒急増の為、岩国に分校を設置、翌年江田島町内に大原分校が設置
され、更に海軍機関学校を舞鶴分校としました。

先述の海軍兵学校予科は、中学生が学徒勤労動員で勉学する余裕が無く、また、陸軍幼年学校に人材を
取られる不安から設置され、これは長崎県針尾島に作られています。

欧米では、陸軍幼年学校の様な教育機関は、米国に見られますし、旧ソ連でもあったやに記憶しています。
(135:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

「鉄甲艦」の定義、区分の仕方について教えていただけませんでしょうか。

また千代田、比叡は「半鉄甲艦」と呼ばれる意味を教えていただけませんでしょうか。
とりあえず、公式には甲鉄艦、鉄甲艦という呼称は存在しません。
明治5年に、軍艦と運送船に分かれ、明治20年5月に、艦齢10年以内の甲号、
水雷艇などの小型艦艇を乙号、艦齢10年超の丙号に分かれました。

これが、明治23年5月の海軍艦船籍条例で、戦闘航海の役務に耐える軍艦を第一種、
水雷艇を第二種、戦闘航海の役務に耐えない軍艦を第三種、運送船、曳船、小蒸気船を
第四種、倉庫船、荷船、雑船を第五種とする五種類に分けられました。
明治29年には、第一種(以前の第一種)、第二種(以前の第三種)、水雷艇(第二種)、
雑役船舟(第四種と第五種)の四種に集約されました。

なお、実際に戦艦、巡洋艦と言った艦種が設定されたのは、明治31年に制定された
軍艦及水雷艇水別標準が定められてからです。

ちなみに、扶桑は、鋼船でしかも、水線全体に渡って装甲帯を持ちます。
この艦のタイプシップは、1870年に建造された英国の中央砲郭艦Iron Dukeを小型化したChileのAlmirante Cochraneです。

一方の比叡、金剛は、舷側装甲を持ちますが、これは船体中央部にのみ施されており、船体は鉄骨木皮構造です。
ちなみに、こちらのタイプシップは、RussiaのGeneral Admiral、英国のGem級巡洋艦になります。
そこで、扶桑は鉄甲艦、千代田、比叡は半鉄甲艦と記述したのではないでしょうか。
(138:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次大戦中、日本海軍は艦船の迷彩塗装を行っていたのでしょうか?

意味合いが違いますが、ドイツ海軍はシルエットを別の戦艦に似せようとしていたと思いますが。
日本海軍では第二次世界大戦前から、
演習などで実験的な迷彩塗装は行われていましたが、
終戦まで迷彩・偽装に関する組織的研究は行われず、
専門の人員も置かれませんでした。

しかし、幾つかの艦では自発的・実験的に迷彩塗装を行う例があったようです。

1942年4月就役の水上機母艦「秋津洲」には、
艦長黛大佐の発案で、前後に艦首波を描いた船体全体の迷彩例があります。
同じ年の6月にはシンガポールで福井技術少佐が特設水上機母艦「相良丸」に、
淡灰色船体に濃灰色の帯を描き、艦尾を濃青色という迷彩を施しました。
後者は特に艦側からの評判が良かったそうです。

また、北太平洋のアリューシャン作戦に参加した第五艦隊の艦船には
迷彩を施していた写真があります。
1947年7月のキスカ島撤退作戦にあたり、軽巡「木曽」艦長長川井大佐が、
同艦の3本煙突の1本を白に塗る事を提案しています。
この煙突を白く塗るという迷彩は、アメリカ海軍の「メジャー6」迷彩と同じ手法で、
アメリカ側に見抜かれても「迷彩塗装を施したオマハ級では」
と言う疑念を抱かせる事も目的の1つだったとされています。
また、同艦には船体長を欺瞞する迷彩も施されていました。

戦争末期の1944年には空母の迷彩実験が行われ、
比島沖海戦などで米軍が撮影した日本空母の中には
迷彩塗装を施した姿が見受けられます。

空母の飛行甲板の迷彩には、「大変効果的である」と言う、
アメリカ側の評価があります。
(当の施した日本側ではそれほど効果があるとは考えられていませんでした)
(259:113)

