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io」(2006/05/26 (金) 16:14:17) の最新版変更点

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 窓の外は雨が降り続いている。  冬の終わりに降る、冷たい雨。空を覆う鉛色の雲に、顔を上げる気にもならない。うつむいているうちに季節が流れていくのを待っているように、彼はいつも下ばかり向いている。神様はいつも彼を見下ろしている。でも、彼はそれに気づかない。  この雨が終われば少し暖かくなる。顔を上げれば、気配はそこかしこにあふれている。草木は芽吹く時をじっと待っている。蛙も蛇も、そのときを待っている。春はもう、そこまで来ている。氷点下の寒さにだって、記録的大雪にだって耐えてきたじゃないか。この雨なんて、分かっている、でも憂鬱な雨。  部屋の中で、彼はひとり腹を立てていた。  半分は行き場のない怒りで、残りの半分はいつもの自己嫌悪。苛立ちさえ、彼は思うように感じることができない。腹を立てるに値する価値を自分が持っていないから、十分に腹を立てることができないと彼は感じている。それが彼の自意識で、つまりそれが彼の人生だった。  ひとことで言えば自意識過剰。  窓の外は音もなく雨が降り続いている。  彼はしばらく受話器をにらんでから、無言でこめかみを押さえ、息を吐いた。愚痴を言っても始まらないけれど、何もなかったことにするには腹が立っている。顔を上げる気にはなれない。  苛立ちを外にぶつけるようにできていないのは、自分の構造的欠陥だと彼は思う。だったらせめて、苛立ちを忘れやすいようにもできていて欲しい。  もちろん、ないものねだりだとは分かっている。今の自分が本当の自分だ。もう、この年齢にもなれば、言い訳はできない。現状に対する不満なんて、全部言い訳だ。分かってはいるんだよ。  さっきまで稼働していた暖房で曇った窓の外に目を移す。春というにはまだ寒く、冬というにはもう明るすぎる。彼の心を映して、中途半端で憂鬱な鉛色の景色。  右を見ても左を見ても、代わり映えのしないスーツ姿の男女。  十年前よりは人口密度が低くなって、平均年齢が高くなった。それだけの十年だった、と彼は思う。真実も正義も愛も、自分には縁がないと諦めた。自分が物語の主人公でないことにも気づいた。問題に行き当たれば、根本的な解決方法より、受け流して先送りにすることを考える。  身につけた処世術、これも成長と呼んでいいのかどうか。  ずっと、これでやって来た。先のことなんて分からない。でも少なくとも、今は、これでやっていくしかない。いつもの思考停止。それ以上のことは考えても仕方がない。こんな、苛立ちまみれの今の状況で。  先のことはまた考えようと思う。落ち着いたら、ゆっくり考えよう。そうやって、後で考えたためしなんてない。二十世紀の文明が生み出した最高の哲学、全部先送りだ。  切ったばかりの電話を思い返してみる。何か他にできることはなかっただろうか。  もちろん用件は仕事のことで、一週間前に提出した書類の再提出を命ずるものだった。規定の書式を満たしていないため、というのがその理由。冷静で丁寧で、まるでマニュアル通りの応対が彼の苛立ちを誘う。  記入例のとおりに記入をしたと思うんですが。同じ、冷静で丁寧でマニュアル通りの声で反論する。お互い、同じルールで動いている歯車にすぎないことは分かっている。でも、歯車を好きになるなんてできない。自分のことも相手のことも。 「その記入例が間違っているんだと思われます。  去年、新様式に変わりましたが、確認いただきましたか?」 「こちらでは、この様式が最新でした」 「では、新様式の写しをつけてお返ししますので、再提出をお願いします」  〆切は、と彼は声を抑えて尋ねる。初めから負け戦だ。交渉の余地なんてない。せいぜいできるかもしれないのは、問題を先送りにすることだけだ。当初の予定では、今週の水曜日が提出期限だった。今日は金曜日。 「今日の時間内は可能ですか?」 「無理です」 「では週明けの始業時間まででお待ちしますので、よろしくお願いします。  それ以上は、こちらも無理です」  せめて受話器を叩きつけるくらいしてもよかったかもしれない、と通話を終えてから彼は思った。終わってからでないと考えつかないのに、実行できるはずがない。  頭を抱えて、息を吐く。いつも彼にできるのは、そうやって受け流すことだけだ。忘れることはできない。でも、忘れたことにすることはできるかもしれない。なくなりはしなくても、心の底に沈めることはできる。それは自分に言い聞かせる、信じてもいない嘘。全部、ただの問題の先送り。わかっている。でも、そう信じているふりでもしないと生きていけない。問題の先送りでも、送る先が十分に先なら、その問題には向き合わずに生きて死ねるかもしれないじゃないか。死ねば全部リセットだ。  いつも、苛立ちの半分は自分に向けられている。彼はもう一度、息を吐く。首を振る。忘れることはできない。  三十秒。  顔を上げたときにはもう、彼は次にするべきことについて考えている。慣れるほどに時間は短縮される。三十秒で復帰できれば、とりあえず社会生活に支障はない。  いつか何も感じなくなる。いずれその日が来ることを彼は知っている。どんな形で来るかは分からない。でも、それが死の形をしていても、きっと心穏やかに受け入れられると思う。  でも、それはまだ今ではない。そのときまでは、社会生活を続けなければならない。  あまり素敵な考え方じゃないな、とカズミなら言うかもしれない。わかってるよ、と彼は答える。だから死なない程度にがんばっているじゃないか。  ひととおり現状を受容し終わった彼が考えたのは、書きかけの物語のことだった。勤務時間後に少しずつ書き進めてきた小説。今日はそのわずかな時間もとれそうにない。ちらりと時計を見る。金曜日、午後五時。今日中にこの仕事を片付けたら、残りの週末は、惜しみなく小説に向けられるだろうか?  本当は、今夜から徹夜で一気に書き上げてしまいたかった。そのために必要な設定は詰めてある。もう、物語は動き出している。今の勢いで書き上げなければ、たぶん結末まで書ききれない。  さっきから頭の中を叩く音がする。  ここから出せ、早く書けとキャラクターが彼を急かしている。  彼は首を振る。フロアの照明が落とされて、人口密度も低くなって、やっと残業気分が出てきたオフィス。時間外は暖房も切れる。