もうじき僕は歌わない。@Wiki blog > 2006年03月04日 > もうじき03

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八年前に話を戻すと、高校を出た僕は大学へと進学した。
本当は怖かったのだ。それは認めざるえない部分でもあった。これ以上孤独の中に身を置き続けたら、本当に僕はおかしくなってしまう。それまでも十分孤独だった。誰とも会話をしない日々だってあった。自分の居場所が見つからなかった。何かに価値観を求めてもそれは虚しいだけだった。それ以上に何を誰に望めばよいのかわからなかった。すべてを自分一人で抱え込む生き方は、延々と続く森の中を一人さまよい歩くようなものだった。どんなことであっても自分のしていることならば、自分自身が責任を負わなければならない。誰も代わりに背負ってはくれない。ただそれが嫌なら、自ら終止符を打てばいい。逃げ出してしまえば良い。忘れたフリをして目を逸らせば良い。しかし、どれだけ続くかわからない長い時間を、そんな風に生き続けられるだろうか。いつか自分の手で終わらせることができるだろうか。今もどうにか時をやり過ごしている。ふと沸きあがる心の渇きを忘れたフリをする。でも、きっと再びやって来るだろう。延々と続く道は茂みが蔽い隠し、いつか僕は道を見失うことだろう。いつだって誰かを呼んでも声が届かない場所では、誰も僕に気づくことはないだろう。それなのに、僕は自分で自分の幕を下ろすことすらできない。残念ながら、僕はまだそれだけの覚悟を持ち合わせていなかった。
これほどまでに思い込む必要はなかったのかもしれない。そう、それほど追い詰めなければ、僕はもっと気楽に生きていられたのかもしれない。けれども、人間の気質や性格は、そうは簡単に変えることは出来ない。僕が過去の記憶を引きずって生きているように。それもこれも一人でいる時間が長すぎて、誰かと何かを分かち合う暮らしから遠ざかり、独りよがりの暮らしを送り続けた付けだった。いつまで、わがままな淋しがり屋を続けるつもりなのか。
そして、僕は新しい場所でまだ見ぬ希望を探すことにした。それはこれまでの僕に比べれば一つの進歩だと思った。その反面、それが僕の本意でないことはわかっていた。そんなに簡単に変化が訪れる、満たされるはずはないと思った。それでも、僕はそれに頼らざるえなかった。膨らみゆく感情を、僕はどうすることもできなかった。少しずつ自分の手には負えなくなってきていると感じていた。完全に僕の手から離れてしまう前に、どうにかしなければならなかった。僕が自分自身でいられるうちに…。

 四月になると大学は大勢の人で溢れかえっていた。「新世界へようこそ」そう書かれたサークル看板が印象的だった。新入生の入学とともに、学内では新入部員の争奪戦が始まっていた。至る所で看板や机を並べ、前を通る学生に声を掛けていた。体育系のブレザーを着た運動部から、女性を前面に押し出した人気のないサークル、存続の危機に瀕したサークルと実に様々だった。彼らは本当に誰彼構わずあらゆる者に声を掛けていた。こんな僕にさえ声を掛けてくるのだから、相当必死なのだろうということはわかった。そのあさましさに一歩後退した。
実は、僕も何だかんだ言いながらサークルに入った。自分を変えるなら、できるだけこれまでとは違う環境に身を置くことが一番だと思ったからだ。サークルなら部活動のように必ず参加しなければならないこともなく、もし厄介なことになっても自然と消えてゆけると思った。これも一つ大きな進歩だと思った。
そして、一言口にしてみた。
新世界へようこそ。
悪くないフレーズだった。

 僕が想像する以上に、大学には人が溢れかえっていた。四月ということもあったのかもしれない。皆色とりどりの服を着飾り、何人かのグループで行動していた。あまりの大勢の人に、僕は人ごみを抜け人通りの少ない端の方に腰を下ろした。あまりの密度に息が詰まりそうだった。こうして端の方で座っている方が落ち着いた。前を過ぎ行く人たちを目で追った。僕の視線に気付いた女性は、友だちとの会話を続けながら、視線だけしばらく合わせて通り過ぎて行った。僕の横には大きな木が青々と葉をつけ、葉と葉の間から日がこぼれていた。温かな日差しだった。時折、ひんやりとした風が首筋を掠め、僕は襟をすぼめた。
