日本史


近代

バロン西の父親はロシアを探検した冒険家だったという話を聞きましたが,どんな人物だったのでしょうか?

西竹一の父親は、西徳二郎と言います。
薩摩藩士の出で、外交官です。
1870年にロシアに留学したロシア通で、日清戦争時のロシア公使でした。
1880年に帰国時、中央アジアフェルガ-ナ、アライ山脈、新彊、蒙古等を経て帰国しています。
この時の旅は郵便馬車に乗るなど大変な苦労をしたようです。
その後、第二次松方内閣、第三次伊藤内閣で外務大臣に就任し、ロシアと
朝鮮の権益に関する協定を結び、1897年に特命全権大使として清に駐在しました。

この時に発生した義和団の乱に遭遇し、その沈着冷静な行動は世界の称賛を浴びています。
帰国後、枢密院顧問に就任し、1912年に死去しました。
(39:眠い人 ◆ikaJHtf2)

徳川幕府海軍は英仏連合艦隊とマジで戦争したら勝てましたか?

まず間違いなく負けていたでしょう
緒戦で勝っても相手はいくらでも持ってこれます
(58:670)

脇差より小型の刺刀も携帯する武士と言うのも存在したのだろうか

小柄ってのは、まあ、武器として投げることもあったでしょうが(時代劇では良く投げてるけど)
実際には何かと便利な日常小物として食事時やらハサミ代わりに使って重宝していたようです。
(61:852)

日本の戦国から江戸時代にかけては欧州のように銃剣を装備しなかったのでせうか。

戦国~江戸初期までは、銃剣が開発されていなかったので。
その後は、軍備の開発を統制する(禁止する)江戸幕府の施策のため。
(64:96)

鳥羽伏見の戦いの後から江戸城無血開城直前までの徳川宗家の保有していた兵力、戦力を教えて下さい。

徳川宗家の保有していた兵力ですが、幕府は安政元年(1854年)から近代的な軍の編成を
はじめ、文久三年(1863年)にはその兵力はおよそ1万人程度になっていたようです。
しかし、慶応二年(1866年)の征長戦争に敗れた結果その戦力は低下し、フランスから
軍事教導団を受け入れ再編成を開始しています。
そしてさらに鳥羽伏見の戦いの後となりますと、数千人程度になっていたのではないかと思います。
ちなみに大鳥圭介が連れ出した幕府伝習隊は二個大隊(約1000名)だそうです。
(50:名無し軍曹)

ペリー来航というのは、「戦わずして負けた戦争」というべきですか?

譲歩と敗戦は違う。無闇に喧嘩を売らずに収めた事を考えれば妥当と言えるんじゃないだろうか。
(57:81)

薩長軍と幕府軍の軍備にはどの程度の隔たりがあったのでしょうか?

海軍力では、幕府軍の方が遙かに上です。
陸軍力については、幕府も倒幕軍とほぼ同じ水準を保っています。

ただ、倒幕軍の主たる勢力である薩摩、長州は諸外国の先進的な兵器、戦術
に叩かれたために、いち早くその戦術を取り入れたのに対し、幕府軍は未だ、
山鹿流、甲州流のような古い戦術から離れられず、また人的資源に於いても、
農兵の採用などを行った倒幕軍に対し、幕府軍はそのような農民兵の徴集など
を余り行いませんでした。

武力が倒幕軍>幕府軍という図式が出来るのは、後者が幕府軍ではなく、奥羽
列藩同盟軍であれば、成り立ちますがね。
(83:眠い人 ◆ikaJHtf2)
海軍力は、遥かに幕府軍が上でした。
陸軍の装備に関しては、薩長軍の方が新式の物の数を揃えられただけで、
幕府軍にもそれなりの物は有ったのですが、問題は軍の編成と指揮命令系統に有り、
新式の装備と部隊を、有効に生かしきれなかった事に有るでしょう。
(83:805)
 海軍力においては,開陽というコルヴェットを幕府が持っているのに対し,
薩長海軍は最大で砲艦クラスしかありませんでしたから,やや幕府優勢.
 ただ,当時の開陽の整備状況と,艦隊運動ができるほどの陣容ではなかったため,
実質ほぼ互角.

 陸軍力においては,西軍は性能のよいエンピール,ミニエー,スペンサー銃を
主力としていたのに対し,
東軍は幕府直轄部隊がシャスポー銃を装備していたのみで,火縄銃部隊も少なくなく,
歩兵火力では西軍が圧倒しています.
 大砲火力では,アームストロング砲装備の長岡藩など,一部に新式砲を装備した
部隊もあったものの,東軍はライフルのない旧式砲が多く,
新式砲(4斤野砲,ライフル有)と臼砲を使い分けた西軍に圧倒されたようです
(ようです,というのは,幕府軍の砲の数が,手持ちの資料では不明なので).

 なお,以上のデータは,別冊歴史読本「イラストでみる戊辰戦争」によるもので,
正確さには少し疑問も残ります.
(83:消印所沢@FAQ者 ◆z3kTlzXTZk)
その辺りの事情を知るのによい書籍などありましたら、お教え頂きたく存じます。
今、すぐに手に入るものであれば、中公新書に幕府歩兵隊という本と、
長州奇兵隊と言う本がありますよ。
あと、歴史読本とか歴史と旅のBackNumberには戊辰戦争絡みの増刊が結構出ています。

専門書は、書評スレを覗いてみるのは如何でしょう。
(83:眠い人 ◆ikaJHtf2)

西南の役田原坂での抜刀隊ってどうやって戦ったのですか?

そもそも西南の役は殆んど銃撃戦、砲撃戦しか行われていない訳で。
政府軍の兵士が接近戦を嫌い、弾幕を張って応戦したので、弾薬の消費量は物凄かったらしいです。
まあ、それ以前の日本の合戦でも、剣はサイドアームで主兵器は弓槍、鉄砲であった訳でして。
(83:772)
西郷側も、1人1銃主義をとっていたため
火器装備率はほぼ100%だったらしいしね。

結局、弾薬不足に悩んだ西郷側苦肉の策が
錯綜地を利用しての抜刀襲撃だった。
(83:773)
西南戦争の抜刀隊は主として急遽警官より選抜された部隊で、主に旧士族(東北系)と
鹿児島出身の郷士により編成されました。
第一次は200名で、急遽編成されたためその装備の刀は地元から買い上げる形で装備しました。
これは想像ですがこのため刀は使い捨てに近かったのではと思います。
また西郷側は銃弾の不足と旧式銃なため火薬がしける事が多かったため、
戦場の多くが南西地方に多い森林だったため、鹿児島士族特有の文化、
などの理由により白兵戦を多用しました。抜刀隊の消耗率は大変たかいものでした。
(83:JY)

日本はペリー来航によって不平等条約を結んだ上開国しましたが、ペリー艦隊と戦って勝ち目がなかったのでしょうか?