窓の外に、冷たい春の気配がする。 [手首を切ると少しだけ楽になる、と僕は言った。  嘘だ、と彼は言い返す。 「そんな、震えながら言う言葉に、説得力があるものか」 「なら、どんな言葉なら納得してもらえるの?」 「どんな言葉でも、……それが本当のことなら」  <本当のこと>と僕は思う。大きく出たなあ、と。  手首に巻かれた包帯の奥にある傷口と、赤く染まったガーゼの存在。  何のために白い肌。  僕のリアルは痛みの中にある。  震えながらしか、伝えられないこともあると思う。  生きていることの苦痛に比べたら、理由の分かっている傷なんて、痛みのうちに入らない。  僕に分かるのは痛みだけだ。それ以外の何もリアルに感じられないから。  そんな<僕にとっての本当>は、言葉では決して伝わらない。  経験的に、言葉でも、他の何でも伝わらないことはよく知ってる。  言葉で僕を理解できるなら、他の何かで伝えられるなら、手首を切る必要なんてないんだ。  僕が僕である必要なんてないんだよ。 「何のために、そんな……馬鹿なことを?」 「僕がまだ腐っていないことの証明」  体も声も震えていても、迷いはない。僕が僕であることと同じくらい確かな痛み。  僕のリアリティ。  抱きしめられたいんだろうか、とふと思った。  何もできないことは分かっている。現実は、そんなにわかりやすくできていない。  でも、後で振り返るかもしれない。  あのとき、彼には何かできたんじゃないか、するべきだったんじゃないか。  彼が何かをしてくれたら、僕には違う未来があったんじゃないか。  しばらく、手首を切るたびに思い出すだろう。  僕は何を求めているんだろう?  足りないのは何だろう、と僕は思う。いつも思う。  何かが足りない。気がついたら、気がついたときから、いつも何かが足りないんだ。]  携帯電話を待ち受け画面に戻して、小さくのびをする。彼は残業を続けている。チェックが必要な書類の印刷が終わるまでの、つかの間の休息。さっきまで表示していたのは、今晩中に仕上げる予定だった書きかけの物語だ。  彼の携帯電話には、自作・他作含めて、いくつもの物語が入れてある。いつも物語について考えているために。どこにいても、現実から逃げ出せるように。  便利な世の中だと思う。でも、小さな画面に表示されると、物語まで小さくなってしまう気がする。何かが違うと思う。でも、何が間違っているのかは良くわからない。  言葉、と彼は思う。もっと大きな問題がある気がするけれど、今の彼に考えられるのは、言葉の選択くらいだ。こんな言葉では伝わらない。こんな文章を書きたい訳じゃない。これはもっと、素敵な場面なんだ。もっと決定的で、もっとどこにでもある大事なワンシーンなんだ。残業の片手間に書けるような物語じゃない。もっと全身全霊を打ち込んで考えるべきなんだ。物語は、僕を求めているんだ。  彼の頭の中には具体的な映像が浮かんでいる。  基本が白と黒の家具で統一された、都会的な彼女の部屋。住み始めたときにハイドロカルチャーが植えてあった花瓶には、今はドライフラワーが挿してある。理想と現実、と彼女はたまに思う。住んでいる場所が現実だ。理想はどこか遠くにあれば、それでいい。  部屋中、どこを見ても生活感はあまりない。それは部屋の持ち主の現実感覚と同じくらい欠けている。でも、それが彼女の求めていることだ。それが彼女のリアリティだ。  銀色のミニコンポが入っている、空っぽの本棚。音楽はレンタルしてデータに変換して、銀色のパソコンの中。エアチェックも、この十年はしていない。とにかく音楽に浸っていた一時期もあった。でも、そんな情熱はなくしてしまった。  本は借りて読むか買ってもすぐ捨てるか、身の回りに置いておきたいような大切な一冊には出会っていない。最近はインターネット経由で著作権の切れたテキストをダウンロードすることも覚えた。新聞は取っていないし、手紙を交換する相手もいない。何も残らないけれど、地球にやさしい生活だと思うと、悪くないんじゃないかと彼女は思っている。  濃紺のカーテンが窓を遮っている。クローゼットに吊してある、クリーニング帰りのスーツとブラウス。制服ではないけれど、私服でもない仕事服。プライベートで着られる服なんて持ち合わせていない。だって、プライベートで出かけることなんてないから。  僕が僕として生きている時間のことをプライベートと呼ぶんだ、と彼女は思う。  プライベートなんてあるものか。  これは物語なんだ、と彼は思う。あまりにも自分を重ねすぎているだろうか。自分の理想を託しすぎているだろうか。書きたいのはリアリティ。でも、日記を書くつもりはない。自分のことを書いても誰も読みたくないだろう。僕だって読みたくない。  ため息をついて、彼は意識を現実に戻す。プリンタが吐き出した白い紙の束、残業が待っている。向こう側の世界で浸っている場合ではない。  リアリティ、と彼は思う。残業は、いつもリアリティが足りない気がする。普段だって、あまり地に足の着いた仕事をしている訳ではないのに。部屋に誰もいないだけで、もうそこは普段の仕事場じゃない。僕の時間、と彼は思う。リアリティが足りないのは自分自身か。  現実がリアルだった頃なんて、もう忘れてしまうくらい昔の話だ。そんな時期が本当にあったのかどうかも自信がない。思い出が風化して美化されているだけかもしれない。僕が十年前も二十年前も生きていたなんて、嘘みたいだ。十年後も二十年後も生きているなんて、想像もできない。  リアリティを求めるために、彼の作品の登場人物はいつも自傷行為を繰り返す。  たとえばリストカット。その痛みと非日常感が、生きていることを教えてくれる。でも、すぐに日常になる。  たとえば恋。好きなのに、好きだから、傷ついたり傷つけられたり。相手がいなくても片恋は自由だ。幸せな二人の未来なんて想像できない。  たとえば繰り返す、気持ちよくもない自慰行為。快楽を求める行為というよりは、ただの習慣。  たとえば親子の断絶、世代の相剋。  たとえば、どこにでもある不幸。あるいは不幸でさえない、どこにでもある日常。生きているだけで傷ついている。自分を傷つけている。でなければ生きていけない。生きているなんて思えない。  だって心なんてどこにもないんだから仕方ないじゃないか、とキャラクターが言う。  それとも、黙って死ねばいいの?  そんなことを考えている、自分のリアリティがどこにあるのかと彼は考える。何を傷つけたら、自分はリアリティを感じられるだろう? 頭で考えることはできる。