大学というところは、今まで以上に個人の自由が許されていた。好きな時間に好きな講義を受けることができた。好きな講師を選ぶことができた。仲良しな友だちと隣同士で座って、楽しく講義を受けることができた。そしてこれまでよりも広大な敷地が用意されていた。その分、人と人の結びつきは個人によるところが大きかった。そんな場所で、今までクラスメイトとさえ疎遠だった僕が、人の群れの中に入っても何もできないことは安易に想像できることだった。そしてその後の僕の境遇も。
頑張って入ってみたサークルも、結局は長続きしなかった。そもそも、名ばかりのサークルだった。学内には古びれた四階建ての建物があり、サークルと認められればその一室が部室として与えられた。ただし、一年間の活動報告と部員の総数などの報告義務が課せられており、僕らはまんまと存続のための道具に使われた。
部室の床には布団一人分敷かれ、机の上にはビールやジュースの空き缶、麻雀パイが散乱していた。布団はもう長い間シーツも換えられずに、汗や体臭が染み込んでいた。一体ここで何を始めようと言うのか。何てひどい新世界なんだ、と心の中で呟いた。
 勧誘に来た男は上の服をズボンの中に入れていた。そして時々ズボンをひっぱり上げた。髪型は角刈りが少し伸びたようなもので、表情にはイマイチ冴えなかった。僕らが部室に到着すると、角刈り男は部屋で待っていた部長と呼ばれる男に僕らを紹介した。
部長と呼ばれた男は角刈り男に比べれば雰囲気も明るく、気さくそうな風貌だった。 そして、「新世界へようこそ」と微笑んだ。
 部長と呼ばれる男は、三回生の円谷という人だった。いささかこの円谷という人には、この部室もサークルも不似合いのような感じがした。他の部員には持ち得ない異質な雰囲気があった。乱雑に散らかった光景と彼はあまり馴染んではいなかった。夜が闇と同化するように他の者は乱雑な光景に馴染んでいるのに、彼はその中で鈍い光を発していた。整った顔立ち、きれいにセットされた髪、緩やかに曲がる口元、とにかくここにいる人間と彼は、何もかもが違うのは一目でわかった。
 さて、新入生は僕と隣にいる男の二人だけだった。本当はもう一人いるらしいが、現在は僕と隣の男だけだった。隣の男は見たからに生真面目そうな男だった。やる気というか緊張が体の隅々まで充満し、今にも爆発しそうな雰囲気をかもし出していた。そして円谷さんの問いかけに、体をいっぱいに使って大きな声で返事をしていた。それはまるで応援団員や昔の軍隊映画を思い起こさせた。円谷さんは、「そんなに大きな声を出さなくてもいいよ。聞こえてるから」と少々苦笑いしながら眼鏡男の肩を叩いた。
 僕が訪れたサークルは、小説を書くサークルだった。もちろんこの中の何人かは本気で小説家を目指しているらしいが、ほとんど作品を書き上げた試しはなかった。数少ない作品にサラッと目を通したが、心惹かれるものは何一つなかった。円谷さんの作品を除いては。彼の作品はたった一つしかなかったが、他の人間の作品に比べれば、短く簡潔に書き上げられていた。ただ、それは小説というより哲学書に近い雰囲気があった。
 結局僕らの最初の活動は部屋の片づけだった。「すべては混沌から生まれるからな」と埃にむせながら、円谷さんは言った。隣の眼鏡の男は今にもメモを取り出しそうな勢いだった。僕は黙って目の前の空き缶を袋に入れた。
日が暮れる頃、一応に部屋は落ち着きを見せた。僕は黙々とただひたすらに与えられたノルマをこなし、片っ端から片付けていった。そして、掃除が終わると「新人歓迎会をしよう」と宴が始まった。他の二人の部員が既に買出しから戻っており、きれいに片付けらた机の上にビールやつまみをところ狭しと並べた。なるほど、こうして部屋は乱れていくのだな、と思った。
「新世界へようこそ」と円谷さんが言うと、皆は缶ビールを持ち上げ乾杯をした。
