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死ぬことと見つけたり



あれからどれくらいの時間が経ったのか。
波が控えめな水音を上げる湖畔で左之助が目を覚ますと、
まだいくらか夜の残滓を留めた空が東の彼方から色味を変えはじめるところだった。
左之助は下草の柔らかな褥の中で上体を起こすと、片膝を立てた格好で眠そうに欠伸をし、
それから鳥に似た頭を乱暴に掻いた。
数時間不貞寝を決め込んだお蔭か、桃との喧嘩の疲れは残っていなかった。
しかし右手にはまだ痛みがある。
折れているのかひびが入っているのか、それともただの打ち身なのか、
無頓着を絵に描いたような左之助にはてんで具合がわからなかったが、
少なくともちょっと寝たくらいで治る怪我ではなかったらしく、さっきまでに比べてだいぶ腫れが増しているようだった。
じんじんとした鈍い痛みは脈と同調した短い周期で左之助を襲ってくる。
この有様では再び二重の極みを放つどころか、ただの突きすら繰り出すのは難しいだろう。
拳をそっと握るだけで脊椎に針で刺されたような痛みが走った。
この腫れあがった手を恵に診せたらなんと言われるだろうか。
おそらく治療などはしてくれず、呆れて匙を投げられるに決まっていた。
そんな場面を思いつつ面倒臭そうに首を振り、左之助は下草の長いものを一本抜き取ると、
魚の骨の代わりにそれを口に含んだ。
一眠りして昂っていた気もすっかり落ち着いていた。
拳のことはもう仕方がない。もともと壊れかけていたものを酷使した自分の責任だ。
桃に負けたのもそうだった。熱くなりすぎて本来の闘い方を忘れていた。
もっと冷静でいられたらあんな無様なやられ方だけはしなかったはずだ。
桃は確かに強かったが、それでも実力で劣っているとは思えなかった。
自分の馬鹿さ加減に物言えなくなりながら、何故あれほどまでに熱くなっていたのかと思い至り、
そういえばそれはあいつのせいだったと、左之助は我知らぬうちにまた沸々と怒りを滾らせはじめた。
剣心だ。すべて剣心のだらしなさに行き着く。
あいつがもっとしっかりしてくれさえいればそもそも喧嘩別れすることはなかった。
そうすればこんなに苛立つこともなく、桃に負けることも拳を壊す必要もなくて済んだわけだ。
大体あいつは――とそこまで考えて、これではさっきまでとなにも変わらないということに左之助は気づいた。

ここで荒れてしまえば自分自身でも押さえが利かなくなる。さっきはその果てに桃にやられたのだ。
これでは二の轍を踏むだけだと思い直し、鬱屈としたやり場のない怒りを無理矢理腹の奥底に封じ込め、
銜えていた雑草を忌々しげに吐き出すと、痛む右手を湖水に浸けるべく立ち上がった。
これから先、どうなるかはわからなかったが、いずれにしたところで右手の不自由は不利極まりないことだろう。
もし仮にまた誰かと喧嘩する羽目になったとき、いやそういった場面は必ず来るのだろうが、
そのときに手が痛いから勝負はお預けにしてくれというわけにはいかないし、
なによりそれをよしとすることが自分にはできない。
手が痛かろうと、たとえ拳が壊れ砕けようと、使い物にならなくなろうと、殴るときは殴る。
それが喧嘩屋というものであり、つまるところ相良左之助という一箇の男の生き方であった。
後先考えない馬鹿と言われればその通りだし、引くことを知らぬ赤報隊のようだと言われればいくらか鼻も高い。
だがそのためには少しでも拳を使える状態にしておかなければいけなかった。
左之助は壊れた右手を見て改めて自分の愚かしさを呪うと、湖の水によって腫れた手から熱が奪われていく快感に身を委ねた。
しばらくこうしていれば気休めにはなる。もしかしたら案外これで治ってしまい、まともに使えるようになるかもしれない。
ちょっとでも楽観的に考えたくてあり得ないだろうことを思ってみたりもしてみる。
左之助は次こそは桃に負けないと強く思いながら、そして腫れが早く引いてくれるのを願って、ただじっとときがすぎるのを待った。
――が、そのとき突然に背中におぞ気が走った。
誰かに見られているような、誰かがこちらの様子を窺っているような……。
左之助は何者かの視線を意識せずにはいられなかった。
気付かぬ風を装いつつ、手を湖水に浸けたまま五感の触手を周囲に張り巡らし、何処から誰が見ているのかを探ろうとする。
いる。確実になにかがいる。それも志々雄と同質の、邪悪で、禍々しくて、異質ななにかだ。
いや、志々雄とはまた違うかもしれない。隠そうともしない殺気の如きものは狩りを楽しむ野獣に似たものがあった。
純粋に殺戮を好むであろうそれは、左之助を獲物の一つとして涎を垂らして見ているはずだった。

