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幸せはあなたへの復讐」(2006/09/04 (月) 22:23:33) の最新版変更点

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 白い鉄パイプのベッドの上で津坂さんは、何もなかったように眠っていた。もう目覚めないかもしれない眠りだとは思えない、穏やかな眠りだった。  僕は後ろ手に扉を閉めて、そっと彼女の表情を伺った。でも、そこから僕は何のメッセージも読み取れなかった。無言で僕は首を振った。僕は無力だった。  今頃になって、津坂さんの伏せたまつげが実は長いことに僕は気づいた。  自分は女性なんだと主張しているみたいだ、と僕は思った。  もう一度、僕は首を振った。きっとそれは津坂さんには不本意なことだ。  消毒のにおいが鼻をついて、僕は小さくくしゃみをした。病院のにおいだ、と僕は思った。清潔で健やかな暮らしには縁のないにおいだ。よそよそしい嘘のにおいだ。  機械音が定期的に小さく鳴り続けていた。それに、酸素か何かを送り出すポンプの不吉な音。窓の外から蝉の鳴く声が、遠く遠くに聞こえた。命までの距離かもしれない、と僕は思った。不吉な想像ばかり浮かんでは消える。  津坂さんの鼻と口は、チューブの付いたプラスチックの器具で覆われていた。目は閉じたままで、意識どころか生命の気配も感じられなかった。美しさは損なわれていない。でも、何かが決定的に欠けている。  僕は津坂さんを、手の届くひとだと思ったことはなかった。今なら手が届くかもしれない、と初めて僕は思った。そんなことを僕は望んでいなかった。全然、望んでいなかったのに。  津坂さんの心臓のあたりだけが、上下に小さく動いていた。それだけが彼女が生きている証拠かもしれない。まるで静物画のモデルの果物のような冷たさで、津坂さんはベッドに横たわっていた。観察なんてしたくなかった。でも僕は津坂さんから目を離せなかった。不愉快な人工の音だけが、規則正しく鳴り続けている。 「原因は分かりません。分かるのは事実だけです。  自発呼吸が極めて微弱になっています。人工呼吸器が必要です。  ただ、当初の心肺停止状態からは良くなっています。  心臓は今、問題なく動いています。発見してからの対処が早かったおかげです。  でも、原因が分かりません。  今すぐ目を覚ますかもしれません。でも、このまま回復しない可能性もあります。  最悪の場合、というのも覚悟しておいてください。  原因が分からないことには、これ以上は対応しようがないんです」  さっき、医者から聞いた言葉を僕は思い出した。原因不明、か。心の中で吐き捨てる。  生きていれば理由なんて分からないことばかりだ。そもそも生きている理由が分からないんだから、何かあるたびに理由を求めたって仕方がないじゃないか。よくニュースなんかを見ていると、そう思う。犯行の動機だとか結婚の契機だとか、どうしてそんなに説明をつけたがるんだ。事実を事実として受け止めたら、理由なんてどうでもいいじゃないか。  それなのに、こうして不測の事態が目の前で起きると、こんな理不尽なことがあっていいのかって思う。なんでこんなひどいことが起きるんだ、こんなのってないじゃないか。事実を事実として、なんて綺麗事だ。そんなの何の説得力もない。理由のひとつもないと納得なんて、できるはずがない。  生きているひとは、生き続けるべきなんだ。  津坂さんにとって、ただの同期の同僚の僕でさえそう思うんだから、家族なら、その思いはひとしおだろう。  津坂さんの母親、年齢不詳の女性の、もの言いたげな視線が痛かった。まるで僕を犯人扱いしているような視線だった。僕は小さく頭を下げて、ベッドサイドから離れた。津坂さんの母親の座る丸イスから距離を置いて直立する。  僕は黒のスーツ上下にくすんだ青色のネクタイで、胸ポケットのペンの留め具だけが金色に光っていた。彼女は大きなひまわりの刺繍が入った白いワンピースで、ひざに麦わら帽子を抱いていた。どう見ても僕が悪役だった。  どんな言葉をかけたらいいんだろう?  彼女の視線には棘があった。直接恨まれる覚えはなかったけれど、不幸の使者は喜ばれる訳もない。僕は黙って視線を下げて、礼儀正しく沈黙を守った。  津坂さんが倒れたことについて、どんな言葉で連絡が行ったのか僕は知らない。倒れたこと、意識不明であること。そんなところだろうか。  津坂さんの母親は、奇跡を期待していたんじゃないかと僕は想像する。たとえば彼女が声をかけたら、身体を揺すったら、娘が目を覚ますんじゃないかって。他の誰でもダメだったのに、母親の声にだけは反応を見せるんじゃないかって。全部冗談だったって、目を覚ました津坂さんが笑うんじゃないかって。それが家族というものだと、期待していたんじゃないかって。  そんな訳がない。原因不明で倒れた津坂さんは、原因不明のまま倒れ続けている。  僕は歪んでもいないネクタイを直しながら、表情を殺し続けていた。  僕には津坂さんにかけられる言葉はなかった。もちろん、ご家族にかけられる言葉も。僕には奇跡は起こせないし、それを期待することもできない。他人の僕に何ができるだろう? 「失礼ですが、あなたは誰ですか?」 「同じ会社で同期採用の、隣の係のミズキ・アサトと申します。津坂さんにはいろいろと、お世話になっています」  津坂さんの母親は、やっと僕から視線を外して小さくうなずいた。期待はしていなかったけど、という悪意の気配がして、僕は見つからないように息を吐いた。恋人だとでも思っていたんだろうか。だとしたら、何か違うことでも言うつもりだったんだろうか。  残念ながら、僕はただ仕事でここにいるだけです。  倒れた社員を病院へ運ぶのも庶務の仕事、と僕は思った。総務課庶務係には、他の誰もしない仕事が全部回ってくる。津坂さんが僕の目の前で倒れたのは、ただの偶然だった。おかげで手間が少し省けたかもしれないけれど、そんなのただの偶然に過ぎないだろう。  総務課長決済の書類を届けに、僕の机に津坂さんが来たのは午前十時頃だった。いつも通りの月曜日の、何の変哲もない午前十時頃だった。今日も暑い一日になりそうな窓の外の光、部屋の中は少し寒いくらいの冷房が稼働していた。僕は軽い寝不足で、職場の方々とは微妙に呼吸があわなくて、何もかもいつも通りだった。  せめて顔色が悪かったり、何か予兆のようなものでも示してくれればよかったのに、津坂さんは普段どおりの笑顔だった。白いブラウスに黒のタイトスカートの制服、そのまま展示即売会でもしたくなるような隙のない笑顔。  書類を僕に引き継ぐ時に津坂さんが言った言葉を僕は思い出す。いつもの笑顔に載せて、透明な声だった。 「後はよろしくお願いします」  確かに引き受けました、と僕は答えた。まさか、こんなことを引き受けることになるとは思わなかったから、いつも通りの適当さで答えた。後でやればいいだろう、と思っていた。いきなり目の前で倒れるなんて、普通想像しないじゃないか。  津坂さんの母親の咳払いに、僕は窓の外に視線を移した。夏とはいえ、もう暗くなってきていた。僕は表情を殺して、空気を読もうとした。津坂さんの母親がどんなメッセージを発しているのか読み取ろうとした。  何の計らいでか、僕はずっと津坂さんの隣にいることを許されていた。普通、面会謝絶じゃないのか。それも津坂さんの母親を不愉快な気持ちにさせているかもしれない、と僕は思った。とにかく、彼女は僕に悪意を向けていた。僕には分からないように、僕に何かを伝えようとしていた。  津坂さんは僕の目の前で倒れた。僕はまた記憶をなぞっている。何回目だろう。もう、ずっと繰り返している。津坂さんは倒れながら笑顔だった。とっさに出した腕で抱きとめた、その身体は驚くくらい軽かった。書類が飛び散って、いすが倒れて、誰かが叫ぶ声がした。順番は覚えていないけれど、すべてがスローモーションみたいに見えた。走馬灯、と思って不吉な気持ちになったことを覚えている。  意識がないことはすぐに分かった。名前を呼びかけながら、全身の状態を確認した。男のひとの声が「どうした」とか「大丈夫か」とか言いながら右往左往していた。誰か女性が悲鳴を上げていた。もっと他にすることはないのか、と僕は思った。でも、ギャラリーにできることなんて他になかったかもしれない。  呼吸と脈拍をすぐに確認したのは、そんな研修を受けた過去があるおかげだった。倒れているひとを発見したら、まず声をかけて意識を確認し、意識がないようなら呼吸と脈拍を確認します。いつか小説で使おうと思って、覚えておいてよかった。心臓も呼吸も止まっていた。  救急車を呼ぶように僕は叫んだ。ギャラリーの方々は、僕が思うように動いてはくれなかった。すぐに受話器をあげたのは課長だった。こういうとき頼りになるひとと、そうではないひとがいる。そうではない方のひとは津坂さんが助からなかったら、みんな連帯責任で地獄に落ちてしまえ。  津坂さんは、おだやかな笑顔のままで心肺停止していた。どうして、そんなに穏やかな顔をしていたのか僕には分からない。津坂さんは普段から、苦しい時は笑顔を浮かべるようにしているからだろうか?  僕はフロアに津坂さんを置いて、人工呼吸と心臓マッサージをしながら救急車の到着を待った。誰か経験者はいませんか、呼びかけには誰も応じてくれなかったから、僕がするしかなかったんだ。ブラウスのボタンをいくつか外したのは覚えている。でも、押したはずの胸が柔らかかったかどうかは覚えていない。唇の感触も。  津坂さんが元通りに戻ったら、これもきっと笑い話になるかもしれない。女性の胸を触れるなんて最初で最後だったのに、とか課長にからかわれるんだ。でも、僕はただ必死だった。手触りなんて記憶している場合じゃなかった。  課長が119番通報をしてから、救急車が来るまでの長かったこと。救急車に同乗してから、病院までの道のりの長かったこと。緊急で行われた検査の間、ひとり廊下で待っていた時間の長かったこと。悪夢を思い出すように、記憶は何度もフラッシュバックする。今日一日で、十年くらい年を取った気がするくらいだ。 「あなたの初期対応が適切だったことに感謝します」と担当の医者は言った。不吉な真面目さだった。「もちろん容態は予断を許さない状態です。でも、この時点で手遅れでした、と言わなくて済んだのは、あなたのおかげですよ」  検査結果を聞いて、職場に連絡をしたのは覚えている。でもそれが、何時間後の話だったのかは記憶にない。そのまま情報収集につとめるように、というのが課長からの指示だった。彼の落ち着いた声を聞いて、僕も自分を落ち着かせようとした。落ち着くのは無理かもしれない、でも自分がどのくらい落ち着いていないかを知るだけで、少しは違うはずだ。 「津坂女史についてろ。それで、そちらでできることは全部やれ。分かるな? 命より大事なものなんて何もないんだ」  ちょっと素敵な発言だ、と僕は思った。裏があることはもちろん知っている。でも、もちろん課長はそんな気配を見せずに電話越しに言葉を続けた。 「こっちの仕事なんてどうでもいいから、津坂女史を頼む。で、情報を逐一いれてくれ。