もうじき僕は歌わない。@Wiki blog > 2006年03月04日 > もうじき07

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今思い出しても、すてきな時の流れが続いていた。マコト君と出会い、朝子さんと出会った。僕は長い間待ち続けた瞬間を、ようやく迎えていると思った。やっと掴んだ幸せが長く続くようにと祈らずにはいられなかった。マコト君が口にする「必然たる偶然」や「運命的」という言葉にも意味があるように思えた。そして暖かな陽気に包まれてまどろむように、僕はその幸せな時間に心から浸った。

梅雨のある日、僕は朝子さんを家に呼んだ。
今日は両親はともに家を空け、姉はマコト君の家に泊まりに行って帰ってこない。両親の片方が一晩中家を空けることも珍しかったが、二人とも揃って家に帰ってこなかった。このことを知った時、チャンスだと思った。こういう時、人間というものは俄然やる気を出して知恵を絞る。学校の授業ではそれだけ意欲的に持ち合わせた脳を使うことはなかったのに、いざ自分の欲求の関わることになると、きちんとスイッチが入る。それはとても不思議なことだと思った。ただ、それでも姉が家を空ける方法がどうしても思いつかなかった。
「それなら簡単だよ」とマコト君はにんまりと笑った。彼は姉を自分のアパートに誘い、泊まっていかないかと誘った。いつもしていることだったけれど、彼から姉を誘うことは稀なことだった。たいていは、休日や仕事帰りに彼の部屋に姉が立ち寄り、両親を心配させまいと泊まることまではなかった。
「普通なら泊まるのに、結子さん…君のお姉さんはご両親の気持ちも考えて外泊は止めとこうって言うんだ。優しい人だね」
「律儀と言うか、硬いんだよ。融通が利かないと言うか」
「言い方を替えればね。けれども君たちはよく似ているよ、そういうところが」
「そうかな~?あんまり嬉しくないけれど…」
「僕は一人っ子だったから、そういうのは少し羨ましいな」
マコト君は肩をすぼめて笑った。少し彼に申し訳なかった。家族が当たり前のようにあるのに、羨む彼を前に、こんなことを頼んだりしていることが。
「君は仕方のない人だな。そんなことで心を痛めることはないんだ。世の中、そんなもんさ。あらゆるものは、存在すればその価値は当然のように感じられ、なければ貴重に感じられる。でも、大丈夫だよ。きちんと甘えさせてもらってるから。こういうところ、やっぱり君と結子さんは似ているよ。」
こうして家を空っぽの状態にすることができた。彼からこの話があったとき、「どうしたの?そんなこと言うなんて珍しい」と姉は彼に疑いのまなざしを向けたそうだ。それでも、そこはマコト君がうまくやってくれた。
「サトシ君から聞いたんだ。その日はご両親がいないって。こういうことってなかなかないし、一緒にいたいんだよ」
ここまで彼が言えば、姉は「仕方ないわね」と言いながらも嬉しげにすんなりと彼の申し出を受けた。
そして僕は朝子さんを誘ったが、「何かご両親がいない日を狙って、あなたの家に上がりこむのは気が引ける」と返事を渋っていた。きっとマコト君なら姉を誘ったように、良い言葉が思いつくのだろうが、僕にはからっきしダメだった。結局事実を話すしかなかった。それが一番楽な方法でもあった。共に自宅に住む身で、二人だけで時間を過ごすにはこうするしかなかった。朝子さんは少し考えてから、「いいよ」と言ってくれた。
 いよいよその日はやってきた。夕方になると、雨がしとしとと降っていた。髪の毛が濡れている朝子さんもすてきだった。「そんなにジロジロ見ないで」と朝子さんは少し照れていた。それがまた、たまらない。普段は仕事柄ズボンを履いている彼女であったけれど、今日は濃い緑のスカートを履いていた。六月の暖かな雨が降る日には、よく合っていると思った。
