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娘がガンにおかされました

    

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まったく考えていなかったできごと(2003年9月21日)


9月21日妻から、「娘、明日病院に行くのよ」と聞かされました。
「何事か?」と聞くと、「腕が痛いらしい」とのこと。
「アー、それはテニスのせいだろう。成長期に良くある骨の痛みだろう、まぁ、さほどのこともあるまい」と、たかをくくっていました。
これはあとから娘に聞いた話ですが、実は4月ごろから、少し痛みを覚えていたそうです。ところが娘もそれを中学から始めたテニスのせいだと思い、あまり気にしていなかったそうです。
中学になってから始めたテニスが不幸な偶然でガンの発病と重なり、それにより自覚症状が出てから半年もの時間が経過してしまったのです。
そしてその晩、妻から、「チョット気になるから、総合病院で診てもらうようにと、先生に言われたと」聞いたとき、悪い予感が頭いっぱいに広がっていきました。
この「チョット気になる」は以前にも聞いたことがあります。

妻の乳ガン


それはさかのぼることさらに3年前、2000年の秋、妻が実家の近くの婦人科で検診を受けたところ、「チョット気になるから、市民病院で診てもらうように」と言われたのでした。
結果は「乳ガン」。しこりが気になり検診に行ったのですから、いわゆる初期の段階ではなかったのでしょう。
乳房をとる手術をすることになりました。同時に、自分の腹の肉をそのあとに移植する形成の手術も行うことになったので、10時間にもおよぶ大手術になりました。
幸いにも県内でも名医と評判の先生の執刀だったので手術は成功し、術後の回復も順調で約2週間の入院生活ですみました。
しかしその間私は、妻の看病、娘たちの世話、慣れない家事などに追われ、仕事も満足にできない状態が続いたのです。
このようなつらい記憶がこの「チョット気になる」という言葉でよみがえり、不安とイライラの日々がスタートしたのです。

頼む、まちがいであってくれ(9月29日)


9月24日・25日の両日、総合病院でレントゲンとMRIの検査を受け、9月29日にその結果を聞きに行くことになり、私も同行しました。
その前夜、妻が、「私一人じゃ心細いから、お父さんも一緒にきて」と頼んだのです。
一応平静は装っていたようですが、やはり非常に不安だったのでしょう。
自分もガンでは本当につらい思いをしてきたのです。最愛の娘に自分と同じような思いはさせたくないでしょう。
「自分の時より、全然ドキドキする。ホント、気が狂ってしまいそう」と娘の前では見せられない涙を流しながら訴えてきたのです。
私も安易ななぐさめの言葉もかけられず、ただ、「わかった」と言うしかありませんでした。
そして病院へ、待合室で長いような、短いような、何とも形容しがたい重苦しい時間が過ぎ、ついに娘の名前が呼ばれました。
そこで先生の口から出た言葉は、「骨肉腫の疑いが強くあるので、大学病院で専門の検査と治療を受けてください」ということでした。
私と、妻と、娘本人の3人がいるところで、ハッキリそう言われたのです。
現在では、本人にもある程度隠さずに伝えるのでしょう。
娘の反応が少し不安でしたが、実感がわかないのか、普段とそれほど変わらない表情を浮かべていました。
まだ完全に確定ではないにしろ、事態はますます重大かつ深刻な方向へ向かい始めたのです。

舞台は大学病院へ


そしてその日のうちに、大学病院に行くことにしました。いたずらに時を延ばしても、精神的な苦痛はさらに大きくなるだけだと判断したのです。
そして舞台はいよいよ大学病院へ。
家から車で30分くらいのところにあるその病院は、古い診察棟、約1年前に建て替えられた新しい入院棟、さらに歯科病棟、そして研究施設などが建ち並び、その陣容に圧倒される雰囲気でした。
立体駐車場の屋上に車を止め、施設の全容をながめながら、「あー、今度はここで戦いが始まるのだなぁ、それもよりによって娘が主役の戦いが……」と心の中で深いため息をつきました。
3年前の妻の乳ガンの時もそうですが、「自分が主役であってくれた方が、よっぽど気が楽なのに……」うそ偽りなくそう思えるのです。
妻の病院はここからさらに車で10分ほどの市民病院、県の中心部にある大病院でしたが、ここはさらにそこを上回る規模でした。
あの時の苦闘の日々を思い返しながら、そして今回の戦いが勝利で終わることを祈りながら、いよいよ大学病院に足を踏み入れたのです。