どうせ急ぎの仕事なんて抱えてないだろう?」 「ええ、僕がいなくても問題なく回るはずです」 「よし。それでこそおれの部下だ」  課長に、津坂さんの家族への連絡を頼んだ。分かってるよ、と課長は言って電話を切った。誰にも繋がらないから現状のまま待機、と次の指令が来たのがいつだったのかも、やはり記憶がない。時間の感覚がまるでなくなっている。 「現状のまま、ですか」 「構わないから、おまえの判断で病院との折衝は進めておいてくれ。入院とか何とか、たぶんくだらない手続きがあるだろう。誰かがしなきゃいけない仕事だが、どうせ誰がしたって結果は同じだ。早く済ませておいた方が気が利いてる」  入院手続きや保険の適用や、そんな雑用こそ庶務の仕事だ。僕はひとつひとつ確認して記録を残しながら、淡々と雑事を片付けていった。たとえば労働災害の申請の面倒な手続きは、たぶん家族の方だけではする気にもなれなかったと思う。こんなのは誰にでもできる仕事だ。でも、誰もしたくない仕事だ。  総務課庶務係の教え、というのがある。課長が普段しゃべっていることだ。仕事をしながら何度も思い出した。いずれ誰かが清書して、総務課の壁にでも貼り出されるかもしれない。 「庶務というのは、いい歯車を目指す仕事だ。代わりはいる、面白味はない。でも、誰かがやらなきゃいけない。歯車だ。それが嫌なら、違う何かになればいいんだ。なりたいことが何もない奴が歯車の文句を言うなんて、片腹痛いと思っていればいいいんだ。いい歯車の何が悪い?」  やっとつかまった津坂さんの母親が病院にやってきたのは、もう日も傾いた頃だった。ワンピースに麦わら帽子のシルエットは、最初、津坂さんの母親だとは気づかなかった。姉と言われれば姉と思ったかもしれない。場違いな空気、それはまるでお祭りから抜け出してきたような違和感があった。津坂さんから家族のことを聞いたことは一度しかなかった。それも六年以上前の話だ。でも、すぐに思い出した。家族のことを津坂さんはよく思っていなかった。納得だった。  医者からの説明の時は、当然に僕は席を外していたので、彼女が何を言われたのかは聞いていない。でも、けっこう大きな声で言い合いが聞こえてきたから、たぶんいろいろお気に召さなかったんだろう。確かに原因不明はひとを苛立たせる。たとえば脳溢血とか心筋梗塞とか言われた方が、まだ納得しやすいかもしれない。  病室に再び招かれた僕は、津坂さんが倒れた状況の説明を彼女に求められた。隠すことは何もないので、淡々と礼儀正しく僕は説明した。彼女はうなずいて聞いていたけれど、特に僕の話に心を打たれた様子はなかった。それはそうだろう、そこには回復に繋がる何の手がかりもない。  職場での普段の津坂さんについて彼女は聞きたがった。話題に困ってネタを探している、という感じではなかった。このタイミングでそんなことを本当に知りたくて聞いているんだとしたら、やっぱり場違いなひとかもしれない。 「仕事に関しては堅実で丁寧です。私は有能な方だと思っています。アピールが上手な方ではないから、勤務評価ということになると損をしているかもしれませんが」  表現が過去形にならないように僕は言葉を選んだ。津坂さんの存在を過去にしないように。今日が明日も続くように。あさっても続くように。  有能ですか、と彼女はつまらなさそうに吐き捨てた。 「そんな娘に育てた覚えはないのに、どこで間違えたのかしら」  僕に質問を要求する沈黙だった。分かりましたよ、と僕は思った。津坂さんのことについて語らずにはいられないんだろう。不測の事態で動揺した心のバランスを取るために、とにかく語りたいんだろう、多分。その気持ちなら分からなくもない。 「津坂さんを、どうお育てになったんですか?」 「いい殿方を伴侶に、しあわせな生活を送れるように。ねえ、そう思いませんこと? 女のしあわせは、結局は殿方次第ですわ。社会に出て普通に有能なんて、そんなのどうだっていいことです。わかるでしょう?」  分かりません、と僕は思った。でも、そんなことを言う訳にはいかない。  僕は表情を殺したままで、彼女はその反応が気に入らなかったらしい。これだから近頃の殿方は、繰り言をひとりで呟いていた。  そろそろ失礼します、僕はタイミングを見て言った。家族に引き継げば、職場の同僚の仕事は終わりだ。いつまでも残っていても邪魔なだけだろう。もちろん、彼女も僕を引き止めるようなことはしなかった。別れ際の事務的な挨拶の交換。 「ああ、ひとつ思い出した。連絡先を教えていってくれないかしら。何かあったときに、直接あなたに繋がった方が早いでしょう?」 「私としては、職場へ連絡をいただけば結構ですが」 「わたくしとしては、直接あなたに繋がった方が早いの。それとも、勤務時間外は連絡を受けたくないと?」 「そんなことは。携帯の番号でよろしいでしょうか?」  個人持ちの携帯の番号を教えるのには抵抗があったけれど、断る訳にはいかなかった。彼女は使い込まれた手帳に僕の番号をメモした。名前欄に「いけ好かない男」と書いたのが見えたけれど、もちろん見なかったことにするべきだろう。  津坂さんに僕の携帯の番号を教えたことがあっただろうか、と僕は考えてみた。思い出せなかった、ということは多分教えていないだろう。もちろん僕も津坂さんの携帯の番号を知らない。その程度の関係だということだ。 「こちらから連絡を取りたい場合は、どうしたらよろしいでしょうか?」 「わたくしは携帯を持たない主義なんです。でも、そうね。娘の携帯に連絡をくれたら、あなたからの電話だけは出るようにしましょうか」 「番号を教えていただけませんか?」 「知らないの?」  彼女は心底不思議そうな顔をした。そんな顔で見られても困る、僕が知る訳がないじゃないか。まあいいですけど、と彼女は聞こえないように言った。さっきから、聞こえないように言っているんだろう発言が僕に全部聞こえていた。嫌がらせだとしたら、その効果はきちんとあがっていますよ、と教えてさし上げたい。  津坂さんの電話番号をアドレス帳に登録して、僕は彼女と別れた。まさかその日のうちに、この電話番号が役に立つとは思わなかった。  というか、もう彼女と会うことだってないだろうと、その時の僕は思っていた。津坂さんが目を覚ましても覚まさなくても、あとは家族の問題だ。僕には関係ない。たぶん、僕だけがそう思っていた。  歩いて病院から出ると、どこからか、ナイター中継の声が聞こえていた。日が沈んでも容赦なく蒸し暑かった。蝉の声、夕飯のにおい。居心地の悪い生活の気配に僕は首を振った。僕が苛立っても仕方がない。つらいのは津坂さんであり、そのご家族だ。僕は支えるべき立場であって、一人前に苛立ったり傷ついたりするのは分不相応だ。  最後の状況報告と、直帰する旨を伝えるために職場に電話をかけると、電話に出たのは課長だった。さすがの課長も声にいつもの覇気がなかった。 「電話番、他の社員はいないんですか」 「今日は定時で帰らせた。残っていても役に立たないし、見てると鬱陶しいだけだからな」  あなたの部下ですよ、と僕は言った。おまえもな、と彼は答えた。ひとり働いてたら他の奴はどうでもいいんだ、組織なんてのはそんなものだ。ご苦労だったな。 「明日以降も病院に詰めてもらうかもしれん。よろしくな」 「仕事の範囲で最善を尽くします」 「いい答えだ。おまえも、おれの部下がさまになってきたな」 「反面教師が優秀ですから」 「それを教師に言うのか?」 「自覚はおありになるんですね」  冗談を言い合って電話を切ると、疲れが一気にやってきた。僕は一日分のため息をついた。酒を飲む習慣はないけれど、こんな日はアルコールの助けを借りないと眠れないかもしれない。でも、そんなことをしたら悪い夢を見るに違いなかった。現実がほとんど悪夢なのに、眠りの国に逃げようなんて許してくれないだろう。  明日からは津坂さんがいないだけの普通の毎日がやってくるんだろう、と僕は思った。それが仕事というものだ、と課長なら言うかもしれない。ひとがいなくなることなんて珍しくない。みんな、ただの歯車なんだ。そんなことは分かっている。  でも、僕は津坂さんを、ただの歯車のひとつとは思えなかった。どうしてだろう、と僕は思った。同期採用の縁というものだろうか。  適当に夕飯を済ませて帰った、ひとりの部屋を居心地はいつになく悪かった。こんなとき話ができる友達もいない。ひとりで袋小路だ。それが僕の選んだ生き方だ、それを変えることなんて今更できないだろう。でも、僕ひとりで支えるには津坂さんの命は重すぎる、と僕は思った。津坂さんはもう帰ってこないかもしれない。僕はそれを、どう受け入れればいいんだろう。  たぶん津坂さんがどうしたこうしたじゃない。目の前に突然やってきた<死>に僕は振り回されているだけだ。頭を振って津坂さんの記憶を振り払おうとした。倒れた津坂さんを支えた腕、初めて人工呼吸をした唇。今日のそんな記憶が僕の正常な判断力を奪っているんだ。  でも、僕の中にはずっしりと津坂さんの記憶がストックされていた。初めての飲み会の時から数え始めて六年ちょっと。いろいろな笑顔を見てきたような気がする。津坂さんはいつも笑顔だった。僕が不機嫌な顔をしていると、何故か安心したように笑顔だった。出てくる機会がなかっただけで、記憶は僕の中にずっとあったのかもしれない。  僕にとって津坂さんが特別なんだろうか、それとも、他の同僚も死にかけたら何かを思い出すだろうか、と僕は思った。逆に、僕が死にかけたら誰か僕のことを思い出してくれるだろうか。  思い出して欲しいのか、僕は。なんか、まるで普通のひとみたいじゃないか。  <死にたい>と僕は何度も小説に書いた。その気持ちには嘘も偽りもない。でも、僕は津坂さんに死んでほしくない。僕が死にたいか死にたくないか、と考えれば、答えは<どうだっていい>くらいだ。でも、津坂さんには死んでほしくない。こんな形で死ぬのは間違っている。  津坂さんのここまでの人生が楽しいものだった、とは思えなかった。入社当初に聞いた身の上話、長く不幸な人生。あれを生きてきて、楽しい訳がないだろう。せっかく忘れたふりをしていたのに、また思い出してしまった。忘れたふりでもしていないと、平常心で見ていられないんだよ。ああもう、ずっと津坂さんを見ていたみたいじゃないか。  神様、と僕は思った。僕は神様がいるなんて思っていないのに、祈らずにはいられなかった。津坂さんは神様を信じていたことも僕は思い出した。その神様に、僕は祈った。津坂さんが無事に回復しますように。この先の彼女の人生に、幸せがたくさんありますように。代償が必要なら、僕の命を差し出しても構いませんから。  いつもの習慣で、僕はパソコンの電源を入れた。ひとりでいて、他に時間をつぶす方法はこの部屋にはなかった。メールソフトを立ち上げると、ハンドルネーム水零からメールが入っていた。送信時間は本日の午前十時、タイトルは「疲れました」。  本文には何も書いていなかった。なんだこれは、と僕は思った。ただの愚痴かもしれない、と考えようとした。でも駄目だった。今の僕には、これは遺言にしか見えなかった。津坂さんのことが頭から離れないから、不幸ばかり考えてしまうのかもしれない。僕は首を振った。