まったく勝ち目は無かった
サスケハナ号に搭載されていた150ポンドのパロット砲は最大射程7300mに及び、
日本の既存の大砲をアウトレンジしながら江戸城を砲撃することが可能だった。
だから慌てて台場を作りはじめたわけ
(504:51)

戊辰戦争で、幕軍も薩摩長州も軍艦を運用していましたが、当時の軍艦って、正直戦術的な意味ってあったんですか?

1隻や2隻の軍艦で、戦争の大勢は変わりませんよね。敵陣に艦砲撃ち込んで、びびらすくらいですか?
当時の戦艦は基本的に戦略兵器。
場合によっては戦術兵器としても利用できるが、これはオマケ。

下手な砲兵隊より多数の砲を高速で戦略機動させ、港湾都市や沿岸を砲撃する。
ペリーの黒船が搭載していたパロット砲は、幕府側の火砲をアウトレンジしながら
江戸城を砲撃することが可能だった。

戊辰戦争で有名なエピソードとしては「箱根での挟撃作戦案」がある。
官軍が箱根に入ったところで、幕府艦隊の艦砲射撃で後続を足止めし、
箱根関で待ち受けた陸軍が殲滅戦を行うというもの。

結局実行されなかったが、この策を聞いた大村益次郎は「その策が実行
されていたら今頃我々の首はなかった」と述べている。
(516:700)

幕末の英国人商人グラバーが薩摩や長州に武器を売っていたのはよく知られていますが、薩摩や長州の新式武器輸入ルートは他にもあったんですか?

また、薩摩はともかく長州は財政がそう豊かではないですよね。決済はうまくいったんですか?
初期は、グラバーなど一部の武器商人が接触した程度でしたが、開港以降は、
各国の武器商人が押し寄せ、各大名家も様々なルートで武器を購入しています。
その中で突出していたのが、倒幕軍ではグラバーであり、幕府・奥羽列藩同盟軍
ではスネル兄弟だった訳で。
例えば、土佐ではスイス人武器商人ハープルと大砲購入の為に接触していますし、
長州や紀州ではプロシア人武器商人のカール・レーマンと撃針銃の購入や、砲艦の
購入を行っています。

決済については、最初は農商民に対し、御用金や調達金として調達した金で支払っていました。
その後、その頃日本に進出し始めた外国銀行からの融資により決済が行われ、最終的にその返済は、
明治政府に任されました。

軍費の調達に関しては、大久保利通などは、各大名家からの醵金と徳川将軍家が所持する
領地800万石の内200万石を没収してそこから上がる収入で返済に充てるとしており、且つ、
短期的には鳩居堂とか三井、鴻池などの豪商や興福寺と言った山門、東西本願寺などの寺社
からの拠出金で賄う様になっています。
また、一般市民からも拠出金を仰ぐくらいにも貧しています。
この一般市民からの拠出金で62万両あったり。

この他、地租を担保とした国債である会計基立金300万両の徴募を商人達に課したり、不換紙幣
として太政官札を発行して凌いだりしています。
とは言え、太政官札の流通は困難を極め、正貨との交換比率は江戸・大坂でも当初から10対4程度の
ものでした。

最終的には、版籍奉還により負債も国家が吸収する事となり、税金として国民に跳ね返った訳ですが。
因みに、東海道東征軍5,000名の1ヶ月の軍費は640両で、屡々町方での訴訟が起きていますし、江戸開城
から、上野戦争までの2ヶ月の間は軍資金の枯渇にありました。
(518:581:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

幕末(鳥羽伏見の戦いの前まで)で各藩や幕府軍が大軍を船で輸送したというのは事実なのでしょうか

いくつも例はあります。
あの鉄道網が未整備なあの時代は、海路の戦略機動が圧倒的に優位です。

1863年に、幕府の老中小笠原長行が、兵1600人とともに横浜から大阪へ上陸。
これは幕艦鯉魚門と外国傭船の併用です。京都の武力制圧を企てていたともいわれます。
会津藩が京都進駐するときも、幕艦による海上輸送が検討されてます。

第二次長州出兵の際には、幕府の歩兵4個大隊の輸送に艦船が使われました。
幕艦3隻と外国傭船2隻で紀州まで運び、そこから幕艦4隻に乗り換えて大阪へ上陸。
前線でも両軍が上陸作戦やってます。

鳥羽伏見のときは幕府側が大阪湾の制海権を押さえ、陸兵の集結に活用。
また敗戦後にも、徳川慶喜の移動だけでなく、残存部隊数千の江戸転進に海上輸送。

戊辰戦争中の事例は後方の部隊輸送、上陸作戦的な敵地機動とも数多く。
顕著な例として新政府軍が仙台進駐(600人)、
平潟上陸(諸藩洋式艦3隻・1500人)、新潟上陸(諸藩洋式艦6隻・1000人)あたりでしょうか。
旧幕府側も色々やって、例としては伊庭八郎の遊撃隊200人以上の真鶴行きで、
200~300石積みの和船3隻を幕艦大江丸で曳航して運び、途中から独立航行させてます。
新潟方面での輸送支援に派遣された幕艦順動丸は、新政府艦隊に捕捉撃沈されました。

訂正。編集ミス。
幕艦3隻と外国傭船2隻で紀州まで運び、そこから幕艦4隻に乗り換えて大阪へ上陸。
の一文は、1863年の率兵上洛の話のほうです。
鯉魚門のほかには蟠龍艦と朝陽艦を使っています。傭船は2隻。
紀州から加入した1隻については不知。
(545:◆yoOjLET6cE)

西南戦争が起こった後、鹿児島からの徴兵に影響ってあったりしたんでしょうか?

