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世の中には不思議なウェブサイトがあるもので、境界未定地域の覚書というサイトがあります。


地続きの国境がない日本でも、北方領土とか、竹島とか、尖閣諸島とかのように隣国と意見の食い違いが起こっている地域がありますが、意外にも国内でも都道府県境や市町村境がはっきりしていないところがまだまだ残っているようです。
このサイトを見てみると、たとえば神奈川県内の紛争地域2つのうちの1つは相模川河口。東京の紛争も荒川河口や、大場川沿いの中洲だったりする。大雨のたびに地形が変わるようなところの境目をはっきりさせるのも大変なんだろう。だれかが積極的に埋め立てや干拓をしたなら、そこに帰属するのだろうけど、気がついたら土地になってたりするんだろうから。それがうやむやに今日まではっきりしないまま残っていると。
ところが、今でもはっきりできないこの河口の中洲領土問題に、360年ほどの昔ながら、ドラマチックな結末を迎えることとなった裁定があった。筑後川の河口の県境だ。

お好きな地図サイトで筑後川河口を見るとすぐに気づくことがある。大きな中州があるということだ。川の西が佐賀県。川の東が福岡県(柳川市)。中州の福岡側が筑後川本流で、佐賀側が早津江川という別の名前を持っている。そしてこの中州は、南側が佐賀県で、北川が福岡県。おや、どうしてそんな複雑なことに。

慶長9年(1610年)、三潴郡民津村の三郎左衛門という人が、筑後川河口に寄洲あることを発見して開拓したらしい。その形が、釜の蓋に似ていたので、釜蓋島とも呼ばれていたらしいが、元和2年(1616年)に改めて大野島と呼ばれるようになった。また一方でその下流側に別の中州があり、当時の肥前の居民が開墾して大詫間島と称した。上流を雄島、下流を雌島とも呼んでいた。

しかし20年以上にわたってこれらの帰属がはっきりしないため、
「まず、肥前の千栗八幡宮(佐賀県北茂安町)と筑後の高良神社(久留米市)から御幣をいただく。その御幣を柴に括って雄島(大野島)の上流から流すこととする。御幣が流れた道筋が肥前と筑後の境界線である」
 小舟が流れたルートが後の県境になることとなったわけだ。運命の柴舟はゆっくり有明海を目指して流れ始めたが、やがて、早津江川へ。これで中州は福岡県側かと思った矢先、潮目がかわり、雄島と雌島の間を通り抜けて筑後川の本流に出てしまった。これで雄島:大野島が福岡県側(柳川)に、雌島は佐賀市側の領土になったとか。ところが月日が流れてだんだんと土砂が堆積してきて、やがで二つの島はくっついてしまった。いまではこの中州内を移動しても、境目がわかりにくいらしい。

ちょっと創作が入っている気がしないでもないですが、そういう話の方が聞いてて面白いですね。



  
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