闇は去り、太陽は昇った~平成の宗教改革~第二部

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第二部 日顕宗の実態と三代会長の宗教改革


池田名誉会長は日顕宗の魔の手から全学会員を守り、一方で悠然と自ら、世界に羽ばたいていった。

(拍手)
(1991年9月 ハーバード大学 講演 ソフト・パワーの時代と哲学)
犬作「ソフト・パワーの時代を切り開く、い最も大切なキーワードとして、わたくしは内発的なものということを申し上げてみたいと思います」
(拍手)

対話で世界平和を開く、池田名誉会長。世界第一級の知性が名誉会長に共感していく。
権威的で法権的な宗門の鉄の鎖を断ち切った創価学会は、堰を切ったように常勝していく。

クラーク・ストランド「宗門から離れ、学会は弘経する力が、格段に増してきたと思います。すなわち、学会は宗門から離れて、本来あるべき姿になったのです」

N.ラダクリシュナン博士「破門などによってSGIの組織破られるはずがありません。
破門によって民衆の運動はさらに発展したのです。運動が民衆運動となれば、
いかなる力もそれを打ち負かすことはできません。創価学会、そしてSGIは、そのことを見事に証明したのです」

闇は去り、太陽は昇った
~平成の宗教改革~

第二部
日顕宗の実態と
三代会長の宗教改革

所化教育の実態

宗門では昔から代々坊主を中心に派閥が形成されていた。末寺で弟子を取るから派閥が生まれる。
ならば本山で一括して弟子を取ろう。こうして昭和35年より、年分得度制度が始まった。
これは12歳の少年を対象に一括して得度者を取り、本山で集団教育する制度である。
少年達は大坊と呼ばれる宿舎に寝泊りしての修行の日々が始まる。
希望に燃えて本山に入った彼らを待っていたのは法主や先輩に対する絶対服従と暴力による制裁だった。

渡辺雄範 住職「本山に入って驚いたのは、まったくあのぉ江戸時代さながらの本山の状態でした。
言葉ひとつとっても『お目通り』とか『大奥』とか、まるで時代劇に出てくるような」

希望に燃えて本山に入った彼らを待っていたのは、法主や先輩に対する絶対服従と、暴力による制裁であった。

石井信広 住職「僧侶として生きていく中でですねまぁ重要なことということで、あのー白い壁を指差してですね、
これを猊下が黒だと言ったら、黒なんだと、絶対服従っていうことをまぁそこで叩き込まれるわけなんです」

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「オデマシデス」
所化たちは法主の前では伏せ拝と呼ばれる姿勢を取らなくてはならない。それは心服随従を意味する姿勢である。

渡辺雄範 住職「まさしくあのテレビの時代劇に出てくるようなあの殿様に対するような態度です。
で日顕と道端で会った時には端座合掌といって、まぁしゃがんで合掌すると、本当に信じられないような世界でした」

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「南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~」

大坊では想像を絶するいじめが横行していた。朝の勤行中、居眠りをする小僧は情け容赦なく殴る蹴るの暴行を加えられる。

(居眠りをする小僧に向かって頭を殴ったり蹴ったりする先輩坊主)

渡辺雄範 住職「1年にですね何回か脱走事件があるんですね、やはり、そういう本山のそういう暴力や
いじめに耐えられなくて、子供達が夜中逃げだしてしまうということも、度々ありました」

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さらには、さしたる理由も無く先輩の所化から金属バットでお尻をフルスイングで叩かれる事も日常茶飯事であるという。
(パー┗(^o^)┛ーン☆)(パー┗(^o^)┛ーン☆)(パー┗(^o^)┛ーン☆)(パー┗(^o^)┛ーン☆)

(汗流しながらケツバットに耐える小僧。………ウホッ)

菅原雄政 住職「まぁあの、教育、所化教育というその教育という言葉が使われますけれども、
実際には教育というよう内容なことはほとんどないわけで、言うことをきかなければ、まぁ暴力でそのーおさえつけると」

