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1791年8月末、弟子のジュスマイヤーと『ティトの慈悲』をわずか18日で書き上げようとしていたモーツアルトは、そんな合間にも滞在中のプラハで中心部を流れるヴルタヴァ川(Vltavaドイツ語でMoldau)河岸で行われた夏祭りに出向き、現地の音楽のメモ、あるいはそれを題材にしたと思われる曲のモチーフをスケッチとして残した。「灰色の服を着た男」からの作曲依頼にこたえるため、ジュスマイヤーに構想を伝える一環と考えられている。
それから100年以上たった1922年、欧米視察団を率いた團琢磨(三井財閥の総帥で、後に日経連の会長)は訪問先のパリで産業技術の見本、あるいは記念品として、当時開発されたばかりのヘルシュライバーと呼ばれたファクシミリの原型品でコピーされたこのモーツアルト自筆のスケッチを渡されたらしい。
このスケッチは團琢磨が1932年に暗殺されたのち、一度、次男團勝磨に遺品として渡るが、1945年に、その甥、團伊玖磨が東京音楽学校を卒業したのを期に手渡されることになる。

6/8拍子でホ短調の短いこの旋律は華やかさと切なさを併せ持つ上昇と下降を行うだけの単純なもの。作曲家となった伊玖磨は重要な機会でこのモチーフを利用すること狙ってアイデアを暖めていたらしい。このスケッチを手にしてから20年以上たった1968年、祖父ゆかりの地で、義兄であるブリジストン2代目社長からの依頼による、自身初の合唱組曲作曲に当たって、祭りの曲に採用することとした。モチーフはドイツ音楽の伝統に倣ってフーガの形式をとり、しかし日本の伝統文化の和太鼓のリズムを念頭に置きながら4拍子に置き換えられた。また、同じモチーフを用いたと思われる1882年初演のスメタナの交響詩『我が祖国』の第二楽章の構成は強く意識したらしく、ここでは組曲としての川下りの形式を取り、しかし特徴的なモチーフを繰り返し提示するという手法を存分に活用することにしたらしい。

作曲、とまでいうと言いすぎですけど、いろんなところでつながっているんですねぇ。

まぁ、4月1日ですから。


(この文書は2006年04月01日01:40にその日のネタとして日記風にうぷされたものです。信じるものは足元をすくわれるといいますから)