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久留米にある水天宮の総本山と河童を結ぶ由来は2つの説があります。
ひとつは熊本県八代の球磨川にいた河童がわけあってその地域を追われ、水天宮に来たという説、もう一つは平家の落ち武者のことだという説。

球磨川経由の河童のお話はこう。
このサイトでは
http://www1.odn.ne.jp/muraoka/kappa/tabirakp.htm
妙に詳しすぎるくらい詳しいのでかいつまんで言うと、中央アジアから球磨川へ仁徳天皇の時代にたどり着き安住していたものの、小姓を殺したことで河童一族は、当時の肥後城主加藤清正公の怒りに触れ、球磨川を追放された。その後一族は筑後、久留米の有馬藩主を頼って筑後川へ移住し、久留米水天宮の守護の役に就いた。その後、一時期有馬のお殿様と江戸に出たがそこでもまた悪さをして追放され、全国に散らばったとさ。
なのだとか。ところどころ妙に具体的でもしや本当の話かもと思う。河童は呉の国から来た人。この説にそった謎解きのお話は
http://empusa.hp.infoseek.co.jp/hitu_kapa1.htm
に詳しいです。
でも具体的な古文書などの裏打ち情報が出てこないんだよね。火野葦平の創作が入っている気がしてならない。
http://snkcda.cool.ne.jp/mame/3tanusimaru/4hino.html

一方、落ち武者説。1987年に郷土史家の金子文夫氏が発見した古文書「筑後楽之由来」によれば、源氏に攻められた平家の一族が巨瀬川に追い詰められて戦死し、その亡霊が「河伯(かっぱ)」となったとか。この古文書の真贋と年代に関する情報がぜんぜん拾えないので、これも今の私にはなんともいえません。ただ、壇ノ浦で破れた平家側残党が九州に落ち武者として流れてきて、安徳天皇を祭る水天宮のある久留米の地で身分を隠しながらの生活を送り、不思議な伝承を生んだとしても納得がいく。
ただ、『筑後川』の成立は1968年でこの古文書発見の20年も前のこと。オリジナルが
現存しない筑後楽と河童の関係はなんとなくこの地域に根付いていたとは思うけど。

ともあれ水天宮と河童は非常に縁が深い。
その水天宮、じゃなくてお江戸の水天宮。本日5月5日は例大祭です。練習の合間にでも行ってみようかな。

(これは2006年05月05日未明に日記として書いたものです)

  
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