軍事板初心者質問スレまとめ(FAQ)

欧州戦全般2

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第二次大戦直前にソ連が北欧のどっかの国と戦争した時、ソ連の近代的な部隊が騎兵隊を中心とした前近代的な部隊とやりあって負けたと言うのは、ホントの話ですか?

恐らく第二次大戦初頭にソ連がフィンランドに侵攻した
ソ連-フィンランド戦争(1939-40)が誤って伝わっているのではと思われます。

フィンランド軍の主力は歩兵、あるいはスキーを装備した歩兵といった部隊でしたが、
自動火器の普及率も高く、練度の高さ、地の利を活かしたゲリラ戦術などで応戦し、
ソ連側の慢心もあり侵攻したソ連軍に少なからぬ損害を与えました。

日本語ですと「雪中の奇跡」という本がこの戦争を扱っていますので、参考になると思います。
(52:957)
恐らく、ナチスドイツとソ連によるポーランド侵攻と、ソ連によるフィンランド侵攻”冬戦争”を混同していると思います。
ポーランド侵攻では戦車VS騎兵という構図は多々あったようです。
戦車に突撃をかける騎兵にドイツ兵が畏怖したとも伝えられていますが、戦果を伴うものではありませんでした。
冬戦争においてはスキーを装備したフィンランド兵が夜中にフィンランドの伝統的な刀を持って忍び寄り、
ソ連兵の首をかっさくような戦闘が行われていました。フィンランドは近代的な装備を持った軍隊ですが、
それら近代的装備と併せて伝統的なスキーや刀を使用した戦闘を行い、効果をあげたそうです。
(52:964)

第二次世界大戦後、フランス軍人が占領下のベルリンででかい顔をしていたというのは本当ですか?

フランスにはまるで一人で勝ったみたいな「シャルル・ド・ゴール戦勝記念日」があります。
(53:787)

クリスマスにはアントワープに一番乗りってセリフの元ネタはなんですか?

WW2 1944年12月16日より開始された独軍の作戦名称「ラインの守り」。
連合軍側の呼称「バルジ(突出部)の戦い」で、独軍兵士がユーモア混じりに語り合った言葉。

かつての人気ギャグ漫画「マカロニほうれん荘」のキャラクター、ひざかたとしぞう氏が
「はっはっはっ、クリスマスにはアントワープに一番乗りですよ」とセリフ中で述べたことから、
日本でも市民権を得た(?)。
(56:612)

第二次世界大戦当時の西ヨーロッパ諸国の対独協力について知りたいのです。

パンター戦車とか潜水艦とかフランスの工場でかなり生産されていたと読みました。
一例を挙げれば、イタリアは相当数の軍用車輌を独占領時に接収されています。
が、総数は帳簿外のものもありますので、そのうち何割を占めているかは分りません。
改造などで、帳簿に掲載されるものもありますが、部隊で捕獲して、そのまま自軍の装備に
組み込んでしまうということもありますから。

対独協力については、北イタリアのトリノを占領したドイツ軍は1943年9月~1945年5月までの間、同地にあるFiatで
生産設備をFullに活用すべく、あらゆる事を試みますが、180機の航空機が生産できたはずなのに、実際には最初
の数ヶ月は18機しか出来ず、1945年に至っては一切その機体は手に入らなくなります。
航空機用エンジンは、日産1,500台の能力がありながら、実際は300台(後には90台以下)しか生産されません。
トラックは、1945年1月~3月、日産平均10台でしたが、うち5台は、「何とも不思議な具合に」消えていたりします。

業を煮やしたドイツ軍は、その生産設備を全てドイツ領内に運ぼうとしますが、Fiatを始めとした北イタリアの工業は、
ゼネストで対抗したりしています。

フランスの場合、1940年11月の相殺協定の下で輸出入を均衡させ、通貨の移動を防ぐことになっていましたが、この
協定を楯に、ドイツは一方的入超でも代金を払いませんでした。
また、為替レートも1マルク=20フラン(戦前は1マルク=10フラン)というレートを設定し、この有利なレートの中で、
ドイツの各企業はフランス企業を次々買収します。
一例を挙げると、化学染料産業のキュールマン・トラストはI.G.ファルベンに支配されたりしています。
こういった買収には、フランスの銀行(クレディ・リヨネとか国立商工銀行とか)も深く関わり、フランスの各銀行は資本を
この時期に倍増させています。

自動車業界では、仏独経済関係代表団の後押しにより、ルノーの支配人ルイドゥーを中心として、自動車産業を対独協力
に向けさせ、ルノー、シトロエン、プジョーは各種軍用車輌の生産を、ミシュランもタイヤ生産で協力し、各工場もドイツからの
大量注文を受けています。
また、ボーキサイトは安値でドイツに売却されたり、ベルギーからの預かり資産である金を引き渡したりもしています。
1941年4月に工業生産大臣のピュシューはドイツ軍向け兵器類製造を約束し、仏独間での航空機製造計画が41年7月28日に
調印されています。
こうして、1942年には航空機の100%、自動車・建設・石灰・セメント・造船の75%、ゴム・塗料・化学・織物の60%は独向け製品に
なっていました。
但し、石炭、鉄鋼業界は元々が競争関係であった為に対独協力には積極的になっていません。
後にはフランスの戦力温存のために、国内全体で350万人が対独協力関係の工場に勤めていました。