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10代の多感な頃に受ける教育は、その後の人格形成に大きな影響を与えると、兵庫教育大学・梶田学長は指摘する。

梶田叡一 学長「教育という名に借りてですね、自分が腹を立てた、
その腹を立てた気持ちをですね、子供にぶつけてです子供をですねまぁ、結果しいじめる。
そのいじめられた子・虐待された子がね、大きくなって、自分がですね教育する立場に立った時に同じことやるんです。
自分が腹が立ったからです、怒鳴りちらす。ある意味でこれも卑劣な話なんですね」

この異常な暴力体質の元凶はどこにあるのだろうか?

渡辺慈済 住職「で日顕がなってからでしょ、そんな、日顕になってから暴力を振るうっちゅうことが、平気な人間を育てちゃったわけだな」

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日顕「南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~南無妙法蓮華経~」
午前二時半に行われる丑寅勤行。東を向く日顕は常に小僧達の様子を観察している。耐えかねて居眠りをする小僧を見つけた時…
丑寅勤行を終え、大奥へと戻る廊下で、いつもの 『瞬間湯沸かし器』 が爆発する。

日顕「 おい!お前!誰が寝ていいって言ったんだ。YO!誰が寝ていいって言ったんだ!YO!
小僧「はい」
日顕「貴様ァッ!」
小僧「はい」
日顕「YO!答えろ!YO!YO!YO!YO!…ハァハァ」
(扇子で小僧を殴りつける日顕。途中扇子が壊れる)

そして次に日顕はその頃得度したばかりの山口雄在住職に声をかけた。

日顕「 あ~~。お前は、ユウゾン(雄存)だったな
(日顕ユウゾンの頭を扇子でペシペシ叩く)
ユウゾン「 いえ!雄在(有罪)でございます!
日顕「 なぁにぃ~!?キサマァ!お・ま・え・は!ユウゾン(牛丼)なんだ!YO!YO!!
貴様ァッ!お前は!ユウゾン(牛丼)なんだ!YO!
(日顕また爆発して叩きまくる)

山口雄在 住職「『おい!貴様は山口ユウゾンなんだよ!』すみません…。
私はあの、当時目を合わせることもできませんし、このいくら顔を上げろと言われても、
この目を合わせて見ることができませんので、必死に言われるまま、
『はい!山口ユウゾンでございます』と言うしかありませんでした」

この屈折した大坊生活で叩き込まれるもの、それは徹底した差別意識である。 『僧が上で信徒が下』

渡辺雄範 住職「まぁ私たちが出家した時に、まぁ一緒に出家した子供達を見てたらわかるんですけど、
まぁはじめはですね、例えば本山に池田先生が来ても、『あっ、池田先生が来た』という風に喜ぶ子もいましたした。
ところがですね、だんだん池田先生がですね池田さんになるんですね。そのうち池田になります。
で本山では、何て教えるかというと、『たとえ池田名誉会長でもお前達よりは下なんだ』と、という風に教えるんですね」

貧しき時代も知らないので、信徒のご供養に対する感謝の念も持たず、繁栄も当たり前のように受け止めていた。
日顕宗が主張する『僧が上で信徒が下』という差別感覚は、日本仏教界特有の檀家制度の弊害によるものである。



葬式仏教

日本における仏教寺院は徳川幕府の時代に、民衆の支配するための権力機構に組み込まれた。
幕府は庶民を強制的にいずれかの寺院の檀家とさせた。これが檀家制度である。

赤池憲昭 名誉教授「それはある意味で、えー…、社会的なしい政治的な意味で、宗教が、ま、
いわば日本に広がったということであって、宗教を持っているその信仰の力が、
仏教の信仰が広がったということと、ちょっと違うんですね」

檀家制度は、一度入った寺から離れることが許されない純粋な信仰心を蹂躙する悪政であった。
そして幕府は、キリシタンであるか否かを判定する権限を寺院に与えた。
権力と結びついた仏教界は布教を忘れ、葬式と法事が専門の『葬式仏教』へと堕落していく。