また、鹿児島で編成された部隊が不遇な扱いを受けたりしたんでしょうか?
それを語るには、当時の民衆心理から説明した方がいいかも。

西郷の帰郷についていった士族は鹿児島で私学校生徒(私学党)となったが、彼らは手に職がないため血気を抑えることができず、
あちこちで乱暴狼藉を働いた。
また私学党の勢力が強くなるにつれて県政自体も立ち行かなくなり、やむなく私学党員を官吏や警察巡査として登用したため、
鹿児島県下の治安は極度に悪化する。
西南戦争の発端が、彼ら私学党の暴走によって引き起こされたことを見ても、彼らが如何なるものかが判るわな。
つまり市井の民衆から見れば、彼らは単に治安を悪化する邪魔者でしかなかったわけ。

また、薩摩という国が昔から厳しい身分制度の国だったこともある。
明治の世になりようやく士族階級と平等の立場になれたのに、野に下ってきた元・士族の連中がデカイ顔をしてのさばってたら、
そりゃ市井の気分は悪いだろ。
つーことで、西南戦争後は邪魔っけな私学党が一掃されたため、他の地域と較べても遜色なく徴兵を行うことができた。

むしろ、鹿児島出身兵は熊本兵と並んで強兵とされ、鹿児島で編成された部隊は各地の戦場でも歓迎されたという。
(349:53)

白虎隊って、軍事的にはどうなんですか?

会津のオナニーにすぎないんですか?
白虎隊の子ども達はともかく、白虎隊の指揮官(大人)はクソで、自分だけ逃げている。
まあ、指揮官がクソなのは、先の大戦まで続く日本の伝統。

ちなみに、同じく戊辰戦争で殲滅されたチャイルドソルジャーに、「二本松少年隊」てのがある。
この指揮官(大人)と副指揮官(大人)は、少年たちを守らんとばかりに奮戦し、なんと少年たちより先に戦死。
少年たちは指揮官を失いどうしていいかわからなくなり、結果薩摩軍の中でも最も野蛮な大隅出身の田舎ものの兵隊に、なぶり殺しにされました。

まあ、
「指揮官が逃げる(白虎隊)」
「指揮官が真っ先に戦死(二本松少年隊)」
どっちも軍事的には誉められたことではない。
(558:福島人ミク)

明治の初め、ハワイの王様が「ハワイを日本に組み込んでくれ」と言い寄って来たというのは事実?

ハワイ国王が提案したのは、緩やかな連邦の形成であって、
日本の領土としてハワイを組み込む「併合」ではない。
この提案がなされたのは、1881年のことだが、対米従属的な立場はどうしようもなく、
また日本政府もアメリカを刺激することを恐れ、提案をあっさりと断っている。
もうこの時点において、連邦化という歴史上のIFは、検討の余地の極めて小さい命題。

例え連邦化したとしても、ハワイの対米従属を解消してやるための、有効な手段を取れたかははなはだ疑問だ。
1893年のクーデターでは、軍艦2隻を派遣して、アメリカ人移民が作った臨時政府を威嚇しているのだけど、
それ以上のことを、連邦化したからと言ってできたかどうか。

それでも仮に軍事的な援助を強化して、日本海軍の基地をおいたり、陸軍部隊を駐屯させたりした場合、
下手すると、この時点で、アメリカと抜き差しならない対立となり、戦争に発展した可能性だってある。
逆に、日英同盟が健在な時期なので、そこまでは行かなかった可能性ももちろんあるが、
潜在的対立がどこでどう爆発するか、見通すことは難し過ぎる。
アメリカ相手に、当時の日本に、そんなことをやれる可能性は皆無。
(609:362)

西南戦争で敗れた薩軍の生き残りって、やっぱり全員反乱の罪で処刑されたの?

ごく一部の例外を除いて無罪放免。
「犯罪」ではなく「戦闘行為」と見なされています。
例えば、薩軍に参加した西郷隆盛の息子である西郷菊二郎氏は後に鹿児島市長
に就任しています。

処刑されたのは大山綱良など一部の者だけ、2700名ほどが懲役に付されているが後に赦免、
生き残りの大半40000名以上はそのまま放免されてます。
まあ、乱の首謀者はほとんど戦死したか自殺しちゃったし。
(309:603,606)

戦国時代には首切りツールだった日本刀が、西南戦争では両軍で使われ戦果をあげているのはなぜ?

個人的には警視庁抜刀隊などの存在が喧伝された結果では
ないかと思います。歌が今に伝えられていますからね。ちなみに
警視庁の警察博物館にも西南戦争に関する展示が充実している。
西南戦争の田原坂の戦いでも砲兵が活躍したんじゃないでしょうか。

根本的に百姓兵が腰抜けばかりで役に立たなかったからねぇ。
田原坂の戦いなんか発射弾数一日四十万発!だそうで確か陸軍のレコードだったんじゃないかな。
ようするに怖いからただ闇雲に撃つだけなんだな。
だから薩摩隼人が切り込んでくると蜘蛛の子を散らすが如く逃げ出してしまう。
結局武士を集めて抜刀隊を結成するより他手立てが無かったんだな。
手を焼いた山縣が将校は逃亡兵をその場で処断してよいって布告を出したのもこの時。
(297:581-582)

幕末~西南戦争で国内の各勢力が使っていた銃ってどんなものがありますか?

最初に火縄銃に換るものとして導入されたのが、1830年頃のオランダのゲベール銃で、
これを国内で盛んに模造し、火縄銃は第二線級兵器になります。
(但し、1万石程度の弱小大名家では火縄銃と弓という家も多々ありました)

次いで、幕府が購入し歩兵隊の装備としたのが、フランス製ミニエー銃です。
これが戊辰戦争での主力銃の一つとなり、諸藩で使用されています。
この銃も、国内で盛んに製造されています。

幕府軍は慶応2年にフランス製シャスポー銃2000挺をナポレオン三世から送ら
れましたが、それは江戸城に保管されたままで、後に押収され、大阪鎮台の
教導団で使用されました。
他に還納されたものも合わせて、6000挺がありました。

紀州徳川家は、ドイツ製のドレイゼ銃7,600挺を購入し、他の諸藩も合わせると、
13,343挺が明治政府に献納されています。
なお、このうち、8,492挺は大阪鎮台の第8、9、10連隊に支給され、その後西南
戦争で第1旅団、第4旅団、別動第1、第4旅団によって使用されました。

エンフィールド銃は英国製で、九州から東北諸藩に広く売りさばかれており、
前装式エンフィールド銃は12,000挺、後装式に改造されたものは1,500挺、後の
調査では更に増え、53,023挺が使用されていました。
なお、明治政府では西南戦争まで使用されています。
ちなみに、彰義隊の装備銃はこれが主力でした。

エンフィールド銃を後装式に改造したのがスナイドル銃で、各藩、特に西方諸家に
て良く用いられていましたが数は少なく1500挺程度でした。

米国製の連射可能なスペンサー銃は504挺しかありませんでしたが、主に土佐山内
家が使用していました。

このほか、ツンナール(ドレイス)銃(一時大阪鎮台が使用)、アルビニー銃(近衛歩兵
第1連隊の全部、第2連隊の一部が使用)、マルチニー銃(ベルギー製)、レミントン銃、
ピイポジーマルチニー銃(海軍省に譲渡)など全部で39種類の形式が確認されています。