敗戦後、こういった会社の内、ルノーは特に敵視され、国有化されました。
また、個人の追求も為され、ドボアチンはアルゼンチンに亡命したりしています。
オランダとかベルギーはどうなんですか。
武装SS師団があるぐらいだから、かなり協力していたと考えて良いですかね?
ベルギーに関しては、ワロン地域のレックス党とフランデレン地域のフランデレン
国民同盟によって国論がリードされます。
特にフランデレン地方は、ブルゴーニュ時代のネーデルラント17州復興を求めており、
民衆にそれなりに支持を得ていました。
しかし、ベルギーには大した産業が無かったので、これと言って産業的には協力していた
訳ではありません。
但し、前二党は積極的に対独協力を行ない、また、ベルギーの労働党党首でさえ、ドイツの
新秩序政策を支持して、ベルギー労働党を解散してベルギー社会党に衣替えしています。

戦後、ベルギーでは、対独協力者として242名を死刑執行に処していますし、幽閉された国王
の復位問題(さっさと降伏した上、幽閉中ヒトラーに面会に行ったなどが問題視された)が戦後
の大きな問題となっています。

オランダについても同様ですが、こちらはベルギーの様に独立した政府があったわけではなく、
占領下と言うことで否応なしに対独協力をさせられ、フォッカーは自国用の機材を完成させ、
ドイツに納品させられた上、Ar196、Bu181などを生産し、Ju88用スキーなどの部品も作られています。
また、アビオランダ社ではDo24Tが継続して生産されています。

戦時の占領下による強制的な対独協力と言うことで、こちらは処刑人数は少なく、42名です。

ちなみに、フランスは779名(他に裁判抜きの処刑数が約4万人)、イタリアは裁判、裁判抜きで実に10万人
以上が処刑されています。
(114:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ヴィシー・フランスやポルトガルって東部戦線に派兵しなかったんですか?

フランスではデアやドロンクルといった反共主義の対独協力者が独ソ戦開始後反共フランス義勇軍という部隊の結成を提唱した。
ただしヴィシー政府はこの動きに全く関与せず、ドイツ軍政部も反対していた。
しかし親衛隊が後押しをしたため、部隊は志願者を募って組織されることになった。
だが期待したほど人員が集まらない上志願者の質も低く、当初の条件であったフランスの軍服と兵器が支給されなかったため兵士の士気は低かった。
41年初冬に2個大隊が東部戦線に派遣されモスクワ前面で戦ったが大損害を蒙り、戦意に欠けるこの部隊をドイツ軍は戦闘能力なしとみなした。
42年2月この部隊は第638フランス歩兵連隊と改称され、もっぱら対パルチザン戦に投入された。
その後44年フランス人SS部隊である第7義勇突撃旅団と統合されて第33SS武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」となり後に師団となった。
(128:387)
補足ですが。

まず、Franceのファシストである、デア、ドランクル、ドリオらに依って、1941年9月4日に、「反ボルシェヴィ
ズム・フランス義勇軍団」が正式発足し、ドイツ軍の軍服を纏ったドリオ自らが、前線に赴き、赤軍と戦闘
しています。
隊員は11,000人の応募に対し、6,500名が採用されましたが、ドイツ軍やHitler自体はこれをお荷物としか
思っておらず、ドイツ軍の軍服着用を禁じたり、徴募人数の制限(15,000名まで)。と言う制限を行っています。

隊員には、独身者で1,800フラン、妻帯者で2,400フランの月給が支払われ、これを基本給として、戦闘手当一日
20フラン、児童手当が350フラン支給されました。
三人の子持ち兵士なら、3,480フランとなり、これは、ドイツに行った労務者よりも高給でした。

この軍団は東部戦線へ5,800名送り込んでいますが、彼等はドイツ国防軍の一個歩兵連隊として扱われたに過ぎ
ません。
しかも、この軍団の指導層は過去にVichy政府に楯突いた人々だったので、尚更国の援助は与えられませんでした。

逆にVichy政権の要人であるラヴァル、ブノワ-メシャンらの肝いりで作ったのが、1942年7月に創設されたのが「フランス
三色旗軍団」です。
しかし、正規軍の復活に繋がるとして、ドイツはこれも潰します。

他にアフリカ戦線で、1942年11月21日に「アフリカ軍団」なる総勢400人程度の軍事組織を作ってみたりしてますが、結局
フランスの準軍事組織でモノになったのが、1943年1月に、フランス戦士団保安隊を核に誕生した、「民兵団」でラヴァルが
ダルナンを頭目に作った組織で、兵士の月給は3~4,000フランです。
これは、最盛期には10,000人の規模となり、南フランスの被占領地域で、43年秋から親衛隊の指導の下、Resistance弾圧
に投入されています。
(128:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ヴィシー政権下のフランス軍は何をしてたんでしょう?