でも、不幸なことしか考えつかない。  わざわざ僕宛に遺言?  水零のことを、僕はほとんど何も知らないのに?  うたうたいの卵であること、知っているのはそれだけだった。僕は彼女の歌声を何度も聞いている。彼女は僕の小説を何作も読んでくれた。でも、それだけの関係だった。個人情報は何も知らない。どこにいて何をしているひとなのかも。本名はもちろん、年齢も体重もスリーサイズも知らない。  彼女だって僕のことで知っているのは、僕がものかきの卵であることだけだろう。  生きていく上で、友達なんて必要ないと僕は思っている。理解してくれる誰かなんて、いなくても生きていける。それが僕の三十年弱の人生で導き出した結論だった。だって、僕は誰のことも理解できないし、誰も僕のことを理解できない。  でも、僕は水零といろいろな話をした。あくまで一般論や友達の話のふりをしながら、一番深いところの気持ちをぶつけあった。それが本音であることを僕は知っていたし、水零も知っていた。恋の話もしたし、宗教の話もした。意見が割れることはあったけれど、それでもいいと思える関係だった。インターネット越しとはいえ、かけがえのない友達だったんだ。  黙ってフェードアウトなら受け入れられたかもしれない、と僕は思った。どうせ、いつか出会ったらどこかで別れるんだ。でも、こんな露骨に助けを求められたら、黙っていられなかった。わざわざ僕に言葉を遺していくんだから、本当は僕に助けてほしいんだろう。物語ならそんな展開だ。みえみえだ。  今、こっちが助けてほしいぐらいだっていうのに。  僕はメールの新規作成を選んで、水零のアドレス宛にメールを打った。宛先は携帯電話のアドレスだった。僕はパソコンのアドレスしか教えていないのに、なぜか彼女からは携帯電話のアドレスを教えられていた。こんな事態を想定していたんだろうか?  まさか。  長いメールは必要ないだろう、と僕は判断した。手短に返事が遅くなったことを詫び、今すぐ連絡が欲しい旨を書いた。少し考えて、僕の携帯電話の番号も書いた。これを教えるのは初めてだ。それが僕のメッセージだ、水零になら伝わるだろう。他に書くことはなかった。僕は息を吐いて送信をクリックした。  電話は来るだろうか?  今までのルール通りなら掛けて来ないだろう、と僕は思った。でも、こんな露骨に個人的なメッセージを送ってくる時点で、既にルール違反だ。だったら電話が来るかもしれない。というか、掛けてこい。  遠くの他人、と僕は思った。はじめに水零に求めていたのはそれだけだった。六年くらい文通している間に、ずいぶん僕は遠くまで来てしまった気がする。いつのまにこんなに水零の近くにいたんだろう?  他のサイト巡回なんてする気にはなれなかった。連絡用にメッセンジャーだけ立ち上げて、ボリュームコントロールで着信音を上限に設定して、僕はパソコンの前を離れた。小説を書く気にもなれない。何をする気にもなれない。  ベッドに転がって天井を見上げていると、携帯電話に着信があった。津坂さんの携帯電話からだった。津坂さんの母親か、と僕は思った。年齢不詳の白いワンピース姿を静止画で思い出す。仲良くはなれないひとのオーラが漂っていた。何があったんだろう? 「何かあったの?」  でも、聞いてきたのは彼女だった。何かあったのはそちらじゃないんですか? 僕は丁寧に聞き返す。混乱しているときこそ冷静で丁寧なふりをする、庶務の仕事で培ってきた技術だ。 「連絡が欲しいってメールを寄越したのは、あなたでしょう?」 「え?」 「今、メールを送ったでしょう。間違いメールなの? 差出人があなたの名前になっていたから確認したら、電話番号つきで連絡が欲しいって」 「ちょっと確認させてください。三十秒後に折り返し連絡しますから」  僕は一度通話を切って、送信履歴を確認した。アドレスを間違えた? そんなことがあるはずがない。だとしたら、間違っているのは僕の認識だ。でも、そんなことが。  メールの宛先は水零になっていた。電話帳から呼び出すアドレスに間違いはなかった。僕は息を吐いた。答えはひとつだ。津坂さんと水零が同一人物なんだ。  うああああ、文字で表記をしようと思うと、そのくらいしか書きようがない。ただ驚きと混乱だけが僕の中にあった。出会ったのはいつだ? 僕は記憶をさかのぼった。どちらも同じような時期、六年ちょっと前の社会人一年生の春だった。ということは何か、はじめから全部ふたりには分かってたのか? 知らなかったのは僕だけか?  驚きと混乱を抱えたままで、僕は津坂さん母に電話を掛け直した。時計はちょうど三十秒後だった。どうでした? 何かを隠しているような、裏のありそうな声が僕を問いつめる。 「急いで連絡が欲しいと書いた件については、申し訳ありませんでした。間違いではありませんが、急ぎではありませんでした。ひとつお願いがあるんですが、よろしいでしょうか」 「先に事情の説明があってもいいんじゃなくて?」  彼女の言い分の方が正しかった。僕は非礼を詫びて、簡単に状況を説明した。津坂さんと、インターネットで知り合った会ったことのない女性が同一人物だったこと。その彼女から遺言じみたメールが届いていたこと。自分でもまだうまく把握できていない、と僕は正直に白状した。津坂さんの母親は、電話の向こうで何かを考えていた。 「あなたもインターネットでは偽名を使っていたの?」 「ええ、本名を使わないのがルールなんです」 「娘は、インターネットで知り合ったあなたと、会社の同僚のあなたが同じ人物だって分かっていたのかしら?」  分かりません、と僕は答えた。その件も含めて、と本題に強引に接続する。 「彼女の部屋にノートパソコンがあるはずです。何かメッセージが残っていると思うんですが、確認していただけませんか」 「その前に、あなたはどうやって責任を取るつもりなのかしら?」 「責任?」 「偽名を使って娘の心をもてあそんだ責任よ。わたくしが納得のいく答えを聞くまで、あなたには協力したくありません」  悪意が、携帯電話の向こうから耳を刺すような声だった。僕は肩をすくめて、通話を切ってなかったことにしたい衝動をやり過ごした。娘の心をもてあそんだ責任、と僕は思った。どんな答えを言えば、彼女は納得してくれるんだろう。僕だって被害者だと主張しても、絶対に理解はしてもらえないだろう。そもそも責任を要求されるような具体的なことは何もしていないのに。 「あの、私たちは対等な関係の大人同士として、ですね」 「殿方は都合が悪くなると、いつもそういうことをおっしゃるのね」 「私に、何の責任を求めていらっしゃるんですか? 彼女の身に起きたことについてはお気の毒に思いますが、それとこれとは別の話です」 「別の話として伺っているのよ。娘の意識が戻ったら、あなたはどうするつもりなの?」  どうしたらいいんでしょうか、と僕は正直に言った。何もなかったことにしたい、とは思っていても言えなかった。そんなことができないことは、僕自身でよく分かっている。 「何もしないことだって、時と場合によっては責任問題なんですからね」  まあいいわ、と彼女は言った。とりあえず追求は終わったらしい。僕は聞こえないように息を吐いた。責任、について考える。僕が気づかなかったことは、僕の罪だろうか。それが津坂さん/水零の何かを侵害し、今回の事態を引き起こしたんだろうか。  僕は自分のパソコンの前に戻って、終了を選択した。この向こう側に、ハンドルネーム水零という、顔も知らない他人がいた。言葉にしてみると、改めて不思議な違和感があった。津坂さんが目を覚ましても、もう水零とは会ったこともない、顔も知らない他人には戻れない。  水零から、使っているマシンについては何度か聞いたことがあった。モバイルサイズのノートパソコンで、自室レコーディングもウェブサイトの更新も、全部同じパソコンで行っていると言っていた。僕の書いた小説だって保存してあるかもしれない。  たぶん、そのパソコンに手がかりが残っているはずだ、と僕は思った。僕と水零をつないでいたパソコンだから、何か僕に伝えたいことがあるなら、ここに残すと考えるのが妥当だろう。僕は首を振って、よくない考えを追い出そうとした。手遅れかもしれないなんて、思いたくなかった。僕がもっと早くに気づいていたら、違う今があっただろうか。でも、そんなことは今、考えても何の意味もない。僕は気づかなかったんだ。 「メモが貼ってあるわ。このパソコンをあなたに渡してほしいって」  遺言かもしれません、僕は正直に答えた。津坂さんと呼ぶべきなのか、水零と呼ぶべきなのか、倒れることを彼女は知っていたのかもしれない。「疲れました」のメッセージを送ってきた午前十時は、本当に倒れる直前の時間だった。僕は津坂さんの母親にそのことを伝えた。津坂さん/水零は、僕を最後のメッセージの宛先に選んだんです。気づかなくて済みませんでした。 「娘は自殺なんてしません、勝手に決めないでいただけるかしら。それに、治療だってまだ手遅れじゃないでしょう。あなたはあなたの責任を果たして頂戴。わかっているわね? パソコンは、明日の朝、病院でお渡しします」  ではまた明日、と僕は答えた。選択の余地はなかった。僕には何もできないかもしれないけど、津坂さんも水零も、僕にメッセージを託していったんだ。言い訳なんて、後でいくらでもできる。責任については、後で考えよう。今、大事なのはそんなことじゃない。 「それで、あなたの正体は何? ただの同期の同僚じゃないでしょう?」  分かりません、僕は弱い声で言った。他に話すことはお互いになかったので、明日の時間だけ約束して電話を切った。ただの同期の同僚だと思っていたんだ、僕はつぶやいた。誰も聞くひとのいない声が、ひとりの夜に吸い込まれていった。  電気を消した部屋に水零の歌声は哀しく響いた。まるで無宗派の葬式みたいだ、と僕は思った。神様はいるんです、と六年前に津坂さんは言った。今でも津坂さんの中には神様がいる。水零の声を聴いていると、それは僕にも伝わってきた。  <鏡>というタイトルの水零の最新作を、僕はエンドレスで流していた。でも、最新作といっても去年の作品だ。ここ一年以上、彼女は新作を公開していない。今までにない空白期間だった。 「<鏡>が今までの集大成です。次の作品は、あれを超えるものを作らなきゃいけないんです。できること、したいことを全部吐き出して作った<鏡>と、同じ路線で次の作品は作れません。ちょっと大変ですよ」  <鏡>は全部で一時間ちょっとある大作だ。MIDIで打ち込んだ楽器がいくつも入っていて、都会の雑踏や生活音がサンプリングされていて、自分の歌声でボーカルの多重録音までしてあった。そして、聞いたひとの心を映すように、それだけを考えて歌ったと本人が主張する主旋律。相変わらず歌詞はなかったけれど、魂がこもっていた。  初めて聴いた時、僕は世界が震えるのを感じた。何がすごいのかは分からなかったけれど、そんなことを問題にしないくらい魂がこもっていた。僕の魂が揺れるくらい。僕には歌の善し悪しはよく分からない。でも、こんな作品は誰にでも作れるものではないことくらい分かる。こんな歌ばっかり歌っていたら死んでしまうんじゃないかって思うくらいすごかった。何度聞いても色あせなかった。 