きっと、人はこれにリアリティを感じるんだろう、と。そんなかけらを物語に落とし込んできた。それで、それなりに彼の頭はリアリティを感じてきた。  でも、まだ足りない。彼にも心や体がある。リアリティを求めているのは頭だけじゃない。  彼の小説は、いつも同じ世界を舞台に展開する。仮に名付けて夏丘市と呼ぶその街について、彼は現実のどの街よりも詳しく知っている。人口やその年齢構成、地理・歴史、交通網や公共施設・商業施設の場所やら混み具合やら、デートコース、都市伝説に至るまで。  ときどき、彼にはわからなくなる。全部、自分で考えたものなのか、それとも、この現実ではないどこかに夏丘市は存在して、ただ彼を通して物語に投影されているのか。  彼の体はここにある。でも、意識を向ければ、その街の夕暮れ時の匂いを感じられる。空気の色が見える。僕はそちら側にいる、と彼は思う。夏丘市の匂い、夏丘市の色。とても彼の考えたフィクションだとは思えない。それはもう、圧倒的な存在感でそこにある。  彼の手を離れても、街は成長を続けていくんじゃないかとさえ彼は思う。街の存在感の前に、彼は無力なひとりの人間に過ぎない。現実において、彼が無力なひとりの人間に過ぎないのと同じように。  彼が時々思いつく設定の数々、それはまるで、街が彼を駒として、街の成長のために物語を書かせているようにも見える。主従関係で言えば、マスターは街だ。  仕事と同じ構図、と彼は思う。  まるで会社が、会社の発展のために社員を駒として仕事をさせるみたいだ。 「どこにいても奴隷」と彼はつぶやく。  目を閉じて、今、彼は職場の景色を脳裏に描いてみる。言葉を選ぶ練習に始めた、現実を言葉に落とし込む作業。現実から距離を置きたいときにも使えることに、気づいたのもずいぶん前のことだ。  机の上には、くすんだ青色のスチール製の印箱。安っぽい緑色のデスクマットの上に、ファンがうるさいノートパソコンは富士通製の旧型の量産機。仕事ができないやつに渡すいいマシンはないと思っているなら、それは正しい経営判断だと思う。十年型落ちでも、ないよりはいい。でも、その程度の役にしか立たない。  同じ係に机は七台。それぞれにパソコンが乗っていて、末席にはLAN経由でつながるプリンタがあって、本棚の向こう側にFAX兼用のコピー機。  本棚の中身は良く知らない。業務で参照する本はわかる。それ以外は、何が入っているのか自信がない。役に立つ本もあるだろうけれど、勤続年数に比例して知的好奇心は薄れていく。知らなくても仕事はできるものを、わざわざ知ろうと思わない。こうやって腐っていくんだ、と彼は思う。  係を離れたら、その先のことはもう一般論程度にしかわからない。隣の係の名前はわかる。業務内容も、なんとなくはわかる。でも説明できるほどは知らない。係員の顔も、見ればわかる。でも名前は分からないかもしれない。性格なんて言うまでもない。だって興味がないんだから、仕方がないじゃないか。  意識を自分に戻して、息を吐く。  言葉で整理すれば、夏丘市もこの現実もそんなに変わらない。生きることと死ぬことが等価であるように、虚構と現実が等価でもいいじゃないか。少なくとも彼はそう思っている。  物語を考え続けなければ生きていけない。彼が彼として生きるためには、物語を考え続けなければいけない。でも、生きていなければ物語を考えることはできない。彼の物語は、彼が生きていなければ考えられないことも分かっている。束縛ばかりだ。現実では会社の奴隷、物語では世界の奴隷。何も変わらない。  残業ですか、と女性の声がして、彼は顔を上げて振り向いた。  隣の係の津坂さんが、帰る格好でこちらを見ていた。白い春コートに細身のパンツ、セミロングの栗色の髪に天使の輪。メガネに蛍光灯が反射して、表情はよくわからない。  私服を見ると居心地が悪くなるのは、仕事以外に共通するものがない証拠だと彼は思う。同期入社だけれど、そんなの採用年次が同じだというだけの話だ。 「ちょっと残っていきます。この仕事だけ片づけないと帰れないので」 「おつかれさまです。クッキーならありますけど、食べますか?」  ありがとう、でもお気遣いなく、と彼は返す。甘いものは嫌いじゃないけれど、善良な人間関係に自信がない。ここでお菓子をもらうと、次に何かを返すのかどうか、考えなければいけなくなる。返したら、無視したら、その先は、その先は?  初めから何もないのが、分かりやすくていい。  カズミなら上手く立ち回るんだろうか、と彼は思う。でも彼には無理だ。  ちょっと残念そうに聞こえる声で、そうですか、と津坂さん。気のせいだ。 「……お先に失礼します」 「お疲れ様でした」  視線は画面に戻して、声だけを返す。省電力のスクリーンセーバーが起動している黒い画面に、帰路についた津坂さんが小さくなっていくのを見ている。変態かもしれない。採用以来、ずっとこんな関係が続いている。きっと退職までずっと続いていくんだろう。  学園物を書き続ける理由はこれかもしれない、と彼は思う。現実では、出会いも別れも限られている。物語が足りない。あるいは奇跡が足りないのかもしれない。現実を生きていても、生きているだけでは、全然リアリティを感じられない。  彼が今、考えている作品の題名は<humansystem>という。  ミサト・アキ、イトイ・カズマ、アオイ・タクミという、三人が主要な登場人物。同級生だった高校時代の恋愛に発達しそこなった友情と、それぞれに道が分かれた十年後の再会を描いて、彼の頭の中ではめくるめく速さで展開している。  十年後、手首を切っているのがミサト・アキ。高卒で社会に出て、勤続十年。一人暮らしのプライベートにも、話ができる相手もいない会社にもリアリティを感じられない。求めているものなんて、何もないと思っている。自殺未遂はしても翌朝は定刻に出勤するタイプ。  カズマは実家で無職引きこもりをしながら、夜な夜な成人向け同人マンガを描いている。同人誌が小遣い程度には売れる知名度もある。成年向けの商業誌からも、たまに声がかかる。でも本当は絵本作家になりたいと思っていた。忘れたい過去、でなければ現実が悲しすぎる。  大学を出て就職して、順調なキャリアコースを歩いているタクミには、既に妻子がいる。でも本当は、違う女性のことをずっと引きずっている。リアルな自分は高校生のままで止まっている、とたまに思う。でも、過去は自分で殺した。リアルなんて必要ない。でなければ、現実を生きていけないから。  全部、自分の劣化コピーだと彼は思う。たとえば、神様が自分の姿に似せて人間を作ったように。