ヴィシー政権下でも規模は縮小されたもののフランス軍は存続し、非占領地域や植民地の警備などを行っていた。
特にフランス海軍はほとんど無傷の状態で残っていた。
1940年7月にはアルジェリアにいたフランス艦隊を英海軍が攻撃するメル・エル・ケビル事件が起き、1000人以上の死者が出た。
このことによりフランス軍の反英感情は強まり、まだ無名だったド・ゴールの自由フランス軍への志願者が激減している。
その後も失敗に終わった英・自由フランス連合軍によるダカール上陸作戦や英軍のフランス領シリアへの侵攻など、
いくつか英仏間で戦闘が起きている。
また、これと並行してド・ゴールの働きかけにより、海外領土に駐留していたいくつかのヴィシー政府軍は
自由フランス側についている。
1942年、米英ス軍によるアルジェリアとモロッコへの上陸(トーチ作戦)が開始され、短期間の戦闘の後
北アフリカのフランス軍は停戦に応じた。
この後、ドイツはフランス本土の陸軍を解体させ、さらにトゥーロンのフランス艦隊主力が自沈したこと
によりヴィシー政府軍は事実上消滅した。
(186:868)

ウスタシュの詳細をどなたかご教示ください。親ドイツ組織ぐらいしかしりません。

クロアチア人アンテ・パヴァリッチが組織した民兵組織。
ウスタシャが支持を拡大するのは1939年。
この年、クロアチア農民党はユーゴ政府との交渉の結果、クロアチア自治州の創設に成功しました。
この自治州は今のクロアチアよりも更に少し大きく、当時のユーゴ人口の1/3を占めていたのですが、
当然、全クロアチア人を含んだものではありませんでした。
クロアチア人の間からは、自治州の領域は狭いという主張がなされ、これが農民党への幻滅・ウスタシャへの支持につながったようです。

無抵抗のセルビア人の首を斧でチョン切ったりやりたい放題。
ウスタシ(クロアチア語で 反逆者 という意味)

パヴェリッチはドイツによるバルカン制圧後作られた傀儡国家「クロアチア独立国」の指導者となった。
そして国内のセルビア人やユダヤ人に対する弾圧を始め、大量虐殺を行った。
この迫害にはカトリックの聖職者も多く参加しており、映像の世紀にそれに関するエピソードが出てくる。
部下から贈られた籠一杯の牡蠣の剥き身、実はセルビア人の目玉なんていうゲロゲロなエピソードがある。
戦後チトーにクロアチアを追われたパヴェリッチはオーストリアとイタリア(法王庁ルート)を経由してアルゼンチンに逃れた。
アルゼンチンではウスタシャを再興し、その傍らペロンの保安顧問を務めた。
しかし1957年にチトーの送り込んだ暗殺チームにより重傷を負い、スペインに移住した。
そしてその怪我が元で1959年に死亡している。
(130:364-380)

WW2中の欧州でドイツ軍は「ヴェアマハト」ソ連軍は「レッドアーミー」と呼ばれてたみたいですが、イタリア軍に固有の名称はあったんでしょうか?

イタリア軍の場合は、頭に"Regia"が付きます。

陸軍は確かRegio Esercito
空軍の場合はRegia Aeronautica、
海軍の場合は、Regia Marinaだったか、と。

いずれも王立~軍の意です。
(132:36)

大戦終了後、ヨーロッパで埋められたままの地雷は誰が処分したのでしょうか?

Denmarkと北海沿岸諸国の場合、大戦中に埋設された150~200万発の対人、対戦車地雷の
除去を、英国軍の指令によって、各国の黙認の下、武装解除されたドイツ軍によって除去作業
が行われました。

Denmarkでは、1945年5月10日から10月1日に掛けて、Denmark軍将校と憲兵の監視下で、
地雷に関する教育も行われず、性能の悪い地雷探知機しか与えられない状況で、徒歩で地雷
原に送り出され、誤って地雷に触れた者は、爆死か重傷を負っています。
1945年11月1日の報告書では、死者250名、重傷250名に上っています。

Franceでは、全土で1,000万発の地雷除去を、ドイツ兵捕虜を使役して行いました。
従事した捕虜は4万人で、これに鉄棒と短剣を与えただけで、除去をやらせました。
死亡事故は当初2,000件、死亡率40%でしたが、暫くすると4%に低下しています。
(254:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

イタリア軍ですが、スペイン内戦では、かなりの死者を出しているようです。

後のWW2では捕虜が多いのに死者は少ない気がするのですが、この違いはどういった原因からなのでしょうか?
Guadalajaraでの敗戦が響いています。

イタリア陸軍の中の人には、人民戦線軍は烏合の衆であって、正規軍を派遣すれば、鎧袖一触で
片付くと言う思いがあり、敵を侮っており、一旦その弱い敵に崩されると総崩れとなるケースが多かっ
たみたいです。

それと、イタリアは4個師団を派遣していますが、内実、正規の師団はリットリオ師団のみで、残りの
黒シャツ、黒い矢、黒い焔の各師団は、民間の武装集団であるFascist戦闘団またはFascist市民軍
から参加したほぼ素人の青年たちと陸軍兵士を組み合わせて作ったものでしたから、装備は勝って
いても、戦闘能力に疑問符が付く部隊です。

後、第二次大戦とスペイン戦争では、国としての参加の構えが違います。
未だ、スペイン戦争では、Duceの威光が残っており、国民としても他国へのFascism拡大という明確な
目的を有していましたが、そのスペイン戦争で、14兆リラもの軍費を使い果たしてしまい、第二次大戦は
イタリア国民にとって、もう勘弁と言う状況でしたから、士気も低かった訳で。
(248:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次大戦の前なぜユダヤ人嫌われてたんですか?