宇垣纏の戦藻録(字合ってます?)を黒島亀人が自分に都合が悪い部分を抹消したという話を聞きました。

どういう経緯でそうなったんですか?
 黒島亀人はほとんど一人で真珠湾攻撃の計画書を作成したくらいで、当時の連合艦隊
司令部で数少ない航空主兵論者だった。
 なので叩き上げの戦艦派である宇垣纏には激しく嫌われていた。
 そもそも他人と仲良くする能力が無い人だったので(天才にありがち)、連合艦隊の
参謀には全員から嫌われていた。
 更に、そんな人なのに山本五十六のお気に入りだったので、影でボロクソに言われて
いた。まぁ黒島亀人自身、「奇人」でならしてて自身の天才振りを鼻にかけて憚らない
人間だったので自業自得の面が多分にあるけど。

 そんな経緯があって「戦藻録」には「日本が負けたのは全部黒島のせいだ」的な
描写(宇垣纏の個人的主観)があちこちにある。

あと宇垣纏と黒島亀人の関係で重要だったのは、黒島は軍令部第二部長として
特攻兵器の開発にGOサインを出した、ということ。

黒島はこの事に対し「既に海軍の方針として決まっているので反対などできよう
筈も無かった」と後に主張しているが、黒島を嫌っていて特攻にも反対していた
宇垣は
「あいつなら当然のようにやるだろう」と更に黒島を嫌う事に。
さらに特攻部隊の司令官にさせられた宇垣は、その事と絡めて
「これは自分へのあてつけに違いない!」
というような考察(個人的主観)を「戦藻録」に残す。

このあたりも出版に関して抗議が入り、大幅にカットされたという経緯が。
(259:705-709)

日本海軍の造機能力は貧弱と言われますが、艦本式などのボイラーやタービンは民間工場では作られていなかったのでしょうか?

駆逐艦作りまくった浦賀船渠とか、藤永田造船など、ああいった民間造船所は
船体を建造するだけで、機関などはもよりの海軍工廠から供給される、とかいうものだったのでしょうか?
艦本式では無い、カーチス式、パーソンズ式のタービンやボイラーは民間造機工場、
例えば三菱神戸、長崎などでも製造されています。

しかし、海軍用の造機に関しては、資材は投入したものの、大規模工場で敗戦までに
本格的に能力を発揮したものはありませんでした。

商船の主機は徐々に経済性の観点からディーゼルへと転換され、民間造船所付属の
造機工場は、ディーゼル機関製造が主になりつつありました。
ただ、その製造には高度な技術と多量の工作機械を要するため、造機能力の向上には
至っていません(大型船舶用内燃機関は潜水艦用に、小型船舶用内燃機関は、戦車、
航空機、上陸用舟艇、作戦用舟艇への供給が主でした。)

またタービン翼に充当する特殊鋼の生産量は多くなく、更にこれを航空機、軍艦、兵器など
に充当したので、民間には余り供給されませんでしたし、缶についても、その材料となるべき、
缶板は、日鉄八幡の第二圧延工場が殆ど唯一の生産工場であり、量的に制約を受けています。
このため、民間には余り供給されず、缶の生産についても、缶板の使用量の少ない水管缶への
移行を余儀なくされています。
(142:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍の鎮守府制についてご教授ねがいます

具体的に何を知りたいのか不明確ですが、適当にレス。

明治9年に海軍職制章程を制定し、東海・西海鎮守府を設置しました。
防衛海域と召集区域を明確化するために設置したものです。
それぞれの鎮守府に必要な艦艇を置き、それに必要な兵員を招集・養成して搭乗させ
常備艦隊に必要な艦艇を貸し出すものです。
16年頃から陸軍が沿岸防御の強化を唱え始め、5個海軍区への拡大を図ります。
19年に海軍条例が制定され、5個海軍区が確立します。
 第1海軍区は太平洋東岸を担当、鎮守府は既存の横須賀
 第2海軍区は太平洋南岸・周防灘を担当、鎮守府は呉として22年に開庁
 第3海軍区は九州沿岸を担当、鎮守府は佐世保として22年に開庁
 第4海軍区は日本海を担当、鎮守府は舞鶴として34年に開庁
 第5海軍区は北海道を担当、鎮守府候補地は室蘭が挙がったものの撤回
それぞれの鎮守府が独自に工廠・補給所・採炭所を持ち、自活できるようになっています。
もちろん鎮守府の垣根を越えて編制される艦隊には、どの鎮守府も支援をします。
(145:鷂 ◆Kr61cmWkkQ )