左之助は背中を這い上がろうとするおぞ気をかなぐり捨てると、上等だと胸の内の闘志を掻き立てた。
しかしこれほどはっきりした存在感にもかかわらず、何処にいるのかいまいち捉えきれない。
一体どういうつもりなのだと左之助は疑問に思った。

「なんでェ、ッの野郎、隠れてねえで出て来やがれ!」

熱くなりすぎるなと心中で自戒し、それでも言わずにはいられない緊張感に突き動かされ、左之助は大声で叫んだ。
立ち上がり、その場をぐるりと見回す。
叢、岩陰、木陰、およそ考えられる隠れ場所に鋭い視線を飛ばしていく。
張り出したサワグルミの枝の上でなにかが動いた気がしたが、
悪一文字を染め抜いた自分の羽織が風に飛ばされたなびいているだけだった。
大事なものだからあとで回収しなければと頭の隅で思いながら、気を取り直して注意の輪を広げる。
しかしその他に異変は見当たらず、気配の元の居所は庸として掴めないままだった。
もしかしたらただの気のせいなのか……。
そう考えたとき、急に背後の湖に水柱が立ち昇り、そこからなにかが左之助に向かって飛んできた。
矢だった。まるで巨大な青い矢が湖中から放たれたのかと思われた。
そのままぶつかればひとたまりもないはずだった。
左之助は反射的に飛んできたそいつをかわそうとしたが、咄嗟のことに一歩遅れた。
ノコギリ状の鏃が胸元を掠めていく。

「ぐあ!」

掠めただけだが血が吹き出た。それほど深くはなかったが、思いがけない攻撃に少したじろいだ。
左之助はなにがどうなったのか、正確に状況を確認しようと矢の飛んでいった方を眼で追った。
……矢ではなかった。それは鼻の長い大男だった。
どうやったというのだろうか。湖中を凄まじい速度で湖を泳ぎ、その余勢を駆って岸辺に飛んだとでもいうのか。
とても人間業ではなかったし、このことからも男が只者ではないことが知れたようなものだった。
水の飛沫が煙る雨のように降る下、男から不気味なものを本能で嗅ぎとり、左之助はすかさず後方に跳んで距離をとった。
胸の傷が疼いたがそんなことは気にしていられなかった。


「シャハハハ! 遠いA・Bエリアに行く手間が省けたぜ! こんなところにひ弱で旨そうな鶏がいやがった」

男は見るからに凶悪そうな面構えをしていて、左之助は一目でこの男が嫌いになった。
どうもずる賢こかったり、不敵でいる奴は好きになれない。
斎藤や恵など思い当たる顔がいくつも頭を横切り、目前の男をその中につけ加えた。

「誰が鳥だ、コラ。テメーこそ魚みてえな面しやがって」

言いながら左之助は腰を落とした。応戦に備えたものである。
相手の力量を推し量りつつ、ごく自然な様子で右手をそっと握り込む。
変わらぬ痛みがあることを確かめると、さすがにこれはヤバイかもしれないとちらりと思った。

「いきなり突っ込んできやがって……! どういうつもりだ」
「どういうつもりかだと? それはな、テメーのことを――――殺しちまおうかと思ってな。シャーッハッハ!」

無論、存在に気付いたときから用件がなんであるかなど知っていた。
あれほど殺気を溢れさせておいて、お友達になりたいですなんて言われるわけがなかった。
もっとも、そんな要望だったとしても願い下げではあったが。

「……殺す? 俺をか? ケッ! 馬鹿なこと言ってんじゃねえ。
 テメーこそつまんねえ与太吹いてっと、この左之助様が返り討ちにしちまうぞ」
「シャハハハ、下等生物がなにを言うかと思えば! 魚人アーロン様相手に大見得切りやがったぜ!」

不遜で傲慢で大胆不敵な態度だった。
熱くなるなと自戒していても、さすがにこれには頭に来る。
この野郎は何様だ、こういう奴は一度力ずくでわからせてやらねばと、左之助は強く思った。


「チッ、ギョジンだかヘンジンだか知らねえが、売られた喧嘩とあっちゃ買わねえわけにはいかねえな。
 いいぜ、俺が相手んなってやらあ。――ごちゃごちゃナメた口叩けないよう、しばらく寝てな!」

