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企画書「雨の中の庭」08/08/05 - (第二稿:8/15)  「僕」は目を見ると人の考えていることが分かる。だから、みんなが言葉と違うことを心の中で考えていることを知っている。もちろん「僕」もそうだ。だって、そうでもしないと生きていけない。でも、そうやって生きている「僕」は「僕」のことが好きになれない。みんなのことも嫌いだ。  家族も「僕」のことを気味悪がって近寄らない。中学校から引きこもりの弟には、部屋の扉越しに、「僕」みたいな兄がいたら恥ずかしくて外になんか出られるものか、と言われた。誰も「僕」と目を合わせようとしない。「僕」だって嘘つきはお断りだ。世の中、嘘つきばかりしかいない。  でも、高校時代に知り合ったユウキは違った。怖いくらい言葉と心の中が同じだった。だから言葉に説得力があった。まるで見てきたように断言する、そこに根拠はないはずなのに、みんな彼が言うとそれが正しいような気がした。そして、たいていの場合彼は正しかった。  そんなユウキは「僕」のことを気に入ってくれた。二度と起こらない奇跡だと「僕」は思った。「僕」とユウキ、それにユウキの恋人の真砂。高校生の「僕」は、三人でずっと遊んでいた。初めての、友達と呼べる友達だった。  真砂は、どこか人形を思わせるところのある女の子だった。高校生の女の子らしく浮ついたところもなく、あまり嘘をつかない代わりに心を動かすことも少なかった。どこか透明な存在だった。でも、ユウキといると、たまにくつろいだ表情で笑うことがあった。それはとても素敵な笑顔だった。彼女はまるで歴史が始まったときから一緒にいたみたいな顔をして、いつもユウキの隣にいた。  そんな幸せな時が長くは続かないことは分かっていた。ユウキはできるだけ早く街から出て行くと決めていた。この街にずっといたらダメになる。ユウキはそればかり口にしていた。  「僕」は、どうすればいいんだろう。ユウキと知り合ってから、ひとりのときはそればかり考えた。この街で生まれ育った「僕」にとって、この街にいることは自然なことだった。特にここから出て、行きたい場所もなかった。  高校三年生の秋、「僕」はユウキに一緒に東京へ行かないかと誘われた。「僕」は断った。ユウキがたった一人の友達でも、ついていく訳にはいかない。だってどこへ出て行っても、「僕」は何をしていいのか分からない。そんな「僕」がここから離れても、誰のためにもならないと思った。 「おまえたちみんな引きこもりかよ。どうするんだよ、こんな街にいて」 「時代の病気なんだよ。みんながユウキみたいに健康を指向してる訳じゃないんだ」 「先にあるのが健康かどうかなんて知らないけどさ」  四月になって、ユウキは東京の大学へ進学して、ひとりで暮らし始めた。真砂は地元の大学しか受けていなかった。国公立は落ちて滑り止めの私学だけ受かった。でも、そのことについて特に何も言わなかった。行きたい大学がある訳ではなく、ただ何かを先送りしたいだけだった。したいことがあってそれを目指しているのなんて、ユウキくらいだ。  「僕」たちは、ただ淡々とユウキの引越を手伝った。「僕」も真砂も、ユウキの引越どう受け止めていいのか分かっていなかった。 「遊びに来いよ。いつでも歓迎する」  ユウキの晴れやかな笑顔に、いつも通りの声で、新しい彼女ができたら紹介してね、と真砂は言った。「僕」は何も言えなかった。  ユウキに一緒に東京に行こうと誘われていたのは「僕」だけだった。真砂がユウキから言われていたのは、「好きにしろ、俺は出て行くから」だけだった。「僕」はそのことを、ゴールデンウイークに開催された高校の同窓会で真砂から聞かされた。真砂は怒っていた。正当な怒りだと思う。 「ついて行きたかった?」 「彼が望んでいないなら、ついて行きたくなんてない」  あなたがついて行けば良かったのに、と真砂は言った。心にもないことだと「僕」は目を見て知った。真砂は心にもないことをよく言う。でも、不思議と「僕」は真砂のことを嫌いにならなかった。  ユウキがいないと、高校の同窓会はまるでつまらなかった。彼なしでは居場所なんてどこにもなかった。それは真砂も同じだった。退屈をこらえて一次会の終わりまで残っていたのは、ただ積極的に別れを切り出す気にもなれなかっただけだ。居心地の悪い行き着けない居酒屋で、真砂はカクテル一杯で酔っぱらっていた。泣くでもなく暴れるでもなく、愉快になるでもなく美味しそうでもない。何の意味もない飲酒だった。「僕」は飲まないように逃げ回った。逃げ回るのには慣れている。  別れ際に真砂は「もう会わないでしょうけど」と言って、「僕」の目を見た。「僕」は何か言わないわけにはいかなかった。 「同じ街に住んでいるんだから、どこかで偶然会ったらお茶でもしようよ」 「いくら狭い街だからって、そんな偶然はないと思う」  「僕」は真砂の目を確認して、たぶんね、と答えた。そして「僕」と真砂は別れた。  ゴールデンウイークも過ぎると、大学にあふれていた新入生は、それぞれの居場所をみつけて散っていく。「僕」も居場所を探して、天文部の扉を叩いた。夜、星を見るのが「僕」は好きだった。どれだけ見ていても星は嘘をつかない。  でも、天文部はただのイベントサークルだった。星にかこつけて男女が仲良くなるための、よくある大学生のための夜遊びサークル。「僕」が見たいのは人間ではなかった。  でも「僕」はそこで、ステラという女の子と出会った。日本語は流暢にしゃべったけれど、名前のとおり日本人ではなかった。髪は銀色で瞳は青、白い肌。同じ人間だと思えないような不思議な存在感があってサークルでも浮いていた。元々この街は保守的なのだ。でも本人は何も気にしていなかった。あるいは、自分が浮いていることに気づいていなかったかもしれない。  ステラの目の奥には心が見えた。でも「僕」はそれが解読できなかった。そんなことは今までなかったから、「僕」はとても混乱した。外国人だから読めない、というものではなかった。言葉が通じない相手の目だって「僕」は読める。猫や犬だって読めるのに。  あなたは誰ですか? と聞きたかった。でも、そんなこと絶対に聞けない。