すばらしきわが人生 parn3

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ミュージシャン
上田正樹さん

漫画家
渡瀬悠宇さん

プロ野球選手
山本和範さん //※黄色だと見づらいのでオレンジです

社会のさまざまな分野で活躍する創価学会のメンバー。
幾多の困難を乗り越え、信仰によってつかんだ希望と喜びに満ちた人生を友が語ります。

すばらしきわが人生
PART3

♪HOLD I'M COMIN'
(字幕)上田正樹。1974年ブルースバンドの頂点といわれた「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」を結成。
その後、ソロ・ボーカリストとして、「悲しい色やね」「TAKAKO」などのヒット曲を生み出す。
これまでに出したアルバムは25枚に及び、常に最前線で幅広い音楽活動を展開している。

自分の音楽について
上田正樹さん「僕はあのー、アメリカの南部のあのいわゆるそう、『アフアメリカンミュージック』って言うんですか、黒人音楽すごい好きになって、それをこう土台にして、なんかこう自分の新しい物を作ろう。って言う気持ちでずっとやって来たんですが…」

♪悲しい色やね
演歌は違った新しいルーツを持った音楽を世界へ、という思いで活動を続けてきた上田さんは、10年ほど前、ロサンゼルスで世界のプロのミュージシャンが競い合う『国際音楽祭』に参加することになります。

上田正樹さん「でー、僕は日本でずっとまぁー、音楽活動やってまして、自分のやり方がどうなんだろう。って言うのをね、試しに行ったんです。
ステージに上がるまでの緊張感ってのはもの凄かったんです。上がると不思議になんかちゃんとこう立ってる、って言うかやっぱりこう題目に支えられているな、って言うか、そういう気がものすごくしましたね。歌うって事に集中できたと思うんですね。
でー凄く嬉しかったのが一番最後にスタンディング・オベーションがありまして、司会の方ももう1回僕を呼んで下さって、その時にね、一番いい賞を頂いたんですね。
自分のやり方はこれで間違いなかったんだ。ってその時思えたことがすごい自身に繋がって来たと思うんですよね。」

♪風が駆け抜ける
上田さんは1974年(昭和49年)大阪で近所に婦人の温かい心に触れて入会します。
以来、決して諦めないことを信条に新しい音楽の創作に挑んできました。そして

池田先生の出会い
上田正樹さん「先生、えーとお会いしたのは3回なんですが、でー先生は凄いこう握手してくださって、凄い温かい『頑張りなさい』って言う感じだったんですよね。
だから凄いこう、勇気は勇気が出ると思うんですよね。池田先生が仰ってるんですが、
音楽は国境を越える 』この一言にやっぱ尽きると思うんですよね。
だからやっぱ音楽は国境を越えないといけないと僕は本当にそう思ってます。世の中全体がいい世の中にやっぱなっていってほしい。ってやっぱり思うんです。
そのいい世の中になるために音楽が少しでも役に立つんであれば、それと人と人が認識したりとか、お互いに認め合ったりとか尊敬しあったりとか、やっぱりするその中になんか音楽があれば、もっとこう潤滑油のようになればいいなと思います。

♪お前を助けに行く
サウス トゥ サウス ’91ライス
(1991年 京大西部講堂)
70年代、若者を熱狂させた「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」が16年ぶりに復活。
変わることのないステージに誰もが熱い血を垂れ流します。
上田正樹さん「16年ぶりに、サウスが、ここで、やってます。俺が一番嬉しいのは、ここにいてるみんなが、誰もが、音楽を辞めへんかったことです!!」
観客「わああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
上田正樹さん「NEVER GIVE UP みんな!?絶対負けへん!!日本に日本にゃエエ音楽がはびこるまで絶対俺は辞めん!!」
観客「わああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」


少女コミックに連載され、大反響を呼んだ『ふしぎ遊戯』。単行本も全18巻が完結し、1200万部を突破しています。

学会員1号「『ふしぎ遊戯』ってのは、なんかキャラクターがそれぞれ個性豊かですっごいな。って思いました。」
学会員2号「主人公のみやか?ちゃんがとても心がきれいで、それでなんかこう私もそうだなぁ。と思ったり、共感するところがあったんで。」
学会員3号「絵が可愛くて、とっても楽しかった。」

テレビアニメ化もされたこの『ふしぎ遊戯』の原作者である漫画家の渡瀬悠宇さん。
1988年、『小学館新人コミック大賞』に出展した渡瀬さんは翌年、『パジャマでお邪魔』でデビューを果たし、以来次々と作品を発表。ビッグヒットを重ねてきました。

勝間田具晴さん「この本の面白さは本の中の世界とそれから現実とが、交錯するところが面白く、そこがきゅ、究極のファンタジーになってんじゃないかという、
でそういう中でそのー、t、特に主人公宮川そのー相手に対して、例えば助けてたいとか守りたいと思えばそのー自分を犠牲にすることも迷いがなくそのまま進むと。
そういったその信じることに対しての潔さがそのー読者に対してどっきりとさせるぐらいそのー魅力を感じさせるんじゃないかなぁと」