僕にとって初めてのアルコールだった。正直、お酒を飲んだ後、自分がどうなるのかは知らない。それ以前に、人とこうしていることだって久方ぶりだった。改めて、僕が世間から離れて狭い井戸の中にいたことに気づかされた。違う意味で「井の中の蛙」だった。
「君はあまりしゃべらないな」
少し離れたところから円谷さんはやってきて、僕の隣に座った。
「こういうのは慣れてないので」
こんな風に話すのも久しぶりだったので、僕はいささか困っていた。
ふーん、と円谷さんはビールを飲んだ。僕は久しぶりの会話の機会で、なかなか緊張が解けなかった。問いかけに対しても、一言返すことぐらいしかできなかった。なかなか上手く会話が続かなかった。
「こういうのは嫌いか?」
少しどもりがちな僕を円谷さんはじっと見ていた。僕はその視線を直視できずに、目のやり場を探して何度もビールを飲んだ。アルコールはすぐに回り、心地よい気分になってぼんやりとしていた。穏やかな時の流れの中で、見ず知らずの人たちとアルコールを飲んでいる。そして僕は誰かと会話している。ちょっと信じがたいことだった。
眼鏡男は既に半狂乱の地に達し始めていた。お酒とアドレナリンやらが起爆剤となって、爆竹のように少し壊れ始めていた。
「彼はもう来ないかもしれないな」
円谷さんは、少し遠い目で眼鏡男を見ていた。
「そうかもしれませんね」
僕は眼鏡男を少し尊敬してしまっていた。最初は彼の壊れぶりに冷ややかな視線を送ったが、彼が初対面の人間たちを前にこれほどまでに自分を曝け出せることに嫉妬さえしていた。そして嫉妬していることに自分に気付くと、それが余計に腹立たしかった。
「彼を知ってるのか?」
円谷さんは、驚いて僕を見た。
円谷さんが言っている男は、目の前で壊れてしまった眼鏡男のことではなかった。僕ら二人以外にいたもう一人の新入生のことだった。円谷さんはタバコを箱から取り出し、トントンと二度たたいた後、ライターの火を何回かつけたり消したりしながら彼のことを話し始めた。
「彼は君と同じ年でオレより三つ下だけれど、とても魅力的な人間だったよ。まだ、二、三回ほどしか会ったことはないけれど、話してすぐにわかったさ。人間、他人の感じ方や言葉に心を揺らされることは、それほどあるもんじゃない。違う価値観を持っているのは当たり前だけれど」
そう言って円谷さんはタバコに火をつけた。
「すべては混沌から生まれる。欲求も失望も喜びも悲しみも」とタバコの煙を吐き出し呟いた。
「終わりのための始まり、始まりのための終わり」と僕は無意識に言葉を口にしていた。
円谷さんは驚いた顔で僕を見た。そして「不思議なことがあるものだな」と、一人頷いて関心していた。しばらくしてもう一度タバコを吸い、煙を吐き出してから僕に尋ねた。
「それは流行の本の一節か何かなのか?」
「いえ、自分でも無意識のうちに…」
僕は咄嗟の自分の言葉の言い訳を探していた。場違いの言葉だったろうかと少し心配だった。何せ、久しぶりのことが多く、アルコールも入り、少し気が動転していたのかもしれなかった。だから、自分の口にする言葉に自信が持てずにいた。それにしても、何であんな言葉が出てきたのかわからない。
「おかしかったですか?」と僕が恐る恐る聞き返すと、円谷さんは首を横に振った。
「偶然なんだろうな」
「何がですか?」
「そいつも、そう言ったんだよ」
「もう一人の新入生ですか?」
「ああ。まるで二人とも最初から決まっていたかのように答えてくる。その答えは偶然なのか同じ。お前ら知り合いか何か?」
「いえ」と首を横に振った。円谷さんは、ふーんと一人で納得していた。手には二本目のタバコが火をつけられていた。僕の方こそ、円谷さんが口にする「すべては混沌から生まれる」がどこからやってきたのか興味があった。
時計は午後九時過ぎを指していた。眼鏡男は既に力尽きて横たわっていた。彼はきっと本望だろう。戦場で戦うことで安らげる武将のように雄たけびを上げ、思いの限り刀を振り回し、そして力尽きたのだから。そういう生き方もあるということだ。彼の生き方はある意味不器用なものに感じたが、それは僕も同じことだった。
 僕は眼鏡男を叩き起こすと、トイレに向かった。やれやれ、祝うべき新しい門出がこんなものとは、僕は少し気落ちした。それを他所に、眼鏡男は便座に被さるようにして吐きまくった。しばらくして、円谷さんも少し心配そうに見に来た。