金融牛耳ってたから?
イエスをぬっ殺した事をキリスト教徒達はおよそ2000年に渡ってキッチリと覚えていた。
だからユダヤの連中を徹底的にハブにするだけでは足りず、本当に嫌っていた。

キリスト教徒は表向き金貸しをすることを禁止されていたため、
ユダヤ教徒が金融業をやるようになり、それで妬まれてさらに嫌われました。

同じように酒屋や宿屋を営んでいるユダヤ人が多かったですが、どちらも風俗の乱れの元凶と見なされていたので、
さらに嫌われました。

ちなみにユダヤ人がキリスト教徒と同じような職業につこうとしても基本的に無理です。

キリスト教徒に改宗したユダヤ人は、「マラーノ」などの改宗ユダヤ人をあらわす単語で呼ばれ、やっぱり迫害されました。
キリスト教徒に受け入れてもらうために過剰に熱心なキリスト教徒になり、過酷なユダヤ人・改宗ユダヤ人への迫害を行った
改宗ユダヤ人も多いです。

余談ですがイスラム教徒はキリスト教徒に比べ遥かにユダヤ人に寛容でした。
時々「イスラエルに味方する十字軍」なんていってるイスラム過激派がいますが、十字軍士がユダヤ人の腹を裂いて
大喜びしてたことを考えると…
(162:495-520)

独のポーランド侵攻に対し、援助条約を結んでいた英仏が対独宣戦布告した訳ですが、ポーランド東部に侵攻をかけてきたソ連に対し、宣戦布告しなかったのは何故でしょうか

そもそも、英国、フランスとも、対独宣戦したのは、米国国務省外交文書集によると、
 「もし、自国領土の防衛にポーランドが専念している最中に、英仏がポーランドを見捨てることがあるのなら、
  中東欧でドイツの侵略に抗する国はなくなる(当時はルーマニア、ユーゴ、ギリシャ、それにハンガリーは
  連合国とドイツとの間で辛うじてバランスを取っていた)。
  そして、ドイツはこれらの国々を組織した上で、英仏を攻撃する絶好のチャンスを与えられることになる」
と言う判断から行われたものです。
しかしながら、両国とも具体的行動、すなわち軍備強化は上手くいかず、例えば、フランス派遣英国軍は1939年
11月時点で、フランスに上陸していたのは8万人、フランスが持ちかけた英国空軍と共同でのドイツ本土爆撃も、
空軍力劣勢とドイツの報復爆撃の懸念から具体的に至っていません。

しかも、Chamberlainは、戦局の予想が付かず、内部崩壊、経済封鎖のジリ貧化に望みを繋いだりしています。
国民はまだ長期戦に対する覚悟は定まっていない、と。
そして、フランスはと言うと、これがより酷かった訳で。

そう言うことで、戦争準備がとても整わず、ソ連の軍事行動に対する掣肘などとてもじゃないけど出来かねる
状況でした。
ソ連の側も、疑心暗鬼で、英仏がドイツの矛先をソ連に向ける機会を窺いながら、馴れ合いでやっている戦争
ではないか、と思っていたようです。

しかし、冬戦争時点では反ソ、反共感情が国民の間に湧き上がり、英仏はフィンランド援助軍を派遣しようとして
います。
Churchillの旦那的には、ドイツの鋭鋒をスカンジナビアに向けることが主目的と言っていますが、フランスは、
バクー油田空爆、カフカズ地方の回教徒を扇動して、反ソ暴動を起こさせ、ソヴィエト政権を転覆させる計画まで
持っていました。
幸い、と言うか、なんというか、冬戦争が早く片づいたので、対ソ宣戦は見送られた訳ですが。
(164:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ドイツ軍占領下のフランスではレジスタンス活動をやってたわけですが、彼らはドイツ軍だけでなく体制側のフランス人も攻撃していたのでしょうか?

例えば、レジスタンスに死刑を宣告した判事とか、対独協力に積極的だったユダヤ人が
暗殺されたりしました。
あと、解放前には、ダルラン将軍とかアンリオ情報大臣が暗殺されています。

解放前後の混乱では、正規の裁判を経ずに約10,000人が略式処刑されています。
これらは、当時の言葉で「暴力的決着」と称されました。

この中には、ToulouseのGestapo司令官愛人とかが含まれます。
その後、自由フランス軍将校とか共産党系の自称将校によって、軍法会議が設置され
ました。
この軍法会議は1944年9月23日まで機能しますが、これで結構な数の人が銃殺されて
います。

ちなみに、以後は対独協力特別裁判所で審理された訳ですが、この裁判所で審理された
事件は12万4,000件でした。
このうち、死刑を宣告された人は4%の6,763名、実際に刑が執行されたのは、767名でした。

これら裁判の対象者は、ファシスト知識人、宣伝扇動家で、専門家、実業家、官僚の殆どは
無傷で生き延び、外交官は3分の2がそのまま現職に就いています。
また知事は半数が入れ替わっただけでした。
これは、フランス再建のために、彼らが必要とされたからで、その代わりにscapegoatにされた
のが知識人たちで、共産党系の作家が牛耳る全国作家委員会が、戦後の一時期まで、対独
占領下で本を出版した作家たちの本を悉く出版禁止にしたりしています。
(167:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ドイツのV-1、V-2について連合軍は事前にその性能をどこまで把握していたのでしょうか?