そのためには「僕」が誰なのか説明しなきゃいけないだろう。そんなこと僕にはできない。親友のユウキにだって言えなかった。「僕」が他人の心を読むことができるって、説明したことがあるのは弟だけだ。そのせいで弟は引きこもりになった。彼は「僕」の顔が見られない。「僕」のせいで、誰の顔も見られなくなった。  ステラとは同じ授業をいくつも取っていて、教室でもよく顔を見かけた。まず見間違いようがなかったし、たいてい彼女は遠巻きにされて誰も近づかなかったから、「僕」からあいさつに行くのに抵抗はなかった。「僕」が近づくことに、彼女がどう思っていたのかはよく分からない。少なくとも迷惑そうではなかったけれど、あるいは何とも思っていなかったかもしれない。  同級生に、おまえ勇気あるな、と言われたこともある。彼女が日本語をしゃべれることは知れ渡っていたけれど、そんなレベルではなくステラは異物扱いだった。 「なんなんだろうな、あのプレッシャー。遠くから見てればゲームの中のお姫様みたいな顔してるんだけどな、ちょっと一般人じゃ近づけないね」 「僕だって一般人なんだけど?」 「あのエイリアンと普通に話ができる一般人がいてたまるか」  少なくとも彼は本心でしゃべっていたので、「僕」はそれ以上、何も言わないことにした。「僕」が一般人だなんて「僕」も信じてはいないけれど、積極的にそれを認めるつもりはなかった。  「僕」がステラと一緒に食事をする仲になるのに時間はかからなかった。大学生同士なら、一緒に食事に行くくらい普通だ。でも、「僕」の居心地は悪いままだった。彼女相手にはあまり上手くしゃべれなかったし、たまに挙動不審なこともしたと思う。なんとかして彼女の気持ちを知る方法はないかと考えたりもした。でも、たいていは空回りで終わった。  ステラと一緒にいて一番に感じるのは、彼女の健全さだった。まっすぐな目で「僕」を見るし、分からないことがあれば分からない、知りたいことがあれば知りたいと言う。それは「僕」には縁のない健全さだった。ルール違反の健全さ。たぶんそれが人々が彼女を敬遠する理由だろう、と「僕」は思った。  気持ちが塞ぐときや、何かしたいけど何も思いつかないとき。「僕」はたまにユウキに電話をかけて長話をした。ユウキは「僕」にとって、引っ越した後でもいちばん心許せる相手だった。東京暮らしでしゃべり方が変わっていたけれど、「僕」たちの関係は変わらなかった。彼が充実した日々を送っていることは声だけで分かった。ステラの話をすると彼は心底おもしろがった。おまえだって恋愛をしてみればいいんだ、と彼は言った。そんなんじゃない、と言っても聞く耳を持たなかった。  唯一、真砂の話をするときだけ、彼は落ち着かない声になった。遠距離が不安かと僕が聞くと、そんなんじゃないと彼は答えた。でも、どう「そんなんじゃない」のかは教えてくれなかった。 「なあ、真砂は変わらず元気にしてるか?」  ユウキはたまに、そんなことを「僕」に聞いた。どうして「僕」にそんなことが分かるのさ、「僕」はそのたびにそう答えた。  でも「僕」は時々、偶然を装って真砂に会いに行った。最初、彼女はとても驚いた顔をしたけれども、すぐに肩の力を抜いて「僕」の相手をしてくれた。まあ「僕」ならいいか、とその目が言っていた。彼女はあまり他人を信用しない方だけれど、それだけに彼女のさみしがりやな部分は充足されることが少なかった。「僕」は少なくとも、ユウキの次くらいには信頼されていたんじゃないかと思う。担保がユウキだから、多少「僕」の株がひとより高くても驚くには値しない。  でも、真砂と二人でいても話すことはないから、ただ黙ってお茶を飲んだり、一駅余分に歩いたりしただけだった。そしていつも「また偶然会ったら」と言って別れた。もちろん恋愛感情はなかった。ただ、そうしないと消化されない何かがあった。  そんな時間を必要としていたのは真砂も同じだった。偶然、真砂の方から「僕」に会いに来ることもあったし、ときどき内容のないメールが届くこともあった。メールになると真砂は饒舌だった。顔文字も入っていたし、文体もくだけていた。真砂も普通の女の子でもあるんだな、と「僕」は思った。考えてみれば当たり前のことだけれど、いつもユウキとセットで見ていたから、その印象は新鮮だった。  真砂はユウキと遠距離恋愛を続けていた。でも、ユウキとはだんだん疎遠になっていた。もともとユウキは、そんなマメなタイプではないのだ。近くにいた時のような関係を続けるのは無理だった。でも、真砂は新しい距離に上手くなじめなかった。  真砂は過去にしがみつこうとしていた。「僕」とユウキと真砂と、三人でいた過去に。だから同じ時間を共有していた「僕」を必要としていた。ユウキはもうそこにはいないから。真砂は「僕」と会っても、「僕」のことを見ていなかった。ただ「僕」の向こう側にいるユウキの影を要求していた。「僕」にできるのは、できるだけユウキの影を色濃く映すことだけだった。でも、それはユウキから離れていることを、真砂に思い知らせることでもあった。  サークルで夏休みにペルセウス座流星群を見に行くことになった。「僕」は団体旅行は嫌いだったけれど、泊まりがけの旅行なら、少しは「僕」の知らないステラの秘密が分かるかもしれない。なら団体旅行くらい我慢してもいいかと思った。  「僕」とステラは駅で待ち合わせ、電車を乗り継いで高原へ行った。宿だけは決まっていてイベントがいくつか用意されていたけれど、それ以外は自由時間だった。合コンの延長でしかない部員の方々とは別行動で、「僕」は星を見るために現地での行動を計画してあった。必然的に目的が同じステラとは行動が同じになるだろう、と見越して。  予想通り、ふたりだけで行動する時間はたっぷりあった。ふたりで夜空を見上げながら、でも、「僕」はどんな話をしていいのか分からなかった。ステラと一緒にいると、まるで物語の中に迷い込んだような気持ちになることがよくあった。「僕」はどんな登場人物なんだろう? どんな登場人物になりたいんだろう? 「前から聞こうと思ってたんだけど、どうして日本に?」 「家族がこちらにいたんです。異邦人なのはどこでも同じだから、だったら家族でいようと思って」 「そういえば、どこから来たの?」  