そしてアダムの肋骨からエヴァを作り出したように。全部劣化コピーだ。  きっと、いつか彼のキャラクターは彼を裏切り、殺すかもしれない。  でも、たぶん、それは神様のいない時代を生きるために必要な代償だ。神様なんておこがましい、と彼自身思う。でも、ひとは神様なしでは生きていけない。偽りの神様でも、いなければ生きていけないんだ。神様がいないなら、神様代わりになれるひともいないなら、自分が作り出すしかないじゃないか。自分がそうなるしかないじゃないか。  なんでこんなことが必要なんだろう、と彼は思う。  物語の中で、ミサト・アキは神様の姿を見ることができる。交流はない、ただ見ることができるだけで、別に信じてもいない。でも、神様がいるミサト・アキだけが、積極的に自傷行為をすることができる。他人を求めることができる。他の登場人物たちでは、主役にはなれない。本当に他人を求めることもできない。  自傷行為をやめられないのは、自分も同じだと彼は思う。そこにあるのは、切るのが手首か、心かの違いだけだ。創作活動なんて、全部、自分を慰めるための自傷行為に過ぎない。でも慰めが必要なんだ。生きるために、自分を生きるために必要なんだ。  十年前の自分は何をしていただろう、と彼は思う。ひとり残された事務室の広さに、十年の時間を感じる。十年前は放課後の教室で、何を考えていただろう。  残業ははかどっている、でもまだ終わらない。単調な仕事、ただ時間がかかるだけで誰にでもできる。創造性も高度な技能も要求されない。こんな未来を予想していただろうか。十年前も、今と同じように慰めを必要としていただろうか?  たぶん違う。  求めていたのは、もっと別のものだ。配られたプリントの裏を言葉で埋めなければ気が済まなかった十年前。もっと、どうしようもなく求めているものがあったはずだ。今とは違う何かを見ていた。違う何かを考えていたはずだ。  あのとき、きちんと勉強していたら、違う未来があっただろうか。あのとき、誰かに話しかけていたら、違う今にいられただろうか。あのとき、もっと一生懸命物語を書いていたら、せめてもっと一生懸命読んでいたら。  そのどれもできなかった彼が今、ここにいる。職場に残って誰でも出来る残業をしながら、我が身を振り返っている。みじめだな、と思う。でもきっと、今の自分の心持ちに相応しい境遇でしかない。  この先十年後、と彼は思う。  首を振る。考えたくないのか、考えるまでもないのか。  僕にできることなら、君にだってできるはずだよ、とカズミは言う。嫌なら、やめてやり直すこともできるじゃないか。  彼は首を振る。そんな過去もあったかもしれない。でも、それは過去の話だ。たぶん僕がまだ僕でなかったくらい昔の話だ。やり直すことなんてできない。可能性があるのは、せいぜい全部やめるところまでだ。それだって疑わしい。  残業、と彼は思う。今は仕事に集中しよう。考えるのは後、いつもの先送りだ。  電話の音で、彼は不意に現実に戻された。反射的に時計を見る。右手は胸元からボールペンを抜いて手元のメモに、左手は伸びて受話器をあげている。たぶん無意識でもこの動作ならできるだろうと思う、繰り返された職業訓練。自分で録音して聞くと死にたくなる、冷静で丁寧でマニュアル通りの声。 「はい、総務部総務課庶務係でございます」 [ごめんなさい残業中に、津坂です] 「お世話になっております」 [あの、隣の係の津坂です]  意識が現実に追いつくまでに、一呼吸の沈黙が必要だった。隣の係の津坂さん。今日の帰り際にクッキーをくれようとしたことを思い出す。もらっておくべきだっただろうか?  お世話になります、と少し親密さを装った声で彼は繰り返した。別に津坂さんのことを認識しても、緊張感はあまり変わらない。むしろ一期一会の他人の方が、後のことを考えなくていい分だけ気楽かもしれない。この距離のひとを相手に使える語彙は限られている。  世間話をする間柄でもないので、単刀直入に用件を聞く。財布が置き忘れてないか確認して欲しい、というのが、彼女が電話をかけてきた理由だった。 [あるなら僕の机の上か真ん中の引き出しだと思うんですけど、見てきていただけませんか?] 「大事なものを忘れていきますね」 [そちらにあれば笑い話ですけど、僕、そそっかしいから大事な物をよくなくすんです] 「わかりました、探してみます。机の上か真ん中の引き出しですね?  調べてかけ直しますので電話番号を」  ここで電話番号を聞くのは仕事の延長、彼に他意はまるでない。でも、津坂さんの声までの一瞬の間で、彼は気づく。ケータイの電話番号なんてプライベート、教えたくないだろう、普通。  でも、彼女が気にしていたのは、まったく別のことだった。 [私用電話が職場の履歴に残るのは良くないので、かけ直します。五分後でいいですか?]  了解して受話器を置いて、彼は深く息を吐く。どうして他人と話をすると、こんなに疲れるんだろう?  自意識過剰、と彼は思う。自分が津坂さんにとって、何かの対象になるとでも思っているのか? 何かの対象になりたいなんて思ってもいないじゃないか。何を意識する必要がある?  カズミなら、と彼は思う。もう一度、首を振る。僕はカズミじゃない。  立ち上がってのびをひとつ、いろいろ緊張しているらしい関節が、不愉快な音をたてる。他人なんていなければいいのに、と彼は思う。自分がいなくなる方が早い。結論はそれしかない。  財布は机の上にあった。二つ折りの黒革製、それだけならシックなのに根付けにバースデーテディとかついていて、ちょっと可愛い。何も見なかったことにしよう。  ちょうど五分後にかかってきた電話に、彼は発見を報告する。机の上、見落としようがない場所にありましたよ。  丁寧な[ありがとうございます]に[お疲れ様でした]とかかみ合わない挨拶、他に言える言葉なんてない。切り上げて受話器を置こうとすると、思い出したような、慌てた声が彼を呼び止める。 [あの、もうひとつお願いなんですけど]  引き出しに入れておいてもらえませんか、と津坂さん。休みの日とはいえ、机の上に出しておくのも不用心なので。  断る理由がない。了解して電話を切って、津坂さんの机に再び向かう。他人のことなんて興味がないと思っているのに、頼まれごとを引き受けて悪い気はしない。自覚をすると自己嫌悪の材料だけれど、まだ人間らしく生きている証拠だとも思う。  指定された真ん中の引き出しを開けると、整然と筆記具や書類が並んでいる中に、サービス版の写真があった。配列を崩さないように財布を置く。ふと見ると、いちばん上の写真に映っているのは、今よりも若い津坂さんと彼の姿だった。