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治療、そして最悪の事態

    

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現代医学ならなんとかしてくれるはず


最終的な診断が下り、いよいよ治療の始まりです。
手術は整形外科でやりますが、抗ガン剤治療は小児科で行うことになり、娘は7階から4階の小児科病棟に移ってきました。
部屋は405号室、やはり4人部屋で、同じ年頃の女の子や、生後間もない赤ちゃんもいました。この部屋には、さらにビデオまであり、ゲームを持ち込んでもよいとのことでした。
こういう充実した設備は、特に長期入院の患者さんにとってはありがたいものです。雰囲気も明るいし、何とか娘もこの中でがんばって欲しいものだと思いました。
その夜、小児科の先生方との面談がありました。娘も交えて、3人で治療についての詳しい説明を受けました。
病棟主任のM先生、担当のN先生、そして研修医のH先生という若い女の先生の3人でした。

治療は薬が3種類あり、それぞれ24時間、48時間、72時間かけて打つとのことでした。妻の抗ガン剤治療の時は、二つの薬を約1時間程度かけて入れるものでしたが、娘には丸3日も薬を入れ続けることになります
抗ガン剤の激しい副作用について妻は体験しているので、それを3日も入れ続けるという治療に対して大変不安そうでした。

妻の時の悪夢


忘れもしません。
妻の抗ガン剤での苦しみは、2000年1月4日、その前の年の11月に乳ガンの手術を受け、約2週間ほどで退院した妻は、その後、順調に体力も回復し、正月は妻の実家でのんびりと過ごしていました。
そして正月気分も抜けきらない1月4日の午前中に抗ガン剤治療を受けるため、私の車で市民病院まで行ったのです。
1時間ほどで治療は済み、妻は比較的元気そうな感じで、治療室から出てきました。事前に副作用で吐き気がひどいこともあると聞いていましたが、妻はなんともなさそうでした。
市民病院の近くの百貨店に立ち寄り、昼食に天丼を食べ、さらに少しウロウロして、2時ごろ実家に戻りました。
その後も実家の母や姉らと元気そうに笑いながら話しているのを見て、「世間でいうほど副作用もたいしたことないんだろうなぁ。とりあえず妻は吐き気の少ないタイプだったんだろう」と私も少し安心をしていました。

ところが、吐き気は4時ごろから始まったのです。
最初は「アッ、チョットきた」とか言ってトイレに行ってもどしてきたようですが、顔色も悪くなく、実家の母らと「やっぱり少しはあるんじゃねえ、吐き気も」などとのんきそうに笑っていました。
そしてまた30分位のちに「アッ、チョット」と言ってトイレに立ちました。
それからが地獄の始まりです。どんどんトイレに立つ間隔が短くなり、顔色も青ざめてきました。
胃の中にはもう何もないのにもどす時のあの苦しみ、私もひどい二日酔いの時の経験から、「何か少し口にした方がよいのでは」と言いましたが、抗ガン剤の副作用とはそんなに甘いものではなかったのです。
どんどんもどす間隔が短くなり、妻の頭の中は「今もどそうか、もう少しがまんしようか」の二つのことしか考えられない状態であったと思われます。
もちろん病院から吐き気止めの薬はもらっていましたが、飲んだところで1分ともたずにもどしてしまうので、効果のあろうはずがありません。もうトイレに立つ元気もなく、一晩中洗面器を抱えて苦しんでいました。

1日たてば少しはおさまるだろう、と実家の母らと話し合い、次の日、私は新年最初の仕事にでかけることにしました。
例年なら仕事始めは、取引先の社長さんや発注担当さんへのあいさつをし、神社への初詣をしたあと、仲間と昼から一杯飲んで、酔い覚ましに会社の近くのパチンコ屋で晩ごろまで過ごすのが常でしたが、さすがにこの日ばかりは昼飯も食べずに妻の実家へ戻りました。
そこに待っていたのは、昨日と変わらず苦しげにもだえている妻の姿でした。
もどすものもあろうはずもないのに、うつ伏せで洗面器を抱え、呼吸をするのすら大儀そうな様子です。
私はすぐ市民病院に電話して。相談することにしました。