しばらく沈黙があってから夜空を見上げて、この星のどこかから、とステラは言った。 「そういう気持ちって分かりますか?」  「僕」もどこかの星から流されて来たような気持ちになることがある、と「僕」は答えた。よくある。ステラは小さく笑った。 「正直なところ、よく分からないんです。日本の前はアメリカにいました。その前はドイツです。でも、どこがスタートなのかは分かりません」 「そして、ここがゴールでもない?」 「でも、今はここにいますよ」  普通の大学生の男女ならキスをするタイミングだと思った「僕」は、ステラの横顔を見た。でもステラはただ星空を見上げていた。まったく、そういう色恋沙汰は眼中にないらしかった。「僕」の勇気は一気に挫けた。いいんだ、別にキスしたかった訳じゃないんだ。色恋沙汰がしたい訳じゃないんだ。 「一度、私の家族にも会ってください。私に人間の友達がいると知ったら喜びます」 「人間の?」 「現地の、ですね、すみません。言葉がうまく使えなくて」  手を握ってもいいですか、と「僕」は言ってみた。ステラは手があることに初めて気がついたようにしばらく右手を見てから、どうぞ、と言ってその手を差し出した。そっと手を握ると、ステラは不思議そうな顔で「僕」の顔を見上げて、やっぱり人間ですね、と言った。 「あなたがいて、よかったです」  目を見ても、何を考えているのか全然わからなかった。でも、少なくとも「僕」の知る恋愛要素がないことだけは確かだった。流れ星だけが静かに夜空を横切っていった。  秋が来て、冬が来た。高校生だった去年までとは違う、人肌恋しい季節だった。真砂とは偶然出会っては一緒に時間を過ごした。流れで手をつないだり肩を抱いたりすることもあったけれど、でもそれはユウキの代わりだった。「僕」もわかっていたし、真砂も分かっていた。でも、それが求めていることだった。真砂は明らかに、今より過去の方がいいと思っていた。「僕」はどうなんだろう、よく分からない。ユウキのいた過去をかけがえなく素敵だと思っていたけれど、現在だってそんなに悪くないかもしれない。  「僕」はステラともプライベートな時間を過ごすことが増えた。例のクラスメイトあたりがみたら、つきあっていると思ったかもしれない。でも、実際はどこに遊びにでかけても、食事を一緒にして別れるくらいがせいぜいだった。清い交際にさえならなかった。「僕」には相変わらずステラの心が読めないから、彼女が何を考えているのか分からない。「僕」と彼女の間に、どれだけの距離があるのかも分からなかった。 「人間の心なんて不確かなものだぞ? 特に女の子。  俺だって真砂が何考えてるのか分からないことはよくあったけど、でもつきあってたじゃないか」 「ユウキは特別、あんなに好き合ってたら何をしたって大丈夫だよ。僕はそうじゃない」  「僕」はユウキみたいに、裏表のない生き方はできない。  相変わらず「僕」の家では弟が閉じこもった部屋の中から「僕」を呪っていた。でも「僕」は弟に対して、つながりを強く感じていた。何かを肩代わりしてもらっているような気持ちさえした。あるいは逆に、「僕」が彼の分まで外の世界を見ているような。それは「僕」の不健全さの証明かもしれない。でも、健全な自分を目指すよりは、「僕」は十分に「僕」であることを目指していた。  父も母も、弟のことは諦めていた。いつか、このままではいられなくなる日が来る。たとえばそれは父の定年を機にやってくるかもしれないし、他の家族の身に起きる何かが引き金になるかもしれない。弟のことは、そうなったときに考えることになっていた。それまでは目を背けていることで、暗黙の了解ができていた。  「僕」はこの先、どうやって生きていったらいいのかまるで分からなかった。だからみんなと同じように、ただ何も気づいていないふりをして、毎日を過ごしていた。まるでそうすれば、変化を避けられるとでも思っているように。  ステラと大学を歩いているときに、偶然真砂に会ったことがある。それぞれを友達、と「僕」は紹介した。ステラは小首をかしげ、真砂は人形のような目をしてお互いにあいさつをした。それでも三人でお茶をした。別に悪いことをしている訳ではないのに、「僕」はとても落ち着かなかった。何をしているのか全然わからなかった。  後で真砂には、「僕」に友達がいるなんて思わなかったと言われた。それ以来、彼女はしばしば「僕」の大学に顔を出すようになった。いや、たぶんそれも偶然だろう。  その冬、真砂の両親が仕事の都合でアメリカに引っ越しをした。大学生の真砂は下宿してこの街に残ることを選んだ。引越は「僕」が手伝った。彼女には他に引越を手伝ってくれそうな友達はいなかった。真砂の心の中にはユウキしかいない。友達なんてできない。  家族がいなくなった真砂は、より強く「僕」を求めるようになった。「僕」はしばしば真砂と夕食をともにするようになったし、夜、電話で話すことも増えた。偶然じゃない待ち合わせをして遊びに行くようにさえなった。それでも真砂の心の中にはユウキしかいなかった。一目瞭然だった。  ユウキが真砂に別れを切り出したのは、そんな最悪のタイミングだった。いや、別れなんて切り出せばいつだってその瞬間、最悪になったかもしれない。その予感はあった。「僕」はふたりとそれぞれに話をする立場にあったから、ふたりの状況は理解していた。でも、それは「あってはならないこと」だった。もちろん「あってはならないこと」だって起きる。でも「あってはならないこと」に対しては、備えなんてできない。  正月の帰省、ユウキは別れを言うために戻ってきた。三人で会うのは久しぶりだった。三人三様に変わっていたと思う。ユウキだけが、彼が望んだとおりの変化をしていた。「僕」の成長はアンバランスで居心地が悪かった。真砂は成長を拒否しようとしていた。  もう恋人としてお互いを認識するのはやめよう、過去を共有する仲の良い友達でいよう。束縛したくないし、されたくない。俺は「現在」を生きたくて街を出たんだ。もうここには戻らない。  ユウキは一方的に言った。そんなこと「僕」の前で言うなよ、と「僕」は思った。でもユウキにとっても真砂にとっても、「僕」も当事者だった。  真砂は最初、何を言われたのか分からなかった。普通に世間話を続けようとして、でも、すぐに言葉が失われた。