彼は息をのむ。  何の罠だろう、と彼は思った。やっかいごとから逃げ出したい、いつもの気持ち半分が見なかったことにできるかどうか考えている。無理だ。  ハンカチを取り出して指先の油を拭い、丁寧に写真を取り出す。六年前の日付は、新規採用者歓迎の飲み会の写真であることを示していた。津坂さんはカメラ目線で笑顔、彼はいつものつまらなさそうな表情で、どこか遠くを見ている。  写真を丁寧に戻して、息を吐く。何を考えているのかよく分からない。津坂さんは何を考えて、この写真をここに置いてある? それについて、僕はどう思っているんだ? おかしいだろう、と彼は思う。混乱して動揺している。明らかに津坂さんはこの写真を大事に保管している。それが意味するところは何だ? 僕にとって、津坂さんが僕の写真を大事に保管していることの意味は?  これが物語なら、と彼は考える。現実を物語に置き換える、落ち着くためのいつもの思考回路。  たとえば津坂さんが彼に好意を抱いている、そんな物語をこれから展開していくための挿話かもしれない。もしくは、今後主要な登場人物になる津坂さんのキャラクターを、この段階で説明することが目的かもしれない。偶然、だったら物語にはならない。何かの意図がある。誰かの意志が働いている。  ありえない、と彼は思う。津坂さんが彼に興味を持つ理由がない。同期入社という以外、何の縁もないじゃないか。彼は他人と縁がないようにできている。求めていないし、求められることもない。ずっとそれでやってきた。そのはずだ。  写真に写っている他のひとと津坂さん、という組み合わせの可能性はどうだろう。自分とふたりの写真が一番上だったのは、ただの偶然だ。それなら考えられなくもない。自分でなければ誰でも構わない。  頭を振る。そんな都合のいい解釈、物語では考えられない。だって彼はもう、こんなにも津坂さんのことを考えている。罠、と彼は最初に考えたことを思い出す。津坂さんの作為なのか? 何のつもりで?  自分にとって、津坂さんは何かの対象になり得るんだろうか、と彼は考えてみる。恐ろしい想像だけれど、考えないわけにはいかなかった。僕は、津坂さんをどう思っているんだ? それは例えば、同性愛を性的嗜好の対象にできるのかどうかを考えるのと同じレベルの話。僕は、たとえば求められたら、現実をリアリティの対象にできるのか? 普段避けているだけで、僕は普通の成年男子なのか?  可愛い女の子同士の同性愛は物語としては嫌いではない、と彼は考える。回りくどく、できるだけ核心から遠いところから考え始める。可愛い男の子同士も、うまく描かれた物語なら好きになれるかもしれない。でも、どちらも三次元でリアルな誰かがしているのは想像したくない。現実は情報量が多すぎて処理しきれない。全部、物語として許容できるだけだ。現実とは違う。そこにリアリティはない。  津坂さんは、と彼は思う。つばを飲み込む音が、やけに大きく響いた。僕は津坂さんを性的妄想の対象とすることができるだろうか? たとえば彼女が、誰か知らない男性にめちゃくちゃにされるような映像を求める気持ちはあるだろうか?  ない、と彼は断定する。想像できるかできないか、なら、できるかもしれない。たぶん、できるだろう。そのくらいには、自分の妄想力には自信がある。  でも、積極果敢自発的に、そういう気持ちにはならない。その妄想に自分も出演するなんて、もしそれが現実をリアリティの対象にするということなら、考えただけで萎え萎えだ。たとえば何年も隣の係にいても、彼は津坂さんの胸が大きいのかどうかだって考えたことがない。それが現実を生きる上での節度で、現実は物語とは違う。胸、大きいんだろうか?  どっちでもいい、と彼は思う。  なら、純愛路線はどうだろうか。誰かの腕の中で、優しく愛撫されながら、ゆっくりと解けていく津坂さんならどうだ? 少しは想像できるんじゃないか?  結論は変わらない。そんなこと、考えたいと思わない。自分が登場人物の物語なんて書きたくない。日記を書くのは、彼が物語を考える上でもっとも避けていることだ。物語は物語、現実は現実。それが物語を語る上での礼儀だと思っている。  やれやれ、と村上春樹みたいに彼はため息をつく。頭を振る。見なかったことにするしかないだろう、と結論は決まっている。でも、そんなことができるだろうか。  夏丘市では、アオイ・タクミが、妻子と夜を過ごしている。  何もないままでも幸せになれないか、という可能性を追求するために彼が考えている物語。大学をいい成績で卒業して、地方公務員として無難に就職して、職場で出会ったちょっと美人の職員と円満に結婚して、ハネムーンベイビーは可愛い女の子。同世代の誰と比べても、まず問題のない生き方をしているアオイ・タクミに、彼は幸せな未来を託している。物語的な波瀾万丈も、わかりやすい不幸もなしで、ひとは幸せになれるのかどうか。  もし、そこに可能性がないのなら、自分も幸せにはなれない、と彼は思う。他のひとのことは知らない。でも、少なくとも自分には無理だ。自分が幸せになれるなら、アオイ・タクミも幸せになれるはずだ。  そう思っているのに、物語は不幸を要求している。幸せなままでなんて終わらせない、強い意志が物語を動かそうとしている。ここまで幸せな物語を書いてきたのに、もうすぐそこに破滅が待ち受けている。  本当に物語が必要としているなら、どんな不幸でも、骨身を削って破滅まで書くべきだ。でも今の彼には、自分を不幸にするために物語を書くには、力が足りない。だって、幸せになりたいじゃないか。本当はみんな、生きていたいじゃないか。  最近、中途半端にきれいごとでまとめた物語や、風呂敷を畳めずに放り投げた物語ばかりが増えている。胸を張って他人に読んでもらえる物語なんて、ひとつもない。  でも、書かない訳にはいかない。考えないわけにはいかないんだ。  本当なら今頃、と彼は思う。仕事のことは後で考えることにする。本当なら今頃は、夕飯を済ませてパソコンに電源を入れた頃かもしれない。  自宅は自分のための場所ではない、と最近彼は思っている。自分が自分のための存在ではないことにも気づいたように。  実家にいたときは、与えられた部屋が彼のための場所だった。押入の奥や本棚の裏や、親の目を盗んで隅々に彼の世界があった。狭いながらも楽しい我が家。彼は彼のために存在していた。それでよかった。そういうものだと思っていた。  ひとり暮らしを始めた時は、世界はずいぶんと広くなった気がした。台所もトイレも風呂も彼のための場所になった。