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今生まれるところの歌

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chikugogawa

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西洋音楽に不可欠なものとして、テンポ、がある。
休符ですら音楽の一部だと思うと、テンポの存在は音楽を作る様々な構成要素の中でよりプリミティブなところにあるように思える。

しかし、テンポは元々あるものではない。演奏会場の中にあらかじめテンポがあるわけではない。何もないところからテンポがあらわれるのだ。一度鳴り始めた音楽は、常にその前の音響として起こったことの影響下にあるべきだし、たいていそうなっている。だけど、曲のど頭は、別だろう。だって、その前がないのだから。

いま、この世界、この宇宙には時間が流れている。でもビッグバンの前に、時間はなかったんだよね。だから、音楽の始まりは、まるでビッグバンのようだ、と思うことがよくある。曲全体を生み出すような音楽の始まり方。

でも、音楽が生まれる瞬間、そこには何もないのかというと、そうではない。お客様がそこにいて、何かを聴こうとする意思がある。演奏家がここにいて、何かを歌おうとする。気、のようなもの。
この歌の中身でもそうだ。川がうまれる。それより前に川はない。しかし、川と呼ばれるものはそこにはないが、やがて川になる雲や雨だれや地下水が大きな位置エネルギーを持ってそのあたりに潜んでいる。そういえば別の組曲では「アンドロメダのひとさじがさえざえと輝」くところからはじまって、「阿蘇谷をたどる川となる」んでしたよね。

そんな自然のダイナミズムの一片を切り取ったと思えば、すでに流れゆくものの中で音楽が生まれてくるのでもいいように思える。
ふつう「いま」という言葉は「い」が強拍なのに逆転させている。そんな拍子の感覚を希薄化させるようなフレーズで、5拍子でアウフタクトからの入り。
本当に作曲家が何を思ったか、ということまでは興味がないが、楽譜を見る限り、そういう考え方を持ってみることは許容されそうに思う。

でも、件のジサクジエーンを見ると、煽るように振ってるし、カクカク歌ってるんだよね。指揮者としての技量の問題と、演奏者としての技量の問題だと思ってるんだけど、別解釈なのかなぁ。

まぁ、指揮者マターではありますが。
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