左之助は自分の方からアーロンと称する男に突っ込んでいった。
性格上、後の先、対の先をとる戦い方は好まない。
待つことより、先の先をとり、攻撃に次ぐ攻撃を仕掛ける方が性に合っていた。
左之助は飛び出した勢いを活かして満身の力を籠めて殴りつけた。
確かな手応えが腕を伝って響いてくる。左之助の左拳はアーロンの顎を削り取らんばかりに強烈な一撃を見舞っていた。
アーロンの口から歯がまんま形を残して吹っ飛んでいく。
そんな歯の飛び方など見たこともなく、若干の疑問は湧いたが、
しかしそこで気に留めて手を休めたりするようなことはせず、左之助はとにかく攻めて攻めて攻めまくろうと、
勢いを殺さずに、ただ無心で突きの乱打を繰り出していった。
左腕だけで打ち続けるのは相当に大変だったが、まだ右手を使うときではなかった。
どうせ一発打ち込めれば御の字という有様だ。ならばここぞというときまで右拳は温存しておきたかった。
とはいえ左腕だけでも桃のときとは違い、面白いほど打撃がよく当った。
その全てが心地よい乾いた音を伴って、充分な手応えを伝えてくる。
だが左之助は気付いていた。当たるのではなく、当てさせてもらってるということに。
ハナからアーロンには避けるつもりがないのだ。
左之助は内心かちんと来るものがあったが、それなら何処まで我慢できるか試してやると、かえって拳に力が入った。

「――デカい口叩いても、所詮人間なんてのはこんなもんだ。退屈しのぎにもならねえ」

数十発見舞った頃だった。それまでじっと攻撃を受けていたアーロンが、突然左之助を振り払った。
その途端、左之助は大きく弾き飛ばされる。

「ぐおっ!」

なんでもない、ただ腕を振り回しただけなのに、
その威力は驚くべきもので、倒れた左之助は頭の芯に痺れを覚えるほどだった。


「くっ、なんつー馬鹿力してやがる……。クソ坊主以上かよ……」
「シャハハ、俺達魚人はテメーら人間の十倍の力を持っている。
 テメーら下等生物とじゃ身体の性能からして雲泥に違うんだよ。シャハハハハ!」
「野郎……!」

自分より強い奴に出会ったことは多々ある。喧嘩に勝てなかったことも一度や二度ではなかった。
だがこれほどまでに虚仮にされ、屈辱を感じたことは一度もない。
気に食わないを通り越し、殺意すら感じてしまう。こうなると是が非でも負けるわけにはいかなくなった。
左之助の身体から不屈の闘志が滲み出る。アーロンがそれを敏感に感じたようだった。

「……反抗的な眼だな。もう少し、魚人の凄さを教えてやる必要があるか?」

そう言うと、アーロンはおもむろに湖の水を掬った。
いつの間にか全部抜け飛んだ歯がしっかり生え揃っていた。
にぶく白い鋸歯は、一本いっぽんが研ぎ澄まされたような鋭利さを感じさせる。
歯が生え変わるなんてまるで鱶じゃねえかと、ぼんやりと思った。

「――喰らいな」

左之助がつまらないことを考えていると、アーロンは掬った水をばら蒔いていた。
左之助はなにをしているのかわからず、不思議そうに眺めていたが、
水が散弾となって襲ってくるに至ってはじめて危機を感じると、丸くなり、両腕で頭を庇うようにしてそれをやり過ごした。
もちろん無傷というわけにはいかなかった。
水の弾が顔の前で交差させた腕や剥き出しの腹、そして腿を深々と抉っている。
銃に撃たれたのと同じで、左之助は血を流して地面に膝をついた。

「言ったろ、テメーらとじゃ性能が違うんだよ」

既に勝ちを拾ったとでも言いたげに、アーロンが高らかに笑った。
その哄笑が耳に障る。


「……なに勝手に終わったつもりになってんだ。俺を殺すんじゃねえのか……?
 生憎俺はしぶてえぞ……。へっ、まだぴんぴんしてるぜ」

不幸中の幸いか、致命傷だけは負わずに済んだ。
腹を貫通したものが一発あったが、脇腹の薄いところだったため、肉を少し持っていかれたくらいだった。
一番酷いのは太腿で、水の浸入口が爆ぜたようになっており、
力を入れるとそこから血が吹き出たが、我慢できないほど大袈裟なものでもなかった。
左之助はふらりと立ち上がると、赤い鉢巻きの下からアーロンをねめつけた。

「惰弱な劣等種族の分際で……生意気な」
「魚臭えから喋るんじゃねえやい……」

このあとどうするか……。左之助は熟考する。
明らかに分はこちらが悪い。それは間違いなかった。
アーロンではないが、身体の性能が根本から違うというのは頷くしかないようだ。
魚人とかそういったことの意味は皆目わからなかったが、
少なくとも自分に水をあんな風に飛ばせるかと訊かれればできるわけがなかった。
しかもこちらは手負いである。このまままともにやり合ったところで勝ち目は薄いだろう。
しかし、左之助にはまともなやり方しかできない。
あるいは斎藤や志々緒のような奴らなら戦いの上での駆け引きができるかもしれない。
だが喧嘩屋とは本来拳で語るものだ。駆け引きなどは邪道と言える。
それに、仮に教えられたとしても、駆け引きのような複芸を使いこなせる自信もなかった。
ではどうするか……。
――そこまで考えて、左之助は自嘲した。
いくら考えたところで正攻法で行くしかないのだ。元々深くものを考えることも得意な方じゃない。
だったらあれこれ考えるのは無駄なことで、とにかく当たって砕けるしかなかった。
それが自分にできる唯一の戦闘法なのである。
左之助は新たに負った怪我の痛みを無視して、また一直線にアーロンに躍り掛かった。

