各国の捕虜




日本軍は民間人の殺害、強姦、略奪、捕虜虐待などを行ったと言われてますが本当ですか?


兵が個人単位でそういう行為に走るのは世界の例にもれず日本も同様だし、
捕虜虐待は風潮として帝国陸海軍の常識でもあった。
軍として作戦上の話であっても
徴用という名で占領地から物資を略奪した例は山ほどあって、
そもそもの戦略目標が南方の資源だったから、
ある意味では戦争そのものが略奪を目的としていたとさえ表現できる。
民間人の殺害も憲兵の拷問とか有名だし、
のみならず自国の兵の虐殺としか表現できない作戦
(特攻ではない。敵ではなく味方を殺す為の作戦)をも頻発していた。
(477:794)

日本軍は「捕虜になるのは恥ずかしい事である。軍人たるもの命ある限り戦って散れ」と
将兵に教えていた(かの東条英機が訓令した「戦陣訓」)ので、捕虜に偏見の目を向けて
いた。
欧米(ソビエト除く)では「捕虜はやれるだけの事をやった結果なのであれば恥ずかしい
ことではない。むしろ、逃げ出さず捕まるまで戦ったのは褒められるべき」という意識
だったので、日本人に「捕虜になって恥ずかしいと思わないのかお前達は?」という態度で
接しられたことは「虐待」だった。
「バターン死の行進」は決して意図的に多数の死者を出したわけではなく、むしろ日本軍的には
「常識の行為」だったのだが(当時の日本には兵が徒歩以外で移動するのはまずないし、行軍中は
大して休憩もせず水もなるべく飲ませないのが普通)、国際常識的に見ると「捕虜の健康を気遣う」
という配慮が全くなく、「意図的な虐殺だ」と言われても仕方ない面があった。

日本軍が占領地で支払いに使った軍票は何も考えずに乱発したためにインフレ化して
事実上の紙屑状態だったし、そもそも「これ売ってくれ。支払いは軍票で」と言われて
「軍票じゃ売れません」と返事することは許してないのだから、略奪しているのと変わら
ない。

インパール作戦等、「こんなの実行する前から失敗することは判り切ってるだろう!」
という作戦を数多く実行し、実際大失敗して多大な犠牲を出したことは、
「敵ではなく味方を殺すための作戦だった」
と言われても仕方がないだろう。
事実、「実は太平洋戦争の兵士の戦死者は戦傷死よりも補給の途絶による飢餓で死んだ方が
多い」ので、連合軍よりは日本軍の指導部の方が、日本人を殺すことに貢献していたとも言える。
(477:844)

ジェシカ・リンチはどうして拉致されただけなのに勲章もらえんの?


授与条件を満たしたから

 拉致された(捕虜になった) → Prisoner of War
 戦闘にて負傷した → Purple Heart
 勇敢な行いがあった → Bronze Star

政治宣伝的な側面がないとは言い切れないが、不自然な叙勲ではない
(503:775)

グアンタナモで拷問してたのが問題になったけど、今の米軍は公式には拷問禁止なの?

『24』のジャックバウアーのまねする兵士がいるとも聞いたけど?
はるか昔にハーグ条約によって捕虜の虐待は禁じられておりますので。
(506:939)

肉体的な暴力は公には禁止だが、こんな拷問はやってたりする。

音楽をエンドレスで聞かせる「拷問」、米軍収容所で実践
http://wiredvision.jp/news/200809/2008092221.html
(506:951)


ソ連や中国が大戦中にまともに捕虜を扱った事例はあるのでしょうか?

ソ連や中国(国府、中共ともに)については悪い話しか知りません。
過酷な労働を科すのはましな方で、降伏の軍使を撃ち殺すわ、死体にしたあとで(あるいはしながら)
遊び半分にぐちゃぐちゃにするわ。果たして、この二カ国がまともに捕虜を扱った事例はあるのでしょうか?
中国はかなり優遇したみたいだよ。一種の引き抜き工作。
優遇した上で日本側に返した例もある。返された後、自決に追い込まれたりしてるみたいだけど。
ソ連もノモンハン事件のときの捕虜は優遇してたみたい。
これも日本側に返還された後、自決に追い込まれた。

http://kiuchi.jpn.org/nobindex.htm
シベリア→中央アジアに抑留された元日本兵の画集。
これを見る限りでは過酷ではあったが、意図的に虐待したというわけではない。
同じ捕虜のドイツ人やハンガリー人だけでなく、赤軍の兵士や民間人ともそれなりにうまくやっている。

国民党軍と違って航空兵力の無い共産軍は、降伏した日本の関東軍第2航空軍第101教育飛行団第4練成飛行隊の隊員を厚遇、
機材を集めて修理し、教官の教えを真面目に学び、人民解放軍航空隊の基礎を作った。
日本人たちは無事に帰国したが、中共帰りなことで公安に目をつけられ、就職が困難だったそうな。
後に、彼らは国交回復後に元教え子たちと再開し、歓迎されている。
(525:401-426)

太平洋戦争中、日本軍に黒人捕虜はいたのか?