食事は僕が作り、朝子さんは手伝ってくれた。本当は朝子さんの手作り料理が食べられるはずだったが、留守中に上がりこんだ上に、勝手にキッチンまで使うことはできないと彼女が言ったからだ。僕は彼女に手伝ってもらいながら、お好み焼きを作った。彼女はそば入りのモダン焼きの方が好きだと言ったが、焼きそばがなかったので大阪風のお好み焼きが出来上がった。作り方は姉が作るのを見ていたので、何とか見よう見まねで作れたし、朝子さんもいろいろと手伝ってくれた。
「でも、何でお好み焼きなのよ?」
二人きりの夜にお好み焼きもどうかと思ったが、それでも気兼ねなくお腹も満たせてすぐ作れる料理は、僕にはこれくらいしか思いつかなかった。朝子さんはそれを聞くと笑っていた。彼女の笑っている姿を見るのが、僕は好きだった。そして僕も一緒に笑った。誰もいない家に、僕らの笑い声が響いた。
ふと我に返ると、何だか夢を見ているような気分になった。嘘だろ、僕がこんな風に誰かと寄り添っているなんて…。よくよく考えれば、相手は姉と同じ年の人というのもまた驚きだった。もちろん、彼女を目の前にすれば、そんなことはどうでも良いことなのだが。ただ、なぜか少し尻ごむ僕らがいた。幸が薄いせいか、幸せになることになれていない。幸せになるのに、どうして臆病になる必要があるのだろうか。おかしな話だった。
「ただ、信じればいいのさ」マコト君の言葉を思い出した。
ただ、幸せになることを望めばいい。余計なことは後から考えればいい。そんな時は幸せになることだけを考えたらいい。
食事が終わり、片づけが終わると二階に上がり、僕の部屋で二人で過ごした。彼女は少し緊張しているようで、微妙に離れて座るその間隔がもどかしかった。話をしていくうちにそんなことも忘れ、少しずつ緊張もほぐれていた。
外は雨がしとしとと降っていた。雨音は、僕らの呼吸や話し声を除いて、すべての音を消してしまっていた。話が途切れると、そこには雨音のみが聞こえる沈黙の世界が広がっていた。この六畳間だけが、世界のすべてとさえ思えた。ここに僕ら二人がいることがすべてのように思えた。世の中に存在するあらゆるものや事実も、地球の中で僕らが他の惑星を思うのと同じくらいに遠いもののように思えた。それはとてもすばらしいことだった。僕も朝子さんも、互いの瞳に互いの姿だけを写し、時の流れに身を任せていた。
僕が彼女の肩に手を回すと、少し驚いた顔をして僕を見た。それから僕の胸に顔を寄せた。僕の胸元では彼女の呼吸がはっきりと感じられた。彼女には僕の高鳴る鼓動の音が届いているのだろうかと考えると、見透かされているようで恥ずかしかった。
しばらく、二人で寄り添ってベッドにもたれて、いろいろな話をした。今日家に誰もいないからくりとか、バイトでの飛田君の話とか、これまでに見てきた、聞いてきたいろいろなことを。からくりの真相を聞いた時、朝子さんは「悪い人ね」と僕の鼻をつまんだ。僕は「苦しいよ」と少し悶え、彼女は笑った。でも、一番盛り上がったのは、飛田君の話だった。彼の話題で盛り上がるのはどうかと思ったが、それでも彼女と話しているのは楽しかった。
時計は十時を越えていた。互いに時計を見て、互いの顔を見た。無言のやり取りが一瞬にして交わされる。
朝子さん:もうこんな時間。
僕:何時までいられるのだろう?
朝子さん:そんな目をしないで。
僕:もう帰るのかな?泊まっていけばいいのに…。
楽しい時はいつだって時間が経つのが早い。一応泊まっていけるように、夜も僕と彼女だけしかいないようにしてあった。コンドームもきちんと用意した。鍵もかけた。それを下心というのだろうが、もし機会があるのなら無駄にすることはないと思った。