「こんな言葉でしか伝えられないのは申し訳ないけど、ありがとう、すごい作品でした」  水零は歌で生きていくつもりなんですか、と僕は尋ねた。こんなすごいものを作るのが、隣の係で働いている津坂さんだなんて、思わないじゃないか。  歌いながら生きていくつもりです、というのが水零の答えだった。君の小説もそうでしょう? それで食べていくのかどうかは問題じゃありません。  その水零から「行き詰まってます」というメッセージが来たのは、今年の春だった。弱音なんて珍しかったから、よく覚えている。時間を示し合わせて、真夜中にメッセンジャーで顔を合わせた。ちょっとデートみたいだ、と思ったのは、今となってはどうでもいい話かもしれない。  津坂さんが相手だと分かっていたら、もっと違う方法で話をしただろうか。たとえば職場の帰りに夕飯を一緒に食べながら、とか、休日に僕の部屋にご招待して、とか。無理だ、そんなこと僕にはできない。インターネット回線越し、顔も知らない他人同士の関係で精一杯だった。 「行き詰まってますって、どういうことなんですか?」 「すみませんでした、いきなり愚痴を聞かせてしまって。他人にお聞かせするようなことではないんですけど、君なら聞いてくれるんじゃないかと思って」 「なんか口説き文句みたいですね」 「いいんですか、口説いても?」  そんなエサには釣られないクマー、と釣り針の引っかかったクマのAAをつけて僕は答えた。m9プギャー、指を指して笑うAAが返ってきた。僕たちは同じ世界で生きていた。そこまでは、その時の僕にも自覚があった。  今度から、どんな顔をして津坂さん/水零と会えばいいんだろうと僕は思う。このまま逃げる、という方法もあるだろうか、と考えてみた。もちろん道義的にも現実的にも無理だ。でも、感情的にはどうなんだろう。僕は水零が他人だから、その便利さでメッセージを交換していたのか?  違う、と僕は即座に否定した。カズミの名に懸けて違う。水零とは話ができるから話をしていたんだ。それは水零が津坂さんだったからって、何も変わらないはずだ。 「僕の歌って、聞きたいものですか?」  本題に入った水零が、最初に聞いてきたのはそんな質問だった。聞きたいですよ、と僕は答えた。たぶん、水零と同じくらいには僕は聞きたいと思ってますよ。水零からは「ありがとうございます」と返事が来て、しばらく沈黙が続いた。 「冬は冬のように、春は春のように歌うのが僕の歌なのに、このごろ、歌えないんです。何を歌っても同じようにしか聞こえないんです」 「それは<鏡>以降、ですか?」 「分かりません。分からないんです。一年も声を聴いていただいていないと、もう<うたうたい>なんて名乗れないんじゃないかって。思うと、不安で怖くて仕方がないのに、でも僕は何を歌えばいいのかも分からないんです」  水零は水零ですよ、と僕は書いた。その言葉を見て、津坂さんはどんな気持ちになったことだろう、と思い返して僕は思う。僕らしいと思ってくれたとしても、たぶん僕を嫌いになっただろう。その時の僕は何も考えていなかった。いつも通りの、ただの空っぽな慰めの言葉だった。  歌詞のついた歌を歌うつもりはないんですか、と僕は尋ねた。ずっと感じていた疑問だった。「言葉にならない何か」について歌いたい、というのが水零の気持ちだった。でも、言葉の向こう側にだって「言葉にならない何か」はある。僕はそのために言葉を並べている。言葉で世界を作っている。その世界で、僕は水零に何ができるのか知りたかった。なにしろ、水零は僕が初めて出会った「本物」だ。何だってできるだろう。 「君が歌詞を書いてくれたら、歌ってもいいですよ」  水零は冗談の文体で書いてきたけれど、たぶん本気だった。タイトルをください、と僕は返信を返した。歌詞なんて書いたことがないけれど、水零が歌うために書くのなら、書いてみたいと思った。書けるんじゃないかと思ったんだ。 「もうじき僕は歌わない。」  長い沈黙の後で、水零はそのタイトルを吐き出した。それはなんですか、と僕は尋ねた。君が考えてください、と水零は解説を拒否した。君が考える「もうじき僕は歌わない。」が見たいんです。それなら歌えるかもしれません。  その後は、いつものチャットと変わらない会話が続いた。そのとき、僕は「もうじき僕は歌わない。」は反語だろうと思っていた。いつまでも歌い続ける意思があるから、その逆をタイトルを書いてきたんだろう、と。  どう考えたって、このときには水零は僕に助けを求めていたんだろう。僕は気づかなかった。それが、今日につながっている。僕は助けられなかった。  眠れないまま、水零のアルバムだけがオールリピートで何度も繰り返していた。<鏡>に収録したのは聴いたひとの心を映す曲です、と水零は語っていた。嬉しいときに聴けば嬉しく響き、哀しいときに聴くと哀しく響く、そういう曲を歌いたかったんです。  僕は心を曲に集中して、その<鏡>に何が映るかを見ようとした。  まるで何かの宗教儀式だ、と僕は思った。光が揺れ、闇が動く。音が視覚的に迫ってくる。都会のビルの片隅にも、誰もいない夜の森にも、そこかしこで神様は僕たちを見ている。この曲から僕は神様の気配を感じる。光と闇の間で生きる、奇跡や偶然を感じる。  津坂さんは神様を信じていた。自分の中に神様がいることを。でも、それが津坂さんそのものだ、と今の僕は思う。人間は、そのままで神様なんだよ。この曲から感じるものは、全部、津坂さん/水零そのものだ。危うさも、明るさも、全部。  僕は枕に顔を埋めて、目を閉じた。ダメだ、何をしても津坂さん/水零のことしか考えられない。  翌日も暑い日だった。朝から暴力的な日差しが容赦なく降り注いでいた。津坂さん母は、僕が着いた時にはもう病院前にいた。細身のラインを見せつける、今日のファッションはカジュアルなシャツにジーンズで、相変わらず年齢不詳だった。何と戦っているんだろう、と僕は思った。僕に向ける視線は相変わらず尖っているけれど、きっと彼女の本当の敵は僕ではない。違う何かの代理として、僕が嫌われているんだろう。 「すみません、長く待たせましたか?」 「いちいち気にしてると禿げますよ。わたくしたちは気が長いんです」  そうですね、と僕は同意した。僕が津坂さん/水零と知り合って、何年になるんだろうかと考える。津坂さんは僕が気づくのを、じっと待っていたんだろうか。どんな気持ちで待っていたんだろう。  地下の食堂が開店していたので、僕たちはそちらに移動した。僕はモーニングセットを、彼女はコーヒーだけを頼んだ。食べないと保たないわよね、どこか食欲のある僕を弾劾する響きの声だった。何を言われても仕方がないけれど、いい気持ちはしない。 「パソコン、先にお渡ししましょうか」  彼女はいかにもOA用の黒い鞄から、B5サイズのノートパソコンを取り出した。藤色の塗装も綺麗なままで残っていて、丁寧に扱われていた歴史が感じられた。このパソコンが津坂さんに使われているところを僕は想像した。水零とハンドルネームを名乗って、僕とチャットしている津坂さん。部屋を閉め切って、マイクをつないで、歌詞のない歌を録音している津坂さん。  僕は首を振って、視線を落とした。  なんで、こんなにも簡単に想像できるんだろう、と僕は思った。津坂さんと水零が同一人物であることには、まるで違和感がなかった。昨日まで、そんなこと考えたこともなかったのに。  僕は津坂さんの母親に断って、画面を開いて電源ボタンを押した。ノートパソコンはバッテリーで起動を始めた。液晶が点灯し、biosが走り出す。そして、おなじみのWindows XP Home Editionの起動画面。そのまま待つと、ほどなくログイン画面になった。 <ユーザー名とパスワードを入力してください> 「ご存知ですか?」  わかりません、と津坂さんの母親は言った。僕は無言で頷いた。親でもパスワードを知らないのは自然なことだと思う。でも、もちろん僕も知らない。  何も入力せずにenterを叩く、ありがちな方法はあっさり拒否された。職場で使っている、ログイン名に漢字で本名、パスワードにそのアルファベット表記を試してみる。これも拒否。 「実は昨日の夜、ちょっと試してみたのよ」  彼女が開いた手帳のページには、試した組み合わせがずらりと書いてあった。僕が思いつくような組み合わせは、もちろんとっくに試した後だった。 「あなたなら簡単に分かるのかと思っていたのに」  申し訳ありませんが、と僕は言って首を振った。他人のパスワードなんて分かる訳がないじゃないか。  コーヒーが運ばれてきたので、僕たちはパソコンを下げて向かい合った。そのパソコンはお預けします、彼女はパソコンを収納した鞄を僕に差し出した。 「ケーブルとかマイクとか、そのへんにあるものはまとめて入れてきたの、手がかりがあるかもしれないと思って。わたくしでは分からないから」 「何もお約束はできませんが、微力を尽くします」  僕は頭を下げた。彼女は神経質そうに頷いた。  彼女は無言のままで、カップの中をかき混ぜはじめた。僕とふたりでいても間が持たないんだろう、気持ちは分かる。僕は、少し間を置いてから提案した。 「お時間が許すようでしたら、お互いに情報を出し合いませんか。どこかに盲点があるかもしれないと思うんです」 「盲点?」 「私にだけ分かって欲しいなら、私にだけ分かるパスワードを設定するはずです。私には分かる、でも他のひとには分からないものを」 「でしょうね」  でも、僕には津坂さん/水零が設定しそうなパスワードに心当たりはまるでなかった。考えられる可能性はふたつだ。津坂さんが、実は僕にも知られたいなんて思っていない、という可能性がひとつ。でも、その可能性については考えても仕方がない。だったら何もせずに諦めるしかないけれど、そんなつもりは今の僕にはないんだ。 「それで、もうひとつは?」 「あるいは、私は知っているけれど、私はそれが特別だと認識していないことがあるのかもしれません。それがもうひとつの可能性です」 「何かふたりのメモリーとか、かしら? 初めてデートをした日とか場所とか」 「ですから、僕はただの」 「嘘をおっしゃい。分かってるんですから」  たぶんご理解されているものとは違います、僕は力なく反論した。想像力だけが僕の武器だったはずなのに、津坂さん/水零が何を考えていたのか僕には全然分かっていなかった。僕が分かる予定のパスワードだって、まだ分からない。今の僕が何を言っても、説得力は全然ないだろう。  あなたたちはホームページで知り合ったんでしょう、と津坂さんの母親は言った。汚らわしい、とその視線が語っていた。被害妄想かもしれないけど、ネガティブなメッセージを発していたのは間違いないと思う。インターネットなんて、縁のない大人にとってはそのくらいの理解だ。出会い系サイトで未成年と淫行とか、匿名掲示板で犯罪予告とか、ファイル交換ソフトで個人情報流出とか。僕たちがインターネットのおかげで、どのくらいかろうじて生き延びられたかなんて、想像もできないだろう。 「失礼ですが、どこまで御存知なんでしょうか」 「あの子のペンネームは水に零と書いて<ミオ>だとか、その語源が<アモーレ・ミオ>だとか、あなたが知りたいのはそういうこと?」  