「オラぁ!」
「馬鹿の一つ覚えが! この俺に通用するとでも思っているのかッ!」


アーロンが口を開いた――そう思ったときにはもう遅かった。
繰り出した左之助の左腕は、肘のすぐ下までアーロンに噛みつかれていた。

「…………ッ!!」

引き抜こうとしたが鋭利な牙ががっちり肉に食い込んで、動かない。
むしろ動かすたびに牙が更に奥深くへと食い込んでいく。

「シャハハ、はふへはひんへんへ(マヌケな人間め)!」

腕に食らいついたままアーロンがせせら笑う。
馬鹿にしやがってと思った次の瞬間、左之助はなんとも形容しがたい嫌な音を聞いていた。
自分の腕を噛み千切られる断裂音だった。
刹那には痛みがない。真っ白になった頭で自分の腕を見てから食われたことを知り、
それから言い表すことのできない痛みが怒濤と押し寄せた。
壊れた右手で傷口を押さえ、声にならない悲鳴を喉が張り裂けんばかりに上げ、左之助は激痛に身をよじった。
信じられない量の血液が全身を赤く濡らすほどに溢れ出た。
汗腺という汗腺から汗が吹き出る。気が遠くなりかける。吐き気が競り上がる。そしてあっという間に汗が引いてゆく。
のたうちまわり狂いだしそうになりながら、それでもあと一歩のところで意識を失うことだけは辛うじて耐え、
絶望と憎しみのない交ぜになった恨みがましい眼でアーロンを仰ぎ見た。

「いい眼だ。やっと自分の無力さに気付いたようだな。
 これが俺達魚人とテメーら劣等種族との決定的な差だ。よく思い知れ、人間」

銜えていた左之助の腕を無造作に吐き捨てて、アーロンが吠えた。

――強すぎる。
左之助はともすれば飛びそうになる意識を僅かな闘志で支えていたが、それも底を尽きそうになった。
これが絶望というものなのか……。ここまで成しがたい気分にさせられたのははじめてだった。
安慈に感じたものとは違う。斎藤に感じたものとも違う。今度はそれらに輪を掛けてなお余る衝撃だった。
一種信仰とまで呼べる絶対的な自負と自信を持っていた拳がまったく利かなかったわけだから、
それは左之助そのものを全否定しているようなものだった。
両翼をもがれた鳥にできることはない。左之助は血の気の失せた顔を虚ろにアーロンに向けるだけだった。

「いい気味だぜ。人間如きが魚人に逆らうからこうなる。人間は魚人に従ってるか、黙って殺されてりゃいいんだ。
 ――さあ、優しいアーロン様の最後の慈悲として、ひと思いに殺してやるか。
 死ねぃ、人間! 鮫・ON・歯車(シャーク・オン・トゥース)!」

アーロンはおもむろに口を開けると、回転し、心身共に瀕死となった左之助に牙を剥いた。
まさにアーロンの必殺技なのだろう。派手な分だけ威力も高そうだった。
――だが、そのアーロンが左之助に辿り着くことはなかった。
スイカほどの石くれが何処からともなく飛んできて、それがアーロンを直撃したのだ。
技の出鼻を挫かれたアーロンは、バランスを崩し、そして転倒した。

「フフッ、なにやってんだ左之助さん」
「……テメーは……桃……」

登りはじめた太陽を背にして現れたのは、ついさっき死闘を演じた剣桃太郎その人だった。

「誰だ貴様は……!」

転ばされ、怒りに眼を血走らせるアーロンを無視し、桃は左之助に歩み寄る。
着ていた長ランの袖を破ると、手早く左之助の失った左腕に巻きつけた。
簡単ではあるものの、無駄のない手際で的確に止血が施される。