「今日は両親とも家に帰ってこないんだ」と僕は彼女に告げた。すると彼女は困った顔をした。しばらく二人とも黙って見つめあった後、朝子さんは「仕方ないな~」と笑みをもらし、そして僕も笑ってキスをした。温かく柔らかな唇は、僕を溶かしてしまいそうだった。最初は短く、やがて間隔を狭めながら何回もキスをした。その間に彼女の目はまどろんでいた。僕は服の上から彼女の胸を触り、またキスをした。もう時間の感覚なんて当になくなっていた。二人とも息が続く限りキスをした。まったりとしたものから、貪るようにして互いを求めた。僕は朝子さんの服をゆっくりと一枚一枚脱がせた。そして彼女も僕の服を脱がせてくれた。そしてしばらく肌を合わせて、抱き合ったままキスをした。
僕らはベッドに入ると、またしばらくの間キスをした。そして僕は上から順に手や舌で彼女の体の一つ一つを確かめるようにしてなぞった。彼女は少しくすぐったそうにしながらも、時々僕の頭を抱いた。彼女の体は温かくて、柔らかくて、すべすべとして気持ちが良いものだった。
やがて僕は彼女の中に入れようとしたが、最初は上手く入らなかった。
僕が「ごめん」と謝ると、彼女は「初めてなの?」と聞いた。僕は少し他所を見てから「自分でなら何回も」と答えた。彼女は「何それ」と笑った。僕は「愛嬌」と答えた。そして彼女が入り口まで導いてくれ、ゆっくりと中へ入れた。思ったよりも彼女の中は温かく、とても濡れていた。こんな時はアダルトビデオに感謝したくなる。初めてで経験がないのに、きちんと手順ややり方を心得ているのは、不断の努力と言える。努力もとい、欲求の追及によるもののおかげだ。煩悩万歳!!
僕は時々アダルトビデオを思い出しながら、彼女の後ろへ回ったり、彼女を上に乗せたりと体位を替えていった。彼女は心地よさそうな声を上げながら、髪を揺らしていた。少しずれかけた眼鏡を外すと、初めて彼女の素顔を見ることができた。赤いふちの眼鏡をかけた彼女も素敵だったが、素顔の彼女はそれよりも少し幼く見えた。より素朴な感じが増し、黒く長い髪がよく似合っていた。
「ねえ、初めてでしょ?」と彼女はキスをしながら僕に尋ねた。
「そうだよ」
「一体どこでそんな知識を学んでくるのよ?」
「エロビデオ。朝子さんもパッケージの写真とか見たことあるでしょ?」
「ありません」
「どうして?返却分のビデオ返す時とか見たりしない?」
「周りに人がいるのに、そんなにマジマジと見れない。だいたい、そういうのは男性が戻しに行ってくれるし」
「なるほど」
「もう、そんなくだらないことはよして」
僕は再び体を動かし、時には激しく、時にはゆっくりとしながら彼女の到達を見届けた。そして僕も彼女の中で気持ちよくなった。
どれくらいの時が経ったのだろう。僕らはしばらく互いの体温を感じながら抱き合っていた。それからタバコを一本吸った。時計の針は一時を指していた。
僕らはベッドから落ちないように寄り添って眠った。彼女の温かな寝息が僕の胸元に流れてきた。ゆっくりと穏やかなその呼吸は、彼女の話し方を思わせた。そしてもう一度、今日の出来事を思い返してみた。自分でも信じられない出来事だった。いつかはこうなるとは思っていた。けれども実際に終わってみると、意外とあっけないものだった。それでも想像するものと現実とは大きく違っていた。時間を掛けて求め合い、温かさを感じながら満ちることができた。すてきな出来事だった。それ以外に何も形容する言葉は思い浮かばなかった。どうか、今日のこの喜びがいつまで続くようにと祈った。そして、朝子さんに「ありがとう」と言うと、僕も眠りに就いた。