幸い、担当の先生に連絡がとれ、「すぐこちらに来てください。吐き気止めの点滴をしましょう」とおっしゃっていただけました。
点滴を受けた妻は、ようやく少し落ち着いた様子で、だんだんもどす間隔が長くなってきました。
それでも、その翌日も何も食べられず、1日中洗面器を抱えている状態でした。
4日目になり、ようやく吐き気はなくなった模様でしたが、私にとってもなんともつらく苦しい3日間でした。
それでもガンという病気を治すためには、なんとか妻にがんばってもらわなければならない。何としても予定の回数である6クールは、治療を受けてもらわなければならない。でなければ妻は……。

妻の治療はホルモン療法へ


そして1週間後、また治療を受けました。この時は、薬も一つだったので、前回ほどの吐き気はありませんでした。
この2回1セットで1クール、これを6クールも行わなければなりません。そして3週間後に2クール目。結果は前回同様、地獄の3日間でした。
あまりの副作用のひどさに思い余って、担当の先生に相談したところ、「それでは治療方針を変更しましょう」と言って、抗ガン剤治療からホルモン療法に替えることを告げられました。
これは薬によって女性ホルモンを抑えて、まだ残存しているかもしれないガン細胞の増殖を抑えることが狙いの治療法です。
乳ガン、子宮ガン、卵巣ガンなど、女性ホルモンの分泌によって増殖する細胞の器官のガンに有効な治療法だそうです。女性ホルモンを抑えるために生理が止まり、更年期障害の症状は出るが、抗ガン剤のような激しい副作用はないとの説明でした。
あの地獄のような吐き気がなくなるのは喜ばしいことですが、治療法を変更して、妻のガンは本当に大丈夫なんだろうか、という不安がありました。術後の治療の説明で、「抗ガン剤治療が一番良い方法である」という説明を受けていたからです。
が、このときの先生の判断が大正解だったと、その後の妻の回復ぶりからみて私は確信しています。

そのような恐ろしい抗ガン剤を13歳の娘に、それも3日間も続けて打つというのですから、私たちの不安はたとえようもありません。
妻が3日間病院に泊まる決定をしました。私も1日くらい代わってあげたいのですが、本人も嫌がるでしょうし、まわりが同じ年頃の女の子ばかりなので、そうもいきません。状況によっては、仕事を休んで昼間だけ妻と代わるように考えていました。

悪魔の抗ガン剤(10月27日)


10月27日、治療開始です。
私は不安にかられながら仕事に出かけ、7時ごろ、病院にかけつけました。そして、娘の病室に入った私の目に飛び込んできたのは、のんきそうにベッドの上に座ってゲームをしている娘の姿でした。
「アレッ? なんともないの?」
娘はゲームに夢中で、「うん、うん」と生返事をするばかり。
妻も「今のところ大丈夫みたいね」と少し笑顔も見えていました。
私も少し安心をして、9時ごろ家に戻りました。
そして11時ごろ、妻にメールを送った時も、「別になんともないよ」という返事でしたので、「ああ、娘の場合は副作用がないみたいだなあ。やはり子供なので、妻の時とは薬の量とかが違うのだろう」などと思い、眠りにつきました。
翌朝、仕事に出かける前、もう一度妻にメールを送ったところ、「夜中の2時ごろより少し吐き気があり、今は吐き気止めの点滴を打って寝ている」と返事がありました。
「やはり吐き気はあるのか。でも、妻の場合と違い、ずっと病院にいるので吐き気止めの点滴もすぐに入れてもらえるし、なんとかがんばってくれるだろう」と思い、その日の仕事をすませました。

そして、7時ごろ病室で見た娘の姿は、昨日とはうって変わった無残なものでした。
そう、あの時の妻の顔と同じ、人生のすべては、「ここでもどすか、もうすこしがまんするか」という2点だけという、目の焦点も定まらず、ただ両手で洗面器を抱え、涙を流す元気すらなくなった娘の姿でした。
私は息をのむ思いで、ただ恐ろしさに立ちすくんでしまいました。
どんな言葉をかけても、今の娘には無意味だということはすぐにわかりました。しかもまだ半分以上治療時間は残っているのです。
極限まで苦しんでいる、かわいい娘の身体に着々と恐ろしい薬は入り続けているのです。
病気を治すためには、これしかないのだと自分に何度も言い聞かし、娘に心の中でがんばってくれと願い続けました。