それは、まるで大人になることの喜びそのもののような気がした。ここから未来が始まると思った。  でも、実際は自分が希釈されただけだった。彼の暮らしの中の誰でもない時間。ゴミの日を考えながら一週間の献立を立てたり、部屋の汚れ具合と相談しながら掃除をしたり、彼の自由意志はそんな時間に飲み込まれていく。現実は誰のものでもない。少なくとも、彼の現実は彼のものではない。  自分の場所は、と彼は思う。自分の頭の中にある。そこにしかない。  物語は、彼の頭と彼の現実を繋ぐ数少ない絆。言葉に落とし込まなければ、彼の世界は誰にも分からない。言葉にして初めて、彼の世界はこの世界に居場所ができる。他の誰のものでもない彼でいられる。  ここにもパソコンがある、と彼は思う。ペンとノート、あるいはワープロかパソコンのキーボードがあれば、彼はどこにいても彼でいられる。ずっと、それでやってきた。  十年型落ちの量産型ノートパソコンの使い勝手は悪い。でも、と彼は思う。深く長い息を吐く。近くにいる他人との距離感を考えているよりは、パソコンの機嫌を伺っている方がずっと気楽だ。他人は、パソコンの画面を通して出会うキャラクターたちだけで足りている。体温や体臭なんていらない。  毎日言葉を交わすことも出来る他人よりも、頭の中のキャラクターに親しみを覚えるのは、病気だろうかと彼は思う。少なくとも現実的ではないことくらいは分かる。誰だって嫌な顔をするだろう。  でも自分はそういう風にできているんだ、と彼は思う。可能なら自分の体臭や体温も消してしまいたい。 [週末ですね。書いてますか?]  いつものコミュニティに顔を出すと、HN「水零」からメッセージが入っていた。今時、職場で残業していても、携帯電話からインターネットにアクセスできる。現実逃避。残業は、集中してできれば、あと一時間で終わると思う。でも、集中できない。  水零は、いきつけのコミュニティで知り合った固定ハンドルで、行動時間帯が重複するので同じ社会人だろうと彼は思っている。でも、お互いにプライベートの質問はしない。深入りしないのがここのルールだ。  少し考えて、彼は[生きてますが何か?]とキーを打った。もう少し貴重な知り合いを大事にしてもいいんじゃないか、とは彼も思う。でも、何が伝わっているのかも分からない相手に、どんな言葉を返せば礼儀正しい対応になるだろう?  創作系のコミュニティで知り合ったのだから、たぶん、物語を書くことだけが期待されていることだろう。いや、それさえも実はどうでもいいことかもしれない。他人のことなんて分からない、と彼は思う。どこまで行っても答えなんて出るはずがない。相手に聞いたって分からないかもしれない、だって相手が分かっているかどうかだって疑わしい。自分が何を求めているのか、僕は自分で把握できているのか? 相手のことを考える以前に、自分は自分で、できることを精一杯するしかないじゃないか。  メールをチェックすると、捨てアドで参加している創作系のメーリングリストには、未読メールがたくさん届いていた。斜め読みしながら、いつも続いているつまらない議論に彼は顔をしかめる。彼にだって言いたいことはいろいろある。でも、ここで書くくらいなら物語を書け、と彼は思う。 [創作は誇張が必要だ、作者には物語をふくらます勇気と根性が足りない。] [冗長な言葉が多すぎるから、テーマがぼやけてしまっています。もっと必要な言葉だけに絞り込むようにしたら良くなると思います。] [言いたいことは分かるけど、そんなこと別に聞きたくない。それでもそれを聞かせたいなら、もっと聞かせるように言うべきだ] [きれいな言葉を並べるだけなら中学生でもできる。そんなの、中学生も読まない]  いろいろ言われるけど負けないで書き続けてください、と彼は書き込んで送信した。応援というには、サディスティックなメッセージだと思う。骨身を削ることが、物語を生み出すことだと彼は思っている。ものかきなんて、みんな性的倒錯者だ。破綻するまで自分を自分で削って破綻するしか生きる道はない、何かを書き続けていく以上。このメッセージは、死ねというのと同じ意味だ。  だって物語なんて、自分の全部をさらけ出す作業だ。嘘をついても、嘘つきの自分をさらけ出すだけだ。そんなの何の魅力もない。血を流せ、臓物をぶち撒けろ。僕が求めているのは、ただそれだけだ。  いいから死んでしまえ、と彼は思う。でも、物語の行き着く先にあるものが死でしかないなら、誰よりも先に死ぬべきなのは彼だろう。彼は死ぬべきことを認識している。  歌うことは訴えることです、と出会った頃の水零が書いてきたことがある。メッセンジャー越しの一対一の会話。まだ彼は若く、生きるためには他人が必要かもしれないと思っていた。どうせひとりでは生きられないなら、理解のある最小限度の他人を、可能な限り遠くに確保するのがいちばん現実的だろう、と。それが近くにいたり、必要以上の数がいたりすれば、情報を処理しきれずに破綻するのが目に見えている。おそらくインターネットがある今の時代を生きられる僕は幸運だろう。どこにいるか分からない他人と、言葉だけでつながりを持つことができる。  彼の作品を閲覧した読者の作品を彼はすべてチェックしていた。水零はその中のひとり。彼女が、どうやって彼にたどり着いたのかは知らない。  彼女は、うたうたいの卵と名乗っていた。自分のサイトで歌声を公開している。その声を聞いて、彼は水零とコンタクトをとろうと思った。呼ばれている気がした。彼を呼んでいるのではなく、誰でもいいから呼びかけている、だから誰からも相手にされない感じに、何かしら共感するものがあったからかもしれない。 > うたうたいの卵さんは、いつかは空を飛ぶことを目指しているんですか? > ひとの波間を泳ぐ魚になりたいと思っています。 > その卵は、どうすると孵化するんですか? > 僕は今、想いをあたためて、誰かに届けようとしています。 > その想いが誰かに届いて、いつか誰かの想いが、帰ってきて僕をあたためてくれたら。 > そのとき、僕は卵から孵ったって言ってもいいかな、って思っています。  そのレスに、彼がどんな言葉を返したのかは覚えていない。でも、水零のことを本物だと思ったことは覚えている。本物なんて初めて見た。自分に誰かが必要なら、このひとがそうなんじゃないか。そうだと素敵じゃないか。そう思ったことは、よく覚えている。 「<歌うことは訴えることだ>ということは、水零さんには訴えたい何かがあるんですね? それは言葉で説明できるようなものですか?」 [歌を聴いて感じてほしいものです。