小林正博 主任研究員「東南アジアのあの南伝仏教の国っていうのは、例えばタイにしてもミャンマーにしても、
出家者に対してもう心の底から民衆たちが尊敬すると。えー、そしてそこへ供養すると。
ま、韓国の場合には、あの僧侶が葬式にタッチするということはないわけですね」

権力依存体質の行き着いた果ては人の死を商売にする腐敗・堕落の姿であった。
それは同時に日本仏教界の死をも意味していた。

赤池憲昭 名誉教授「今の坊さんにこんなこと言ったらお坊さんに怒られるけれども、
何やってんだかっていう坊さん結構いますよ。お金を儲けることが坊さんの仕事だと。
しかし、口先では、ね、仏陀の教えはこうですよ、と言う」

こうした死を商売にする檀家制度の弊害を、色濃く受け継いだのが日顕宗である。
日顕宗は「医師の塔婆を立てなければ故人は成仏しない」という脅迫商法まがいの邪義を述べている。
当時、学会の発展に伴い、塔婆供養は莫大な数となっていた。大石寺では1日に5000本もの申し込みがあった。

山口雄在 住職「ぇー、しかし、ま、それを書くのは高校生。
何かウォークマンを聞きながらであったり、あるいは、お菓子を食べながらであったり、
信者さんには表向き見せることができないような乱雑な字で書いているのが実態でありました」

さらには、この塔婆を削って使い回しをしていたという。坊主丸儲けとは、まさにこのことである。
また、その葬儀においても日顕宗は僧侶は引導を渡さないと、成仏しないとの邪説を唱えている。

斉藤克司 教学部長「大聖人は、まず葬儀については、葬儀を執行すんのが僧侶だということは一切言われておりません。
釈尊の教えを見るとですね、『僧侶は葬儀に関わっちゃいけない』とまで言われているんですね」

東京大学市川教授はこう指摘する。

市川裕 教授「それは金儲けのためなのかそうでないのかっていうのを、あの信徒の側も見分けなきゃいけないわけですね。
衣を着た人が言うんだから、あのーこれは下手すると、自分のあの成仏が関わ、
関わってくるということになるとですね、なかなかその…不正を見抜けない」

死を商売にする宗教と戦い、真の宗教を蘇られたのが、創価学会の歴代会長である。学会の歴史はまさしく宗教改革の歴史、そのものなのだ。

三代会長による宗教改革

昭和5年11月18日、大聖人の仏法を基調にした教育改造を目指して、創価教育学会が設立された。
初代会長は牧口常三郎先生。戸田城聖理事長との二人の活動から始まった学会は、やがて仏法を根本とした公宣流布の団体へと発展していった。
しかし、日本は国家主義・軍国主義の道をたどり、やがて戦争へと突入していく。
昭和14年には、宗教團體法が可決。国家による宗教統制が加速した。
16年には思想・宗教弾圧の法律である治安維持法が全面改正され、戦争遂行への思想統制が強化されていく。

そして、太平洋戦争が始まった。
学会の機関紙「価値創造」も翌17年廃刊に追い込まれる。
一方、軍部政府による弾圧を恐れた宗門は、大聖人の教えさえまげて軍部にオモロッテ(?)いくようになる。
この時代には不都合とばかり大聖人が末法のご本物として確信を述べられた御文を中心に御書の一部を削除した。
また、戦争を賛美する訓諭を発し、戦意を鼓舞するとともに、信徒には伊勢神宮を拝むよう徹底させている。
こうした状況の中、牧口初代会長は、特攻警察の監視の下2年間で実に240回を超える座談会を開催し、正義を悠然と語り続けた。

市川裕 教授「外では戦争をやって、内では人権を蹂躙していたっていう、そういう時代ですから、
そぉう…その時にまさにその牧口・戸田の二人が出てきたわけですね。だからまぁ、日本が試されたという感じですね」