「僕らは、今日はこれで失礼しようと思います」
「それがいいな。悪いな、いきなりこんなこと任せて」
「仕方ないです」そう言って、僕は眼鏡男に目をやった。
僕らの横で眼鏡男はへばっていた。彼を引きずり起こすと僕らは建物を後にした。眼鏡男はお酒や胃液やら、ひどい臭いをさせていた。とりあえず、僕と眼鏡男は外のベンチに少し腰掛けた。眼鏡男は朦朧としながらも「ごめん」と呟いた。
「別に気にしなくていいよ。大したことじゃないから」
きっと今頃きれいに片付けた部屋は大変な荒れようなのだろう。何のための掃除だったのだろう。その時、円谷さんの言葉が頭に浮かんだ。
すべては混沌から生まれる…。
本当にあの混沌の中から何かが生まれるというのだろうか、数少ない作品と荒んだ部屋を想像すると僕には到底そうは思えなかった。
数日して眼鏡男と偶然出会ったが、彼は視線をそらしてどこかへと行ってしまった。それ以来、眼鏡男と出会うこともなかったし、彼が部室に顔を出すこともなくなった。僕の予想通り、彼は二度と来なかった。大学でできる初めての友人になるかもしれない人間だったのに。
 残った僕も、それからすぐに部室へは行かなくなった。歓迎会から数日後、部室は何人もの新入生で溢れかえっていた。小説を書くということは、一部の人間には夢のようなことだった。そして世の中の流行も重なり追い討ちをかけていた。残念ながら、僕は小説が書きたくてそこにいたわけでもなく、こんな大勢の中にいたいわけでもなかった。ただ、自分の居られる場所を一つ見つけたかっただけだった。そして、それも叶わないならば去ろうと決めていた。
 円谷さんにそのことを告げると、彼は少し残念そうに「そうか」と言った。
「まあ、そんなに早急に答えを出すこともないだろう。また戻って来たくなったら、戻ってくれば良い。別に強制的に来いとは言わない」
僕は荒んだ部室を思い出した。本当にあの場所へ戻りたくなる日が来るだろうか。
「僕がこんなこと言うのはおかしいと思うのですが、部長の立場としてはそれでいいんですか?」
「お前は引き止めて欲しいのか?」
まったく引き止めて欲しくないと言えば、それは嘘になる。だからと言って引き止められても困る。それは僕のわがままだ。
「だろ?本当は引き止めるのがこの人気薄のサークル部長に課せられた役目だろうさ。けれども、意思のない人間をつなぎとめておいて何になる?」
「結構、きついことをサラッと言いますね」
「ああ、俺もそう思うよ。だがな、今来ている新入生のうち、夏までに何人が残っていると思う?あんなものは冷やかしでしかない」
「すみません」僕はそう言うしかなかった。サークルとはいえ、一度は自分意思で一つの団体に所属することに決めたのだから、その行動にはある程度の責任が存在する。そして、その責任は自分自身でとるしかないのだ。人気薄で、存続の危機にあるサークルとはいえ、それは例外ではない。だから、円谷さんは「冷やかし」と言った。そして僕も同罪だった。
「そんな顔するな。これでもお前のことを買っているんだ。そうでなければ、こんなにズケズケとした物言いはしないさ。わずかな時間だったけれど、楽しかったよ。でもお前のことを考えれば、これが良いんだろ?」
円谷さんは吸いかけのタバコをもみ消した。そして新しいタバコを取り出すと、僕にも勧めた。僕はそれを口にくわえ、円谷さんはタバコに火をつけた。僕はひどくむせた。タバコって何てひどいものなんだ、そう思うのも最初だけですぐに慣れて行った。おそらく僕の父親がタバコを吸うせいもあるのだろう。
「少し楽しかったです。歓迎会」
僕の言葉に円谷さんは少し時間を掛けて思い出してから頷いた。
そして「少し?」と笑って聞き返した。僕は「とても」と言い直した。
あの部屋に行ってから、円谷さんを見てから、彼の作品を見てから、気になっていることがあった。なぜ、彼はあの場所に居続けるのか。僕が見る限り、もし彼が作家か何かを目指していなければ、あの場所にいる理由が見つからなかった。けれども彼は別に作家を目指している訳じゃなかった。だから、僕は余計に疑問になった。彼はなぜあの場所にとどまり続けるのか。その理由は何かということが。