「なんで……テメーがここに……いやがる……」
「あんたとの勝負のあと、俺の方も色々あってな。
 どうしていいか考えてるうちに、またここに戻って来ちまったようだ」

なるほど、桃の身体には自分がつけたものではない傷がいくつかあった。
襲われでもしたというところなのだろうか。

「それにしても大変そうだな。なんなら俺が代わろう」

自分が左之助の代わりにアーロンと戦うという意味らしい。
左之助は荒く息を吐いて桃を一瞥した。

「馬鹿言うんじゃねえ……。せっかくこれからってところなんだぞ……。
 テメーは引っ込んでろってんだ……」

桃への見栄か、脳内麻薬が分泌されはじめ痛みが薄らいできたからか、
萎えかけていた左之助の闘志がまたちろちろと燃え上がってきた。左之助の眼の奥に青白い炎が灯る。
廃業したとはいえ、嘗て喧嘩屋の看板を掲げていた以上、立て続けに不様な敗北をすることはできない。
せめて一矢でも報いなければ、これから先、恥ずかしくて東京の町を歩けないではないか。
物笑いの種にされるのは御免だし、そんな屈辱には耐えられそうもない。
一発……倒せぬまでもせめて一発いいのをお見舞いして、アーロンを見返さなければ気が済まなかった。
左之助は己を叱咤し、肚を据えた。

「テメーら何処までこのアーロン様を虚仮にしやがる……! 俺を無視して勝手に話し合うんじゃねえ!!」
「だとよ。どうする?」
「邪魔だ……退いてろ……。……すぐケリをつけてやる」

左之助は桃を押し退けた。桃も心得たもので、なにも言わずに左之助に前を空ける。


「死に損ないの虫ケラが嘗めたことを……。今度こそきっちり殺してやる! それから貴様の番だぞ、鉢巻ぃ……!
 ――――鮫・ON・歯車(シャーク・オン・トゥース)!!」

再びアーロンが宙に躍った。
左之助はどっしりと腰を落としたまま微動だにしない。
大口を開けたアーロンが身体を回転させて左之助に迫る。対して左之助は動かない。
アーロンが迫る。左之助は動かない。
アーロンが――そのとき、はじめて左之助が動いた。
壊れた右手を握り込み、脊椎にまで響く痛みを黙殺して、全身全霊を賭けてそれを打ち込んだ。

「三重の極み!!」

二人の身体が衝突すると、まるで大気と大気がぶつかり合ったような揺れさえ起こった。
桃が瞬きもせず行方を見守っていた。
一瞬の静寂が訪れ、それがすぐに去っていった。
左之助の壊れた拳は、アーロンの大きく開けた口の中に深々と突き刺さっていた。


     ◆ ◆ ◆


「……ここは……」

左之助が意識を取り戻すと、傍らには桃の姿があった。

「湖からちょっと離れたところだ。
 あれだけの騒ぎだったからな、誰かに嗅ぎつけれても厄介だから、ここまで運んできた」
「勝負は……? あの魚野郎はどうした……」
「心配するな、あんたの勝ちだ。あいつなら今頃あそこでノビてるさ」
「そうか……。へへっ、ざまーみろってんだ……」


笑うと全身が軋んだ。しかし最早痛みなどは感じなかった。
その代わり、身体の感覚もなかった。仰向けに寝転がされたまま身動きはとれない。
左之助は自由の利く首だけを動かして桃に言った。

「ケッ、なんだか面白くねえが、お前には助けられちまったみたいだな」
「フフッ、別に俺は助けたつもりなんてないが」
「……いや、お前が来なければ俺はあそこで死んでた」
「俺が行かなくたってあんたは死にやしなかったさ。あんたは強いからな」
「嫌味な野郎だぜ、謙遜なんかしやがって。お前のお蔭だって言ってるんだから、それでいいじゃねえか」
「そう思いたいならそれでもいいが、勝ったのは左之助さんの実力だ。別に俺はなにもしてない」
「……俺の実力か。そうだな、確かにあれは俺の実力だ。そうしておくか」
「ああ、そうしておいてくれ」

この男もいけ好かないと左之助は思った。
だがそれは悪意からでなく、桃という男を認めたからに他ならなかった。
認めたからこそ謙遜する桃がありがたかったし、また、生意気だとも思った。
とはいえ本心から感謝している。実際にあのまま桃が来なければどうなっていたかは定かでなかった。

「――なあ、その肩に彫ってある文字はなんでい」

ふと、破って露になった桃の肩に眼が行った。
そこには刃物かなにかで彫ったばかりの『遊戯』という文字が、血に汚れながらも読み取れた。
問われた桃は少し複雑な表情をして、文字の上を軽く撫でている。

「これは男塾名物『血誓痕生』といってな。俺のせいで死んだある男の名を刻んである」
「色々あったって理由がそれか」
「まあ、そんなところだ」

それ以上は訊かなかった。
桃の眼には悔恨の色と同時に、固い決意のようなものが浮かんでいたからだった。
それがなんであるか訊くべきことではなかったし、また訊いてどうなるものでもなかった。

たとえば左之助がなにか事情があるなら協力してやると申し出ても、桃はそれを固く固辞するはずだ。
アーロンとの戦いで助太刀せず見守ることを選択してくれた桃のことだから、
それが逆の立場になっったところで必ずそうするに決まっていた。

