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みんなで作り上げたものはみんなのもの、とでも言えば一見美しく聞こえるいまどきの奥ゆかしい表現ではあるものの、烏合の衆なり、船頭多くしてなり、とかく数が多いとまとまるものもまとまらないことはよくある話。
お客さんに提示される作品。たとえば、大抵の絵画は一人で書き上げたものだから、あらゆる責任を画家が背負っているし、かなりの割合で小説や漫画も作者はひとりで、著作物としての作品性とか芸術性とかはその作者一人が担っている。一方、映画やドラマは原作、脚本、監督、俳優とか、出来を直接左右できるクリエイティブな役回りの人がたくさんいて、著作権問題は先に了解を取り付けないと、作品は出来たけど広告ができないとか変なことにもなりかねない。
さて、合唱音楽。合唱やそのほかの声楽作品には他の音楽作品と違って歌詞がある。だから、楽譜段階で作詞と作曲のそれぞれがクリエイティブ。さらに聴衆の耳に届くまでには指揮者、歌手、伴奏者がいて、オペラなどではさらに演出家などが加わる。
どんな音楽に仕上げるか、について一番高い責任を担っている人、あるいは逆らってはならない対象は誰なのか。
なぜそうなったのか、という歴史を語れるほどではないのだけど、
 ・作詞者よりも作曲家が偉い
 ・作曲家より編曲家は下
 ・オペラでは演出家が最高責任者
 ・指揮者がいれば、その場の演奏サイドの総責任は指揮者
 ・演劇系で監督や演出家は台本を平気で書き換える
 ・クラ系指揮者は楽譜に忠実
まぁ、偉いという言葉は誤解を生みやすいから適宜割り引いて理解して欲しいけど、『筑後川』を素人が演奏する上で
 楽譜(≒團伊玖磨)> 指揮者 > 歌い手
の順で責任や決定権、尊重する度合いってものがある。
そして詩(≒丸山豊)は楽譜に付随するもの程度に理解されることのほうが多い。
言葉を伝えることは大切なことだと非常に重視されるし、『筑後川』はその言葉を伝えてこそ意義がある、という精神論で演奏に望むことは多いと思う。
しかし、合唱曲は音楽を伴った詩、だとか、詩と音楽が対等なのではなく、むしろいまどきの言い方なら、その詩にインスパイアーされて出来上がった作曲家の作品、と見る傾向のほうが強い。しかし、そうであるにもかかわらず、この楽譜にインスパイアーされた俺たちの演奏、と呼びたいものを作り上げようものなら、「オナニーはよそでやれ!」みたいな感想をもつのが良識的な聴衆の立場。楽譜には逆らっちゃいけない。
もちろん、作曲家が望んだはずの演奏効果が判断できる場合は、今回の合唱陣、ホール、天気、調子、もろもろの具合などから総合的に判断して、楽譜の表面的な指示を無視することはあるのだけど。