海軍陸戦隊についてですが

1.定員何名ですか? また、何個大隊or中隊の編成ですか?
2.海軍には陸戦を教える学校があったのですか?それとも海兵団・海軍兵学校などでは
初期の頃は、平時に艦固有の乗員として任務に就いています。
敵地上陸の際に艦に配備している小銃、機関銃を装備して陸戦隊になります。
従って定員なんてあってないものです。

で、2.に関しては、上述の通り、艦乗組時の任務の一部ですから海兵などできっちり
陸戦の教育も行ないます。

昭和7年内令第299号で海軍特別陸戦隊令が発令され、特別陸戦隊が出来ました。
それによると、司令官(少将または大佐)・参謀のほか、機関長・軍医長・主計長・分隊長を置き、
定員1,594名(または1,136名)で編成されました。

太平洋戦争中には各地に特別陸戦隊が編成されましたが、例えば佐世保第6特別陸戦隊は、
銃隊3個中隊、砲隊、高射砲隊、戦車隊を主とし、隊員は約1,500名で編成され、横須賀第7特別
陸戦隊は、7個中隊、歩兵砲隊、速射砲隊を主とし、隊員は約1,900名でした。
戦争末期には、乗る艦がない水兵を陸兵化し、各鎮守府に2隊以上の特別陸戦隊を新設、
これらで、連合特別陸戦隊を編成します。
この連合特別陸戦隊は、横須賀だけで6特別陸戦隊が編成され、兵力24,000名に及んでいます。
(153:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

海軍で「准士官」っていう階級がありますが、なんでわざわざ兵曹長だけを特別扱いしたんですか?

准士官の官階名である「兵曹長」というのは、1920年以前の特務士官の名称であり、
少尉相当。
その時は准士官は「上等兵曹」となっていました。
その後、兵曹長が准士官の名称となり、下士官の最高職階は上等兵曹となります。

特務士官とは、下士官出身の士官のことで、これを定めることで、年齢に相応しい高い
棒給を支給したり、退職年齢を定めることが出来、反面、一般の士官より明らかに格の
低い差別的位置づけを為し、例えば、名称も1942年までは「特務」が付き、昇進も尉官
(後に少佐まで進級可能)となっています。
准士官もこれに準じ、退職年齢が設定されてしまいます(定限年齢は48歳)。

士官(または士官相当官)は奏任官であり、一応、高等官になります。
准士官との待遇の差は、官階がまず違いますし、これによって、棒給にも差が出ます。
当然、年金も大きく違ってきます。
例えば、特務少尉の最低号棒は、1943年度で、1,368円/年、これに対し、准士官は、
最高号棒では、1,330円/年(最低号棒なら、930円/年)になります。

また、学歴によっても昇進速度に差が出てきます。
例えば、予科練の場合、甲種は中学校3年~4年修了者から採用し、16歳で入隊後、
23歳で特務士官になりますが、乙種は高等小学校卒業者から採用し、15歳で入隊後、
特務士官になれるのは29歳になります。
(190:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

商船学校出身の予備士官や予備学生出身の士官は、海軍ではどのような扱いだったのでしょうか?

