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#ref(mokurou011.jpg) わが国は 筑紫(つくし)の国や 白日別(しらひわけ)  母います国 櫨(はじ)多き国    (青木繁) 明治浪漫主義の旗手と謳われた不遇の天才洋画家・青木繁(1882-1911)は久留米市出身。16歳で上京して東京美術学校を卒業し、すぐに代表作<<海の幸>>で古代への憧憬を描き上げて当時の美術界に衝撃を与えましたが、父の死をきっかけに25歳で帰郷し、1年後から放浪生活、28歳で病死という短い人生を送りました。その放浪中に佐賀あたりで詠ったとされるのが冒頭の和歌。白日別は古事記に出てくるこの地域の名前。「はじ」は恥にも通じるところがあるのかもしれませんが、どうでしょう。この歌碑は久留米市・ケシケシ山山頂にあります。 さて、櫨多き国といわれたこの地方。 櫨は、ウルシ科の落葉喬木で、福岡、佐賀、大分をはじめ九州各県と四国に多く植えられています。櫨はローソクの原料となるロウを出す木です。日本にローソクが輸入されたのは仏教伝来の頃か、奈良時代。遅くとも722年とされています。しかし、戦国時代ローソクは輸入品で、一部東北産のウルシのロウを使用したものの高価で生産量も少なかった。江戸時代初期から櫨の生産を始め、ローソクの国産化、量産化が可能になった。各藩は財政のためロウの生産でしのぎを削り、久留米藩でも、享保15年(1730)竹野郡亀王村(現田主丸)の庄屋竹下武兵衛が初めて栽培しました。その後、小郡市の内山伊吉が優良種「伊吉ハゼ」を生み出し、筑後一円に広く普及して、筑後ハゼの名声が高くなったそうです。米についで藩の財政に寄与したそうですね。 しかし、需要の落ち込みには勝てず、青木繁がこのうたを詠んだ明治40年代をピークに下降の一途。当然櫨の木は果樹などに置き換えられていきました。 http://www.nittokusin.jp/17_mokurou/pdf/mokurou_seisan.pdf 青木繁は死の4ヶ月前、友人に 「当地にて焼き残りたる骨灰はついでの節高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めてくだされたく、小生は山のさみしき頂きより、思い出多き筑紫平野を眺めてこの世の怨恨と憤まんと呪そとを捨てて、静かに永遠の平安なる眠りにつくべきそうろう。」 と、遺言を残しました。そしてこの言葉に心を動かされた人たちによって、ケシケシ山山頂に件の歌碑が建立されました。そして、この山へ向かう登山道となる柳坂曽根の櫨並木を保存する動きへとつながり、櫨の木が多かったはずの九州北部にあって、県の天然記念物の指定も受け、街路樹百選にも選ばれました。 http://www.yado.co.jp/tiiki/tikugo/hazenamiki/hazenamiki.htm 観賞で櫨といえば、童謡「ちいさな秋」で、 ♪ ハゼの葉赤くて入日色 とも歌われる、紅葉の赤さが特徴の木。秋の曽根の櫨紅葉は圧巻だそうです。 紅葉という物悲しさ。斜陽産業の残骸の櫨の木。冬に向かう季節を一斉に赤く染める筑後川の彩りの一部。 ♪ くれないのはぜの葉 そうですね。櫨の葉は赤いです。真っ赤です。 もう、すぐに終わりが近づいています。 写真は日本特用林産振興会HPトップの写真を無断引用です。  
#ref(mokurou011.jpg) わが国は 筑紫(つくし)の国や 白日別(しらひわけ)  母います国 櫨(はじ)多き国    (青木繁) 明治浪漫主義の旗手と謳われた不遇の天才洋画家・青木繁(1882-1911)は久留米市出身。16歳で上京して東京美術学校を卒業し、すぐに代表作<<海の幸>>で古代への憧憬を描き上げて当時の美術界に衝撃を与えましたが、父の死をきっかけに25歳で帰郷し、1年後から放浪生活、28歳で病死という短い人生を送りました。その放浪中に佐賀あたりで詠ったとされるのが冒頭の和歌。白日別は古事記に出てくるこの地域の名前。「はじ」は恥にも通じるところがあるのかもしれませんが、どうでしょう。この歌碑は久留米市・ケシケシ山山頂にあります。 さて、櫨多き国といわれたこの地方。 櫨は、ウルシ科の落葉喬木で、福岡、佐賀、大分をはじめ九州各県と四国に多く植えられています。櫨はローソクの原料となるロウを出す木です。日本にローソクが輸入されたのは仏教伝来の頃か、奈良時代。遅くとも722年とされています。しかし、戦国時代ローソクは輸入品で、一部東北産のウルシのロウを使用したものの高価で生産量も少なかった。江戸時代初期から櫨の生産を始め、ローソクの国産化、量産化が可能になった。各藩は財政のためロウの生産でしのぎを削り、久留米藩でも、享保15年(1730)竹野郡亀王村(現田主丸)の庄屋竹下武兵衛が初めて栽培しました。その後、小郡市の内山伊吉が優良種「伊吉ハゼ」を生み出し、筑後一円に広く普及して、筑後ハゼの名声が高くなったそうです。米についで藩の財政に寄与したそうですね。 しかし、需要の落ち込みには勝てず、青木繁がこのうたを詠んだ明治40年代をピークに下降の一途。当然櫨の木は果樹などに置き換えられていきました。 http://www.nittokusin.jp/17_mokurou/pdf/mokurou_seisan.pdf 青木繁は死の4ヶ月前、友人に 「当地にて焼き残りたる骨灰はついでの節高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めてくだされたく、小生は山のさみしき頂きより、思い出多き筑紫平野を眺めてこの世の怨恨と憤まんと呪そとを捨てて、静かに永遠の平安なる眠りにつくべきそうろう。」 と、遺言を残しました。そしてこの言葉に心を動かされた人たちによって、ケシケシ山山頂に件の歌碑が建立されました。そして、この山へ向かう登山道となる柳坂曽根の櫨並木を保存する動きへとつながり、櫨の木が多かったはずの九州北部にあって、県の天然記念物の指定も受け、街路樹百選にも選ばれました。 http://www.yado.co.jp/tiiki/tikugo/hazenamiki/hazenamiki.htm 観賞で櫨といえば、童謡「ちいさな秋」で、 ♪ ハゼの葉赤くて入日色 とも歌われる、紅葉の赤さが特徴の木。秋の曽根の櫨紅葉は圧巻だそうです。 紅葉という物悲しさ。斜陽産業の残骸の櫨の木。冬に向かう季節を一斉に赤く染める筑後川の彩りの一部。 ♪ くれないのはぜの葉 そうですね。櫨の葉は赤いです。真っ赤です。 もう、すぐに終わりが近づいています。 写真は日本特用林産振興会HPトップの写真を無断引用です。 #ref(hazenamiki.gif)  

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