学会の登場で檀家制度以来、数世紀ぶりに民衆が宗教の主役となった。

塩原将行 事務長「1対1の対話ってことが大事だっていうかたちで、
牧口先生は座談会っていうことを大切にされたんだと思います。
で、それは決して座談会という場をつくるというよりは、人との対話の中でその人を啓発していくという、
実は、この創価の座談会の運動論というものを生み出されたところに、
あのー牧口先生の宗教改革の達見っていうのがあったのではないかっていう風に、私には思います」

宗門はこうした学会の行動が弾圧の理由になると、昭和18年6月、牧口会長に登山を命じ、神札を受けるように申し渡した。しかし、牧口会長はそれを拒否する。
「神札は、絶対に受けません」
下山の途中、牧口会長は戸田理事長にこう語った。
「一宗が滅びることではない。一国が滅びることを、嘆くのである」「いまこそ、国家諌暁の時ではないか。何を恐れているのか」と。

そして戦争はいよいよ激化していく。

7月6日、牧口会長は折伏に訪れていた静岡県下田で検挙される。
同日に、戸田理事長も逮捕・拘留された。罪状は、治安維持法違反並びに不敬罪。
牧口会長の子息、洋三さんの夫人である金子貞子さんは翌日面会に飛んで行った。



金子貞子「玄関から入ってこうらせん的なこう階段だったんですね、まわりにけっこう人が、警察関係の人が立ってました。
あぁそれでその中でね、あの『決して心配することはない』っておっしゃってね、
んで、『信心だけは怠ってはいけない』という、大きな声でね、私に向かっておっしゃいました」

慌てた宗門は我が身に累が及ぶことを恐れ、牧口会長らに対し、登山停止文を下した。
警視庁で特攻の取り調べが始まった。牧口会長は当時72歳、尋問は約2カ月半に及んだ。
牧口会長は検事に対し堂々と立正安国論を引き、軍国主義の誤りを述べ、仏法の正義を語っている。
のち、巣鴨の東京拘置所に移管され、3畳の独房での闘争が始まる。牧口会長は獄中で多数の書簡をしたためた。

金子貞子「手紙の中にいつもそのー『自分がこういう中にいてもね、
あの心しだいであのー…ホントに地獄も極楽にね』なんていうことを思いなされて、
そのお手紙の中に書いてらっしゃいます、もう本当にねーあのー私は心を打たれましたね」

一方、宗門は軍部政府に迎合し続ける。全国の末寺に神札を祀るように指示を出し、
本山では戦勝祈願の唱題会も行っていた。まさに大謗法にまみれた姿がそこにあった。
昭和19年10月13日、獄中からの便りが絶筆となる。その末尾にこう記されている。
「これゆえ三障四魔が奮起するのは当然で経文通りです」
そして、約1カ月後の11月18日、東京拘置所にて牧口会長はその偉大なる生涯を閉じた。

その半年後、大石寺は大火事となり、時の法主鈴木日恭は焼死する。
それは大聖人のお怒りがいかばかりであったかを物語る出来事であった。

昭和20年7月3日、豊玉刑務所から戸田第2会長が出獄。獄中にて法華経をみで読み、
地涌の菩薩を自覚した戸田会長は創価学会の再建、日本の公宣流布に一人立つ。
生涯の願行として750万世帯の折伏を宣言した戸田会長は、本格的な弘経拡大に駒を進めた。
公宣流布の開始にあたって戸田会長が真っ先に行ったことは御書の発刊であった。

戸田会長は生前こう語っていた。
「牧口門下は教学がないから退転した」
戸田会長を深く信頼していた、宗門の碩学堀日亨上人の監修を得て、御書発刊へ向けての作業は進められていく。
しかし、戸田会長と堀日亨上人との信頼関係と学会の前進をねたんだ宗門は御書編纂の生業を黙殺した。

渡辺慈済 住職「いや、あれは学会がやることだから勝手だよ。宗門には関係ないよっていう…。
御書を出すんだからっていえば少なくても10人や20人の手伝いを教学部の方からまわしてくるのが本当でしょう。
それをしなかったところにやっぱり教学部の狭さっていうか、その一番のもとはやっぱり阿部日顕なんだよ。
教学就任なんだから。最後の最後まであれですよ、堀上人を苦しめたんだから」