けなげにも耐える娘(10月29日)


3日目に入り、2本目の薬が終わってから娘は少しずつ楽になってきたようです。
もどす間隔も徐々に長くなり、顔色もだんだん赤味がさしてきたように見受けられました。
この日、私は仕事を休んで妻と看病を交代していました。
妻も、精神的にも、肉体的にもボロボロのはずです。少しでも体力を回復し、気分もリフレッシュして、また夜、娘の看病に専念してもらいたいと思ったからです。
娘は、私には泣き顔は見せませんでしたが、「2日目の夜中に、あまりの苦しさから声をあげて泣いたのよ」と妻に聞いていました。
私は娘になぐさめる言葉も励ましの言葉もただむなしいような気がして、ただただ見守ることしかできませんでした。
早く娘の苦しい時間が過ぎ、少しでも身体が楽になるように、そして憎むべきガン細胞が少しでも減っていてくれるようにと祈りながら、夜の7時ごろ、妻が病院に戻ってきた頃には、娘はだいぶ楽そうになっていましたが、まだ食事はもちろん、お茶さえもこわがって飲もうとしません。
それでも、私が帰るとき少し笑顔を見せてくれました。

翌日の昼ごろ、長かった1回目の治療がやっと終了です。
私が病院に行った7時ごろには、吐き気もほとんどおさまり、玉子スープをおそるおそる飲んでいるところでした。
この日は消灯時間をだいぶ過ぎたころまで病室にいて、看病で疲れきった妻と一緒に家に帰りました。
今日からはまた、娘は一人で夜を過ごさなければならないのです。
こうして長くてつらかった1回目の抗ガン剤治療が終わりました。
嘔吐の激しさでは妻の時の方がひどかったと思いますが、娘の場合は、吐き気がきてからもなお、50時間以上も薬が入り続けたのです。
その苦しさ、つらさは想像を絶するものだったでしょう。それでも娘はよく耐えて、がんばってくれました。
疲れ果てて寝ている妻の横で私は、「これで娘の身体から、だいぶガン細胞も消えていることだろう。このまま病院の先生方を信じて治療を続けていけば、娘はきっと助かるに違いない」と、信じていました。
娘はこんなにがんばっているのだ、ガンなんかに負けるはずはないと。

母のこと


次の日からは、またいつもの毎日の始まりです。
いつもの毎日といっても、このころの私は結構大変な生活をしていました。
私には80歳を過ぎた母親がおり、家から歩いて5分ぐらいのところにアパートを借りて一人で住んでいます。
母は父を約10年ほど前にガンで亡くして以来、一人で生活していましたが、やはりだいぶ肉体的にも、精神的にも衰えてきたので、私の家の近くに引っ越して、私たちで、ある程度の面倒をみようということにしていたのです。
始めのころは、自分一人で買い物などにも行き、私が行った時などは、料理なども食べさせてもらっていたのですが、このころにはもう家事もできなくなり、一人暮らしをするにはチョットあぶないところまで衰えていました。
それでも施設みたいなところに入れるのはかわいそうだし、私の家で同居するのもいろいろ難しいことがあるだろうということで、近所のデイサービスや、ホームヘルパーさんなどの助けを借りて、なんとか生活をしてもらっていたのです。
それで私は、朝、コンビニなどで母の1日分の食料を買い、母のアパートに行き30分ほど過ごしたあと仕事に出かけていたのです。
でも、母の存在がのちに娘の病気にとって、大きな意味を持つことになるのです。

治療費の負担


私の仕事は、自分で働けば働くだけ収入になる仕事でしたので、以前は結構朝早く出て、夜遅くまで仕事をすることが多かったのですが、朝の時間帯が制約されるようになっていたのです。
そして夜の7時ごろには病院に行き、娘の顔を見て、9時ごろ昼間バスで病院にきている妻を連れて一緒に帰るという毎日でした。
つまり夜の時間帯にも制約ができ、以前より仕事ができる時間はかなり短くなっていました。それに完全に休む日も増えたので、収入はかなり減ってしまうことになったのです。
ところが、わが家の家計にとって、とてもありがたいことがあったのです。
それは、娘が小児科病棟に移った時、病院側で「難病指定」というものをとっていただき、それ以後、娘の治療費を負担することがなくなったのです。
ガンの治療にかかる費用はかなりの高額です。実際、妻の治療に要した費用はかなりの額になりますし、現在でも続いているホルモン療法の薬代も、月々かなりの額になっています。
そんななか、娘にかかる治療費が入院のベッド代も含めて、すべて無料になるこのシステムがなければ…。
いくら借金してもいい、娘の病気を治すのが最優先だと心は決まっていましたが、現実、治療費やベッド代、食費なども含めると、かなりの高額負担になると思われます。
それをすべて負担してくださるこのシステムは、本当にありがたいもので、これなしでは現在のわが家はなかったかもしれません。