高等商船学校を卒業して船員免状を取得すれば、好むと好まざるとに関わらず、
海軍呼び将校となります。
高等商船学校に入校すると同時に海軍予備生徒として海軍生徒に準じた扱いになり、
卒業後、海軍砲術学校で半年の教育、商船実務練習2年半の後、航海科の生徒は海軍
予備少尉、機関科は海軍予備機関少尉になります。
後に、水産講習所、水産専門学校遠洋漁業科卒も同じ扱いとなりました。

なので、これらの科では将校扱い。

予備学生は、大学、大学予科、高等学校、専門学校卒業生から採用し、採用後
1年の部隊または諸学校での教育の後、海軍予備少尉に任命されますが、航海、
機関少尉には任命されず、兵科将校の扱いとなります。

予備役の将校担当官は、その制度がありません。
但し、軍医科、薬剤科、後に、主計科、技術科には、それに準じる現役士官制度が
あります。
これは、大学、専門学校卒業生から採用し、2年間の現役を経て、予備役に編入され
ます。
とは言え、彼等の扱いは、予備役でも海軍軍医少尉など現役の名称と同様に呼ばれる
ことになります。
(233:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍で「艦隊」と「鎮守府」はどういう関係なのでしょうか。

鎮守府は海軍の艦艇・航空機・地上部隊・乗組員をすべて管轄しています。
艦隊は軍令部の要求に応じて、鎮守府から必要なものを選抜して編制されます。

たとえば、第1航空艦隊の赤城と蒼龍は横須賀、加賀と飛龍は佐世保、翔鶴と瑞鶴は呉の備品。
ただし、いったん艦隊に預けたからには、船の運用について鎮守府長官は南雲さんに横槍を入れられません。
逆に、翔鶴と瑞鶴を一刻も早く現場復帰させよと南雲さんが意見しても、呉鎮長官は無視できます。
艦隊と鎮守府の交渉はすべて軍令部が間に入って行うもので、どちらも上下関係はありません。

なお、鎮守府も艦隊に貸し出していない沿岸警備用の武力を装備しています。
特攻兵器で編制した特攻戦隊とか、敷設艇や水雷艇からなる防備戦隊とか、
水偵だけじゃなく艦爆や艦攻も保有する各地の内戦航空隊とか…。
特に強力なのは呉防備戦隊で、海上護衛隊が編制されるまで船団護衛を担当していましたし、
編制後もすべての海防艦はこの部隊に組み込まれて慣熟訓練を行った後に実戦配備されてます。
(225:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

鎮守府の下にある防備戦隊、警備戦隊、防備隊、警備隊といった部隊は、どのような部隊だったのでしょうか?

防備戦隊は、各鎮守府が担当する重要海面(海峡、島嶼など)の防禦と機雷戦に当たる部隊で、海防艦の様な護衛艦艇や
敷設艦、敷設艇などの機雷戦艦艇を基幹にして、特設掃海艇や特設駆潜艇などの徴用艦船で編成されていました。
大抵は、重要海面に機雷を敷設することが主な任務です。
防備隊は、重要海面並びに重要島嶼に設置された防備戦隊の根拠地であり、当該地域の防禦任務に当たっていました。
また、その他に特修兵の教育任務も持っています。

警備戦隊は、各鎮守府が担当する重要海面の警備を担当する部隊で、或程度の戦力を有していました。

警備隊は、それらとは異なり、太平洋戦争末期の1944年、各鎮守府所管の各術科学校を戦力化して
本土決戦に備えるものとして、陸上警備隊が発足し、1945年に海兵団を警備隊と名称変更しています。

ちなみに、海兵団は鎮守府所属で、軍港の航空機に依らない空中防禦、陸上防火を掌り、また補欠員を
統括し、新兵の教育に当たる任務に就いていましたが、本土決戦に際しての戦力不足によって、警備隊に
格上げされたものです。
(188:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍の軍艦の船首に菊の御紋が付けられるようになったのはいつからですか?

