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営利、非営利にかかわらず、多くのお客様に喜んで頂けることは嬉しいことだろう。より大きく深い喜びを、大勢の皆様に、できるだけ長い期間にわたってお届けすること。それができるのなら誰もがやりたいことだと思う。
人が持つ先天的な部分に訴求する喜び。人が後天的に得る普遍的ななにかに訴求する喜び。お約束があってこその、その世界にだけ通じる喜び。
期待したとおりのものであるという安心感と、予想外のことが起こる興奮。前置きが不要なこと、普遍的あるいはムラ社会的な前提を利用すること。そういうバランスはどう保てばいいのだろう。

長い期間にわたると、自ずと「お約束」が生まれる。リピーターの一部はマニアやフリークになり、隠語を語り、高い敷居を作る。
先日、話題の二郎(武蔵小杉店)に行ってそう思った。

午後五時の開店と同時に8席のカウンターがいっぱいになり、溢れた客は黙々と後ろに並んだ。BGMのない、だれも言葉を発しない空間は、冬の小雨の暗闇に開け放たれた玄関から境目なくただ薄暗く、表の雑踏と、ラーメンを茹で、すする音がするだけだった。
ふと店員さんは「にんにく入れますか?」と聞くのである。それに「お願いします」とか「いや結構です」と答えるなら日本人としてフツーだ。開店前から並んだ私の前にいた数名の大学生風のうち何人かはそうだった。彼らは私が思う普通の日本人だ。
しかし、やや小声ながら店員さんの「にんにく入れますか?」に「やさい、なんとかあぶら、からめ」とかのたまうのはどうだろう。何も知らず言葉だけを追うと会話が成立しているようには思えない。しかしどうみても言ったことが通じている。吉野家もそうだけど、メニューにない条件を何の遠慮もなくぺらぺら告げることにはいくばくかの抵抗がある。とりあえず単語で話すのをやめてくれれば多少は気が楽になるかもしれない。本当の常連ならともかく、初めての店舗で初めての店員相手に隠語を使うなよって。とりあえず私は淡々とにんにくをお断りしてラーメンを出してもらった。
食べ始めてしばらくすると、右端の人が食べ終わった。食べ終わったときに誰に指示されるでもなく自分でテーブルを拭くのも異質な世界を感じる。いや、そこまでは予習の範囲内だからまぁよしとする。
しかし、客は入店順にカウンターを右から詰めて座り、座った順にラーメンができ終わり、、、いや、そこまでもまぁ問題ないのだが、驚いたことに出された順にラーメンを食べ終わるのだ。それは想定外だ。だいたいは周りと同じペースで食べていた。入店前からなぜか食欲のなさを感じてはいたもののどうにかなる範囲だろうし、ひとりだけ色の違う食券を持っていても、こぶたWが食べられないほど多いわけでもない、ように思えた。しかし、5人目くらいまで黙々と順に食べ終わるとどこかで聞いたフレーズが頭をよぎった。
フードスポーツ。
今オレは、安易な気持ちで食事をしていてはいけないのではないか?戦い抜かなければいけないんじゃないか?脈絡はないかもしれないけど、クラシックの演奏会で(ハレルヤ以外では)突然立ち上がってはいけないように、演奏中買い物袋をカサコソさせてはいけないように、フライングブラボーがブーなように、もしかして、おれは右隣よりも遅く、左隣よりも早く食べ終わらなきゃいけないのか?
9割くらいまではまぁおいしく頂いた。お腹がいっぱいでもそこまでは食べた。だいたいの麺は食べ終わったし、その割には豚がすごく残っている。じゃぁなぜこぶたwなのかということは自分にもよく分からない。右手の人は食べ終わった。どうやら汁を残すのはOKなようだ。ともかく急ごう。たまりかねたのか、やや遅めに推移していたはずの左隣の人も席を立った。すみません。流れを切りました。しかしペースはスローダウン。座敷に入っていた9人目も店を出た。いやホントすみません。客の流れが止まっているおかげで、私の席に座りたい人は待っていないのが救い。予定していた電車にも間に合わないことが確定した当たりでようやく食べ終わった。油まみれのテーブルを拭いてそそくさと店を出る。おれは素人なのか、おれは素人なのか。いや、ほんと初めてなんですけど。一体誰に何をどう謝っているのよく分からないものの、罪悪感と劣等感と自己嫌悪という自分らしさを取り戻しながら駅へ向かった。

さて、気を取り戻して話も戻そう。クラシックは敷居が高い。お約束が多い。何も知らずに足を踏み入れて、その世界の人の気分を害し、恥ずかしい思いをして帰ってくることになるのではないか。自分は場違いなのではないか。そう思わせる要素をはらんでしまっている。
もちろん、音楽の世界の人は少なからずいるわけで、音楽一般という程度のことを前提にしてもそうそう罰が当たるわけではないと思う。でも、よく分からない部分が多くてももっとプリミティブなところで楽しめるようにしておかないといかんだろうって思うことがよくある。日本人としての自然な日本語に素直に付いた音楽とか、それがどんな技法を使っているか何も分からなくても1,2,3,4と単に数えられるよりは運動しやすいラジオ体操第2のピアノとか、愛とか、人生とか。

ケロロ軍曹を見ていると、30代や40代が子供の頃に触れた作品の一シーンをさりげなく、でもふんだんに高い構成力でもって取り入れたものが多く、小学生は何も気づかずにスルーしてるだろうけど、両方の世代で同時に楽しめるような多重構造になっているすごさを感じる。この辺りのネタが全部分かる20代も怖いな、と思いながら、ふと、それを見ている30代後半のオイラはキモい?って思ったり。

まぁだからなにって思うかもしれませんが。