ドイツのミサイル開発に関する情報が連合軍に入ってくるようになったのは
1942年の半ばに入ってからです。
"オスロ・レポート"と呼ばれる諜報機関からの情報でドイツがロケット開発に着手している
兆候は掴んでいました。
確実な情報を得だしたのは1943年に入ってからで、3月にはデンマークやポーランドの
レジスタンスから詳細な情報が入り始めました。
そこで連合軍では、4月に当時35歳で軍需政務次官だったのダンカン・サンディース下院議員を
暗号名"ボディ・ライン"と呼ばれたミサイル調査活動の責任者に任命しました。
サンディースの依頼によりRAFはペーネミュンデ周辺の偵察活動を続け、6月末には
ミサイル発射の確実な兆候を掴んだため、8月にはペーネミュンデに対する大爆撃を敢行し、
ペーネミュンデはかなりの被害を被っています。

性能に関する情報はレジスタンスからの発射試験のモニター情報などで明らかになったものの、
ミサイルの誘導方法に関する情報がつかめず、当初は無線誘導方式であると推定していました。

1944年5月にはワルシャワ近郊でレジスタンスが、6月にはスウェーデンで同国軍が
それぞれA-4(V-2)の残骸を回収しています。
これらの残骸は7月には連合軍の入手するところとなり、それでようやく
A-4の誘導が慣性誘導システムによって行われていることを把握しました。
(216:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

イタリアにはユダヤ人収容所はあったのでしょうか?

16世紀以来、ユダヤ人のゲットーがトリエステにありました。

1943年9月8日以降、ドイツ軍の占領下(アドリア海沿岸管区)に置かれ、この地のユダヤ人は絶滅の対象となりました。
トリエステのサン・サッパにある、1913年建設の精米工場には、当時、ドイツ軍が政治犯収容所、ユダヤ人を別の収容所に移送する中継
収容所として使用されてきましたが、戦争末期には、掃討した住民、労働者、ユダヤ人のうち、“健康”で「運搬できる者」は、
別の収容所に移送し、拷問によって虫の息となったPartisanなどの「運搬できない者」を「処理」する火葬場付き収容所として
使用されています。

ちなみに、その収容所で生じた灰は、アドリア海のムッジャと言う場所の入り江に投げ捨てられていたそうです。
そう言う意味では、イタリアの地にも収容所はあったと言えるでしょうね。
(211:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

「ライフ イズ ビューティフル」のパンフから転載

Production Note

1938年当時、イタリアにいたユダヤ人の数は約4万5千人。そのうちの約8千人がナチス
の強制収容所に送られ、生還者は数百人にすぎなかった。こうした事実を、ロベルト・ベ
ニーニは数多くの歴史書にあたって調べ上げ、さらにいくつかの生存者グループにも意
見を聞いた。企画の当初から、紅ーには、この映画を「歴史的な記録ではなく、寓話の文
体描く」ことを意図していたが、いっぽうではミラノの現代ユダヤ記録センターと密接な連
絡をとりあい、歴史家や生存者の証言を作品に取り入れていった。

越後道起

ナチスによるユダヤ人殲滅がもっとも酸鼻を極めたのはポーランドで、ポーランド人自身
がそれに手を貸したし、ナチスに抵抗するポーランド人すらユダヤ迫害を繰り返す始末だ
った。しかしこの映画の舞台であるイタリア及び同国ファシスト占領地域ではユダヤ人は
比較的人道的に扱われた。クロアチアなどの占領地での強制収容所の建設も、リッペン
トロップ元帥がムッソリーニに強要して、仕方なく実行された。フランスやユーゴのナチス
占領地域から逃れてきたユダヤ人を匿うイタリア人も多かった。とはいえ、この映画にも
描かれるように、ドーラの婚約者に祝福を与える黒シャツ隊(ムッソリーニのファシスト隊)
やグイドの叔父のようなイタリア人も多々いたのである。

史実を参考にしたフィクションといったところかな。
(211:649)

WW2ブルガリア海軍について教えて下さい。

1919年7月27日に締結されたヌイイー条約の結果、枢軸国から得た有力艦はスクラップ
または連合国に引き渡され、4隻の魚雷艇を主力とする警察部隊として海軍は存続しました。
1938年の再軍備宣言に至るまで、忍んだ訳です。
1937年にドイツと軍事援助条約を結び、3000万マルクの援助を貰い、ドイツの軍事物資の
購入に充てました。
第二次大戦では、1941年3月に枢軸に加盟し、ドイツの軍事援助を更に貰い、なけなしの
商船はドイツ軍の輸送に活動しました。
1944年9月8日にソ連軍が国境線を越えたとき、休戦に同意し、矛を逆しまにしてドイツ軍に
襲いかかりました。
海軍も例外ではなく、ソ連軍の指揮下で、Danube河戦隊と黒海艦隊に属して、活動しています。