ちなみに調練方式は、
フランス式が幕府軍の他、土佐山内家、豊津毛利家、鳥取池田家、函館蠣崎家、館林秋本家、
彦根井伊家、米沢上杉家、大多喜大河内家など。

英国式が薩摩島津家、佐賀鍋島家、岡山池田家、尾張徳川家、関宿久世家、熊本細川家、
徳山毛利家、阿波蜂須賀家、高松松平家、高徳戸田家、明石松平家、古河土井家、長尾本多家、
岡崎本多家、三上遠藤家、舞鶴牧野家、田原三宅家など。

オランダ式が水戸徳川家、前橋松平家、高崎大河内家、川越松井家、高遠内藤家、下館石川家、
福岡黒田家、小田原大久保家、沼田土岐家、烏山大久保家など。

プロシア式が紀州徳川家となっています。
(108:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

銃が普及してたはずの戊辰戦争や西南戦争で日本刀が威力を発揮したって話が良く分からないんですよ。

戊辰戦争や西南戦争の頃の日本で使われていた鉄砲は、前装式だったり
薬莢が紙製(当時としては珍しくはない)なので雨だと使えなかったり、
とかなり使用に制限のかかる代物。作動機構がより確実なだけで火縄銃と
大差ない。
射程距離も短く単発式のものがほとんでまだ「銃剣」というものが普及して
ないため、訓練度の高い日本刀を持った人間と戦うと、一発目で相手を倒せ
なければ刀の間合いに踏みこまれてあっさり斬り倒された。
このあたりはスコットランドのハイランダーに苦労したイギリス軍と似ている。

更に鎧をつける習慣が廃れてた(とはいっても和式の鎧は防御力低いけど)ので
例え江戸時代になって細くなった”打刀”でも対人威力は高かった。
(250:29)

戊辰戦争の戦死者数はどのくらいなのでしょうか?

刀や槍による死者は、ほとんどいなかったのでしょうか?
概算ですが、鳥羽伏見戦を除いた、東海道東上~第二次函館戦争までの
兵員参加者は164,456名(但し、奥羽列藩同盟の兵員は記録が散逸しており、
推定…以下同じ)、戦死者(戦病死、刑死含む)は8,717名、戦傷者は4,718名、
自刃163名、婦女子の自刃172名、その他93名、行方不明19名となっています。

戊辰戦争の戦死者に関しては地域によって異なります。
奥羽列藩同盟と戦闘を行なった弱小諸家(津軽とかその辺)は結構刀槍での
負傷が多かったようですし、水戸家中の内紛でも同じく刀槍による負傷が多かっ
たみたいです。
対して、会津戦争や長岡戦争になり、西方諸家と対峙すると、今度は銃創による
死者が多くなっています。
(154:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

黒船来航や薩英戦争の頃、日本の大砲は欧米のものとは比べものにならなかったらしいけど、どの程度の性能差があったのですか?

下関・鹿児島で用いられた80斤榴弾砲は、弾量25kgで射程1,400m
彰義隊戦争で用いられた20拇臼砲は、弾量18kgで射程1,300m。

一方、薩英戦争で用いられた英国艦隊の68ポンド前装滑腔砲は射程3,000mですが、
Armstrong砲は、110ポンド砲で弾量50kgで3,600m、40ポンド砲で弾量18kgで3,500mと
なっています。
つまり、各大名家の大砲の射程外から発射できるわけです。

ちなみに、島津家の大砲は、6~80ポンド砲が合計62門、20~29cm臼砲が10門、その他
大筒が10門。
このほかに、18または24ポンド砲を1門搭載した10.9m程度の小さな船が12隻ありました。
これらは、全て前装滑腔砲であり、弾丸は球形中実弾が大部分で、炸裂弾を発射できた
のは臼砲しかありませんでした。

当時、この戦争に参加した伊東祐亮は、「当時こちらから撃ち出す砲弾は、砲の先端から
込めてガタガタと回転させ、それから照尺を定めて漸く発射、その後砲身を綺麗に拭いて、
また先端から弾丸を込めると言う極めて時間の掛かる仕組みだったから、5~7分掛かって
漸く一弾を撃ちだしたものだ。こんな幼稚な時代だったから、この時英艦から発射された砲弾
を見てみんなびっくりした。
未だ見たことのない長さ一尺六寸(45~48cm)の弾丸を臍の緒切って以来初めて見たのだから、
魂消たのも無理はない」と、回顧談で述べています。

他にも英艦は鹿児島の街を焼き討ちするのに、ホールロケットというロケット弾を用いています。

下関砲台には、当初30門しか砲がありませんでしたが、後に整備に努め、18ポンド砲21門、24ポンド
砲27門、30ポンド砲2門、80ポンド砲2門、150ポンド砲1門で、これらは全て青銅製前装滑腔砲でした。
対して、四カ国連合艦隊の備砲は280門に上っています。

英国艦隊は、8インチ砲66門、32ポンド砲64門、68ポンド砲2門、110ポンドArmstrong砲7門、40ポンド
Armstrong砲8門など、フランス艦隊は6.4インチ前装旋条砲20門程度。オランダ艦隊は、6.3インチ前装
旋条砲8門、30ポンド砲8門など、米国の民間船は、8インチ砲1門となっていました。

ついでに、砲台守備兵力は2,000名、対する四カ国連合艦隊は総兵力5,000名で、その兵力差で、殆ど
損害を受けることなく、兵力2,000名の上陸で砲台を占領し、60~100門の砲を破壊しています。
(207:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

幕末になるまで江戸幕府と雄藩は関ヶ原の戦いのままの武器や部隊編成や戦法でいたんですか?

詳しくは歴史系の板で聞くべきだとは思うが、そんなことがあるはずがない
みなもと太郎の「風雲児たち」がその辺り一番分かりやすいと思うが、長編
すぎて読むのに時間がかかる
(俺初質スレ2050:296)


近代以前


戦国時代の鉄砲って、武士が使う事もあったんですか?それとも足軽だけの武器だったんでしょうか?

雑賀衆の鈴木孫一など武士も使ってる。
(俺初質スレ430:164)
武士が使う事も当然あるわけですが
鉄砲は弓のような熟練を必要とせず
少しの訓練で足軽や女でも使える「女の武器」ということで
武士が使うのは不名誉であると、嫌がられたといいます。
(俺初質スレ430:166)

文永の役(1274年)でフビライ軍は「てつはう」なる手榴弾みたいな火薬武器を用いたそうですが、その時、「てつはう」は日本側に捕獲されたのでしょうか?

