百人斬り

百人斬り

事件の詳細


事件の発端は、昭和12年の南京戦において東京日々新聞が「野田毅、向井敏明少尉が前線で中国兵を斬り殺す数を競っている」いう記事が掲載された事である。

戦後この記事がもとで、二人は昭和22年11月、南京軍事裁判所で、捕虜・住民虐殺の罪で起訴、即日死刑判決。
同年12月銃殺された。

事件の問題点


百人斬りの報道は戦意高揚のための創作であり、まったくの虚報であることが戦後明らかとなった。

この事は極東軍事裁判を含む、連合国の戦犯追及全体の不当性の象徴とされた。

また、朝日新聞記者本多勝一が昭和46年より朝日新聞に「中国の旅」を連載、その中で「百人斬り」を掲載。
書籍「南京への道」「南京大虐殺13のウソ」でも実名入りの記述を行い、両少尉の遺族が記事の訂正と出版差し止めを求めて裁判に訴えるまでに発展した。

事件が虚構とされる論拠


1、戦果競争はあったか
銃器が発達した近代の陸上戦闘では、白兵戦における個人の戦果を競う、という発想がない。
航空機での戦闘と違い、遠距離での戦いも多く、白兵戦が必ずしも起きるとは限らない陸上では、戦果争いという風習がなかった。
よって個人戦果が記録されることもあまりなかった。

2、軍刀がそもそも斬れないのでは?

当時日本陸軍の使用していた軍刀はあくまで部隊指揮官の指揮刀としての性格が強かった。
昭和新刀と呼ばれる、昭和に入ってから鍛造された軍刀は質が悪いものが多く、一人を殺傷しただけで刃こぼれしたうえに曲がってしまい、鞘にもはいらなくなったという証言も多い。
補給や輜重を軽視し、物資が常に不足する傾向にあった日本軍において、常に「新しいかわりの刀」があったとは考えにくい。
仮に明治以前の「業物」を使用していたと仮定したとしても、百人以上の殺傷に耐えられるかは疑問である。

また日本刀という素人目に残虐性が強調されやすい武器である。
読者受けを狙った物語(虚構)だとすれば、「日本刀」は出てきて当然の武器であるとも言える。

3、そもそも史料が存在しない

このような事件が実際にあれば、それは日本、中国、そして第三国のメディアは大いに報道、記録したはずである。
また目撃証言も多数あってしかるべき。
にもかかわらず、信頼できる一級資料は発見されていない。

4、当時の関係者の証言

当時の関係者の浅海記者は南京軍事法廷に説明書を提出。
「百人斬りは住民・捕虜に対する残虐行為ではありません」と弁護していた。

参考リンク




世が世ならこんな虚言も裁かれていた
その日本刀は切れないのでありまして、前にどっかの捕虜の首を2、3切ったことがあると自慢話でよくやられたのですが、
実際は一人も切っていないのでありまして、第一、その日本刀は抜けないようになっているんだそうです。

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最終更新:2007年07月08日 21:30
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