泣かなかったし、取り乱したりもしなかった。ただ、理解しなかった。できなかった。「僕」は怖くて彼女の目が見られなかった。  代わりに「僕」はユウキに考え直すように説得した。でもユウキは聞く耳を持たなかった。 「おまえの身勝手のために彼女を犠牲にするのか?」 「違う、一緒にいることが真砂を犠牲にすることなんだ。遠距離恋愛なんて真砂にも俺にもふさわしくない。おまえにだって、その街を出れば分かる」  分かりたくない、と「僕」は言った。  せめて、おまえがこのまま真砂とくっついてくれると安心なんだけどな、とユウキは嘘のない目で言った。信じがたいことに本気だった。  もういい、さよなら、と小さな声で真砂は言った。「僕」は彼女の目を見た。その目は空っぽだった。僕はそこからどんな感情も読み取れなかった。 「行こう」  真砂は「僕」の手を取って、ユウキの前から立ち去ろうとした。「僕」は振り向いて、ユウキに何か言おうとした。でも、何が言える? ユウキも同じ顔をしていた。その目が語っていた。何が言える? と。  その夜、「僕」は真砂と初めて寝た。ユウキと別れてから行くあてもなく地下鉄に乗って、環状線を何回か回った気がする。会話は何もなかった。でも別れることはできなかった。真砂は命綱のように、「僕」の手をずっと握っていた。そろそろ終電が、と「僕」が言うと、真砂は泣き出した。世界からすべての音が消えたような泣き方だった。そんな泣き方をされたら、もう「僕」には選択肢はなかった。  「僕」たちは真砂の下宿へ移動した。どこへも行きたくない「僕」たちに、それ以外にできることは何もなかった。交互にシャワーを浴びて、部屋の明かりを消した。ずっと無言だった。  「僕」にとっては初めてだった。でも真砂はそうではなかった。ユウキとずっとつきあっていたんだから当然なのに、その事実を「僕」はまったく想像していなかった。真砂はいつまでも人形のような清らかさでいるものだと思っていた。 「毎晩でもしたかったし、何回でもしたかった。実際、できるときはいつでもした。どこでもした」  「僕」の上で腰を振りながら真砂は言った。淋しかった、ぽつりとつぶやく。何度も、何度もつぶやく。でも、哀しいばかりなのに、「僕」は男性としてきちんと機能していた。初めて見る真砂の裸体は綺麗だった。「僕」は興奮していた。今、こんなことをしたら取り返しがつかないことになると思いながら、止めることはできなかった。こんな「僕」は知らない、と「僕」は思った。でも求められるたびに「僕」は応えた。そして「僕」からも、何度も求めた。真砂も、そのたびに応えた。  真砂は「僕」の名前を一度も呼ばなかった。代わりにユウキの名前を呼んだ。何度も、何度も。「僕」はずっと黙っていた。何を言っても嘘になりそうだった。  冬が過ぎ春を迎えて、「僕」は時間の多くを真砂の下宿で過ごすようになった。授業は出た、バイトも行った。数日おきに実家に帰り、服を着替えたり荷物を交換したりした。でもそれ以外の時間はほとんど真砂とずっと一緒にいた。一緒にいて、セックスばかりした。ふたりともユウキのことばかり考えていた。「僕」もセックスにはすぐに慣れた。気持ちがいいとは思うけれど、ずっと我を忘れ続けられるほどじゃない。だから、何回も何回もした。我を忘れる必要があった。するたびに淋しい気持ちになった。でも、やめられなかった。  窓の外に大きな月が見えた。パトカーのサイレンと吠える犬の声が遠くに聞こえた。大きな流れ星に気がついたけれど、何の願い事も言えなかった。何か嫌な気持ちになって、それを忘れるために「僕」はもう一度真砂の身体を求めた。流れ星は僕の意識から、なかなか離れてくれなかった。  ステラに、大学で声をかけられた時、「僕」はユウキのことを考えていた。彼女ができたんですかと聞かれて、「僕」は違うと答えた。真砂は彼女と呼べるような存在だと「僕」に認識されてはいなかった。どちらかといえば家族みたいなものだった。今はセックスが必要だからセックスをしているだけだ、と「僕」は思っていた。真砂との間には恋愛感情はない。 「この頃、私と一緒にいる時間をとってくれなくて、これが彼女ができたということなんだろうな、と思っていたんですが」  そっか、と「僕」は答えた。でも、時間がないのは本当だ。早く帰って真砂とセックスをしなきゃいけない。間違ったことをしているとは思わなかったけれど、取り返しのつかないことをしている自覚はどこかにあった。ステラといるとそれが刺激された。でも、今は考えたくなかった。  ステラの目を見ても相変わらず、何を考えているのか分からなかった。彼女は「僕」の目をまっすぐに見上げていた。いつにない切迫感があって、「僕」は目をそらした。 「私のことをどう思いますか?」 「ええと、どう、って?」 「何でもいいです。思った通りに答えてくれたら、私はそれで納得することにします」  「僕」は何を答えたらいいのか分からなかった。状況がうまく把握できていなかった。自分が袋小路にいることだけは分かった。相手が他の誰かなら、何かうまい逃げ道を考えられたかもしれない。でも、相手はステラだった。 「そうですね、先に私が言うべきですね」  ステラは、一度視線を切ってから、また「僕」をまっすぐに見上げた。そして言った。私はあなたが好きです。  それでも「僕」は何も言えなかった。真砂のことを思った。真砂とするセックスのことを考えた。いや、ただ何も考えていないだけだったかもしれない。ただセックスのフラッシュバックが脳裏に渦巻いている。取り返しならつかない、と「僕」は思った。 「私は、みんなが思うような人間じゃありません。でも、私だって人間になりたかったんです。あなたを好きになって、好きで好きでたまらなくなって、人間を好きになるんだから私も人間なんじゃないかって、そう思って、でも私はきっと人間じゃないから、あなたに好きになって欲しいなんて言えなくて」  まっすぐ「僕」を見上げるステラの目からこぼれる涙を見て、「僕」の中でステラと真砂がつながった。「僕」はステラを抱き寄せた。真砂のことを思う気持ちと、同じ気持ちがステラに向いていた。真砂が「僕」に向ける気持ちと、同じ気持ちが「僕」に向いていると思った。これも恋愛感情じゃない、「僕」なんてどこにもいない。