おそらく黒人捕虜は一人もいません。
大東亜戦争中日本陸海軍が捕獲した俘虜(所定の手続きの後に収容所などに収容された捕虜をこう呼びます)や衛生部員は
総数16万7930名、内3万8135名が死亡しました。
ちなみに原住民捕虜を加えると、約30万人になります。

で、本題ですが、白人捕虜と原住民捕虜に関する規定はあります。
つまり、日本軍は「人種的な区別をつけて」扱っています。
が、黒人に関する規定もなければ記録もないのです。
唯一考えられるのは記録に残される前、つまり収容される以前に「戦場で処理」された可能性ですが、多分ないでしょう。
私が持っているのは日本側から見た記録の類で、連合軍側からの戦死傷記録に黒人兵のそれがあるはずですから
照合すればはっきりしますが、米公文書館まで足を運ぶ方はいらっしゃらないでしょうね・・・

ま、「いない可能性が極めて高い」までにしときましょうか。
少なくとも日本側に黒人捕虜を収容した記録はありません。
「俘虜情報局・俘虜取扱の記録」は一応市販されてます(不二出版)ので、古書店探せば見つかるかもしれません。
(472:ゆうか ◆9a1boPv5wk)

米英豪などの捕虜になった日本兵には、どんな食事が供されたんですか?

補給さえしっかりしていれば、普通に米兵と同じ物を食べさせた。捕獲した携行食糧を「アメ公はええもん喰っとるのう」
とか言ってたレベルの食糧事情なんで、SPAM缶とかでも大喜び。
捕虜になった場合の対応を教育されていなかった上、飢餓に苦しんでいたところに十分に食事を与えられたのと、
虐待されるものだとばかり思ってた反動で、積極的に米軍に協力する日本人捕虜が続出したほど。

捕虜になった人が書いた本ではなく「日本兵捕虜は何をしゃべったか」という本
捕虜の証言と米軍資料を研究したのをまとめた
文春新書、著者山本 武利、ISBN4-16-660214-4 680円
(571:366-386)

第2次世界大戦においてドイツ軍が捕虜等で構成した師団を運用していましたが、日本は捕虜を使って何らかの軍事作戦に従事させていたことはあるでしょうか?

連合国側で同じようなケースはあったのでしょうか?
えーと、戦場に架ける橋とか聞いたことないかな
九大事件も軍事っちゃ軍事か

有名な泰緬鉄道の敷設がそれに当たる。
連合軍の場合、ソ連が、ドイツの捕虜を集めて、自由ドイツ委員会などという
プロパガンダ組織を作ってドイツに赤色政府を立てようとした。

日本はシンガポールで捕虜となった英領インド軍将兵から志願者を募ってインド国民軍(Indian National Army)を編成し、インパール作戦などに投入している。
ソ連はスターリングラードで捕虜となった将校に自由ドイツ委員会などの傀儡組織を作らせ、前線での宣伝や投降勧告などを行わせてる。
(579:153-155)

戦陣訓に「生きて虜囚の辱めを受けず」てありますが、実際捕虜になって罰せられた例はあるの?

軍法には処罰規定はないと思う。
しかし、ノモンハン事件で関東軍将校らが蒙・ソ軍に捕らわれ、停戦後の捕虜交換で帰還したケースがある。

捕らわれていた連隊長や下級士官は原隊復帰は成らず、職を解かれ、
全員が関東軍司令部付となり、参謀の服部・辻らに事実上の自決を強要されている。
半藤一利著「ノモンハンの夏」より

ただし、彼らの多くは戦闘中に負傷または人事不省の状態で戦線に残置されていることから、
抗命や逃亡兵とは異なる点は注意が必要。

満蒙の国境を巡る小競り合いの小規模戦闘から、数個師団を投入する会戦にまで発展した結果は周知の通り。
もちろん事件の責任は、省部の方針に従わず、独断で無謀な作戦を遂行した関東軍司令部にあるのは言うまでもない。
作戦に当たった第23師団長・小松原中将以下、各連隊長ともに予備役に編入されているが、服部・辻の参謀は一切の責任を問われていない。
しかも自ら立案した作戦の失敗に反省も教訓も残さずに、参謀本部作戦課長・班長へ栄転している。
マキャベリズムの権化ともいうべき服部・辻の独善的な態度は開戦劈頭のシンガポール攻略戦で益々増長し、
ガダルカナルで多大な犠牲を払うことになる。

東絛内閣が誕生した直後に戦陣訓が出されたのも、ノモンハンでの虜囚に端を発しているのではないかと推察される。
(軍法スレ:114)

広島や長崎の原爆投下で被爆した連合国軍の捕虜の兵士は、どの位いたんでしょうか?

又、生き残った捕虜達は米国から補償を受けれたんでしょうか?
実際には、日本側の報告では「原爆で死んだこと」にされた捕虜もおり、その実数自体は
きちんと掴めていません。
その捕虜たちは米国から補償は受けていなかったと記憶しています。
(324:眠い人@出張先 ◆gQikaJHtf2)

アメリカ兵による日本兵捕虜の集団殺害や虐待の記録は存在するんでしょうか?

