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棹を入れる

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chikugogawa

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中学生の頃は後背湿地というだけでドキドキしましたw
相変わらずのエロネタ日記ってことで。注意報発令中。


ある程度、曲が頭に入ったところで丸山の詩を読み直してみよう。
おやっと思うことは、「しずかに」が繰り返されていること
しかし「あたらしい棹」の前には「しずかに」がないこと。まぁそこまではいい。
あと数行に一度「。」がついていること。

では「うなじ」の行までの情景を考えてみる。
「。」が2個。それぞれの「。」までを便宜的にパラグラフと呼ぶことにすると、第1パラグラフでは「川の男」の描写。第2パラグラフでは「川の女」の描写であるととれる。
いや、そうだろうか。
第1パラグラフはあまり違和感のない漁師、あるいは船頭の姿と思えば何の違和感もない。しかし、第2はどうだろう。棹を入れるのは船頭さんの仕事だ。そしてその仕事は古今東西を問わず男の仕事だ。團が曲想を深めるために乗り込んだ船の船頭さんも本村栄次さんという男性だったし。女性を漁業や船舶業界から締め出したいというわけではないが、「あたらしい棹を入れ」たのが「川の女」とはにわかに信じがたい。パラグラフごとに男性と女性を描写し分けているというほど簡単な構成ではなさそうだ。
となればこの文脈は「あたらしい棹を入れ」たというイベントが発生したところ、視界に「川の女の清らかなうなじ」が入り、感慨深かったことよ、というように主語を切り分けて考えるべきだろう。念のため第1パラグラフに戻りどうように理解できるかと考えてみると、「楠の木かげを漕ぎだした」というイベントが発生したところ、視界に「川の男のたくましい胸板」が入って感慨深かったと思ってみて特に違和感はない。
エツ漁にしろどんこ舟にしろ、漕ぎ出した舟そのもので生活に密着した女性の姿を1次的には配置しづらい。漁ったエツを新鮮なうちに女体盛りでいただくような風習ないですしね。そもそも生暖かいとまずそうだし。となると、普通に同行した乗客か川沿いの景色に溶け込むように居た女性とでも思うしかないし、となると「川の女」という以上に情報がない。

と、行き詰ってしまったら、改めて『筑後川』全編に横たわるテーマ、つまり川の描写と、流域の生活と、人の成長と、男女の愛、とか言うものの暗喩された世界観を持ち出すべきだろう。とりわけ男女の愛は重要だ。團伊玖磨がこの「銀の魚」に寄せた短いメッセージでも「静謐の中に息衝く男女の暮らし」とある。何を描いているのだろう。息衝くとは、生きること、嘆くこと、あえぐこと。ん?あえぐ。
胸板、たくましさ、棹、うなじ。キーワードはある一連の世界を描く言葉。男女の営み。あたらしい棹を入れる、えっぅ、「あたらしい棹を入れる」ってもしかしてそのまんまそれ?
ってことは、棹を入れて視界にうなじが入るのならバックで、漕いで視界に男性の胸板が入るなら騎上位ってことですか。それでmfの裏でpの「あー」って喘ぎ声ですね。

初演を務めた久留米音協合唱団常任指揮者の本間四郎氏の弁によれば、作品づくりの真っ最中の團と丸山の活発なやりとりとして、

丸山先生も「銀の魚」の(清らかなうなじ)を指さして、「何とも言えない色気のあるところです。」・・・となるほど。さらば歌でうまく表現しましょう

というのを語っている。
で、こういう音楽にしたわけですか。はいはい。つまりこのあたりは中学生向けじゃない音楽を作りようがあるってコトですよ。
まっ、ぼくたちは永遠の中学生なんですけどね。

(この文書は、第二中学校という中学生が取り上げる曲を歌ってみる大人の合唱団メンバー向けに日記形式で書かれたものです)



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