だから、抱き寄せることに抵抗はなかった。 「私はどこか遠い星の変な生き物なんです。私に好かれても、あなたは迷惑なんです。分かっているんです」  「僕」はステラの唇を塞いだ。そんなことはするべきじゃなかったかもしれない。でも、そうするしかなかった。長い夢を見ているような気持ちだった。夢の中で、それが夢だと自覚していて、でも自分では目覚めることができない夢。ステラが目を開けたままだったから、「僕」が目を閉じた。長いキスだった。 「それで、私のことをどう思いますか?」  キスが終わってから、改めてステラは「僕」に聞いた。まっすぐに向けられた目の奥で何を考えているのか、相変わらず「僕」には分からなかった。「僕」には何も答えられなかった。  ごめん、と「僕」は言った。  謝らないでください、わかってますから、とステラは答えた。  それが「僕」にとっては転機だった。もう真砂とはセックスはできないだろうと思った。もう気づかないふりをして溺れるように抱き合う、というのは無理だった。ステラに対してだって恋愛感情はなかった。でも、それは真砂に対しても同じだった。  その夜、「僕」はユウキに電話をして、正直に事情を説明した。おまえは真砂を「僕」とくっつけたかったのかもしれない。でも「僕」は彼女を託されるに値する人間じゃなかった。もうダメだ。  ユウキは受話器の向こう側でため息をついた。 「おまえがもてるのは悪いことじゃない。真砂の男運が悪かっただけだ。  もともと俺は、おまえとステラをくっつけたかったんだからな。このタイミングか、って思うだけで」 「今からでも遅くないから、真砂とよりを戻すつもりはないの?」  無理、とユウキは手短に言った。もう無理、少しでもそんなつもりがあったら別れ話なんてしない。 「で、おまえはさ、その、ステラのことが好きなのか?」  わからない、と「僕」は答えた。本当に分からなかった。恋愛感情じゃない、とは思う。でも何なんだ、といえば言葉にはならなかった。真砂に対する感情も、ステラに対する感情も。「僕」の知っている気持ちではなかった。  じゃあアドバイス、とユウキは言った。 「未来はいつもおまえと共にある。おそれずに進め」 「何その安っぽいRPGみたいな台詞」 「分かる分からないで考えているうちは、何も分からないものさ。  進んで飛び込んで、全部経過して初めて分かった気がするんだ。でも、また次の時は全部分からなくなってる。そういうものだろ、兄弟」  覚えておくよ兄弟、と「僕」は答えた。ユウキの言ったことは正論だった。でも、もちろんアドバイスなんて実際に現実を生きる上では、何の役にも立たなかった。  ステラとの関係は、告白を聞いた後も目に見える変化はなかった。相変わらず同じ授業を取って近くの席に座り、一緒に昼食を食べ、世間話をしたりネコと遊んだりして適当に別れた。ステラはそれでいいと思っているようだった。「僕」はそれでいいとは思えなかったけれど、とりあえず状況に甘えることにした。どうしたらいいのかなんて分からなかった。  真砂はだんだん精神の均衡を欠くようになった。まるで親に見放されるのをおそれる子どものように「僕」を求めるようになった。それはセックスをしなければ収まらなかった。結局、するしかなかった。している最中に突然泣き出したり、暴れたりすることもあった。まるでAVのように「気持ちいい」を連呼したときもあった。一緒にいる時間が長くなるとそれなりに落ち着いたから、「僕」はできるだけ側にいるようにしようとした。  原因は「僕」の対応が変わった、ということではないと思う。元々、セックスで解決するような問題ではないのだ。限界が露呈した、と考えるべきだろう。  ユウキとつきあっていた、高校生の頃の真砂は目でものを言うタイプだった。「僕」でなくても目を見れば、何を考えているのかよく分かっただろう。でも、この頃の真砂は心を読むのがひどく難しくなった。何もない訳じゃないけれど、それが本音かどうか分からない程度にしか見えない。それも、ひどく移ろいやすい。だから「僕」は、彼女が「僕」のことをどう思っているのか、よく分からなかった。ただ、「僕」がいないと何もできなかった。それがユウキとの過去を共有する間柄だからだけなのか、少しは未来への希望も含まれるのか、「僕」はそれが知りたかった。でも、それは目をみても分からなかった。  「僕」がどうしたいのか、それも分からなかった。でも、このままがいつまでも続くはずはなかった。真砂との関係を断ち切るという選択肢がない以上、変化をつけるなら前に進むしかない、「僕」はそう結論した。 「ねえ、正式に一緒に住むことにしないか? この部屋でもいいし、どこか違う場所でもいい。どこかで一度、しっかり仕切り直そうよ」  真砂の二十歳の誕生日を前に、「僕」はそう提案した。真砂は、ユウキがいる頃にたまに見せた透明な笑顔を浮かべて、素敵な夢物語ね、と言った。  真砂が自殺しようとしたことを「僕」はユウキから電話で教えられた。雨の降る、寒い冬の日だった。そのニュースは僕に衝撃をもたらしたけれど、どこか「僕」はそうなることを知っていた気がする。「僕」のせいだ、と僕は言った。  おまえのせいじゃない、おまえはよくやっていた。ユウキは「僕」にそう言った。 「違う、僕はなにもしていない。何もできなかった」 「そう言うな、誰にも何もできなかったんだよ」  真砂は二十歳の誕生日に、はじめて東京までユウキに会いに行った。今まで一度も行っていなかった。別れてから初めてセックスをした、とユウキは言った。ごめん。 「謝らなくていいよ。真砂は僕の彼女じゃない。ずっとおまえのものだろ」 「まだそんなことを言うのかおまえは」 「だってそうじゃないか」  「僕」は涙声だったかもしれない。「僕」はユウキになれなかった。それだけのことだ、と「僕」は思おうとした。でも、そんなのってないじゃないか。 「一命は取り留めた。でも、しばらく療養が必要みたいだ。ひとりでは生活できないっぽいから、あいつの家族を呼んだんだよ。そうしたらいきなり面会謝絶。まあひどいことをいろいろ言われたけどね、ちょっとおまえにも聞かせたかったな」  「僕」はユウキからの電話を適当に切ると、ひとりで街を歩いた。