アモーレ・ミオ(私を愛して)だったんですか、と僕は聞き返した。そんなこと僕は知らなかった。というか、<ミオ>って漢字は違うけど、津坂さんの本名じゃないか。 「パスワードではなかったわよ。ログイン名がミオ、パスワードがアモーレ。毎日、ログインするたびに愛を求めるなんて、あの子らしいと思ったけど」  津坂さんのことはお嫌いなんですか。口元まででかかった質問を僕は飲み込んだ。他人が聞いていいことではないと思ったからだ。それに、家庭内の不和なんて、ありふれた現代風景だ。聞いたって僕には関係がない。少なくとも津坂さんがどう思っていたのかを僕はもう知っている。それだけで十分、おつりがくる。  確かにログイン名は水零かもしれない、と僕は思った。僕と彼女との共通の知識なのは間違いない。だとしたらパスワードは何だろう? 「あなたの名前は?」 「ハンドルネームで、瑞希、と名乗っていました」 「試してみたら?」  これでログインできたら笑い話だ、と僕は思った。でも、拒否する理由もなかった。できることは何でもしてみるべきだろう、タッチタイプでキーを叩く。ログインしています、短いメッセージを表示して画面が切り替わった。 「これだから近頃の若い子は」  津坂さんの母親は冗談の口調だったけれど、ログインできたら笑い話だとさっき思ったけれど、当事者の僕は全然笑えなかった。できることなら、このまま机に突っ伏したかった。反論の言葉もなかった。僕のハンドルネームがパスワードなんて、何を考えているんだ水零は。笑い話だ。ああもう。  マウスがないのが不便だったけど、この状況で贅沢も言えない。僕はキーボードショートカットで、最近使ったファイルを呼び出した。でも、表示されたのは(なし)というつれない文字だけだった。本当に使っていないということはまずないだろうから、消してあると考えるべきだろう。嫌な予感がした。  Internet Exploreのキャッシュも履歴も、残さない設定になっていた。Outlook Expressは、ダブルクリックするとアカウントの登録ウィザードが立ち上がった。プログラムメニューから、他のメールソフトを探しても、該当するようなものは見当たらなかった。Wordを立ち上げて、最近使った項目をチェックする。a:¥readme.txtとか、いらなさそうなファイル名ばかり残っていた。  マイドキュメントには、ウェーブファイルが並んでいた。テキスト系の文書はなかった。マイピクチャーもマイミュージックも空っぽだった。 「なにをしているの?」 「最近使ったファイルを探しているんです。メッセージを残しているなら文書ファイルだと思うんですが、この音楽ファイル、ひとつずつ聞いてみますか?」  歌なら聞きたくない、と彼女は言った。あなたがひとりのときに試してみたら?  マイドキュメント内、日付順でソートをかけてみることを思いついた。最後の更新は半月以上前だった。今の僕宛のメッセージを隠すには古すぎる気がする。今度は検索を開いて、総当たりで最近使ったファイルを調べた。システムファイルばかりで、めぼしいファイルはヒットしなかった。僕は首を振った。はずれだ。 「このところ使っていなかったようです。このアカウントがはずれ、ってだけだと思うんですが」 「あの子、いつもパソコンを使っていたわよ」 「ええ、なので、またログイン名とパスワード探しからやり直しです」  ウェブサイトは開店休業だった。でも、個人的にはメッセンジャーやチャットで、毎日のように交流があった。このパソコンを使っていたのは間違いないだろう。面倒くさいことを、と僕は思う。  今にして思えば、それもこれも、たぶん前兆だったんだろう。僕宛にメッセージは送られていたんだ。僕が気づけなかっただけで。 <僕にとって、歌うことが生きることで、生きることは歌うことなんです>  ウェブサイトの更新が止まっていた時点で、気づくべきだったんだ。きっと、彼女は生きることもできないんだって。それを僕に伝えて、助けを求めていたんだって。 「ひとつ、わたくしもお尋ねしてもいいかしら」 「私で分かることでしたら」 「サイトウ・カズミって、誰なんです?」  予想外の名前が出てきた。僕は口元に手を当てて、考えるふりをした。会社では聞かない名前ですが、と嘘にならないぎりぎりの答えを返す。目の前の、津坂さんの母親が急に威圧感を増したように僕は感じた。気づかないふりをした。 「その、サイトウ・カズミというのは、どんな方なんでしょうか」 「知らないわよ。会社ではないなら、インターネットではどうなの?」  聞いたことはありません、と僕は答えた。たぶん、インターネットでもサイトウ・カズミ名義は使っていないはずだ。もちろん同名の別人、という可能性もある。でも、この文脈でそれはないだろう。  僕は一時期、サイトウ・カズミを名乗っていたことがある。  僕の本名ミズキ・アサトをアルファベットで組み替えると、MIZUKI ASATO → SAITO KAZUMIになる。理想の僕はどこか別の場所にいて、現実の僕を見ている、とその頃の僕は考えていた。僕が理想を追いかけていた、ずっとずっと昔の話だ。  その時の理想の僕に、僕はサイトウ・カズミという名前をつけた。カズミならどうするだろう、いつもそう考えていた。ただ理想という概念を追いかけるより、サイトウ・カズミというキャラクターを追いかける方が理想に近づける気がした。想像力の中で、僕たちは友達だった。僕はカズミの判断を仰ぎ、カズミは僕を教え導いた。  でも、理想を追いかけることなんて、僕は何年も前に諦めてしまった。  今でも、たまにカズミのことを思い出す。まるで失った恋人のことを考えるように。僕はカズミにはなれなかった。カズミの側にいることもできなかった。どこかでカズミは僕を憐れんでいるかもしれない。僕に腹を立てているかもしれない。  でも、僕の理想のことだから、まだカズミは僕を諦めていないかもしれない。また僕が理想を追いかけて、カズミと再会する日を待っているかもしれない。  それがサイトウ・カズミだ。こんなこと説明できるはずがないじゃないか。津坂さんの母親は不服そうだったけれど、それ以上は何も言わなかった。  さっきの音楽ファイル、全部聞いてみてもいいですか。僕は次の一手を彼女に提案した。他に手がかりがない今、できることは全部試してみるべきだろうと思ったからだ。お好きなように、と彼女は答えた。わたしはこれで失礼するから。 「お帰りですか?」 「あの子の歌は聴きたくないの、悪いけど。何かあったら、また携帯にでも連絡を頂戴」 「どうして歌はお聴きになりたくないのか、お尋ねしてもよろしいですか?」  立ち入ったことを、あえて僕は尋ねた。彼女は短く「個人的価値観の相違」と答えた。分からないけれど、言いたくない理由があるんだろう。僕だってサイトウ・カズミについては隠している。これ以上のことを聞き出すのは無理だった。  彼女は領収書を持って立ち上がった。儀礼的に僕はあわてて「ここは私が」と主張する。面倒くさそうに彼女は手を振って、僕の抵抗を無視した。娘と同じ年頃の若造相手なら、そんな扱いだろう。 「そういえば、どうして津坂さんは自分のことを<僕>って言うんでしょう?」  思いついて、僕は彼女に尋ねた。帰り際の彼女は振り向いて、僕の顔を見つめた。 「<僕>?」  彼女は心底、不思議そうな顔をした。何か間違ったことを言っただろうか、不安になるくらい不思議そうな顔が僕を見下していた。 「あの子は<わたし>って言わないかしら?」  と、言われても僕は「僕」と自分のことを呼ぶ津坂さんをさんざん見ていた。もちろん仕事をしている時は<わたし>だった。でも、仕事以外では<僕>と使い分けていた。最初は違和感があったから覚えている。すぐに馴染んでしまったから、そういうものだと思っていたけれど、二十代後半の社会人の女性が<僕>って、他で聞いたことがない。  そして、水零もずっと一人称は「僕」だった。ミサト・アキのキャラクター設定を僕少女にするときに、イメージ元が水零だって露骨に分かりすぎるんじゃないか、と心配したものだ。別に津坂さん/水零の性格を反映させようと思った訳ではないけれど、自分のことを僕って言う女の子のって、なんか可愛いじゃないか。 「あの子は、中学生の頃から社交界で生きているのよ。女性の自称は<わたし>もしくは<わたくし>しかないの。お分かり?」 「その反動でプライベートでは僕、ってことでしょうか?」 「わたくしは聞いたことないわよ。もしあの子が自分のことを<僕>なんて呼んでいるなら、それは幼児退行か何かじゃないかしら?」  僕は引き止めた詫びを言って、津坂さんの母親と別れた。盲点、と僕は思った。僕の前だけか、津坂さんが自分のことを「僕」と呼んでいたのは。気づけよ僕、こんな分かりやすい手がかりが提示されているなら。ふたりの僕少女が身近にいたから、それなりに流行でもしているのかと思っていた。同一人物だったってだけのことか。  パソコンを開いて、もう一度電源を入れた。ログイン名<僕>、パスワードなし。  おなじみの「ログインしています」表示を見ながら、僕は深く息を吐いた。津坂さんらしいというか、水零らしいというか。なんて分かりやすいんだ。なんでそれに僕は気づかないんだ。  壁紙に、いつかの写真が使われていた。僕と津坂さんの映っている、六年ちょっと前の飲み会の写真。この春、津坂さんの机の引き出しに入っていたのを発見した、あれと同じ写真だ。今でも入っているのかどうかは知らない。あの後、僕は何もなかったふりを通した。津坂さんも何も言わなかった。  写真の中の酔っぱらった津坂さん、不機嫌そうな僕、どちらも今より若かった。津坂さんの、こんなにご機嫌な顔は他で見たことがなかった。今、見れば分かる。普段の津坂さんの営業スマイルとは違う。酔いのチカラも借りて、無防備ないい顔をしていた。ああもう、どうしてリアルタイムに気づいてやれないんだよ。こんないい顔。  でも、気づいたら僕はどうしただろう。津坂さんがいい笑顔をしていると認識したら、僕は津坂さんのことをより遠いひとだと思っただけかもしれない。たぶん僕は津坂さんから遠ざかっただろう。あの頃の僕は心の扉を閉めて、死ぬことについてだけを考えていた。素敵な笑顔なんて、僕の中に受け入れる余地はなかったんだ。  今、津坂さんは生死の境をさまよっている。今だから、僕は津坂さんの笑顔に気づくことができるのかもしれない。僕の心の扉の内側に、今、僕は津坂さんを感じる。命を懸けて、津坂さんは僕の扉の内側まで入ってきたんだ。僕が今まで頭で考えていたことなんて、もう全部どうでもいい。  もちろん津坂さんは戻ってくる、僕はそう信じている。そう考えないと、全部無意味になってしまう。  戻ってきたら、僕はどうするんだろう。それは津坂さんが意識を取り戻す前に、考えておくべきことのように思えた。また僕は扉を閉めて他人に戻るのか。それとも、違う僕になって津坂さんと向き合うのか。そんな、死んで生き返るようなことが僕にできるだろうか。でも、僕は津坂さんに生き返ることを要求している。  物語なら記憶喪失だな、と僕は思った。目を覚ました津坂さんは何も覚えていなくて、悪い過去は思い出さなくてもいいよとか言いながら僕とハッピーエンドだ。