このうち、前述のDrski級魚雷艇のうち、Smelyは、1943年5月19日に撃沈されました。
このほかの戦闘艦艇は1921年にFranceを通じて米国から購入した、SC級駆潜艇2隻があるだけです。

1930年代に新たに加わったのは、大戦直前の1939年に、Bulgaria海軍にリュールセン社製の
S2級魚雷艇が4隻引き渡されています。
これは、ドイツのSボートと同型で、5隻が建造され、うちS2~S5の4隻が、F1~F4と言う艇名で
使用されました。
このほかに、同型艇をBulgaria国内で建造する予定でしたが、大戦勃発による部品入手難で
果たせませんでした。
これも不活発で、1944年9月にソ連軍に引き渡され、ソ連軍はTKA958~961を改名して使っていました。
戦争終盤の1945年4月2日にソ連から返還されています。

もう一つ、その建造できなかった魚雷艇の代わりに、30t級のBritish Power Boat製魚雷艇に似た
デザインの魚雷艇をドイツから1942年に引き渡されています。
これは、オランダで建造中のものを捕獲し、1941年に完成させたもので、ドイツではS201~S202と
して在籍していたのを、1隻追加してBulgariaに供与したもので、同型艇4隻がRomaniaに渡りました。
この艇の搭載エンジンには、英国デザインらしく、英国製のR.R.Marlinが3基使われています。
このエンジンは、大戦初期に欧州で撃ち落されたRAFの機体から取り外したものがそのまま、
載せられたそうです。
艇名は1号~3号で、これもソ連に供出されてTKA962~964となり、1945年4月2日に返還されました。

これらの艇はいずれも、共産化後の1947年に、除籍されています。

このほかの小艦艇も同じ運命を辿っています。
但し、曳船のVoievodaは、1945年に当時は友邦だったYugoslaviaに供与されています。
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

アルバニアやモンテネグロは連合国に宣戦布告した事があるのですか?

AlbaniaとMontenegroは、基本的にItalyと同君連合を構成しています。
従って、Italyが宣戦布告をすると自動的に戦闘に巻き込まれる訳です。
厳密に言えば、それらの国の指導者は、Italy国王たるVittorio EmanueleIIIと
言えます(奥方は、Njegos家(Montenegro国王家)のHeleneですので、
Montenegroについては彼に正当な継承事由がある訳です)。

例えば、ItalyがGreeceを攻撃した出撃基地はAlbaniaだったりします。
まぁ、満州を想定してみて下さい。
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

バルト三国の海軍はどんな状況だったのでしょう?

空軍については、最近出たソ連軍用機(光人社NF文庫)にちょこっと書かれています。

エストニアは、旧ロシア帝国の駆逐艦を引き継いで使ってましたが、これを 1933年にPeruに
売却しています。
艦名はLennuk、Wambolaでいずれも1917年竣工のものでした。
他に旧ロシア砲艦のLembit(先代:1925年退役)、Laine(1941.7.24撃沈)、Wanemine(1941年自沈)。
国産砲艦としては、1939年に建造されたPikkeriがあり、これは大統領ヨットを兼ねていました。
この艦は、1940年にソ連に引き渡された後、通報艦となり、雑用艦になった後、1955年にモスクワ大学の
調査船に改造され、黒海で1960年代末に至るまで使われました。

また、旧ロシア艦では、機雷敷設艦Ristna(大戦を生き抜き、1960年退役)、Suurop(1941年8月撃沈)がありました。

このほか、自国海域で沈没していたドイツの魚雷艇A32を引揚げ、Sulevとして再就役させています。
この艦は、ソ連編入後、NKVDの哨戒艇となり、輸送艇、練習艇となって1955年にScrapとなりました。

駆逐艦は売却しましたが、その代金でヴィッカースに潜水艦を発注しています。
Kalevは1941年11月に触雷、沈没しましたが、もう一隻のLembitはソ連時代を生き抜き、1956年から
海軍工廠の試験用潜水艦となり、1979年にTallinnで記念艦になっています。

小型艦艇としては、200t以下の砲艇が6隻、内海掃海艇3隻、哨戒艇8隻、砕氷船3隻、輸送艦2隻と
タグボート4隻があります。

ラトヴィアは元ドイツの掃海艇M68を手に入れ、Virsaitisと改名して哨戒艇として使用しています。
また、有力艦としてフランス製潜水艦が二隻1926年に建造されました。
艦名はRonis、Spidolaと言い、ソ連に引き渡された後は、Liepajaで、ドイツ軍の手に落ちないよう、
1941年6月24日に自沈しました。

後の有力艦は、1926年竣工のフランス製掃海艇、Imanta、Viestursくらいです。
Viestursは大戦を生き延び、1950年代末に除籍されますが、Imantaは1941年7月1日に触雷、沈没
しています。
このほか、沿岸哨戒艇Ergis、小型哨戒艇3隻、砕氷船3隻、測量艇1隻と、練習艦が1隻有りました。