大学病院では整形外科のS先生の診察を受けました。
先生は総合病院で撮ったMRIの写真を見ながらおっしゃいました。
「骨肉腫にしてはできる部位が珍しい、他の病気または単なる骨折の疑いもあるように思われます」
手の骨肉腫はたいてい「肩」にできるもので、娘のように「上腕部」に発生するのはあまり例がないそうです。
「手術をし、組織を取って調べないと最終的な判断は下せない」とのことでした。
「病室が空き次第入院してもらい、最終的な検査をいたしましょう」ということでこの日は帰りました。
2軒も病院を回る長い1日でしたが、とにかく結果は持ち越しです。
他の軽い病気や単なる骨折の可能性もあるという希望も出ましたが、それ以上にイライラ感が大きくなったような気がしました。

明るく、前向きに、楽しく生きる


その夜私は、娘と妻に話しをしました。
口下手な私は家族ともあまり話しをすることはなかったのですが、この時ばかりは自分として何かできることをしなければならないという気持が強くなったのです。
このころ、私は1冊の本を読んでいました。
それは春山茂樹先生著の『脳内革命』という本で、娘にとって非常に素晴らしい内容のことが書かれていたのです。
それはいわゆる「病は気から」というのは本当のことで、人間の身体というのは精神と非常に密接な関係にあるということが書かれている本でした。
明るく、前向きに、楽しく生きる人には、脳から「脳内エンドルフィン」という、どんな薬にも勝る、素晴らしい物質が分泌され、身体を非常に良い方向に導いてくれる。その逆に落ち込んでいたり、いつもイライラしたりしていると、健康を損なう恐れすらあるということです。
私はこの本に書かれている内容をできるだけ詳しく、娘と妻に話しました。
そして、「これからいろいろと、つらいことや苦しいことが起こるかもしれないけれど、常に明るく、前向きに、楽しく生きていくように」と希望しました。
娘はだいたい理解してくれたようです。
そして実際明るく、前向きに、楽しく生きてくれたのです。
心の奥底ではどんなにつらく、苦しく、悲しかったことでしょう。それでもけなげなくらいに、明るく、前向きに、楽しく生きてくれています。

私がこの時期にこの本を読んでいたのは単なる偶然です。
娘の病気が発覚する前に、近所の古本屋さんで100円で購入したものだったのです。その日はたまたま私の好きな時代小説の面白そうな本がなかったので、「まあ、100円ならいいか」と軽い気持で買ったような記憶があります。
私自身、もしこの時期にこの本を読んでいなかったら、娘の病気という重荷に押しつぶされていたかもしれません。まさに私の人生模様をこの本によって教えていただいたといっても過言ではないと思います。
その後読んだ、安保徹先生著の『免疫革命』にも、さらに詳しく科学的に解説されており、精神の健康が肉体の健康にとってどれほど重要で、かつ必要なものかどうかということを学ばせてもらいました。

ついに入院(10月7日)


10月7日、ついに入院生活の始まりです。
7階の東病棟、4人部屋の窓際のベッドが、娘に与えられた空間でした。
担当の看護師さんより、病院内の施設や設備の説明を受けました。
1年前に建て替えられたばかりの入院棟は、とてもきれいで、2階には売店、食堂、図書館などもあり、さらに長期入院する子供たちのための「院内学級」もありました。
各階にもサンルーム、デイルームなどの患者さんたちのための部屋もとってあり、病室も窓も大きく、とても明るい雰囲気です。
各ベッドには液晶テレビがついていて、妻が入院していた市民病院よりも、格段に過ごしやすそうな設備と雰囲気でした。
これから入院生活がもし長くなるようなことがあると、この過ごしやすさというのは、とても大きな意味を持つなと感じました。
娘も、まあ気に入ったようで、とりあえずはホッとしました。

11時に入院して、病院内の説明も昼までに終わり、私としては用事がなくなったのですが、この日は仕事を完全に休んで病院に残ることにしました。
私の仕事は配管工で、小さいながらも一応自営ですので休みは自由になります。ただしサラリーマンと違って、仕事をしなければ、1円の収入にもなりません。おりからの建設業界の不況にも見舞われて、経済的にはそれほど余裕のある生活とはいえませんでした。
今後、さらに仕事をする時間が減ると当然収入も減ることが予想されます。これからの娘の入院生活、さらに妻もまだ術後の治療を続けており、私は経済的不安もいっぱいありました。
それでもとにかく、娘の病気を治すことを最優先とし、そして妻にも負担をかけないために、金銭のことはいっさい口にするのはよそうと自分の心に誓いました。
どれほど借金をしてもいい、仕事より娘の身体を治すこと、そして家族のことを優先で生きていこうと方針を決めました。