それが一番、物語をまとめあげる上で楽だろう。  たぶん、現実ではそんなに都合のいいことは起きない。  最近使った項目の中に「瑞希へ」というファイルが入っていた。これで終わりじゃなかったら笑うぞ、と思いながらクリックすると、ワープロソフトの一太郎が起動して、パスワードを求めるメッセージが表示された。何を考えてるんだ、あのひとは。ひとりになった僕は遠慮なく頭を抱えて、机に突っ伏した。そんなに笑い話がお好みですか。  瑞希、と再び僕は入力した。もちろんはずれだった。  恥ずかしくなって、きょろきょろと周囲を見る。もちろん誰も僕のことなんて見てはいなかった。僕が赤くなっているのは、ただの僕の自意識過剰だ。咳払いをして落ち着こうとする。パスワードに僕の名前な訳がないだろう、恋人でもないのに。  アモーレ・ミオ、と僕は口にしてみた。それもパスワードではなかった。考えてみれば、それは津坂さんが言わなさそうなフレーズだった。そう思っていたかもしれない。でも、それは口にするような言葉じゃない。彼女には歌があった。言葉にならない声を、歌詞のない歌に託していた。 「もうじき僕は歌わない。」と僕はキーを叩いた。約束の歌詞を僕はまだ書いていなかった。水零が初めて言葉に乗せて歌う曲の歌詞なんて、簡単には書けない。でも、書くつもりだった。その気持ちを僕はまだ失っていない。水零だって待っていてくれたんじゃなかったのか? 次の一歩はここにあるって、思っていたんじゃなかったのか?  津坂さん、と呼びかけるべきなのか、水零と呼ぶべきなのか、僕にはよく分からない。どちらも、同じあなただ。でも、同じあなたじゃない。あなたは、僕に何を望んでいたんですか?  パスワードが認証されて、画面に隠されていた文字が表示された。「日記は読まれるために書くものですよ」と、水零は昔、僕に語ったことがあった。水零はこんな日が来ることを予想していたんだろうか。僕はひとつ息を吐いて、トラックパッドに指を移した。  ファイルの中身は、おとといの日曜日に書かれた僕宛の遺言だった。生命維持装置を外してほしい、と津坂さんは書いていた。全部予定通りか、と僕は思った。倒れることも、その先、僕がこの文章を読むことも。 「これを君が読んでいるということは、僕はうまくやったんでしょう。僕はきっと、やればできる子です。たぶん、自発呼吸くらい止められるはずです。なにしろ<うたうたい>にとって、呼吸は唯一の武器ですからね。  君に迷惑をかけるのは、申し訳なく思っています。  でも、このくらい、許してくれますよね?  もし僕がうまくやっていたら、もう僕はそちらにはいないはずです。でも、へまをしたら、意識を失って入院とかしてるかもしれません。呼吸くらい、機械でなんとかできますからね。マウス・トゥ・マウスの人工呼吸法だってあるし。  これは、もし僕がへまをした場合のお願いです。  生命維持装置で僕を生かすことは無意味です。たとえ僕が命をつなぐことになっても、意識を回復したら僕は同じことを繰り返します。だから、やめてください。  僕は、疲れたんです。もう、呼吸をする元気もないんです。  君にしか、分かってもらえないと思います。でも、君は分かってくれるはずです。お願いします。水零より瑞希へ、愛を込めて。」  読み返す元気はなかった。僕は一太郎の履歴から、適当に次のファイルを開いた。何を選んだって何かには行き当たるだろうと思った。「愛を込めて」だって。ただの手紙を締めるための常套句に僕は唇を歪めた。僕は津坂さんにとって、どんな存在だったんだろう。津坂さんが疲れたことは分かった。僕なら分かるだろうと思っていたこともよく分かった。でも、結局、僕が知りたいようなことは何も書いていないじゃないか。  次に開いたファイルには見覚えがあった。画像が貼り付けてあって、フォントを変えた文字が踊っていて、いつか社内に出回った怪文書だった。「津坂は誰とでも寝る売女だ」。  何かを考えなければいけないのに、頭はまったく働かなかった。  可能性はふたつあった。津坂さんが作成者から送られたデータを保存している可能性がひとつ、津坂さん自身が作成者である可能性がひとつ。もちろん、僕だって見た瞬間から答えは分かっていた。でも、認めたくなかった。  僕は一太郎を終了して、エクスプローラーからファイルの場所をたどった。怪文書、という分かりやすいファイルの他に、JPEG形式のデジカメ画像ファイルが多数保存されていた。僕はプレビューを見ただけでフォルダを閉じた。裸の津坂さんが、裸の誰かと絡み合っている写真だった。そんな写真は見たくなかった。全然、見たくなかった。  何を感じたらいいのかも僕には分からなかった。どれだけの痴態が映っているんだろう。たくさんだ、と僕は思った。津坂さんもそう思った、と思いたい。こんなこと、もうたくさんだ。  津坂さんの性格を考えたら、怪文書はきっと全部本当のことが書いてあったんだと思う。本当に津坂さんは誰とでも寝て、社内の多くの方々と関係を持っていたんだろう。  頭を振って、僕は息を吐いた。全然働かない頭に何か違和感が残っていた。他に見るべきものがないか、マイドキュメントのファイル名を調べながら違和感の正体について僕は考えた。そして気づいた。気づかなければよかった。  誰が撮ったんだ、この写真は?  津坂さんでも、相手の男性(一部に女性を含むかもしれない)でもなかった。誰かが撮影していた。セルフタイマーという方法もあるけれど、誰かがその場にいて、カメラを向けていたと考える方が自然な写真だった。その状況の異常さは、僕の想像を超えていた。津坂さんが水零と名乗ってインターネット上で僕をからかっている、というくらいの嘘なら分かる。でも、怪文書を信じるなら、この件の相手は社内の有力者たちだ。撮影される側も気づいているに違いない状況で、社内の有力者たちと性交渉を繰り返す津坂さん、それを撮影する誰か。なんなんだ、それは。  マイドキュメントに含まれるファイルには、他に手がかりになりそうなものはなかった。僕は更新日時順で全ファイル対象の検索をかけてみた。昨日の真夜中、というのが一番上に来た。ファイル名は「日記」だった。  また話がおかしくなる。僕は首を振った。やめてくれよ、小さく呟く。  僕はWindowsの時計を確かめた。日付の間違いだと思いたかった。でも、時計は正しく動いていた。昨日の真夜中に、誰かがこのパソコンを立ち上げて、日記にアクセスしたんだ。そして何かを更新して、保存したんだ。  昨日の夜に電話をかけた時、このパソコンを見つけてくださったのは津坂さんの母親だった。その彼女が、今日、僕にこのパソコンを渡してくれた。誰がやったのかなんて考えるまでもなかった。でも、理由は?  僕には分からなかった。分かる訳がなかった。津坂さんが誰とでも寝る理由も、その写真を誰かが撮影している理由も、津坂さんの日記を他の誰かが更新している理由も、それを僕が見ている理由も。津坂さんを叩き起こして問いつめたい、と僕は思った。でも、そんなことができるはずがない。何が本当のことなのか、もう僕には分からなかった。「死にたい」と書いたのだって、津坂さんの本心なのかどうか。  念のため開いてみた「日記」は、きちんと日記のようなことが書いてあった。日付順で、寝た相手の名前や、その感想が書いてあった。上手下手とか、大小とか、僕の知っている津坂さんが書かなさそうなことが。そして、一人称が「わたし」だった。それだけで偽物と決めつけるには根拠が弱いかもしれない。でも、これを津坂さんの本音だと信じる根拠もなかった。津坂さん/水零といえば「僕」だ。少なくとも、僕の前ではずっと「僕」だった。日記にだけ「わたし」と書く理由が思いつかなかった。 「どうするんだよ、僕」  カズミ、と僕は思った。僕はどうしたらいいんだろう。犯人探しを続けるのか? でも、津坂さんの日記さえ信用できないとなると、もうパソコンでこれ以上の調べものは無意味だ。後は僕が何を信じて、どうしたいのかに全部かかっている。 「本当に、何も信じられないのかな? きみは津坂さんからは逃げ回っていたけど、水零とは本音をぶつけあう仲だったじゃないか。彼女が一生懸命書いたものなら、本物かどうか見分けられない?」  ものかき、なんだからさ。カズミは僕にそう言うと嫌みのない顔で笑った。きみにならできるはずだよ。それは挑発だった。僕は目を閉じて、心を澄ませた。カズミにできるはずだと言われると、できる気がした。何年も忘れていた気持ちだった。  昔、僕にも何かを信じている時期があった。あの頃は、たとえば恋だって信じていた。これは、その頃の気持ちだった。なくしたはずの気持ち。世界に奇跡が起きていた頃の気持ちだった。  「瑞希へ」は信用できる、と僕は思った。内容も僕の知っている水零の書きそうなことだ。文面も水零が一生懸命に書いた文章の匂いがする。「愛を込めて」なんて冗談を僕に書いてくるのは水零くらいだ。その歪んだセンスは信頼できる。間違いない。  次の問題は、だったらどうするか、だった。人工呼吸器を止めるのか。津坂さん/水零の希望どおり、そうするのか。僕がマウス・トゥ・マウスの人工呼吸で命をつないだのに、僕が人工呼吸器を止めるのか。  僕はどうしたいんだ、と僕は考える。  叶うことならやり直したい、と僕は思った。六年くらい前、あの飲み会の夜から。今の僕なら違うことができるかもしれない。そうすれば、違う形で今を迎えられているかもしれない。  でも、そんなのは無理だ。  僕はずっと死にたいと思って生きてきた。津坂さんは死のうとしている。僕はこのまま、明日もあさっても生き続けるだろう。誰がいても、いなくても。それが現実だ。今の僕にできるのは、津坂さんを殺すか、このまま何もなかったことにするか、どちらかしかない。臆病な僕には自殺をすることもできないんだ。  ここまで来て、まだ逃げたいと思っている自分に僕は気づいた。自殺なんて最低の逃げだ。津坂さんは僕に決断を迫っていた。自分の命を懸けて、僕に向き合うことを迫っていた。一方的に命を懸けて、一方的に要求をぶつけてくるなんて、ひどい話だった。  でも、僕は津坂さんの望みを叶えたいと思った。今まで、ずっと何にも気づいてあげられなかった。ずっとメッセージは送られていたのに、僕はずっと逃げ続けていた。もう取り返しはつかないかもしれない。これが最後かもしれない。でも、僕が気づいた証拠を津坂さんに示したかった。  でも、それは僕が彼女の人工呼吸器を止める、ということだった。僕が彼女を殺すということだった。 「これが物語なら?」とカズミは言った。  津坂さんが自分の意志で呼吸を止めているんだとしたら、その意思を変えることができれば、呼吸は戻ってくるかもしれない。呼吸を止めた理由が疲れたことなら、そして疲れた理由が僕の無理解なら、僕が彼女を理解できれば、彼女が呼吸を止める理由はなくなるかもしれない。物語なら、僕が彼女を理解できれば、彼女は戻ってくるだろう。  それは、この現実に残された最後の希望かもしれない、と僕は思った。  でも、僕は津坂さん/水零を理解できているんだろうか。津坂さん/水零が望んでいるのは、本当に僕が人工呼吸器を止めることなんだろうか。