「ふしぎ遊戯」の反響
渡瀬悠宇さん「自分の作品が出て、そうやってたくさんの人に読んでいただいて、でーこう読んでてこう主人公や他のキャラクター達の行動とかで、
んー頑張ろうと思ったとか、勇気を持てたとか、頑張って学校に行こうと思うとか、うーんそういう風にね、自分も夢を持って生きようとか、そういうお手紙が多くって、んーなんかそれが一番嬉しかったですね。」

多くのファンの少女達とのふれあいを通して、希望と勇気そして友情のメッセージを送り続ける渡瀬さんもかつていじめられっ子の時代がありました。

渡瀬悠宇さん「その自分の中で現実から逃げよう、って命?が凄い強い、って言うか強かったんですね。嫌なことがあったらすぐ逃げる、って言う、いじめの時も登校拒否もしましたしー、もう卒業式もでなかったんですよ。怖くって。怖いじゃないですか(笑う?後中学校行ったらどうのとかおどかされてたのとかあったし。」

高校生になってからも続いたいじめ。その最も大変なときにいつも励ましてくれた母。この母から信仰の大切さを教えられます。

信心をして変わった娘について
母 節子さん「で、もー暗い子だったんですが、信心し始めてから凄くあれですね。変わったていう、
明るくなった。
自分で積極的にあのーねなんでも言うようになったのと、でーやっぱりこの信心ってすごいね。ってね、
で本人もあのーその頃にはあたしにね、お母さんなんで信心がこんなにいいのにね、もっとどうして早くあのー言ってくれなかったの、って逆にねあの子が私に文句言うようになったんですよね。
それぐらいにあのーすごい変わったんけんー」

信仰によって変わったこと
渡瀬悠宇さん「信心してから、ものすごく変わったってのは感じるのはそのー、前向きになったっていうか後視野が凄く広くなった。
それまでほんとに ドーン とした感じでやってももうダメだっていう、
最初からもうダメだーもう、ぜん、絶対にもうなんかこー奥のほうに奥のほうに自分から入っていってしまうような性格だったのが、
祈ってると凄く前に行こう、って言う気がね、すーこう気力がでた、っていうか生命力ですよね。
自分が自分の命が変わったら、周りも変わるんだな、ってホントに身をもって分かったっていうか、」

「逃げていたら何も解決しない。挑まなければ」と語る主人公のみあか?この主人公の姿は、信仰によって変わった渡瀬さんの姿なのかもしれません。
創価学会の中で、前向きに生きることの大切さを、人の温かさを知った渡瀬さん。
彼女は、創価学会への感謝の思いと、漫画家として必ずデビューしますという決意を手紙に託し、池田先生に届けたのです。

池田先生にお手紙を出して
渡瀬悠宇さん「お手紙を出させていただいて、こう約束をしたときにあのー、頑張ってください。っていう風にお返事を頂いたときに、
母と二人して凄く感動して泣いて、絶対がんばろ。もう絶対プロになろう。っていう風に、それが凄く発起したっていうかね、
わざわざそうやってお返事、メッセージを下さったって言うね、それホントに嬉しくて一人一人を大事にしてくださっているんだな、って言うのがすごく感じて、
だから池田先生にはお会いしたことはないんですけれども、
お手紙を出して…こうなんていったらいいのかなー、こう覚えてくださっていることがすごく自分で凄く嬉しいので、ああなんか涙出てきちゃった?
んーなんかんでもっと自分で頑張って、すごいホントに公宣流布のお役に立てる作家にね、うんなんか頑張ってなりたいな。って言うか、いまでも一生懸命やってるつもりなんですけれども、
だから夢って言うか目標ですけれども、もっと境涯の広いあのー大きい人間になりたいってのがホントに凄く思います。
世界に通用できるような作品を、書くためにももっと成長したいな、って思ってます。」


近鉄バフャローズ
 山本 和範さん

プロ野球
オールスターゲーム第1戦
(1996年 7月20日 福岡ドーム)

96年、オールスター第1戦、近鉄バフャローズの山本和範選手の代打ホームランに福岡ドームが湧き上がりました。オールスター戦にプロ20年目して初めてファン投票で選出された山本選手。多くのファンが彼の歩んできた道を見守り、このこの日を待ち望んできたのです。
ファン「山本~!頑張ろう~?」

山本和範さん「最近覚えたのがですね、えっとーホームラン打ったと マッハ・チョベリグ じゃんハハウッフフハフハ、
(マッハ)チョベリグは嬉しいです。もうベリーグッド。ホームランですよ。もう歓声がワーものすごいですよ。もうマッハの世界に入った。アッフフフ」

代打ホームランについて
山本和範さん「奇跡ですよね。あのもう代打で打てるなんて考えられないですけど、あの球場で。
まぁ皆様の歓声と共に、ホームランなってしまいましたです。
記者の皆様にはね思わず、まぁ神様仏様という言葉使ったんですけれど、
まぁ仏法ではなんか諸天善神ということで、また一つ新たな言葉を覚えて、僕自身勉強になりました。」