自宅にいても真砂の部屋にいても、何をしていいのか分からなかった。弟の部屋からは、いつも通り雄弁な沈黙が漂ってきていた。みんな言いたいことを抱えて何も言えないでいる、と「僕」は思った。「僕」は「僕」が何を言いたいのか分からない。みんなはどうなんだろう?  真砂と歩いた街だった。どこにでも真砂の記憶がついて回る。「僕」は傘を持っていなかった。雨の中をぬれるままに歩いた。雨が降っていることには気づいていたけれど、傘を持ってくることに思い至らなかった。馬鹿だ。  気がつくと「僕」は繁華街を歩いていた。客引きがいて酔っぱらいがいて、喧噪とネオンが街を包んでいる。さすがにこの時間、真砂とこんな場所を歩いたことはなかった。でも、傘も差さずに雨の中を歩く「僕」を、みんな避けて通った。もちろんここにも「僕」の居場所はなかった。 「何を、しているんですか?」  聞き覚えのある声に顔を上げると、声をかけてきたのはステラだった。何をしてるんだろう、と「僕」は答えた。 「どうしてここに?」  偶然です、とステラ。白昼夢を見てあなたに呼ばれてる気がしてここに来たって、そんなことがあるわけがないじゃないですか。 「死んでしまいますよ、そんなことをしていると」  ステラに導かれるままに、「僕」はどこかのホテルに入った。脱がされて乾かされて、脱いだステラに抱きしめられた。そんな気持ちにはなれない、と「僕」は言った。どんな気持ちですか、と真顔でステラは答えた。このひとは宇宙人だったな、と「僕」は思い出した。きっと本気でそんなつもりはないんだろう。それは「僕」の心を少しだけ慰めてくれた。  ステラの身体は暖かかった。でも、「僕」の心は冷たく固まっていた。冷えているのはもっと身体の奥深くだ。裸で抱きしめられたくらいでは届かない。 「僕が、彼女を追いつめたんだ」 「何をしたんですか?」 「何もできなかった。何かしなきゃいけなかったんだ、僕にしかできなかったのに」 「好きだったんですね」  嫌味もなく底意もない、ただ本当に淡々と事実を述べる口調だった。 「そんなに好きなひとがいるなら、どうしてきちんとつかまえておかなかったんですか?」  結局、「僕」はステラと寝た。そうするしかなかった。だって「僕」はずっと真砂とそうしてきたから。でも、ステラの身体は「僕」の心を温めてはくれなかった。  ひとしきりの行為が終わると、ステラは眠ってしまった。寝顔は初めて見る。何かを思い出しそうになって、「僕」は涙をぬぐった。小さく「さよなら」と言った。そして濡れたままの服を着ると、部屋を抜け出して支払いを済ませた。こういう時、どうするのが正しいことなのかは分からなかった。でも、ステラと一緒にいることはできなかった。  ステラと寝ることは、「僕」の求めていることではなかった。「僕」は心を捨てたかった。真砂のことを忘れたかったし、「僕」のことを忘れたかった。ステラは「僕」に心を捨てさせる相手ではなかった。むしろ「僕」の心そのものだった。  時間をかければなんとかなる、と「僕」は思いこむことにした。ステラは携帯を持っていなかった。大学に行かなければ、そうそう会うことはないだろう。ステラに溺れるわけにはいかなかった。もちろん、溺れそうだから思うんだということは分かっていた。  「僕」らしくない行動をとろう、と「僕」は決めた。夜の街で知らない女の子に声をかけたり、金を払って風俗に通ったりした。すぐに飽きた。最後には女の子を見るだけで吐き気を催すようになった。もう十分だろうと思うと、「僕」は社会復帰を次の目的にした。  「僕」は合宿制の自動車学校に通って免許を取った。単発のバイトを立て続けにした。新しい季節のために服を買い換えたりもした。そこまでして、やっと人心地がついた。ひとりに戻るだけだ、と「僕」は自分に言い聞かせた。ユウキも真砂もいなかった頃だって、「僕」は「僕」だったはずだ。ステラがいなくても、くだらないおしゃべりをする程度の友達ならいるだろう。それで十分じゃないか。  ひさしぶりに大学に行き、授業に出ると、ステラは今まで通り隣の席で「僕」を見上げていた。あのまま、いなくなるのかと思っていました、と変わらない声で言う。「僕」は彼女の目を見られなかった。 「ごめん」 「あなたのしたことは人間的にどうだったんだろう、とは思います」  でも、戻ってきてくれて嬉しいですよ、私は。  ひさしぶりに会うステラは美人だった。ステラを美人だと思ったのは初めてだった。「僕」の意識が変わったのか、ステラが変わったのか、「僕」には分からなかった。でも、まぶしくて直視できなかった。  目を見ても相変わらず、何を考えているのか分からなかった。でも、「僕」がステラなしでもやっていけるだろうと高をくくっていた、それが無理だということはすぐに分かった。  どこまでいけるんだろう、と「僕」は思う。こんな気持ちを抱えたままで、どこまでもいけるはずがない。でも日常は続いていく。みんな変わりながら、でも毎日は続いていく。  ユウキから電話がかかってきたとき、「僕」は大学の緑地で、ひとりでパンを食べていた。濁った池にパンくずを投げるとコイが食べに来る。その辺に投げれば鳩やスズメが来る。孤独を紛らわすにはいい場所だった。  おまえどこにいるんだ、とユウキは言った。「僕」は答えられなかった。隣を見て、上を見て、誰か代わりに答えてくれるひとを探した。でももちろん誰もいない。「僕」はどこにいるんだろう? 立ち上がって濁った池を見ると、「僕」の姿が水面に揺れて映っていた。その目には心が見えなかった。  ケータイからユウキの声が「僕」を呼んでいた。でも、もう「僕」はどこにもいなかった。いや、はじめからどこにもいなかったかもしれない。  東京から帰ってきたユウキは、見たことのない女性を連れていた。まどかさんだ、とユウキは紹介した。 「今回の件でお世話になってる。おまえに紹介したかったんだ」  反射的に「僕」は頭を下げた。真砂の家族だ、というのは顔を見れば分かった。でも、どうして「僕」に紹介する必要があるんだろう? 「このひとを倒すと囚われのお姫様のところに行けるんだってさ」 「倒す?」 「お姫様が助けを求めてるかどうかは知らないけどね」  真砂の自殺未遂にあたって、ユウキが連絡した真砂の家族だった。