確か対馬だか長崎だかに「てつはう」の実物は展示してあります。すごい昔に「GUN」誌に掲載されてました。
鉄砲伝来についてですが1543年よりおよそ100早く中国から琉球に鉄砲は伝来しております。
尚王が琉球統一をするとあらゆる武器が放棄されたので詳細はまだ不明です。
(6:古式銃ファン)

源氏の血をひいていないと征夷大将軍になれないのはなぜですか?

戦時中の将軍と征夷大将軍は別物ですか?
初代の征夷大将軍坂上田村麻呂は、源氏より前に登場したので、源氏の血を引いておりません。
また、源実朝死して後、源氏の嫡流は絶え、以降宮様を将軍とする場合もありましたし、
徳川家綱の後の将軍に松平伊豆守が、公家を推戴しようと画策したこともありました。

つまり、それは天皇の血統を神聖視する勢力と同じく、政治的な思惑から生じた幻想です。
単なる権威付に過ぎません。

後段に関しては、別物です。
別に、将軍だからと言って日本の国の願主になったわけではありませんから。
(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)

昔の兵士は同じ様な鎧や格好をしているのにどうやって敵味方を識別してたんでしょうか?

お貸し具足の場合、デザインは殆ど同じ量産品です。
従って、袖印とか鉢巻き、襷などで識別しています。
数日もの間、行軍などを行うことで顔見知りにはなりますし。
あと、夜襲などでは合い言葉を決めて、それを答えられない、
あるいは間違ったものを言った場合には槍を突き出すと言う方法も採られています。
(20:眠い人 ◆ikaJHtf2)

元寇の際の蒙古軍のてつはうの運用と日本側の被害は如何程だったんでしょうか?

毬状に描かれたてつはうは、実は後世の画家が根拠なしに想像して絵にしちゃったもんで
本当のてつはうがどんな兵器だったのかは、いまだに決着がついていない
おれはカタパルト説を支持してるが、日本の歴史各学会では少数派のようだ
(俺初質スレ435:654)
実際に海底で見つかったてつはうはトゲが付いてない球形だったな
投石機で擲弾を飛ばすのは大陸では実際に行われてるが、
投石機のようなでかいものを船で運んで揚陸して敵前で組み立てたりする余裕があるのかという
疑問もないことはないな
(俺初質スレ435:655)

『蒙古襲来絵詞』に「てつはう」が描かれていますが、なぜ日本では種子島以降まで火器が広まらなかったのでしょうか?

同時期の支那大陸では火器はどの程度普及していたのですか。

技術が伝わらなかったというか、当の大陸でも普及し始めた程度。
また、友好的な国交があったわけでもなかったので、技術を伝えなかった。

日本国内では火薬の原料の一部、特に硝石がろくに取れないので、自作は無理。
仮に伝来しても自力では製造が出来ず、輸入に頼ることになる。
(483:893)

ついでに、当時の中国で使われていた火薬兵器も精度も威力もあんまり無く、
威嚇兵器としての意味合いが大きかったので、主力兵器にはなってない。
(部分的には、工夫や改良を凝らして使われていた物があったようだが、
詳細が不明で実像が未だにわからず、予想や憶測、想像図を含んでいるものも多い)
実用的な火薬兵器の登場は、ヨーロッパに伝来してそちらで改良されて
アジアに伝来する時代まで経たなくてはならなかった。
(483:894)

元寇における元軍が使用したてつはうについての知識・製法を、日本は元軍の捕虜から吸収することができなかったんでしょうか?

元寇の主力は元の命令で動員された高麗兵だったので、彼らは「兵器を与えられて使われている」立場でしかなく、
高度な技術を手(と脳)に持っている者は少なかった。
更に二度の元寇は日本、というか鎌倉幕府にもかなりの混乱をもたらしたため、その後のゴタゴタでそういった面に割けるリソースも少なかった。
兵器のコピーに関して言えば、弩(ど、おおゆみ)のコピーには着手したが肝心な鉄弓の部分がコピーできず、諦めたという経緯がある。

あと、何より元軍の遺棄兵器は奮戦したのに恩賞が貰えない御家人達が使い道もよくわからないまま「戦利品」「舶来のお宝」として
自己のものにしてしまい、幕府が提出を求めても恩賞が貰えないことを理由に拒否し、大半は御家人の倉に納われたまま忘れ去られた。

後に、先祖が文永弘安の役に参加したという武士の家には、当時の元の兵器(の残骸や成れの果て)が代々伝わっていたりしたとのこと。
中には室町戦国安土桃山そして江戸時代を経て明治まで伝わっている物品があったりする。
(532:381)

日本の戦国時代……信長以降の1600年前後の頃、日本の保有していた軍備(鉄砲や戦闘兵員ですね)は当時のヨーロッパ全体のそれを上回っていたという話を聞いたことがあるのですが。

これの真偽、そして本当であった場合はたして日本は世界に覇権を問うことができたかについてお聞きしたいのですが……。
無理だと思います
渡海しての作戦は補給が続きません
朝鮮出兵の顛末を考えても不可能だと思います
(9:907)

日本史上での軍事結果や作戦、人物等が世界の戦史に影響を与えたような事例は無いのでしょうか。

戦国末期の織田信長~豊臣秀吉に至る時代の鉄炮の集団運用戦法は、
大砲と刀槍中心の中国に多大な影響を及ぼしました。
また、火縄銃に関しては日本が世界の最先端を行ってました。

時代は下って、日露戦争では二百三高地の作戦に於いて、Russiaの使った
機関銃が塹壕戦、要塞戦に威力を発揮することが判り、世界に機関銃が広まる
結果となりましたし、有名な日本海海戦の結果は、英国がDreadnought級戦艦を建造するきっかけとなりました。
また、金剛の建造は超弩級艦建造の口火になりましたし、長門の建造は、40センチ砲搭載の超超弩級艦建造の口火となっています。

日中戦争ではゲルニカとともに、日本の重慶爆撃が戦略無差別爆撃のお手本となっていますし、
第二次世界大戦では真珠湾攻撃で空母の運用に、
マレー沖海戦で対艦兵器としての戦艦の終焉という影響を引き起こしています。
(14:眠い人 ◆ikaJHtf2)
日清戦争の黄海海戦では、艦隊陣形の単縦陣vs.横陣論争に決着が付きました。
(単縦陣を採用した日本の勝利)
(14:404)

日本の戦国時代の騎馬武者は戦闘の際には下馬して戦っていたと聞いたことがありますが、それなら武田騎馬軍団や伊達の騎馬鉄砲隊は創作ですか?