リトアニアは海軍に金がかかっておらず、旧ドイツ掃海艇M59を1931年に購入し、哨戒艇Presidentas Smetonaとして
改装、使用しました。
こいつも、ソ連引渡後 NKVDの哨戒艇に転用され、1944年に撃沈されています。

このほかの艦艇は、小型哨戒艇6隻、砕氷タグ1隻だけです。
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

マジャール軍はロシア方面で問題を起こしていたようですが。

ブリヤンスクの森の南方地域ですね。
ここは1941年11月~43年5月まで、マジャール陸軍の三個師団が占領下に置いており、若干のドイツ軍部隊が
協力していました。
しかし、不十分な武装と不足した人員では、占領地を維持することが出来ず、Partisanの活動を抑え切れない
と判断したマジャール軍は大量報復措置と「死のゾーン」設置を実施し、1942年夏までに約3万人のPartisanと、
その疑いのある者を殺害しています。

ちなみに、Partisanの損害とマジャール軍損害の比率は、10:1から15:1だったようです。
これは戦後に多数のマジャール軍兵士の訴追、死刑に繋がってきますが、その責任者、ボガニ・カロリ将軍は、
その責任を免れ、ソ連もその引渡要求を断念しています。

また、1943年にはUkraineのドロシチで、ユダヤ人労役従事者用の病院や、第105、107病院に放火し、入院患者
の焼死なんて事もしているようです。

一方、逆にマジャール国内に戦闘が移ると、逆にルーマニアや、ユーゴ、ソ連軍の暴行の嵐が吹き荒れた訳ですが。
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

枢軸国の敗戦が濃厚になってルーマニアは連合国に寝返りましたが、ハンガリーが寝返りに失敗した理由は何故でしょうか?

ルーマニアではクーデターの起きた1944年8月には赤軍のヤッシー=キシニョフ攻勢で枢軸側の戦線が崩壊し、
南ウクライナ軍集団は残存兵力が後退するのが精一杯で阻止どころじゃなかった。
ハンガリーの場合は同年10月には南方軍集団(旧南ウクライナ軍集団)はデブレツェンの戦いで
赤軍のハンガリーへの侵攻阻止に成功し、戦線はなんとか安定していた。
また、ホルティ摂政を排除しても矢十字党のサーラシ・フェレンツという新たな傀儡候補がいた。

あとルーマニアの場合は国家元首のミハイ国王が実質的な指導者だったアントネスクを解任したので
ルーマニア軍がすみやかにソ連側に寝返ったというのもあるな。
ハンガリーの場合は最高権力者だったホルティの和平の動きが早々にバレてたから、ドイツは迅速に
動いてハンガリーが混乱する前に首をすげ替えることができた。
(723:438-439)

大戦前の東欧諸国の軍事力を教えて下さい。

1937年版の児童百科事典というのを手に入れますた。

この中から、東欧関係の記述引用。

1.ポーランド
 (1)兵役制度
  ポーランドは東を不倶戴天の仇敵関係で世界赤化を国是とするソ連に、西にはVersailles条約に不服、
  国境改訂を強調し、再軍備宣言を行ったドイツに挟まれているため、国を保つには一切を犠牲にして国防
  に努力せねばならず、3,000万の人口に対し、27万の常備軍を有し、その陸軍費は国家予算の半ば近くを
  占める。
  兵役制度は徴兵制度を採用し、壮丁年齢は20歳、予備役は40歳、後備役は50歳とし、兵役期間は一般兵
  2年、騎兵、騎砲兵2年1ヶ月。
 (2)兵力と編制
  上述の通り、総兵力27万人で、このほか、準軍隊の(装備は寧ろ国軍に勝る)国境警備隊が約3万、警察隊
  は32,000、税関監視隊が約5,600ある。
  陸軍の編制は、軍団管区司令部が10、歩兵師団30個、3個旅団で編制された騎兵師団1個、独立騎兵旅団が
  12個、野砲兵連隊が30個、特殊砲兵連隊が20個、飛行旅団3個、飛行連隊6個、戦車連隊1個。
 (3)化学戦
  化学戦については、小規模ながら完備し、研究、教育、特に国民に対する瓦斯防禦教育は注目に値する。
  軍部の施設としては、陸軍省兵器局内化学戦課の下に軍用化学研究所があり、その下に化学戦学校と、瓦斯
  教導学校がある。
  民間施設としては、航空化学戦防護協会があり、会員数40万、国民瓦斯防護教育車輌(鉄道車輌)が約10両と、
  同自動車約数十両で、毎年瓦斯防護週間を設け、民衆教育の普及徹底に努めている。

2. オーストリア
 平和条約によって、その軍備を将校以下3万人に規制されていたが、その後密かに禁を破り、これを38,000に増加した。
 1935年、ドイツの再軍備宣言に刺激されて、従来の6個混成旅団を、7個師団、機械化師団1個と航空機300機に編制を変え、
 なおかつ、総兵力も7万人にすべく拡大中。
3. ハンガリー
 この国も、平和条約によって軍備の制限を受けているが、7個混成旅団、2個騎兵旅団を有し、総兵力は約35,000である。
4. ブルガリア
 この国も同様に平和条約による軍備制限国で、全兵力上限が2万である。
5. その他の諸国
 ルーマニア:総兵力17万人
 ユーゴスラヴィア:総兵力12万人
 ギリシャ:総兵力6.5万人
 トルコ:総兵力14万人
 チェコスロヴァキア:総兵力17万人
 リトアニア:総兵力1,9000人
 ラトヴィア:総兵力25,000人
 エストニア:総兵力15,000人
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