でも、言葉にするなら、 # 僕は何も生み出せないかもしれないけど、何かを伝えることはできるかもしれない。 # 僕の気持ちを誰かに伝えたり、誰かの気持ちを誰かに伝えたり。 # 歌はそのための道具で、このことには人生をかける意味がある。  そう思ってます。ごめんなさい、言葉で上手くは伝えられません。]  それはあなたにしかできないことですか、と書こうとした次の質問を彼は飲み込んだ。芸術活動なんて誰にだって出来る、と彼は思っている。そんなこと、せっかくの本物に聞いて確認するまでもない。大事なのは、自分がするしかないかどうかだ。他人のことは関係ない。  彼は、自分が本物じゃない側だと思っている。でも、少なくとも本物じゃないと気づいているだけ、ただの本物じゃない人たちよりはマシかもしれない。  これからも歌を聴かせてもらいます、と彼は未来を約束して回線を切った。約束通り、毎朝の通勤時に彼女の歌を聴くことにしている。さらに短く切り出したサビの部分を、携帯の着うたにも設定してある。  彼女の歌は歌詞のないアカペラで、それなのに、きちんと何かが彼の感情を刺激する。きっとそれが、彼女のメッセージなんだろうと彼は思う。誰にでも歌える声ではないのは間違いない。自分の声で試してみたら死にたくなったから、間違いない、と思う。  彼女の歌には力がある。  でも、何かが足りない、とも彼は思う。言葉で書いてくるほど、彼女は歌に打ち込んでいない気がする。もっと犠牲にできるものがあるんじゃないか。せっかくの本物なのに。歌うしかないから歌っているはずなのに。  彼女も彼の小説について、言えない何かを思っているんだろうか、と彼は考える。それを聞きたい。たぶん聞く価値がある。  でもきっと、それを求めるのは期待過剰だろう、と彼は思う。それに、そこで語られるはずの言葉なら、彼はもう知っている。だから骨身を削って小説を書いて、でもこんなに満たされない気持ちでいるんじゃないのか? だから本物になれないんじゃないか?  職場の異性の同僚が自分の写真を持っていることを知ったら、異性として意識しますか? とキーを打ってから、送信ボタンを押すまでの短い時間に、彼はふと我に返る。ものかきが何を現実そのままなことを他人に聞こうとしているんだろう? 削除ボタンを押して、改めてキーを叩く。 [他人に知られそうな場所に秘密を置くのって、どうしてだと思いますか?]  他人には言わない趣味は知っているのにお互い顔も知らない、この距離感は使い勝手がいいと彼は思う。他人なんて必要ないと宗旨替えした今の彼でさえ、水零の存在は貴重だと思っている。お互いに、たまに現実の愚痴を言ったり質問をしたり。現実を生きている以上、現実について語れる非現実はあった方がいい。 「秘密って、たとえば日記とか、ですか?」  日記は読まれるために書くものですよ、と水零。秘密は暴かれてはじめて秘密です。それまでは名前がつけられない<何か>なんです。 [たとえば恋と気づくまでは、名前がつけられない関係の異性みたいに] 「そこで恋ですか」 「本当は<何か>です。  でも、言葉にしたいんです。みんな、<何か>のままでは落ち着かないから。  だから僕はアカペラで歌うんですよ。言葉で、わかったふうな顔をしたくないから」 「それは、言葉で勝負の僕に対するあてつけですね?」  話題が深入りする前に、混ぜ返して切り上げることにする。別れの挨拶だけきれいごと、また何かあったらお願いします、とか書きながら、この件で相談することはもうないだろうと思う。自分でも分からないものを、他人に説明なんてできない。これ以上、有効な回答が得られるとは思えない。  ボタンひとつでアプリケーションを終了。片手で終わる関係、と彼は思う。この気軽さ以上は重すぎる。  終わらせるだけなら、日常生活だって変わらないかもしれない。思いついて彼は首を振る。会話をしている目の前の女性、たとえばその胸に片手を伸ばせば、人間関係どころか社会人としての何もかもだって終わるかもしれない。息を吐く。携帯だって、実生活だって同じだ。他人は煩わしい。他人は他人だ。  何をさっきから胸のことばかり気にしているんだ?  携帯を見る。パケット定額で便利になったかもしれない、少なくとも金銭的代償を規定するのは時間ではなくなった。でも、それでみんなが幸せになったかどうかは疑わしい。  そもそも幸せを求めることがおかしいんじゃないか、と彼は思う。人類史上、誰かが幸せだったことなんかあるのか? この先、誰かが幸せになることなんかあるのか? 僕に、未来はあるのか?  はめ殺しの窓、ブラインドに指で隙間を作って外を眺めると、暗闇にぼんやりと光る電灯が細い軌跡を何本も浮かび上がらせていた。雨はずっと降り続いている。  あの写真の飲み会、その前後。採用されたばかりの頃、何か津坂さんに記憶されるようなことをしただろうか。普通の目立たない新入社員だったはずだ。  みんなの顔を覚えるように、と主賓なのに受付係だった、歓送迎会は一流ホテルのコース料理。伝統だとか仕事の一環だとか言われたら、拒否権なんてあるはずがなかった。しかも仰せつかったのは当日の昼休みで、心の準備をする時間もなかった。 「そういうことって、早めに教えてもらえたりしないんですか?」 「社会人にもなって、ただ酒が飲めるのに裏表がないと思う方がおかしい。社会勉強になるだろう?」  あのときも彼は頭を抱えて、息を吐いた。どうして現実って、こう面倒なんだろう? そう思ったのは昨日のことのように覚えている。  早めに仕事を切り上げて職場を出て、津坂さんとふたりでタクシーでホテルへ向かった。タクシーなんて学生時代に乗る機会はなかった。社会勉強。顔と名前くらいしか知らない津坂さんに、沈黙を避けるために彼は親密な声で語りかけた。今、思い出すと死にたくなる。いや、あのときだって死にそうだった。 「よろしくお願いします。  津坂さんは受付、似合いそうですよね。どう考えても僕は似合わないですけど」 「そんなこと」 「パーティーじゃなくて、区役所の受付なら分かる気がするんです。お役所仕事は得意ですから。でも、仕事の一環でパーティーですよ。  まったく、弊社は適材適所が仕事の基本じゃなかったのかなあ。葬式の受付なら、まだ出来るかもしれないですけど。歓送迎会なんて」 「どうせ選択の余地がないなら、確かに結婚式の受付の方が素敵ですね。  知ってます? けっこう職場の中にカップルがいるみたいですから、そのうち本当にお呼びがかかるかもしれませんよ。予行演習だと思って我慢しましょう」  職場内のカップルなんて、もちろん彼は全然知らなかった。