それとも、違う何かの代わりに、言えない何かの代わりに、人工呼吸器を止めることを要求しているんだろうか。たとえば誰とでも寝る現実を変えるために、僕を使おうとしているだけかもしれない。だとしたら人工呼吸器を止めたら僕はただのひとごろしだ。間違えるな、と僕は思った。僕が誰かに求められたりしたことが、今までに一度でもあったか?  歓迎会の夜、終電が過ぎた後のファミレスで、津坂さんは僕に「君が最初で最後の希望だったんです」と言った。まだ僕は希望だろうか。まだ津坂さんは、僕に何かを期待しているだろうか。あのとき津坂さんが期待していたのは「僕を僕として見て欲しい。」ということだけだと言っていた。まだ変わっていないんだろうか。 「これが物語なら」  僕は首を振って、カズミのことを考えるのを止めた。僕はカズミじゃない。カズミにはなれない。考えたってどうしようもないんだ。パソコンを終了して、残っていたコーヒーを飲み干した。香りも何もなく、ただ色水の味がした。死んでしまえ、と僕は思った。そんなに死にたいなら、津坂さんも水零も死んでしまえ。そして津坂さんの笑顔が見られなくなるなら、もう水零の歌声が聴けなくなるなら、僕も死んでしまえばいいんだ。今なら自殺だってできるかもしれない、そう思った。  そんなことを津坂さん/水零が望む訳がないって、気づかなければもう少し楽だったかもしれない。僕は机を小さく叩いた。僕にできることは、それだけだった。僕には想像力があった。ただ行動力だけがいつも足りなかった。  津坂さんの病室を訪ねると、母親が枕元の丸イスで、娘の顔を見下ろしていた。首を絞めたそうに見えた。娘の歌声を聴きたくないから帰ったんじゃなかったのか、と思ったけれど、もちろんそんなこと聞けなかった。彼女は今どんな精神状態なんだろう、と僕は思った。いつもの不機嫌そうな視線が僕に向けられていた。僕もけっこう不機嫌ですが何か、と僕は思った。視線を返すとケンカになりそうだった。 「探しものは見つかったの?」 「よくわかりません」  しばらく津坂さんと二人きりにしてくれませんか、と僕は津坂さん母に依頼した。無言のうちにいろいろ聞かれた気がするけど、気づかないふりをした。みんな言いたいことがあるなら口で言うべきなんだ。 「あなたが責任を取ってくれるのかしら?」  無言のつばぜり合いは僕の勝ちだった。彼女は僕と戦う気をなくしていた。喜ぶ気にはなれなかったけれど、僕のしたいことをするためにはその方が都合がよかった。どうせ後には何も残らない。この場だけ過ぎていけば、それでよかった。  つばを飲み込む音が、大きく響いた。僕は小さくうなずいた。今、僕がどんな顔をしているのか、見てみたい気がする。そう思った。こんな顔をすることは、もう二度とないかもしれない。  どうぞご自由に、と言い残して、彼女は部屋を出た。  彼女が扉を閉めるのを確認して、僕は内側から部屋に鍵をかけた。深呼吸を一回、二回。僕は津坂さんの枕元に立った。津坂さんの寝顔は穏やかだった。  そんなにも現実は絶望的でしたか、と僕は静かに語りかけた。津坂さんが呼吸を止めたいくらいの現実に、僕はどのくらい含まれていたんだろう。僕のせいで呼吸を止めたくなった、とは日記にも書いていなかった。でも、もちろん僕が読む前提の日記に、本当のことが全部書いてあったなんて思えなかった。悪いのは全部僕なんだろう。いつもの現実逃避に、僕はそう思うことにした。だって、他に僕の気持ちの整理のつけようがなかった。  ここまで僕が殺したようなものなら、いっそ全部、僕が殺した方がシンプルだ。それが僕の結論だった。津坂さんもそう思ってくれるだろう、と僕は思った。途中経過はともかく、結論部分は津坂さんの書いて残した通りだ。  人工呼吸器の構造はよく分からなかった。でも、とにかく外せばいいんだろう。これから僕がしようとしていることに、後先考える必要はなかった。自暴自棄という言葉が脳裏をかすめた。こんなにも冷静なのは、きっと心が感じることを放棄しているせいだ。  マウスピースを外すと、機械が酸素を送り出す音がひときわ大きく響いた。どこかでモニターしているんだろう、何かの警報音が鳴り響く。  でも、僕は不思議なくらい静かな気持ちでいた。自分の心臓の鼓動が聞こえる。津坂さんの心臓の鼓動が聞こえる。ふたつの音がシンクロしているのが分かる。こんなにも騒々しい部屋の中で、ふたつの音だけが聞こえる。  僕は津坂さんの顔に、顔を近づけた。呼吸は止まったままだった。  そんなにも現実は絶望的でしたか、と僕は繰り返す。津坂さんの口元は笑っていた。  僕は腕時計を見た。呼吸停止から五分を過ぎれば、たぶん何があっても戻ってこられないことを僕は知っていた。僕は津坂さんの頬に手を添えて、呼吸の止まっている彼女の唇に、そっと唇を重ねた。  その唇は暖かかった。  僕の手は、生まれたての赤子に触れるように津坂さんの髪をなでていた。その手が頬に触れ、首をすべり、胸の大きさを確かめた。想像したほどの大きさではなかった。仰向けで寝ているからかもしれないし、ただ、僕が過剰な期待をしていたからかもしれない。何を期待していたんだろう、と僕は思った。津坂さんの胸に僕はいったい何を期待していたんだろう?  脇腹から腰のラインをなぞりながら、僕は一歩、足下へ移動した。布団の上から、足に添って、つま先まで。津坂さんの顔には、ずっと同じ笑みが浮かんでいた。  うつむいた僕の顔から、涙がこぼれた。  僕は涙を流していた。  不意に、僕は津坂さん/水零に腹を立てていることに気づいた。それまで気づかなかった僕の鈍さに、絶望的な気分になった。そうじゃないだろ、小さく声にする。そうじゃないだろう、今度はもう少し大きな声。  津坂さんは、こんなふうにいなくなるべきじゃないんだ。  違う、僕は、津坂さんを、こんなふうに失いたくないんだ。  僕は津坂さんの肩に手をかける。  乱暴に揺さぶるべきだろうか、手荒に抱きしめるべきだろうか。  どちらも僕らしくない、と僕は思った。勢いに任せて、どちらかの行動をとるべきだった。考えてしまったらいつもの僕だった。何もできない、いつもの僕だった。  激情は長くは続かなかった。  呼吸を止めることを決めたのは津坂さんだ。その決定を、僕はどうすることもできない。津坂さんに何かを要求する権利なんて僕にはない。もう、どうにもならないんだ。  今更、津坂さんのことを僕が失いたくないと思っても、どうしようもないんだ。 「津坂さん」  僕は、僕にふさわしい静かな声で津坂さんに語りかけた。これが僕の話す最後の言葉になればいいと思いながら語りかけた。でも、明日からも同じように僕はしゃべり続けるだろう。昨日と同じ今日、今日と同じ明日。何も変わらない。 「どうも僕は、津坂さんのことが好きだったみたいですよ」  ただ、明日からは津坂さんだけがいない。そんなのってないじゃないかと僕は思った。津坂さん、あなたは本当に、そんな明日を望んでいるのか?  もう一度、僕は津坂さんの唇にキスをした。僕の涙の味がした。津坂さんの顔は、僕の涙でぬれていた。津坂さんは笑っていた。いつも通り笑っていた。  僕が王子様なら、と僕は思った。このキスで津坂さんは目を覚ますのに。目を覚まして結ばれて<しあわせにくらしましたとさ、めでたしめでたし>なのに。  僕は手を伸ばして、津坂さんの頬に添えた。  津坂さんは手を伸ばして、僕の頬に添えた。  僕は津坂さんの顔を見た。津坂さんの薄く開いた目が、僕の目を見ていた。その目は、僕の奥の何かを見ていた。何だろう、と僕は思った。そこに何があるんだろう? 「津坂さん?」  おかえりなさい、と津坂さんは言った。それは僕の台詞です、と僕は答えた。僕の方が声はかすれていた。津坂さんは小さくつばを飲み込んで息を吐いた。何もなかったように呼吸をしていた。  何か悪い夢を見ていたような気がします、と津坂さんは言った。さっきまで呼吸をしていなかったひとの声ではなかった。まるで、ただの寝起きのような声だった。小さく咳をして、のどの調子を整える。 「ああ、でもまだ夢の続きですか。君がそこにいて、僕のために泣いているなんて」  僕は津坂さんを抱きしめた。だって、他にできることは何もないじゃないか。 「おかえりなさい」  ただいま戻りました、と静かに津坂さんは言った。  部屋の外から喧噪、騒々しい足音や怒鳴り声が聞こえてきた。不思議そうな顔をする津坂さんに、僕は簡単に事情を説明した。ここは病院で、津坂さんはさっきまで意識不明の重体だったこと。人工呼吸器を僕が外したから、たぶん医者に緊急事態の連絡が行っていて、おまけに扉には鍵がかかっている。 「鍵?」 「さっき僕がかけたから」 「何をするつもりだったんですか、僕と密室でふたりきりになって」  津坂さんは僕の首に腕を回して、悪戯な声で笑った。いつもの感情が分からない微笑ではなかった。小学生みたいな、分かりやすい喜びの声。このひとは生まれ変わったんだ、と僕は思った。可愛い。どきどきする。  死んだり生まれ変わったり、と僕は答えた。僕は津坂さんの頭をくしゃくしゃと撫でて、津坂さんと同じ声で笑った。生まれ変わったのは僕も同じかもしれない、と僕は思った。なんか、いろいろどうでもよかった。だって、津坂さんが生まれ変わってここにいて、息をしているんだ。それ以上、誰が、何を望むことがある?  僕たちは何度も抱き合って、キスをしながら、ふたりで笑い合った。どさくさにまぎれて触れてみた津坂さんの胸は、柔らかくて、想像以上に素敵だった。生きているってすばらしい、と僕は思った。何を想像していたんだ、おまえは。 「とーへんぼくは卒業ですか?」と津坂さんは言った。 「嘘つき。」と僕は答えた。  津坂さんは、舌を出して笑った。女の子はみんな嘘つきです、笑いながら言う。  僕の唐変木は変わらないだろう、と僕は思う。津坂さんの嘘つきも、きっと変わらない。それなのに、そのままで僕たちは笑い合える。こんなにも無邪気に。こんなにも自然に。  ふたりの未来、を僕は想像した。誰かが側にいて、分かり合ったり嘘をつきあったり、触れ合ったりキスをしたり死んだり生まれ変わったりしながら生きていく、そんな普通の未来。そういうのも悪くない、と僕は思った。津坂さんとなら、そんな未来を想像できるかもしれない。 「本当に死ぬつもりだったんですか?」と僕は尋ねた。津坂さんは小さく頷いた。 「他に方法を思いつかなかったんです。だって、君、全然気づかないんだもん」 「方法?」  メッセージを伝えたかったんです、と津坂さんは言った。死ななくても伝えられるならその方が良かったんですけど、他に思いつかなかったんです。水零の歌では届かなかった。僕が隣の係に何年いても、気づいてもらえなかったから。 「メッセージって」 「パソコンに書いたの、読んでくれたんじゃなかったんですか?」  読んだけど書いてありましたか、と僕は問い返した。疲れた、生命維持装置は止めて欲しい、それだけしか書いていなかったはずだ。  君のことが好きですって書いたのに、と津坂さんは言った。 「そんなこと書いてありましたか?」 「書きましたよ。行間にたくさん」  僕は津坂さんを抱きしめて、好きです、と伝えた。ああもう、この馬鹿。なんで行間を読まないと分からないようにしか書かないんだ、このひとは。