僕の質問に、円谷さんはさっきよりも時間を掛けて考え込んでいた。その間何度かタバコを挟んだ指で眉間をかいた。
「最初は他のサークルにいたんだ。掛け持ちでいいから、部員数を増やしたいから、名前を貸してほしいと頼まれて入ったんだ。最初は名前貸しだけのつもりだったんだけどな」
煙を吐き出したあと、足元のアスファルトを靴底で何度もこすっていた。
「大勢の人の中にいると、時々自分を見失いそうになる。自分がくだらない観念や他人の印象やらで縛られているのに気づいてな。これじゃダメだと思ったんだ」
相変わらず靴底でアスファルトをこすっていた。時々僕らの間を温かな風が通り抜けた。そして、僕らの前を何人もの人が通り過ぎていた。彼らには彼らの世界があった。彼らの楽しみがあり、憂いがあり、世界がある。そして、人付き合いに億劫な僕は円谷さんという二つ年上の人と話しをしている。とても不思議なことのように思えた。
「だから、あの薄暗い部屋を敢えて選んだんだ。あそこなら誰も俺に何かを求めたりしない。何かに縛られたりしない。煩わしさや苛立ちで、折り合いが悪くなることもない。つまらないことで、目くじら立てる連中もいない。こう見えても、あまり人付き合いは良い方ではないからな。すぐに誰かとぶつかり合ってしまう。だから、こういう人間にはうってつけなんだよ。ああいう場所は」
そこにいるだけの人の数の世界がある。そこにいる人の数だけの生き方がある。人は色々なもので自分を縛る。常識や好みや印象や言葉で自分を縛り付けてしまう。「こうしなければならない」「他人がどう思うだろう」と考えて、自ら選択肢を狭めてしまう。そんなことをしなければ、可能性は開かれているのに。心は自由を求めるのに、好んで自分を縛り付けることがある。不自由あってこその自由なのだろうか。
そして、円谷さんの選んだものは、今僕が抱えるものによく似ていた。その理由さえも。どうやら、僕らには少し共通点があるようだ。少し安心している自分に気付いた。これまで何度も横を通り過ぎる人たちを見て、群れて生きる人の弱さを嫌いもした。けれども僕もまた、この瞬間に誰かと同じであることに嬉しいとさえ感じてしまっている。そう、「しまっている」という過失や背徳の感情が存在している。
しかし、それでも良いのだと思った。僕はこれを受け入れなければならない。ずっと長い間、このことから目を逸らし続けてきた。どうしてこうなってしまったのか、その理由を思い出すまでには至らないが。僕はそろそろ現実を少しずつ受け入れなくてはならない。自分で自分の歪みを矯正するのだ、そう思っていた。
「それで良かったんですか?」と僕は最後に聞いた。
「ああ、あれで良かったんだ」と円谷さんは静かに言った。
「遅かれ早かれ、俺は前の連中とは上手くいかなかっただろうさ。あそこだけが俺の居場所じゃない。世界はもっと広いんだし、合わなければ、他を探せばいい話さ」
世界は広い…姉の言葉を思い出した。円谷さんに言わせれば、僕はとんでもなく狭い世界で生きているのだろう。残念ながら、僕は彼のように器用にすぐに次を探すなんてことはできない。こうして一つずつ地道にしていくしかない。
「すべては混沌から生まれる…はずなんだけれどな」
円谷さんは苦笑いをしていた。
 僕らは次の講義の時間を迎え、それぞれの教室へと向かった。別れ際円谷さんは、「永峰、お前姉貴いるだろう」と言った。僕が不思議そうな顔をしていると、「やっぱりな」と言って人ごみの中に消えていった。僕のどこでそんなことを気づいたのだろう、不思議でならなかった。
 僕はこうしてサークルを離れた。その後、円谷さんとは個人的に何度か会話したり、昼食を共にしたが、部室へはほとんど出入りすることはなかった。おそらく、あの部屋は今でも円谷さん曰く「混沌」としているのだろう。サークルのおかげで、僕は大学生活の始まりを一人で孤独を過ごさずに済んだ。僕を勧誘した角刈り男と出会い、円谷さんと出会い、酔っ払った眼鏡男の世話をした。最後までもう一人の新入生には出会えなかったけれど。そして、僕は円谷さんからタバコを教えられ、立派なスモーカーになるのにそれほど時間はかからなかった。