髪の毛が抜けた


抗ガン剤の副作用は、激しい吐き気ばかりではありません。
見た目的には脱毛します。13歳の女の子にとっては覚悟していることとはいえ、あまりにもつらく、悲しいことでしょう。
そして一番恐ろしい副作用は、造血細胞を攻撃して、血液の数値が減ってしまうというものです。
赤血球が減れば貧血になり、血小板が減れば出血したさい、血が止まりにくくなります。そして白血球が減れば免疫力が低下して、風邪などの感染症にかかりやすくなります。
また、せっかく抗ガン剤でガン細胞が減っても、免疫力の低下により再びガン細胞の勢いが増すという恐れがあります。
また、腎機能や肝機能にも重大な障害を与えることもあり、できれば使いたくない薬なのではあります。が、この時点ではこれがガンを治す最良の方法であると信じておりました。

初めての外泊、うれしそうな娘


治療から2週間くらいたち、髪の毛の抜ける量もだんだん多くなってきましたが、減っていた血液の数値がだいぶ元に戻ってきたので、2泊3日の外泊ができることになりました。
娘にとっては約1カ月ぶりのわが家です。帰る時、車に揺られて少しもどしてしまいましたが、それでもとてもうれしそうな顔をしていました。
食欲もだいぶ出てきたようなので、私も「男の買い物だ」などとわけのわからないことを言って、マツタケやズワイガニなど、普段わが家の食卓にはのらないものを奮発して買ったりもしました。
家でも3日間は本当にアッという間に過ぎ、また娘は病院に戻ってしまいました。
髪の毛も半分ぐらい抜け落ちてしまい、もともとやせていた体重も少し減ったようです。
それでも娘は精神的には元気でした。あれほどつらかった抗ガン剤治療に対する恐れやうらみごとも、自分の今の境遇に対する不安や泣き言もいっさい聞いたことはありません。いつも明るく、前向きに、楽しく生きていてくれています。
でも本当はとてもつらかったんでしょうね。

院内学級にも通いだしました。
これは病院内の2階にありますが、身体がしんどい時は、先生がベッドまできて授業をしてくれます。本当にありがたいシステムです。
でも娘は勉強のほうはあまり積極的ではなかったようですが、それでも2時ごろまではこの院内学級で授業を受け、妻はそれが終わるころバスで病院に行き、私が7時ごろ仕事を終え、娘の顔を見て、妻と二人で家に帰るという元の生活に戻りました。
そして週末には、また2泊3日の外泊ができるとのことです。娘は、それだけを楽しみに病院生活を送っていました。
しかし、その外泊がすんだあとは、2回目の抗ガン剤治療が待っています。前回あれほど苦しんだ治療に対する恐れや不安はあったでしょうが、それを感じさせないほど家では明るく、前向きに、楽しく過ごしていました。
でも、病院に戻るための着替えをする時、「ア〜ア」とため息をついていましたね。

2回目の抗ガン剤治療(11月17日)


11月17日、2回目の抗ガン剤治療が始まりました。
前回より早く、1日目の夕方ぐらいから吐き気は始まっていました。私は2日目に仕事を休んで妻と交代し、娘を見守りました。
この2日目が一番きついらしく、洗面器をずっと手放すことのできない状態で、見ている私の方がくじけそうになるほどです。それでも娘は、私の前では、泣き言一つ言わず、この壮絶な苦しみと闘ってくれています。
自分でも病気を治すためには、これをやるしかないんだということを感じているのでしょう。でも本当につらそうでした。
妻と交代し、娘の病室をあとにする時、病院の廊下が涙でゆれてしまいました。すみません。あなたの方がつらいのに。