ジョン・ダワーの『容赦なき戦争』にはその手の話が結構載っている。
(618:888)

日本軍の捕虜となった米兵はどういう扱いをうけたのでしょうか?

太平洋戦争勃発当初からアメリカを始めとする連合軍捕虜に対する処置は過酷を
極めました。これは日清・日露、或いは第1次世界大戦時に敵捕虜の処遇にかかる
費用が大変大きかったのが一つ、さらに伝統的に捕虜になる事をきらう日本軍
にあって「味方が捕虜になるのを戒めるのに敵捕虜を客人の様にもてなすのは
如何なものか」という論調が当時の主流だったのが一つです。戦陣訓も敵捕虜
への虐待を後押しした側面があるでしょう(ただ、開戦当初は古き伝統にのっ
とって米捕虜を厚遇した例もありました。東京に到着した米捕虜にお茶が振る
舞われた、などといったのんびりした事もあったようです。もっともこの時炊
き出しに参加した女性の一人が漏らした『おかわいそうに』という言葉が報道
され連合軍捕虜厚遇への非難に使われたのは皮肉です)

連合軍捕虜の収容所は日本内地をはじめ、フィリピンやインドシナ、ビルマと
いった占領地にも作られました。過酷な労働(ジュネーブ条約では将校の捕虜は
労働する義務を負いませんが、これを批准していない日本は当然この条項を適用
しませんでした)やカロリーの低い食事のため多くの連合軍捕虜が収容所で
命を落としました。東京裁判でのアメリカの主張によると日本軍に捕虜になった
米兵の死亡率は約27%で、ドイツに捕虜になったそれの4%を大きく上回ります。

なお、ご存知の通り日本占領地で撃墜された爆撃機搭乗員は多くの場合戦犯として
処刑されました。これは1942年ドーリットル隊の日本本土爆撃の結果
昭和17年10月19日付けで大本営陸軍部が出した
「大日本帝国領土を空襲し我が管内に入れる敵航空機搭乗員にして暴虐非道の行為
ありたる者は軍律会議に付し死または重罰に処す」との布告にもとづくものです。
(日本軍の捕虜となった米兵の運命:20)
黛治夫が「利根」の艦長時代、捕虜に取ったイギリス人を65人も航行中に舷門から
突き落として処分したけど、その件は上司の左近允尚正司令が責任を取らされて
処刑されたんで、本人はたったの懲役7年をくらっただけ。この件で黛の首が繋がったのは
他のケースと比較すると奇跡的。というか、命令で、もう息が無くなった敵兵を銃剣で突き刺した
兵隊が絞首刑にされてるのと比べれば明らかな不公平。
この話は、生き残った海軍関係者の間ではタブーになったらしい。
出所後の黛の偉そうな物言いはご承知の通り。
(日本軍の捕虜となった米兵の運命:12)
日本軍の捕虜だけはいやだ
確かに日華事変以降の日本の捕虜政策はひどいものなのですが、
第1次世界大戦までの日本は世界でも稀に見る捕虜を大切に扱う国でした。
日露戦争の時にロシア兵が捕虜収容所のある松山の名前を連呼しながら
投降した話や、捕虜になったポーランド系ロシア人が日本の厚遇に
感謝し、その後の日ポ友好に貢献したなどといったエピソードがあります。

でも、そうやって積み上げたものも太平洋戦争のムチャクチャで
すっかりご破算になったんですが…。
(日本軍の捕虜となった米兵の運命:23)

日露戦争で捕虜になった日本兵が敵に協力することが多々あったらしいしとか?

日露戦争で問題になったのは、それこそ日本人捕虜が敵の尋問に何でも答えて
しまうこと。本来これは軍の兵隊教育の問題で、「捕虜になっても自軍の情報を喋るな」
と徹底しておけば良かっただけのこと。そこまで頭が回らなかったので、こういう事態に
立ち至ってしまった。
それと、当時の日本の庶民は近代法の精神なんて全然理解してないから、「黙秘権」なんて
概念が念頭に無かった。だから敵の将校に尋問されるということが、
彼らの多くにとっては、お上のお取調べと区別がつかなかったらしい。
その結果、拷問もせんのに、聞かれたことは何でも素直にベラベラ喋る兵隊になってしまったらしい。
捕虜が敵側の戦力として戦線に復帰することは、朝鮮戦争やベトナム戦争の米軍にもあった。
(捕虜第一号:48)
朝鮮戦争では、北朝鮮軍や中共軍の捕虜も素直に秘密を喋ったらしい。
次の攻勢は何月何日とか。初期の頃には素直すぎて米軍上層部に信用さ
れないこともあったとか。彼らも日本軍のように捕虜になった際の教育を
されてなかったのであろう。
(捕虜第一号:55)