枢軸側で戦った東欧諸国の装備について教えて下さい。

ブルガリア、ルーマニア、マジャール、スロヴァキア、クロアチア、アルバニアの各国。
上まぁ、このうち、アルバニアは、イタリア王国に併合されたのに等しいので、書くことはないわけですが…。

でもって、スロヴァキア、クロアチアは、分離前の国、即ち前者はチェコ、後者はユーゴスラヴィアの軍備
の一部を引き継いでいます。

スロヴァキアの場合は、解体時にスロヴァキア国内にあった、第3機械化師団の装備をそのまま接収し、
LT Vz.35軽戦車を50両と、OA vz.30装甲車を20両程度を中核に発足しています。
LT Vz.38軽戦車は、チェコ軍向けのもの10両を順次引き渡され、更に27両をCKD社に新規発注し、ラトビア
向けでその国の消滅に伴い、引き渡されなかったLT Vz.40軽戦車を21両買い上げました。
1943年までにこれらの装備は順次、ドイツから供給された中古のLT Vz.38を37両と、OA vz.30の後継として
II号戦車(A~Cの初期型の中古)、主力戦車として、III号戦車、自走砲としてマーダーIIIHが発注されますが、
1944年に起きたスロヴァキアの叛乱で軍隊は解体されました。
ちなみに、対戦車砲としては、シュコダの37mm砲が装備されています。

マジャールの場合は、最初はオーストリアの影響、次いでイタリアの影響が強く、小銃などの主要装備は
オーストリアから導入しています(周辺諸国と折り合いが悪くてチェコなどの装備が買えなかった)。
周辺諸国と折り合いが悪いので、その装備は出来るだけ国産化する方針が立てられ、マンフレート・ヴァイス
と言う日本の三菱重工みたいな一種の国策会社で生産が行われてます。
戦車については、まず、1935年にイタリアのL3軽戦車を導入して35Mとして国産化、これは150両が導入され
ました。
主力戦車となったのは、スウェーデンが開発したランズベルク社のL-60軽戦車を、38Mとして輸入品のA20が
80両、国産品のB20が110両引き渡されました。
これは、独ソ戦の結果80両に対して火力増強が行われています。
また、対空戦車型が開発されました。

その後、新型主力戦車としてチェコのシュコダが開発したT-21中戦車を元に、40M/41Mが開発され、40mm
ボフォース対戦車砲を備えた型が280両、75mm榴弾砲搭載の火力支援型が140両、このほか、長砲身75mm
砲を備えた型がありましたが試作に終わりました。
41Mについては、この車台を元に突撃砲型が開発され、70両程度が生産されました。

装甲車としては、英国のアルヴィス装甲車の発展型を導入し(設計者がマジャール人だったので)、100両程度
を生産しています。

このほか、損耗補充用にドイツから38(t)戦車、4号戦車などが導入されています。
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

フランスがドイツに一ヶ月で屈服(しかもドイツは英蘭との同時作戦)した理由は何だったのでしょうか。

政治的な側面から見ると、我が国でもあった「バスに乗り遅れるな」という勢力と、
「戦いなんて御免だね。またうちの前が戦場になる」という勢力が大勢を占めて
いたから。

国外で戦う分にはどうぞご自由に何だが、国内に戦火が及ぶと、さっさと逃げ出
した人が多かった。

厭戦の世論と極右勢力の存在、しかも、国有化を進めて私有企業を否定しようと
した人民戦線を選出した事による経済混乱で、兵器にしてもまともに作れなかっ
たので、物量作戦でも失敗した。
戦闘機があっても、機関銃がないとか、エンジンがあってもプロペラがないとか…。

で、止めが軍隊の指導者層の硬直化。

この辺の話は、カタロニア自治政府の高官だった人が書いた著書にも詳しく書かれ
ている。
フランコスペインの仇敵なのに、FranceからGermanyに行って、米国に亡命した人
なので、読み物としても面白いよ。
(イタリア軍VSフランス軍:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)

ポーランドは軍用機を輸出していたそうですが。

P.1みたいな高翼単葉戦闘機が当時もまだそんなに使われていたとは驚いたけど。
ポーランドは、東欧の航空大国ですし、航空機を作っている国の中でも先
進国と言えましょう。
全世界に売られたわけではありませんが、P.Z.Lは東欧諸国、南欧諸国御
用達の航空機輸出メーカーです。
東欧に自国の機体を売っているからこそ、ポーランドが崩壊して、各国に
機体が脱出しても、その機体がすぐに戦力化できた訳です。

まぁ、航空大国を自称していたイタリアでさえ複葉戦闘機が主力だったことを
考えると、妥当な発展かも知れませんが、国産初期の頃にフランスの影響が
強かったことが一連の高翼単葉戦闘機の発展を促したのではないでしょうか。
(第二次世界大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレ:眠い人 ◆ikaJHtf2)


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