 しかし、それ以降の僕の生活といえば、高校時代と何も変わりはしなかった。話し相手もおらず、学校と自宅の往復ばかりだった。やっと落ち着いたと思った頃、ふいに寂しさがやって来て、僕の胸の中にあるドアをコンコンと叩いた。僕は黙って目を閉じてやり過ごした。胸の中は少しざわついていた。

「バイトでもしたら?」姉は気軽に言った。
普段から人と会話する機会の少ない人間に、いきなりそんなことを言わなくても…と思った。
「別に話ができないわけじゃないでしょ?」
姉の顔はパックの白いクリームが塗られ、大変なことになっていた。僕は姉を直視できなかった。まるで悪役の覆面レスラーや、冴えないピエロのようだった。きっと顔を見たら笑ってしまう。笑ったら止まらないし、怒る姉も止められない。だから僕は下を見て、笑いを堪えていた。それが、姉には俯いて落ち込んでいるように見えたのは好都合なことだった。
「そんなに大したことじゃないって。大学の…その先輩とも話したんでしょ?だいたい、いつまでも親のスネ齧っている訳にもいかないし。サトシもそろそろシスコン卒業しないとね」
シスコン?まさか実の姉から面等向かって、「シスコン」と言われるとは思わなかった。四文字の言葉はすべてを集約しているようにも思えた。事実、姉のたった一言で打ちのめされている。僕の話し相手は姉だけ。大学へ行くように勧めたのも姉だった。おかげで僕は引きこもりの一歩手前である。
「私だって、いつまでもアンタと一緒にっていう訳にはいかないんだから」と姉は頬の肌を横に伸ばしていた。
「姉ちゃん、結婚でもするの?」と僕は姉を直視した
僕の真剣な視線に苦笑しながら、「今すぐじゃないわよ。ちょっと、笑わせないで。シワが寄るじゃない」と腕組みをして僕を睨んだ。
 僕は腰を下ろすと、大きく一つため息をついた。確かに僕は姉に頼りすぎているのかもしれない。今はよき理解者である姉も、やがてはどこかへ行ってしまうだろう。最近姉が自分の部屋で誰かと電話している回数もぐんと増えている。恋人でもできたのだろう。
やれやれと思った。僕はいつの間にこんな人間になってしまったのか。シスコンに引きこもりの一歩手前、一体どうなっているんだ。
どうにかしたいけれど、どうにもできない自分がいた。進学は、僕の未来にとって明るい材料になると思った。しかし、ほとんど何も変わらなかった。姉は僕の話し相手になり、僕の未来や、恋愛にまで心配している。二十歳の男が五つ上の姉にお守りをされている。
これではいけない。恋愛については、姉が心配するほど必要性は感じていなかった。おそらく、僕は女の子じゃなくても話が続かないだろう。僕が何か話しても面白くないだろう。高校のクラスメイトたちのように、退屈そうにするのだろう。誰も僕といることを望んだりしない。
本当にそう言い切れるだろうか。もしかしたら…という可能性だってあるかもしれない。しかし、その可能性はどのくらいあるのだろうか。そして、それはどのくらい待てば訪れるのだろうか。やっと訪れた好機が大外れや、僕が上手くものにできない可能性だってある。可能性の話になれば、何だって可能になるし、何だって不可能になる。それは目の前の現実を暈して見ているに過ぎない。ただ、僕はそろそろ気付き始めている。無視できなくなりつつある。僕は誰かと分かり合いたい。誰かに自分を受け入れて欲しいと思っていた。今を淋しいと思うし、この虚ろな日々から抜け出したいとさえ思っている。
僕はサークルで同じ新入生だった眼鏡男のことを思い出していた。僕だって、あんなふうに大声を出して、何もかも曝け出してしまいたいこともある。いい加減に体の中に溜め込んだものを、すべて外にぶちまけたかった。どうしようもないやるせなさや、切なさ、淋しさなんてものをすべて掻き消したかった。



カテゴリ: [ヒナタ] - &trackback- 2006年03月04日 20:46:40

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