「一空事件」についてはよく存じていません。ぜひ詳しく聞かせてください

開戦直後のフィリピン爆撃時に撃墜され捕虜となった第一航空隊
所属の原田一飛曹以下8名がのちに自爆した事件。

原田機は1941年12月12日ルソン島アラヤットに不時着して
乗員8名はフィリピン人ゲリラに捕虜になる。その後陸軍が救出し
翌年1月7日に一空に復帰するものの査問に掛けられる。
その結果「死に場所を与える」なるうやむやな裁定が下され原田達は
ラバウルへと転属になる。1942年3月31日、「ポートモレスビ
ーへの写真撮影」を命ぜられた原田機は96式中攻1機で出動、
モレスビー飛行場上空で自爆した。
(捕虜第一号:16)

中国軍の捕虜になってしまった日本兵の扱いはどんなだったんでしょう

日清戦争時は非常にひどかったようです。清軍には今日的な捕虜を保護する精神は
まったくなく、捕虜になった日本兵はそのほとんどが虐殺されました。戦後送還された
日本兵捕虜は公式にはわずか1名です。

上海事変以降の国民党軍はジュネーブ条約を多少尊重した形跡があります(徹底していた
とは言いがたいですが)。捕虜になった日本兵が非常に厚遇を受けた例もありますし
その場で虐殺されたり、中共の思想教育キャンプにおける捕虜の思想改造のように極めて
悪質な処遇を受けた例もあります。
(捕虜第一号:112)

シベリアに抑留されたのはドイツ・日本兵捕虜だけ?

ソ連の捕虜になった枢軸国兵士(イタリア、ハンガリー、ルーマニア等)はシベリアを含む国内各地の収容所に抑留されてる。
http://kiuchi.jpn.org/nobindex.htm
ここの画集にあるようにドイツ兵やハンガリー兵などと同じ収容所で肩を並べて作業するようなこともあったようだ。

ちなみに日本人がよくシベリアとしてイメージするウラジオストクあたりはロシアの区分では「極東」で、シベリアはもっと西。
(633:65)

日本爆撃の際、中島飛行機の工場などの情報はどうして得ていたのですか?

日本兵捕虜を尋問して情報を得ていたのです

第2次世界大戦中、アメリカはアルホルニア州サンフランシスコ市近郊に、日本兵捕虜秘密尋問所を設けていました。
1944年9月、サイパン陥落の2ヵ月後に、合同攻撃目標グループが設置されました。
アメリカ陸軍情報参謀部、陸軍航空隊、海軍、イギリス空軍、戦略情報局(OSS、CIAの前身)、外国経済局、国防調査会議などからなります。
ここに情報を供給した主な機関が、日本兵捕虜秘密尋問所なのです。
まず、捕虜に身上書を書かせて、本人の情報を得ます。
役立ちそうだと見ると、日本兵捕虜秘密尋問所へ送り込んで、詳しく尋問しました。

サイパンで1944年7月に捕虜になった日本兵がいます。
1944年4月21日まで、三菱重工業名古屋発動機製作所にて働いていました。
11月4日から21日にかけて尋問を受けました。
11月23日爆撃を受けました。
元工員の証言は詳細でした。
同じようなことが、日本各地に対して行われました。

合同攻撃目標グループは、単独の組織ではありませんでした。
いろんな部署から情報を持ち寄りました。
オーストラリア駐留の陸軍航空隊の情報部隊では、零戦の製造番号の秘密を解き明かしました。
最初の1桁が、嘘の数字だったのです。
製造番号の秘密が分かると、生産量も推測できました。

そんな中でも、日本兵捕虜秘密尋問所からの情報は秀逸でした。
工場や皇居や横須賀の猿島要塞の見取り図が詳しく描かれていました。
日本人関係者に確認すると、間違いの無い、正確なものだそうです。

日本海軍の情報機関の大佐が捕虜となり、在中国の、日本陸海軍の情報機関や、
ドイツやイタリアの情報機関のことまでしゃべってしまったそうです。

中国の漢口在勤の、沖野海軍大佐が、乗っていた飛行機の不時着で、連合軍の捕虜になりました。
情報部門の高官で、いろんなことを知っていました。
そのほとんどをしゃべってしまったらしてのです。

『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』
中田整一出版社:講談社価格:¥1890 (本体¥1800+税)
巧妙な米国の情報戦略
(656:霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg)

その爆撃前に写真偵察機で、写真撮影をして、爆撃目標、
爆撃コースを検討して決定しています。

霞ヶ浦の住人のいってる、戦前のお雇い外人の話や捕虜の情報は、
あたりをつけるだけの情報としか活用されておらず、事前に偵察型のB-29などで、
写真撮影を行ないそれを持って爆撃の情報としています。
(656:321)

旧日本軍で捕虜が死亡した場合、その遺体・遺品はどのような措置が執られたのですか。

また、葬儀・慰霊祭に相当するものは行なわれたのですか。
捕虜が死亡した場合は、火葬され、捕虜収容所(もしくは分所)近くの寺院に遺骨を納める
場合が多かった様です。

遺品に関しては、殆ど残ってません。
と言うか、衣服にしても、元々着ていたものと、作業服、手拭い、軍手、地下足袋が支給され
ますが、戦争が進むと衣料品の欠乏も申告で、結局その支給すらありませんので、私物など
は殆ど持ち込めていません。

礼拝については、収容所によって違うと言う回答しかありませんね。
一応、捕虜の自由で、捕虜で牧師役になる人もいますけれども。
従って、略儀的な葬儀はあったと言えるでしょう。
(294:眠い人@規制中)

「生きて捕虜の辱めを受けず」と最初に言い出したのは誰なんですか?