そして2回目の治療がすみ、外泊ができるようになるころには、娘の髪の毛は全部なくなっていました。髪の毛だけではなく、まつ毛やまゆ毛も抜けてしまうので、娘の顔の感じが少し変わって見えます。
それでも娘は落ち込むどころか、「これで抜けた毛の片づけをせんでいいからスッキリした」などと明るくふるまってくれていました。
精神的には、ガンにもつらく苦しい抗ガン剤治療にも負けてはいなかったのです。でも、肉体的には弱まってきているのはだれの目にも明らかです。
しかし、ガン細胞は確実に減っているんだ、この苦しさに負けずに先生の方針どおりの治療をしていけば必ず娘は治るんだと信じておりました。がんばってください。

3回目の抗ガン剤治療(12月8日)


12月8日、3回目の抗ガン剤治療がはじまりました。
あいかわらずの激しい吐き気です。
抗ガン剤の副作用にはいわゆる慣れというものはありません。それどころか、身体の弱まりとともにますます激しくなってくるようで、血液の数値などもかなり落ち込み、食事も加熱食しか食べられないようになりました。
これは、白血球の低下により免疫力が落ち、感染症にかかりやすい状態になっているためで、冷蔵庫に入れておかねばならないような食べ物は、口にすることができなくなったのです。
病院の食事もパサパサになるまで焼いたような肉とか、汁気があまりなくなった煮物など、だれが見てもあまりおいしそうとはいえないものばかり出るようになりました。
ただでさえ食が細っていた娘は、さらに体重を落としていったようです。

順調な様子


3回目の治療終了後に検査をし、その結果で今後の治療の方針を立てましょう、とのことでした。
これだけつらい治療をしてきたのだから、娘の身体からガン細胞はだいぶ消えているだろう、できればきれいになくなっていてくれと期待しつつ、私と妻の二人で先生の話を聞くことになりました。
「腕の腫瘍はだいぶ小さくなっています。抗ガン剤は効いています。ただ、副作用で腎臓の機能の低下が認められますので、次からは薬を替える可能性もあります」とのことでした。
あれほどつらい思いをした効果はあったのです。
副作用で身体のほうはかなりまいっているようですが、「とりあえずは順調だ。このまま先生方を信じて任せていけば、必ず娘の病気を治してくださるだろう」と考えていました。

年末年始の長期外泊


腕の腫瘍は小さくなったようですが、肺転移は大丈夫なんだろうか、と少し不安に思いましたが、とりあえず順調にことが運んでいるようなので、あまり気にしないことにしました。
娘の身体は、抗ガン剤の副作用でかなり弱ってきているようです。
腎臓の機能が低下しているというのが不安でしたが、これもガンを治すためには仕方のないことなんだろう、先生方がよく気をつけてみていてくださるから大丈夫なんだろう、と思っていました。
実際、ちょくちょく発熱したり、治療の合間の比較的元気であるべき時期にも、もどしたりしていました。
それでも暮れから正月にかけて1週間の外泊許可がでました。
「なにかあったらすぐ病院に連絡してください」と何度も念を押されましたが、娘は家に帰ってきました。とてもうれしそうです。

「この1週間で栄養のあるおいしいものをいっぱい食べさせて、少しでも体力を回復させ、次からの治療に備えてもらおう」と妻ははりきって正月料理のごちそうや、娘の好物を作っていました。
そのかいあってか、家にいる1週間の間、娘は発熱もなく、吐き気もなく、食欲も病院にいる時の倍近く食べていたような気がします。
気分もリフレッシュして笑顔でいる時が多かったのですが、ついに明日は病院に戻らなければいけないという夜に、また「ア〜ア」と大きなため息をついているのを見てしまいました。つらいですね。

娘を支えてくれた方々


病院に戻った娘に待っていたのは4回目の抗ガン剤治療です。
薬は結局今までと同じものを使い、次回から替えるということになりました。
やはりわが家で1週間おいしいものをたくさん食べたせいでしょうか。吐き気は若干軽くなったような気もしました。
4回目の治療も何とか乗り切ってくれました。本当にわが子ながら頭のさがる思いです。