「そういや俺の羽織がどっかに行っちまったな……」

悪一文字を背に負ったあの羽織のことだ。
別段話題を変えようとしたわけではなかったが、不意にそのことが気になってしまった。
最後に見たのはサワグルミの枝だ。引っ掛かっていたのは覚えているが、戦いの最中に拾う暇がなかった。
あとで取りに戻るかと、ぼんやりと思う。

「忘れてた、こいつのことだろ」

そう言うと、桃はデイパックを漁って羽織を取り出した。

「あんたのものはここに全部ある。安心しな」
「すまねえ、手間掛けさせたな。手間ついでと言っちゃなんだが、悪いがそいつを身体にかけてくれ。
 どうも寒くて仕方ねえや……」

さっきからずっと寒気を感じていた。身体の芯から冷えてくるような、じわじわと染みてくる寒さだった。
左之助が頼むと、桃は羽織をかけてくれた。
いつもは背中にあって見えない悪のひと文字が、左之助の胸の上でふわりと泳いだ。

「……他にして欲しいことがあれば言ってくれ」

普段涼しげに微笑を湛えている桃の顔が、このときは何故か沈んでいた。
桃がそんな顔をするのか最初はわからなかったが、左之助はなんとなくその意味を察した。
そういうことかと、妙に納得する。
そこに恐怖はなかったし、あるべきことを受け入れるという素直な気持ちだった。
左之助は沈む桃に顎を引いてみせた。深く頷いてるつもりだった。桃ならそれで伝わるはずである。


「いや、これで充分でえ。気を遣わせてすまねえな」
「いいのか、本当に。俺にできることなら遠慮な――」
「いいんだ。本当に、これで充分だ」

桃はしばらく左之助の顔を覗きこんでいたが、
やがて申し合わせたように一つ頷くと、静かに腰を上げた。
自分の荷物をまとめ、肩に提げる。
一度左之助に背を向けて、それから軽く振り返った。

「じゃあ、ここでお別れだ。達者でな、左之助さん」
「へっ、達者で、か……。洒落にもならねえが、ああ、達者でな、桃」

お互い短い挨拶を交わし、桃はゆっくりと歩き出した。
桃は気付いている。左之助の中で確信に変わった。

「そうだ、おい――」

去りかける背中に、左之助は語り掛けた。
桃が歩みを止めて今度はちゃんと振り返る。

「――さっきは悪かったな。俺の方にも色々あって気が立ってたんだ」
「最初に会ったときのことか? フッ、気にするな。
 俺の方こそすまなかったな、あんたを怒らせるような真似しちまった」
「……桃……」

そのあとに言葉を継ごうとして、左之助は激しく咳き込み、血の混じった痰を吐いた。
呼吸が乱れたため、深呼吸をして荒れた息を整える。
やはりそういうことかと、がっかりしたような、
それでいて満ち足りた充足感のような、不思議な感覚に左之助はとらわれた。
その間、桃は黙って待っていた。


「……桃……死ぬんじゃ……ねえ……ぞ……」

喉が張りついていた。声を出しにくくなっていた。

「ああ、わかってる」
「……桃……喧嘩す……る……ときは……絶対負け……んな……」

やけに痰が絡む。口の中は錆びた鉄の味が広がっていた。

「ああ、それもわかってる」
「なら……もう行っちま……え……」

左之助は微かに顎をしゃくった。
すると桃は今度は足早に、そして二度と振り返ることなく、何処へともなく消えていった。
一人残された左之助は、仰臥したまま天を仰いだ。
何処かの梢で小鳥が囀っていた。
もう鬱掘した怒りが込み上げてくることはなかった。
それよりも、この明けやらんとする晴れやかな空のように、左之助の心は晴々としていた。
最後の最後に一世一代の大喧嘩をし、勝ち星をつけられた。悔いはない。
不意に剣心のことを思う。
正直、剣心についてはまだわだかまりはある。
しかし雑念を取り払ってしまえば剣心の気持ちを理解できなくもない。剣心も苦しんでいたのだ。
本当なら仲間としてもっと自分を頼りにしてもらいたい部分もあったが、素直にそうとできないのは自分とて同じだ。
責めるべきではない、そう思って左之助は胸の奥に渦巻いていたわだかまりをも消し去った。

「……いい天気だな」

身体に鞭打ち、壊れた右手をなんとか動かして雑草を摘んだ。ほとんど感覚らしい感覚は右手になかった。
それもそのはずで、折れた骨が皮膚を突き破って飛び出たりしていた。これはもう恵でなくてもお手上げであろう。
どうにかしてその摘んだ草を口に持っていき、右手は頭の下に滑り込ませた。