「此一戦」を書いた水野某という海軍の将校だとか言う話を前に読んだ覚えがあります。
NHKブックスにその辺を書いた本があった筈なのですが。
(290:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日露戦争当時,日本に「捕虜になることは恥だ」という意識はあったのか?

恥だったと見ることはありませんでした。

ウィキペディアの捕虜の日露戦争から引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E8%99%9C
「日本側で捕虜となった人間の扱いも後世と異なっていた。
例えば、旅順要塞降伏後、日本人捕虜101人(陸軍80名、海軍17名、民間人4名)が解放されたが、
彼らは「旅順口生還者」と呼ばれ、冷遇されることは無かった。
海軍捕虜の一人であった万田松五郎上等機関兵曹(第三次閉塞作戦で「小樽丸」に乗り込み、捕虜となる)は、
解放後に上京し、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将に面会して作戦状況の報告を行い、記念に金時計を授与されている。
また、陸軍においても開戦直後の明治37年2月19日、
義州領事館に所在して情報収集活動をしていた韓国駐在陸軍武官・東郷辰二郎歩兵少佐がロシア騎兵部隊の包囲を受けて部下の憲兵5名
(中山重雄憲兵軍曹、坪倉悌吉憲兵上等兵、古賀貞次郎憲兵上等兵、牛場春造憲兵上等兵、山下栄太郎憲兵上等兵)とともに降伏、
捕虜になり(日露戦争における捕虜第1号)、ペテルブルクの収容所で捕虜生活を送った後、
戦後の明治39年2月14日に帰国したが、任務遂行中に捕虜になった不注意で軽謹慎30日の処分を受けたのみであり、
東郷少佐は後に少将まで昇進している。」
(683:霞ヶ浦住人 ◆1qAMMeUK0I)

上のレスは偏向してます。
眠い人 ◆gQikaJHtf2の以前のレスでは、戦後の還送の際にインドやシンガポールなどの寄港地で行方をくらまし、
日本に帰らなかった兵士が少なからずいた例を挙げて、捕虜は恥という考えの方が世論的には勝っていたようだと
書いています。
ただし山県有朋の申告や寺内正毅の訓示は下士卒への影響は少なかったらしく、捕虜に対する忌避感は軍上層部では
表向き見られないとも書いているので、捕虜は恥という空気が支配的になるのはやはり戦陣訓以降でしょう。
(名無し三等兵)

山県有朋はなぜ「捕虜になるな」という布告を出したのですか?

中国兵に、残虐行為をされるので、それを避けるというのが、真意です。

「日清戦争であまりに支那が残虐で野蛮だったため、第一軍司令官の山県有朋は「捕虜になるな」という布告を出した。
日本人が捕虜になると、あらゆる残虐な方法で苦しめられたうえに殺されたからである。
支那人は日本人の手や足を切り、首を切り、睾丸を抜いたり、男根を切り取り、胸部を割って石を詰めるなどした。
このため山県は「敵の生捕りする所となるべからず、むしろ潔く一死を遂げ、以って日本男子の名誉を全うすべし」と言わざるを得なかった。
「生きて虜囚の辱めを受けず」とは単に死ぬまで戦えという意味だけではないのである。」

下記を参照ください。
ttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1891-00/1894_nisshin_senso.html
(686:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I)

日本本土に捕らわれていた連合軍捕虜はどこで何をしていたのでしょうか?

正式に降伏調印がおわり、連合軍の係官に
引き継がれるまで、収容所暮らしです.
(267:144)
蛇足ですが。
1945年8月15日の日本降伏に伴い、米軍は、日本政府に対して各地の捕虜収容所の屋根に「PW」と表記することを要求します。
また、捕虜の引揚げは各地に分屯している捕虜たちを数カ所に集めることとなりますが、その間、30日と見積もられた捕虜還送
日程から、捕虜に対する救恤品が不足すると言うことで、日本側から提出を受けた捕虜収容所のリストを元に、169カ所の捕虜
収容所に、B-29または艦載機を用いて、8月27日から9月20日に掛けて69,000名に対して30日分の補給物資を用意し、補給品は
3日分、7日分、10日分単位のいずれかを投下して、彼等の糊口を凌ぐことになっていました。

その後、捕虜達は長崎、静岡県新居町、横浜、東京都大森、北海道千歳など、主な収容所に交通機関を使って移動し、9月1日
の降伏文書調印後は、連合国軍総司令官の命令の下、直ちに係官を集合地に派遣して、捕虜を受取、9月中に沖縄、マニラ経由
で本国に帰還を果たしました。
(267:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

イタリア軍に捕まったイギリス兵の扱いはどうだったのでしょうか??