女性らしい含み笑いで、指折り津坂さんは数えてみせてくれた。総務の彼と経理の彼女、営業の彼と受付の彼女。係長が部長秘書と、バツイチが臨時職員と、等々。  どうして採用されたばかりの同期が、こんなに詳しいんだろう? 「知りたいところに、情報は集まってくるんです。  本当に独り身の独身なんて、数えるほどですよ?」  ここにひとり、と彼は右手を挙げた。証言前、左手を聖書に宣誓のポーズ。隣の津坂さんも、同じ聖書に右手を置いて左手を挙げた。 「ここにも、もうひとり」  掛け値なし、ふたりで笑った。笑っていいのか、とすぐに彼は不安になった。彼の口から出る言葉は、全てその場しのぎの思いつきだ。危機回避のためについている本能が警鐘を鳴らす。この距離は近すぎる。  飴がありますけど、と津坂さんは鞄からきれいな袋を取り出した。受け取るわけにはいかない、と反射的に思った。面倒なことには近寄りたくない。どう考えても、面倒なことの気配がする。  でも断る口実は何もなかった。タクシーの中、移動中。逃げ場はない。  津坂さんの笑顔。どこかで覚えのある感情。覚えのある声。何かのフラッシュバック。 「甘いものは嫌いですか?」 「好き嫌いはありません」  反射的に答えてから、すぐに激しく後悔した。初級の語学教材にだって、こんな会話は出てこないだろう。<甘いものは嫌いですか?><好き嫌いはありません>  お前は本当にものかきか。何を考えているんだ? 「<甘いものは好きでも嫌いでもない。>」  津坂さんは、面白そうな声で復唱した。そして、「ダンス・ダンス・ダンス」でしたっけ、と言った。 「ダンス・ダンス・ダンス?」 「村上春樹の小説です。北海道に行ったりハワイに行ったりする話ですけど」  村上春樹の小説「ダンス・ダンス・ダンス」に、そんな言葉があったかどうか彼は知らない。  有名な作品だから読んだことはあるだろうけれど、そもそも「ダンス・ダンス・ダンス」が、北海道に行ったりハワイに行ったりする話だったかどうかも覚えていない。村上春樹の作品なんて、どれも不幸な人たちがセックスしたりマスターベーションしたりしているイメージしかない。 「ごめんなさい、話をそらしてしまって。  チョコレートは好きでも嫌いでもなくて、ただ興味が持てないだけだ、って言葉があるんですよ。作中の<僕>が中学生の女の子に言うんですけど。それかな、って」 「そういう訳じゃないです。それに、甘いものに興味が持てないって訳でもないです。  でも、ちょっと素敵ですね、村上春樹の真似って。なんか格好悪くて」  それに、津坂さんが村上春樹に興味があることはよくわかりました。彼は逃げるための言葉を早口で続けた。好き嫌いの話に深入りをするつもりはなかった。小説の感想なんて言えない。趣味について、この距離の他人に話せることなんて何もないんだ。  物語に興味があるんです、と津坂さんは言葉を続けた。たぶん無意識で、だから無防備に身を乗り出してくる。近いよ、と彼は思った。逃げ出したい。 「何でもないときに、いろいろな言葉が浮かんでくることってありませんか? 小説の一節とか格言とか。そういうのが好きなんです。なんか、僕の知らない世界の仕組みが僕を動かしているのが見える気がして」  津坂さんの好き嫌いの話。彼は心の中だけで頭を抱え、ため息をついた。自分の話をするよりはましだ。遙かにましだと思う。でも、面倒なことには変わりはない。  王様の耳はロバの耳。きっと僕を相手にできる話なら、大事な話ではないんだろうと彼は思いこむことにした。表面上は笑顔を浮かべていたはずだ。多少、ぎこちなかったかもしれないけれど、自分の顔は自分では見えない。 「それは、神様はいると思ったとか、そういう話ですか?」 「それです。きっとそれが、心の中にある光なんです。  神様はいるんですよ、僕の中にも、君の中にも」  僕の中、君の中。上じゃないんだ、と思ったのを覚えている。誰の上にも平等にいる神様の方がイメージとして分かりやすいけれど、そうではないんだ、と。  神様がいるんだったら、もっとこの世から悪いことが減ってもいいと思いませんか? 彼が混ぜ返したことを言うのは深入りしないため、でも、津坂さんの返答は、もっと深く本音に根ざしたものだった。 「ちゃんと神様に、なんとかしてほしいって思ってますか?  僕の神様は、ちゃんと僕が悪いことをしないように見守ってくれていますよ」 「津坂さんの神様は、世の中のことは管轄外ですか」 「世の中の神様のことは知りません。僕にわかるのは、僕の神様のことだけですから。  でも、僕が悪いことをしないでいられるのは、僕の神様のおかげです」  君の中にも神様がいるでしょう? 津坂さんの右手が、彼の左手をつかんだ。反応できなかった。今、同じ事があっても何もできないだろうと思う。何ができるだろう?  沈黙がどのくらい続いたのかは覚えていない。ごめんなさい、と静かな声で言って津坂さんは彼の手を離した。はしゃぎすぎてますね、僕。 「駄目だな、ちゃんとした大人になろうと思ったのに」 「変わりませんよ、そんな急に」  慰めの言葉を並べ立てたのは、目の前に落ち込んでいるひとがいれば当然の作法だ。何を言ったのかも覚えていないような、使い捨ての慰めの言葉の数々。 「言葉が好きなのは素敵じゃないですか。それを捨てて大人になるなんて勿体ないですよ。  今は? 何か浮かんできませんか?」  口元に右手を当てて、しばらくの沈黙。何かを試すような目が、じっと彼を見ていた。でも君も神様を信じているんでしょう? 口元を隠している、さっきまで彼の左手を握っていた右手の奥で、唇が動いた気がした。きっと疲れているせいで、幻を見たんだと思う。 「<むしゃくしゃしていてやった。話題はなんでもよかった。今は反省している。>」  一瞬の間があって、津坂さんはころころと笑って言った。ごめんなさい、全部冗談と言うことにしておいてください。返す言葉がなくて、彼は、同じように笑うことにした。たぶん全部本音だろうけれど、でも、そんなことが分かっても、どうしようもない。  でも信じているでしょう、か、と今の彼は思う。あの頃の僕は何かを信じていたかもしれない。今となっては失われた、遠い遠い昔の話だ。  受付の仕事は全員集合するまで続いて、部屋に入った時にはコース料理の皿がテーブル狭しと並べられていた。席に座る間もなく、先輩にグラスを渡されて、なみなみとビー

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