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久留米と大分を結ぶJR久大線で久留米から筑後川を遡るように20kmほど走ったところに駅舎が河童というユニークな田主丸駅があります。田主丸は平成の大合併で久留米市になった町で、現在の東西に長い久留米市の東端5分の1くらいを占めています。旧田主丸町は河童の町として有名でした。ここを河童で盛り上げたのが芥川賞作家の火野葦平。 火野葦平(1907-1960)は現在の北九州市若松区で生まれ育った作家。東京の阿佐ヶ谷に書斎を設けていたものの飛行機で頻繁に九州に戻り、執筆の中心は九州の自宅だったとか。東京の書斎を鈍魚庵、九州を河伯洞と名づけていたらしい。河伯洞は河童の住むところという意味。そんな名前をつけるくらい河童好きだったそうです。その河童好きの葦平が、「河童のルーツは九千坊。その総本山はここだ」、と紹介したのが田主丸です。 1941年に河童をよく題材に取り上げる葦平は、河童のように泳ぎが得意で鯉を抱きかかえるように漁るという奇特な芸当を持つ漁師に引き合わされた。その様子を気に入った葦平はその後も交友を続け、1955年には「九千坊本山田主丸河童族」を結成。その「九千坊本山田主丸河童族訓」には「すべては、なんの屁のカッパ。カッパは虚飾を捨てて裸である。カッパは我等の心に出没し、共に楽しみ共に悲しみ、そして共に怒る。つねによき生活の夢を描き飽くことなし。茶を啜り真実を求めて放談す。庶民に与えられたこの幸福よ。九千坊本山田主丸のカッパ族の自由よ」とある。いわばただの飲み会の名目程度のものなのでしょうが、人気作家である葦平は会のメンバーを作品に登場させたりしながらここを精力的に紹介したそうです。件の漁師との交友は死の前日まで続いたとか。 となりまちの久留米にいた丸山も葦平のことを知らないはずがなかったと思います。1937年から4冊刊行された久留米発の同人誌「文学会議」では創刊から3冊まで丸山が同人で、2冊から4冊めまで葦平が同人。早稲田文学部つながりだし。ミリオンセラー作家の葦平は印税で早くから生活が安定していて、九州の文化人を自宅やいろんな場所に呼び集め、親分肌なところを見せていたそうですから丸山も招かれたことがあっただろうと思います。『筑後川』が1968年。葦平の死後8年目だから記憶には薄れかけていたかもしれないけれど、筑後川を題材に、と思って河童、九千坊、と連想されていたとしてもあまり不思議ではありません。 丸山だけでなく、團も葦平とは交友がありました。1954年には葦平原作の映画「花と龍」の映画音楽を担当していますし、ときどき葦平の宴席に呼ばれていたそうです。 河童という一見すると全国区な言葉が、実はものすごく地域に根ざしたご当地ソングキーワード。なんとなく普遍性があって、素朴でユーモラスで、原体験とか、そういう言葉。こういう町おこしのネタがあるのって、ちょっとうらやましいです。  

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