イタリア軍に捕まった英国兵は、概ね捕虜条約に則った待遇をされています。
それが行き過ぎて、以下の話があったりするのですが。

英国空軍のボーフォート搭乗員が撃墜され捕虜になったのですが、彼は士官だったので、色々と
便宜を、特に食べ物などに対して図ってくれたそうです。
しかし本国への護送中に、その搭乗機、Z.506をハイジャックし、監視中の枢軸国軍用機を騙し、
味方のスピットファイアの攻撃から命からがら逃れ、マルタ島に帰還して、搭乗員が逆に英国の
捕虜としたと言うエピソードがあります。
(135:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次世界大戦時に、中国側の捕虜になった日本兵の扱いはどの様な物だったんでしょうか?

捕まった場合、虫の居所が悪い指揮官に当たれば、命はありません。

ただ、国民党、共産党共に、技術者、医者と言った専門家は、結構厚遇されています。
徴兵された一般人の場合も大体同様(但し、待遇は専門家よりは落ちるので、自活の
為に苦力的な仕事に就かねばならない場合もある)。

一番悲惨を極めたのは、士官以上の職業軍人でしょうか。
彼等の場合は、民衆の憤懣が集中する場合もあり、中には命を落とすこともありました。

特に共産党軍の捕虜の場合は、定期的な教育、啓蒙活動が繰り広げられ、延安にいた野坂参三が
校長を勤めた「労農学校」に送り込まれて思想改造を受け、後に反戦同盟延安支部を結成、
これは更に、日本人民解放連盟に発展し、彼等は、在華日本軍兵士に対する宣撫活動を行うことに
なります。
(260:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

バターン死の行進の報復として、アメリカ軍によって日本兵の捕虜が虐待されたことがあったそうですが。

日本兵の死の行進と言えば、以下のケースがありました。

「ナウル守備兵の死の行進」
これは豪州軍によって行なわれましたが、関係者は処罰されていません。

このほか、漂流民への機銃掃射については豪州軍が行なっていますし、米軍でも行なわれています。

ついでに、ソ連に抑留された日本兵に対する処遇は結構有名ですが、英国も結構
嫌らしく、南方で抑留された日本兵は、「捕虜」ではなく、「降伏軍人」という扱いになっています。
「捕虜」とするとジュネーブ捕虜条約の規定に従わなければなりません。
また、自軍による監視など経済的負担も可成りのものになります。

このため、東南アジア連合軍(SEAC)のScott参謀長は、彼らをP.O.W.ではなく、降伏日本軍人
(Japanese Surrendered Personal(JSP))と規定し、国際法で定める捕虜待遇から外します。
また、45年12月31日には「日本軍人は極限まで使役すべし」という命令が出されます。

これにより、ポツダム宣言第九条(捕虜の武装解除後の即時帰還)を無視し、彼らのうち10万人を
「作業隊」として、1日12時間労働、素手による地面掘削、休憩・飲料水接種・用便の不許可、談話・
喫煙の厳禁、作業現場までの片道15kmの往復駆け足、広場での長時間正座、駆け足移動に遅れれば
殴打、疲労で倒れると強制的に立たされ、それでも倒れると放置されるなど、凡そ捕虜条約の規定では
厳禁となっているものを全て無視することが出来た訳です。

また、作業中、休業中の暴行も茶飯事で、言葉が通じないとてまごついていると、命令不服従
として、炎天下に広場を1時間走らせたり、食事の量を減らすなどの罰則がありました。

作業内容は、無意味なモノのほかに、汚水処理場、糞尿処理場での糞尿処理、ゴミ集荷、炭塵の
立ちこめる船倉内での石炭積載作業、100kg入り米袋、岩塩袋の運搬などがあり、休日は1946年
10月までは1日も与えられていません。
また、明らかに国際法に違反する作業、軍港においてのインドネシア軍との戦闘用に用いる弾薬の
積み卸し作業、Guerrilla鎮圧も行なわれています。

ついでに、「捕虜」であれば、使役中の労賃は払われますが、「降伏軍人」では支払わなくても良いと。
民間人が使役した場合も、日本側には支払わず、英軍側に支払う形が取られました。
労賃は、1947年5月まで支払われず、それも現地支給ではなく、6月以降の賃金を日本政府が支払うと
言う形になりました。
その労賃たるや、残業、手当は一切無し、熟練職が1時間1.5ペンス、非熟練職が0.75ペンスで、これは
英本国の賃金水準の僅か32分の1に過ぎません。

給養についても同等。
SEACの支給は1600~1700calの支給で、特に認めた場合は50%増しでしたが、Kレーションは3300calなので、
英軍の半分の食料。
例えば、マラヤでは46年に米が一日分茶碗2杯強、昼食はビスケット6枚と小判型の魚の缶詰を5人で1缶。
これはインド兵の64%の量でしか有りません。
衣服、寝具、日用品の支給は皆無、住居も掘立小屋。

当然、伝染病が蔓延しますが、英軍は毎日の作業隊内の患者最高率を提示し、それ以上は認めませんでした。
最高率は各地区で異なりますが、1~3%程度。
こうして、1947年10月10日までに、全体で8,971名が死亡、負傷者は延べ20,084名に上りました。

あ、片手落ちにならない為に補足しておきますと、日本軍上層部も「捕虜」の扱いではなく、相当の名誉と待遇を
要求していた点もあり、「捕虜」に課せられる強制労働を嫌って、「降伏軍人」という扱いに同意した、と言うお馬鹿
で脳天気な点も見逃せませんがね。
(150:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

連合軍の捕虜となったドイツ兵100万人が虐待などにより死亡したという説ですが、証拠はあるんですか?