創作や講談のような意味での騎馬軍団なんてものは無いが、
しかし騎馬の集中運用というのが完全に無かったかと言うとそうでもなく
フィクションのような数百~数千の騎兵が突撃するようなものより
ずっと規模の小さい、数十騎くらい集めれば精一杯といったものだったそうだ。
百騎もいたら、凄い大規模な騎馬部隊という感覚。

でもって、そうした騎馬部隊というのは常設の物というのは少なく、
戦場で臨時に余剰騎兵を集めて突撃させるような物が大抵で、
その他に本陣控えの旗本、伝令役たちの十~数十騎ぐらいしか無い。

武田騎馬軍団については、今の山梨県が馬の産地ってことで、
移動や輸送に馬がふんだんに使えたこと、軍全体から見た馬の割合がかなり多いこと、
つまり馬や騎兵に余裕があった事から言われたもの。
伊達の騎馬鉄砲も、常設部隊では無いが、ちゃんと馬上で鉄砲を使う装備が記録に残っている。
ただし、これの実態がどんなものだったかは不明。
日本の馬は小さくて騎乗には向いていないときいたが?
それはアマチュア研究者が勘違いで書いてしまって広めてしまった有名なデマ。
蛇足だがこのアマ研究者は打刀(短刀や小太刀ならまだしも…)で首を取るとかの間違いも広めてしまっている。
(502:852)

日本には欧州や中東の様な破城槌は無かったんですよね?

城攻めの時はどの様な方法で城門を破壊したんですか?
急峻な坂、階段、郭などを配した山城では、破城槌が威力を発揮できないため、
利用されることはありませんでした。
20~30度もある不揃いな階段を数十メートル登り、90度コーナーを2つ通り抜け、
後背を敵の櫓に晒す狭い空間が正門前、といった感じです。
破城槌が使えない理由が想像できるでしょうか。
城門を破壊するには、丸太・大砲を用いたほか、火矢・焼き玉(熱した砲弾)などで
火災を狙うなどされました。
ちなみに朝鮮出兵の際には、現地で「亀甲車」という破城槌が考案されています。

余談ながら、戦国時代期の日本型城塞は、古代~中世にかけて作られた西洋の
都市型城塞に比べて、数世代後のものに当たります。
よい縄張りと防御施設を備えた山城は、街や居館を石壁で囲っただけの城塞とは
比較にならないほど堅固です。
平城でも大阪城規模のものになると、この時代の大砲を用いても容易には落城さ
せられませんでした。(家康が大砲の利用を控えさせたとはいえ)
もちろんこの時期の欧州でも城塞は進歩を遂げていて、さらに17世紀中盤には
城塞設計の革新者ヴォーバンが登場し、要塞は飛躍的な進歩を遂げてゆきます。
(514:283)

城の造りが西洋や中東と異なるので一般的には破城槌は必要なかったのではないかと思う。
中東の特に十字軍王国の城などは岩山の尾根先を大きな溝をほって区切り
先端に極めて堅固な要塞を築いている例があります。
城壁は尾根の崖線上およびこうした人工崖線と一体化し、城壁真下に取り付いた
敵兵を側射できる塔も備わるなど、かなり発達した造りでした。
従って攻める側は巨大な投石機を幾つも作り城壁を崩して攻めます。

一方、日本の城、ことに山城は包囲されることもあるんですが、基本的には自然地形をうまく
改修して幾重にも防衛線をめぐらすもので石垣なども部分的に施されている場合はあるものの、
そもそも地山を削り柵を巡らし櫓を立てるといった形での防御です。
長槍、後には鉄砲で隊伍をなして攻めるのが良いでしょう。
どちらが優れているということはありませんが、西洋のやり方で攻めてはかえって
苦労すると思われます。
(514:285)

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Saone.jpg
上で述べた十字軍の城の一例です。大きな切り石を石灰かモルタルで
繋いで城壁と塔を作っています。城壁の構造は表面と裏面は切石で中には
小さい丸石が詰められているものです。

中央右の塔の高さ半ばに細長い黒い線がありますが、これが矢狭間です。
城壁下に取り付いた相手を横合いから撃つためこの位置に空けられています。
日本の城でいう、横矢掛かり です。
日本の山城の場合は地山を巧みに堀で削り、区切り、柵を巡らして守りますから
西洋流の城とは異なります。
(514:286)

戦国時代の弓は有効射程はどのくらいで、鉄砲に比較して有用なものだったんでしょうか?

戦国時代にも鉄砲は運用されていますが、飛び道具としては弓がメインですよね。
三十三間堂で弓を射る場合、標的は66間=119mですが、戦国時代の弓は100m以上飛ぶしろものですか?
強弓に分類される弓が必要になるが飛距離としては割と余裕。
ただ、たとえ強弓といえどわずかながら曲射的に射る必要があり、
屋根があるため飛ばしすぎや射角をとりすぎるほうが問題だった。
特に後半疲れてくると手元が狂ってくるので、
三十三間堂の梁には矢が刺さったあとがいっぱい残ってる。

飛距離については射流し大会という飛距離そのものを競う大会が全国各所であって、
昭和13年に曽我正康という人物が琵琶湖の大会で385mの記録を打ち立てている。
これが記録に残ってる確実な範囲内では最高記録。
また一般的に実力者級の成年男性は200m~250mほど、
女性の場合は150m~200mほど飛ばすという。
ただしこれらは18gという特製の軽い矢を使ったもので、
記録や遺物から推定される戦国時代に実際に使用された矢の
50g~70gと比べて非常に軽い。
これは軽い矢尻では甲冑に守られた人体に食い込ませる事が難しいため。
また弓の方も戦国時代の一般的な実戦用は約20kg~30kg程度と推測される。
これは現代弓道の男性用14kg~20kgと比べると重いが、
三十三間堂で記録を出すような強弓の30kg~40kgと比べると遥かに軽い。
これらの条件の元に当時の状況を再現すると、最大射程距離はおよそ100mから150mほど、
狙いを付けて狙撃する場合の有効射程距離はその1/5から1/4程度と推定される。
ただし戦場に強弓を持ち込む達人も存在しただろうからその様な場合はこの限りではない。

戦場における鉄砲に対する弓のメリットを、宮本武蔵は五輪書で次の用に述べている。
  • 速射が可能で別の武器にすぐに持ち替えられる事(近距離戦にも対応)
  • 撃った矢が目に見える事(着弾観測が容易)
  • 戦場でのかけひきにつかえる事
以上の理由より野戦での使用に適した武器だとしている。
攻城戦においてはメリットが少なく、拠点防衛においては鉄砲の方が遥かに勝るとも。
なお、宮本武蔵は戦場における弓の有効射程距離を20間、およそ36mとしている。
(528:750)

戦国時代の農民兵は、刀とか槍とかは自分で持って行ったんですか?

