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#blognavi 我がPCがトラぶってる間に話は進んでいましたね。 ここしばらくはサッカーワールドカップの影響か、ちょっと停滞してるようですが。。。 とりあえず、まず、私の小説に関する“Q”への回答から。 日向君からのQ1についてですが、 近藤君がアルバイトをするために両親を説得をする方法は、私の想像っていうか、誰が言った言葉でもありません。近藤君ならこういう感じで説得するかなぁと思って書きました。 ハードルをうまく飛ぶ方法は、これはちょっとノーコメントです。ただ、私の妹のダンナが中学校の体育の先生であることと、私が今習ってる卓球のコーチは体育大学を卒業しています。ですので、かなり身近なネタではあります。 Q2:寺田さんがハードルの試験を合格したことを聞いて喜ぶ近藤君に「人の話を聞いて、心配したり喜んだり出来るっていうのはそういうことさ」と言うシーンがありますね?ほんとうにそうなのでしょうか? > ほんとうにそうなのかどうかは、私にはわかりません。それは単に寺田さんが言った言葉ですから。寺田さんはそう思ったのだと思います。 人の話を聞いて心配したり喜んだり出来る人が必ずしも善人だと限らないと私自身は思っています。 Q3:当時の寺田さんがもう一度内定をもらっていたスポーツ店を訪ねるシーンなんですが、消えてしまっているのはやはり狙いがあっての設定ということでしょうか?そうであれば、その意図を教えてください。> 私が以前書いた「少年」でもそうでしたが、私の書くものには時折「消滅」が出てきます。これは村上春樹の影響を受けているのかも知れませんが、なぜか、「今までそこにあったものが、急になくなっている」という状態を書くのが好きなようです、私は。(今まで自覚症状は無かったのですが)。 だからこの作品にもその「消滅」が出てきたのです、きっと。だから意図があったというより、私の書くものの中に出てくる癖が出た、っていうことだと思います。 Q4:カオさんの「もうじき僕は歌わない」、もうじき僕は何を歌わなくなるのでしょうか?その対象と、歌うという言葉が意味するものを教えてください。 > 私の「もうじき僕は歌わない」は寺田さんの物語です。だから寺田さんの青春そのものが、もうじき僕は歌わない、です。近藤君は、「もうじき僕は歌わない」ではありません。近藤君はきっと歌える人生が待ってるはずです。じゃあ、寺田さんは何を歌わなくなったのだろうか。寺田さんの失ったものは多かったと思っています。家族や社会的地位やいずれ出来たであろう恋人や自分の家族や。自分が望んでそういう境遇になったわけでもないのに、一瞬にして色々なものを失う。失ったあとの人生ではいつも「陰」がつきまとい、心の底から笑うことももう無い。何を歌わなくなったのか、と訊ねられたら「人生を歌わなくなった」と言いたいです。 質問の回答になってたかどうかはわかりませんが、 読んでくださってありがとうございました。 そして、維緒さん。 最後の部分。近藤君が帰宅してからの部分。 別ストーリーを考えて下さってたんですね。本当感動もんでした。ありがとうございました。たぶん、私を感動させるために考えて下さったわけではないでしょうが、かなりの感動と動揺を憶えました。 そして、維緒さんの書いたストーリーもとても自然でした。ステキでした。ただ、私はそういう方向は全く考えませんでした。 寺田さんと出会った近藤君は、近藤君なりの幸せを満喫したらいいと思っていたのです。薄情な感じで言えば、僕は寺田さんみたいにはならないんだ、みたいな感じです。維緒さんの書いた近藤君より私の書いた近藤君のほうが少し軽い感じの子なのかもしれません。 維緒さんの書いて下さったストーリーを読んで、新鮮な気持ちになりました。ああ、そういうものあるな、って。 小説は面白いものですね。ちょっとしたことで全く違った印象の小説になります。 今では、維緒さんの書いたストーリーで終わったほうが良かったんじゃないかとさえ思います。 #right{ カテゴリ: [[[カオ>blog/カテゴリ/カオ]]] - &trackback() - 2006年06月24日 19:36:58 } #blognavi

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