米兵によるダッハウ収容所員の処刑(1945.4.29:329~500名殺害)
  → 米陸軍省法務局によって記録、写真ならびに映画撮影が行なわれている。
(参考文献)
  Howard A. Buechner "The Hour of the Avenger(1986)
  Nerin E. Gun "The Day of the Americans"(1966)

スウェーデンによるドイツ兵士のソ連への引渡(1945.12:2,522名)
 → スウェーデン軍将兵はこの移送命令を拒否、国家警察が輸送に当たる。
(参考文献)
 パウル・カレル「捕虜」

チェコに於けるドイツ兵の虐殺
 → ミレシャウに於けるチェコ人の残虐行為が記録に残る。
    1990年代、殺された将兵の集団墓穴が発見され、個人の写真が報道され、明らかとなる。

米仏による強制収容所の転用(1945.:200万人)。
 → 平均30ヶ月の抑留。釈放証明書の存在など。
    フランス軍占領地域では、連合軍将兵の暗殺に備え、人質の提供が求められていた。
(参考文献)
  ジェームス・バクー「消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所、死のキャンプへの道」(1993)
  Charles Lincoln "Auf Befehl der Militarregierung"(1965)など

デンマークのドイツ兵捕虜による地雷除去作業(1945.5~10:死者250名、重傷250名)
 → 英軍将校による命令により、リンデマン将軍の個人的責任で、地雷除去作業を命令。
(参考文献)
 Helge Hagemann "Under Tvang"(1998)

などなど
(118:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
終戦前までは捕虜の扱いは普通だったが、ドイツ降伏後は一転。
西部戦線で捕虜になった約900万人の捕虜のうち、1年もしないうちに約100万人が連合軍
(主にアメリカ軍)の過酷な取り扱いにより餓死や伝染病で記録上から消えた
連合軍から、「捕虜」では無く「犯罪者」として扱われた武装SS所属の兵士だけではなく普通の兵士も
終戦後、 野ざらしで雨を遮るテントもない『捕虜収容所』に送り込まれた。食料はほとんど支給されない、
赤痢や1日に数百人が死んでトラックで運び出される。時たま連合軍兵士がジープで乗り込んで、
機関銃を連射しながら、適当に捕虜達を銃殺していった。

しかもこの残虐な行為は事実上連合軍最高司令官のアイゼンハワー直々の肝いり。

詳しくはこちらを。
『消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所、死のキャンプへの道』
(ジェームス・バクー 著 申橋昭 訳  光人社)

発生した大量の死者は、書類上の操作で最初から存在していないように扱われ、この本の著者は
各地の公刊資料などを綿密に調べ「意味不明の曖昧な記述」から、実態を調査していくしか無かったほど。
(155:815)
消えた大半は脱走したらしいが。
米軍側も戦争は終わってるし、めんどくさいので見て見ぬ振り。
(155:819)
さっさと釈放したヒトラーユーゲントや国民突撃隊の老兵などをOther Lossesに繰り込んだのを著者が死亡としているなんて話もある。
ただ終戦後数ヶ月の間独軍捕虜の待遇がよくなかったのは事実。
意図的な虐待ももちろんあったが、連合軍は占領下のドイツ国民にも食糧を配給しなければならなかったので捕虜にまで充分手が回らなかったことも一因。
(155:821)

1945年の8月15日から、米軍が進駐してくる間の日本国内の捕虜収容所は、どの様な状況だったんでしょうか?

戦時捕虜や抑留民間人は、占領軍の手によって引き上げが出来るまでの間、
食料、衣類、医薬品を補給しつつ、現場に留まることになっていました。

また、日本政府に対し、各地の捕虜収容所の屋根に「PW」と大きくペンキで表記する
様命じ、8月27日~9月20日の間、艦載機、B-29による補給物資が投下しています。
そして、捕虜の集結地点を指示し、9月1日の降伏文書締結後に、直ちに係官を派遣して
捕虜を受領し、彼等は、長崎、静岡県新居町、横浜、東京の大森、北海道の千歳に集合し、
9月中に沖縄、マニラ経由で殆どが帰還しています。
(242:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

シベリアに抑留された日本兵って、具体的にどういう事業に投入されたのですか?