涙、涙、涙


病院の面会時間は8時までです。それを告げるアナウンスも流れてきました。
それまで元気で明るく振舞っていた娘の眼がみるみる赤くなっていきました。
修学旅行以外では初めて一人で夜を過ごさなければならないのです。それも病院のベッドで、自分が恐ろしい病気におかされているかもしれないことを知りながら……。
中学1年の13歳の女の子が、大人でもない、子供でもない微妙な年頃の娘がです。どれほど心細かったことでしょう。
どれだけ妻に「お願い、帰らないで」言いたかったことでしょう。
妻の眼にも涙が浮かんでいました。
何度も「もう帰るよ」と言いながらも、その都度なんでもない話題を見つけ、ギリギリ時間を引き延ばしてきましたが、ついに廊下の電気も消え、消灯のアナウンスが聞こえてきました。
眼を真っ赤にしながら、小さな涙の粒を二つだけ見せながら、それでも精一杯の笑顔を作って、娘は妻とハイタッチをして、妻も「おやすみ」も「明日またくるよ」の言葉も出ず、ただただ崩れ落ちそうになる笑顔を必死で持ちこたえながら、ハイタッチに応えていました。
そしてもう薄暗くなってしまった廊下に出ました。

私も妻もまったく無言で、できるだけ急ぎ足で駐車場まできて、車に乗り込みました。
そして私がエンジンをかけると同時に妻が「お願い、今日だけは泣かせて」とかろうじてつぶやいたとたん、声をあげて泣き崩れてしまいました。
病院から家までの30分間、妻は泣き続けていました。
家に帰っても、なんの会話もなく、お互いの仕事を淡々とすませ、床に入りました。
今までは狭い部屋に蒲団を重ねるように3組敷いていたのですが、今日からは2組です。何と物足りない空間でしょう。
妻が電気を消すのを待って、私もようやく涙を流すことができました。

手術(10月8日)


次の日は手術です。
これは実際に患部の細胞を採集して、専門的な病理検査をして最終的な病名を診断するための手術です。
手術自体は簡単なものだという説明を受けていましたが、娘にとっては初めての経験です。
手術着を着せられ、手術のための準備をしている間、娘は妻とおしゃべりをして、思ったより落ち着いているように見えました。それでも手術室に入る時は当然一人です。どんな気持で入っていったことでしょう。
「本当にできることなら代わってあげたい」
その思いは妻の方が私よりも強く思っていたことでしょう。

ほどなく娘は病室に帰ってきました。
手術は全身麻酔で行われていたので、麻酔がさめる時に軽い吐き気があったものの、娘は思ったより元気そうです。妻と手術の時の感想を話したりして、時々笑顔が見られることもありました。
さすがにこの日は妻は病院に泊まることにして、私は一人病院をあとにしました。
この日の検査の結果で最終的な診断が下るのです。
なかば覚悟しているものの、それでもヒョッとしたら、実はなんでもなかったという結果が出ることを祈りつつ、この検査の結果が出るまでの数日間が、私にとってもっともイライラした、落ち着かない時間であったと思います。

やはり「骨肉腫」(10月20日)


そして10月20日に検査の結果についての話がありました。
結果はやはり「骨肉腫」。
それも「非常に活発な細胞のように見受けられます」とまで言われました。
覚悟していたとはいえ、やはりあまりにも厳しい宣告でした。
最初、私と妻のみが呼ばれ、この事実を娘にも伝えるかどうかという質問を受けました。少し迷いましたが、すでに骨肉腫の恐れがあるというのは知っていますし、今後の治療に対する心構えもありますので、すべて隠さずに娘にも伝えてもらうことにしました。
改めて3人で病気についての説明を受け、今後の治療の方針を聞くことになりました。

まず、5クールの抗ガン剤治療を、手術に先立って行うということです。
これは抗ガン剤によって腕の腫瘍を縮小させ、手術の負担をできるだけ少なくするとともに、それ以外にあるかもしれない、目に見えないガン細胞をたたいていく目的のためにするものです。
特に骨肉腫は、肺転移することが多くみられ、これが文字通り命取りになることがあるので、この術前の抗ガン剤治療は絶対に必要なものだという説明を受けました。
最初の3クールは同じ薬を使い、そこで検査をし、薬の効き具合と身体の様子を見たうえで、次の2クールの薬を決めていくとのことでした。
そしてだいたい3月の前半ころに手術を予定して、その後また半年間、抗ガン剤治療を行い、全部で約1年間の治療期間になるとの説明を受けました。
現在では、骨肉腫はこのパターンの治療が主流で、5年生存率は約70%に上がっているということです。70%とはなんとも心もとない微妙な数字ですが、娘がこの70%の方に入るように祈っておりました。
妻の乳ガンもやはり5年生存率は70%ですと言われ、今(約3年目)とても元気なので、現代の医学なら何とかしてくれるのではないかと期待しておりました。