今、真砂はこのひとの庇護下にある。こんなことしたくないんだけどさ、とまどかさんは言う。こういうことって、家族の誰かがしなきゃいけないからね。  「僕」はまどかさんとユウキを連れて真砂の下宿を案内した。他によく行くところは大学とバイト先くらいしか知らない。真砂の暮らしは、ほとんどが部屋と大学の往復の中で完結していた。偶然会うのは簡単だった。今にして思えば、そんな大学生の生活はありえない。でも、真砂にはそれが普通だった。それに、「僕」だって日々の単調なことにかけては真砂のことはあまり言えない。 「なるほど、ね」  まどかさんは気のない声で言う。 「あなたが良くやってたんだってユウキが言ってるの、冗談じゃないと思ってたんだけどね。女の子が自殺未遂するときって、まあ恋愛関係のもつれだろう、その男が犯人だ、って。  だからユウキとあなたのせいだと思ってたんだけど。  違うね、これは死ぬべくして死のうとしたんだ。真砂、本気で病んでたんだね。ここまで保って、しかも未遂でとどまったんだから、あなたが良くやってたんだ」  まどかさんといったん別れてから、「僕」とユウキは今後のことについて相談した。真砂はこの街に戻らないと元気にならないと思う、と「僕」は言った。ユウキは否定した。 「そこから出なきゃ今度こそ死ぬ。俺はおまえが生きてるのが不思議なくらいだ」 「ユウキが責任持ってすることに文句は言わないけど」 「おまえが責任持つなら俺だって」  でも、現実的にはまどかさんを納得させられるような材料は「僕」たちには何もなかった。真砂自身が自分の生命に責任を持たないのに、「僕」たちには何もできない。 「ユウキは、彼女とよりを戻すつもりは」 「まだ言うか。ないよ、それはもう終わったことだ。  でも、それはそれとして真砂は健康に生きていて欲しい。そのためにできることがあるなら、できることはなんでもするつもりだ」  自殺したいほど何を思い詰めていたんだろう、と「僕」は思う。おまえのことなんじゃないのか、とユウキは言った。 「僕のこと?」 「おまえはどうなんだ、今後も真砂とつきあっていけるのか?」  ユウキの目には罪悪感があった。自殺未遂の直前に真砂と寝たことが原因だった。「僕」は気にしていなかった。だって、真砂はユウキのものだ。「僕」はそう思っている。  できることはなんでもするつもりだよ、と「僕」も答えた。でも、お互いに何ができるのかは分かっていなかった。  「僕」はまどかさん経由で真砂にメールを送った。機会を見ては手紙も出した。電話はまどかさんがとりついでくれなかったし、「僕」も何を話せばいいのか分からなかったと思う。真砂からも、たまに返事が来た。ユウキも同じようなことをしている、と「僕」は真砂からの手紙で教えられた。ふたりともありがとう、でもちょっと複雑です。真砂の筆致は正直だった。どうしたらいいのか、私にはまだ分かりません。  「僕」たちはゆっくりと距離を置いて、関係を確かめ合っていた。今まで無理をしていたことはお互いに分かっていた。そんな関係が続くはずがなかった。でも、この先に待っているのがどんな関係なのか「僕」にはまるで分からなかった。  春になって授業がまた始まった。「僕」は今まで通り大学に通った。この春一番の変化は、ステラの周囲にひとがいるようになったことだった。以前ステラを評して云々していたクラスメイトによると、プレッシャーがなくなった、とのことだった。なんで今まで避けてたんだろうな、と彼は言った。知るか、と「僕」は答えた。  誰かがステラに、「僕」とつきあってるのかと聞いた。ステラは「僕」の目を見てから、そういうことは彼に聞いてください、と笑顔で答えた。今までのステラからは考えられない受け答えだった。  家族に会ってもらえませんか、と頼まれたのは、桜も散ってゴールデンウィークも終わった、気持ちよく晴れた五月だった。星を見に行ったときの約束を「僕」は思い出した。あれから四年か、と「僕」は思った。人間が変わるには十分な時間だろう。  案内されたのは学生用のワンルームマンションが建ち並ぶ一角だった。部屋の鍵を開けると、狭い玄関には男物の靴が一足だけ置いてあった。晶、とステラは部屋の中に声をかけた。  出てきたのは、黒い瞳に黒い髪の、でもどこかステラと似たところのある男の子だった。年齢は「僕」よりも少し幼いくらいだろう。彼はぺこりと頭を下げて、一歩「僕」のために場所を空けてくれた。  弟さんですか、それとも恋人さんですか、と「僕」は聞いた。ホームドラマみたいな家族が出てくる予想とはずいぶん違った。大切な家族です、とステラは答えた。  彼は言葉がしゃべれなかった。でも、ステラは何も気にしていなかった。「僕」は彼の目を見たけれど、やっぱり何を考えているのかは分からなかった。ステラの家族だというだけのことはある。  買ってきた和菓子を床に座って三人で食べた。部屋の中は典型的なワンルームだった。でも、本棚もテレビもなく、スチール組みの二段ベッドだけが部屋の中で存在感を示していた。寝るだけの場所ですから、とステラ。  ステラと晶は、姉弟というには仲がよすぎるように見えた。表情と簡単な動作だけで、「僕」とステラが言葉を交わす以上のことを伝え合っていた。異国で身寄りもないと、家族の絆が深まるのかもしれない。でも、それだけではないかもしれない。  もし二人が恋人同士だったらどうしよう、と「僕」は思った。目を見れば他のひとたちのことなら分かる。でも、この二人に関しては「僕」には分からない。ありえるかもしれないな、と「僕」は思った。いつか「僕」はステラと離れる時が来るかもしれない。それがどんな形で来ても、たぶん「僕」には受け入れることしかできないだろう。 「いつか、あなたの家にも招待してもらえると嬉しいです」  帰り際にステラが言った。晶も頷いた。「僕」は弟のことを考えながら、機会があれば、と言った。「僕」と晶は握手をして別れた。いつかのステラのように、彼も不思議そうな顔をして、「僕」の握った手をしばらく見ていた。  弟か、と「僕」は思った。間違いなく「僕」の解決が必要な課題のひとつだった。和解をしたいとは思っていたけれど、機会はなかった。考えてみれば、もう何年顔を見ていないだろう。  最初はただの恋愛相談だった。