このころ、隣のベッドにSちゃんという、同じ中学1年の女の子が入院してきました。少しあとでわかったことですが、この子の病気は白血病だそうです。
今まで同じ年頃の患者さんたちともあまり話をしなかった娘ですが、このSちゃんとは気が合ったようです。二人とも携帯電話を持っていたので(入院生活の必需品と思い、10月ごろ購入しました)メールのやりとりをしたり、お互いのマンガ本の貸し借りをしたりと、とてもなかよくしていたようです。
もう一人、M先生という若い女性の研修医が娘に良くしてくださり(この先生は他の患者さんたちにもとても人気があったようです)、夜など妻が帰ったあと、自分の勤務時間はもうすんでいるのに1時間も2時間も娘と話をしていてくれたそうです。
この二人のおかげで、娘は一番つらい時期も明るく、前向きに、楽しく生きてこられたのだと思います。本当に感謝の気持でいっぱいです。

また、このSちゃんのお母さんとうちの妻がとても気が合ったようで、よく1時間ぐらい立ち話をしたりしていました。
余談ですが、私がこの小児科病棟に通いだして感じたことの一つに、付き添いのお母さん方がみんなとても元気で明るいということがあります。何カ月も入院している子供の付き添いで、みんな心身ともにボロボロのはずなのですが、気軽にあいさつを交し合い、とても和やかな雰囲気の病棟になっていました。
とてもわれわれ男親にはまねのできない、女性である母親の強さ、たくましさに頭のさがる思いがしていました。

5回目の抗ガン剤治療(2月3日)


2月3日、5回目の抗ガン剤治療が始まりました。
手術前最後の抗ガン剤治療です。手術に対する大きな不安はありますが、とにかく、ここまでは順調にきているようです。
娘も心配していたほどの精神的な落ち込みもなく、本当によくここまでがんばってきてくれました。
私は、このまま現代の医学が、妻同様、娘も救ってくださるものと信じていました。
今回の治療は前回までとは違う種類の薬を使っています。今までの薬と違い、副作用である吐き気は格段に軽いようです。
娘も「このくらいなら別にどうってことないや」と言い、妻も「術後の抗ガン剤もこのくらいの副作用ならなんとかなりそうなんだけどね」と少しずつわが家にも明るい光が差し込んできたような気がしていました。
手術の日取りも3月5日に決まり、娘も覚悟を決めているのか、それほどの動揺もなさそうです。
手術に備えてのいろいろな検査も始まりました。何もかもが、順調に進んでいるように見えました。

最悪の事態(2月25日)


そして2月25日、仕事をしている私に、病院にいる妻から1本の電話が入ったのです。
「お父さん、今日、肺のCT検査の結果について先生からお話があるそうなので、早めに病院にきてください」とのことです。
私は少し嫌な予感もしましたが、手術の時に、一緒に肺の細胞をとる検査をするのだろうかくらいに考えて、不安そうな妻にも「あまり気にすることはないだろう」と言いました。
約束の7時少し前に病院に着きました。
娘も妻も普段どおりです。昨日までと変わらない空気がありました。
7時になり、妻と二人で相談室に行きました。そこには初めて見るS先生という先生がいらっしゃいました。
病棟主任のM先生より少し貫禄のありそうな(実際には同格だそうですが)、その先生が淡々とした口調で話しを始めました。