石炭・石油・非鉄金属の採掘、木材伐採、兵舎・工場の建設、河川・港湾の整備、シベリア鉄道本線・支線の建設や補修、
機関車や貨車の修理、石油精製工場や重機械工場での操業、農場での労働など多岐にわたっています。

例えば、バム鉄道の建設なんかもそうですね。

また、南方に於ける英国軍抑留者の処遇も似たようなものでした。

ちなみに、ドイツ人捕虜の場合、1941~49年まで、大規模工業施設や炭坑の建設および再建、鉄道・道路の建設、橋梁の
建設、暖房・ガス管の敷設、都市住宅および労働者共同住宅の建設などに従事しています。

これらドイツ人捕虜が建設したのは、ウクライナのコルホーズ建設、ドンバス炭坑の再建、レニングラードの石炭供給、世界
最大の水力発電所、モスクワの地下鉄、運河、モスクワのディナモ・スタジアム、東シベリアのゴルドベルク工場、原爆研究所
まで、多岐にわたっており、捕虜を監督するGUPVI(ソ連捕虜抑留者問題管理総局)の収入は111億ルーブル、経費支出は133
億ルーブルで、赤字ではありましたが、その後のソ連経済に対する価値は何倍にもなります。
(164:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日中戦争における両軍捕虜の処遇について教えて下さい。

日支事変(日中戦争)における両軍捕虜の処遇は非常に複雑でしてなかなか簡単にはまとめられません。
ですが開戦の年・1937年に限って言えば比較的状況はシンプルであります

  • 捕虜になった中国軍(国民党軍・八路軍)兵
日本陸軍は日支事変を戦争とは見なしておらず、従って捕虜の処遇については「(捕らえられた)支那軍人は法律上
これを俘虜と解していない」との見解を、海軍に対して回答しています(1937年8月5日陸軍省法務局)。このためかどうか
解りかねる部分もあるのですが、陸軍に捕虜となった中国兵は「その場で武装解除・解放」「銃剣・軍刀などの試し切り
で殺された」「荷物運搬等の使役」などなど処遇一つ取ってもまちまちでした。ただし海軍は事変勃発時に戦時国際法
に乗っ取った捕虜処遇を行うとした「第三艦隊俘虜取扱規程」を制定し46名と少数ながら捕虜の管理も行っています。
彼等がどのような処遇を受けたかはぼくの手持ちの資料では追跡できませんでした。陸軍捕虜からは汪政権軍への
編入も募られていたようですので、一部は汪政権軍へ参加した可能性もありますが、おそらくは終戦時まで解放され
なかったのではないでしょうか?

  • 捕虜になった日本兵
当時の国民党軍は敵軍への投降を禁じており督戦隊も投入されていました。そのこともあって、戦争初期に捕虜になった
日本兵は大多数が殺害されています。1937年の段階では海軍航空兵を中心とした数十名程度しか捕虜を獲得できなか
ったことからも、捕らえられた日本兵の殺害は裏付けられています。なお、国民党軍は一応「俘虜処理規則」において
捕らえた日本兵は「我国軍民と同等に看待し且つ其人格名誉を尊重すべし」「俘虜に対し陵虐、恐嚇、詐欺手段を持って
所属国の各項軍情の報告を誘迫するを得ず」と定めています(37年10月15日)。一方八路軍は「三大規律」「八項注意」
というスローガンを持って組織を維持していましたが、うち八項注意には捕虜虐待を禁ずる一項がありまして、事変初期
から捕虜獲得に積極的だったようです(主にプロパガンダ目的だったと思われます)。が、1937年に置いては、獲得した
捕虜の数はけっして多くはありませんでした。

さて、1937年に捕虜となった日本兵の数は、国民党軍約20から50人。八路軍は不明ですが1938年5月の時点で124人
ですからこれよりは当然少なくなるでしょう。国民党軍が捕虜にした20~50名は西安の捕虜収容所へ収容され1940年
宝鶏の収容所へ移送、そこで終戦を迎えています。良く解らないのは八路軍に捕虜になった人たちです。八路軍は
「捕虜が希望するなら原隊への復帰を認める」との政策をとっていまして、実際に日本軍へ捕虜を送り返しています。
日本側がこれを確認したのは1939年後半で、初期に捕虜になった人たちの中にもこうして送還された人たちが
少なからずいたものと思われます
(168:460-461)

日本はどれぐらいの連合国兵士を捕虜にしたの?

第2次世界大戦で捕虜となった米国軍人は、13万201名、うち、日本軍の捕虜となったのは、
33,587名で、このうち、37.3%が死亡。
ちなみに、ドイツ軍の捕虜となった米兵の死亡率は1.1%。

オーストラリアの場合、22,376名が日本軍の捕虜となり、そのうち35.9%が死亡した。
この数は、戦闘で死亡した兵士の数より多かったりする。

んなわけで、極東軍事裁判のBC級戦犯になった者の内、起訴件数の16%、起訴された
人員の17%、有罪者の27%、死刑の11%が捕虜収容所関係者で、この比率は憲兵の比率
に次いで多い。
(しょうもない知識を披露するスレ 第9幕:眠い人 ◆gQikaJHtf2)


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