死を賭してもそこまで止まりですか。いくら僕が逃げ回っていたからって、つかまえて直接、告白でもしてくれればいいじゃないか。 「実はこれも全部、津坂さんの手のひらの上ですか?」 「好きだって言ってもらわなければ戻ってこないつもりでした。君に殺してもらえば、それだけでもいいかな、って」  今日から毎日「好きだ」って言いますから死なないでください、と僕は言った。キスもつけてくれたら考えます、と津坂さんは答えた。僕たちはもう一度キスをした。そして、もう一度キスをした。  顔を見合わせて、ふたりで笑う。笑う。笑う。子どもみたいに、僕たちはいつまでも笑い続けていた。まるで楽園みたいだ、と僕は思った。そのうち追放されて、原罪を背負って生きることになるのかもしれない。でも、そんなことは後で考えよう、と僕は思った。僕は何も変わらない。問題はいつも通り、全部先送りだ。  たぶん、それでいいんだ。  あなたは、もう少し先まで話を聞きたがるかもしれない。過去形の物語を語ってきた僕が今、どこにいて何をしているのか。でも、本当はここまでで終わりの話だ。僕がキスをして津坂さんが目を覚ます話。それ以外は全部、おまけみたいなものだ。  でも、最後に少し語ろうと思う。多少、時間に余裕がある。  津坂さんは、そのまま会社を退職した。体調不良著シク勤務継続スルコト能ワズ、というのが理由だったけれど、どう見ても元気だった。入院だって、ほとんど懲罰で指定された一週間を三日に自主短縮して帰ってしまったくらいだ。それ以来、実家には帰りたくないとかいって僕の部屋に隠れている。 「今までの暮らしを続けたら死んじゃうって医者に言われているんです」  その顔は今までで一番元気そうだった、と病室で面会した課長は後で僕に語った。若いっていいもんだな。  いいものですよ、と僕は答えた。  退職者の残していく荷物を整理するのも庶務の仕事だった。津坂さんの机の中には、六年前の写真しか私物はなかった。荷物の整理といっても簡単なものだ。ちなみに僕の机の中には私物は何ひとつ入っていない。  荷物を片付けた僕は、課長席へあいさつに出向いた。暇そうな課長は僕に椅子をすすめてくれた。少し悩んでから、僕は座ることにした。課長とふたりで話をする機会なんて、滅多にないことだ。 「引っ越し準備はもう終わったのか。時間に合わせて作業をするのも庶務の仕事だぞ?」 「いいんです。もう、それも卒業ですから」  お世話になりました、と僕は立ち上がって頭を下げた。来週の月曜日付の人事異動で、僕は北海道にある系列子会社に転勤することになっていた。津坂さんをこの街から連れて出たいと思って出した異動申請が通ったせいだ。即日受理。なんなんだろう、この会社は。  課長ががんばってくれたからだと人事課は教えてくれた。たぶん、こんなやつ本社にいても仕方がないから飛ばしてしまえ、とか応援してくれたんだろうと僕は思っているけれど、もちろん課長は舞台裏までは教えてくれない。僕に分かるのは、僕が北海道勤務になることだけだ。 「北海道はいいぞ。鍛えられて戻ってこい」 「別に戻るつもりはないんですが」 「<つもり>の話なら、津坂女史と結婚するつもりだってなかっただろう?」  まだ結婚はしません、と赤くなって僕は答えた。その年齢でおつきあいをするんだから一緒だろ、と課長は笑った。子どもは早い方がいいぞ。 「おつきあいだって始めたばかりです。子どもなんて」 「名付け親が必要だったらおれを呼べよ。ふたりともおれの子どもみたいなものなんだからな」  ありがとうございます、と僕は頭を下げた。でもそんな予定はないんですってば。  津坂さんは、たぶんしばらくは、そういうことをしない方がいいだろうと僕は思う。いったい津坂さんが、今までどれだけの負荷をその身体にかけてきたのかと思うと、僕は暗い気持ちになる。しばらくお休みだ。子どもなんていなくても僕は構わない。 「まあ、お前が津坂女史を大事にしたいのは分かるがな。愛があればたいていのことは大丈夫なようにできているものだぞ?」  世界中の不妊夫婦を敵に回す発言ですね、と僕は反論する。もちろん課長は全然動じなかった。おまえたちの門出が応援できればそれでいいのさ、誰かに祝福されて旅立ちたいだろう? 「なにしろ、ずいぶんとマイナスからのスタートだろ。津坂女史はこんな過去を背負ってるし、それでなくても逃避行ってのはきついものだ」 「課長は、ずっとご存知だったんですか?」 「創業者一族と外資系株主の対立は管理職なら常識だよ。創業者一族を経営陣から追放しようとする動きとか、逆に創業者一族が乾坤一擲の巻き返しを狙ってるとかな。  それはそれとして、津坂女史はおれの部下だ。部下の管理は上司の仕事だろ」  津坂さんは会社創業者の孫なんだそうだ。課長は餞別だとかもったいつけながら、わざわざ教えてくれた。父が役員だとは津坂さん本人から聞いていたけれど、そこまでの血縁だとは知らなかった。まあ、宣伝したくなる母親ではないだろうなあ、課長はやる気なさそうに言う。 「津坂女史の父親も、入社当初は将来を嘱望されるエリートだったんだが、まあ、あれに捕まってからは見る影もなかったな。悪いけど、みんな自分じゃなくて良かった、と思ったものさ。分かるだろう?」  分かりません、と僕は答える。あまり分かりたい話ではない。 「会社中が兄弟だと言われていたよ。まさか娘で繰り返すとは思わなかったが」  誰かが止めるべきだったんだろうな、と課長は言った。津坂女史には可哀想な話だ。あの鬼婆も、趣味でやってるならまだ可愛いもんだが、全部会社のためだと思ってるんだよ。他に趣味はないのか、っての。 「最初は娘を有能な社員とくっつけて創業者一族に取り込んで、会社の発展のためにとか考えてたんだろう。そのくらいなら、まあ分かる話なんだが、どこかでボタンを掛け間違えたんだろうな」  あれも昔はいい女だったんだぞ、と課長は取り返しのつかない過去を懐かしむ声で言った。創業者の爺さんの娘でなければ、普通のしあわせな奥様になっただろうに。 「今でも美人だとは思うんですが」 「将来の義理の母親の悪口は言えないって? 美人だとはおれも思うがね、いい女ってのは、もっと違うもんだ。二十歳の小娘には二十歳の小娘の、五十路のおかみさんには五十路のおかみさんの良さがあるんだよ。外見だけならまだ三十代でも余裕でいけるだろうが、そんなのがいい女かね」 「何なんですか、あの方は?」 「会社のことを父親そのものだと思ってる、創業者の爺さんのひとり娘さ。初めて津坂女史を見た時は、おれは悪夢の再来だと思ったもんだが」  そう思った奴は多いだろうな、課長はくすくすと笑った。おまえくらいだぞ、普通に津坂女史と話ができたのは。 「もう全部分かってるんだよな?」 「たぶん、だいたいは」 「ということで犯人は津坂女史の母親、あの若作りの鬼婆だ。あれが裏で糸を引いて、津坂女史に<夜のお仕事>をさせたり、それを写真撮影したりしてたんだ。会社中が証人だぜ、お前以外」 「たとえば課長も、ですか?」 「おれは潔白だよ。正確には未遂だけどな、おれには無理だったね。後ろにあの鬼がいると思ったら冗談じゃない、亀さんは甲羅の中で嵐が過ぎるのを待つばかりだ」  全然格好よくないことを言って課長は胸を張った。たぶん、これから長い時間をかけて僕たちはそんな過去も乗り越えていかなきゃいけないんだろう。覚悟はあるけれど、それだけで足りるかどうかは分からない。今は、まだ僕たちには勢いがある。でもきっと、そんなものはすぐに失われるだろう。  まあ、お前たちなら大丈夫だ、がんばれ。最後は全然やる気のない激励のお言葉だった。僕はうなずいた。小難しい説教をもらって別れるより、全然、こっちの方が課長らしい。 「では、これで失礼します」 「落ち着いたら住所くらい教えろよ。ちゃんとパスポートもって遊びにいくから」  なつかしい冗談ですね、と僕は言った。多分僕たちは、課長に転居先は教えないだろうと思う。課長だってそれは分かっているだろう。でも、こういうときはお約束の言葉が必要なんだ。 「津坂女史は、北海道でまた就職するのか?」  わかりません、と僕は答える。未来のことなんて何も決まっていない。とりあえずは逃げるように北国へ、その先のことは追って考える。それが僕と津坂さんが考えた、二人の未来の第一歩だった。二歩目から先は一歩目を踏み出してから考える。なんとかなるだろう、と僕は思う。死んで生き返ったんだ、たいていのことはなんとかなるだろう。 「とりあえずは、うたうたい、ですね」 「うたうたい?」 「津坂さんは、歌をうたうひとなんですよ」  僕は笑った。北海道の広い空の下で、歌をうたいながら生きる津坂さんというのは、明るい未来そのもののような感じがする。歌をうたっていられたら、きっと、なんとかなるだろう。「もうじき僕は歌わない。」、と僕は思う。きっと僕たちは歌い続けるだろう。  水零は北海道の空の下でどんな歌をうたうんだろう。僕はどんなものを書くんだろう。まだ僕が何かを書き続けるのかどうか、僕は分からない。でも、水零が歌い続けるなら、僕も何かは書き続けるんじゃないかという気がする。  今なら「もうじき僕は歌わない。」を書けるかもしれない、と僕は思う。  そろそろ約束の時間になる。何気なく課長席の後ろの窓から外を見ると、津坂さんの母親の姿が見えた。タイトなラインの、袖のない黒いドレス姿だった。相変わらず年齢不詳で、周りにとけ込まない。最後くらい綺麗にまとめさせてよ、と僕は思う。でも、どうやら僕の人生は笑い話でできているみたいだ。 「ちゃんと逃げろよ。餞別代わりだ、おれが引き受けてやるよ」 「課長は、あの方とどんなご関係なんですか?」 「いい女といい男の関係なんてひとつだろ。昔、あれもいい女だったんだよ」  課長は僕の頭を叩くと、にやりと笑った。後はよろしくお願いします、言い残して僕は走り出した。津坂さんとは駅で待ち合わせている。その後、どこかで食事をして空港へ移動して飛行機で北海道へ。待ち合わせの時間まではあと少ししかない。たぶん津坂さんは先に来て僕を待っているだろう。  きっとこの先も物語は続いていく。夏の日差しの中へ駆け出しながら、僕は思う。でも、今は語る時間がない。この物語はここで終わりだ。積み残した課題や、回収に失敗した伏線はけっこうあるような気がする。でも、それは次回作のお楽しみにしよう。  携帯電話から、着うたに設定してある水零の歌声が流れ出す。顔を上げると、津坂さんは携帯電話を鳴らしながら僕に手を振っていた。僕はつまらないドラマのように息を切らして駆け寄った。津坂さんが差し出した手を、僕はそっと握った。体温みたいな都会の空気、雑踏の中で僕たちは息をしている。  いま僕はここにいる、と僕は思う。津坂さんもそう思ってくれるといいけど、と思う。僕たちはふたりで顔を合わせて、弾けるように笑った。一緒にいるだけで笑顔になれるひとがいるなんて知らなかった。物語の中だけの話だと思っていた。  まだ、僕には書くべき物語がある、と僕は思う。現実は物語みたいにできている。でも、この物語はここまでだ。あとは次回作にご期待ください。

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