戸田会長は戦時中牧口会長を死に至らしめた宗門への怒りを生涯忘れなかった。
「先生の法難に驚いて先生を悪した坊主共よ、法を捨て先生を捨てたる意久地無共よ。
懺悔滅罪せんと欲すれば我等が会に来って先生の威風を仰ぎ佛の御訓に随順すべきであるぞ。」

信徒が各家庭で朝晩の勤行をするにしたのも戸田会長である。
それは、民衆が聖職者に騙されることなく、自立して信仰の実践を始めた宗教改革であった。

谷川佳樹 副会長「まさに一人一人が、地涌の菩薩の自覚でえー…勤行をし、題目をあげ、
折伏をし、自分たちの使命として闘争として、大聖人の仏法を実践して世界に弘めていく、
自分も師匠とともに戦おうといううねりを起こして、これだけの世界公布の未曽有の時代を開いた。
これが創価学会の宗教改革ということだと思います」

昭和27年には学会員4000人が参加し、立宗七百年祭が行われた。その時、学会の青年部がある人物を探し出す。
戦前に「神本仏迹論」という邪義を唱え、牧口会長らが投獄される因をつくった小笠原慈聞その人であった。
青年部は小笠原慈聞に戦時中の邪義を追及する。はじめはその非を認めなかった小笠原も
ついに牧口会長の墓前で謝罪文を書いた。この行動はのちに狸祭り事件(笠原事件)と呼ばれる。
宗門はこの学会の行動に対し、強い拒否反応を示した。「信徒のくせに僧侶には向かうとは何事だ」と。

そして宗門は集会議員の決議により、戸田会長に対し登山を停止するとともに、大講頭をも罷免する。
戦時中に続き創価学会にとって2度目の登山停止処分である。
当時の聖教新聞の寸鉄に戸田会長はこう記している。
「三類の悪人の仕業の中に『遠離塔寺』と言つて寺から追い出すやり方がある、悪人共がさ。」
「折伏も出来ず、御衣の権威で威張ること許りを知つとる坊主の学会に対するやきもちだからさ。」
登山停止を撤回させるために集会議員の寺を一件一件まわったのが、若き日の池田名誉会長を中心とした青年部であった。
そして、全面取り消しを約束させた。

750万世帯の偉業を達成した戸田第2代会長は、昭和33年3月16日後継の青年に公布の一切を託す。
「追撃の手を緩めるな」との遺言を残し4月2日、安生として霊山に旅立った。



(♪威風堂々の歌)
昭和35年5月3日、池田先生が創価学会第3代会長に就任。戸田第2代会長の意思を継承して、公宣流布の陣頭に立つ。
犬作「若輩ではございますが、本日より戸田門下生を代表して、化儀の公宣流布目指し、一歩前進への指揮を執らさせていただきます!」
(拍手)

この第一声の獅子吼から学会の新たな前進が始まった。そして、恩師の遺言であった世界公宣流布への一歩を踏み出す。
「東洋に、そして世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」「君の本当の舞台は世界だ」
師匠・戸田城聖会長の願行を一身に背負ったその戦いは全世界を舞台にしての公布の胎動を開く壮絶な戦いであった。
同時に真の僧俗和合を目指して宗門の外護の赤誠を貫く。これにより宗門は未曾有の発展を遂げていく。

昭和47年10月、全世界800万信徒の真心のご供養によって公布の殿堂たる正本堂が完成した。
民衆の民衆による民衆のための殿堂である正本堂はまさに全世界に開かれた民衆率の会談であった。
しかし、この頃から宗門と創価学会との間で公宣流布に対する考え方の違いが浮き彫りになってきた。