 次の日の朝、目が覚めると朝子さんは既に目を覚ましていた。昨日のことを思い出して、僕らは顔を赤らめた。
「もう一度しようか」と僕が尋ねると、「もう、ダメよ。今から始めたら大変な時間になっちゃう」と彼女は下着を身に付けた。そして、身なりを整えると、まだ寝起きのままの僕に軽くキスをして、手を振って家を出て行った。外は雨が上がっていた。

 その日、バイトで朝子さんと顔を合わせると、朝子さんはすぐにどこかへと行ってしまった。何だか淋しい感じがしたけれど、それでも一緒にいられることは嬉しかった。そして昨日の晩のことが夢でなかったことを確かめるために頬をつねってみたが、痛烈な痛みを感じた。それを飛田君は横でじっと見ていた。
「何してるんですか?今日は何かおかしいですよ」
そう言うと、返却分のビデオを持って店内の奥へと消えていった。

 それからも僕らはホテルなどを使いながら、機会があれば何度もセックスをした。彼女とセックスをするのはとても気持ちが良かった。どれだけしてもやり足りなかった。終いには、彼女が「今日はもうこの辺にしよ」と言うことさえあった。僕は自分の渇望をなかなか抑えることができずに、いろいろな形で彼女を求めていた。
「まあ、そんなものだよ」とマコト君は言った。
 僕の中では朝子さんへの割合が大きく増し、以前に比べればマコト君への割合は減ってしまっていた。互いに恋人もでき、四回生ともなれば、就職や論文の準備、単位履修、アルバイトとすれ違うことが多かった。僕はそれを申し訳なく思った。僕はこれまで彼の存在をとても大切に思っていたはずだ。もちろん、恋人である朝子さんも大切だ。恋人と友だちを比べるならば、恋人を優先するべきなのだろう。けれども、僕にとってはただの「友だち」で片付けてしまうことができない存在だった。僕は朝子さんのことが大好きだ。どれだけ求めてもそれは満たされないくらいに求めてしまう。それは性的な欲求だけではなく、もっともっと彼女のことを知りたかったし、彼女に近づきたかった。どこかで自分と彼女の年齢差からだろう生まれる経験の差や成熟度合いに必死に追いつこうとしていた。そんなことをしたって追いつくはずもないのに。そしてそれ以上に、これまで抱えてきた孤独や憂いを消し去るように、彼女の存在が確かであることを確かめながら、ただひたすらに目の前にあるものに、僕はどこか求めすぎてしまっていたのかもしれない。自分の中で薄れてゆくマコト君の存在がどうしても気にかかった。彼との出会いにあれほど感動し、姉と同様に僕におおきな影響を及ぼしていた彼が、時の流れやすれ違いの生活で僕の中で少しずつ薄らいでいくのは良くないことだと思った。それでもそれが事実だと認めると、僕は自分を責めた。そんな状態でいる僕がおかしくなるのに、それほどの時間はかからなかった。

 決定的に僕を狂わせたのは、姉の死だった。それは突然の出来事だった。あまりの衝撃に、僕の思考は完全におかしくなってしまっていた。当たり前のことを当たり前にできなかった。ひげも伸びたままだった。一瞬にしてすべてのものが存在感を失い、何も手につかなくなり、すべてを見失ってしまいそうだった。
 死因は心臓麻痺だった。季節は移り変わり、冬を迎えたころだった。朝起きてから部屋で着替えているはずの姉が、なかなか部屋から出てこなかった。僕は何度か声をかけたけれど、返事はなかった。時刻は当に出勤の時間を迎えていた。少し心配になって部屋のドアを開けると、ベッドから足を落として横になっている姉の姿を見つけた。
「姉ちゃん、もう遅刻しちゃうよ」
何度も声をかけ、面倒臭さを感じながらも、再び姉に近寄って声をかけた。けれども、声をかけてもびくともしなかった。何回か体を揺すっているうちに、息をしていないことに気付いた。何度も名前を呼んだけれど、ピクリとさえ動かなかった。僕は走って階段を下り、救急車を呼んだ。電話口で男性がいろいろなことを言っていたが、何を言っているのか、まったくわからなかった。僕の耳には何も聞こえていなかったし、僕の目には何も見えてはいなかった。
病院に着いたときには、もう手遅れだった。それは、誰にもどうしようもないことだった。けれども、突然すぎる出来事に、あまりにも理不尽で姉がとても不憫に思えた。どれだけ言葉を連ねても、何も変わらなかった。姉が死んでしまったのは事実であり、もうどうすることもできないことだった。それはわかっているけれど、なかなかそんなに簡単に受け容れられるはずがなかった。
外は雨が降っていた。激しく降っていた。屋根を叩く雨音がすべてを包み、朝子さんと過ごした日のように、すべての音を消し去り沈黙を作り出していた。けれども、あの時とは決定的に違っていた。あまりにも悲しく絶望的な沈黙だった。どれだけ大きな声で叫んでも、その沈黙は破れないように思えた。何をしても、死の前では圧倒的に無力な自分が存在した。それはわかっていることではあったけれど、改めて直面すると、僕の中のいろいろなものまで削ぎとっていくように思えた。そして抜け殻のようになって、呆然とするしかなかった。何もしなくても涙がこぼれた。何度も顔をしわくちゃにして泣いた。どうしようもない悲しみが体いっぱいに広がって、僕の胸は押しつぶされそうだった。
灯かりを消した部屋で一人うずくまって、姉のことを思っていた。幼い時、両親の代わりをし、僕の面倒を見ていた姉。僕が独りぼっちにならないように、横で見ていてくれた。大切なものを見失わないようにと、いつだって灯かりを照らしてくれていた。少し強気で、けれども本当は臆病な人間だった。なぜ、僕のような不出来な人間がこの世界に残され、姉のような人間がこの世を去らなければならないのか、まったく理解できなかった。そして、マコトくんの悲しむ姿が頭の隅に浮かんだ。