「娘さんの肺にガン細胞の転移がみられます」
そう言いながら昨日撮ったCTの写真を並べ始めました。素人の私たちが見てもよくわからないのですが、どの写真にも白い部分があるような感じでした。
「20カ所ぐらい、腫瘍が認められるようです。かなり大きくなっている部分もあります。肺のまわりに少し水がたまっているようにも見受けられます」——感情を押し殺した声で淡々と説明をしていきます。
私には先生が何をおっしゃっているのか、何をおっしゃりたいのか考える余裕もありません。
「大変シビアな内容の話なのですが、娘さんに実際に症状が現れるのに半年はかからないと思われます」
相談室の空気が完全に凍りついてしまいました。
私はまだ事態の把握が全然できておらず、「ハア」とか「アア」とか言うのが精一杯です。
「転移が認められますので手術は中止にして、QOL(クオリティ・オブ・ライフ—生活の質)をよく考えて治療をしていきたいと思っています。」——私にもだんだんことの重大性がわかってきました。
「あの、それってもう何の治療も行わないということなのですか?」
やっとの思いで私があまり意味があるとも思えない質問を口にしました。
「いえ、私どもとしてもこれからも最善の治療は続けていく方針です。ですが、今まで一番いいと思われる薬を使ってこの状態になってしまったのですから……」
「放射線とか何か他の治療法とかはないのですか?」
「娘さんのガンの場合、放射線治療は少し難しいと思われます。他の治療法でも効果が期待できるものは少ないので、とりあえずは、今までと違う種類の抗ガン剤を試していきたいと思っています」
その後も意味がないと感じつつも、何としても今の先生の話を受け入れたくない、認めたくないとの思いだけで、いろいろな質問を繰り返しました。
唯一意味のある話としては、このことを本人に伝えるかどうかという選択です。私たちは肺に転移のあることはふせて、単に治療の方針上もう少し抗ガン剤を続け、手術は一時延期にすることに決定した、という内容のことを先生の口から娘に伝えてほしいとの希望を言いました。

妻を見てわれに返る


話は1時間ほどで終わりました。
でもこの時間の前とあととで私たちの周りの空気はガラリと変わってしまったのです。
私と妻は相談室を出ました。
放心状態の私はボンヤリと妻の顔を見ました。
その瞬間、「これはいけない! このままではいけない!」と感じてすぐ妻をサンルームに連れて行き、二人で話しをすることにしました。
母親である妻の顔は、私以上にボーっとしていたのです。でも逆に、それを見て、私の頭は正気を取り戻しました。いや、それ以上に、なにか火事場の馬鹿力的な力がわきあがるのを感じていました。
「何か方法があるはずだ、明日、仕事を休んで調べてみる」
サンルームに入ってすぐ妻にこう言いました。
こんなとき、「大変なことになった」とか「どうしよう」とかいう言葉は事態を悪化させるばかりだと判断できる精神状態になっていました。
「先生はああ言ったが、放射線療法とか免疫療法とか遺伝子療法とか必ず何かあるはずだ」
嘘でもハッタリでもいい。ここで今一番大切なことは、とにかく妻にも前向きになってもらうことです。妻の顔も少し生き返ってきました。

そして私は病院の悪口を言い始めました。
「なんで肺転移に今まで気づかなかったのか、検査を怠っていたのではないか」
「5回目の薬の選択が誤ったのではないか」
さらに、「転院のことも含めて考えてみよう」とか思いつくまま勝手なことを言いました。
別に本気で言ったわけではないのですが、とにかく妻に娘を治す手段はまだあるんだ、希望を捨てることはない、ということを思い込ませたかったのです。
そして娘にどのように伝えるか、どのような態度をとるべきか、などという具体的なことを話し合いました。このあたりの話になると、もう妻の方が主導権を持ち始めました。
妻も嘆くばかりでなく、次に、そして今、なにをすべきかということを考えられる精神状態になってきたのです。
嘆き悲しむことは簡単ですが、それでは何の前進もありません。
とにかく今、何かわれわれにできることはないか、娘のためになるようなことは何かないかということを考えられる雰囲気が、私と妻の間にできてきていました。

二人で出した結論は、とにかく今までどおりの態度で娘と接していくということでした。
単に手術は中止になって、もう少し抗ガン剤治療を続けることになったということだけ話して、いつものように、いつもの時間に病院をあとにしました。
車に乗り、妻は涙を流すことはありませんでしたが、黙ったまま厳しい顔をしています。私もしいて声をかけることはしませんでした。
あとはそれぞれが自分にできること、娘にとって自分ができる最善のことは何かということだけ考えていけばいいのです。
しかし、やはり寝床に入った時、妻の押し殺すような鳴き声が聞こえてきました。私は気づかぬふりをしていました。私も風呂に入った時、一人で涙を流していたのです。それは悲しい涙というより、悔しい涙でした。
二人とも口には決して出さないけれど、現実の厳しさは充分把握しているのです。
大学病院の先生が言外に「覚悟しておいてください」と言ったのです。
素人の私たちに何ができるというのでしょう。あんなに娘はつらい抗ガン剤治療を胸が痛くなるほどけなげにがんばってきたのに、妻の涙も多分悔しさの涙だったと思います。