「僕」も幼かったから、弟の目を見て、つい正直にやめておけと言ってしまった。おまえが好きなのは自分自身のことだけだ、彼女のことなんて考えてないだろう。  弟は怒って、「僕」に相談するんじゃなかった、と言った。怒るのはそれが本当のことだからだ、と「僕」は言い返した。今思うと頭を抱えたくなる。何しろ若かったから、本当のことは本当のことだと思っていたのだ。世間の誰にも言えなくても、家族くらい「僕」のことを理解してくれると思っていた。  「僕」が相手の目を見れば、弟が告白して望みがあるかどうか分かる。彼女が何を考えているか分かる。そのことは伏せて、「僕」は誰が好きなのか聞いた。近所の同級生だった。近場で充足する、ありがちな恋愛だった。「僕」はこっそり彼女を観察して、脈はないと判断した。そして弟にそう告げた。弟はまた激怒した。  弟はその後、まるで「僕」に当てつけるように、その彼女に告白してふられた。おまえのせいだ、と弟は「僕」に言った。今なら、そんなことは「僕」も絶対に言わない。でも、そのとき「僕」は弟の目を見てしまった。  おまえの劣等感をぶつけられても困るんだよ、と「僕」は言った。彼女ができたら「僕」より優位に立てると思ったのか、と。そんなつもりで告白されても彼女だって迷惑だろう。自分のことしか考えられない男に、他人とつきあう資格はない。  弟は、刺すような目で「僕」を睨んでいた。だから「僕」は、彼の心の奥底まできれいに見て取ることができた。彼のコンプレックスにまみれた、まだ柔らかく傷つきやすい繊細な心。「僕」は正論という形の暴言で、それを土足で踏みにじった。  おまえに何が分かる、と彼が言ったときには、もう彼の心はずたずただった。分かるんだよ、と「僕」は言った。「僕」は目を見れば、誰が何を考えているのか分かるんだ、と。  なんだそれ、と言われたので「僕」は説明を繰り返した。目を見ると心が分かるんだ、と。そして具体的に弟の心で例を示してやった。何か心に思ってみろ、当ててやるから。  いつから、と彼の心が聞いていたので、「僕」はずっとだ、と答えた。本当に分かるのか、と聞いていたので、本当だろ、と答えた。ということは、と彼は心に、「僕」に知られたくないあれこれを思い浮かべて、それもばれてるのか、と思った。  そっか、そんなこと思ってたのか、と「僕」は言った。  出て行け、と声に出して彼は言った。やり過ぎたことにはもう気づいていたけれど、「僕」には止められなかった。もう今更どうすることもできない。出て行くしかなかった。  それ以来、彼は部屋から出てこない。夜中に風呂に入ったり、水を飲みに台所に来たりはしているらしい。でも、「僕」とは見事に顔を合わせなかった。  両親は「僕」を責めた。ふたりの目を見て、それは責任転嫁だと「僕」は思った。でも、今度はもう言わなかった。思ったことを口にしたらどうなるのか、犠牲者はひとりで十分だった。弟ひとり傷つければ、もう十分過ぎる。  「僕」は弟に対して、関係回復を試みることにした。母に聞くと、弟とはメールでやりとりしているという返事だった。大学の計算機センターに行って、「僕」は「僕」のアドレスから、弟にメールを送った。まどろっこしいことをしているものだとも思ったけれど、「僕」にも時間があった。たぶん家からのメールでは無視されるだろう、と思った。  最初、僕は正直に現状を弟に説明した。特に求めることは何もなかった。ただ自分を把握し直したいと思う、そのためにおまえにメールを出すだけだ。負担に思うことはなにもないし、返事も必要ない。そう書いたら、山のように長い返事が来た。「僕」に対する繰り言かと思ったら、ただ弟も弟の近況を書いてきただけだった。 「兄貴に恨みはない、とは言わないけど、そんなことはもういいんだ。兄貴が心が読めるのは本当なんだろう。残念だけど、あのとき言われたのは全部本当だ。そんなことは僕が一番分かってる。  まあね、本気で傷ついたよ? まだ怖くて人前には出たくない。これでも社会復帰は何回も試みたんだよ。僕だっていつまでも、このままだって訳にはいかないからさ」  弟は引きこもりながら、本を読んだり書いたり考えたり、何かにしがみつくように言葉の世界に生きていた。まあ退屈をする暇はなかったよ、と彼は書いてきた。ただ部屋の中で死んでいた訳ではない、それは「僕」を勇気づけてくれた。  何度も何度もやりとりをした。弟は「僕」の返事が遅いと文句を言い、書く内容がひどいと文句を言った。でも、そんなやりとりができることが「僕」は嬉しかった。  ある程度、弟と話ができるようになって、「僕」は真砂とやっていくことが可能かどうか、弟の意見を求めた。彼の回答は懐疑的だった。 「家に引きこもりの僕ひとりいるだけで、これだけ家族がメチャクチャになるんだ。  どんな彼女でも、いるだけのひとと一緒にいたらメチャクチャだよ?」  ならどうしたらいいのか、と「僕」は聞かないことにした。それはそれで弟の意見だ。どうしたらいいのか、どうしたいのか考えるのは「僕」のするべきことだった。  また冬が来ていた。寒い雨の日、「僕」は傘を差して街を歩いていた。ひとりで、行く当てもない散歩。「僕」の手には余る問題ばかりが「僕」の手の中にあった。  でも、不思議と心は穏やかだった。  もうどうなってもいいや、という気持ちが「僕」の中で育っていた。なんとかなる、でもない、なんともならなくてもいい、という穏やかなあきらめ。  雨が弱くなってきたので、「僕」は傘を閉じて、空を見上げた。あるいはこれは空の心なのかもしれないね、と思う。  見覚えのある姿を人混みにみつけた。駆け寄るのも柄じゃないし、「僕」はゆっくりと歩き始めた。そして、彼女の前で立ち止まった。  おかえり、と「僕」は言う。  ただいま、と真砂は言った。  いつかそんな出会いが来るような気がする。そのときまで「僕」はここにい続けるだろう。人々がみんな立ち去っても、みんな「僕」を忘れても。  着信音に「僕」は顔をおろして、携帯を取り出した。ディスプレイを見ずに通話ボタンを押す。この電話の先にも誰かがいて、どこかにつながっている。  「ひさしぶり」と僕は言った。

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