もしそうなら、高価な刀とか槍をどうやって調達していたんですか?
当時は兵農分離や刀狩りが行われる前ですから豊農はが武器・防具を備えていました。
戦の為だけでなく自衛や治安維持のためにも役に立つものです。アメリカの銃に近いかもしれません
いまだと日本刀は高価な美術品ですが、当時は数打ちと言われるような
質が低い代わりに安価な量産品が供給されてました。
鎧も現代に残ってるような立派な物だけではなく、
もっと簡素で実用本位な物が広く使われていました
雑兵用の安物は胴の前半分しか無いようなものからあります。

もちろん武器も買えないような貧農、小作人が食べ物と略奪目当てに参戦する光景は
ありふれたものです。
竹槍で戦うわけにも行きませんからその場合雇い主が武具を支給します(当然安物です)。
(559:モッティ ◆uSDglizB3o)

明治以前の皇居や皇族の守護はどうなってたんですか?

近世にも禁衛府みたいなのあったんですかね?
幕府から禁裏付と言う老中差配の役人が居て、その配下に御所の警備、
公家衆の監督をする人間がいました。
また、上皇の警備に関しては、仙洞付と言う役人が担っています。

維新直前は、十津川郷士が禁裏の警備を行っていたこともありましたっけ。
京都所司代は、警備と言うより行政のような気がするのですが。
(343:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

壬辰倭乱で李舜臣将軍が何万人の倭人を殺したか教えてほしい

七年間の朝鮮役で李舜臣指揮を含めた朝鮮水軍と明水軍の攻撃による日本軍の戦闘死傷者総数は数百人から数千人の規模
(最大でも五千人前後)と考えられます。
また李舜臣の攻撃で日本軍の補給や連絡が恒常的に遮断されたことはなく、極短期間の攻撃時間以外で補給連絡線の
制海権を維持できたことはありません。
二次的な船舶不足に影響が無いとは言えませんが、海象による事故や寿命の自然減耗に比べるほど戦闘消耗は激しくありません。

また日本軍には廻船補給計画は元々存在せず、たとえ朝鮮水軍が存在していなくとも陸上作戦的な海岸支配と技術的な
海路開拓の問題によって漢城方面への海路補給が成立することは非常に困難です。

李舜臣に対する評価は戦争指導指揮を行なっていたのが明であり、朝鮮独自の勝利ソースの少なさと李舜臣の属した派閥の
評価から朝鮮内部で珍重されたこと、それの日本での江戸時代の受け売りと豊臣失政というレッテル貼りが罷り通った。
そして、明治以降のマハンの海上権力論を奉戴して海軍権益を拡充した帝国海軍の宣伝が原因となっています。
これが権威となり、詳細研究や先行研究批判が充実しないまま戦中に頂点を迎え、戦後の史観へ退凋します。
つまり李舜臣への幻想は朝鮮役という戦争全体の研究不足が原因となっています。
(337:96-98)

戦国時代の一般的な軍隊の階級制度って、どうなっていたんですか?

戦国時代での軍隊という組織を考えると大名の直臣及び被官の全てが構成成分と見なすべきだと思います。
荒っぽい喩えですが武士階級すなわち軍人と考えれば良いと思います。
その中で、大きな所領を持つのが家老等の重臣層です。合戦の時は大きな戦闘単位を率いる一手の侍大将になります。
小規模な所領を有する地侍や直臣層は、総大将すなわち大名の近辺の警固する馬廻りや寄騎として
各備えや家老等の部隊に出向く形で配置されます。
軍監や目付、使番としての役割を果たす事が有ります。
(601:不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk)

アイヌ民族の人達は、侵略者の日本人に対して、地の利を生かしたゲリラ戦を展開しなかったのでしょうか?

結構抵抗はしている。
「シャクシャインの乱」で検索してみるべし。

ただ、いわゆる「アイヌ人」には統一された”民族意識”というものが
出来上がらなかった。
そもそも”アイヌ”というのも「人間」という意味で、
「アイヌ民族で団結して和人と戦おう!」というような民族自決意識が
定着せず、結局蜂起の指導者であるシャクシャインが暗殺されたらそれ以前の
「山を越えたら隣の村。隣の村の奴は一応人間だけど自分たちとは違う存在」
という世界に戻ってしまったので、統一勢力として抵抗することができす、
そのまま和人によって征服されて行った。

この辺はネイティヴアメリカン(インディアン)と似たところがある。
(326:274)

日本刀は戦争で活躍したんですか?ってか剣の道を究めたと呼ばれるような武士は実際に役に立ったのでしょうか?

 首級を獲るのに役立ちました。刀
合戦では、主に槍を使っていました。刀を使うような局面は護身くらい(今の軍用拳銃と似たようなもの)。
 刀主体の戦闘法(なんとか流という剣術の類)が確立したのは戦国末期と、ほとんど
合戦と関係ないです。ぶっちゃけ、仕官のためのセールスポイントになったくらいですね。

合戦ではないけど、船の上での接近戦では役に立ったようです。
短いので、構造物を傷つけないとか、刺さって抜けなくなるようなことがないとか。
明が日本刀を輸入したのは、和冦が使う威力を目の当たりにしたためだと言われています。
(325:566,567)

何故日本の武士は手持ち手盾を持たなかったのでしょう?