藤井寺球場
昨年暮れ、山本選手はダイエーホークスから自由契約となり、古巣の近鉄バファローズに再入団しました。
14年ぶりに復帰したベテランは、「苦労なんてしとらんよ。苦しいときにこそチャンスがあるんやもん。本当に今俺は楽しくて仕方がないんだよ。」と練習に打ち込みます。

20年前の1976年山本選手は戸畑商高からドラフト5位で近鉄に入団。しかし6年間1軍と2軍の間を行ったり来たりした末に82年戦力外と評価され自由契約になってしまいます。バッティングセンターのアルバイトを経て、南海ホークスにテスト入団。ここでそれまでのひたむきな努力がが実を結び、大活躍を続け、94年にはイチロー選手に次いで打率2位を記録したのです。ところがある日試合中に右肩を痛め打率が低迷、結果は球団からの自由契約の宣告でした。誰もが37歳の山本選手の引退を考えました。

2度目の自由契約なった時の心境
山本和範さん「この世界というのは非常に厳しく、情け無用ですわ。今こうしてやってくれるのは非常にいいんですけど、まぁ怪我すれば、こんな感じになるのですわ。この世界で、まぁーはっきり言ってもうクビっちゅー言葉も自由契約かな。まぁ底がなくなった、って考えてますから。まぁホント気持ちもどん底やったけどな。まぁ肩も痛めてましたし。まぁ去年の10月ですね、11月12月が一番苦しかったんじゃないかと。」

当時の状況を父一彦さんが語ります。

山本一彦さん「本人はあーー野球するために手術する、ちゅうんですよ。それだけやっぱり悪かったんですね肩が、状態が。で打っても結局そのとどかないし、外野フライだけしかならないような打ちようね。でそーいう、まあー野球にそのどうしても続けたいという気持ちがあって手術に踏み切ったわけです。そして復団へ入院したわけです。」

山本和範さん「まあーその後不思議なもんでね、もう手術する予定で、手術日も決まってたんですけれども、不思議と手術せんでいいって結果になってしまったんですよ。これがやっぱそのー素晴らしいことじゃないかなと。信心の」
山本一彦さん「毎日嫁と一緒にですね、あー非常に熱心に勤行ですね、それから題目。それはあの厳しい練習の中にですね、家に帰ってきてですねやってました。やっぱり本人は野球をそれだけ愛していたんでしょうね。野球に対する厳しい面もあったと思います。やっぱ自分自身にも、やっぱりそのーまだやれる、とやりたい!というね、このーやっぱ気持ちがあったから自分の道を進んだと思いますよ。」

不屈の闘志でみごとに這い上がってきた山本選手。それだけに「期待し、育ててくれた人への恩義を決して忘れることは出来ません。」と語る。佐々木監督もその中の一人。

佐々木恭介監督「まああのーひたむきさといいますかね。これがまずー第1点と、あとはー集中力ですよね。これやっぱ他の選手にないいいもの持ってますから、まー前半そのー活躍してくれて、もうほんとあの近鉄を救ってくれましたよね。でまぁあのー夏は彼元々弱くて、でもこの前のオールスターでまたいう代打ホームランという非常にこういい活躍しましたんでね、あの活躍で後半またやってくれると思いますよ。」

ここで指名打者山本、背番号92
「山本!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

山本選手はここ一番のチャンスの勝負強さを発揮し、ファンの期待に応えます。

自分に勝つためには
山本和範さん「そうですねやっぱ学会員の人にはホント僕自身、胸を打たれることが多いんですけれども、見習っていく点がホントにおおいですよ。人間ってモンは弱いモンですから、どうにか僕自身いっつもあの、気持ちを駆り立てて行くにはそのそういう活動に少しでも出ることだとそういう風に僕自身思っております。」
気持ちを駆り立てて行くには少しでも創価学会の活動に出ること。
山本和範さん「僕はあのー打撃のアーティスト目指して行きます。近鉄には僕以外にもキャプテンの古久保君、ショートの吉田君、創?大出身の武藤君がおりましたから。みなさんもいろんな好きな球団があるとは、思いますけどまあその中で僕らも応援してください。よろしくお願いします。」

山本和範さん「あのーオールスターに出れると思っていませんでした。ホントにそれをやっぱファンの皆様のおかげで、あのー初めてのファン投票ということで、ホントに皆さんのおかげです。ありがとうございました。あのー打てるとは思っていませんでしたし、まぐれでした。」

見事に復活を果たした山本選手。どんな困難も希望へのバネとしてしまう。ファイトあふれるプレーは、これからも夢と勇気を与え続けてくれることでしょう。

制作協力
資料提供
     パイオニアLDC
     日刊スポーツ新聞社
     サンケイスポーツ新聞社
     スポーツニッポン新聞社
     朝日新聞社
     スタジオピエロ
     テレビ東京
     よみうりランド
     近鉄野球株式会社
          (順不同)
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