栄光のトランペット

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栄光のトランペットで大野さんが話していた言葉です

(栄光のトランペットの最初に出てくる船)

☆ナレーター☆
ジャズの長い歴史が刻まれているライブスポット、ブルーノート。今、ニューヨークで最も賑わっている。
シュンゾウの名で親しまれ、ニューヨークを拠点に25年間音楽活動を続ける大野俊三さん。この夏、ドイツフランスを始め、一か月に渡るヨーロッパツアーを終え、元気に本拠地に戻ってきての熱演である。ジャズ界のシンボルとして名高いディジー・ガレスピーとの出会いは、大野さんの音楽に大きく影響、1983年には音楽界の最高栄誉であるグラミー賞に輝いた。またギル・エバンスとも五年半に渡り活動。二度目のグラミー賞に受賞している。

(岐阜県岐阜市を走る車)

☆ナレーター☆
岐阜県岐阜市で食堂を営む家庭で育った大野さん。少年時代からトランペットを離さず高校時代からは創価学会に入会していた両親のもと、中部音楽隊に所属、活躍してきた。トランペット奏者への夢はプロの道へと膨らむ。大野さんの才能を認めていた先輩の紹介で上京。ジョージ大塚クインテットを始め、一流バントのメンバーとして活躍。評価を高めていく。
大野さんがアメリカに渡ったのは、1974年、24才の時日本公演で来日したアート・ブレイキーとNHK世界の音楽で共演。ニューヨーク行きを勧められ、その翌年にも再び誘われたことで決心が固まったのである。ニューヨークでは超一流の中で修業。実力を発揮していく。

(ここには大野さんのセリフが入ります。追記お願いしま~す)

☆ナレーター☆
自分の作曲した曲が思わぬ大ヒットをしたことによって大野さんは有頂天となり、些細な事からエージェントと喧嘩しバンドをやめてしまう。収入がなくなった大野さんは生活は荒れ放題。食事にも困るようになり、廃人同様のホームレス状態に転落する。このころ大野さんは信仰から遠ざかっていたが、その忘れていた信心で立ち上がる機会を作ってくれたのがアメリカSGIのメンバーであった音楽仲間の一人であった。

(ここには大野さんセリフが(ry

☆ナレーター☆
信心に目覚めた大野さんは蘇生を目指してビルの解体工事、皿洗いなど必死に働き生活の軌道を取り戻すために懸命に努力する。1981年、アメリカを訪問していた池田SGI会長と初めての出会いを果たす。その喜びをトランペットに込めてover the rainbowを演奏。真心からの激励を受ける。
(ここには(ry)

☆ナレーター☆
再起を目指し変わっていく大野さんに再びチャンスが次々に訪れ、全米ツアーにワールドツアーにと一流音楽家への新しい活動を開始し、逆光を浴びるように。

(アメリカSGIアーモン地区)

☆ナレーター☆
大野さんは世界を駆け巡ることが多い。しかし地域では副地区部長として、時間を見つけては地道に活動に取り組み家庭訪問などに足を運んでいる。1987年、創価班の一員として参加していたマイアミ研修センターにおいて池田SGI会長に激励を受け、学会とともに、同志とともに、そしてさらに世界で活躍する音楽家として成長することを固く決意する。

☆ナレーター☆
しかし1988年、大野さんは個人指導の帰り道、友人の車で交通事故にあう。
(アメリカを通る車)
(栄光の救急車の直前の事故)
(栄光の救急車)
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