朝の柔らかな陽光と、緑の匂いをふんだんに含んだ風が流れ、なんだかとても心地よかった。
桃は大丈夫だろうか――。第一印象とは正反対の感情が自分の中にあることに、左之助は気付く。
拳を合わせてわかったことだが、やはり奴は強い。さっき再び相見えてそのことを再確認した。
自分に勝った男が野垂れ死ぬことはない、生き抜いてくれるはずだという贔屓目があるのだろうが、
そう簡単に死ぬわけがないという不思議な確信もある。
それが何処から来る確信なのか、左之助にもわかっていなかったが、
あの男塾一号生筆頭・剣桃太郎という男には、そういったなにかを感じさせる魅力があるのだろう。
安心してもいいはずだった。
左之助はそこまで考えると、さも疲れたと言うように大きく息をついた。

「……なんだか眠く……なっちま……た……」

身体は完全に冷え切っていた。
こんなにも暖かな陽光が降り注いでいるのに、左之助の身体だけが急速に冷えていった。
それでもこうしているのが気持ちよかった。鼻歌さえ唄いだしそうだった。
左之助は咥えた雑草を舌の上で転がしながら、一人静かに眼を閉じた。

「桃もいなく……な……たし……少しだけ……寝……ちまおう……か…………」

何処かの梢から小鳥が羽ばたいていく音だけがやけに大きく聞こえた。


【るろうに剣心@相良左之助 死亡】

※左之助の死体はB-4畦道です。
※左之助の荷物は死体の傍らに置かれています。


     ◆ ◆ ◆

左之助は死ぬ……。桃にはそれがわかっていた。
だがどうにかする手立てはなく、あそこに残してくるしか方法はなかった。
左之助自身も気付いていたろうと思う。
左腕の切断に加え銃創のような傷が全身に数ヶ所、基節骨、第二中手から手根骨にかけての粉砕骨折、
更には胸の裂傷に、おそらく最後のアーロンの突撃を真っ向から受けて立ったことによる打撲骨折が至るところに見られた。
医学についておざなりな知識しか持たない桃がそれだけ診たてたのだから、
病院に連れていって専門的な検査をすれば他にもダメージを負っている箇所があったかもしれない。
自分の身体だけに、死期が早いことを本人が悟っていてもおかしくはなかった。
途中から行き会った桃には何故ああいった事態になっていたのかわからなかったが、
少なくとも左之助から仕掛けたということはあるまい。
はじめてあいつに会ったときとは違い、左之助の顔からは嶮のようなものが薄れていたように思う。
喧嘩っ早い一面はあるのだろうが、だからといって内面の悪い奴ではないはずだ。
仕掛けたのはあの横柄な大男の方であり、左之助は受けて立っただけだ。
どちらに正がありどちらが邪だと言うつもりはなかったが、あたら左之助のような男を死なせたくはなかった。
だからこそ横槍を突き入れたのだ。
しかし桃のしたことも虚しく、結果的に左之助は死ぬ。――もう死んでいるかもしれない。
もし出会い方が違えば左之助とは上手くやれていたかもしれず、遊戯のことに続き桃のやるせなさは募った。

「誰がこんなことを思いついたかは知らんが……いい加減、頭に来るぜ……!」

桃は歯を食いしばった。
ヒソカやアーロンについてより、こんな理不尽なことを考えついた奴に腹が立つ。
なんの為に、なにが目的でこんなことを続けさせるというのか、桃にはさっぱりわからない。
あの壁食い男が考えついたのか黒い球がそうなのか、桃は思考を巡らしてみるが、どちらにしても許すつもりはなかった。
誰であろうと必ず引っ張り出し、叩き潰す。それが桃の素直な気持ちだった。

「男塾一号生筆頭・剣桃太郎、何処の誰だかは知らんが、絶対に許しちゃおかねえ!」


――だがその前に。
桃はポケットを探り、一枚のカードを取り出した。
遊戯を殺したヒソカから渡されたものだった。強くなったらこれを使えとヒソカは言っていた。
添えられた説明書によればこれを使えばヒソカのもとに行けるらしかった。
一瞬にして見知らぬ場所に飛ばされたり、念と呼ばれるゴム状の気が飛ぶのを見てきただけに、
今更カードの効用に疑問は挟まない。説明どおり、これはヒソカへの切符なのだろう。
本当は今すぐにカードを使いたいところだっが、しかしそれはできなかった。
これを使うのは遊戯のパズルを見つけてからだ。
遊戯の探していたパズルを見つけ、そしてカードを使い、その上でヒソカを倒す。
さしあたっての順序はそれだ。
実際のパズルがどんなものかはわからない。アテもなければ、本当にこの島にあるかもわからなかった。
それでも桃は探すつもりでいた。仇を獲るときには、傍で遊戯に見せてやりたかったからだ。
たとえ島中しらみ潰しに探すことになろうとも、それだけはやるつもりだった。
血誓痕生に眼をやり、死んだ友の名を呼ぶ。