また、あの菊の御紋には何種類かあったりするんですか?
菊の紋章についての規定は海軍省の艦船造修規則に定められてまして
材質はチーク材に金箔、但し河川用艦は金属製も可
サイズは
戦艦 1200mm
航空母艦、水上機母艦、潜水母艦 1200、1000、800mmのうち船体に合うもの
巡洋艦 800、600mm
施設艦、砲艦 600、450mm
とされています
但し、サイズはきっちりでなくても良く可也自由度が認められていたようです
また、金箔は大戦前あたりから不足したため銅系金属箔で代用されていましたが
大和型は最後まで純金箔が使用されています
(218:76)
よく見慣れた正面向きの御紋章は八八艦隊計画艦から採用されています。
衝角を撤去した筑波から日向までの明治末~大正中期のクリッパー艦首艦の御紋章は下向き。
それ以前の鋼鉄艦は、艦首の形にあわせてV字に折り曲げた御紋章をつけています。
 初期の吉野・高砂・高雄みたいに唐草文様の飾りレリーフをまとうものもあります。
浪速・高千穂に代表される古式艦や、満州・韓崎・姉川などロシア鹵獲艦、鳥羽など河用砲艦の場合は、
 2個1対の御紋章を左右両舷の先端に向かい合わせに取り付けています。
(218:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

開戦時、潜水戦隊の旗艦に軽巡の鬼怒や由良が就いていますが、なぜでしょう?

まさか潜水艦と行動を共にするでなし、母艦設備もなしの軽巡に何の用があったんですか?
開戦前に第6艦隊に組み込まれた精鋭潜水戦隊の旗艦は、ことごとく特設潜水母艦が握ってますが
鬼怒と由良がトップに納まった南遣艦隊の潜水戦隊は、すべて海大型であることに注目してください。

巡洋艦が率いる潜水戦隊の起源はかなり早く、
大正11年度編制で矢矧が韓崎とツートップを組んで2潜戦を統率してますし
翌年の12年度編制では、1潜戦も筑摩が満州と組んでトップとなっています。
補給任務を負うのが韓崎と満州なのはご理解できるでしょうが、
軽巡筑摩・矢矧の役目は…当然ながら作戦指揮艦になります。
筑摩・矢矧がトップを取った頃の主力潜水艦は、艦隊随伴を志向した海中型であり、攻撃的運用を期待されていました。
巡洋艦が指揮を担当する構図は潜水母艦が迅鯨・長鯨に新調され、潜水艦が海大型にバージョンアップしても変わりません。
筑摩型以後も、球磨型・長良型に指揮権は継承され、やがては満を持して大淀型に譲られるはずの地位でした。
巡洋艦指揮下の海大型は、甲乙丙型登場まで、一貫して攻撃艦隊(第2艦隊)に属しており
単独偵察行動を旨とする巡潜型は、第6艦隊新設まで、一貫して迎撃艦隊(第1艦隊)に閉じ込められてます。
それから察するに、巡洋艦にはかなり指揮能力を期待されていたと読み取れます。
香取型は史実の通り、南遣艦隊やその指揮下にある根拠地隊旗艦として使うのが無難な線でしょう。
最前線に突出した挙句にブルックリンとかち合った日にゃあ、目も当てられませんからね。
(197:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

日本海軍将校で、「演習でアメリカ側を担当した際には、日本側をさんざんに打ち負かした」という逸話が残っている人がいたと思うのですが、誰でしたっけ?

27期の中村良三さんです。
中村さんが鎮守府長官の時のエピソードなので、佐鎮長官だった昭和7年度か呉鎮長官だった8年度。
(ということは、どっちにしてもコテンパンやられたGF長官は小林躋造さんですね)
中村さんは同期の末次さんと並び立つ鉄砲屋のエキスパート、しかも漸減邀撃作戦に精通した戦術家でした。
で、小林さん率いるGFを完全に翻弄し、非難轟々の中、
「敵が貴様らの思い通りに動いてくれると思ったら大間違いだぞ!」と一喝して沈黙させちまいました。

ちなみに中村さん、上に厳しいだけでなく下にも厳しく、利根艦長となる黛さんは
「中村さんの言動は『貴様ら低能は黙って俺の命令に従ってろ』て感じがにじみ出てて嫌だった」と回顧してます。
末次さん同様、艦隊派の過激派でしたが、末次さんみたいに権力への執着はあまりなく、
艦政本部長として③計画着手中に、2・26事件後の陸軍粛清にあわせて海軍も現役大将の減員を要求されたとき
中村さんは予備役入りを受諾して下野しました。
ついでに、例の演習で惨敗した小林さんも、同時に予備役入りしてます。
(214:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)


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