原田稔 副理事長「このできあがった正本堂のあの盛儀の時には、えー世界各国の外交団、日本の外交団の数多くの人たちが、
えー来賓として参加したし、また、その間においても様々な意味で、先生の世界的な活躍がある。
そういう姿に宗門としては間違いなく、このえー先生の存在というものに嫉妬を抱いてきた。
そしてまた、あれだけの素晴らしい正本堂を建立するという、学会の底力というものにある意味では、コンプレックスを抱いた。
そうした大きな隔たりのもう最大の原因がそこにあったのではないかと…」

この、反学会感情を利用し金儲けを企んだ男がいる。山崎正友。
学会出身の弁護士でありながら学会に対し、億単位の恐喝を行い、懲役3年の実刑判決を受けた男。
昭和50年頃、学会が静岡県富士宮市に建設した墓苑の建設計画を巡って、
山崎は地元の有力な実業家と癒着、土地ころがしやリベートを受け取ることによって、巨額の裏金を手にした。
金儲けに味をしめた山崎が考え付いた策略が宗門と学会を支配すること。
宗門の権威を使って学会を操ることができれば大金を得られるという妄想に取りつかれた。

原田稔 副理事長「宗門側には、このー学会のえー反学会感情をあおるような、そういう情報を流して。
そして、えー宗門側には、『自分が参謀役となってえー学会との関係をおさめますよ』ということをいいながら。
そして、学会側には、えーまったく知らぬ存ぜぬのそういう顔をしながら、『私がおさめましょうか』という風に乗り出してきたと。
まさにもうマッチポンプなどという言葉ではこの表現できないぐらいの謀略の男」

山崎は信者から告発を装った謀略文書を宗門内部に持ち込んだ。それは学会が宗門支配を企んでいるとのデマ文書であった。
さらに山崎はマスコミを利用し、度重なるデマを流すことで、宗門に学会への不信感をあおりたてる。
山崎のマッチポンプ手法に撹乱された宗門の反学会感情は全国の末寺にも飛び火していった。

原田稔 副理事長「かなり数多くの連中が、えー当時、公布された週刊誌を振りかざしながら、
もう『創価学会を辞めなければ成仏できない』とか、
あるいは、『創価学会を脱会しなければ葬儀に行ってあげないぞ』とか、こういう脅かしをかけてきた」

「私は苦悩した。 ――これ以上、学会員が苦しみ、坊主に苛められることだけは、防がねばならない。」

昭和54年4月24日、どこまでも公布のため僧俗和合を願い続けてきた池田先生は第3代会長を勇退、名誉会長となった。
「学会伝統の総会も…宗門の"衣の権威"の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった
しかし、私の見つめる同志の目は真剣であった
体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、
けなげな婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない」

その後、池田名誉会長は神奈川文化会館へと向かう。そこで名誉会長は『正義』の文字をしたためた。
「われ一人正義乃旗持つ也」
そしてただ一人、反転攻勢への戦いを開始したのである。

大場好孝 副理事長「『指導してはいけない』、『先生と呼んではいけない』、『先生の写真を載せてはいけない』。
そういうことをー…まぁ理不尽な要求が出されておりましたんで、
先生は『指導をしていけないのならばあぁー…記念撮影をしよう』と。
それから『話し手はいけないというのならばピアノを弾いて激励しよう』と。
それから『会合で話してはいけないというのならば、家庭訪問しよう』と。
こう言われて先生はあぁー実行されました」

「神奈川文化会館の前から、海を見つめて、これからは全世界に指揮を執ろう!そう決意していたのである」
神奈川文化会館、創価大学、そして立川文化会館を拠点に、正義の闘争は続いていく。

「もう一度、新しい創価学会をつくり直す覚悟で
一人、また一人と、同志を励ますことから始まった
私は、徹して同志のなかに飛び込んだ
会うこと、それ自体が戦いであり、一瞬一瞬が真剣勝負であった」

卑劣な坊主や反逆者をもろともせず、池田名誉会長と会員の絆はさらに強靭なものとなった。
名誉会長のこの戦いがあればこそ、嵐に揺るがぬ不滅の師弟の城は築かれた。

第二部 完
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