「フフ、任せとけ。お前の探し物は俺が見つけるさ」

桃は優しげにそう言ってみせた。
それから地図を取り出し、現在位置を推測し、これから向かうところを確認する。
目的地は北東だ。そこから一つひとつのエリアをじっくり探していく。

【B-5 道路下/一日目 早朝】

【剣桃太郎@魁!男塾】
【装備】:なし
【所持品】:支給品一式 不明支給品1~3個(刀剣類はないようです)
      スペルカード(磁力)@HUNTER×HUNTER
【状態】:左拳損傷(包帯済み) 疲労(中)
【思考・行動】
1: パズルを見つけるため、北東へ向かう
2:パズルを見つけたらカードを使ってヒソカの元へ行き、ヒソカと決着をつける
3: 主催者打倒
4: そのために仲間を集める


     ◆ ◆ ◆

「ふざけるな人間めェェェ……!!」

湖畔で気が付いたアーロンは、眼が覚めるなり怒りの怒号を発した。
眼が変わっている。瞳が細くなり、猫や鮫を彷彿させた。
抑えきれない怒りに身体中を奮わせるが、思わぬ目眩にアーロンは尻餅をついた。
口の中に打ち込まれた左之助の一撃がまだ利いていた。
ものが二重にも三重にもダブって見えた。吐き気が込み上げ、地面に吐瀉物を撒き散らした。
まるで鳴り響く鐘に頭を突っ込んでいるような、そんな耳鳴りまで聞こえる始末だ。
しばらくじっとしていないとまた昏倒してしまいそうだった。食らったダメージは思いのほか大きい。
忌々しさに腸が煮えくり返る。
アーロンは口許を拭うと、あの野郎は何処に行ったと見回したが、左之助はおろか桃の姿まで消えていた。
益々気が立ってくる。怒りが脳味噌をグチャグチャにかき混ぜていった。
矮小でとるに足らない存在の虫ケラどもが、よりによってこの俺を辱めるとは……。アーロンの怒りは冷めやらない。
マグマのような高温でどろどろしたものが身体の内奥から止め処なく溢れ出てくる。
怒りのままに木々や岩を破壊してみるが、なにも変わらず、同じことだった。
この感情を押し留めるには一つしかない。左之助や桃を殺すしか。
それもただ殺すのでは駄目だった。
考えうる最も残酷で最も苦痛を与える方法でないと、溜飲は下がらない。
そうでないとこのアーロンを虚仮にした罪は贖われないと、本気で思った。
死んで許されるものではないが、そうでもしなければ治まりがつかなかった。
それでも抑え切れないようならば、この島にいる人間を皆殺しにするまでだ。
同族の罪は同族によって償わせればいい。

元々この島の人間は、今のところ手を組む形になっている和泉やゆきめも含めて、最終的には全員殺すつもりだった。
協力しているのは一人で全員を殺して回るのが面倒だっただけだ。
だがこうとなってはその意味も、取り組む姿勢も、全てが変わってくる。
許してはいけない。生かしてはおけない。人間どもは一人残らず殺してやる。
家畜が飼い主様に逆らうなどあってはいけないのだ。必ず自分の犯した罪の重さを教え込まねばならない。
アーロンは手近にあった石くれを弄びながらそう思った。奇しくもその石は桃に投げつけられたあの石だった。

「魚人を怒らせたこと……魚人の恐ろしさを、嫌というほど教えてやる……!」

アーロンの手の中の石くれは、砂のように粉になっていた。
アーロンは荷物を手にすると、眩暈を振り切るように頭を振り、
醜いドブネズミどもを追い立てるために、自分の受け持ち場である北に背鰭を向けることにした。
血は沸騰しきっていて、いつ冷めるかアーロン本人にもわからなかった。


【C-3 湖畔/一日目 早朝】

【アーロン@ONE PIECE】
【装備】:無し
【所持品】:支給品一式 未確認(0~3)
【状態】:激しい怒り 全身に軽いかすり傷、脳震盪による若干の眩暈 疲労(小)
【思考・行動】
1:左之助、桃を八つ裂きにする
2:人間は一人の例外もなく皆殺しにする
3:ゲームに乗る賢いやつらとは協力(利用)する。

※ 参戦時期は九巻辺り。ルフィ戦前。
  二日目の深夜にD-4で和泉・ゆきめと合流する約束をしました。


043:俺様の軍事力はエリア一ィィィィィ!! 投下順
043:俺様の軍事力はエリア一ィィィィィ!! 時間順
017:喧嘩 相楽左之助 死亡
020:約束 アーロン
030:ヒソカの性欲×1stステージ×桃の決意 剣桃太郎