それからしばらく誰とも出会うことなく、一人で過ごす日々が続いた。しばらくして、休みをもらっていたアルバイト先へ向かった。そこで久しぶりに朝子さんに会うことができたが、彼女の顔を見ても上手く笑うことができなかった。きちんと繋がっているはずの僕と彼女に、おおきな歪みが存在しているように思えた。
素早く彼女の前を横切ると、店の奥にいる店長の元へと向かった。僕は「アルバイトを辞めたい」と伝えた。突然の申し出に店長は戸惑ったし、怒った。主な働き手が急に抜けてしまうこともその理由だったし、あまりにもマナーに反していることもその理由だった。もちろんそれはわかっていたけれど、今は何もする気が起こらなかったし、この状態では迷惑をかけるだけだというのはよくわかっていた。本当ならば、こういう時は気をしっかり持って、耐えて生きていかなくてはならないのは知っている。ゆっくりと時間が悲しみを和らげてくれることも知っている。それでも、今は無理な話だった。店長は一通り説得し一応の説得も無理だとわかると、仕方なく退職を認めてくれた。
帰り際に飛田君に「ありがとう。楽しかったよ」と伝えた。飛田君は僕がバイトを辞めることを知って、驚きのあまり言葉を失った。いつものような調子の良い発言も見られず、ただ、立ち尽くしていた。そして横にいる朝子さんを見た。朝子さんは黙って下を見ていた。僕は「ごめん」とだけ言うと店を出た。僕が店を出た後、彼女が店の外に出て僕を眺めているのは知っていた。でも僕は振り向かずに、ただ歩き続けた。もう僕には誰の声も届いてはいなかった。もう、涙すら出ない。悲しいのに、涙は流れなかった。いつまでも姉がなくなった日の雨音が僕を包んでいた。

それから数日後、僕は朝子さんと喫茶店にいた。二人で会う時によく使っていた店だった。個人で経営しているとても小さな店舗で、店内は薄暗かったけれど、それが僕らには落ち着いてよく似合っていた。椅子やテーブルも木製を使い、趣深い装いも心惹かれた。いつもはくすくすと笑って、いろいろ話していたのに、その日の僕らの間には笑みは一つもなかった。僕は窓から外を眺めながら、タバコを吸った。朝子さんはずっとスプーンでコーヒーかき回していた。
「何も辞めることなかったのに」と朝子さんは口を開いた。
「このままじゃ、何も上手くいかないのはわかってたし。みんなにも迷惑かけてしまうから」
「どうして一言も言ってくれなかったの?」
朝子さんは僕を睨んだ。僕はしばらく彼女を眺めて、それから外に目をやった。長い沈黙が続いた。彼女の言葉の意味も、僕を睨む理由もよくわかっていた。けれども、僕はそれ以外に選ぶことはできなかった。そうするしかなかった。それがたとえ間違った選択であったとしても。それがわかっているからこそ、それでも黙っていたし、今ここで何も語る言葉を持たなかった。
繰り返すようだが、僕はこの頃すべてを見失っていた。この世界のすべてが色をなくし、もう何にも前ほど強く存在感を感じることもなかった。目の前にいる朝子さんさえも。おかしくなっているのは自分でも気付いていた。だからと言って、どうすることもできないことも知っていた。
「すべてをリセットする必要があるんだよ」
僕は瞬間的に脳裏に浮かんだ言葉をそのまま口にした。本当に言葉の意味をわかって語っているのかは怪しかったが、それが今僕の望むことであることはわかった。
「一回すべてをゼロにするんだ」
僕は朝子さんを見つめた。朝子さんは僕を見て、言葉の意味を理解し泣いた。彼女が悲しく泣いているのはとてもつらいことだった。それが僕のせいであることも知っている。どうにかできるものならしたかった。
「ただ、横にいるだけでもダメ?」
朝子さんの気持ちは嬉しかった。彼女を好きになってよかった。僕のために涙を流し、優しい心が伝わってくる。こんなすてきな人ならずっとそばにいたいと思った。でも、今の僕とそばにいたら、きっと傷つけてしまう。僕は大好きだから、今は彼女と一緒にいることはできなかった。だからと言って、僕がまともになるのがいつになるかわからないのに、彼女を僕一人に繋ぎとめておくわけにもいかない。これまでも悲しみを背負ってきた彼女だから、これからは幸せな時間を過ごして欲しい。僕にはそれができそうにもないから、さよならをするんだ。
すがるように僕を見る彼女に、「今はそうするしかないんだ」と呟いた。朝子さんは声を上げて泣いた。僕は黙って彼女の泣く姿を眺めていた。
こうして、僕はやっと手に入れた大切なものをなくしていった。



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