要らないから。
防御は鎧と設置タイプの盾の仕事。
手を塞ぐ盾もあったことはあったけど、使うのは矢弾を防ぎなら近付く時ぐらい。
鉄砲登場後は竹束ぐらい使わないと意味ないしね。
(610:モッティ ◆uSDglizB3o)
盾って言うのは、比較的起伏が少なく、草木が少ない地形でこそ役に立つもの。
そして同時に、盾を使いこなせるだけの練度がなければいけない。
どっちも、戦国時代後期までの日本にはなかったもの(前者は今もだけど)。
戦国時代の集団歩兵だと、長柄を使ったから、盾は必要なかった。
置き盾は、火縄銃の攻撃を防いだりするのに役に立ったけど。

で、練度の高い武装集団たる武士だけど、日本は昔から武人=弓手みたいな価値観が
あって、矢を防ぐ機能は鎧が担った。モンゴル軍も、持盾は使用してないだろ?
剣や槍なら盾と一緒に持てるけど、弓は無理だから。
鎧が発達してたのでわざわざ手に持つタイプの盾は要らなかったとも言える。
(610:251)
あ、手盾って言葉があるように限定的な防御用としてはあったよ。
欧州ほど普及しなかったけど
手盾なんてもってたら槍も弓も鉄砲も日本刀も使えない
(632:モッティ ◆uSDglizB3o)
でも地中海では盾持ったまま長い槍使ってなかったっけ?
あの時代は、ほとんど鎧を身に着けていませんでしたがね。
一時期青銅製の鎧が使われたりもしていたみたいですが、重いということで、リネンキュラッサと
いう麻の布を重ねた簡易の胴鎧にとって代わられています。
ようするに、実用的な金属鎧を作れなかったので、盾に防御を頼らざるを得なかったということで
しょう。
(632:467)

秀吉の時、海洋国家の癖に朝鮮ごときに負けたのは何で?

朝鮮水軍や亀甲船が秀吉の唐入り失敗の主原因だってのはただの神話。
実際に海上ゲリラ戦仕掛けられて痛い目に遭ってはいるが、
船団護衛方式を採る事によって対抗しているので、
海上優勢を巡る争いで主導権を握ってたのは日本側。
一定の負担になってはいるけどね。
実際の主要因は遠隔地への補給の負担が重すぎた事と
秀吉の病状悪化により国内諸勢力を押さえきれなくなった事。
つーかそもそも朝鮮南部はともかく、
北部から明直轄地あたりを恒久的に支配する能力がなかったため、
最初から明を脅かし交渉で勝てる要素に乏しかった事。
日本の水軍は「水」軍と言われてるように内水向けの軍隊
海を越えるような遠征はほとんど考えてなかった
日本がというか、当時日本周辺で外洋海軍持ってた国はいない。
つか中国文化圏では船、特に大型船といえばジャンクに代表される
龍骨を持たない構造が主だったので、凌波性に限界があった。
そのために波の荒い外洋を長距離航海するのはまさに命がけで、
その状態で戦闘するとかありえない。
つまり水上戦といえば沿岸部での戦いだったのが当時の常識。
対して西洋では地中海という冬以外は波の穏やかな海があったため、
古代から海戦の概念が存在した。
(672:704)

日本で大型の攻城兵器が発達しなかったのはなぜでしょうか?

一般的にイメージされる日本の城が出現したのが戦国末期から安土桃山にかけて。
それ以前の山城の時代はどっちかっていうと地形を利用した砦や陣地に近く、
石垣があるだけでも戦国時代の一般的な水準なら本拠地にあるかどうかレベル。
だから地形を変えるレベルで土木工事してくる古代ローマ軍ぐらいの
技術と根性がなきゃ大規模な攻城兵器の使用は難しい。
平城が普及し始めた戦国末期から安土桃山にかけては
古来の大型攻城兵器より大砲の普及の方が早かったんでやっぱり出番はない。
弩については遊牧や牧畜の文化に乏しく材料になる動物の腱が貴重品だったから
竹を中心とする木材を用いて強弓を作る長弓の方向に進歩した。
弩と違い熟練に長期間の訓練が必要だが、
それが逆に武家のアイデンティティーにもマッチしたため
(日本は早くから戦う人の特殊化が進んでいる)
戦国末期に手軽に育成できる飛び道具部隊の需要が発見されたとき、
既に火縄銃が出回る時代になってしまっていた。
(686:324)

なぜ日本の城下町は城壁で守られていなかったのでしょうか?

外曲輪に城下町を収容したのが小田原城で、東西50町(約5.45km)、南北70町(約7.63km)、
周囲5里(約20km)の範囲に堀を巡らしています。

基本的に日本に於ける城は防御施設ではありません。
どちらかというと、人質と守備兵を入れておく為の施設となります。

城の管理規定である、「城掟」では、城番衆の行動規程、脱走の禁止など応戦に関する条項
はありません。
家臣が出陣する際の質(嫡男とか妻)、職人・商人も領国内で営業する為に質を置き、農民は
夫役の為に駆り出され、妻子は城内に収容されて質となり、夫役は惣構の城の外周に配置
されていました。
これらは全て、城からの逃亡防止の為の措置です。

また惣構とか宿城というもので、城下町や家臣団の住地をすっぽり覆うことも行なわれています。
これも、欠落者防止、人質確保の為に作られています。

ちなみに、平城になったのは、戦国末期であり、戦国盛期は山城が主流でした。
この山城が出来たのは、悪党が不法に入手した物資を隠匿する場所として作られた所から発生して
おり、居住の為のものではありませんでした。
(136:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

忍者が実際に戦場に出て戦ったり、手柄を立てたりした例ってないのでしょうか?

服部半蔵は戦場で活躍したから江戸城の半蔵門に名前がつけられたはず
服部半蔵は、本能寺の変のときに家康が伊賀越えで三河に帰った
ときの地元工作などが評価されて名を残したはずです。

乱波(らっぱ)は読んで字の如く敵地の内情探るのが第一
次に民衆に恐怖感を吹聴する 等が任務
半蔵は甲斐、信州方面の偵察 有名な伊賀越えで無事帰国させた事で
家康の信任を勝ち取った

忍者は戦場では陽動の為の支援活動等が任務です
半蔵は家康の長男信康の介錯も務めたれっきとした武士ですので
武士として、または諜報活動等で功績があったかもしれませんが
忍者が戦場で敵を倒して手柄うんぬんはないでしょう
戦闘機や爆撃機ではなく偵察機や電子戦機のような支援的な存在です
任務中にやむを得ず戦うこともありますが
基本的には戦闘はしません
半蔵門は伊賀同心が警護していたことからその名がついたとも言われます

忍者を戦力として有効活用した例としては、天文10年(1541年)の川越の夜戦が挙げられます
北条家の川越城を上杉家が包囲しましたが、夜戦により撃退されたものです
長い間、夜間の攻撃を仕掛けたのが、北条家正規軍であったのか、忍者衆による不正規戦であったのか論争がありましたが、
正規戦であったとしては資料が極端に少なく、さらに川越城の発掘調査により、少なくとも上杉軍が忍者と見られる
不正規戦術により強襲を受けたことが分かっています。
北条家に仕えた風魔忍軍は諜報活動のほか、戦場でのかく乱、強襲を行うことが特徴で、スパイのみならずコマンド部隊と
しての性格を併せ持っていたと考えられています。
(208:830-840)


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